第39話 5~6世紀の朝鮮半島情勢と倭国からの派遣軍

 5世紀後葉から6世紀中葉、倭国で雄略ゆうりゃくから継体けいたい擁立、その後の欽明きんめいまでの混乱期に、朝鮮半島と中国では何が起きていたのか? それぞれの国ごとにその様子を概観する。また、日本書紀に記される当時の倭国から朝鮮半島南部への派遣軍の規模と、玄界灘や対馬海峡を渡る船や航海術についても見てみる。


加耶かや任那みまな):

 朝鮮半島東南部では5世紀に入ると南部加耶の金海きめにある金官加耶(金官国)の大成洞てそんどん遺跡は衰退し、釜山ぷさん福泉洞ぽくちょんどん遺跡に中心が移る。福泉洞ぽくちょんどんの墳墓群の出土品には新羅の特徴も目立ち、その影響下に入ったものとみられる。

475年に高句麗により漢城(今のソウル)が陥落したとき、北部加耶諸国も危機感を抱いた。事実、479年に加羅から国王「荷知かちまたは嘉悉かしつ王)」が中国南朝の南斉に遣使している。その加羅国は高霊こりょんの大加耶とみられ、5世紀後半に北部加耶で大加耶連盟が形成されていたと思われる。加耶諸国は元来独自性が強く、南部の金官加耶や安羅あらと北部の大加耶との利害は必ずしも一致せず、結局は最後まで、加耶連合は形成されなかった。日本書紀に、紀大磐きのおいわ宿禰が父の紀小弓きのおゆみ宿禰の病没を聞いて渡韓し、父の兵権をおさめたが、副将の蘇我韓子そがからこと反目して、これを弓で射殺(雄略9年:471年)。それから25年も任那みまなにあって高句麗にも通じ、権力をふるい、「まさに三韓で西王たらんとし、自ら神聖かみと称した」とある。このときの任那みまなは南部加耶を指していると思われる。きの氏の日本列島での本拠は和歌山県西部である。横穴式石室の導入では紀伊は近畿で最も早いといわれる。そこでは、高句麗式壁画や金銅製の馬具も出土している。

松本清張は、“きの氏は任那みまなの族長が渡来して紀伊に移住したと推測している。6世紀に入ると、百済の武寧王(在位:501年~523年)はその南の加耶地域への進出を画策し、新羅の法興王(在位:514年~540年)も加耶地域への領土拡張を進めた。512年の任那四県(栄山江流域)の百済への割譲や、527年の筑紫国造磐井いわいの乱が起きたのはこのような状況下のことであった。そして、532年に南部加耶の金官加耶が、554年ごろには安羅あらが、そして562年には北部加耶の大加耶が新羅に滅ぼされ、やがて他の加耶諸国もすべて新羅に吸収された。新羅は加耶諸国を併合する際に加耶の王族を新羅の支配層に取り込んでいった。それと同様に、百済も加耶諸国に残存した物部もののべ許勢こせきの科野しなのなどの倭系の有力者を百済官僚として登用した”、という。


百済くだら

 高句麗により475年に漢城(今のソウル)が陥落し、477年に都を熊津ゆうしん(今の公州こんじゅ)に移したように亡国の瀬戸際に立たされるが、倭国は倭国で生まれ育った百済の王子牟大むだいを「筑紫国の軍士五百人」の護衛をつけて帰国させて、東城とうせい王(在位:479年~501年)として即位させ、軍事的なつながりを強めた。東城王はその後、新羅と連合して高句麗と戦い、百済は体制を立て直し、495年に南朝の斉に遣使した。次の武寧ぶねい王(在位:501年~523年)は、蓋鹵こうろ王(在位:455年~475年)の弟の昆支こにき王子の子で、筑紫で生まれた「斯麻しま王」である。武寧王は、北は高句麗と戦ってその南下を防ぎ、南は加耶地域への進出を目指していた。1971年、公州こんじゅ市の宋山里そんさんに古墳群から未盗掘の武寧王陵が発見された。武寧王は日本書紀にも登場し、筑紫で誕生し、8世紀末の桓武かんむ天皇の生母である高野新笠たかののにいがさはその子孫である。その古墳からは中国南朝の影響を受けた副葬品の数々とともに、高野槇こうやまきで作られた木棺が発見されている。百済最大の政治課題は高句麗に対する戦勝と失地回復にあった。521年に新羅使臣を伴って中国南朝のりょうに遣使した武寧王は、「かさねて高句麗を破り、今始めてともに通交す。しかして百済あらためて強国とれり」と上表した。武寧王は百済中興の祖となった。朝鮮半島の西南部や東南部は加耶の領域であったが、熊津ゆうしんに遷都してからは加耶地域への進出を企てた。しかし、武寧王の子聖明王(在位:523年~554年)の時代になると、新羅の法興王が530年頃から加耶東南地域に攻勢をかけ始めたため、対高句麗の他に、新羅とも敵対関係が生まれた。538年には都を熊津ゆうしんから南の泗沘しひ(今の扶余ふよ)へ移し、高句麗に備えざるを得なかった。百済と倭国との間には、4世紀後半以来、王権間の交流があったが、東城王・武寧王・聖明王の時代には、朝鮮半島の軍事的緊張の中で両国の関係は強化され、人的交流は増大した。

