第40話 欽明と蘇我氏
日本書紀によれば、
記紀によれば、
第29代
第30代
第31代
第32代
水野祐は、“
一方、鈴木武樹は、“502年以降のある時期から十数年間近畿地方には二つの王権が並立していた。雄略 -> 清寧 ->飯豊 -> 顕宗 -> 仁賢 -> 武烈、と続いた河内王権を無視して、507年に継体が越前から河内の
[
継体崩御後の7年間(532年~539年)は欽明と安閑・宣化との並立時代があったとの説で、蘇我氏が推す欽明と大伴氏が推す安閑・宣化の時代には辛亥の変(531年)というべき対立が起こっていたというものである。内乱の根底には、朝鮮半島での継体6年(512年)の
[
支配下に厖大な集団を擁する巨大氏族である。もとは朝鮮半島東北部の
[
応神期にその祖となる
<装飾(壁画)古墳と
装飾古墳は海岸近く、あるいは河口から舟で容易に遡りうる河川の近くの丘陵地帯の崎や
[
雄略期の後半(475年~489年)から継体の登場(500年)、そして欽明(在位:540年~571年)までの約100年間は国内・国外で動揺が続いた時代である。倭王権は先進文化の継続的な受容のためにも、母国である朝鮮半島南部の任那(加耶)の地を死守する必要があった。継体崩御(531年)から欽明崩御(571年)までの40年間における重要な出来事を見ても、引き続き朝鮮半島が激動の時代であったかがよくわかる。古来倭国は朝鮮半島南部の加耶(
<6世紀中葉から6世紀後葉にかけての重要な出来事>
531年:
継体が崩御。継体の後継争いによる「
532年:
新羅は加耶の金官加耶(金海)を532年に併合し、536年には初めて新羅独自の年号(建元)を建てた。
537年:
日本書紀の宣化2年(537年)、新羅が任那に攻め入ったので、大伴金村はその子である
538年:
武寧王の子聖明王(在位:523年~554年)は538年に都を
540年:
欽明が即位。この時期、南部加耶地域における
541年:
欽明2年、百済の聖明王が主催者となり第一回任那復興会議が百済で開催された。加耶諸国の面々が百済に赴いて任那復興策について相談するための会議であった。一方で、高句麗に対抗するために、百済は新羅と同盟を結んだ。
544年:
欽明5年、百済の聖明王が主催者となり第二回任那復興会議が百済で開催された。
552年:
仏教公伝。日本書紀によると、欽明13年10月、百済の聖明王が使者を遣わして、釈迦金銅像・
新羅が漢江下流域(ソウル地域)を占有。
554年:
百済と新羅が交戦開始、金官加耶最後の王の王子「
562年:
大加耶(
568年:
新羅は半島の東北沿岸地域(今の咸鏡南道)を占拠した。この結果、百済は半島の南西部沿岸地域のみとなり、6世紀中葉以降の高句麗の最大の敵は百済ではなく新羅となった。
571年:
蘇我稲目は570年に亡くなり、欽明もその翌年の571年に崩御した。欽明の
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