第40話 欽明と蘇我氏

 日本書紀によれば、欽明きんめい継体けいたい仁賢にんけんの娘の手白髪たしらか皇女との間に生まれた子であり、継体の多くの子の中で「嫡子ちゃくし」として特別な位置にあった。継体と手白髪たしらか皇女との婚姻は継体の即位にあたっての条件であった。そして欽明は異母兄である宣化せんかの娘のいし媛を正妻にしている。近親婚は王統を継承するため行われた。欽明以降6~7世紀の間、蘇我氏などのおみ姓の有力豪族から正妻が出ることもあったが、この原則は守られた。そして、結果として継体以降、今日に至るまで一つの王統が続くことになった。継体から欽明にかけての時代に古代国家の骨格の形成が著しく進展し、欽明以降は王統も世襲化・固定化した画期であったことは間違いないといえる。しかし、欽明の出自については異論もある。水野祐は、宣化と欽明は同一人物と見ている。また、鈴木武樹は、欽明は継体崩御後に蘇我氏によって擁立された任那(加耶)系の初代大王であるという。


記紀によれば、

 第29代 欽明きんめい:アメクニオシハルキ・ヒロニワ、磯城島金刺しきしまかなさし宮(奈良・桜井市)、檜隈ひのくま坂合陵(奈良・明日香村)。皇后は宣化の皇女のいし媛、妃は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩きたし媛と蘇我小姉おあね君。父は継体、母は仁賢の娘で武烈の姉の手白香たしらか皇女。大伴金村の失脚後に蘇我稲目いなめによって擁立された。宣化(在位:536年~539年)・欽明の時代(在位:540年~571年)は、538年あるいは552年の仏教公伝以外はほとんど国際関係である。新羅による金官加耶の併合は532年。欽明の即位は540年、しかし「元興寺縁起がんこうじえんぎ」や「上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ」などでは532年の即位である。欽明の時代に百済と新羅が交戦開始、倭国は百済からの援軍派遣に応じた。しかし、金官加耶最後の王の王子「金武力きんぶりょく」の参戦により新羅が大勝し、百済の聖明王は戦死(554年)。「金武力」の孫が676年の新羅による朝鮮半島統一の英雄金庾信きんゆしんである。仏教公伝を機に、崇仏をめぐって物部尾輿おこしと蘇我稲目いなめとの間で氏族をあげて対立が起こった。両氏の抗争は次の物部守屋もりやと蘇我馬子うまこへと引き継がれ、最終的には蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして、蘇我氏が絶大な権力を掌握するにいたる。

 第30代 敏達びだつ:ヌナクラ・フトタマシキ、百済大井宮(奈良・北葛城郡)、3年後に幸玉さきたま宮(奈良・桜井市)、河内磯長中尾陵(大阪・南河内郡太子町)。最初の皇后は息長広媛おきながのひろひめ、次の皇后はトヨミケ・カシキヤヒメ(後の推古)。父は欽明、母は宣化の皇女の石媛。572年に即位し、物部守屋を大連に再任し、新たに蘇我馬子を大臣とした。馬子の父の稲目は570年に亡くなっており、2年おいての任命となる。任那みまな復興を目指したが、成果は上がらなかった。物部守屋らに廃仏を命じたが、疫病がはやり、最後は崇仏を許した。

 第31代 用明ようめい:タチバナノ・トヨヒ、磐余池辺双槻いわれいけへのなみつき宮(奈良・桜井市)、河内磯長原陵(大阪・南河内郡太子町)。皇后は異母妹の穴穂部間人あなほべのはしひと。父は欽明、母は蘇我稲目いなめの娘で堅塩きたし姫。蘇我氏の血筋をひく最初の大王で、推古は同母妹にあたる。厩戸うまやど王(聖徳太子)の父である。聖徳太子という尊称は7世紀末に生じたのであり、実在したのは厩戸うまやど王(皇子)である。585年9月に即位後、蘇我馬子を大臣に、物部守屋を大連に再任している。587年4月に在位わずか1年7ヶ月で崩御。