「隋書」百済伝には、「其の人まじりて新羅しらぎ高麗こま(高句麗)・等あり。また中国の人あり」、との記述がある。百済は高句麗の軍事力に対して、中国王朝との通交、倭国との提携、そして文化の力で対抗しようと企画し、楽浪らくろう帯方たいほう系の遺民、新来の中国人を起用して王権の強化に努めた。


新羅しらぎ

 朝鮮半島東南部の辰韓12国は斯廬しろ国を中心に356年に統一された。伝説によると、始祖は赫居世かくきょせいで、姓をぼくといった。その他の王系にはせき氏ときん氏がある。「三国史記」の新羅本紀によれば、せき氏の祖先は、名を脱解だっかいといい、倭国の東北一千里の多婆那たばな国からきたといわれる。この倭国は朝鮮半島の洛東江の上流地域にあった倭人の国と思われる。新羅の中心は一貫して金城(今の慶州)にあり、金城内に六部と称する小地域があり、それぞれに自立的な政治集団を保ちつつ、外部に対しては結束していた。5世紀前半の高句麗の好太王(広開土王)(在位:391年~412年)・長寿王(在位:413年~491年)の時代には高句麗の支配下に置かれたが、5世紀後葉ごろから自立を目指し、6世紀に入ると、500年に智証王(在位:500年~514年)が即位し、異斯夫いしふを軍主に任じて領土を広げ、斯慮しろ部落を基礎に505年には東海岸一帯を統一し、510年ごろ新羅と称し、514年には智証王が死去してその子の法興王(在位:514年~540年)が即位した。この法興王時代に520年の官位制の制定を画期として、王の下に組織された金城(今の慶州)の六部という六つの地縁的・血縁的な集団からなる共同体を形成することにより首長たちを組織化して国家体制を整え、さらに領土拡張を進めた。特に加耶地域への領土拡張を進めた。長らく高句麗の属民であった新羅は521年に南朝に朝貢したのを皮切りに、倭国や高句麗と同様に中国の冊封国になった。529年、百済が高句麗に大敗を喫すると、加耶東南地域への軍事攻勢を強め、532年には加耶の金官加耶を併合し、536年には初めて新羅独自の年号(建元)を建てた。次の真興王(在位:540年~575年)の時代には加耶諸国の安羅(554年ごろ)、大加耶(562年)も滅ぼして加耶諸国全域を領有化し、さらに高句麗の南部地域へも領土を拡大していった。


高句麗こうくり

 4世紀前半、高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし朝鮮半島北部を制圧した後、国境を接することとなった高句麗と百済が旧中国郡県地域の支配権をめぐって熾烈な戦争を繰り広げた。当時、両国は中央集権的な領域国家体制の構築を志向しており、戦争で掌握した領土と住民を中央政府が直接掌握して統治しようとした。新羅も続いて領域国家体制に発展して、この争いに参加することとなり、3国間の争いになった。

427年に高句麗は朝鮮半島統一のため都を鴨緑江おうりょくこう中流北岸の丸都がんとから平壌ぴょんやんに移した。438年には中国五胡十六国の一つで遼寧りょうねい地方の北燕が滅亡し、北からの脅威がなくなり、ますます強大となって南進政策を推進するようになった。475年に百済の漢城(今のソウル)を攻め落として、漢江下流域を完全に支配下においた。4~5世紀は高句麗の一強であり、朝鮮半島の覇権を握っていた。6世紀に入ってからは、新羅の攻勢によって6世紀中葉以降の高句麗の最大の敵は百済ではなく新羅となった。しかし、589年にずいが中国を統一すると、隋は周辺の国々に強い態度で臨むようになった。この国際環境の変化に朝鮮半島情勢は緊迫し、とりわけ隋と国境を接する高句麗の緊張は高かった。高句麗は台頭する新羅との戦いを南に抱えたまま、北方の隋に備えなければならなくなった。


