第43話 飛鳥時代と蘇我馬子

 飛鳥あすか時代は、隋(589年~618年)と、それに続く唐(618年~907年)の誕生を受け、東アジアが新たな激動の時代を迎えた時期でもあった。中国において楊堅ようけん(在位:581年~604年)が581年に北周を奪って北朝の隋を創始し、589年に南朝の陳を討伐し、約350年ぶりに中国の統一を成し遂げた。隋という中心軸が確定することで周辺の民族あるいは位置も確定し、東アジア世界という大きなまとまりを形作った。

 北朝の隋に遣使したのは581年の10月に百済、同年12月に高句麗、新羅は隋が中国を統一した後の594年であった。新羅は594年以来、隋には頻繁に朝貢して隋に臣従していた。倭国は朝鮮半島諸国に遅れて、600年に遣使している。北朝の隋が成立した581年段階の朝鮮半島は北の高句麗、南の百済と新羅という割り振りがほぼ確定していた。ところが、598年に高句麗はその北の靺鞨まつかつの部衆を率いて、遼河の西(遼西)に侵攻した。そこは古来中国王朝の領域だったので、怒った隋の文帝(楊堅)は息子の漢王楊諒ようりょうを総大将に水陸30万の軍勢で高句麗を攻めたが失敗した。百済は主に南朝に朝貢していたが、統一王朝の隋の誕生により隋との関係を深め、611年の隋の高句麗征伐の際には隋の軍に参加して高句麗と戦った。楊堅の次の煬帝ようだい(在位:604年~618年)は都を洛陽に移し、幽州(州都は現在の北京)から杭州まで南北をつなぐ大運河を6年間で開鑿かいさくした。それは黄河こうが淮水わいすい長江ちょうこう(揚子江)をつなぐ大工事であった。煬帝は北の突厥とっけつ、西の吐谷渾とよくこんを遠征して服属させた。次に東の高句麗出兵の準備をすすめ、612年正月、200万と号する大軍が610年に開通した大運河の北端の涿たく郡を出発、4月に遼東城を包囲したが、その後、高句麗軍に破れ、7月に撤兵した。その後も二度にわたり高句麗へ出兵した。三度目のときに和議が成立したが、高句麗は約束を守らなかったので、617年に四度目の出兵の計画を立てたが、翌年煬帝は江南の地で反乱軍によって殺された。まだ50歳であった。隋はわずか38年であったが、次の唐朝300年の礎を築いた。 

 唐を建国した李淵りえんは山西省太源たいげんで北の守りを固めていた留守りゅうしゅであった。李淵の母は煬帝の母の姉であり、煬帝とは従兄弟である。617年に長安を陥落させた李淵は、翌年の618年に煬帝の死を知り、皇帝位につき唐を創建した。621年、李淵(在位:618年~626年)の次男李世民りせいみんは他の反乱軍を降し、624年までにはほぼ全土を制覇した。626年、李世民(後の太宗:在位:626年~649年)は兄と弟を宮城内で倒し、父の実権を奪って29歳で帝位についた。帝位を急いだのは北の突厥の脅威であったが、630年に東突厥を破り、640年には西突厥と西方の高昌こうしょう国も支配した。そして理想の君主政治と呼ばれる貞観じょうがんの治が始まった。都は長安、副都は洛陽である。唐は律令制を完成させ、300年の長きにわたり東アジアの中心となった。

 朝鮮三国の中国王朝への対応は隋の次の唐においても同様であった。唐成立後、高句麗は619年に、新羅と百済は621年に朝貢しているが、倭国は630年と遅れている。新羅は唐に依存して三国抗争を有利に進めようとした。百済は、表面上は唐に服属するが高句麗と結託して新羅を侵略しようとした。高句麗は唐との関係を良好にしようとしたが、緊張関係が続くことになった。朝鮮三国の唐に対する対応はそれぞれ違っていた。


