第45話 乙巳の変と大化の改新

 皇極4年(645年)の6月12日、飛鳥あすか板蓋いたぶき宮で朝鮮三国の「調ちょう」貢進の儀式があって、皇極が出御している前で中大兄皇子なかのおおえのおうじ佐伯子麻呂さえきのこまろらが蘇我入鹿そがいるかを斬殺、翌日には甘樫丘あまかしのおかの東麓にあった邸で蘇我蝦夷そがえみしは自殺、古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじは謀反の容疑で殺害された。こうして、稲目いなめ馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかと権勢をふるった蘇我本宗家は滅んだ。この政変を「乙巳いっしの変」と呼ぶが、事件後、皇極こうぎょくは退位し、実弟の軽皇子かるのみこが即位して孝徳こうとくとなった。皇極4年(645年)の6月14日のことである。


乙巳いっしの変]

 642年に舒明の皇后であったたから皇女が皇極として即位し、643年に飛鳥板蓋宮いたぶきのみやへ遷る。この少し前の632年と640年に、推古期に隋・唐に派遣された僧旻そうみん南淵請安みなみぶちしょうあん高向玄理たかむこのくろまろら留学生・僧が長い留学生活を終えて帰国して先進的な制度・文物をもたらした。玄理くろまろ32年、請安しょうあん32年、僧旻そうみん24年と隋・唐にまたがる長期間にわたって滞在していた。彼らは儒教・仏教、その他大陸の学問・思想を、蘇我入鹿そがのいるか中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりをはじめ多くの貴族の子弟たちに教えた。

これを契機に中大兄皇子・中臣鎌足らが中心となって国家の制度・文化を中国風に改める気運が高まってきた。この二人の背後にいたのは、皇極の弟の軽皇子かるのみこからの王子の意、後の孝徳)と彼を支援する蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろ(渡来系の母を持ち、韓人からひとと呼ばれていた)と阿部内麻呂あべのうちまろとする説が現在は有力である。この二人はそれぞれ軽皇子に娘を嫁がせていた。首謀者は皇極の弟の軽皇子である。軽皇子は敏達びだつの曾孫とはいえ傍系の皇子である。しかし、姉の宝皇女が舒明じょめいの皇后となり、舒明崩御後に即位して皇極となったことで、王権の中枢に入り込めたのである。一方、蘇我氏は、642年に百済の義慈ぎじ王が新羅に侵攻し旧加耶地域を奪取したこともあり、親百済の立場から百済・新羅問題を重要視していたといわれる。皇極は蘇我入鹿の意向を尊重して、舒明の長男で蘇我馬子の娘を母にもつ古人大兄ふるひとのおおえ皇子の即位を承認していたが、皇極の弟の軽皇子と彼を支援する蘇我倉山田石川麻呂と阿部内麻呂が結託して、中大兄皇子・中臣鎌足とともに、645年に武力行使に踏み切り、飛鳥板蓋宮いたぶきのみや大極殿だいごくでんで蘇我馬子うまこの孫の入鹿いるかを斬殺した。その日、大極殿前では三韓進調さんかんしんちょうの儀(高句麗・新羅・百済の三国が貢納物を献上する儀式)が催されており、石川麻呂がその上表文を読み上げていた。蘇我入鹿殺害の場から私邸に走り去った古人大兄皇子は、謎の言葉を人に語っている、“韓人からひと鞍作くらさく臣を殺しつ。吾が心痛し”、韓人からひと鞍作くらさく臣、つまり蘇我入鹿いるかを殺害したので、自分の心は痛み悲しんでいるという意味である。入鹿を討った中大兄皇子たちは、板蓋宮いたぶきのみやから飛鳥寺に移り、入鹿の父、蝦夷えみしの討伐の準備を進めた。不意を突かれた蝦夷は自邸に籠って抵抗していたが、配下の東漢やまとのあや氏が中大兄皇子側に取り込まれ、進退窮まって、翌日蝦夷えみし甘樫あまかしの丘の自邸に貯えていた国記・天皇記・珍宝を焼いて自害したと伝えられる。石川麻呂はの父は蝦夷の弟の倉麻呂くらまろで、石川麻呂は入鹿の従兄弟にあたる。このとき鎌足32歳、中大兄皇子は20歳にすぎなかったので、主導したのは40歳代半ばの軽皇子と思われる。これにより蘇我本宗家は滅亡した。

