第44話 蘇我氏専制の時代と遣隋使・遣唐使

 古代の日本列島では、東アジア諸国との交流や交易を通じて文物や制度を取り入れることにより、国家の形成や文化の発展が促された。その過程において遣隋使・遣唐使が7~8世紀の国家や文化の形成の一翼を担っていたことは疑いのないところである。約100年ぶりの中国への遣使となるその遣隋使の第1回目(600年)が、推古すいこ女帝の下の蘇我馬子そがうまこ厩戸うまやど王(聖徳太子)の治世下に行われた事実を見逃してはいけない。蘇我馬子は倭国の伝統的な権威とは異なる新たな大陸系の宗教を導入・振興することにより、激動する東アジア諸国との交流と競争の中で律令制中央集権国家を作り、唐や朝鮮半島において急激に勢力を拡大してきた新羅に対抗しようとした。そして何よりも、538年に都を熊津ゆうしん(今の公州)から泗沘しひ(今の扶余)へ移して高句麗に備えていた百済を死守し、さらに532年に新羅に吸収されてしまった南部加耶の南加羅(金官加耶)・喙己呑とくことん卓淳とくじゅんの復活も成し遂げたかった。


[遣隋使]

 推古8年(600年)に第1回の遣隋使派遣から614年までに少なくとも4回あった。第1回遣使の国書には天の子を意味する「姓は阿毎あめ、字は多利思比孤たりしひこ」という倭王名が隋書に記されている。天や日の王権思想は5世紀にさかのぼる高句麗にはっきりと確認される。607年の第2回には小野妹子おののいもこが持参した国書に「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや」と記述したので、隋の煬帝ようだいが激怒したと随書にある。これは東夷とういの倭国が「天子」を名乗ったからである。朝鮮諸国には「大国」としてのぞみ、中国王朝とは対等外交を展開しようとする外交策をとったと理解されている。このとき、隋書に、「沙門数十人来りて仏教を学ぶ」とあり、多くの留学僧が同行した。翌年、小野妹子は裴世清はいせいせいらを伴って帰国した。「隋書」倭国伝に「百済のわたり、竹島に至る。遥か大海の中なる都斯麻つしま国を経由す。また東して一支いき国に至り、また竹斯ちくし(筑紫)国に至る。また東して秦(辰)王国に至る」とある。江上波夫は、当時の飛鳥の都に隋から裴世清はいせいせいが来たことを記したものであると推定している。また大和の倭国をしん王国と呼んでおり、倭王をいにしえの辰王の末裔とみなしている。裴世清は倭国の情勢を探るために来たと思われる。その時に接見した倭国王は女王ではなかった。それは蘇我馬子あるいは厩戸王(聖徳太子)であった。608年の第3回には、小野妹子を大使として、確認できるだけで8名の留学生・学問僧を送っている。そのなかには高向玄理たかむこのくろまろ南淵請安みなみぶちしょうあん僧旻そうみんが含まれ、それぞれの留学期間は玄理32年・請安32年・僧旻24年と隋・唐にまたがる長期間にわたった。彼らは645年の「乙巳いっしの変」の前に長い留学生活を終えて帰国して隋・唐の先進的な国の制度や法律・文物、さらに中国や朝鮮半島の最新情勢をもたらし、皇極こうぎょくの弟のかる皇子(後の孝徳こうとく)や中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりなどにその内容を教授したとされ、一説にはこの学習による知識が国の危機感につながり、「乙巳の変」に至ったとされる。孝徳期には、僧旻と高向玄理は国博士に任じられ、外交・政治顧問となった。


 推古期の最高実力者あるいは最高権力者であった蘇我馬子が亡くなったのは推古34年(626年)、馬子は「桃原墓ももはらのはか」に葬られたとされ、今の奈良県明日香村島庄しましょうにある石舞台いしぶたい古墳がその桃原墓と考えられている。572年に大臣おおおみに任命されてから626年に76歳で死去するまで54年という長きにわたって王権の中枢に君臨してきた馬子の死によって蘇我氏一族も新たな世代の時代に入った。馬子の後に蘇我本宗家を継いだのは蝦夷えみしであった。その蝦夷が推古の後継問題に最も影響を及ぼす人物として登場してきた。馬子の死から間もない、628年に推古は崩御した。推古の子である竹田皇子(父は敏達びだつ)はすでに亡くなっており、推古は竹田皇子の陵墓への合葬を望んだ。その最初の陵墓は植山古墳(奈良県橿原市五条野)で、その後、河内の磯長山田しながのやまだ陵(大阪府南河内郡太子町の山田高塚古墳)に改葬されたと伝えられる。