 第32代 崇峻すしゅん:ハツセベノ・ワカササギ、倉梯くらはし宮(奈良・桜井市)、倉梯岡陵(奈良・桜井市)。皇后は大伴小手子こてこ。父は欽明、母は蘇我稲目の娘、小姉おあね君で、泊瀬部はつせべ皇子と呼ばれた。用明の死後、物部守屋が泊瀬部はつせべ皇子の実兄の穴穂部あなほべ皇子と謀叛を企むが、蘇我馬子はカシキヤヒメ(推古)を立てて穴穂部皇子と物部守屋を討った。しかし、崇峻は即位後に蘇我馬子と対立し、592年に蘇我馬子の命をうけた東漢直駒やまとのあやのあたいこまに殺された。畿内における前方後円墳築造は崇峻が最後となった。


 水野祐は、“安閑あんかん崩御後、嗣子しし(跡取り)がなく、蘇我氏は物部氏を動かして、大伴氏を抑えて欽明を擁立し皇位を継承させることに成功した。そして大伴氏を失脚させた。欽明が継体の皇后手白香たしらか皇女の嫡子であるというのは信用しがたい。手白香たしらか皇女は仁徳王朝と継体王朝とを系譜的に結びつける架け橋として作為されたとすれば、継体の皇子のうち、安閑に次いで有力な皇子である安閑の同母弟の檜隈高田ひのくまのたかた皇子(後の宣化)が欽明であろうと推定する。欽明は夢に秦大津父はたのおおつちを寵愛すれば天下を統治できるというお告げをうけて、山城国紀伊郡深草郷にいた秦大津父を大蔵の官司にしたという伝承がある。檜隈高田皇子は山城時代に在地の大豪族はた氏と深い関係があり、蘇我氏はこの秦氏と親密な関係にあった。蘇我氏が秦氏とともにこの皇子を擁立したことは自然と思われる”、という。


 一方、鈴木武樹は、“502年以降のある時期から十数年間近畿地方には二つの王権が並立していた。雄略 -> 清寧 ->飯豊 -> 顕宗 -> 仁賢 -> 武烈、と続いた河内王権を無視して、507年に継体が越前から河内の樟葉宮くすはのみやで即位したのは、何を意味するのか? 雄略から武烈までの時代、蘇我氏が東漢やまとのあや氏と西文かわちのふみ氏とを管理して、河内王権の財力を握っていた。それに反旗を翻したのが、大伴金村かなむら・物部麁鹿火あらかい・許勢男人をひとであった。彼らは近江の息長おきなが氏と手を結んで、越王といわれた継体を大王として迎えることにより河内・山背・近江・若狭・越を基盤とした新たな政権を形成しようと考えた。また、「辛亥しんがいの変」は、531年の継体の死を契機に、継体を擁立した新羅・加耶系の大伴金村と物部麁鹿火に対して、百済・加耶系の蘇我氏がその配下の東漢やまとのあや氏と西文かわちのふみ氏を糾合して起したクーデターであった。ちなみに、後に蘇我氏と対立する物部尾輿おこしは物部麁鹿火あらかいとは祖は同じくするが、3~4代前に分岐している。物部尾輿おこしの子は守屋もりやである”、という。


辛亥しんがいの変]

継体崩御後の7年間(532年~539年)は欽明と安閑・宣化との並立時代があったとの説で、蘇我氏が推す欽明と大伴氏が推す安閑・宣化の時代には辛亥の変(531年)というべき対立が起こっていたというものである。内乱の根底には、朝鮮半島での継体6年(512年)の任那みまな四県(栄山江よんさんがん流域)の百済への割譲における大伴氏の専断とその政策上の失敗に国内で強い反発が起こり、さらに524年には新羅が加耶へ侵攻したため、その救援のため、近江毛野臣おうみのけなのおみの軍勢を派遣しようとしたが、大伴氏に反発した筑紫国造磐井いわいが新羅と通じて、527年に近江毛野臣おうみのけなのおみの軍勢を妨げる行動に出た。このような大伴氏への反発が強まるなか、531年に継体が崩御した。その後継を巡り蘇我氏が推す欽明と大伴氏が推す安閑が対立して531年に辛亥の変が起こった。しかし、それは決定的な対立には至らず、539年に欽明に統一されるまでの7年間は欽明と安閑・宣化との並立となったというものである。辛亥の変は磐井の乱と同じ性格の叛乱が大和で起こり、大伴氏から蘇我氏への実権の推移と、それに伴う皇位継承であったといえる。欽明の即位は「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」などでは532年とするのも、欽明と安閑・宣化との並立時代があったとする根拠となっている。


