第38話 皇系氏族集団による国家体制の整備とヤマト王権の成立

 継体けいたいと、尾張連草香くさかの娘、目子めのこ媛との子は、安閑あんかん宣化せんかとなる。東海系の弥生土器は美濃を越えて越前に入っており、尾張と越前は弥生時代からつながりが深い。記紀によれば、継体が大和入りした後に皇后となったのは、河内王権の仁賢にんけんの娘で武烈ぶれつの姉の手白香たしらか媛であり、継体との子が欽明きんめいと伝えらえる。尾張連草香くさかの墓は熱田神宮近くの断夫山だんぶざん古墳(151メートル)であり、東海地方最大の前方後円墳である。欽明の墓は奈良県最大の橿原かしはら市の見瀬丸山みせまるやま古墳と推定される。見瀬丸山古墳(全長318メートル、6世紀後半の前方後円墳、橿原神宮前)には、ずば抜けた長さ26メートルの横穴式石室に二つの家形石棺が安置されている。612年に蘇我稲目いなめの娘の蘇我堅塩きたし媛を合葬したと日本書紀に記されているので、欽明と堅塩媛の石棺と推定される。

 ニニギノミコトは吾田あたの土地(薩摩半島)においてコノハナサクヤヒメに出会い、ホスソリ(海幸彦:隼人の始祖)、ヒコホホデミ(山幸彦)、ホノアカリ(尾張連の始祖)が生まれたという日本神話の記述は、6世紀の3つの巨大古墳の鼎立、つまり九州には磐井いわいの岩戸山古墳、近畿には継体けいたいの今城塚古墳と欽明きんめいの見瀬丸山古墳、東海では草香くさかの断夫山古墳という歴史事件や情勢が記紀に反映したのではないかと考えられる。欽明の時代は王権が卓越を強め地域首長を従属させた。


 6世紀から7世紀前半までの時期には、古代国家の骨格の形成が著しく進展した。畿内の倭王権は、5世紀末ごろから整えられはじめて6世紀初頭の継体期に成立した「うじ」と「かばね」を与えることで豪族層の地位を承認したり、有力な豪族が奉じる神々を序列化したりして、豪族たちの独自性を奪い彼らを政権内に取り込んでいった。それは5世紀のひと制社会からの大きな歴史的転換であった。 


 6世紀に国家の体制が整ってきたことは、次の点によく現れている。初期の国家体制は、507年の継体(在位:507年~531年)の即位から、安閑(在位:534年~535年)、宣化(在位:536年~539年)、そして欽明(在位:540年~571年)に至る四人の大王の時代に整ったと考えられる。水野祐は継体による新王権を「統一王朝」と名付けた。それは奈良盆地の大和に本拠を置く「ヤマト王権」と言える。


・5世紀に成立したひと制から6世紀には部民べみん制への発展。品部しなべ部曲かきべなどのは全国各地に設置された。

・部民制に伴う氏姓うじかばね制度の成立。うじ(豪族)には政治的地位や世襲的職掌に応じて大王からかばねが与えられた。

・ヤマト王権の地方支配制度である国造くにのみやつこ制度の成立。国造はヤマト王権に対して一族の男女を、大王や王族の護衛に従事する舎人とねり、王宮の警護に従事する靫負ゆげい、大王の食膳などに奉仕する膳夫かしわで采女うねめとして出仕させる義務を負った。

・ヤマト王権直轄地として各地に屯倉みやけを設置。これにより、ヤマト王権の支配が全国各地に浸透していったことが分かる。

・大王家の財産を管理する内倉うちのくら、ヤマト王権の財政を管掌する大蔵おおくらの制度が整備された。

・百済から五経博士が渡来し儒教が伝わり、仏像・経典とともに仏教ももたらされ、帝紀・旧辞も結集された。


 氏姓うじかばね制度で「あたえ」と呼ばれて、各地域を支配していた首長も、この頃までに次々と独立を失い、ヤマト王権に従属したと思われる。あたえ姓氏族が地位を安定させるために取った方策が、大王の同族団に加わる、つまり擬制的親族集団に編入されることであった。大王側も勢力拡張のためにそれを歓迎した。 