この政変により姉の皇極から王権を委譲された実弟の軽皇子かるのみこ(後の孝徳)は、蘇我氏に代わって仏法を主宰することを宣言し、寺や宮の造営などの公共事業を大王が直接掌握することになった。そして「大化の改新」を推し進めた。蘇我入鹿が即位させようとした舒明の第1皇子である古人大兄皇子は出家して吉野に隠遁するが、謀反の罪で殺された。中大兄皇子(後の天智)は舒明の第2皇子であるが、母は皇極であり、正統な王位継承候補であった。

日本古代史上最大のクーデターとされるこの「乙巳の変」のあらましは、日本書紀に中大兄皇子を「善」、蘇我蝦夷・入鹿父子を「悪」としてドラマチックに描かれているが、これらの出来事すべてが事実ではないと思われる。中大兄皇子側は徹底して蘇我本宗家勢力の排除を目指し、それを達成した。


 孝徳こうとく大化たいか(645年~649年)、白雉はくち(650年~654年)という元号を倭国で初めて定めたとされるが、大化・白雉の元号は制定されたが、儀礼的・装飾的な意味しか持たず、年紀を表す実用性を持たなかった。その後、年号は途切れ、再び使用されるのは大宝たいほう元年(701年)になってからである。それ以来、元号制は現在の令和れいわにまでつながっている。

 孝徳は645年6月14日の即位後、中大兄皇子なかのおおえのおうじを皇太子、阿部内麻呂あべのうちまろを左大臣、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろを右大臣、中臣鎌足なかとみのかまたり内臣うちつおみに任命した。8月5日には、東国に対する支配を強化するために東国八道の国司を任命している。さらに、ヤマト王権の直轄地ともいうべきやまと(奈良盆地)の六御県むつのみあがた(高市・葛城・十市・志貴・山辺・曾布そふ)の人民と土地の調査をさせている。また、対外交渉を積極化するため、瀬戸内海ルートの出発点であり、かつ終着点でもある難波津なにわつを整備して、長柄ながら豊碕とよさき(今の大阪市中央区法円坂の辺り)を都とすることとし、本格的に難波なにわ京の整備に乗り出した。長柄豊碕ながらとよさき宮へ遷都したのは白雉2年(651年)12月で、完成したのは白雉3年(652年)9月であった。孝徳は「人となり、柔仁にして儒を好む」と評されるが、儒教的身分秩序を重んじて、良民・賎民の別を明確にした「男女の法」を定め、「礼」を重んじて、中国風の礼法を定め、大化2年には「薄葬令」を発布した。


[大化二年(646年)の改新の四か条のみことのり

① 貴族の所有するすべての土地人民を廃して国家の民とする。この部民べみん制の廃止と公地公民制への転換は豪族の反対によりすぐには実現できなかったが、出発点とはなった。

京師けいし(都)を修め畿内を定め、国司・郡司・関塞せきもり(関所)・斥候うかみ(間諜・間者)・防人さきもり・駅馬・伝馬を置くなどの地方制度、国防・交通の制度の創始。

