第41話 欽明は任那系の初代大王か?

 鈴木武樹(元明治大学教授)は、欽明きんめいの出自について興味深い仮説を提案している。それは、欽明は継体けいたい崩御後に蘇我氏によって擁立された任那みまな(加耶)系の初代大王であるという説である。その内容を追ってみる。


 蘇我氏が突然勢力を得たのは東漢やまとのあや氏・西文かわちのふみ氏などの加耶系の氏族が財力を大いに増大させたためと思われる。百済本紀の531年に「日本(倭国)では天皇(継体)・太子・皇子みな死す」とある。記紀によれば、継体の後は、安閑あんかん(在位:534年~535年)、宣化せんか(在位:536年~539年)である。宣化の後を継いだ欽明(在位:540年~571年)の父は継体とされるが、皇子時代の名も伝わっていなければ、その他の名前も知られていない。さらに、他にも次のような謎がある。

 

① 欽明には死後につけられた「アメクニオシハルキヒロニワ」という諡号しごうしかなく、実名がない。

② 言語学者の大野晋によると、欽明の諡号「アメクニオシハルキヒロニワ」は、天地開闢てんちかいびゃくを意味し、ある系統の大王家の初代である可能性が強い。

③ 「百済本記」に、「531年、倭国では天皇・太子・皇子、ことごとく死す」とあるのは、何者かによるクーデターを示すものである。また、531年は継体が崩御した年でもある。

④ 「上宮聖徳法皇帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ」によると、欽明の治世は41年である。一方、日本書紀には32年とある。欽明の崩御は571年。また、日本書紀は仏教の公伝を欽明13年(552年)とするが、「上宮聖徳法皇帝説」は欽明の治世の戊午ぼごの年(538年)としている。ということは、欽明が即位したのは、日本書紀が伝える540年ではなく、532年である。

安閑あんかんの皇后のカスガノ・ヤマダが、欽明は賢者であるとして大王に推挙している。正妃の嫡子としては不自然な言葉である。

⑥ 欽明の生母といわれる手白香たしらか皇女の墓は、6世紀中葉の墓とは考えられないので、手白香皇女が生母とする伝承が出来上がってから適当に見繕われた墓である。

⑦ 「三国遺事」によれば、521年に即位して新羅に請婚した金官加耶の仇衡きゅうこう(譲王)(在位:521年~532年)は、新羅の侵攻のため国が弱ったことを憂いて、532年に位を弟の仇亥きゅうがい(末王)に譲り、その仇亥は新羅に投降してこの国の最後の王になったとある。ところが「三国史記」には、仇衡が新羅に降ったとの記述はないので、この王、つまり「日本書紀」の任那みまな王の己能末多干岐このまたかんきこそ欽明ではないだろうか。

⑧ 日本書紀の継体紀に、522年4月、任那みまなの王の己能末多干岐このまたかんきが倭に来て、大伴金村に新羅の侵攻を訴えた。倭王は己能末多干岐このまたかんきを任那に帰し、任那にいる毛野臣けなのおみに事情調査を命じた。すると毛野臣は昌原の熊川くまなれに百済と新羅の使者を集めたが、新羅の使者が兵三千を率いてきたのを見ると、任那の己叱己利こしこり城にこもった」とある。このことから、己能末多干岐このまたかんきは新羅に投降することはできないと考え、倭に亡命してそこで自国(任那)の復興を画策したと考えられる。

⑨ 任那(金官加耶)の滅亡は三国史記によれば532年である。欽明になってから「任那の再興」が強調されるようになり、欽明やその子である敏達びだつはともに、「任那復興」を遺言にしている。これは欽明と任那(金官加耶)が何らかの形で深く結ばれていたためと考えられる。

⑩ 「上宮聖徳法皇帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ」は欽明が継体の皇子だとは記していない。また、誰の皇子だとも記していない。


鈴木武樹はこれらの謎について次のように説明している。


・欽明の存命中の名前が伝わっていないのは、仇衡きゅうこうあるいは己能末多このまたという本名が故意に消されているからである。

・安閑の皇后のカスガノ・ヤマダが、欽明は賢者であるとして大王に推挙しているという日本書紀の記事は、欽明の即位に正統性が付与されたことを意味する。

手白香たしらか皇女の墓は、欽明が継体の系譜の中に組み込まれたとき、急遽、適当な古い墓が探し求められて決められたものである。

仇衡きゅうこう、すなわち己能末多このまたは、532年に譲位すると、そのまま倭国に亡命してきて、宣化とその一族を皆殺した蘇我稲目に擁立されて、その年のうちに倭国の大王位に就いた。

