第42話 任那復興会議と仏教公伝

 欽明きんめいの時代(532年または540年~571年)は、538年あるいは552年の仏教公伝以外ほとんど国際関係(朝鮮半島関係)である。朝鮮半島では、百済くだら高句麗こうくり新羅しらぎの抗争が激化していた。政治の実権は大連おおむらじ物部尾輿もののべのおこしと、大臣おおおみに任命された新興の蘇我稲目そがいなめが握っていた。蘇我稲目の登場は朝鮮半島の情勢と無関係ではない。

 540年に倭王権が一本化され、欽明が正式に即位したとき、南部加耶地域における安羅あら獲得をめぐる百済と新羅の争奪戦は最終局面を迎えていたようである。こうした中で、加耶諸国の面々が百済に赴いて任那みまな(加耶)復興策について相談するための会議が、541年(欽明2年)と544年(欽明5年)の2回開催された。


任那みまな復興会議]

 1回目は541年4月に百済の聖明王(在位:523年~554年)が主催者となり百済で開催された。参加国は北部加耶の大加耶とその周辺の小国、南部加耶の安羅あら、そして任那みまな日本府と吉備臣きびのおみであり、議題は南部加耶の南加羅(金官加耶)・喙己呑とくことん卓淳とくじゅんなどにおける新羅の侵攻・支配にいかに対処するかであった。聖明王は、金官加耶などがその支配層の新羅への内応によって併合されたことに言及したうえで、百済と加耶諸国の提携を続けること、新羅の侵攻に対しては百済が援軍を派遣することを提案している。しかし、実際は百済の安羅への軍事進出に利用されたにすぎなかった。それもあって、541年7月には「安羅日本府」の河内直かわちのあたいが新羅と通計したとの情報が入った。「安羅日本府」は日本書紀では「在安羅緒倭臣」と呼ばれ、古くから倭とつながりが深かった安羅に居住していた倭人であり、加耶諸国と共通の利害を有していた。ちなみに、東漢やまとのあや氏は安羅出身とされる。日本書紀に記される任那日本府の実態は「安羅倭臣館」、つまり安羅にあった倭の使臣たちの館であったと思われる。

 2回目は544年11月に開催され、前回とほぼ同じ顔ぶれであった。聖明王は、531年以来新羅が占拠する久礼山の五城を攻略して卓淳とくじゅんを復興すること、百済が下韓(南韓=南部加耶)に設置した軍令・城主は任那を守るために必要であること、日本府の官人を追放することを提案したが、参加者からは賛成の返答は得られなかった。百済は倭国に遣使して協力を求めたが賛意は得られなかった。 

 このような状況下において、548年に高句麗はわい兵6000で百済の独山城を攻撃、550年には百済が忠清北道の道薩城、高句麗が金峴城を攻め、両国の対立は激化した。この間隙に乗じて、新羅はこの二城を攻略し、553年にはこの地に新州を置き、朝鮮半島西海岸への進出を果たした。百済と高句麗の間に新羅の領土が誕生したことにより、百済・高句麗・新羅の三国抗争の時代に突入することになった。こうした切迫した状況下に、百済は倭国に軍事援助を求めた。その見返りは552年の倭国への仏教公伝である。そして、554年5月、佐伯さえきむらじ指揮の下に、軍(兵)数1000、馬100匹、舟40隻が整えられ、倭国は援軍派遣に応じた。しかし、聖明王は新羅を襲撃しようとして、新羅の伏兵に待伏せされ、554年7月に戦死してしまった。この時の新羅軍の主力は元金官加耶の王族で、当時の新州郡主の金武力きんぶりょくであった。大勝利した新羅は百済の後ろ盾を失った加耶諸国の制圧に邁進し、561年までには安羅、562年には北部加耶の大加耶が滅亡し、これにより加耶諸国は全滅した。


[倭人と加耶人との混血児、任那みまな日本府の虚像]

 日本書紀の継体24年(530年)9月条には、倭人と任那人との間にできた子供の所属をめぐり、両者の争いが絶えないことが記されている。当時、子供は父方と母方の双方に属すると観念されていた。継体期の記事には、加耶にあって吉備の父と加耶の母を持つ吉備韓子きびのからこ那多利なたり斯布利しふりらが、倭王の派遣した将軍近江毛野臣おうみのけなのおみと対立し、毛野臣に殺害されたとも記している。吉備氏は古くから南部加耶と友好関係を持ち、5世紀の河内王権の時代には南部加耶と新羅の関係に引きずられて新羅に接近し、大王と対立したことがあった。当時の倭の五王もその地域間の結びつきに干渉することはできなかった。倭人と加耶人との混血児は倭と加耶を結びつける人材として期待されながらも、決して倭王権の支配下に置かれた人びとではなかった。

