第41話 欽明は任那系の初代大王か?
鈴木武樹(元明治大学教授)は、
蘇我氏が突然勢力を得たのは
① 欽明には死後につけられた「アメクニオシハルキヒロニワ」という
② 言語学者の大野晋によると、欽明の諡号「アメクニオシハルキヒロニワ」は、
③ 「百済本記」に、「531年、倭国では天皇・太子・皇子、ことごとく死す」とあるのは、何者かによるクーデターを示すものである。また、531年は継体が崩御した年でもある。
④ 「
⑤
⑥ 欽明の生母といわれる
⑦ 「三国遺事」によれば、521年に即位して新羅に請婚した金官加耶の
⑧ 日本書紀の継体紀に、522年4月、
⑨ 任那(金官加耶)の滅亡は三国史記によれば532年である。欽明になってから「任那の再興」が強調されるようになり、欽明やその子である
⑩ 「
鈴木武樹はこれらの謎について次のように説明している。
・欽明の存命中の名前が伝わっていないのは、
・安閑の皇后のカスガノ・ヤマダが、欽明は賢者であるとして大王に推挙しているという日本書紀の記事は、欽明の即位に正統性が付与されたことを意味する。
・
・
・そうであれば、欽明7年は538年であるから、仏教はこの年に公伝したという「上宮聖徳法皇帝説」の所伝は事実を伝えていることになる。
・欽明は任那系の初代の大王であるから、諡号「アメクニオシハルキヒロニワ」、すなわち
・任那は欽明の旧領土であるから、この大王の治世になってから、「任那の復興」が大きな政治目標になったのは当然である。
・加耶連合の潜在宗主権が金官加羅(金官加耶)にあったのは、その王家が
・加耶連合は百済や新羅から「加羅・加耶」と呼ばれていたが、その内部では「
・記紀の天孫降臨神話が「
また、朝鮮の文献には金官加耶の滅亡に関する次のような記述がある。
新羅本紀:
532年、金官国の国主である金
521年、
532年、仇衡(譲王)は、新羅が駕洛を侵すため国力の弱るのを憂えて、位を弟の
これらの記事からすれば、日本書紀の継体紀に伝える、「
なぜなら、
・仇衡は自分の国を新羅から守るために、継体のヤマト王権に自ら援軍を求めてきている。それに対する新羅からの報復を恐れて、新羅には帰服できなかった。
・仇衡が新羅に降りたとすれば、新羅本紀に名が記されたはずである。名がないということは新羅に帰順していないことになる。
これらのことから、鈴木武樹は次のようにまとめている。
継体崩御後、蘇我
欽明は即位すると、大伴
大伴金村は20年近く前の、継体紀6年(512年)に百済へ任那四県(栄山江流域、今の全羅南道のほぼ全域)を割譲した責任を問われ失脚したが、殺されることはなかった。大伴金村が失脚すると蘇我
欽明は532年の即位後、「任那復興」を目指して度々朝鮮半島に兵を送ったが、強大化する一方の新羅にはついに勝てなかった。欽明は失意のうちに、故地任那の回復を遺言として571年に世を去り、その後を継いだ敏達もまた任那の回復を遺言として585年に没した。蘇我
以上が鈴木武樹による、任那王の
ここで欽明の出自に関する諸説を比較検討してみる。
① 継体の皇子のうち、安閑に次いで有力な皇子である安閑の同母弟の檜隈高田皇子(後の宣化)が欽明であり、宣化と欽明は同一人物である。(水野祐の説)
②
③ 531年の
欽明の出自がはっきりしない以上鈴木武樹による仮説は非常に興味深い、欽明が571年まで在位していたことを考えると、欽明は金官加耶国王の
例えば、百済の
また、欽明の皇后は宣化の皇女の石媛であることから推測すると、鈴木武樹がいう“531年に蘇我稲目が宣化とその一族の皇子たちを皆殺しにした”という説は弱いように思う。最も自然と思われるのは、531年の
しかし、その真相は645年の
最後に、もう一つ欽明期で重要な出来事がある。日本列島において大規模な製鉄が始まるのは、朝鮮半島の加耶諸国が滅亡した後の欽明の時代である6世紀後半ごろと考えられている。その結果、農耕地の面積が飛躍的に増え人口も急増した。古代において、製鉄技術は重要な国家機密であり、最先端技術でもある。他国はそれを容易に入手することはできなかった。それが日本列島に伝播してきたことには大きな理由があったはずだ。それはまさに欽明が金官加耶国王
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