 中国で隋が誕生したころ、倭国では、蘇我馬子そがうまこが即位させた崇峻すしゅんが馬子に反抗したため、馬子は東漢直駒やまとのあやのあたいこまに命じて592年11月に崇峻を殺した。崇峻の暗殺、それは当時の朝廷における重大事件であったにもかかわらず、そのことによる動揺があまり表面化していない。そこには新たな国制を創りあげ、内外の事態に対処しなければならないという現実があった。そこで、馬子は592年12月に姪にあたる推古すいこ(在位:592年~628年)を飛鳥あすか豊浦とゆら宮で即位させ、父系・母系ともに蘇我氏に帰するという当時の大王家一族中最も蘇我氏の血の濃厚な厩戸うまやど王(聖徳太子)を摂政として、飛鳥時代を迎えた。推古の豊浦とゆら宮や小墾田おはりだ宮は飛鳥のすぐ北西にあたり、厳密には飛鳥ではないともいわれるが、それから約100年間、飛鳥とその周辺の地に都が置かれた。蘇我馬子が厩戸王(聖徳太子)ではなく推古を擁立したのは、その当時、大王は実力者でなくてもよいという考えが定着していたからで、蘇我氏は名目上の大王を立てればいいと考えていたようだ。


 飛鳥あすかとその周辺の地は、奈良盆地東南部の飛鳥川の流域を主とし、推古時代の豊浦とゆら宮や小墾田おはりだ宮、舒明の飛鳥岡本宮、皇極の飛鳥板蓋いたぶき宮、さらに蘇我蝦夷えみし入鹿いるか父子の邸宅があった甘樫あまかしの丘がある地域である。その後、斉明さいめい天智てんじ天武てんむ持統じとうも飛鳥に都を置いた。飛鳥において最初の建造物は蘇我馬子が造営し596年に竣工した飛鳥寺である。そこは蘇我稲目の代からの蘇我氏の根拠地であり、推古が蘇我氏の影響力のもとに皇位についたことを示している。飛鳥の北側は、後に藤原京が造営される耳成山みみなしやま天香具山あめのかぐやま畝傍山うねびやまの大和三山に囲まれた地域である。これ以降、元明げんめいが平城京へ遷都する710年までの約120年間を飛鳥時代・飛鳥文化と呼んでいる。この間に倭国は激動する東アジア諸国との交流の中で律令制中央集権国家を作り、新しい文化を展開させていった。持統時代の藤原京(694年に遷都)は日本最初の本格的な中国式都城である。飛鳥・藤原京の時代は文明的ではない古墳時代に決別し、社会・文化を飛躍させた質的転換の時代であった。

 倭国が隋に遣使するのは600年である。478年の雄略による宋(420年~479年)への遣使、それに続く502年の梁への遣使以来約100年ぶりとなる中国との国交樹立であった。倭国は、朝貢はするが唐の冊封体制には入らず、外交関係に入るという立場をとった。この少し前の591年に倭国は任那みまな復興を目指して、従来の九州の豪族主体ではなく、大将軍はきの氏として巨勢こせ大伴おおとも葛城かつらぎによる中央豪族混成のヤマト王権の2万人におよぶ軍隊を筑紫へ派兵・駐留させて、新羅に圧力をかけている。そして、日本書紀によれば、600年に新羅を攻撃し、602年から603年にかけて再度新羅攻撃を計画し、623年にも新羅を攻めようとしたとある。当時の外交政策は親百済・反新羅が主流であった。その外交政策を主導したのは蘇我馬子であった。蘇我氏が親百済の立場にあったことは、百済の聖明王が欽明13年(552年)に仏教を倭国に伝えたとき、崇仏を主張したのが蘇我氏であったこと、また親百済で安羅加耶あらかやからの渡来人集団の東漢やまとのあや氏を重く用いたことからも推測できる。そうした状況において、新羅は610年と611年に倭国に来貢している。隋書・倭国伝には、「新羅・百済、皆倭を以って大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に通使・往来す」とあり、倭国は隋からは大国とみなされた。