③ 籍・計帳・班田収授はんでんしゅうじゅ(農地の支給・収容)の法を作り、50戸1里制、田積・田租の法を定める。

④ 制を改革して、田の調、戸別の調、官馬・兵器・仕丁、采女うねめの制度を定める。


 大化の改新の歴史的意義は、社会変革ではなく、政治変革であるといわれる。それは、社会の基礎をなす階級が部民べみんから公民こうみんに変化したことであるが、実際は、今まで部民としてそれぞれの豪族に別々に所属していた民衆が、公民として国家すなわちヤマト王権の所有に移されたにすぎない。いわば支配関係の変化にほかならない。この場合、国家・ヤマト王権というのは本質的には有力貴族の連合体であるが、大王によって代表されていると考えられる。ともかく、部民に代わる公民組織が作られ、被支配者階級の人びとは口分田くぶんでんに縛りつけられ、(税としての米)・よう(労役)・調ちょう(布や特産品)その他の負担を強いられることになった。一方、被支配者階級の人びとには、それまでの豪族ごと、村落ごとに存していた垣根がなくなり、全国民に共通の地盤と意識とを与える作用を果たすことになった。

 大化の改新のみことのりは存在せず、後の造作であるとの説もあるが、日本書紀の編纂者たちによる潤色は見られるものの、四か条のみことのりの大半は発布されたと考えてもよいようである。また、今までの大臣おおおみ大連おおむらじ制に代えて、左右大臣だいじん制を取ったこと、推古期の冠位十二階制をやめて十三階制(647年)、十九階制(649年)をいたこと、649年前後から郡制の前身であるこおりの制を定めたこと、などは事実である。


 水野祐は、“孝徳は政権樹立後1か月半にして、東国の国司を任命している。これは朝鮮半島で喪失した官家みやけ(南部加耶)の穴埋めのために東国を大王直轄地として編成する目的もあった。東国の豪族を、国司を通して直接大王の公民として支配する体制の下準備であった。そして公民と奴婢ぬひとの通婚を禁止し、身分制度の規定を行った。また、父家長制を容認しつつ土地の私有を否定し、かつての専制的権力を新しい形で再現しようとした。こうした政策は大王の直轄地で試みられ、その後、新しくヤマト王権の統制下に編入された東国において実施された。また、大化の改新は公地公民・中央集権の施行ということで律令制の基礎を確立したことは認められるが、古代天皇制の確立には程遠く支配構造だけが変貌した政治改革とみるのが妥当である”、と述べている。  


 森公章(東洋大学教授)は、“「乙巳の変」には蘇我蝦夷の弟の子である蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが加わっていた。彼はその功績で大化新政権の右大臣に登用されたが、5年後に謀反の疑いをかけられ自害した。明日香村にある石舞台古墳は馬子の墓とみられる。馬子が蘇我氏の氏寺として造営した飛鳥寺の外には入鹿の首塚と呼ばれる石塔が甘樫の丘を背に立っている。蘇我氏の中には、「壬申じんしんの乱」で大海人皇子おおあまのおうじに味方した蘇我臣安摩侶やすまろがいた。安摩侶の父は石川麻呂いしかわまろの弟の連子むらじこであり、斉明さいめい天智てんじ期には大臣であった。この安摩侶が天武期に蘇我から石川と改めた。しかし、その後の藤原氏台頭と入れ替わるように衰退した。逆賊としてのイメージが強まったのは江戸時代からである。蘇我氏のルーツは葛城氏であり、物部氏を打倒し、激動の東アジア情勢の中で渡来人たちを束ね、国際情勢に明るく開明的で、仏教という根本的な精神文化を取り入れ、日本を「仏教国家」にした。仏教は本来的に四民平等の世界である。その蘇我氏を滅ぼしたのが、中臣鎌足なかとみのかまたりである。しかし、仏教は重要視していた。その子藤原不比等ふじわらのふひとは律令制を完成させ、藤原氏を明治時代まで繁栄・存続させた”、と述べて、「乙巳の変」の後の蘇我氏と中臣氏を総括している。


