第46話 百済滅亡、白村江での大敗と天智
記紀によれば、
第38代
xxx
第39代
第40代
第41代
日本の古代史上最大の転機ともいわれる
660年の百済滅亡から百済復興運動を経て663年の白村江の敗戦までの一連の戦役を「百済救援の役」あるいは「百済の役」と呼んでいる。朝鮮半島における白村江での敗戦までの過程について、主に森公章(東洋大教授)の著述に基づき理解を深めたい。
朝鮮三国の一つ新羅は、5世紀末ごろに高句麗の従属国的立場を脱し、6世紀代に大発展を遂げた。550年、高句麗と百済が戦闘を行っている間隙に乗じて漢城(今のソウル)地域を奪取し、朝鮮半島西海岸への進出を果たす。さらに、554年には百済の聖明王を敗死に追い込み、562年には百済と争奪を繰り広げていた北部加耶地域の併合に成功した。しかし、その後642年に百済の義慈王が旧加耶地域の40余地域を奪回して新羅に攻勢をかけ、高句麗も同年に
直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)は、“「三国史記」全50巻の巻41から43までの三巻は
百済は645年から始まった唐の高句麗征伐の隙に乗じて新羅侵攻を続けた。新羅は、唐・太宗の高句麗遠征が失敗に終わり、648年百済に10余城を攻取されると危機に立たされた。そこで倭国から帰国したばかりの金春秋を入唐させて唐との結合を深め、一連の唐風化策をとり、唐と同様の国家組織を構築し、同質の文化を形成することで、唐の信頼を得ようとした。その唐風化策とは次のようなものであった。
649年:中国風の衣冠を服す。
650年:唐の年号を使用する。中国風の
651年:賀正の礼を開始する。
654年:新羅の法律を唐の律令に倣って修正する。
それは新羅が唐中心の天下秩序に帰属するということを国内外に明らかにしたことであった。実は、新羅の金春秋は入唐前の647年、倭国に「質」として来航し、648年まで滞在している。それは646年9月、倭国が
一方、百済は651年の入唐のとき、唐の李世民の後を継いだ高宗(
この間、倭国は百済との通交は維持しつつも、朝鮮三国の勢力均衡の上に立って新羅・高句麗とも関係を結んで朝貢を得るようになり、「隋書」倭国伝に、「新羅・百済は皆な倭を以って大国にして珍物多しとなし、ならびに敬仰し、恒に使を通じて往来す」と記されている。653年に倭国は630年以来の遣唐使を派遣した。その後も引き続き唐に遣使している。百済滅亡の前年にあたる659年にも遣唐使を派遣したが、百済討伐の計画が漏れるのを恐れた唐に抑留され、百済滅亡後にようやく帰国を許されている。要するに、倭国は東アジアの国際情勢に対する認識が不十分であったと言わざるを得ない。当時の倭国の支配者たちにとって遣唐使による先進文物の移入が通交の主目的で、唐の介入という大きな政治的変動が実感できなかったのかもしれない。
倭国が新羅・百済から大国とみなされた要因の一つに鉄があったともいえる。長らく加耶や新羅の鉄に依存してきた倭国だったが、7世紀にはその状況が変わっていた。
村上恭通(愛媛大学教授)は、“7世紀中葉になると、東北を含めた東日本において、大規模な鉄生産と鉄器生産が在地で行われるようになった。これは6世紀中葉に吉備で発達した製鉄炉の技術をヤマト王権が得て、それを改良して規模を大きくして、関東や東北に普及させたと考えられる。これは関東だけでなく、九州にも普及するが、このような広域にわたる技術移植や殖産的活動は、まさしく日本列島の政治的中枢権力の差配によるものと思われる”、と述べている。
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648年、新羅の
唐・新羅の連合軍が百済総攻撃を決行したしたのは660年である。660年3月、唐の
唐は
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百済は660年7月に唐により一旦滅亡したが、駐留して旧百済領を統治する唐軍に対して、660年8月末に百済遺民が蜂起し、百済王族の一人であった
660年12月、唐の高宗は高句麗遠征を決定した。661年4月、唐の
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帰国した
白村江の敗北によって、倭国は唐・新羅による侵略の危険にさらされた。664年に対馬・壱岐・筑紫に
百済の滅亡によって倭国を頼みに渡来してきた百済の人びとは多い。百済復興の中心であった貴族階級の人びとから一般の百姓まで1000人規模で倭国に渡来し定住した。天智朝で有力官人となった人も多く、また倭国で漢詩・漢文学が盛んとなる画期ともなった。日本書紀の中に見出されるいわゆる百済三書(
倭国で「質」として滞在していた百済最後の王である義慈王の王子「
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「王」を「こにきし」と読むのは古代朝鮮語の王の意である。百済王氏は倭王権が「百済王権」を取り込んだことを象徴する存在として、特別な渡来系氏族と位置付けられた。743年に陸奥守になった
660年の百済滅亡から百済復興運動を経て663年の白村江の敗戦までの一連の戦役「百済の役」を主導した中大兄皇子は667年3月、人心一新を図るため突如として飛鳥から琵琶湖岸の近江大津宮への遷都を強行した。それは唐の脅威に対処するため、内陸部に遷都して防衛体制を固めるためであったともいわれる。大和の人びとは遷都にともなう大きな徭役に対する不満と不安により動揺し、その遷都を風刺した童謡が流行った。日本書紀に、「天下の百姓、都を遷すことを願わず、・・・日日夜夜、失火の処多し」という混乱が続発し、不穏な日々が続いたという。この騒ぎをおさめるために、天智は丁重に三輪山の神を祭り、神に捧げる歌を
天智は、671年には最初の全国的戸籍である
645年の日本古代史上最大のクーデター「
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