第46話 百済滅亡、白村江での大敗と天智

記紀によれば、

 第38代 天智てんじ:アメミコト・ヒラカスワケ、飛鳥岡本宮・後に近江京に遷都、山科陵(京都・山科)。始めは葛城かずらぎ皇子と呼ばれ、その後に中大兄皇子なかのおおえのおうじとなる。それは2番目の兄の意。皇后は異母兄の古人大兄皇子ふるひとのおおえのおいうじの娘の倭媛やまとひめ。二人の間に子はなく、複数の妃との間に大友おおとも皇子(明治3年に弘文こうぶんと追号)、持統じとう女帝となる鸕野讃良うののささら皇女、元明げんめい女帝となる阿閇あへ皇女がいる。父は舒明じょめい、母は皇極こうぎょく。645年、中臣鎌足なかとみのかまたりらと謀って皇極の眼前で蘇我入鹿そがいるかを殺害し政変を起こした(乙巳いっしの変)。国家体制を豪族との連合体から天皇集権へと変えようとした。国外では、唐・新羅により百済滅亡(660年)、白村江での大敗(663年)、唐による高句麗滅亡(668年)と続いた。天智は667年に近江に遷都、それは唐の脅威に対処するため、内陸部に遷都して防衛体制を固めるためだった。665年に孝徳の皇后だった実妹の間人はしひとが死去、667年に母斉明さいめい(皇極の重祚)と妹の間人はしひとを越智山陵に埋葬、近江大津宮に遷都したうえで、668年に即位、645年の立太子から23年後であった。中臣鎌足死去は669年、天智崩御は671年。新羅文武10年(670年)に倭国えて日本と号すとある。

 xxx 弘文こうぶん:記紀には即位したとは書かれていないが、明治3年に追号された。そのため諡号はない。近江京、長等山前陵(滋賀・大津市)。皇后は大海人皇子おおあまのおうじ額田王ぬかたのおおきみの皇女十市といち媛。父の天智崩御の2日後に近江京で即位。母は伊賀采女いがのうめねで、その出自は低かった。大友おおとも皇子と呼ばれた。壬申の乱(672年)での敗北により自害。

 第39代 天武てんむ:アマノヌナハラ・オキマヒト、飛鳥浄御原あすかきよみはら宮、檜隈大内陵(奈良・明日香村)。皇后は天智の娘の鸕野讃良うののささら皇女(後の持統)、複数の妃の一人は万葉集の歌で有名な額田王ぬかたのおおきみ。父は舒明、母は皇極で、大海人皇子おおあまのおうじと呼ばれた。草壁くさかべ皇子や舎人とねり親王など、後の天皇の父となる皇子がいる。壬申じんしんの乱(672年)に勝利した後、官僚組織を整備し、皇族が要職を担う皇親政治を行い、太政大臣を任命せずに天武自らが執政の首座として、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうの制定開始(681年)、八色やくさかばねの制定(684年)など本格的な律令国家建設を断行した。このような時期に古事記・日本書紀の編纂が開始された。天文や星占術に長け、日本初の天文台も建てた。神道や仏教も重んじ、伊勢神宮を重視し皇女を派遣奉仕させ、薬師寺の建立を発願している。686年に崩御。皇后の鸕野讃良うののささらは皇太子の草壁くさかべ皇子の即位を望んだが、もがりの間に草壁皇子は亡くなり、690年に即位して持統となった。国外では、676年に新羅が朝鮮半島を統一している。

 第40代 持統じとう女帝:オホヤマトネコアメノ・ヒロノヒメ、飛鳥浄御原から藤原京へ遷都、檜隈大内陵(奈良・明日香村)。天武の妃。父は天智、母は蘇我倉山田石川麻呂いしかわまろの娘の遠智娘おちのいらつめで、鸕野讃良うののささら皇女と呼ばれた。唐風都城の藤原京を建設し、飛鳥浄御原から遷都した(694年)。伊勢神宮の第一回の式年遷宮を実施し、大嘗祭だいじょうさいを執行した。天武・持統の時代には、文化史上一時代を画した白鳳はくほう文化が花開いた。壬申の乱で大海人側の軍を統率した高市たけち皇子は太政大臣となったが、696年に死去。翌年の697年に実子である草壁くさかべ皇子の子で15歳の珂瑠かる皇子(後の文武)に譲位した。702年に58歳で崩御。