 任那日本府とは何か? それは8世紀の日本書紀の編者が、6世紀の南部加耶の安羅あら国で「もろもろの倭臣」と呼ばれた人びとをもとに作り上げた虚像である。倭臣の中には、父が加耶の首長、母が倭人で、河内で生まれた混血児、あるいは倭だけでなく、安羅・百済・新羅の王権とも結びつく倭人・加耶人たちがいた。田中俊明(滋賀県立大学教授)は、“倭の使臣と、安羅にいる倭人あるいは倭人系の人がそこに関わる形で、使臣団を構成するというように「任那日本府」を読み替えていい”、という。 

 日本書紀が日本府の関係者として描く人びとは、倭王権にだけ臣従した人びとではなかった。安羅国のもろもろの倭臣たちの国際性は加耶をめぐる諸国入り交じった攻防の反映である。5世紀後半の高句麗に対する百済・新羅の共同歩調は、加耶をめぐる思惑の違いから、6世紀にはまたも百済と新羅の対立となり、530年代初頭に百済と新羅は安羅国を挟み東西に対峙する事態となり、加耶諸国は滅亡寸前であった。倭国も加耶と緊密な関係を持つ「もろもろの倭臣」らを介し、この事態に関与しようと試みたのである。安羅国のもろもろの倭臣たちの多くが一国に属さず諸国を渡り歩いたとしても不思議ではない。


[倭系百済官人]

 日本書紀欽明2年(541年)7月条によると、安羅国と倭国へ使者を派遣している。その一行に「奈率なそち」という百済の上位官位を持つ紀臣きのおみ彌麻沙みまさがいた。父はきの氏、母は韓人で、朝鮮半島で生まれ、百済で任用され、奈率なそちの地位に至った人物である。倭国にとってもこうした人材は有用であった。他に、百済に仕えた日羅にちらという大伴金村と関係が深い人物もいた。日羅は、「火葦北ほのあしきたの国造くにのみやつこ刑部靫部おさかべのゆげい阿利斯登ありしとの子」とする日本書紀敏達紀の記載から、大伴金村が有明海沿岸地域の豪族たちを中央で束ねていたことは明らかである。日羅は、肥国ひのくにの有力首長である阿利斯登ありしとが百済に滞在していた折に出生し、百済で成人して枢要の地位に登った人物である。敏達12年(583年)、日羅は倭国に召喚され、同行した百済の使人らとともに難波津なにわつに入った。しかし、日羅は父の代から大伴金村に近い関係にあったため、これを警戒した百済の使人らに難波なにわで暗殺されてしまった。


 森公章(東洋大学教授)は、“任那復興は欽明きんめい以降も倭国の代々の課題となり、敏達びだつ用明ようめいへと受け継がれていき、百済・新羅との外交交渉が行われたが、百済と新羅の対立が続くなか、倭国は大規模な出兵をすることもなく、その情勢を見極めることとなった。その間に、主に百済から仏教や五経博士などの文物や人の獲得を行っている”、 と述べて、倭国は仏教などの先進文化や文字文化、それに伴う知識人を獲得する一方、百済・高句麗・新羅の抗争には手出しのできない状況に追い込まれていたという。

 上田正昭(京都大学名誉教授)は、“儒教の専門学者である五経博士段楊爾だんようにが、百済から倭国へ渡来し(513年)、ついで同じく五経博士漢高安茂あやのこうあんもが、段楊爾だんようにに替わって百済から派遣された(516年)。五経博士交替派遣も単なる儒教の伝来ではなく、百済と倭国の領土をめぐる対立の取引と妥協による代償としての側面もある”、という。中国南朝の諸文化を受容していた百済から新しい文化や学問・宗教が倭国に伝えられた背景には、このような取引と妥協があった。仏教公伝もそうした視点で見るべきという。


[仏教公伝]

 仏教公伝の時期について、日本書紀は欽明13年(552年)、「元興寺伽藍縁起がんごうじがらんえんぎならびに流記資財帳るきしざいちょう」と「上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ」では欽明7年(538年)とする。