中国南朝とずいによる中国統一:

 南朝の宋(420年~479年)は、450年の北朝の北魏(386年~534年)による侵攻により淮水わいすい以北から山東半島にいたる領土を完全に奪われ、宋の国力は衰退の一途をたどった。479年に宋を滅ぼし、斉(479年~502年)を建国した蕭道成しょうどうせいはこの北部戦線で実力を築いた軍閥であった。斉は増税と賄賂の横行、さらに恐怖政治により、わずか3代23年で幕を閉じた。502年に梁(502年~557年)王朝を開いたしょう氏一族の蕭衍しょうえんは、寛政をしいて疲弊した民生の回復に努め、官制改革により貴族制の再編、隋の科挙の源流の一つといわれる官吏養成所の設置などを行い、南朝史上まれにみる安定と平和をもたらした。その在位は47年に及び86歳で没したが、最後は北朝の東魏からの帰順者侯景こうけいにより幽閉され死んだ。その後、554年に北朝の西魏がそのときの梁の都江陵を陥れ、梁の百官を関中に拉致した。その後も混乱が続いたが、ついに557年に梁の将軍陳覇先ちんはせんは梁の最後の皇帝蕭方智しょうほうちから禅譲を受け、陳(557年~589年)朝を開いたが、四川・湖北・湖南・淮南の地を失い、南朝最小の領域を支配した王朝であった。これまでの南朝の王朝はすべて北方から江南への移住者であったが、陳覇先は南朝初めての江南出身者であった。それは南朝貴族社会が崩壊したことを意味している。その後、江南一円の支配を回復するが、556年建国の北朝の北周の攻撃を受け、江南の地に封じ込まれた。華北の隋は初代の楊堅(文帝)(在位:581年~604年)が581年に、北魏から分裂した西魏(535年~556年)の後裔で華北を統一した北周(557年~581年)を奪って創始し、589年に50万の大軍により南朝の陳を討伐して中国を統一した。陳の滅亡により南朝文化の中心であった健康(今の南京)は破壊され荒廃に帰し、270年にわたる南北朝時代は終焉した。それまで南朝と連携・連動あるいはその傘下にあった北のモンゴル高原の柔然じゅうぜん、西部の青海せいかい吐谷渾とよくこん雲南うんなん爨蛮さんばん、高句麗、百済などの諸勢力は唐代にかけて相次いで滅亡した。一方で、それらの背後で勢力を蓄積していた突厥とっけつ吐蕃とばん・雲南の南詔なんしょう渤海ぼっかい・新羅・倭国などが興隆してきた。


大成洞てそんどん古墳の始まり(3世紀末)と終わり(5世紀初頭から前葉)の問題]

 金官加耶(金官国)の大成洞てそんどん古墳の終わりの5世紀前葉といえば、広開土王碑に記載されているように、加耶諸国で最も有力であった金官加耶は、400年の高句麗による侵攻によって大打撃を受け、その勢いが衰え始めた時期にあたる。第11話「伊都国・奴国・狗邪国」と第24話「加耶の有力国と栄山江流域、騎馬文化の伝播」でも大成洞てそんどん遺跡の考古学的考察を記したが、倭王権に直結する問題なので再度取り上げる。

 申敬澈しんぎょんちょる(釜山大学教授)は、金官加耶があった金海きめ大成洞てそんどん古墳の始まり(3世紀末)と終わり(5世紀初頭から前葉)の問題は、金官加耶あるいは加耶地域だけに限られるものではなく、当時の朝鮮半島南部や日本列島とも深く関わるという点でも、極めて重要であると述べている。そして、大成洞てそんどん古墳群を分析してみると、3世紀末に、この地に次のような一大変革があったことが見て取れるという。この考古学的考察は、記紀の天孫降臨神話、3世紀末から4世紀初頭の三輪王権成立と「アメノヒボコ」の加耶からの渡来、4世紀末から5世紀初頭の河内王権成立、さらに6世紀のヤマト王権の欽明きんめい蘇我そが氏へとつながる重要な内容を含んでいるのでここで紹介する。