 蘇我氏は、百済の将軍であった木羅斤資もくらこんし(武内宿禰)-> 葛城襲津彦 -> 蘇我氏、と続いた武内宿禰の直系の氏族であり、大王家を構成した一族でもある。雄略ゆうりゃく崩御後の混乱の中で、越前・近江・美濃・尾張を地盤として土着化した倭人集団の継体により一時的に王権を奪われたが、任那(金官加耶)から欽明きんめいを迎え入れることにより、正統な王権を取り戻した。それは、350年代の景行による加耶から北部九州への侵攻から始まり、4世紀末から5世紀初頭にかけての応神・仁徳による大和への東征、さらに5世紀後葉の雄略まで約150年続いた水野祐が名付けた「征服王朝」の復活でもあった。欽明の遺詔いしょうは新羅を討ち、任那(加耶諸国)を復興することにあったとされる。この課題は歴代の大王たちに引き継がれていったが、百済と協力してそれを実行に移そうとしたのが、雄略期の満智まちから始まり、韓子からこ高麗こま稲目いなめ馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかと続いた蘇我氏であった。しかし、460年代の雄略の時代から、645年の「乙巳の変」までの約200年の間に時代は大きく変化していた。

 朝鮮半島では、大王家一族の母国であった南部加耶諸国が連携し頼みとしていた百済は、475年に高句麗により漢城(今のソウル)が陥落し、百済は一時的な滅亡に瀕した。その後、王都を南の熊津(今の公州)に移して体制を立て直したとはいえ、高句麗と新羅の攻勢により昔日の輝きは失われていた。母国の加耶は、532年に金官加耶が、562年には大加耶が新羅に滅ぼされ、その後、他の加耶諸国もすべて新羅に吸収されてしまった。

 さらに皮肉なことに、蘇我氏が始めた遣隋使・遣唐使からもたらされた隋・唐の圧倒的な先進文化に関する知識は、7世紀前葉の倭国の支配者層の意識を大きく変えていった。それは、朝鮮半島南部の小さな母国に固執するより日本列島の中でより強力な政権をつくることを優先するものであった。蘇我馬子が望んだ、“倭国の伝統的な権威とは異なる新たな大陸系の宗教を導入・振興することにより、激動する東アジア諸国との交流と競争の中で律令制中央集権国家を作り、百済と連携して朝鮮半島において急激に勢力を拡大してきた新羅に対抗し、さらに新羅に吸収されてしまった加耶諸国の復活を成し遂げる”、という夢を諦めることであった。

 「乙巳の変」の後に即位した孝徳は、遣唐使からもたらされた唐と朝鮮半島諸国に関する情勢を自らのものとし、その対策を講じたと考えられる。それが「大化二年の改新の四か条の詔」に表れている。蘇我氏は350年代の景行による加耶から北部九州への侵攻から始まった加耶・倭国連合政権を死守しようとした最後の倭王の一族となった。


中臣なかとみ氏]