・そうであれば、欽明7年は538年であるから、仏教はこの年に公伝したという「上宮聖徳法皇帝説」の所伝は事実を伝えていることになる。

・欽明は任那系の初代の大王であるから、諡号「アメクニオシハルキヒロニワ」、すなわち天地開闢てんちかいびゃくでもなんら不思議はない。

・任那は欽明の旧領土であるから、この大王の治世になってから、「任那の復興」が大きな政治目標になったのは当然である。

・加耶連合の潜在宗主権が金官加羅(金官加耶)にあったのは、その王家が夫餘ふよ系の辰王朝の流れを引くからであり、同じく夫餘を姓として辰王朝の血を引く百済の聖明王が欽明の要請に唯々いいとして応じたことも説明がつく。

・加耶連合は百済や新羅から「加羅・加耶」と呼ばれていたが、その内部では「任那にむな」と呼ばれていた。「にむな」は主地・本国という義である。倭国の支配階級の主要部分が加羅からの渡来者だったので、欽明朝の人びとが、その故地を本国として「にむな」と呼んだのは当然である。

・記紀の天孫降臨神話が「三国遺事さんごくいじ」の「駕洛国記からこくき」の伝えるそれと酷似しているのは、それを伝えた駕洛から王家こそ倭国の欽明朝の前身だからである。


 また、朝鮮の文献には金官加耶の滅亡に関する次のような記述がある。

新羅本紀:

532年、金官国の国主である金仇亥きゅうがいが、妃および三人の皇子、長男の奴宗・次男の武徳・末子の武力とともに、国の財産と宝物とも携えて新羅に帰服した。新羅の法興王は礼をもってこれを遇して上等の位を授けたうえで、その本国を封地として与えた。また、皇子の武力ぶりょくは仕えて角干すぷるかんにまで昇進した。

魚允迪ぎょいんてきの「東史年表」の駕洛の項:

521年、仇衡きゅうこうが立って王になった。 

532年、仇衡(譲王)は、新羅が駕洛を侵すため国力の弱るのを憂えて、位を弟の仇亥きゅうがい(末王)に譲った。仇亥は家族とともに新羅に降りたが、新羅は新羅王族の苗字の一つである「金」を与えた。


 これらの記事からすれば、日本書紀の継体紀に伝える、「任那みまなの王・己能末多干岐このまたかんき」は仇衡きゅうこうということになる。仇衡きゅうこう、すなわち己能末多このまたは、532年に任那が滅びた後にどうなったかについては、日本書紀も朝鮮文献もいっさい語るところがない。仇衡きゅうこうは弟の仇亥きゅうがいとともに新羅に降りていないと考えられる。

なぜなら、

・仇衡は自分の国を新羅から守るために、継体のヤマト王権に自ら援軍を求めてきている。それに対する新羅からの報復を恐れて、新羅には帰服できなかった。

・仇衡が新羅に降りたとすれば、新羅本紀に名が記されたはずである。名がないということは新羅に帰順していないことになる。


 これらのことから、鈴木武樹は次のようにまとめている。

 継体崩御後、蘇我稲目いなめ宣化せんかとその一族の皇子たちを皆殺しにしたのが531年で、仇衡きゅうこうが任那の王位を弟に譲位したのが532年、辛亥しんがいの変の年の翌年にあたり、亡命した仇衡をその年のうちに擁立した。その仇衡が欽明となる。

 欽明は即位すると、大伴金村かなむら大連・物部尾輿おこし大連・蘇我稲目いなめ大臣をそのまま現職に留め、宣化の皇女のいし媛を正妃として、磯城島に金刺宮(奈良・桜井市)を設けた。その他、秦人はたひと漢人あやひとなどの渡来人を集めて、各地の国や郡に分散させたり、秦大津父はたのおおつちに大蔵のつかさを委ねたりしたと日本書紀は伝えるが、渡来系の氏族を優遇したのは、はた氏やあや氏の本貫の地が朝鮮半島南部にあったからと思われる。

 大伴金村は20年近く前の、継体紀6年(512年)に百済へ任那四県(栄山江流域、今の全羅南道のほぼ全域)を割譲した責任を問われ失脚したが、殺されることはなかった。大伴金村が失脚すると蘇我稲目いなめと物部尾輿おこしら新勢力の独壇場となった。その後、欽明は蘇我稲目の娘の堅塩きたし媛と小姉おあね君を妃とした。継体の血統は欽明の次の敏達びだつで途絶え、その後は稲目の二人の娘が生んだ皇子・皇女が大王の座についた。 

 欽明は532年の即位後、「任那復興」を目指して度々朝鮮半島に兵を送ったが、強大化する一方の新羅にはついに勝てなかった。欽明は失意のうちに、故地任那の回復を遺言として571年に世を去り、その後を継いだ敏達もまた任那の回復を遺言として585年に没した。蘇我馬子うまこが物部守屋もりやを滅ぼして廃仏派の息の根をとめたのは587年のことである。ここから蘇我氏の専権が始まった。その後、662年に加耶地方のいまだに百済・新羅から自立していた地域全体が新羅の支配下に入り、さらに663年の白村江の敗戦をもって、倭国は朝鮮半島への反抗の足がかりをすべて失った。