<始まりは3世紀末>

 ① 北方文化(中国東北地方文化)の大挙流入。それは、精神文化としての殉葬じゅんそう、厚葬(多量の土器の副葬)と、物質文化としての陶質土器(両耳付円底短頸壺)、鉄製甲冑(挂甲・蒙古鉢型冑)、騎乗用馬具、歩搖付金銅冠、オルドス型銅鍑どうふくなどである。陶質土器の系譜を追跡するには両耳付円底短頸壺が最適な資料であり、それが中国北方に近い高句麗・百済ではまったく出土せず、それを飛び越えて朝鮮半島東南端の洛東江下流域で出現している。殉葬の流入経路も陶質土器のそれと同じである。殉葬は元来朝鮮半島にはなかったもので、3世紀末、洛東江下流域に突然出現し、4世紀中葉には新羅まで拡散し、6世紀前半までの約250年間、加耶・新羅のみに確認される。当時の東アジアで、殉葬の習俗を持つ民族は、中国北方の諸民族のみであるという点で、洛東江下流域で確認される殉葬は、この地域と深く関連することは間違いない。このような陶質土器や殉葬が、厚葬、歩搖付金銅冠、オルドス型銅鍑と同時に洛東江下流域に出現していることは、中国北方の特定地域のものが一挙に入ってきたことは疑う余地はない、

 ② それまで嶺南(慶尚南道と慶尚北道:弁韓・辰韓の地)の共通の墓制であった木槨墓が、この頃に、洛東江下流域(金海・釜山地区)を中心とした「金海型(広幅形)木槨墓」と、「慶州型(細長形)木槨墓」とに突然分化する。

 ③ 洛東江下流域のすべての墳墓群において、北方文化を持った金海型木槨墓が、先行の墳墓を破壊しつつ造営されている。このようなことは、それ以前にはまったくなかった。

 金官加耶における最初の王墓であり、最初の金海型木槨墓である大成洞29号墳には、殉葬、厚葬、陶質土器、歩搖付金銅冠、オルドス型銅鍑などの北方文化がすべて具備されている。同時に、洛東江下流域において先行墳墓の破壊行為が確認できることは、金海型木槨墓と先行する木槨墓とは、継承関係がなかったことを意味する。また、嶺南共通の墓制であった木槨墓が突然、金海型木槨墓と慶州型木槨墓へと分化したことは、特定民族の移住による緊張の所産と考えられる。では北方文化の源はどこか? 鍵は耳の断面が特徴的なオルドス型銅鍑どうふくにある。金海きめから3点出ているが、新羅からは出ていない。原産地は中国吉林省北部か黒龍江省南部で、そこは夫餘ふよと呼ばれている地域である。洛東江下流域は加耶発祥の地で、加耶の盟主である金官加耶の地である。3世紀末に夫餘ふよ族の移住があり、それが加耶成立の契機となった。


<終わりは5世紀初頭から前葉>

 このような性格を持つ大成洞てそんどん古墳群において突然、築造が中断される事態が、5世紀初頭から前葉に起きた。これは他の加耶地域の古墳群が、加耶が滅亡する6世紀中葉まで造営され続けるのとは対照的である。この大成洞古墳群の築造中断の際に、注目すべき出来事が起きている。一つは新羅様式土器の成立であり、もう一つは日本列島における須恵器の生産開始である。これらは同時期の事象であり、互いに連動していることは明らかである。新羅土器の出現は、この時期から洛東江下流域が新羅圏へ編入され、事実上、金官加耶が滅亡したことを示している。陶質土器を見る限り、大成洞古墳群の後裔たちは何ヶ所かに分れて移住したものと考えられるが、その最も有力な候補地は、嶺南の内陸部に位置する大加耶の高霊こりょん多羅たら陝川はぷちょんと思われる。移住先のもう一つの有力な候補は初期須恵器すえき(=陶質土器)からみて日本列島である。大成洞古墳群築造中断のころ、日本列島各地で加耶土器が突然出現し、飛躍的に増加している。また、この頃、日本列島各地で初期須恵器の生産が開始されるが畿内を除く地域ではその生産が中断され、河内の陶邑すえむら中心の須恵器として統一されていく。畿内の初期須恵器は、金官加耶の陶質土器のみならず、安羅加耶・小加耶や、栄山江よんさんがん流域の陶質土器の系譜も包含されている。このことは、金官加耶を頂点とした政治連合に栄山江流域も含まれていることを意味する。