 記紀の天岩戸の神話に出てきて祈祷した「天児屋(あめのこやね)」を祖とする。欽明期に常盤ときわ中臣なかとみ氏名うじなを賜ったとされる。中臣氏は神事にまつわる祭祀を司っていたことから、物部氏と並んで仏教の受容には反対の立場をとり、欽明期では中臣鎌子かまこが、敏達期では鎌子の子である勝海かつみが廃仏派として名を連ねている。しかし、蘇我馬子が物部守屋を滅亡させた587年の丁未ていびの役では物部氏側にはついておらず、物部氏に連座しての敗訴を免れた。大化の改新のきっかけとなる645年の「乙巳の変」において、中大兄皇子とともに中臣鎌足かまたりは、蘇我蝦夷・入鹿親子を討伐した。中臣氏は崇仏論争のときから一貫して蘇我氏と対立する位置にあったと考えることができる。その後、中臣鎌足は天智から大織冠たいしょくかんを授けられ藤原ふじわらの姓も賜って、藤原氏の祖となる。中臣鎌足の出自については、父が中臣御食子みけこという名は分かっているが、不明なところも多く、内臣うちつおみになるまでの業績は明らかになっていない。「家伝」によると、常盤ときわが欽明期に中臣むらじの姓を賜ったとされており、元来卜部うらべ氏の一族であったようである。常盤ときわ -> 可多能祜かたのこ -> 御食子みけこ -> 鎌足かまたりとなり、鎌子かまこ勝海かつみは登場しない。鎌足の家系は物部氏に協力的であった系統が物部氏とともに没落した後に、中臣氏の本流となった一族といわれる。御食子みけこは推古・舒明期に祭官と共に大夫たいふを兼ねていた。大夫たいふ大臣おおおみの下で重要政務を合議決定するとともに大王と臣下の間で奏宣の任に当たる職である。鎌足の母は大伴氏と記されている。鎌足は中国から帰国した学問僧・みん南淵請安みなみぶちしょうあんから周孔の教え(儒教)を学ぶとともに隋や唐の制度や文物の知識を吸収したと思われる。この時に蘇我入鹿や中大兄皇子と知り合ったようである。鎌足の子、定恵じょうえ不比等ふひとの母は伴造とものみやつこ車持君くるまもちのきみ与志古よしこである。定恵は653年に遣唐使と共に唐に渡り、665年に帰国したが、同年に亡くなっている。天智8年(669年)、鎌足が死を迎えた時、天智は鎌足に「大織冠たいしょくかん」と「大臣おおおみ」の称号とともに「藤原氏」の氏号を与えた。それは鎌足が飛鳥の「藤井ヶ原」出身であったからと推測されている。不比等は藤原氏全盛時代の道を開き、大宝律令と養老律令を選定して、律令制度を完成させ、平城京遷都に尽力し、中納言や右大臣などを務めた。天皇の下に太政官しか置かず、天皇の権力はおさえて太政官がすべての物事を決定できる制度にした。 


 645年以降、親百済・反新羅の倭国の外交の傾向は変化した。高句麗・百済とは友好関係を継続し、新羅に対しても明確な敵対的態度はとらなかった。倭国は唐からの直接的圧迫を受けず、また朝鮮三国間の争いからも一歩引いた、地政学的に優位な姿勢をとっていた。646年、倭国は新羅に高向玄理たかむこのくろまろを使者として送り、「質」を要求し、新羅は翌年王子の金春秋きんしゅんじゅうを「質」として遣わし、649年には金春秋に替わって金多遂きんたすいを送ってきた。これにより、それまで対立関係にあった新羅との関係も656年までは良好となった。この「質」というのは、外交官ではないかとの説があるが、直木孝次郎は、“外交特権という慣例のない古代の国際政治では、他国に使する外交官の生命は相手国の手に握られ、その限りでは人質と変わらない。少なくとも倭国は、金春秋も金多遂も余豊璋よほうしょう同様人質とみなしていたであろう”、と述べている。余豊璋よほうしょうは661年に百済復興のために帰国し、その後百済王となったが、663年の白村江の大敗の結果、百済最後の王となった。そして、倭国は630年の第1次遣唐使以来23年ぶりに、653年と654年に第2次・第3次遣唐使を派遣した。654年の遣唐使は新羅経由である。

 645年以前に、百済経由で唐に渡った恵日えにちらが623年に新羅経由で帰国し、さらに639年にも唐に留学した僧の恵隠えおん恵雲えうんが新羅の送使に従って帰国したときは、倭国は送使に冠位一級を与えている。それには背景があった。唐との関係強化を軸に高句麗・百済を牽制しようとする新羅にとって、倭国が唐に接近することは歓迎すべきことであった。この後、遣唐使は百済経由から新羅経由へ切り替わった。また、648年には新羅への学問僧派遣も行われた。

