第45話 乙巳の変と大化の改新
皇極4年(645年)の6月12日、
[
642年に舒明の皇后であった
これを契機に中大兄皇子・中臣鎌足らが中心となって国家の制度・文化を中国風に改める気運が高まってきた。この二人の背後にいたのは、皇極の弟の
この政変により姉の皇極から王権を委譲された実弟の
日本古代史上最大のクーデターとされるこの「乙巳の変」のあらましは、日本書紀に中大兄皇子を「善」、蘇我蝦夷・入鹿父子を「悪」としてドラマチックに描かれているが、これらの出来事すべてが事実ではないと思われる。中大兄皇子側は徹底して蘇我本宗家勢力の排除を目指し、それを達成した。
孝徳は645年6月14日の即位後、
[大化二年(646年)の改新の四か条の
① 貴族の所有するすべての土地人民を廃して国家の民とする。この
②
③ 籍・計帳・
④ 制を改革して、田の調、戸別の調、官馬・兵器・仕丁、
大化の改新の歴史的意義は、社会変革ではなく、政治変革であるといわれる。それは、社会の基礎をなす階級が
大化の改新の
水野祐は、“孝徳は政権樹立後1か月半にして、東国の国司を任命している。これは朝鮮半島で喪失した
森公章(東洋大学教授)は、“「乙巳の変」には蘇我蝦夷の弟の子である
蘇我氏は、百済の将軍であった
朝鮮半島では、大王家一族の母国であった南部加耶諸国が連携し頼みとしていた百済は、475年に高句麗により漢城(今のソウル)が陥落し、百済は一時的な滅亡に瀕した。その後、王都を南の熊津(今の公州)に移して体制を立て直したとはいえ、高句麗と新羅の攻勢により昔日の輝きは失われていた。母国の加耶は、532年に金官加耶が、562年には大加耶が新羅に滅ぼされ、その後、他の加耶諸国もすべて新羅に吸収されてしまった。
さらに皮肉なことに、蘇我氏が始めた遣隋使・遣唐使からもたらされた隋・唐の圧倒的な先進文化に関する知識は、7世紀前葉の倭国の支配者層の意識を大きく変えていった。それは、朝鮮半島南部の小さな母国に固執するより日本列島の中でより強力な政権をつくることを優先するものであった。蘇我馬子が望んだ、“倭国の伝統的な権威とは異なる新たな大陸系の宗教を導入・振興することにより、激動する東アジア諸国との交流と競争の中で律令制中央集権国家を作り、百済と連携して朝鮮半島において急激に勢力を拡大してきた新羅に対抗し、さらに新羅に吸収されてしまった加耶諸国の復活を成し遂げる”、という夢を諦めることであった。
「乙巳の変」の後に即位した孝徳は、遣唐使からもたらされた唐と朝鮮半島諸国に関する情勢を自らのものとし、その対策を講じたと考えられる。それが「大化二年の改新の四か条の詔」に表れている。蘇我氏は350年代の景行による加耶から北部九州への侵攻から始まった加耶・倭国連合政権を死守しようとした最後の倭王の一族となった。
[
記紀の天岩戸の神話に出てきて祈祷した「天児屋(あめのこやね)」を祖とする。欽明期に
645年以降、親百済・反新羅の倭国の外交の傾向は変化した。高句麗・百済とは友好関係を継続し、新羅に対しても明確な敵対的態度はとらなかった。倭国は唐からの直接的圧迫を受けず、また朝鮮三国間の争いからも一歩引いた、地政学的に優位な姿勢をとっていた。646年、倭国は新羅に
645年以前に、百済経由で唐に渡った
しかし、遣唐使を派遣し、三韓との積極外交を行い、大化の改新を推し進めた孝徳は654年に死去した。その後、新羅は656年に倭国に最後の使節を派遣した後、倭国との交際を絶った。657年には倭の朝廷が新羅を経て遣唐使を派遣できるよう要請したが、新羅は拒否した。この後、新羅と倭の公式接触は断絶した。こうして、東北アジアの国際関係の構図は明確となった。すなわち、新羅の金春秋による唐・新羅同盟に対し、高句麗・百済・倭国の連携の対峙である。その数年後の660年、唐と新羅の連合軍は百済の首都を落とし百済は滅んだ。
[遣新羅史]
遣新羅史は623年から882年までに39回、倭国への新羅史は610年から929年までに75回にのぼった。時として唐と対立した新羅は、倭国が唐につかないように倭国に朝貢していた事情もあった。特に7世紀後半の白村江の敗戦後の約30年間(669年~702年)、倭国が遣唐使を中断した間は、新羅との交渉は密接であった。日本における律令体制の完成には、新羅律令とのかかわりも当然あったと思われる。
孝徳(在位:645年~654年)の即位は生前譲位による即位であり、一つの画期であった。これ以前の大王は群臣によって推戴されていたが、これ以降、大王位の継承は大王家の意志によって行われることになった。このようになるには、「乙巳の変」により蘇我本宗家を排除したことが大きかった。蘇我氏は大王を推薦することができる権限を持つ大王家一族であり、大豪族であった。しかし、このクーデター(政変)により打倒され、時の大王家に匹敵する最後の大豪族となった。さらに、阿部内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、鎌足を
孝徳は大化2年(646年)には50年も都であった飛鳥を離れ
蘇我倉山田石川麻呂の存在は大きかった。本宗家ではないが、蘇我氏一族であり、娘の
孝徳期には653年の第2回の遣唐使に引き続いて、前年の遣唐使の帰国を待たずに翌年の654年にも
森公章(東洋大学教授)は、“孝徳期の改革推進の背景には、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国が半島の覇権をめぐって争う最終段階に、唐が関与するという東アジアの激動に対処し得る王権の確立という課題があり、倭国の場合は大王を中心とする王権強化を目指したが、そこには急激な改革に反対する勢力が存在し、その代表が中大兄皇子であった”、という。
654年に孝徳は難波宮で崩御した。孝徳には皇后である
水野祐は、642年の蘇我入鹿による厩戸王(聖徳太子)の子の山背王の殺害、645年の乙巳の変における蘇我入鹿の殺害、孝徳期における舒明の第1皇子である古人大兄皇子の殺害(第2皇子は中大兄皇子、第3皇子は大海人皇子)、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の自害、そして658年の有馬皇子の殺害と続いた非業の死はそのほとんどが免罪であったという。さらに、水野祐は7世紀を「非情の世紀」と命名している。その幕開けは592年の蘇我馬子による
斉明期には孝徳期の10年間が難波宮建設に費やされたために整備の遅れていた旧都飛鳥の再開発が進められた。斉明は日本書紀に「時に興事を好む」と記され、
しかし、この間にも東アジア情勢はさらに混迷を深め、660年には唐・新羅連合軍により百済は滅亡し、唐の支配下となった。BC1世紀の辰王の時代以来、倭国の兄弟国家ともいうべき百済の消滅の危機のとき、斉明と倭王権が対策に全力をつぎ込んだのが、663年の白村江の戦いであった。その百済復興の救援のため、斉明は中大兄皇子(後の天智)らと筑紫まで出向いて指揮を執ったが、661年7月に遠征途上の筑紫の朝倉宮にて68歳で客死をとげてしまった。斉明の崩御後は天智(在位:668年~671年)の時代となった。即位は668年1月となったが、実質的には斉明崩御後の661年から実権を握っていた。
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