記紀によれば、

 第33代 推古すいこ女帝:トヨミケ・カシキヤヒメ、豊浦とゆら宮(奈良・明日香村、飛鳥川左岸)、小墾田おはりだ宮(奈良・明日香村、飛鳥川右岸)、磯長山田陵(大阪・南河内郡太子町)。父は欽明、母は蘇我稲目いなめの娘で堅塩きたし姫。別名、額田部ぬかたべ皇女。用明とは兄妹にあたる。18歳で後の敏達の后となる。39歳のとき飛鳥の豊浦とゆら宮で即位。倭国最初の女帝となる。皇太子は甥の厩戸うまやど王(聖徳太子または上宮王じょうぐうおう)、大臣は蘇我馬子。推古時代に遣隋使の派遣(600年)、新羅へ出兵(600年)、冠位十二階制制定(603年)、十七条憲法制定(604年)、飛鳥寺の建立(596年竣工・606年丈六仏安置)、遣隋使派遣(607年と608年)、天皇記・国記の編纂(620年)など古代国家成立史上重要な諸施策が断行された。これらは主に蘇我馬子の業績である。斑鳩いかるが寺(後の法隆寺)の建立(607年)は厩戸王(聖徳太子)の業績といわれる。厩戸王(聖徳太子)の父は用明、母は欽明と蘇我稲目いなめの娘の小姉おあね君の娘の穴穂部間人はしひと皇女。推古は薄葬を遺言し、方墳(植山古墳:長男である竹田皇子の陵)に埋葬された。前方後円墳の築造は全国的に終焉し、大王墓は方墳化した。622年に厩戸王(聖徳太子)死去、626年に蘇我馬子死去、628年に推古75歳で崩御、629年の舒明即位と続いた。

 第34代 舒明じょめい:オキナガ・タラシヒヒロヌカ、630年に飛鳥岡本宮に遷都、636年に焼失後は百済川のほとりの百済宮、押坂内陵(奈良・桜井市)。皇后はたから皇女、後に皇極こうぎょく斉明さいめいとして即位。父は敏達びだつの子の押坂彦人大兄おしさかのひこひとおおえ皇子、母は糠手ぬかて媛。田村皇子と呼ばれ、蘇我蝦夷えみしの支持で即位した。舒明の第1皇子は古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ、その母は蘇我馬子の娘、法堤郎媛ほてのいらつめ。第2皇子は中大兄皇子なかのおおえのおうじ(後の天智)、第3皇子は大海人皇子おおあまのおうじ(後の天武)、その母はたから皇女。また、皇女の間人はしひと皇女は孝徳こうとくの妃となる。舒明には息長系、応神・仁徳系、葛城系の允恭、継体系、さらには任那系の欽明の血もすべて流れ込んでいることから、こと血筋に関してはこれほど由緒正しい血統の大王は舒明以前には誰一人として見当たらない。

 第35代 皇極こうぎょく女帝:アメトヨタカラ・イカシヒタラシヒメ、たから皇女、敏達の曾孫で、用明の孫に嫁いだが、37歳のときに舒明の妃となった。飛鳥板蓋いたぶき宮、越智崗上陵(奈良・高市郡)。父は舒明の異母弟の茅渟ちぬ王、母は吉備きび媛。舒明の死後、皇位争いのなか49歳で即位。実権は蘇我蝦夷えみし入鹿いるか父子が握っていた。645年の乙巳いっしの変(皇極4年の政変)の後に退位。中大兄皇子(後の天智)と大海人皇子(後の天武)の母にあたる。 

 第36代 孝徳こうとく:アメヨロズ・トヨヒ、都を飛鳥から難波なにわ長柄豊崎ながらとよさき宮に移した。皇后は舒明の娘、間人はしひと皇女。皇極の実弟(同母弟)で、かる皇子(カラの王子の意)と呼ばれた。645年の乙巳いっしの変の後に中大兄皇子と中臣鎌足なかとみのかまたりの推挙により即位。大化の改新を推し進めた。大化の改新のみことのりにて、公地公民制・国郡制度・班田収授はんでんしゅうじゅの法・租庸調そようちょうの税制などが定められた。「仏法を尊び神道に軽し」だったと伝えられる。654年に崩御、その後は皇極の重祚ちょうそで、斉明となった。