 日本書紀によると、欽明13年(552年)10月、百済の聖明王が使者を遣わして、釈迦金銅像・幡蓋ばんがい経論きょうろんを倭の朝廷に献じ、併せて仏教を流伝させることの功徳について触れた表を奉った。百済から金色に輝く釈迦仏像や仏具・経巻が届けられ、初めて眼にした倭国の人びとの驚きは大きかったと思われる。欽明は使者に「今までこのような微妙なる法を聞いたことがないが、受け入れるか否か自ら決することはできない」と語った。臣たちに問うたところ、蘇我稲目いなめは、「他の国々は皆仏教を敬っている、倭のみが背いてはならない」と言った。物部尾興おこしと中臣鎌子かまこは、「日本の王たる天皇は恒に天神てんじん地祇ちぎをもって一年中祭拝することをその務めとしている。まさに今、改めて他国の神を拝むならば、我が国の神々の怒りを招くであろう」と主張した。そこで天皇は蘇我稲目にこれらの文物を授け、試しに礼拝させようと言い、稲目は小墾田おはりだの家に安置し、後に向原むくはらの家を浄めて寺とした。しかし疫病が流行したため、物部尾興と中臣鎌子らは「これは崇仏を行ったためである。仏を一刻も早く棄て去るべき」と奏した。欽明はこの意見を容れ、仏像は難波なにわの堀江に流され、寺は焼かれた。すると、にわかに磯城島しきしま宮の大殿おおとのに火災が生じたとされる。奈良時代以降に見られたような、神と仏の併祀を正当化するような理論が確立されていない段階においては、仏・菩薩と在来の神々との質的な異同は理解されず、両者共に「神」というイメージで捉えられていた。したがって、仏も「蕃神」や「他神」などと表記された。これらの日本書紀の記述からは、欽明期に蘇我稲目が主導して仏教が公伝したという古伝承があり、国外の動向にも敏感で、倭国の政治を東アジアという大局的な視点から動かそうてしていた蘇我稲目の姿が浮かび上がってくる。

 12世紀の「扶桑略記ふそうりゃくき」には、継体16年2月(523年)に渡来した鞍部くらつくり司馬達等しばたつとが、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝したとある。司馬達等は蘇我馬子の配下にあったことが知られている。その子多須奈たすな、さらにその子とりは仏師で釈迦像などを製作している。蘇我稲目いなめ馬子うまこは配下の渡来系氏族を通じて中国・朝鮮半島における仏教興隆の実態とその意義を認識していたと考えられる。


 仏教公伝の背景には、高句麗・新羅からの圧迫が続く百済にとって、倭国との同盟関係を強化するという狙いがあった。こうした百済との外交関係を通じて、百済と関係が深い中国南朝の先進的な文化・技術が倭国に流入してきた。仏教公伝を機に、崇仏をめぐって物部尾輿おこしと蘇我稲目いなめとの間で氏族をあげて対立が起こった。両氏の抗争は次の物部守屋もりやと蘇我馬子うまこへと引き継がれ、最終的には蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして、蘇我氏が絶大な権力を掌握するにいたる。物部氏滅亡後、大連おおむらじは立てられず大臣おおおみだけになる。この間に朝鮮半島における倭国の覇権は大きく後退した。532年に新羅による金官加耶の併合、554年に百済と新羅が交戦開始、金官国最後の王の王子「金武力」の参戦により新羅大勝、百済の聖明王戦死、新羅が洛東江流域を占有し統一、562年には大加耶(高霊)が新羅に滅ぼされて加耶諸国は滅亡し、加耶の地は新羅に併合されてしまった。欽明期には、部民べみん制の成立・整備、555年に吉備に白猪屯倉しらいのみやけ児島屯倉こじまのみやけの設置、570年に国造くにのみやつこの外交権剥奪など国内支配の強化が図られている。こうした時期に蘇我氏は多くの渡来人をその傘下におき、その新知識・技術を積極的に摂取して新しい支配体制を作り上げた。また、律令制の下で全国に施行される戸籍と班田収授制はんでんしゅうじゅせい(農地の支給・収容に関する制度)のもととなる管理方式を、渡来人を使って導入した。蘇我稲目は570年に亡くなり、欽明もその翌年に崩御した。蘇我稲目は蘇我氏隆盛のもとを開き、その子馬子も大臣となり、蘇我氏の最盛期を迎えた。欽明の遺詔いしょうは新羅を討ち、任那(加耶諸国)を復興することにあったとされる。この課題は歴代の大王たちに引き継がれていった。また、欽明期に日本書紀につながる帝紀(大王の系譜)や旧辞(物語や歌謡)が取りまとめられ始めたと考えられている。