 第41代 文武もんむ:ヤマトネコ・トヨオホジ、藤原京、檜隈安古岡陵(奈良・明日香村)。父は天武・持統の子である草壁くさかべ皇子、母は天智の娘の阿閇あへ皇女(後の元明)。実質的な皇后は藤原不比等ふじわらふひとの娘の藤原宮子みやこ珂瑠かる皇子と呼ばれた。文武の時代に大宝律令完成(701年)。「倭」に代わって「日本」という国号を広く公的に用いるようになったのは大宝令制定の701年に始まる。大宝令の注釈書「古記」には「隣国は大唐、蕃国ばんこく(朝貢国)は新羅なり」と述べている。大化以来不定期だった元号が大宝・慶雲と定められ、その後現在まで続いている。また、669年から約30年間中断していた遣唐使が702年に再開された。父の草壁皇子と同様病弱で25歳で崩御(707年)、その子おびと皇子(後の第44代聖武しょうむ)は7歳であったため、元明げんめい元正げんしょうの二人の女帝が皇位の中継ぎをした。文武は火葬後、八角墳へ葬られたのを最後に古墳築造は終焉した。ここに名実ともに東アジアの東夷の国の一つであった倭王の時代と古墳時代は終わり、日本列島における律令国家日本の始まりとなった。古事記は文武の母、第42代元明女帝(在位:707年~715年)の時に完成(712年)、日本書紀は文武の姉、第43代元正女帝(在位:715年~724年)のときに完成(720年)。


 日本の古代史上最大の転機ともいわれる白村江はくそんこうでの大敗は中大兄皇子(後の天智)の時代に起こった。倭国はなぜ滅亡した百済を救済するため白村江に大軍を送ったのか? この決断を最終的に下したのは中大兄皇子である。唐の強大さを認識し、朝鮮三国との積極外交を行い、大化の改新を推し進めた孝徳は654年に死去していた。もし孝徳が663年まで存命であれば、倭国は強大な唐を相手に戦うことはなかったかもしれない。


 660年の百済滅亡から百済復興運動を経て663年の白村江の敗戦までの一連の戦役を「百済救援の役」あるいは「百済の役」と呼んでいる。朝鮮半島における白村江での敗戦までの過程について、主に森公章(東洋大教授)の著述に基づき理解を深めたい。


 朝鮮三国の一つ新羅は、5世紀末ごろに高句麗の従属国的立場を脱し、6世紀代に大発展を遂げた。550年、高句麗と百済が戦闘を行っている間隙に乗じて漢城(今のソウル)地域を奪取し、朝鮮半島西海岸への進出を果たす。さらに、554年には百済の聖明王を敗死に追い込み、562年には百済と争奪を繰り広げていた北部加耶地域の併合に成功した。しかし、その後642年に百済の義慈王が旧加耶地域の40余地域を奪回して新羅に攻勢をかけ、高句麗も同年に泉蓋蘇文せんがいそぶんがクーデターで栄留王を殺害し、王の弟の子である宝蔵王を擁立し権力を掌握して、唐と対立する一方で新羅へ侵攻した。窮地に立たされた新羅は唐の救援を求め、三国抗争に唐が介入するという新たな状況が生まれた。