 しかし、遣唐使を派遣し、三韓との積極外交を行い、大化の改新を推し進めた孝徳は654年に死去した。その後、新羅は656年に倭国に最後の使節を派遣した後、倭国との交際を絶った。657年には倭の朝廷が新羅を経て遣唐使を派遣できるよう要請したが、新羅は拒否した。この後、新羅と倭の公式接触は断絶した。こうして、東北アジアの国際関係の構図は明確となった。すなわち、新羅の金春秋による唐・新羅同盟に対し、高句麗・百済・倭国の連携の対峙である。その数年後の660年、唐と新羅の連合軍は百済の首都を落とし百済は滅んだ。


[遣新羅史]

 遣新羅史は623年から882年までに39回、倭国への新羅史は610年から929年までに75回にのぼった。時として唐と対立した新羅は、倭国が唐につかないように倭国に朝貢していた事情もあった。特に7世紀後半の白村江の敗戦後の約30年間(669年~702年)、倭国が遣唐使を中断した間は、新羅との交渉は密接であった。日本における律令体制の完成には、新羅律令とのかかわりも当然あったと思われる。


 孝徳(在位:645年~654年)の即位は生前譲位による即位であり、一つの画期であった。これ以前の大王は群臣によって推戴されていたが、これ以降、大王位の継承は大王家の意志によって行われることになった。このようになるには、「乙巳の変」により蘇我本宗家を排除したことが大きかった。蘇我氏は大王を推薦することができる権限を持つ大王家一族であり、大豪族であった。しかし、このクーデター(政変)により打倒され、時の大王家に匹敵する最後の大豪族となった。さらに、阿部内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、鎌足を内臣うちつおみに、唐の法律制度や海外情勢に詳しい僧旻そうみん高向玄理たかむこのくろまろを国博士に任じて外交・政治顧問とし、新政府の陣容が成立した。

 内臣うちつおみになった鎌足であるが、孝徳・斉明期には鎌足の具体的な活動は不明であり、鎌足が政治の表舞台に登場するのは天智期になってからである。鎌足は天智と大海人皇子との融和に努め、大海人皇子の信頼も得たといわれる。事実、鎌足の娘二人が大海人皇子の妃になっている。その一方、天智の子大友皇子にも娘を送り込んでいる。また、興福寺の釈迦像は百済から鎌足に贈られたものとされ、百済とのつながりは強かったようで、亡命百済人を重用した天智・大友皇子との親近性を示している。

 孝徳は大化2年(646年)には50年も都であった飛鳥を離れ難波なにわに都を移した。大和の飛鳥は内陸にあり、三韓と唐との外交には不便であったためと思われる。大化3年(647年)には高句麗・百済・新羅の三韓の使節が難波に来朝している。さらに、新羅から金春秋きんしゅんじゅうが「質」として来倭している。金春秋は後の武烈王であり、百済を滅亡させた立役者である。その後も学問僧などを来倭させている。朝鮮半島の三韓諸国はクーデターで成立した倭国の新政権の動向を探っていたのである。孝徳は積極外交を行い、大化の改新を推し進めた。650年に左大臣阿部内麻呂が亡くなると、右大臣蘇我倉山田石川麻呂も謀反の罪を着せられ自害した。左右の両大臣が新政府の方針に必ずしも同調せず、新しい十三階の冠位制の冠をつけなかったといわれる。

 蘇我倉山田石川麻呂の存在は大きかった。本宗家ではないが、蘇我氏一族であり、娘の遠智娘おちのいらつめは中大兄皇子との間に鸕野讃良うののささら皇女(後の持統)を生んでおり、別の娘の姪娘めいのいらつめ阿閇あへ皇女(後の元明)を生んでいる。しかし、実権者である中大兄皇子は石川麻呂を抹殺してしまった。このときに連座して処罰された者は処刑23名、流刑15名と多く、中大兄皇子の石川麻呂への警戒心の大きさがうかがえる。そして左大臣には巨勢徳陀古こせのとくだこを、右大臣には大伴長徳おおとものながとこを推挙した。また、難波宮なにわのみやを造営して新政を目指した孝徳の動きに対して、中大兄皇子らは反発し、難波宮から飛鳥の故京に遷ることを進言したが、孝徳に拒否され、653年に中大兄皇子は前の大王皇極こうぎょく間人はしひと皇后・大海人皇子らとともに飛鳥へ戻るという政局の危機を迎えた。