 欽明とそれに続く敏達(在位:572年~585年)は天神てんじん地祇ちぎの国神を重んじ、仏教受容には否定的であった。特に敏達は「仏法をけたまはずして、文史をこのみたまふ」と日本書紀にあるように、明らかに排仏の立場をとった。しかし、仏教は大王の判断のもと、蘇我稲目いなめ馬子うまこ蝦夷えみしの蘇我本宗家三代を通じて隆盛が図られた。敏達の崩御を受けて即位した用明(在位:585年~587年)は欽明の子で、敏達とは異腹の兄弟であった。用明の母は蘇我稲目の娘の堅塩きたし媛で、馬子とは兄妹である。用明2年、病床にあった用明は仏教に帰依したい旨群臣に諮ったが、物部守屋もののべのもりや中臣勝海なかとみのかつみは国神に背く行為として反対した。しかし、蘇我馬子は大王の意志を尊重すべしとした。蘇我馬子と物部守屋が一触即発の状況の中で用明は即位後1年7ヶ月で崩御した。これを受けて、身の危険を察した物部守屋は河内阿都かわちのあとの邸で兵を集め、穴穂部あなほべ皇子を即位させようとした。穴穂部あなほべ皇子は泊瀬部はつせべ皇子(後の崇峻)の実兄であり、用明とは、共に欽明の皇子で、蘇我馬子の妹にあたる母親同士は姉妹という濃い血縁関係にあった。一方、蘇我馬子は敏達の皇后だったカシキヤヒメ(後の推古)を立てて、即位を願望していた穴穂部皇子と物部守屋に対抗した。蘇我馬子は、まず穴穂部皇子の宮を襲って皇子を殺害した。1988年に発掘調査された法隆寺の西側にある未盗掘の藤ノ木古墳は穴穂部皇子の墓であることが有力となっている。

 中臣勝海なかとみのかつみも軍備を固めたが、舎人とねり跡見赤檮とみのいちいに殺された。そして、蘇我馬子は泊瀬部はつせべ皇子、竹田たけだ皇子、厩戸うまやど王以下の緒皇子と紀氏・巨勢氏・葛城氏・平群氏らからなる大軍を率いて河内の物部守屋を攻め滅ぼした(587年の丁未ていびの役)。この戦勝を祈願し厩戸うまやど王(聖徳太子)により建立されたのが難波なにわの四天王寺で、蘇我馬子が建立したのが飛鳥寺である。戦の後、カシキヤヒメ(後の推古)と群臣に推されて泊瀬部はつせべ皇子が即位した。崇峻(在位:587年~592年)である。しかし、ヤマト王権内で絶大な権力を獲得した蘇我馬子が対新羅戦の兵を筑紫に駐屯させている最中、馬子の専横を嫌った崇峻が蘇我氏討伐を企てたため、馬子は配下の東漢直駒やまとのあやのあたいこまを使い崇峻を暗殺させた。崇峻は叔父にあたる馬子により暗殺されるという最後を遂げた。日本書紀には、「乃ち東漢直駒やまとのあやのあたいこまをして天皇をせまつらしむ。是の日に天皇を倉梯岡くらはしのおか陵に葬りまつる」とある。一方、古事記では暗殺の話はなく、「倉梯柴垣宮で四年の間天下を治め、壬午の年(592年)に崩御し、御陵は倉梯岡上にあり」と記すにすぎない。崇峻暗殺は蘇我馬子の独断で行った行為とは思えない。この抗争の本質は、当時天神てんじん地祇ちぎの国神を祀る宗教的権を存在基盤としていた大王が、実質的に内外の諸政策を差配する叔父の大臣おおおみによって排除されたと考えられる。この後即位する推古の母は蘇我稲目の娘の堅塩きたし媛であり、馬子の姪であり、馬子とは一体の関係であった。馬子は倭国の伝統的な権威とは異なる新たな大陸系の宗教である仏教を導入・振興することにより、激動する東アジア諸国との交流と競争の中で律令制中央集権国家を作り、新しい文化を展開させようとした。それが飛鳥文化となった。


