第39話 5~6世紀の朝鮮半島情勢と倭国からの派遣軍
5世紀後葉から6世紀中葉、倭国で
朝鮮半島東南部では5世紀に入ると南部加耶の
475年に高句麗により漢城(今のソウル)が陥落したとき、北部加耶諸国も危機感を抱いた。事実、479年に
松本清張は、“
高句麗により475年に漢城(今のソウル)が陥落し、477年に都を
「隋書」百済伝には、「其の人
朝鮮半島東南部の辰韓12国は
4世紀前半、高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし朝鮮半島北部を制圧した後、国境を接することとなった高句麗と百済が旧中国郡県地域の支配権をめぐって熾烈な戦争を繰り広げた。当時、両国は中央集権的な領域国家体制の構築を志向しており、戦争で掌握した領土と住民を中央政府が直接掌握して統治しようとした。新羅も続いて領域国家体制に発展して、この争いに参加することとなり、3国間の争いになった。
427年に高句麗は朝鮮半島統一のため都を
中国南朝と
南朝の宋(420年~479年)は、450年の北朝の北魏(386年~534年)による侵攻により
[
金官加耶(金官国)の
<始まりは3世紀末>
① 北方文化(中国東北地方文化)の大挙流入。それは、精神文化としての
② それまで嶺南(慶尚南道と慶尚北道:弁韓・辰韓の地)の共通の墓制であった木槨墓が、この頃に、洛東江下流域(金海・釜山地区)を中心とした「金海型(広幅形)木槨墓」と、「慶州型(細長形)木槨墓」とに突然分化する。
③ 洛東江下流域のすべての墳墓群において、北方文化を持った金海型木槨墓が、先行の墳墓を破壊しつつ造営されている。このようなことは、それ以前にはまったくなかった。
金官加耶における最初の王墓であり、最初の金海型木槨墓である大成洞29号墳には、殉葬、厚葬、陶質土器、歩搖付金銅冠、オルドス型銅鍑などの北方文化がすべて具備されている。同時に、洛東江下流域において先行墳墓の破壊行為が確認できることは、金海型木槨墓と先行する木槨墓とは、継承関係がなかったことを意味する。また、嶺南共通の墓制であった木槨墓が突然、金海型木槨墓と慶州型木槨墓へと分化したことは、特定民族の移住による緊張の所産と考えられる。では北方文化の源はどこか? 鍵は耳の断面が特徴的なオルドス型
<終わりは5世紀初頭から前葉>
このような性格を持つ
ところで、金官加耶の集団の移住先の一つとして、日本列島中枢部の畿内が選択されたことは不思議ではない。大成洞古墳群出土の巴形銅器・筒形銅器・緑色凝灰岩製の石製模造品などからうかがわれるように、すでに4世紀から金官加耶は畿内王権と親縁関係にあったからである。このように見ていくと、大成洞古墳群の中心的な支配者集団の移住先は日本列島の畿内であった公算が大である。大成洞古墳群の築造が中断されたころの大加耶地域の土器に、安羅加耶・小加耶と、栄山江流域の土器が確認されていないのに対し、畿内の初期須恵器にはこれらの系譜の土器が含有されていることも、南部加耶連合広域圏の住民たちが、中心的な支配者集団に従って、ともに日本列島に移住したことを示している。5世紀初頭から前葉、大成洞古墳群の築造中断以後、日本列島の文化が大きく加耶的に変化している。須恵器・甲冑・馬具がその例である。
5世紀後葉から6世紀中葉は、加耶・倭国連合政権が百済と同盟を結び、高句麗・新羅と対峙する様相だった。山尾幸久(立命館大学名誉教授)によれば、475年から525年までの50年間は、倭人にとって古来文化的・経済的交流の拠点であった
この5世紀後葉から6世紀の日本書紀に記載された日本列島から朝鮮半島南部への派遣軍の規模をみてみると、倭国の朝鮮半島諸国への関与の度合いがよくわかる。日本書紀では、継体21年の6万人、崇峻 4年の2万人は、筑紫までは行ったことになっているが、そのうちの何人が渡海したかはわからない。6世紀までの日本列島の倭国から朝鮮半島への兵士の派遣は500人~1000人規模であり、多くても1000人余規模であったと推定される。したがって、加耶地域へ侵略してきた百済や新羅と戦ったのは主に加耶の倭兵であり、日本列島の倭国からは甲冑・弓矢、兵糧などを要請に応じて送っていたが、日本列島からの倭人の兵は非常時の援軍にすぎず、しかも当時の船や航海技術では季節に左右され、軍事的に必要な時期に渡海することはできなかった。結局、加耶は新羅からの度重なる軍事的圧力に対抗出来ず、532年には
[日本書紀記載の5~6世紀の派遣軍の規模]
雄略20年(476年):
500人、まだ準構造船であった。このころの準構造船は丸木舟の上に舷側板と前後の竪板を立てた構造であった。
継体 9年(515年):
500人、物部
継体21年(527年):
60,000人、南加羅(金官加耶)と
欽明9年(548年):
10月に370人の兵士を百済に送った。
欽明15年(554年):
1,000人、馬100頭、船40隻。船一隻につき兵員25人、馬2~3頭、武器・武具・馬具・食糧・燃料、
崇峻 4年(591年):
20,000人、新羅に圧力をかけるため、筑紫へ派兵・駐留させた。しかし、朝鮮半島へ出兵したとは伝えられていない。
<7~8世紀の遣唐使船の乗員>
飛鳥時代:一隻あたり約120人、大型の構造船で、追い風用の補助的な帆があった。
奈良時代:一隻あたり約150人、大型のジャンク型構造船で、帆柱を備えていた。
【コラム】古代の船
岩本才次(九州大学海洋システム工学)によれば、古代の船には
<
単材
<準構造船>
準構造船は刳り舟をシキ(敷)またはカワラ(瓦・航)と呼ばれる板を挟み、幅を広げたり長くしたり、また刳り舟の
<構造船>
準構造船に残っている刳り舟部材が板に置き換えられ、板と
4世紀後半から5世紀前半の準構造船を模した船形埴輪が大阪府を中心とした地域から出土しており、河内王権による朝鮮半島への出兵と結びつく。準構造船は、太い丸木を刳り抜いた船底部の上に
6世紀、継体の墓とされる今城塚古墳から出土の船絵には二本マストをもつ構造船、すなわち帆船が描かれている。継体21年(527年)の
長野正孝(元国交省港湾技術研究所部長で武蔵工大客員教授)は日本近海の航海の難しさを次のように述べている。
“日本近海は世界的に荒れる海として知られ、簡単に渡れる海はないといわれる。実際、東シナ海で荒天に遭遇すれば、100トン前後の鋼船でも簡単に沈む。遣唐使の船も、江戸時代の北前船も嵐に遭えば遭難した。したがって、航海では季節を選び、悪天候に遭わないことが鉄則である。海が荒れてしまった場合、船は丘に逃げる。だから丘に上げられるように船底は平らにする。対馬海峡の対馬から対岸の朝鮮半島の
また、日本(倭国)は6世紀まで一貫して鉄を造る技術がなく、
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