はた氏]

支配下に厖大な集団を擁する巨大氏族である。もとは朝鮮半島東北部のわいの地が故地で、高句麗との境にあった辰韓の一つ優由うゆ国と言われ、近年では碑石の碑文から慶尚北道の波旦ぱだん県が有力視されている。しかし、朝鮮半島東南部の蔚山うるさん付近の出身ともいわれ、実際の出自はよくわかっていない。応神期に新羅の王子である天之日矛あめのひぼこと共に秦韓(後の新羅)から百済120こおり百姓たみを率いて来日した秦の始皇帝の子孫と自称する弓月ゆつききみの子孫。馬の文化を持っている。最初の本拠地は大和の葛城郡朝津間で、葛城氏の本拠である。その後、山背やましろ(今の京都盆地)に移った。日本書紀雄略15年の条に、「はたの民をおみむらじらに分け与えて、それぞれの思うがままに使わせ、はたみやつこに委ねなかった。そこで、はたきみよう調ちょうの絹やかとりぎぬを奉献して朝廷に積み上げた。そのため姓を下賜されて禹豆麻佐うずまさという」とある。雄略期に多数渡来した。渡来後、土木・灌漑、採銅・精錬、製塩、馬を利用した交易・経済活動、酒造・養蚕ようさん機織はたおり・工芸など実用的な分野で倭王権に貢献した。本拠地は山背やましろ葛野かどの郡、京都盆地の北部の嵯峨野さがの太秦うづまさである。北部九州から秋田県まで31ヶ国80郡におよび面的に分布し、諸国にある多数の秦部・秦人部などの部民べみんを統率して在地に大きな富を築き、東漢やまとのあや氏に比肩する勢力を誇ったが、朝廷での政治的地位は低かった。なかでも京都盆地の開発に大きな役割を演じた。秦河勝はたのかわかつ厩戸うまやど王(聖徳太子)の重臣で、葛野川に大せきを築いた。葛野川北岸の嵯峨野東南部の太秦うずまさ地区で6世紀の大型前方後円墳が5基造営されている。これらは秦氏の墳墓群と推定されている。また、「聖徳太子伝私記」では河勝を「大将軍」としている。秦氏は神仏ともに信仰し、京都の葛野秦寺かどのはたでら(後の広隆寺)・賀茂大社・松尾大社・伏見稲荷大社を建立した。葛野秦寺かどのはたでらには新羅の真平しんぺい王から厩戸うまやど王(聖徳太子)追善のために寄進した仏像が安置されている。そこには秦河勝はたのかわかつと厩戸王の深い縁が宿る。神仏習合の先がけともいえる。伏見稲荷は稲荷神社の総本社である。また、武蔵・美濃・駿河・遠江にも新羅からの渡来人が移住していた。欽明期に秦人はたひと漢人あやひとなどの渡来人を招集し、戸籍に登載したところ、秦人の戸数は7,053戸であったと記されている。これを律令制の郷戸(里)とすれば、一郷戸の平均27人で、190,431人となる。戸籍は渡来系氏族を対象として始まった可能性が指摘されている。秦系集団は様々な職域に進出し、広範な殖産活動を行った。古語拾遺は、欽明が幼いころ山背国の紀郡深草里の秦大津父はたのおおつちを近侍させていたが、秦大津父が大いに富を成したので、即位後、大蔵おおくらの官に任じたとしている。秦大津父こそ、秦氏の氏族組織と支配組織が成立したときの最初の族長と思われる。古語拾遺には東漢やまとのあや氏や西文かわちのふみ氏が「内蔵」「大蔵」の管理を分掌していたとしており、蔵の管理には多くの渡来系氏族が関わっていたことがうかがえる。ところで、羽田はた波多はたは皇別にあげられており、はた氏とは異なるといわれる。


東漢やまとのあや氏]