 直木孝次郎は、「古代国家の形成と皇別氏族の成立」の中で、“崇神すじん(第10代)・垂仁すいにん(第11代)・景行けいこう(第12代)の三代の皇子を始祖とするあたえ姓氏族は17氏、応神おうじん(第15代)の皇子の場合は10氏、合せると全体で40氏中の27氏と多数を占めると指摘する。なぜなら、この4代が比較的早く帝紀に定着したからである。これに対し、綏靖すいぜい(第2代)から開化かいか(第9代)までの欠史八代の大王の後裔のあたえ姓氏族は少ない。それは欠史八代の成立が遅れたから”、と述べている。

さらに、“有力なおみ姓氏族、例えば葛城かつらぎ和邇わに春日かすが蘇我そがは、本来皇系を称する必要はなかった。彼らは大王家と通婚関係を持ち、事実として同族であった。また、通婚関係がないおみ姓氏族でも、大臣おおおみ大夫たいふの地位を得た氏族、例えば巨勢こせ平群へぐり阿部あべきの坂本さかもとなどは、政権内での実力から、ことさらに皇系氏族であることを主張する必要はなかった。しかし、672年の壬申じんしんの乱を経て政権を握った天武てんむ以降、大王の権力は強大となり、独自の地位を誇っていたおみ姓氏族も大王の系譜に連ならなければ、地位を保てない時代となった。天武期にはまだ欠史八代の系譜全体は成立していなかったが、神武(初代)と崇神(第10代)の間をつなぐ作業は、この頃促進されたのではないだろうか”、と述べている。つまり、6世紀段階のヤマト王権は有力なおみ姓、すなわち皇系氏族の集団によって組織・運営されていたようだ。


氏姓うじかばね制度]

当時の王権の支配体制は、5世紀末ごろから整えられはじめたうじかばねによる氏姓制度が根幹であった。それは5世紀のひと制社会からの大きな歴史的転換であった。うじとは、一定の職務によって大王に奉仕した豪族層の政治組織のことである。うじの本質は、始祖の大王への奉仕伝承と同族系譜をよりどころにして、大王の政治・軍事・祭祀・技術など様々な職務に関わる政治的地位を世襲的に分掌していくことにあり、うじは族長である氏上うじのかみを中心に結集された。経済的な基盤は私有地や所有する奴婢ぬひ部民べみんである。族長の氏名には、大伴おおとも忌部いんべかしわでなどのように倭王権での職掌に由来するものと、葛城かつらぎ蘇我そがのように本拠地の地名に由来するものとがあり、うじ部民べみん制と関連して成立した。うじには政治的地位や世襲的職掌に応じて大王からかばねが与えられた。おみは大王一族につながる氏族。むらじは神々の子孫で王権直属の氏族に多い。きみ(君)は近い皇裔、やつこは軍事・祭祀に関わる伴造とものみやつこあたえ国造くにのみやつこは地方の首長に多い。天武13年(684年)に制定された「八色やくさかばね」では明確に序列化され、氏名+姓、で表記する制度が整い、庶民も姓をもち、戸籍に登録されるようになった。しかし、8世紀の律令制の下では、うじいえよりも個人の能力を重んじるようになり氏姓うじかばね制度は崩壊した。


部民べみんせい制]

部民制とは中央・地方の豪族が領有する民衆を率いて王権に従属し、各種の奉仕義務を負う体制である。この体制には豪族と民衆が一体となった集団が王権に対してともとして従属する関係と、とも内部で豪族が民衆を部曲かきとして支配する関係の二つが内包されている。豪族はそれぞれうじという疑似的血縁集団をつくって朝廷(王権)の各種の職務を世襲的に分掌し、ともを率いて王宮へ出仕、労役の提供、物品の貢納などの職務を負い、その代わりに部曲かきから一定の収取を認められていた。したがって、部民制はうじによる朝廷(王権)の職務分掌体制であるとともに、王権の全国的な民衆支配の体制である。この体制はうじごとに部曲かきを分割的に領有する体制であって、うじによる部曲かきの私民化が強まると、部民制の限界が露呈した。