 直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)は、“「三国史記」全50巻の巻41から43までの三巻は金庾信きんゆしんの伝に充てられている。642年、新羅は百済と戦って敗れたので、金春秋きんしゅんじゅうが高句麗に援軍を求めに赴いたとき、高句麗は金春秋をスパイと疑い、抑留した。そのとき、金庾信は3000人の決死隊を募って救出計画を立てた。この計画を知った高句麗は、金春秋はスパイではないことを理解し、礼を厚くして金春秋を帰した。その他にも、金庾信は数々の戦功をあげている。金庾信は政略家として優れていただけでなく、自ら戦場におもむき戦った勇将でもある。金春秋もまた、自ら高句麗と倭国を訪れて、その実情を確かめたうえで、648年に唐に赴き、唐との連合の形成に成功する。見事な外交手腕である”と述べて、朝鮮半島において、「百済の役」前後の厳しい政治情勢のなかで活躍し、676年の統一新羅成立の立役者となったこの二人を称賛している。金官加耶は532年に新羅に併合されて滅亡したが、その時の金官加耶の王子の一人であった金武力きんぶりょくの孫が金庾信きんゆしんである。


 百済は645年から始まった唐の高句麗征伐の隙に乗じて新羅侵攻を続けた。新羅は、唐・太宗の高句麗遠征が失敗に終わり、648年百済に10余城を攻取されると危機に立たされた。そこで倭国から帰国したばかりの金春秋を入唐させて唐との結合を深め、一連の唐風化策をとり、唐と同様の国家組織を構築し、同質の文化を形成することで、唐の信頼を得ようとした。その唐風化策とは次のようなものであった。


649年:中国風の衣冠を服す。

650年:唐の年号を使用する。中国風の把笏はしゃくの制度(中国風の衣冠着用に伴ってしゃくを持つこと)を導入する。

651年:賀正の礼を開始する。 

654年:新羅の法律を唐の律令に倣って修正する。


 それは新羅が唐中心の天下秩序に帰属するということを国内外に明らかにしたことであった。実は、新羅の金春秋は入唐前の647年、倭国に「質」として来航し、648年まで滞在している。それは646年9月、倭国が高向玄理たかむこのくろまろを新羅に送って、「質」の派遣を要請したからであった。日本書紀では「質」としているが、金春秋は新羅最高位の貴族であり、倭国に滞在した後、新羅に帰還している。さらに、唐に使者として派遣されている。金春秋が倭国の「質」として行ったのならば、こうしたことは想定しがたいが、当時の「質」はそのような存在であった。金春秋の倭国滞在の目的は、対高句麗戦において倭国を新羅・唐側に引き入れようとするものであったと思われる。日本書紀では、彼を「春秋は姿顔美しくして善みて談笑す」と評しているが、2年間も倭国に滞在していた金春秋の方は、倭国は従来通り百済との友好関係を代えないと判断し、唐へのさらなる接近を選択したようだ。それを裏付けるように、新羅は649年から唐風化策を取り、651年に来倭した新羅使は唐の服を着用しており、倭国が怒って追い返す事件が起こっている。

 一方、百済は651年の入唐のとき、唐の李世民の後を継いだ高宗(李治りち)(在位:649年~683年)に新羅との和解を指示され、従わない場合は征討を示唆されるが、これに明確な返答をしていない。その後、百済は653年に倭国と通好して以後、遣唐使を派遣せず、唐との対立の道を選んだ。655年に唐の高句麗征伐が再開され、以後668年の高句麗滅亡まで戦闘が続いた。これに前後して、高句麗と百済は連合して新羅の30余城を取った。新羅は唐に救援を求めるが、唐は高句麗と戦闘中のため介入しなかった。しかし、659年4月に百済が新羅の2城を奪うと、新羅の再要請を受け、唐は百済の成敗を決定した。656年以降、新羅史は倭国に来朝しておらず。この点からも新羅の国策の推移を読み取ることができる。 

 この間、倭国は百済との通交は維持しつつも、朝鮮三国の勢力均衡の上に立って新羅・高句麗とも関係を結んで朝貢を得るようになり、「隋書」倭国伝に、「新羅・百済は皆な倭を以って大国にして珍物多しとなし、ならびに敬仰し、恒に使を通じて往来す」と記されている。653年に倭国は630年以来の遣唐使を派遣した。その後も引き続き唐に遣使している。百済滅亡の前年にあたる659年にも遣唐使を派遣したが、百済討伐の計画が漏れるのを恐れた唐に抑留され、百済滅亡後にようやく帰国を許されている。要するに、倭国は東アジアの国際情勢に対する認識が不十分であったと言わざるを得ない。当時の倭国の支配者たちにとって遣唐使による先進文物の移入が通交の主目的で、唐の介入という大きな政治的変動が実感できなかったのかもしれない。