 ところで、金官加耶の集団の移住先の一つとして、日本列島中枢部の畿内が選択されたことは不思議ではない。大成洞古墳群出土の巴形銅器・筒形銅器・緑色凝灰岩製の石製模造品などからうかがわれるように、すでに4世紀から金官加耶は畿内王権と親縁関係にあったからである。このように見ていくと、大成洞古墳群の中心的な支配者集団の移住先は日本列島の畿内であった公算が大である。大成洞古墳群の築造が中断されたころの大加耶地域の土器に、安羅加耶・小加耶と、栄山江流域の土器が確認されていないのに対し、畿内の初期須恵器にはこれらの系譜の土器が含有されていることも、南部加耶連合広域圏の住民たちが、中心的な支配者集団に従って、ともに日本列島に移住したことを示している。5世紀初頭から前葉、大成洞古墳群の築造中断以後、日本列島の文化が大きく加耶的に変化している。須恵器・甲冑・馬具がその例である。 


 5世紀後葉から6世紀中葉は、加耶・倭国連合政権が百済と同盟を結び、高句麗・新羅と対峙する様相だった。山尾幸久(立命館大学名誉教授)によれば、475年から525年までの50年間は、倭人にとって古来文化的・経済的交流の拠点であった金海きめを中心として、文物・財宝の輸入などの活動に関して、倭国は最も望ましい状態であった。この状態を「領土」と称したり、この活動を「支配」と考えるのは全くの誤認である。また、百済最大の敵は高句麗であり、そのために加耶諸国との同盟関係は必要だった。だから百済は新羅の加耶諸国への進出を怖れていた。したがって、百済にとって安羅あらなど加耶西南地域への軍師の駐屯は不可欠だった。大加耶・安羅・百済の三者は、高句麗や新羅に対抗するために倭国の軍事力を必要としており、それぞれの国が自国の事情により倭王に兵士の派遣を要請していたという状況にあった。


 この5世紀後葉から6世紀の日本書紀に記載された日本列島から朝鮮半島南部への派遣軍の規模をみてみると、倭国の朝鮮半島諸国への関与の度合いがよくわかる。日本書紀では、継体21年の6万人、崇峻 4年の2万人は、筑紫までは行ったことになっているが、そのうちの何人が渡海したかはわからない。6世紀までの日本列島の倭国から朝鮮半島への兵士の派遣は500人~1000人規模であり、多くても1000人余規模であったと推定される。したがって、加耶地域へ侵略してきた百済や新羅と戦ったのは主に加耶の倭兵であり、日本列島の倭国からは甲冑・弓矢、兵糧などを要請に応じて送っていたが、日本列島からの倭人の兵は非常時の援軍にすぎず、しかも当時の船や航海技術では季節に左右され、軍事的に必要な時期に渡海することはできなかった。結局、加耶は新羅からの度重なる軍事的圧力に対抗出来ず、532年には金海きめの金官加耶(金官国)は新羅に併合されてしまった。 


[日本書紀記載の5~6世紀の派遣軍の規模]

雄略20年(476年):

500人、まだ準構造船であった。このころの準構造船は丸木舟の上に舷側板と前後の竪板を立てた構造であった。

継体 9年(515年):

500人、物部至至ちち連が舟師500を率いて帯沙高江(朝鮮半島南岸の蟾津江せんじんこうの右岸地域)に至った。このころから複数の長材で船の幅や長さを増した船底部を持つ準構造船になったと思われる。円筒埴輪には二本マストの描写があることから、追い風用の帆をかけていた可能性もある。6世紀前葉は継体の時代であり、継体は水運王といわれる。

継体21年(527年):

60,000人、南加羅(金官加耶)と喙己呑とくことんが新羅に領域化されたことを受け、故地奪還を目的として近江毛野臣おうみのけなのおみが率いて新羅への出兵を目指したが、筑紫で磐井いわいの叛乱があり、足止めとなった。磐井の乱の後の529年、近江毛野臣は任那の安羅へ出兵し、新羅との領土交渉を行ったとあるが、6万人は多すぎると思われ、実際に出兵した人数は不明である。近江毛野臣は新羅軍に対抗できず、大きな成果が上げられないまま530年に逃げ帰る形で帰国途上の対馬で病没した。

欽明9年(548年):