 孝徳期には653年の第2回の遣唐使に引き続いて、前年の遣唐使の帰国を待たずに翌年の654年にも高向玄理たかむこのくろまろらが遣唐使として入唐するというあわただしさだった。それは唐の朝鮮三国に対する政策の実情を確かめるためであったと考えられる。

 森公章(東洋大学教授)は、“孝徳期の改革推進の背景には、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国が半島の覇権をめぐって争う最終段階に、唐が関与するという東アジアの激動に対処し得る王権の確立という課題があり、倭国の場合は大王を中心とする王権強化を目指したが、そこには急激な改革に反対する勢力が存在し、その代表が中大兄皇子であった”、という。


 654年に孝徳は難波宮で崩御した。孝徳には皇后である間人はしひと皇女との間には皇子がなかったが、妃である阿部左大臣の娘小足媛おたらしひめとの間には有馬ありま皇子があった。しかし、まだ15歳と若かったため、皇極こうぎょく斉明さいめい(在位:655年~661年)として655年正月に飛鳥板蓋宮で即位し、初の重祚ちょうそとなった。有馬皇子は斉明4年(658年)に謀反の罪を着せられ殺された。これも中大兄皇子による謀略であったと思われる。

 水野祐は、642年の蘇我入鹿による厩戸王(聖徳太子)の子の山背王の殺害、645年の乙巳の変における蘇我入鹿の殺害、孝徳期における舒明の第1皇子である古人大兄皇子の殺害(第2皇子は中大兄皇子、第3皇子は大海人皇子)、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の自害、そして658年の有馬皇子の殺害と続いた非業の死はそのほとんどが免罪であったという。さらに、水野祐は7世紀を「非情の世紀」と命名している。その幕開けは592年の蘇我馬子による崇峻すしゅん暗殺であり、729年の長屋ながや王(高市たけち皇子の子で天武の孫)の変まで続いた。そして、このような犠牲者を踏み台にして律令国家が形成されたと述べている。


 斉明期には孝徳期の10年間が難波宮建設に費やされたために整備の遅れていた旧都飛鳥の再開発が進められた。斉明は日本書紀に「時に興事を好む」と記され、香久山かぐやまから石上山いそのかみやまに至る大きな運河を掘削し、船を浮かべて石を運び、宮の東の山に重ねて垣とし、そこには酒船石や苑池えんち(池泉がある庭園)が造営されるなど、様々な土木工事を行い、宮の荘厳化が推し進められた。運河は「狂心のきょ(運河)」と呼ばれ、多くの工夫を駆りだしたことが批判されているが、飛鳥の宮を中心とした様々な施設が集中的に配置される7世紀中ごろは、対外的な危機の中で大王への権力集中が一段と進んだ時代でもあった。

 しかし、この間にも東アジア情勢はさらに混迷を深め、660年には唐・新羅連合軍により百済は滅亡し、唐の支配下となった。BC1世紀の辰王の時代以来、倭国の兄弟国家ともいうべき百済の消滅の危機のとき、斉明と倭王権が対策に全力をつぎ込んだのが、663年の白村江の戦いであった。その百済復興の救援のため、斉明は中大兄皇子(後の天智)らと筑紫まで出向いて指揮を執ったが、661年7月に遠征途上の筑紫の朝倉宮にて68歳で客死をとげてしまった。斉明の崩御後は天智(在位:668年~671年)の時代となった。即位は668年1月となったが、実質的には斉明崩御後の661年から実権を握っていた。

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