 倭国が新羅・百済から大国とみなされた要因の一つに鉄があったともいえる。長らく加耶や新羅の鉄に依存してきた倭国だったが、7世紀にはその状況が変わっていた。

 村上恭通(愛媛大学教授)は、“7世紀中葉になると、東北を含めた東日本において、大規模な鉄生産と鉄器生産が在地で行われるようになった。これは6世紀中葉に吉備で発達した製鉄炉の技術をヤマト王権が得て、それを改良して規模を大きくして、関東や東北に普及させたと考えられる。これは関東だけでなく、九州にも普及するが、このような広域にわたる技術移植や殖産的活動は、まさしく日本列島の政治的中枢権力の差配によるものと思われる”、と述べている。


百済くだらの滅亡]

 648年、新羅の金春秋きんしゅんじゅうは唐に使し、百済討伐のため唐軍の出兵を依頼した。金春秋は654年に王となった、武烈王(在位654年~661年)である。658年~659年、唐の第三回高句麗出兵が失敗に終わると、唐は新羅の要求をいれて百済を攻撃することにした。 

唐・新羅の連合軍が百済総攻撃を決行したしたのは660年である。660年3月、唐の蘇定方そていほうは水陸13万の大軍を動員し、6月山東半島を出発した。新羅軍は金春秋(武烈王)の命を受けた金庾信きんゆしんが5万の大軍を率いて5月に出陣し、7月9日に唐は白江(錦江)で、新羅は黄山之原で、それぞれ百済軍を破った。この唐・新羅連合軍により、泗沘しひ(今の扶余)・熊津ゆうしん(今の公州)が相次いで陥落し、そして7月18日に百済の義慈ぎじ王は皇太子らとともに唐・新羅連合軍に降って、百済は滅亡した。346年の百済建国以来300年余り続いてきた百済は、都とともに運命を共にするものが見られないあっけない王朝の最後であった。唐・新羅連合軍は、劉仁願りゅうじんがんを鎮将とした唐軍1万、新羅の王子・金仁泰が率いる新羅軍7千を駐屯軍として残して、9月3日にそれぞれ帰国の途に就いた。そのときに百済の義慈王や、太子の扶余隆ふよりゅうなど王族と貴族93名、百姓1万2千などの捕虜は唐に連れ去られた。 


 唐は熊津ゆうしん都督府をはじめ五つの都督府を設けて百済の統治を試みたが、都督や各地の行政官には百済の在地有力者を任命した。結果として、百済の遺民たちが百済復興を目指すには好都合となった。扶余隆ふよりゅうはその墓誌銘に「公、いみなは隆、あざなも隆、百済しん朝の人なり」と刻まれていたことで有名だが、唐により熊津都督に任じられ、唐の意向で旧百済地域と新羅との境界を確定するため新羅王と会見した。その後、民の離反を恐れて長安に戻ったが、唐は再び扶余隆を熊津都督帯方郡王として帰国させた。しかし扶余隆は故国に入ろうとはせず、高句麗に身を寄せているうちに死んだ。その墓誌はおそらく高句麗の故地である旧満州東部で発見された可能性が高い。現在は河南省の開封図書館に収蔵されている。


百済くだら復興運動]

 百済は660年7月に唐により一旦滅亡したが、駐留して旧百済領を統治する唐軍に対して、660年8月末に百済遺民が蜂起し、百済王族の一人であった鬼室福信きしつふくしんをリーダーとして百済復興運動が起こった。同年10月、彼らは倭国に救援を求めるとともに、倭国に「質」として滞在していた百済最後の王となる義慈王の子「余豊璋よほうしょう」を百済王に迎えるため帰還させるよう要請した。これを発端として倭国は百済救援のために出兵し、白村江の戦いへと突き進むのである。