 以上が鈴木武樹による、任那王の己能末多干岐このまたかんき、すなわち金官加耶国王の仇衡きゅうこうが大和の倭国に迎え入れられ、欽明として即位したとする説である。三国史記などの朝鮮の文献と日本書紀の記述とを比較しながら分析する鈴木武樹の手法は正当な古代史へのアプローチであり、加耶・倭国連合政権の加耶側の盟主であった金官加耶の滅亡後に、本家である加耶の国王が分家である日本列島の倭国の大王となっても不思議ではない。むしろ当然の成り行きと考えられる。


 ここで欽明の出自に関する諸説を比較検討してみる。

① 継体の皇子のうち、安閑に次いで有力な皇子である安閑の同母弟の檜隈高田皇子(後の宣化)が欽明であり、宣化と欽明は同一人物である。(水野祐の説)

任那みまな王の己能末多干岐このまたかんき、すなわち金官加耶国王の仇衡きゅうこうが大和の倭国に迎え入れられ、欽明として即位した。「上宮聖徳法皇帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ」によると、欽明の治世は41年である。ということは、欽明が即位したのは、日本書紀が伝える540年ではなく、532年である。(鈴木武樹の説)

③ 531年の辛亥しんがいの変により、継体崩御後の7年間(532年~539年)は、蘇我氏が推す欽明と大伴氏が推す安閑・宣化の並立時代があった。(辛亥の変の説)


 欽明の出自がはっきりしない以上鈴木武樹による仮説は非常に興味深い、欽明が571年まで在位していたことを考えると、欽明は金官加耶国王の仇衡きゅうこう(金官加耶での在位:521年~532年)その人ではなかったかもしれないが、その子弟たちの一人で、倭国で育てられた可能性は十分にある。

 例えば、百済の武寧ぶねい王は、百済の蓋鹵こうろ王(在位:455年~475年)の治世の461年に、王の弟の昆支こにき王子が日本に来て、その婦がその翌年の462年に筑紫の各羅嶋かからじま(今の唐津市の加唐島かからじま)で生んだしま(斯麻)君である。このことは日本書紀や百済本記の記述と武寧王の墓誌と一致している。このしま(斯麻)君が本国に送り還され、502年に即位して武寧王と称した。また、武寧王の前の東城とうせい王も百済の王子牟大むだいとして倭国(おそらく筑紫)で生まれ育っている。このように倭国で生まれ育てられた加耶や百済の皇子は珍しくなく、少なからずいたと考えられる。しかし、ヤマト王権を引き継ぐためには、母親は大王家の血筋でなければならないので、記紀に記されるように、欽明の母は仁賢の娘で武烈の姉の手白香たしらか皇女であったと考えるのが自然である。


 また、欽明の皇后は宣化の皇女の石媛であることから推測すると、鈴木武樹がいう“531年に蘇我稲目が宣化とその一族の皇子たちを皆殺しにした”という説は弱いように思う。最も自然と思われるのは、531年の辛亥しんがいの変により蘇我氏が推す金官加耶国王仇衡きゅうこう直系の欽明と、大伴氏が推す継体直系の安閑・宣化の並立時代が継体崩御後の7年間(532年~539年)続いたというものである。安閑・宣化の母は尾張連おわりのむらじ草香くさかの娘、目子めのこ媛というのも、大王の母親の身分を重要視していた古代において、大王の母親がむらじ姓の身分では、有力な豪族たちの反撥が大きく、それが辛亥しんがいの変につながった可能性もあると思われる。

 しかし、その真相は645年の乙巳いっしの変、すなわち皇極4年のクーデターで蘇我本宗家が滅ぼされたため闇の中に消えてしまった。乙巳の変のときに焼かれたと記される蘇我馬子うまこ厩戸うまやど王(聖徳太子)が編纂したとされる「帝紀(大王の系譜)」には、任那みまな、さらに辰王しんおうにまでさかのぼる葛城・蘇我系の大王家の正統性が記されていたと思われる。帝紀は「日嗣ひつぎ」とも呼ばれ、欽明のもがりの儀式において読み上げられていた。その「帝紀」を焼いたのは、日本書紀に記される蘇我蝦夷えみしではなく、クーデター(乙巳の変)によって孝徳こうとくとともに権力を掌握した中大兄皇子なかのおおえのおうじであった可能性は高い。


 最後に、もう一つ欽明期で重要な出来事がある。日本列島において大規模な製鉄が始まるのは、朝鮮半島の加耶諸国が滅亡した後の欽明の時代である6世紀後半ごろと考えられている。その結果、農耕地の面積が飛躍的に増え人口も急増した。古代において、製鉄技術は重要な国家機密であり、最先端技術でもある。他国はそれを容易に入手することはできなかった。それが日本列島に伝播してきたことには大きな理由があったはずだ。それはまさに欽明が金官加耶国王仇衡きゅうこうその人、あるいはその直系の血筋であったからこそ、その国家機密の製鉄技術の導入とその技能者たちを移住させることができたのである。そうでなければ、このような国家機密の技術を日本列島に移転することは非常に困難であったと思われる。

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