 第37代 斉明さいめい女帝:アメトヨタカラ・イカシヒタラシヒメ、皇極の重祚ちょうそ。655年に飛鳥板蓋いたぶき宮にて62歳で再び即位、656年には飛鳥岡本宮を造営して移った。しかし、実権は中大兄皇子が握っていたといわれる。660年に百済が唐・新羅連合軍により滅亡したが、その復興の救援のため、中大兄皇子らと筑紫へ向かったが、661年に筑紫の朝倉宮にて68歳で崩御。


 推古すいこ女帝(在位:592年~628年)はトヨミケ・カシキヤヒメ(豊御食炊屋媛)と呼ばれ、皇太子は甥の厩戸王(聖徳太子)であり、大臣は叔父にあたる蘇我馬子である。推古の子である竹田皇子は推古の在任中に亡くなったと考えられており、厩戸王(聖徳太子)は次の大王候補の筆頭であった。厩戸王(聖徳太子)は皇太子あるいは摂政の地位にあったとされるが、当時まだそれらの明確な規定はなかった。また馬子の娘である刀自古郎女とじこのいらつめを妃にしている。その間には山背大兄皇子やましろのおおえのおうじたから皇子・日置ひき皇子という皇子たちが生まれている。彼らは、この時点で蘇我氏系の有力な王族として、皇位継承者としての将来を嘱望される存在であった。推古女帝・蘇我馬子・厩戸王の三者の強力な結びつきによって、古代国家の枠組みが徐々に形成されていった。推古は603年に小墾田おはりだ宮へ遷り、628年に崩御するまでの25年間ここに宮殿を営んだ。6世紀末から始まる推古期は、隋との国交や冠位十二階の制定、憲法十七条の制定など画期的な外交・制度・政策が行われ、古代国家の成立とみられるが、王権の支配組織は前時代からの血縁・氏族的な性格が強く、各地の住民の編成も豪族に依存して間接的にすぎず、王権としてはまだ十分でない状態であった。大王の地位も王位継承の基準や選任が複雑で、大王とともに有力者の大臣おおおみ大夫たいふ大臣おおおみ大連おおむらじに準ずる有力者)が国政を合議し、次の大王を推戴することも簡単には決められなかった。


 ・「隋書」は636年成立で、唐の魏徴によって編纂された。その東夷伝には高句麗・百済・新羅・靺鞨まつかつたい国がある。東夷伝のたい国伝(「たい」は倭のことである)に、「開皇二十年(600年)、倭王あり。姓は阿毎あめ、字は多利思比孤たりしひこ阿輩雞弥おほきみ(大王)と号す」。推古の時代の男王となると誰か? これが607年の小野妹子おののいもこを大使とした遣隋使のときの倭国王とすれば、推古女帝ではなく、蘇我馬子あるいは厩戸王(聖徳太子)が大王だったことになる。隋は翌年に返礼使として裴世清はいせいせいを大和に送ってきて男王に接見している。


 蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)の政治改革の意図は、従来の氏姓社会にみられる分権的な諸豪族の私有地(田荘)と私有民(部民)の支配体制を排して、中国のような中央集権国家体制への転換により、天皇権を確立し、大臣・大連の支配体制を崩し、法治的な官僚支配体制をしくことにあった。608年の遣隋使の国書に「大王おおきみ」ではなく「天皇すめらみこと」という称号を初めて公式に採用した。中国の三皇(天皇・人皇・地皇)の一つである伝説上の帝王としての天皇にちなんだもので、漢代において天皇は天帝とされ、それは北極星をさすという思考があり、政治上の帝王という資格と宗教的な神裔思想とが結びついた日本の「大王」の存在を、中国の皇帝の上位に立つ存在とみなして天皇と称したとあるが、天皇号が成立し、しっかりとした形になったのは7世紀後葉の天武てんむの時代になってからである。三宝(仏・法・僧)を敬うことを説く厩戸王(聖徳太子)は、宮廷人に国家仏教の理念を会得させようと努め、また暦の実施などの文化面での改革も進めた。 