応神期にその祖となる阿直岐あちき、またの名は阿知使主あちのおみ、とその子の都加使主つかのおみ、並びに己が党類ともがら17県を率いて加耶から来倭し、奈良盆地南部の明日香(飛鳥)村の檜前ひのくまを本拠とした。出身地は加耶の安羅あらとされる。明日香あすか村の檜前ひのくまには於美阿志おみあし神社があり、祭神は阿知使主あちのおみである。境内には檜前寺の跡地もある。はた氏と同時期に渡来したと考えられている。雄略の代に、須恵器製作の陶部すえつくり、馬具製作の鞍部くらつくり、織物技術者の錦織にしごり、画師、譯語おさ(通訳)など多数渡来した。5世紀の技術革新の時代の今来いまき才伎てひとの渡来とその発展にあや氏が関わりを持っていた。欽明31年(570年)、高句麗使が北ッ海(越の海岸)に来着したおりに、東漢直糖児あらこらが迎えにおもむき、近江路を経て山背の相楽郡(木津川の辺り)にあった相楽館で接遇している例からも、外交や外交文書の記録にもたずさわっていたことが分かる。檜前ひのくまには高松塚古墳やキトラ古墳が存在する。蘇我氏の氏寺飛鳥寺の建立(596年)には百済僧ばかりでなく、寺工・瓦博士・画工らが多数渡来した。蘇我馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかの親衛隊とみなされていた時代もあったが、672年の壬申の乱で東漢一族が戦功をたてたため天武によりその罪を赦された。6世紀にはふみ氏・坂上さかのうえ氏・民氏・長氏などに分かれており、高市郡には東漢氏系の人びとが多く居住していた。8世紀の蝦夷征伐の征夷大将軍坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろは檜前に居住する東漢氏の武人を輩出した有力氏族である。彼らの武人としての性格を支える弓・馬・鷹の技能は、その子孫が引き継いだ結果であった。

<装飾(壁画)古墳と檜前ひのくまの地>

装飾古墳は海岸近く、あるいは河口から舟で容易に遡りうる河川の近くの丘陵地帯の崎やさこに見出される。装飾古墳が多くある九州では、玄界灘にそそぐ遠賀川水系、有明湾にそそぐ筑後川・矢部川・菊池川・緑川などの水系の上に濃密に見出される。海と河は古代の道である。海が続く限り、河に舟が遡りうる限り、文物も文化も、どんな遠隔の地にも伝播されうる。菊池川沿いには、ワカタケル大王と読める銀象嵌銘文がある鉄剣で有名な江田船山古墳もある。有明湾文化の装飾古墳は、高句麗・百済古墳や隋唐墓の壁画の影響圏内にある高松塚古墳とはその壁画の主題と作風を異にしている。その特徴は舟のモチーフであり、彩色連続三角文による大胆な抽象画的壁面構成にある。それは中国江南地方からベトナム・スマトラへとつながる「舟の民」の系統と考えられる。鳥や三角文・同心円文・矛などの線刻を描く古墳は熊本の180、福岡の63、鳥取51、神奈川45、宮崎42、など九州から東北の宮城まで全国にまたがっているが、日・月・星・四神・男女の群像などが描かれた高松塚古墳(明日香村の檜前ひのくま:伝文武天皇陵、7世紀末から8世紀初頭)とキトラ古墳(高松塚の南1キロ、7世紀後半)は別格の壁画古墳である。ともに横口式石槨である。高市郡檜前ひのくまの地には早くから渡来系の人びとが居住していた。日本書紀の欽明条に高市郡は今来いまき郡と書かれている。檜前ひのくまの南部の高取町の清水谷遺跡から大壁造建物・オンドル・韓式土器の三点セットをともなう5世紀後半の渡来系集落跡が発掘され、雄略期の渡来人伝承を証明した。壁画を描いたのは高句麗系の黄書造きぶみのみやつこ本実ほんじつではないかといわれる。横穴式石室は、中国東北部の遼東地方からの影響を受けたもので、特に高句麗の壁画古墳には顕著に認められる。


西文かわちのふみ氏]

