第43話 飛鳥時代と蘇我馬子
北朝の隋に遣使したのは581年の10月に百済、同年12月に高句麗、新羅は隋が中国を統一した後の594年であった。新羅は594年以来、隋には頻繁に朝貢して隋に臣従していた。倭国は朝鮮半島諸国に遅れて、600年に遣使している。北朝の隋が成立した581年段階の朝鮮半島は北の高句麗、南の百済と新羅という割り振りがほぼ確定していた。ところが、598年に高句麗はその北の
唐を建国した
朝鮮三国の中国王朝への対応は隋の次の唐においても同様であった。唐成立後、高句麗は619年に、新羅と百済は621年に朝貢しているが、倭国は630年と遅れている。新羅は唐に依存して三国抗争を有利に進めようとした。百済は、表面上は唐に服属するが高句麗と結託して新羅を侵略しようとした。高句麗は唐との関係を良好にしようとしたが、緊張関係が続くことになった。朝鮮三国の唐に対する対応はそれぞれ違っていた。
中国で隋が誕生したころ、倭国では、
倭国が隋に遣使するのは600年である。478年の雄略による宋(420年~479年)への遣使、それに続く502年の梁への遣使以来約100年ぶりとなる中国との国交樹立であった。倭国は、朝貢はするが唐の冊封体制には入らず、外交関係に入るという立場をとった。この少し前の591年に倭国は
記紀によれば、
第33代
第34代
第35代
第36代
第37代
・「隋書」は636年成立で、唐の魏徴によって編纂された。その東夷伝には高句麗・百済・新羅・
蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)の政治改革の意図は、従来の氏姓社会にみられる分権的な諸豪族の私有地(田荘)と私有民(部民)の支配体制を排して、中国のような中央集権国家体制への転換により、天皇権を確立し、大臣・大連の支配体制を崩し、法治的な官僚支配体制をしくことにあった。608年の遣隋使の国書に「
飛鳥文化を特徴づけるのは仏教文化の開花であった。その中心には蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)がいた。厩戸王(聖徳太子)は推古元年(593年)には
推古2年(594年)2月、「三宝興隆」の
崇峻期から推古期にかけて多くの僧が渡来してきた。百済僧が最も多く、ついで高句麗僧となるが、新羅僧も新羅の使節に加わって渡来したと思われる。崇峻元年(588年)の百済僧らは寺工・
6世紀末、蘇我馬子により飛鳥の地に日本最初の本格的寺院飛鳥寺が造営される。蘇我氏の氏寺である。本格的な伽藍を持つ日本最古の寺院である飛鳥寺の建立は、588年に百済から派遣された寺工・瓦工・画工らの指導により造営は始まり、僧侶・仏舎利の提供を受け、606年に丈六仏を金堂に安置して完成した。日本書紀には高句麗の
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蘇我馬子は推古の時代の蘇我氏の氏寺として飛鳥寺を造営し、596年に竣工させた。それまで小規模な集落が散在していた飛鳥に、これまでにない高さ50メートルを超える建築物がそびえ立ち、屋根には黒光りする瓦、朱色の柱に緑の連子窓、金色に輝く飾り金具。その光景に当時の人びとは目を見張ったであろう日本で最初の本格的な寺院である。飛鳥寺の塔の
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厩戸王(聖徳太子)は
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推古期には飛鳥寺や法隆寺の他にも、
梅原猛は、“蘇我氏というのは日本を「仏教国家」にした大変な氏族である。蘇我氏と物部氏の戦いは日本の運命を決する重要な争いだった。それは日本史上に類を見ない宗教戦争で、外来の仏教を採用しようとする蘇我氏が、在来の神道にこだわる物部氏に対し勝利をおさめ、そして日本が仏教国家化した。反対に物部氏が勝っていたら、日本人の精神文化は、今とまったく違ったものになっていたはずである。蘇我氏が物部氏との激しい戦争の末に、仏教の受容を決定づけた時期、それはちょうど東アジア全体で大乗仏教の全盛時代だった。中国やその他の国々は仏教国家にはならなかった。これらの国々では儒教が中心となっている。しかし日本だけが仏教国家になった。それは蘇我氏の力によるものだったという以外のなにものでもない”、と述べている。
蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)による政治改革や仏教文化の受容は大いに進展したが、622年に王権の一翼を担っていた厩戸王(聖徳太子)が没した。推古の後継とも目されていた厩戸王の死は、今後の皇位継承者候補が次世代に移ったことを意味した。さらに626年の蘇我馬子死去、628年に推古75歳で崩御、629年の舒明即位などが続き、政治的に不安定な時期に入った。628年に没した推古は薄葬を遺言し、方墳(植山古墳:長男である竹田皇子の陵)に埋葬された。推古天皇の崩御年628年は、それに先立つ天皇の在位を推定する基準となっている。この時代に前方後円墳の築造は全国的に終焉し、大王墓は方墳化した。倭国連合の身分制度の象徴であった前方後円墳の消滅は古墳時代への決別を告げる政治改革でもあった。
隋との国交や有名な冠位十二階の制定、憲法十七条の制定など画期的な外交・制度・政策も馬子の業績であったが、後に蘇我氏は
直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)は「聖徳太子はなぜ偉人にされたのか」のなかで、次のように述べている。
“7世紀中葉の大化以後に創出される中央集権の律令制国家の形成は、天皇家(正しくは大王家)の人びとを中心として推進された。その前提になるのは推古朝の新政であり、画期となるのは大化改新である。大化改新は蘇我本宗家を
また、“
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