 飛鳥文化を特徴づけるのは仏教文化の開花であった。その中心には蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)がいた。厩戸王(聖徳太子)は推古元年(593年)には難波津なにわつにつながる上町台地に四天王寺を創建している。瀬戸内ルートによる内外の門戸を意識しての造営であった。飛鳥文化は日本における始めての仏教文化であったが、その直接の故郷は百済であった。百済の武寧ぶねい王(在位:501年~523年)は九州の唐津で生まれ、嶋君しまのきみと呼ばれた。武寧王の墓誌により523年に亡くなったことが明らかになっている。百済と倭国との関係は、4世紀末の応神おうじんの時代に百済の和邇わに(王仁)博士が渡来して学問の師となったように、極めて密接な関係があった。

 推古2年(594年)2月、「三宝興隆」のみことのりが出された。三宝とは、仏・法・僧のことである。これを受けて各氏々うじうじが競って仏舎を造った。仏法の興隆に大きな役割を果たした存在に、渡来の僧および渡来の集団があった。

 崇峻期から推古期にかけて多くの僧が渡来してきた。百済僧が最も多く、ついで高句麗僧となるが、新羅僧も新羅の使節に加わって渡来したと思われる。崇峻元年(588年)の百済僧らは寺工・鑢盤ろばん師(仏塔の相輪基底部分の鋳造技術者)・造瓦ぞうが師・画工を伴っていたし、推古10年(603年)渡来の観勒かんろくは暦法や遁甲とんこう(占星術の一種)・方術の書をもたらし、621年渡来の高句麗の曇微どんちょうは色彩や紙墨の製法を伝え、水力を利用した碾磑みずうす(臼)を造った。仏教にあわせて道教も伝来し、さらに造寺・造仏の技術はもとよりのこと、新しい文物や智識、伎楽ぎがくなどの芸能が伝えられた。渡来僧らの文化が飛鳥時代の文物を多彩にしていったが、それ以前の渡来集団も尼僧や、暦法・天文・伎楽などの担い手として活躍した。仏法興隆の推進者は蘇我馬子や厩戸王(聖徳太子)であった。厩戸王(聖徳太子)の業績としては、法華経ほっけきょう勝鬘経しょうまんぎょう維摩経ゆいまぎょうという三つの経典の注釈書をまとめた「三経義疏さんぎょうぎしょ」の作成などがあげられる。

 6世紀末、蘇我馬子により飛鳥の地に日本最初の本格的寺院飛鳥寺が造営される。蘇我氏の氏寺である。本格的な伽藍を持つ日本最古の寺院である飛鳥寺の建立は、588年に百済から派遣された寺工・瓦工・画工らの指導により造営は始まり、僧侶・仏舎利の提供を受け、606年に丈六仏を金堂に安置して完成した。日本書紀には高句麗の大興たいこう王は605年に丈六じょうろく仏像製作に黄金300両を進上し、翌年に飛鳥寺金堂に置かれたと記される。三国史記によれば、その当時、高句麗は嬰陽えいよう王(在位:590年~618年)の時代だった。この605年の高句麗王からの黄金300両の寄進は、孤立しつつある高句麗の倭国接近策の現れといえる。この前後に、高句麗は百済・新羅両国と戦い、隋からは圧力をかけられていた。伽藍配置は一塔三金堂の高句麗式であり、朝鮮半島諸国の仏教文化が入り混じって伝えられた。そこでは東漢やまとのあや氏などの渡来人が大きな役割を演じた。飛鳥寺の寺司には蘇我馬子の長子の善徳ぜんとくがなり、宗教活動も、厩戸王(聖徳太子)の師である高句麗僧慧慈えじや百済僧慧聡えそう、さらに観勒かんろくも飛鳥寺に居住し、彼ら渡来僧によって支えられた。一方、五重塔の舎利しゃりには、金銀の小粒・薄板など新文化を示す品々とともに挂甲・馬鈴・勾玉・管玉など横穴式石室の副葬品と同じものが納められており、寺院文化と古墳文化とが交錯する複雑な文化が展開している。飛鳥寺は新時代・文化の幕開けを告げる大記念物であった。国際的緊張が渦巻く中で、百済の威徳王(在位:554年~598年)の馬子に対する仏教文化の贈与と、それによって築かれる両者の関係は、蘇我氏と飛鳥寺を介し、親百済の方針が倭国支配層へも広がっていった。この飛鳥寺の造営を契機として、大陸伝来の新しい仏教文化が受容されるなど文化の大きな転換期を迎える。一方、350年ほど続いた古墳文化は変質・衰退した。