 推古の後継者をめぐり蘇我一族においても二派に分かれた。後継者は敏達の子の押坂彦人大兄おしさかのひこひとおおえ(母は広媛)を父にもつ田村たむら皇子と、厩戸王(聖徳太子)の長男の山背大兄やましろのおおえ王(母は刀自古郎女とじこのいらつめ)に絞られていた。田村皇子は蘇我氏の血統ではないが、馬子の娘である法堤郎媛ほていのいらつめとの間に古人大兄ふるひとのおおえ皇子が生まれていた。蘇我馬子の子の蘇我蝦夷そがえみし田村たむら皇子を推し、蘇我馬子の弟の蘇我(境部さかいべ摩理勢まりせ山背大兄やましろのおおえ王を推した。結果は、蘇我蝦夷を支持する勢力が蘇我(境部)摩理勢の勢力を上回り、最後まで抵抗した蘇我(境部)摩理勢は殺された。田村皇子は629年に即位し、舒明じょめい(在位:629年~641年)となった。しかし、舒明は治世13年の間ほとんど政務に携わらず、蘇我氏の専制が続いた。蘇我一族の中で有力でもあった摩理勢まりせを倒したことにより、蘇我本宗家の蝦夷えみしの地位は堅固なものになったが、蘇我一族の中では大きな不満が渦巻くことになった。皇極元年(642年)、蝦夷えみしは自らの祖廟を葛城の高宮たかみやに建てて、天子の特権とされる八佾舞やつらのまいを行い、寿陵である大陵おおみささぎ蝦夷えみしの墓)・小陵こみささぎ入鹿いるかの墓)と呼ばれた双墳ならびのはか今城いまきに造り、邸宅を甘樫あまかしの丘に建てた。蝦夷えみしの邸宅を「うえ宮門みかど」、入鹿いるかの邸宅を「はさま宮門みかど」と呼び、家の外には城柵を巡らせ、門の傍らに武器庫を設け、武器を携えた兵士が守る要塞のようであった。自らの祖廟と八佾舞やつらのまいについては記紀の編纂時に、645年の「乙巳いっしの変」で逆臣となった蘇我蝦夷・入鹿父子を陥れるために記されたともいわれるが、蘇我氏専制を象徴するような出来事でもある。

 舒明には蘇我馬子の娘、法堤郎媛ほてのいらつめとの間に古人大兄ふるひとのおおえ皇子(第1皇子)がいた。皇后のたから皇女(敏達の曾孫)との間には、舒明の第2皇子となる中大兄なかのおおえ皇子で後の天智と、第3皇子となる大海人おおあま皇子で後の天武となる二人の皇子がいた。また、皇女の間人はしひと皇女は孝徳の妃となり、皇后のたから皇女は、後に皇極こうぎょく斉明さいめいとして即位することになる。しかし、舒明の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。


 東アジアの情勢も大きく変貌する。隋の都長安が北朝時代からの名門貴族であった李淵りえんによって陥落したのは617年であり、李淵は煬帝ようだいの孫の恭帝を擁立したが、618年の5月には唐を起し、初代の皇帝高祖となった。その次男李世民りせいみんが二代太宗となったのは626年であり、628年には内乱の続いた隋を完全に制圧して、世に「貞観じょうがん」と呼ばれる安定政権を確立した。隋から唐へ、唐朝成立の情報が倭国に伝わったのは推古31年(623年)であった。新羅使とともに遣隋留学生・留学僧が帰国して隋から唐への推移を実際に目撃した情報によって伝えたのである。


 唐は624年に国内の平定をほぼ成し遂げて、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国の王らを冊封した。この朝鮮半島における三国の争いは激化の一途をたどり、百済と高句麗は新羅を侵略し、新羅は唐に支援を求めた。唐と高句麗の対立は631年ころから一層深刻となった。高句麗や百済の使節が630年に来倭し、632年には唐の使節が倭国に入京する。こうした外交の動きは、唐および朝鮮三国の情勢に連動するものであった。