 斉明さいめいは661年1月海路で出発し、3月に博多の那大津なのおおつ(今の博多)に到着し磐瀬行宮いわせあんぐうに入った。この遠征には中大兄皇子や大海人皇子ら多くの王族・貴族も同行している。万葉集に斉明自らが、“熟田津にぎたづ(松山市北部の港)に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな”と歌っており、額田王ぬかたのおおきみも四首の歌を万葉集に伝えている。宮廷の女性も多く同行していることからも、この遠征の規模の大きさが知れる。兵力動員の範囲も広汎で、筑紫・筑後・肥後・伊予・讃岐・備後など西国諸国を主とし、陸奥にも及んでいる。ところが5月に内陸部の朝倉橘広庭宮に移動している。そして7月にその朝倉で崩御してしまう。しかし、中大兄皇子はまだ即位せず、661年9月、中大兄皇子は5千の兵と共に豊璋を百済へ帰国させた。そして同年10月、中大兄皇子は斉明の遺体とともに飛鳥に帰り、飛鳥川辺行宮でもがりを行った。


 660年12月、唐の高宗は高句麗遠征を決定した。661年4月、唐の蘇定方そていほうは大軍を率いて高句麗の王都平壌城へ向かった。8月には新羅も平壌城へ出陣した。百済を亡ぼした唐・新羅連合軍は高句麗の王都平壌城を包囲したが、高句麗軍の反撃に阻まれ、また百済の復興軍が勢力を増したため662年に撤兵した。7世紀の東アジアをみると、朝鮮半島では4世紀以来続いていた高句麗・百済・新羅の三国時代が終幕を迎え、中国では隋に替わって登場した唐が隆盛を迎えようとしていた。


白村江はくそんこうの大敗]

 帰国した豊璋ほうしょうを倭の水軍170隻が援護し、豊璋が百済王として即位したのは662年5月であった。九州の豪族を中心とした倭国の兵は、661年から662年の百済復興軍優勢の状況を支えた。662年には、倭国から矢10万隻・糸5百斤・綿1千斤・布1千端・なめし皮1千張・稲3千石など、多量の軍需品や糧食が送られている。663年3月、倭国は2万7000人の第二次派遣軍を送り、新羅を攻撃した。ところが663年6月、再建されたばかりの百済王権で内紛が起こり、名将鬼室福信きしつふくしんが豊璋の命によって処刑され、百済復興運動の実質的な中心人物を失ってしまった。唐・新羅連合軍は663年5月ごろから兵力を増強し百済への攻撃を企画していた。663年8月、唐・新羅軍との決戦のため、倭国は万余の第三次派遣軍が白村江に向かった。倭国の兵が8月27日に到着したとき、唐軍はすでに陣列を整えて待ち構えており、8月28日いよいよ決戦を迎えた。白村江での海戦において、唐は大型船170隻余り、倭は小型船1000隻余りであった。「旧唐書」に、「倭兵と白江の口に遇し、四たび戦いつ。其の舟四百艘を焚く。煙焔天にみなぎり、海水皆な赤し。賊衆大潰す」と記す。これは倭国が百済復興を支援して唐の大船170艘と戦って敗れた663年の白村江の戦いを描いた中国の史書の一節である。倭国の舟は1000隻だったが、小舟であり、その4割を失った。倭国軍は各地の豪族が率いる寄せ集めであり、戦い方も統一されていなかった。特に、瀬戸内地域から北部九州にかけての地域がその兵力の中心となったようである。最後は唐の軍船に挟み撃ちにされて、多くが溺死し、敗北を喫した。9月7日、白村江近くの周留する城に籠城していた百済復興軍と倭軍は降伏した。続いて近隣の百済諸城も投降した。百済王「豊璋ほうしょう」は白村江に赴いていたが、敗北するや高句麗へ逃亡し、百済の復興は達成できなかった。倭国の兵は水陸5万におよび、その動員には筑紫を中心に讃岐・吉備など西日本の豪族たちが数多く加わっていた。百済救援を名目として出兵した倭国の大軍は白村江で唐・新羅の連合軍に大敗した。この敗北は当時の為政者に大きな衝撃を与えた。この敗北以降、朝鮮半島から完全に斥けられた。倭国は百済がすでに滅亡し、自立すべき領土が無くなっていた状況を十分に理解せず、その場しのぎで三度の出兵を繰り返した。また、出兵した中央豪族や地方豪族たちはそれぞれ独自の兵力を有し、倭国は寄せ集めの軍隊であり、中央集権的な軍事編成をとる唐や、唐に倣った軍事編成を整備しつつあった新羅のような整然とした軍事行動はできなかったと考えられる。