飛鳥寺あすかでら

 蘇我馬子は推古の時代の蘇我氏の氏寺として飛鳥寺を造営し、596年に竣工させた。それまで小規模な集落が散在していた飛鳥に、これまでにない高さ50メートルを超える建築物がそびえ立ち、屋根には黒光りする瓦、朱色の柱に緑の連子窓、金色に輝く飾り金具。その光景に当時の人びとは目を見張ったであろう日本で最初の本格的な寺院である。飛鳥寺の塔の心礎しんそ(礎石)から金銀の延べ板や小粒、勾玉まがたま管玉くだたま切子玉きりこだまなど種々の玉類、そして挂甲けいこう・金環・馬鈴・金銅打出金具・蛇行状鉄器・刀子とうすなどが出土した。後期古墳の副葬品と同様の埋納物があったことは、古墳から寺院への推移がなお不可分の関係にあり、巨大な古墳が政治的権威のシンボルであったのと似通って、飛鳥寺もまた政治的モニュメントとしての意味を多分に持っていたことを物語る。また、653年の遣唐使として派遣され、玄奘三蔵に師事した道昭どうしょうが、帰国後の661年に大海人皇子(後の天武)の要請で飛鳥寺に東南禅院を創建した。天武は国家事業として、一切経の書写を四大寺(大官大寺・川原寺・薬師寺・飛鳥寺)で実施した。建立には高句麗の影響が強いのに、日本書紀ではそれが抹殺されている。飛鳥寺は後に法興寺ほうこうじと呼ばれ、さらに平城遷都後は、平城京の元興寺がんごうじに対し、もと元興寺とも称されるようになった。


法隆寺ほうりゅうじ

 厩戸王(聖徳太子)は斑鳩いかるが宮を整備し、その近くに607年に斑鳩いかるが寺を建立した、後の法隆寺である。斑鳩いかるがの地は、難波なにわと大和を結ぶ要地であった。その斑鳩いかるがに厩戸王(聖徳太子)が居を遷し、宮を造った。金堂阿弥陀如来坐像台座から発見された墨書の人物は、高句麗使図と比較すると、まさに高句麗使そのものである。東西に長大な寺域の東院に聖徳太子一家の霊を祀る八角円堂(夢殿)がある。その西方には陵山みさぎやま古墳(藤ノ木古墳)があり、千年余り法隆寺が管理と供養を絶やさなかったことから、崇峻を祀っていたと考えられる。


四天王寺してんのうじ

 難波なにわの四天王寺は金堂・塔・中門・南大門が直線に並ぶ伽藍配置を持ち、金堂・塔周辺・中門から飛鳥時代前期の瓦が多量に出土して、推古期末年のころまでに建立されていたことがほぼ明らかとなった。四天王寺の古い寺名は荒陵寺と呼ばれた。四天王寺は厩戸うまやど王ゆかりの寺として、早くから認識されていた。それは聖徳太子追善のために新羅の真平しんぺい王から寄進されたと考えられる金塔・舎利が四天王寺に納められているからである。後に四天王寺は護国の寺としての色彩を一層強めるようになる。


 推古期には飛鳥寺や法隆寺の他にも、難波なにわの四天王寺、南淵みなぶち(明日香村)の坂田寺、葛野かどの(京都市)の蜂岡寺など、多くの寺々が各地に建立され、仏教はめざましく発展した。