国造くにのみやつこ制度]

継体の即位を契機に成立したヤマト王権の地方支配制度である。国造は倭王権の地方官で、国造制は王権の地方支配の根幹である。地方の有力な豪族が任命され、一定の領域の民衆と土地を支配し、そこから外征のための兵士や中央の造営のための役夫えきふの徴発、物資の貢納にあたり、屯倉みやけの設置管理にも大きな役割を果たした。国造はヤマト王権に対して一族の男女を舎人とねり(大王や王族の護衛に従事)・靫負ゆげい(王宮の警護に従事)・采女うねめ(大王の食膳などに奉仕した女子)として出仕させること、必要に応じて軍役などの力役を負担すること、特産物などを貢納すること、中央からの使者を接待することなどの義務を負ったと考えられる。隋書倭国伝によれば、7世紀初めに、120の国造が任命されており、その国造の下に稲置いなぎが10人置かれ、稲置は80戸を管掌するという。稲置の管掌範囲は「コホリ」と呼ばれていたようである。また、国造の下には各種の部が設置され、それを管掌するのは地方の伴造とものみやつこであった。しかし、7世紀には国造の下に中小の豪族が成長し始め、国造制が動揺を見せ始めていた。この部民制・国造制などの支配体制の動揺を克服することがヤマト王権の切迫した課題であった。


屯倉みやけ

篠川賢(成城大学教授)によれば、屯倉みやけは「官家」「御宅」「三宅」などとも書かれ、経営の拠点としての施設に、尊称のが付いた語と考えられ、王権の直轄地だけでなく、王権にかかわる施設は広く「ミヤケ」と呼ばれたという。屯倉の設置には、広範囲に水田をひらき、灌漑や排水のための水路を備える必要があった。田部たべと呼ばれた人びとが多数動員されて耕作し、刈り取られた稲穂は倉に収納された。屯倉の経営を成功させるには、水田・田部たべ・倉庫の管理が必須条件となる。そのためには、水田の所在地、田部たべの人名や労働日数、倉での稲穀の収納量などを正確に記録する必要がある。それらを文字で記録し、数量の計数に当ったのは、韓人からひと高麗人こまひとと呼ばれた渡来系の人びとであった。

那津官家なのつのみやけ(福岡)、難波屯倉なにわのみやけ(大阪)、児島屯倉こじまのみやけ(倉敷)など、軍事・外交・交通の要地に設置されたヤマト王権の直轄地の出先機関は「ミヤケ」と呼ばれた。児島屯倉は製塩との関係があり、他に鉱山・製鉄などのために設置された「ミヤケ」もあったとみられる。また、各地の豪族が国造・伴造・稲置などに任命されると、その居宅はヤマト王権との関係を持ったということで「ミヤケ」と呼ばれた。欽明期(540年~571年)の吉備の白猪屯倉しらいのみやけでは、屯倉の耕作にあたったのは田部たべと呼ばれた人びとであり、田部は戸籍によって把握されていた。但し、この場合の戸籍は律令制下の戸籍ではなく、田部の名のみを書いた戸籍と考えられる。田部の成立は継体期以降のことと考えられる。地方から大和に入って即位した継体は王権の経済的基盤を大和に置くために、匝布屯倉さほのみやけを設置している。日本書紀の宣化元年(536年)の条には、蘇我稲目いなめは尾張むらじを遣わして尾張の屯倉の穀を、物部麁鹿火あらかいは新家むらじを遣わして伊勢の新家の屯倉の穀を、阿部おみは伊賀おみを遣わして伊賀の屯倉の穀を運ばせたという。これらのことから、各地の屯倉はすべて大王の管轄下にあったのではなく、それぞれ有力なうじによって掌握されていたことが推定される。