 白村江の敗北によって、倭国は唐・新羅による侵略の危険にさらされた。664年に対馬・壱岐・筑紫に防人さきもりとぶひ台を置き、北部九州の筑紫の大宰府近くに大野城や、瀬戸内海沿岸の拠点に亡命百済人の技術を利用して朝鮮式山城を築くなど防御を固めた。また、筑紫・出雲などの日本海沿岸の浦々には軍船の増強や、水城みずきを配した大宰府の防衛体制など、九州から近畿に及ぶ一大防衛網を構築した。水城みずきは外敵の侵入を防ぐため、筑紫平野の最も狭い部分を塞いで設けられた水を貯めた大堀と土塁である。敗戦による疲弊の中でこのような大土木事業を実施するためには、中央・地方豪族の掌握や彼らの配下の人民を徴発する体制の整備が必要であった。中大兄皇子は大王権力の強化という年来の方針を変更し、有力氏族と妥協することによって、この危機を乗り越えようとした。664年2月、まず冠位を十九階から二十六階に増やし、貴族・豪族に与えた。氏上うじのかみを定め、大氏おおうじの氏上には大刀、小氏こうじの氏上には小刀、伴造とものみやつこらの氏上には盾・弓矢を賜った。さらに、民部かきべ家部やかべを定め、部民べみんの私有を認めた。これらは律令体制の原則に反し、大化以前の氏姓うじかばね制への逆行である。そしてこれらの重要施策を中大兄皇子自ら公布せず、大海人皇子に宣せしめて、自分に対する反感を避けた。


 百済の滅亡によって倭国を頼みに渡来してきた百済の人びとは多い。百済復興の中心であった貴族階級の人びとから一般の百姓まで1000人規模で倭国に渡来し定住した。天智朝で有力官人となった人も多く、また倭国で漢詩・漢文学が盛んとなる画期ともなった。日本書紀の中に見出されるいわゆる百済三書(百済記くらだき百済新撰くだらしんせん百済本記くだらほんき)は亡命した彼らの叙述である。百済復興と故国復帰を望んだ彼らの意識は日本書紀の内容構成に大きく作用した。その日本書紀は、その後の日本人の対外意識、特に朝鮮に対する認識に大きな影響を及ぼしている。

 倭国で「質」として滞在していた百済最後の王である義慈王の王子「善光ぜんこう」(豊璋ほうしょうの弟)は倭国にとどまり、持統じとうの代に百済王の号を与えられ、その末裔は大阪府枚方ひらかた市を本拠として奈良・平安時代に政界で重きをなした。百済王の前は扶余ふよ氏を名乗っていた。百済寺跡も枚方ひらかた交野かたのにある。また、枚方市には奈良時代に百済王氏の祖霊を祀った百済王神社がある。


百済王くだらのこにきし氏]