 朝鮮三国が相争う中、倭国は舒明2年(630年)8月に第一回の遣唐使を派遣した。しかし、その準備は推古31年(623年)の7月に遣隋使の薬師恵日くすしのえにち恵済えさいらが、新羅大使智洗爾ちせんにらとともに帰国し、恵日らが「大唐国は法式備わり定まれるたからの国なり、常に通ふべし」と遣唐使の派遣を進言したころから本格化していた。彼らが新羅経由で帰国するきっかけは、新羅が621年に唐へ派遣した朝貢使にあった。恵日らは隋で新羅の留学生らと親しく交流する機会があったと思われる。高句麗・百済と対立する新羅は、対唐関係の強化を軸に高句麗・百済を牽制する戦略を取っており、倭国が唐に接近することは歓迎すべきことだった。

 この第一回の遣唐使が帰国後に果たした役割は大きかった。遣隋使として渡航し、滞在していた僧旻そうみん南淵請安みなみぶちしょうあん高向玄理たかむこのくろまろらと共に645年の「乙巳いっしの変」の数年前に帰国し、いわゆる「大化改新」のリーダーの一人一人となった。彼らはいずれも漢人あやひとと呼ばれた渡来系の人たちであり、南淵請安みなみぶちしょうあん中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりの師となり、僧旻そうみん高向玄理たかむこのくろまろは新政府の国博士として政策の推進にあたった。


[遣唐使]

 遣唐使は630年から838年までに15回、唐史の来日は9回にのぼった。630年の最初の遣唐使には、614年の遣隋使であった犬上御田鋤いぬがみのみたすきと遣隋留学生恵日えにちが再度選抜されているが、唐の皇帝の「相見問訊」、引見し質問されることに堪えられ、他の国々の遣唐使たちにも劣らない人材として登用されたと思われる。653年の遣唐使のときの学問僧道観どうかんと同一人物とされる粟田真人あわたのまひとは、689年には筑紫大宰おおみことのつかさの任にあり、外交使節の饗宴や外交的判断を行い、その後、701年成立の大宝律令の選定にも貢献している。717年には、吉備真備きびのまきび阿部仲麻呂あべのなかまろらが入唐し、734年に大量の漢籍とともに帰国している。吉備真備はその後、右大臣まで昇進している。遣隋使や遣唐使に選ばれるには、漢籍や漢文に通じ、容姿も評価されたようである。このように遣隋使や遣唐使の一員として唐に渡り、数年から30数年も滞在した学問僧や留学生たちのなかから、国の方針や制度の確立、行政の執行で活躍した幾多の有為な人材が出現した。

630年の第1回から669年の第6回までの遣唐使を前期の遣唐使とされるのは、668年に唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼしたように唐と朝鮮三国は激動の時代にあり、倭国の遣唐使は留学僧が多く仏教文化などの導入という目的を持ちながらも、他方で極めて政治的な性格を帯びていたからである。一方、702年の第7回から838年の第15回までを後期の遣唐使とされるのは、前期と異なり、東アジア情勢は比較的安定しており、文化的性格が濃厚であったからである。

しかし、約200年にも及ぶ遣唐使も838年が最後となった。正式な遣唐使派遣停止は894年に菅原道真すがわらみちざねが朝廷に奏上し決定された。その理由は、唐が近年兵乱(855年~884年に及ぶ黄巣の乱)や賊寇が横行し、衰えてきていると認識されたことによる。もう唐から学ぶべきものはないとの判断もあったと思われる。実際に300年近く続いた唐は、その13年後の907年に滅亡した。その後、中国は五代十国の混乱期に突入した。

遣唐使の当初は二隻、奈良時代になると四隻の編成が基本で、員数は当初の240~250人、そして500人以上となり、最後の遣唐使となった834年の任命は651人となっている。初期の航路は壱岐・対馬を経て、朝鮮半島の西海岸を北上し、渤海湾口から山東半島に至る北路であった。663年の白村江の敗戦以降は、九州南端から種子島・屋久島・沖縄島・石垣島などを経由して、東シナ海を横断して揚子江口を目指す南島路が主となった。さらに、奈良時代後半以降になると、肥前の五島列島の値嘉ちか島付近から順風を利用して一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう南路がとられた。

井真成いのまなり墓誌>

2004年10月、中国の西安で墓が発見され、そこから墓誌も出土した。井真成は遣唐使の留学生として717年に入唐し、734年に36歳で亡くなり、玄宗げんそう皇帝がその死を悼んで「尚衣奉御しょういほうご」の職を贈ったことが記されていた。そしてこの墓誌には「国号日本」とも記されていた。


