第44話 蘇我氏専制の時代と遣隋使・遣唐使
古代の日本列島では、東アジア諸国との交流や交易を通じて文物や制度を取り入れることにより、国家の形成や文化の発展が促された。その過程において遣隋使・遣唐使が7~8世紀の国家や文化の形成の一翼を担っていたことは疑いのないところである。約100年ぶりの中国への遣使となるその遣隋使の第1回目(600年)が、
[遣隋使]
推古8年(600年)に第1回の遣隋使派遣から614年までに少なくとも4回あった。第1回遣使の国書には天の子を意味する「姓は
推古期の最高実力者あるいは最高権力者であった蘇我馬子が亡くなったのは推古34年(626年)、馬子は「
推古の後継者をめぐり蘇我一族においても二派に分かれた。後継者は敏達の子の
舒明には蘇我馬子の娘、
東アジアの情勢も大きく変貌する。隋の都長安が北朝時代からの名門貴族であった
唐は624年に国内の平定をほぼ成し遂げて、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国の王らを冊封した。この朝鮮半島における三国の争いは激化の一途をたどり、百済と高句麗は新羅を侵略し、新羅は唐に支援を求めた。唐と高句麗の対立は631年ころから一層深刻となった。高句麗や百済の使節が630年に来倭し、632年には唐の使節が倭国に入京する。こうした外交の動きは、唐および朝鮮三国の情勢に連動するものであった。
朝鮮三国が相争う中、倭国は舒明2年(630年)8月に第一回の遣唐使を派遣した。しかし、その準備は推古31年(623年)の7月に遣隋使の
この第一回の遣唐使が帰国後に果たした役割は大きかった。遣隋使として渡航し、滞在していた
[遣唐使]
遣唐使は630年から838年までに15回、唐史の来日は9回にのぼった。630年の最初の遣唐使には、614年の遣隋使であった
630年の第1回から669年の第6回までの遣唐使を前期の遣唐使とされるのは、668年に唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼしたように唐と朝鮮三国は激動の時代にあり、倭国の遣唐使は留学僧が多く仏教文化などの導入という目的を持ちながらも、他方で極めて政治的な性格を帯びていたからである。一方、702年の第7回から838年の第15回までを後期の遣唐使とされるのは、前期と異なり、東アジア情勢は比較的安定しており、文化的性格が濃厚であったからである。
しかし、約200年にも及ぶ遣唐使も838年が最後となった。正式な遣唐使派遣停止は894年に
遣唐使の当初は二隻、奈良時代になると四隻の編成が基本で、員数は当初の240~250人、そして500人以上となり、最後の遣唐使となった834年の任命は651人となっている。初期の航路は壱岐・対馬を経て、朝鮮半島の西海岸を北上し、渤海湾口から山東半島に至る北路であった。663年の白村江の敗戦以降は、九州南端から種子島・屋久島・沖縄島・石垣島などを経由して、東シナ海を横断して揚子江口を目指す南島路が主となった。さらに、奈良時代後半以降になると、肥前の五島列島の
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2004年10月、中国の西安で墓が発見され、そこから墓誌も出土した。井真成は遣唐使の留学生として717年に入唐し、734年に36歳で亡くなり、
舒明は百済川のほとりに
641年10月に舒明が49歳で崩ずると、またも後継者が定まらず、舒明と皇位を争った
さて、ここで推古の即位前後から舒明崩御までの流れを整理してみると、激動する東アジアの情勢のなかで、蘇我
587年:
倭国では、皇位継承と排仏・崇仏で対立した蘇我馬子と物部守屋が争い、蘇我馬子は物部守屋と穴穂部皇子を敗死させた(
589年:
北朝の隋が南朝の陳を討伐し、約350年ぶりに中国に統一王朝が成立した。
592年:
倭国では、蘇我馬子が12月に推古を
600年:
遣隋使の派遣。倭国が隋に遣使するのは600年であるが、冊封は受けなかった。478年の雄略による南朝宋(420年~479年)への遣使以来約120年ぶりとなる中国との国交樹立であった。
611年:
隋による高句麗遠征は611年~614年までの三度におよんだ。また、隋の
618年:
隋が滅亡し、唐が成立した。唐は律令制を完成させ、以後300年の長きにわたり東アジアの中心となった。
622年:
倭国では、622年に厩戸王死去、626年に蘇我馬子死去、
628年:
推古崩御、推古は薄葬を遺言し、方墳に埋葬された。前方後円墳の築造は全国的に終焉し、大王墓は方墳化した。
629年:
蘇我
630年:
最初の遣唐使の派遣。
641年:
舒明が10月に崩御。百済ではクーデターにより
642年:
1月に舒明の皇后の
643年:
皇極2年、厩戸王(聖徳太子)の長男の
当時、東アジアの情勢は緊迫していた。この頃の朝鮮半島三国の状況は複雑であった。百済では641年に
新羅は百済の攻撃を受けて王族の
唐による高句麗討伐はその後も続いた。高句麗では唐の圧力と朝鮮三国の抗争の中で生き残るために、権力集中を目指し642年に
朝鮮三国は唐の圧力を身近に感じ、それぞれに内政の改革に全力を傾けていた。倭国だけが例外であったとは考えられない。
新羅では
ほぼ同時期に倭国でも女帝の時代が続いた。推古(在位592年~628年)、皇極(在位642年~645年)、斉明(在位655年~661年)という二人で三代の女帝が登場している。この6世紀末から7世紀前半において、倭国と新羅になぜ女王が誕生したのか、とても興味深い現象である。そこには一つの共通点があるといわれる。それは激動する朝鮮半島情勢のなか、両国ともに国の生き残りをかけた方針を定める必要があった。その中から倭国では蘇我馬子が、新羅では金春秋が台頭し、国政の陣頭指揮をとった。国の非常時に血縁を最重要視する大王では能力的に無理があった。したがって、適切な男子が登場するまで、王妃を一時的に名目上の大王とし、実権は豪族や貴族たちの勢力争いに勝ち残った文武両道で外交能力にもすぐれた男子の有力者が持つことになった。それが蘇我馬子であり、金春秋であった。
舒明崩御の翌年の642年は、660年の唐・新羅連合軍による百済滅亡、663年の白村江の戦いにおける百済遺民・倭国連合軍の大敗北、668年の高句麗滅亡、676年の新羅による朝鮮半島統一と続く東アジア大変動の起点となる年となった。そして、倭国では645年に日本古代史上最大のクーデターとなった「
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