「王」を「こにきし」と読むのは古代朝鮮語の王の意である。百済王氏は倭王権が「百済王権」を取り込んだことを象徴する存在として、特別な渡来系氏族と位置付けられた。743年に陸奥守になった敬福きょうふくは「百済王敬福」と名乗っていた。敬福は749年、東大寺大仏造立のために黄金九百両を献じたことは有名である。また、秋田城跡から出土した漆紙文書には763年の出羽守になった三忠さんちゅうも「百済王三忠」と書かれている。百済王族の一族たちは日本国内の様々な支配に関わっていた。さらに、下野(栃木県)国府跡出土の木簡には「陳廷荘ちんていそう」という人物が書記官と記されている。これは初期の日本の文字文化の担い手として朝鮮半島からの渡来人が重要な役割を果たしていた証左である。亡命百済王族・官人たちは、天皇が百済王権を取り込むことによって中華的な王であることを担保する役割も果たしていた。すなわち、日本国内の百済王を内臣、朝鮮半島の新羅を外臣(藩臣)とし、天皇をその上に立つ存在とした。桓武天皇は生母である高野新笠たかののにいがさが百済の武寧王の子孫であることから、自ら「百済王らは朕の外戚なり」とみことのりした。また、百済王氏から9人の女性が桓武の後宮に入り、その中の二人が皇子と皇女を生んでいる。


 660年の百済滅亡から百済復興運動を経て663年の白村江の敗戦までの一連の戦役「百済の役」を主導した中大兄皇子は667年3月、人心一新を図るため突如として飛鳥から琵琶湖岸の近江大津宮への遷都を強行した。それは唐の脅威に対処するため、内陸部に遷都して防衛体制を固めるためであったともいわれる。大和の人びとは遷都にともなう大きな徭役に対する不満と不安により動揺し、その遷都を風刺した童謡が流行った。日本書紀に、「天下の百姓、都を遷すことを願わず、・・・日日夜夜、失火の処多し」という混乱が続発し、不穏な日々が続いたという。この騒ぎをおさめるために、天智は丁重に三輪山の神を祭り、神に捧げる歌を額田王ぬかたのおおきみに作らせた。中大兄皇子は伝統的な古来の神々を大切にした。これが中大兄皇子と蘇我入鹿そがいるかの大きな違いではないだろうか、と直木孝次郎はいう。そして、翌年の668年1月に中大兄皇子は近江大津宮で天智(在位:668年~671年)として即位する。大津の地が選ばれた理由には、大津宮の場所が東山道・北陸道への要地であったばかりでなく、東海道に近い要地でもあったこと、ヤマト王権とのつながりの深い息長おきなが氏の本拠が近江にあり、渡来系氏族が数多く居住した地域であることなどが考えられる。さらに大津宮遷都に先だって、665年に百済の男女400余人を近江の神前地域に居住せしめ、遷都後の669年にも百済の王族である余自信よじしん鬼室集斯きしつしゅうしら男女700余人を近江の蒲生地域に移住させたのも、近江の地域が古くから百済との関わりをもったことと関連する。鬼室集斯きしつしゅうしは671年に、中央官人養成の役所である大学寮の前身の学職ふみのつかさかみに任命されている。

 天智は、671年には最初の全国的戸籍である庚午年籍こうごねんじゃくを作成した。それは朝鮮式山城を築くなどの土木工事のために戸籍作成が必要であったためともいわれ、畿内をはじめ西は播磨・紀伊・讃岐・伊予さらに九州諸国におよび、東では常陸や上野(群馬)でも実施されたことが分かっている。さらに671年1月には、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄あかえを左大臣、中臣かねを右大臣とし、蘇我果安はたやす許勢こせひときの大人うし御史大夫ぎょしたいふ(後の大納言)とした。さらに近江令に基づく新しい官人組織である法官・理官・大蔵・兵政官・刑官・民官の「六省」を設けた。こうした官人組織の成立は白村江の大敗という国難を契機とする国家意識の高揚を背景としていた。天智期には律令法はまだ制定されていないが、これが倭国で律令制的官職が登場する最初である。 


 645年の日本古代史上最大のクーデター「乙巳いっしの変」から約20年、波瀾と激動の連続であった。しかし、恐れていた外敵の侵攻は、百済滅亡の7年後、669年に唐と新羅の連合が破れて、両国が戦ったため実現せず、中大兄皇子(天智)は内政に専念することができた。

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