 梅原猛は、“蘇我氏というのは日本を「仏教国家」にした大変な氏族である。蘇我氏と物部氏の戦いは日本の運命を決する重要な争いだった。それは日本史上に類を見ない宗教戦争で、外来の仏教を採用しようとする蘇我氏が、在来の神道にこだわる物部氏に対し勝利をおさめ、そして日本が仏教国家化した。反対に物部氏が勝っていたら、日本人の精神文化は、今とまったく違ったものになっていたはずである。蘇我氏が物部氏との激しい戦争の末に、仏教の受容を決定づけた時期、それはちょうど東アジア全体で大乗仏教の全盛時代だった。中国やその他の国々は仏教国家にはならなかった。これらの国々では儒教が中心となっている。しかし日本だけが仏教国家になった。それは蘇我氏の力によるものだったという以外のなにものでもない”、と述べている。


 蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)による政治改革や仏教文化の受容は大いに進展したが、622年に王権の一翼を担っていた厩戸王(聖徳太子)が没した。推古の後継とも目されていた厩戸王の死は、今後の皇位継承者候補が次世代に移ったことを意味した。さらに626年の蘇我馬子死去、628年に推古75歳で崩御、629年の舒明即位などが続き、政治的に不安定な時期に入った。628年に没した推古は薄葬を遺言し、方墳(植山古墳:長男である竹田皇子の陵)に埋葬された。推古天皇の崩御年628年は、それに先立つ天皇の在位を推定する基準となっている。この時代に前方後円墳の築造は全国的に終焉し、大王墓は方墳化した。倭国連合の身分制度の象徴であった前方後円墳の消滅は古墳時代への決別を告げる政治改革でもあった。 


 隋との国交や有名な冠位十二階の制定、憲法十七条の制定など画期的な外交・制度・政策も馬子の業績であったが、後に蘇我氏は乙巳いっしの変(645年)により逆臣となったため記録をすり替えられてしまった。

 直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)は「聖徳太子はなぜ偉人にされたのか」のなかで、次のように述べている。

“7世紀中葉の大化以後に創出される中央集権の律令制国家の形成は、天皇家(正しくは大王家)の人びとを中心として推進された。その前提になるのは推古朝の新政であり、画期となるのは大化改新である。大化改新は蘇我本宗家を中大兄皇子なかのおおえのおうじが亡ぼすことによって開始された。中大兄皇子は後の天智天皇となり律令国家の基礎を固める。その中大兄皇子に亡ぼされた蘇我本宗家は、天皇家による改革を妨げる悪者でなければならない。大化新政の前提となる推古新政が蘇我本宗家の馬子によって進められたのでは、蘇我本宗家を亡ぼした中大兄皇子が逆に悪者になりかねない。天皇家中心の政治改革とい大義名分を貫くためには、あくまでも蘇我氏は悪者であり、馬子の功績は小さく評価する必要がある。この必要から日本書紀編者によって、大きく取り上げられたのが厩戸うまやど王であろう。推古朝では馬子につぐ第二の人物で、政治や仏教興隆に関与したことも事実である。馬子に代わる推古新政の功労者とするには打ってつけの人物である。こうして日本書紀編者は、馬子の功績の多くを太子の功績にすりかえて、太子の地位を高めた。聖徳という名称も、その過程でつくられたものと思われる。推古朝以降の政治改革の中心は、つねに天皇一族でなければならないという古代天皇制国家の至上命令が、厩戸王(聖徳太子)を太子とし、推古朝の中心人物たらしめて、内治・外交・文化の大改革を推進する「偉人」としたのである。”

 また、“厩戸うまやど王が聖徳や太子と呼ばれるようになるのは、没後70~80年以上後のことと考えられる。さらに、仏教興隆には厩戸王(聖徳太子)の功績が少なくなかったことは事実だが、大化元年(645年)8月に出された孝徳(在位:645年~654年)のみことのりでは、仏教の興隆について蘇我稲目・馬子の功績のみをあげて、厩戸王(聖徳太子)にはひとことも触れていない”、とも述べている。

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