 欽明期の国内における最大の出来事は仏教の伝来である。上田正昭は、仏教の受容をめぐる論争ないし対立について、“仏教伝来の際、高句麗・百済にあっては、仏教の受容をめぐる論争ないし対立が勃発した形跡はないが、新羅においては奉仏・排仏のきびしい抗争のあったことを三国史記の新羅本紀は記している。それは、高句麗は355年に、百済は372年にすでに中国王朝の冊封体制に入っていたが、新羅が冊封体制に入ったのは565年であり、冊封体制下になかったことが、中央貴族層が仏教拒否の態度を示すことができた大きな要因とみなされる。倭国の宮廷にあっては、新羅と同じように、崇物・排仏の論争が起こっている。5世紀の倭の五王の時代には中国南朝の冊封体制に組み入れられていたが、6世紀には組み入れられていなかった。もう一つ、新羅の場合は中国からの直接の仏教受容でなく高句麗からであり、倭国の場合も百済からであったこともあわせて留意する必要がある”、と述べている。


蘇我そが氏]

 神功皇后以下5代の大王に仕えたとされる武内宿禰を祖とする豪族連合、きの葛城かつらぎ巨勢こせ羽田はた平群へぐりなどの一つである。武内宿禰の子の蘇我石川宿禰が蘇我氏の直接の祖であり、雄略期の満智まちから始まり、韓子からこ高麗こま稲目いなめ馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかと続く。「古語拾遺」によれば、満智まちは雄略期に東漢やまとのあや氏・西文かわちのふみ氏・はた氏ら渡来系氏族を統率して斎蔵いみくら内蔵うちつくら大蔵おおくらという王権の官物を納めた三蔵を管理したとされ、古代王権の内政に指導力を発揮した。

 かつて、大王家とも目される巨大な豪族連合の筆頭は葛城かつらぎ氏だったが、雄略により葛城本宗家は滅ぼされた。葛城氏本流は蘇我氏に受け継がれたと考えられる。継体の時代に倭王権内で大きな力を発揮してきたのは大伴金村おおとものかなむらであった。しかし、金村は30年近く前の「任那四県割譲」の責任を問われ、欽明の信頼を得られず、欽明の即位(540年)早々に失脚した。大伴金村に代わって力を発揮したのは蘇我稲目そがいなめであった。稲目は宣化元年(536年)に大臣おおおみに就任した。渡来人の知識・技術と経済力を背景に蘇我氏が政治の表舞台に現れたときである。大伴金村の失脚後には次の欽明を正式に擁立した。稲目は百済からの渡来人である王辰爾おうじんにとその甥である膽津いつ(胆津)らを用い、船のみつき(税)を数え、王権の直轄地である吉備の白猪屯倉しらいのみやけなどの屯倉みやけを拡大し、戸籍の管理を行った。また、財政面でも活躍した。王辰爾おうじんには後のふね氏の祖となった。このような稲目の貢献により、磐井の乱などで動揺した国内が安定し、倭王権の基盤が固められた。欽明2年(541年)、稲目は欽明の妃に娘である堅塩きたし媛と小姉おあね君を入れた。堅塩きたし媛は、後の用明ようめいをはじめとする7人の男子と、後の推古すいこをはじめとする6人の女子をもうけた。小姉おあね君は、後の崇峻すしゅんをはじめとする4男1女を生んでいる。また別の娘、石寸娘いしきなは用明の妃となっている。稲目は最終的に三人の大王の祖父となっている。稲目は、馬子うまこ蝦夷えみしと続く大王家の外戚としての地位を築き上げたといえる。