あや氏としては、大和を本拠とした東漢やまとのあや氏に対して河内を本拠とした西漢かわちのあや氏も存在した。出身地は東漢氏と同様、加耶の安羅あらとされる。西文かわちのふみ氏は西漢かわちのあや氏の中で最も有力な氏である。和邇わに(王仁)吉師きしは応神期に百済から渡来し、ふみ氏・武生たけふ氏などの西文かわちのふみ氏の祖と伝えられる。書記や文筆を生業としてヤマト王権に仕えた河内の渡来系氏族で、古市郡古市郷の辺りを本拠とした。羽曳野市古市の西琳さいりん寺は氏寺である。5世紀後半ごろに移住した今来いまき才伎てひとたちの拠点の一つになっている。この氏から分かれたのは、馬首うまのおびと馬史うまのふひと・桜野首・栗栖首・高志史・蔵首などがある。馬の文化が展開した河内に居住している。任那復興会議における「安羅日本府」の倭臣河内直かわちのあたい西漢かわちのあや氏の一族であり、その父は加耶の軍事的首長である鷹奇岐彌ようがきみと推定される。物部氏の河内における最重要拠点は渋川郡跡部あとべ郷(大阪府八尾市)にあった。587年の蘇我馬子・物部守屋の対立・抗争、丁未ていびの役により、西漢氏の一部が蘇我氏の本拠である大和国高市郡へ移住させられ、東漢氏に編入された可能性がある。蘇我氏の本拠は大和国高市郡であるが、大伴氏・東漢氏と連携して6世紀半ばに河内の石川地方に進出した。天武期に蘇我氏は氏名うじなを石川に改めるが、この地名に基づいている。この蘇我氏の河内への進出も蘇我馬子・物部守屋の対立の一因とされる。


 雄略期の後半(475年~489年)から継体の登場(500年)、そして欽明(在位:540年~571年)までの約100年間は国内・国外で動揺が続いた時代である。倭王権は先進文化の継続的な受容のためにも、母国である朝鮮半島南部の任那(加耶)の地を死守する必要があった。継体崩御(531年)から欽明崩御(571年)までの40年間における重要な出来事を見ても、引き続き朝鮮半島が激動の時代であったかがよくわかる。古来倭国は朝鮮半島南部の加耶(任那みまな)と一体の国であった。


<6世紀中葉から6世紀後葉にかけての重要な出来事>

531年:

継体が崩御。継体の後継争いによる「辛亥しんがいの変」が起こった。

532年:

新羅は加耶の金官加耶(金海)を532年に併合し、536年には初めて新羅独自の年号(建元)を建てた。

537年:

日本書紀の宣化2年(537年)、新羅が任那に攻め入ったので、大伴金村はその子であるいわ狭手彦さでひこを遣わして任那を助けようとした。このとき磐は筑紫に留まり政務を執り三韓に備えたが、狭手彦は任那に行き、新羅の軍を鎮圧し、また百済を救援したと記す。

538年:

武寧王の子聖明王(在位:523年~554年)は538年に都を熊津ゆうしん(今の公州こんじゅ)からさらに南の泗沘しひ(今の扶余ふよ)へ移し、高句麗に備えた。

540年:

欽明が即位。この時期、南部加耶地域における安羅あら獲得をめぐる百済と新羅の争奪戦は最終局面を迎えていたようである。

541年:

欽明2年、百済の聖明王が主催者となり第一回任那復興会議が百済で開催された。加耶諸国の面々が百済に赴いて任那復興策について相談するための会議であった。一方で、高句麗に対抗するために、百済は新羅と同盟を結んだ。

544年:

欽明5年、百済の聖明王が主催者となり第二回任那復興会議が百済で開催された。 

552年:

仏教公伝。日本書紀によると、欽明13年10月、百済の聖明王が使者を遣わして、釈迦金銅像・幡蓋ばんがい・経論を倭の朝廷に献じ、併せて仏教を流伝させることの功徳について触れた表を奉った。元興寺縁起がんこうじえんぎ上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつでは、仏教公伝は538年とする。

新羅が漢江下流域(ソウル地域)を占有。

554年:

百済と新羅が交戦開始、金官加耶最後の王の王子「金武力きんぶりょく」の参戦により新羅大勝、百済の聖明王戦死。

562年:

大加耶(高霊こりょん)が新羅に滅ぼされ、やがて他の諸国もすべて新羅に吸収され、加耶諸国が滅亡した。加耶滅亡の報を受け、同年7月、紀男麻呂きのおまろの率いる倭国軍が加耶に派遣され、新羅軍と戦ったが大敗した。

568年:

新羅は半島の東北沿岸地域(今の咸鏡南道)を占拠した。この結果、百済は半島の南西部沿岸地域のみとなり、6世紀中葉以降の高句麗の最大の敵は百済ではなく新羅となった。

571年:

蘇我稲目は570年に亡くなり、欽明もその翌年の571年に崩御した。欽明の遺詔いしょうは新羅を討ち、任那(加耶)を復興することにあったとされる。この課題は歴代の大王たちに引き継がれていった。

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