10月に370人の兵士を百済に送った。

欽明15年(554年):

1,000人、馬100頭、船40隻。船一隻につき兵員25人、馬2~3頭、武器・武具・馬具・食糧・燃料、水手かこ30人。40隻の船団が一週間の航海を果たすには10トン級の船が必要。この当時の航海技術や舟では大量の救援軍を送る能力はなかったと推定される。百済からの見返りは五経博士、僧侶、易・歴・医博士、採薬師、楽人など。

崇峻 4年(591年):

20,000人、新羅に圧力をかけるため、筑紫へ派兵・駐留させた。しかし、朝鮮半島へ出兵したとは伝えられていない。


<7~8世紀の遣唐使船の乗員>

飛鳥時代:一隻あたり約120人、大型の構造船で、追い風用の補助的な帆があった。

奈良時代:一隻あたり約150人、大型のジャンク型構造船で、帆柱を備えていた。


【コラム】古代の船

 岩本才次(九州大学海洋システム工学)によれば、古代の船にはり舟(丸木舟)、準構造船、構造船があるが、古墳時代の船で朝鮮海峡を渡るには季節や風向きなどを考慮しなければ渡海できなかったようだ。古墳時代・飛鳥時代の航海術は、昼間陸地の地形を頼りにして沿岸を航海する「地乗り」航法が一般的であり、夜間の航海はしないのが基本であった。夜間航海や陸が見えない海上航海は江戸中期になってからである。対馬北端の鰐浦わにうらから朝鮮海峡を挟む最短の地は今の釜山ぷさんである。対馬海流は通常で1.5ノットの北東流があり、大潮時には3ノットを超えることもある。大型の準構造船で朝鮮海峡を渡るには10名ほどの屈強の水手かこが漕いでもせいぜい2~3ノットで、追い風が吹いても11~16時間はかかる。夏場の早朝に出港したとしても、明るいうちに釜山に着けるかどうかは微妙で、日の短い冬の季節は到底無理であったと考えられる。しかし、記紀に「強い追い風が吹き、船が波に乗って渡海した」という記述があることを考えると、記紀成立当時の8世紀初頭には帆走は珍しいことではなかったかもしれない。稚拙ではあっても追い風用の補助的な帆での帆走技術があれば、明るいうちに釜山付近に到達できたと思われる。また、8世紀の遣唐使船は大型の構造船で、水密隔壁によって前後方向にいくつもの独立した部屋に区切られたジャンク型構造船であったと推定される。


り舟(丸木舟)> 

 単材り舟は一本の丸太をり抜いて造られ、主に川や湖、陸に近い沿岸部で使用されたと考えられる。形は鰹節かつおぶし形が比較的多く出土している。推進手段は主にかいが使われていた。日本最古のり舟は福井県の鳥浜貝塚などから出土した縄文時代前期のもので、鳥浜貝塚の刳り舟は5300年前のもので、長さ6.1メートル、幅0.6メートル、深さ0.2メートルの鰹節形で、船材はスギである。弥生時代になると、鉄製の工具が普及してきたため刳り舟の先端は尖り、船体の肉厚も薄く、深さも0.5メートルほどになった。幅は0.5~0.8メートルが大半だが、出土例の中には1.25メートルのものもある。

<準構造船>

 準構造船は刳り舟をシキ(敷)またはカワラ(瓦・航)と呼ばれる板を挟み、幅を広げたり長くしたり、また刳り舟の船縁ふなべりにタナ(棚)と呼ばれる側板を付けて大型化し、積載量や耐航性能を向上させた舟である。その主体部は、一木から刳り抜いただけでは幅が足りないため、左右別々に造り、それらを船体中央部でぎつけたり、また刳り舟を長さ方向にいくつかの部分に分割して別々に造り、それらを継いで長さを長くしたりした複材刳り舟である。準構造船は輸送量を増大させたり軍事的必要に迫られて考案されたりしたと思われる。操舵には長いかいが使用されていた。古墳時代の中期(5世紀)~後期(6世紀)の遺跡である大阪府寝屋川市の長保寺ちょうぼじ遺跡からは井戸の井筒に再利用された3隻分の船底が発見されている。それは古墳時代中期の準構造船の船底を裁断して井筒に転用していたもので、直径1メートル以上の杉の大木の半分を刳り抜いた厚さが10センチほどの船底で、これに舷側版を取り付けた準構造船は全長10メートル以上で、外洋航海ができるものである。大阪府四條畷市の蔀屋北しとみやきた遺跡からも古墳時代中期(5世紀)の4基の井戸内から転用された船の部材が発見されている。これらの遺跡は5世紀の港湾であったであったと考えられる。これらの港を出港した準構造船は河内湖から大阪湾・瀬戸内海を漕ぎ渡って、さらに玄界灘・対馬海峡を経て朝鮮海峡を越えていった。宮崎県の西都原さいとばる古墳群出土の5世紀の舟形埴輪や大阪府柏原市の高井戸横穴群の線刻画からうかがえるように、追い風用のむしろまくのような帆をかけていた可能性もある。古墳から出土する舟形埴輪は基本的に準構造船であることから、弥生時代末から古墳時代にかけては準構造船のままであった。基本的に準構造船には現代の船にある水密の甲板(デッキ)はないので、外洋を航海するのは大きな危険を伴ったと思われる。