 舒明は百済川のほとりに百済大寺くだらだいじを建立し、仏教による国家の興隆を計ろうとした。後に、百済大寺は高市大寺となり、天武6年(677年)には大官大寺となって、官寺として藤原京四大寺の首位を占めることになった。舒明の時代はそう長く続かなかった。舒明は死後、倭国の王族の中で初めて八角形の墳墓に葬られた。

 641年10月に舒明が49歳で崩ずると、またも後継者が定まらず、舒明と皇位を争った山背大兄王やましろのおおえおうと、舒明の子、古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ中大兄皇子なかのおおえのおうじ大海人皇子おおあまのおうじの三王子が並んでいたが、人望は山背大兄王にあったようだ。しかし、蘇我蝦夷えみしはまたも山背大兄王を排斥し、舒明の皇后のたから皇女を翌年の642年1月に皇極(在位642年~645年)として即位させた。もがりが終わる前の即位は異例であった。その翌年の643年10月に蘇我蝦夷えみしは57歳で大臣を辞し、子の入鹿いるかに大臣を継がせて引退した。蘇我入鹿いるかは、蘇我馬子うまこの娘の法堤郎媛ほてのいらつめとの間に生まれた古人大兄皇子を皇位につけようとして、643年11月には斑鳩宮いかるがのみやにいる山背大兄王を襲った。山背大兄王は一時生駒山に逃げるが、最後は斑鳩寺にて一族とともに自害した。そのおり自害したのは、15名とも23名とも緒伝はまちまちである。この報を聞いた入鹿の父蝦夷は「ああ、入鹿、はなはだ愚かにして、専行暴悪す。が(お前の)身命あやうからずや」ともらしたと伝わっている。これにより、厩戸王(聖徳太子)の家系は絶えてしまった。この山背大兄王をめぐる問題のなかで蘇我氏内部でも分裂が起きたようだ。この山背大兄王一族を死に追いやった行為により、蘇我氏専制に反対する勢力の怒りと危機感は頂点に達したようだ。皇極こうぎょくたから皇女)の子である中大兄皇子もその中の一人であった。舒明の第1皇子は古人大兄皇子であり、第2皇子は中大兄皇子、第3皇子は大海人皇子である。蘇我馬子の孫にあたる第1皇子の古人大兄皇子を推す蘇我入鹿に対する恐れは特に強かったと思われる。そして、645年6月に、中大兄皇子側が先手を取って、蘇我氏打倒のクーデターを決行した。それが「乙巳いっしの変」である。


 さて、ここで推古の即位前後から舒明崩御までの流れを整理してみると、激動する東アジアの情勢のなかで、蘇我馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるか3代が倭国のかじ取り役であったと同時に蘇我氏専制の時代でもあったことがよくわかる。


587年: 

倭国では、皇位継承と排仏・崇仏で対立した蘇我馬子と物部守屋が争い、蘇我馬子は物部守屋と穴穂部皇子を敗死させた(丁未ていびの役)。しかし、馬子が即位させた崇峻が馬子に反抗したため、馬子は東漢直駒やまとのあやのあたいこまに命じて592年11月に崇峻を殺した。 

589年:

北朝の隋が南朝の陳を討伐し、約350年ぶりに中国に統一王朝が成立した。

592年:

倭国では、蘇我馬子が12月に推古を豊浦とゆら宮で即位させ、飛鳥時代を迎えた。 

600年:

遣隋使の派遣。倭国が隋に遣使するのは600年であるが、冊封は受けなかった。478年の雄略による南朝宋(420年~479年)への遣使以来約120年ぶりとなる中国との国交樹立であった。

611年:

隋による高句麗遠征は611年~614年までの三度におよんだ。また、隋の煬帝ようだいは南の物資を北に運ぶための大運河である通済渠つうさいきょ開鑿かいさく工事を行った。

618年:

隋が滅亡し、唐が成立した。唐は律令制を完成させ、以後300年の長きにわたり東アジアの中心となった。

622年:

倭国では、622年に厩戸王死去、626年に蘇我馬子死去、

628年:

推古崩御、推古は薄葬を遺言し、方墳に埋葬された。前方後円墳の築造は全国的に終焉し、大王墓は方墳化した。 

629年:

蘇我蝦夷えみしの支持で舒明即位。

630年:

最初の遣唐使の派遣。 

641年:

舒明が10月に崩御。百済ではクーデターにより義慈ぎじ王が即位。

642年:

1月に舒明の皇后のたから皇女が皇極こうぎょくとして即位。蘇我蝦夷・入鹿父子の専制政治が始まった。高句麗では泉蓋蘇文せんがいそぶんがクーデターで全権を握った。

643年:

皇極2年、厩戸王(聖徳太子)の長男の山背大兄やましろのおおえ王は蘇我入鹿に攻撃されて一族とともに自害した。


 当時、東アジアの情勢は緊迫していた。この頃の朝鮮半島三国の状況は複雑であった。百済では641年に義慈ぎじ王がクーデターを起こして権力の確立を図り、その後、大軍をもって新羅の40余城を攻め落として旧加耶の地域を占拠した。

 新羅は百済の攻撃を受けて王族の金春秋きんしゅんじゅうが高句麗に援軍を求めたが逆に拘留され、その拘留からは逃れられたが、その後、643年には唐に百済・高句麗による侵略を訴えて出兵を要請したが、唐からは善徳ぜんとく女王を廃して唐の王族を王にするようにと提案される始末であった。645年、上級貴族の眦曇ひどんが女王に退位を迫って挙兵したが、親唐ではあるが、自立を目指す金春秋きんしゅんじゅう金庾信きんゆしんは、眦曇ひどんらの勢力を鎮圧して、新女王(真徳女王)を立てて行政と軍事を分掌し、金春秋きんしゅんじゅう自らが唐におもむき、たくみな親唐外交を展開した。 

 唐による高句麗討伐はその後も続いた。高句麗では唐の圧力と朝鮮三国の抗争の中で生き残るために、権力集中を目指し642年に泉蓋蘇文せんがいそぶんがクーデターで栄留えいりゅう王を殺害し、王の弟の子である宝蔵ほうぞう王を擁立して全権を握った。その後、実権を握った泉蓋蘇文が百済と組んで新羅を圧迫し始めたため、645年に唐の李世民りせいみん、後の太宗は10万の軍勢で高句麗の領域であった遼東半島に進軍した。このとき、新羅は南方から高句麗を攻撃したが、この間隙をぬって、百済の義慈王が新羅に侵攻し、旧加耶地域を奪取した。また、旧都漢城(今のソウル)も奪回しようとしたが、新羅の善徳ぜんとく女王が唐に救援を要請したため中止した。泉蓋蘇文は唐の高句麗征伐を645年・648年・655年と三度も撃退した。結局、唐の高句麗攻略は失敗したが、高句麗は今後の唐への対応策に追われることになった。百済は唐と交戦したわけではないが、唐側に立って高句麗を攻撃した新羅を攻めたので、唐と百済は対決することとなった。

 朝鮮三国は唐の圧力を身近に感じ、それぞれに内政の改革に全力を傾けていた。倭国だけが例外であったとは考えられない。


 新羅では善徳ぜんとく女王(在位:632年~647年)、真徳しんとく女王(在位:647年~654年)の治世が続いた。男王を立てることができなかったのは王権が弱体化していたと考えられる。この時期の新羅を支えたのは金春秋きんしゅんじゅう、後の武烈王であった。金春秋は何度も唐へ出向き、唐へ忠誠を誓う親唐路線を推し進めた。648年に唐から帰国した金春秋は官服と年号を唐と同じものとし、新羅の対外関係の方向性を明らかにした。


 ほぼ同時期に倭国でも女帝の時代が続いた。推古(在位592年~628年)、皇極(在位642年~645年)、斉明(在位655年~661年)という二人で三代の女帝が登場している。この6世紀末から7世紀前半において、倭国と新羅になぜ女王が誕生したのか、とても興味深い現象である。そこには一つの共通点があるといわれる。それは激動する朝鮮半島情勢のなか、両国ともに国の生き残りをかけた方針を定める必要があった。その中から倭国では蘇我馬子が、新羅では金春秋が台頭し、国政の陣頭指揮をとった。国の非常時に血縁を最重要視する大王では能力的に無理があった。したがって、適切な男子が登場するまで、王妃を一時的に名目上の大王とし、実権は豪族や貴族たちの勢力争いに勝ち残った文武両道で外交能力にもすぐれた男子の有力者が持つことになった。それが蘇我馬子であり、金春秋であった。


 舒明崩御の翌年の642年は、660年の唐・新羅連合軍による百済滅亡、663年の白村江の戦いにおける百済遺民・倭国連合軍の大敗北、668年の高句麗滅亡、676年の新羅による朝鮮半島統一と続く東アジア大変動の起点となる年となった。そして、倭国では645年に日本古代史上最大のクーデターとなった「乙巳いっしの変」が起こった。

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