 蘇我馬子そがうまこの母は葛城氏出身で、馬子は葛城馬子とも称した。分家である蘇我石川が南河内に本拠を置き、朝鮮三国からの朝貢に関する職掌を担っていたため、渡来人集団との関係は深かった。本拠地は飛鳥(明日香村)周辺で、高市たけち郡曽我(橿原市曽我町)には今も馬子が創立したとされる蘇我坐宗我都比古そがいますそがつひこ神社が鎮座している。馬子の邸宅は、推古34年の記事に「飛鳥河のかたわらに家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と曰ふ」とあることから、飛鳥川沿いに庭園を持つ邸宅を設けていた。そこは今の明日香村島庄しましょうと推定される。馬子は自らを葛城氏の後裔であるとして、葛城県の返還を推古に奏請している。6世紀に百済から仏法が伝えられたが、仏法は当初、蕃神ばんしん(外国の神)と呼ばれ、従来からの祭祀を司った物部氏・中臣氏と対立した。馬子は敏達のときに大臣に就き、用明・崇峻・推古の4代に仕えた。双輪として馬子を支えたのが厩戸うまやど王(聖徳太子)である。馬子は推古の時代に飛鳥寺を造営した。森浩一は飛鳥寺の建立に高句麗が大きく関わっていることから、蘇我氏と高句麗との深い関わりにも注目している。蘇我氏が飛躍したのは仏法とともに外来の進んだ文化や技術が伴ってきたからである。蘇我氏は日本を仏教国家にし、渡来人を束ねて海外の先進知識・技術を利用した開明的な氏族といえる。

 また、蘇我稲目を外祖父とする用明以後の天皇陵が方墳となり、前方後円墳の陵墓が敏達のころをもって終わりを告げるのも、渡来文化の受容に努めた蘇我氏の動向と興味深い脈絡を示す。方墳の墓制は、馬子の墓と伝えられる53メートルx68メートルの巨大な方墳(飛鳥の石舞台古墳)にも典型的にみいだされる。

 蘇我蝦夷そがえみし入鹿いるかの時代、蝦夷・入鹿は甘樫丘あまかしのおかに邸宅を築く。蝦夷の邸宅を「うえ宮門みかど」、入鹿の邸宅を「はざま宮門みかど」と呼んだと日本書紀に記されている。しかし、蘇我氏は氏族の内部紛争のために弱体化し、645年の乙巳いっしの変により蘇我氏本宗家は滅亡した。但し、乙巳の変で蘇我氏がすべて滅んだわけではない。天智の娘で天武の皇后でもあった持統の母は、乙巳の変で中大兄皇子なかのおおえのおうじ側についた蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろの娘である。乙巳の変の後、石川麻呂は右大臣になっている。さらに石川麻呂の弟の連子むらじこの娘、娼子しょうしは藤原不比等ふひとに嫁ぎ、藤原南家の祖となる武智麻呂むちまろと北家の祖となる房前ふささきを生んでいる。このように蘇我氏の血脈は連綿と受け継がれていった。


 古代東アジアにおいて、漢訳仏教や儒教の伝播と漢字文化の広まりは分かちがたく結びついていた。特に日本における宗教文化は仏教や儒教などが渾然一体となって受容されていったと思われる。5世紀後葉の雄略期の文字文化に続く、文字文化の第二の波は6世紀の仏教伝来であった。仏教の教えを伝えるために漢字はなくてはならない存在であり、また仏教とともに天文・建築・製紙・工芸など様々な科学技術が百済や高句麗・新羅といった朝鮮半島の国々から伝えられた。東アジアにおける仏教は、土着の人生観や世界観、あるいは既存の慣習的な思考や感性にとって理解しがたいところのある異文明である。それは遥か遠くまで流伝と求法を繰り返す非土着的な性格を持つがゆえに、汎アジア的に固有の定着をみせ、世界文明の一翼を担うことになる。


 高句麗に仏教が中国北朝の前秦から伝来したのは、三国史記の高句麗本紀に、372年6月、前秦が僧順道じゅんどうを派遣して、仏像・経文をもたらしたと記す。393年には平壌に9寺を創建したとある。高句麗には儒教と道教の信仰も入ってきていた。中国南朝の東晋から百済への仏教の伝来は、百済本紀に384年9月、胡僧の摩羅難陀まらなんだが東晋から百済におもむき、「王、之を迎えて宮内に致し、礼教」したと記す。日本書紀の武烈紀には仏教用語の名を持つ「法師君ほうしきし」が百済の武寧王の使者として来朝したとある。これを考慮すれば、倭国の継体期(507年~531年)のころには、百済で仏教受容が進展していたと推察できる。次の百済の聖明王は盛んに中国南朝の梁へ留学僧を派遣するなど国家レベルで仏教受容を推進した。新羅における仏教受容は、「筆行仏法」の年を三国史記では法興王15年(528年)とする。法興王の時代の528年に高句麗から仏教を受容したとされる。倭国は欽明13年(552年)、百済の聖明王から仏像や経典など本式の仏教を国家として受け入れた。

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