<構造船>

 準構造船に残っている刳り舟部材が板に置き換えられ、板とはりによって構成される構造の舟である。構造船になったのは飛鳥時代以降と考えられる。構造船には、戸立造り(伊勢船)・箱置き(二形船)・水押造り(弁才船)などいくつかの船首形状がある。8世紀の奈良時代の遣唐使船になると帆柱を備えていたようだ。


 4世紀後半から5世紀前半の準構造船を模した船形埴輪が大阪府を中心とした地域から出土しており、河内王権による朝鮮半島への出兵と結びつく。準構造船は、太い丸木を刳り抜いた船底部の上に舷側版げんそくばんを両側に継ぎ足し、船首と船尾を竪板たていたで塞いだ構造で、朝鮮半島への航海にも耐えうる船である。

 6世紀、継体の墓とされる今城塚古墳から出土の船絵には二本マストをもつ構造船、すなわち帆船が描かれている。継体21年(527年)の磐井いわいの乱のとき、近江毛野臣おうみのけなのおみは兵6万を率いて出陣する。この6万が実数かどうか分からないが、大軍を搬送しようとしたのは間違いないとすれば、準構造船ではなく、二本マストをもつ構造船であったことは十分に考えられるが未解明である。また、九州の壁画古墳には船を描いたものが多い。博多湾岸と有明海には大きな港があり、磐井をはじめとした九州の水軍の実態はかなり大きなものであったと推測される。


 長野正孝(元国交省港湾技術研究所部長で武蔵工大客員教授)は日本近海の航海の難しさを次のように述べている。

“日本近海は世界的に荒れる海として知られ、簡単に渡れる海はないといわれる。実際、東シナ海で荒天に遭遇すれば、100トン前後の鋼船でも簡単に沈む。遣唐使の船も、江戸時代の北前船も嵐に遭えば遭難した。したがって、航海では季節を選び、悪天候に遭わないことが鉄則である。海が荒れてしまった場合、船は丘に逃げる。だから丘に上げられるように船底は平らにする。対馬海峡の対馬から対岸の朝鮮半島の金海きめ、また対馬から壱岐までの各50キロの距離を航海するには、常に天気を読んで出航し、さらに風と潮を見る術が必要である。魏志倭人伝には、楽浪郡(204年以降は帯方郡)が諸国を検察するために、糸島半島の伊都国に一大率いちだいそつを置いたり、楽浪郡使(204年以降は帯方郡使)が常に往来したりという記述がある。伊都国は、いざという時には、風向きにかかわらず、腕力に任せて潮に乗って漕ぎ出せば対馬まで、風があれば朝鮮半島まで一番短時間で行ける要所であったと推測できる。博多付近から壱岐までは約30キロ、壱岐から対馬は約50キロ、対馬から朝鮮半島の金海きめまでは50キロである。3世紀の邪馬台国時代、日本列島の中に、九州以外に玄界灘や対馬海峡を渡る技術を持っていた「クニ」が存在していたとは考えにくい。

また、日本(倭国)は6世紀まで一貫して鉄を造る技術がなく、鉄鋌てっていを輸入し、製品に加工する鍛造をおこなわざるを得なかった。倭国では鉄はもっぱら船を造る道具づくりに消費されたと考える。したがって、船を造るために鉄を運び、鉄を運ぶために船を造ったのである。下関市の綾羅木あやらぎ遺跡から板状鉄斧、のみやりがんななどの鋭利な刃物が出土している。これらの刃物は造船用としか考えられない。”

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