[東国の征服]

水野祐によれば、北関東の荒川以北の毛野けぬ国(毛人けひと国)は永らく独立国としてヤマト王権に属していなかった。南関東の武蔵国がヤマト王権の勢力下に入ったのは、安閑元年(534年)であった。安閑元年(534年)の武蔵国造の継承をめぐる上毛野かみつけぬ小熊おくまが推す小杵おぎねと、ヤマト王権が推す使臣おみの争い。この争いには使臣おみが勝利したが、武蔵から4つの屯倉みやけを献上している。この事件で毛野けぬ国はますます警戒を厳にし、荒川以北の地を守備してヤマト王権に反抗を続けるようになった。そして半世紀後、敏達10年(581年)に叛乱を起こし、ヤマト王権に敗れ、北関東の毛野けぬ国はヤマト王権下に入った。舒明9年(637年)に蝦夷えみしの叛乱が起こると、毛野国を兵站基地として、上毛野かみつけぬ形名かたなを将軍に任じて鎮圧にあたらせた。


 もう一つ、6世紀における鉄器生産の観点からみても、その国家形成の発展ぶりがよくわかる。 


[継体期から欽明期(507年~571年)のころの鉄器生産]

村上恭通(愛媛大学教授)によると、古墳時代後期(5世紀末~6世紀末)になると、畿内および地方における鉄素材量の消費が増大するなか、精錬鍛冶を主として行い、鉄素材を多量に生産する鍛冶遺跡が登場する。大阪府柏原市の大県おおあがた遺跡は古墳時代最大の鍛冶遺跡であり、大量の鍛冶(おり・かす)・羽口が発見されている。鍛冶炉は地上式であり、設備そのものが渡来的様相を呈する。大規模な精錬鍛冶施設を大県おおあがた遺跡で経営し、大量の鉄素材生産が可能となった。周溝をめぐらし、地上式炉を設けた大県おおあがた遺跡の鍛冶工房は、全羅南道光州市の河南遺跡や鰲仙洞ごうせんどう遺跡に類例を見出すことができる。ヤマト王権が製品生産だけでなく、鉄素材に対する自立的獲得を希求する態度が反映されている。大阪府柏原市に残る「宅祖たくそ」の地名を古事記のから鍛冶である「卓祖」渡来記事と結びつけて朝鮮半島西北部を起源とする鍛冶の渡来を論ずる説は有力である。しかし、古墳時代後期に中国山地(岡山平野・津山盆地)に出現する最古期の製鉄技術は、その中核的な施設である製鉄炉や操業原理があまりにも朝鮮半島のものと異なっており、渡来人による技術移入は想定しがたい。鉄器を作るまでの一連の工程が倭国内で明瞭な形で行われるようになった6世紀中葉という時期なくして、国家に管理される鉄の生産は実現しなかった。6世紀中葉から後半は国内産の鉄による自給が可能となった時期であり、自立的な鉄生産体制に移行した画期的な段階である。但し、生産地は吉備きび美作みまさかに限られており、引き続き鉄素材を朝鮮半島に依存する必要もあった。

このことからは、継体による磐井の乱(527年)の鎮圧と新羅による金官加耶の併合(532年)は鉄素材の継続的な入手を目的とした争いという側面を持っていたと推測できる。


 ヤマト王権に奉仕するともの設定は、民衆の王民化を意味した。在地豪族の支配する領域内にともを設定する場合、まずそれらの豪族のヤマト王権への服属が先行しなければならない。氏姓うじかばね制度や部民べみん制によって中央の有力者や地方の首長たちを王権の支配秩序に組み入れていった。しかし、とも屯倉みやけの各地への設定は何事もなく行われたのではない。各地の国造くにのみやつこ層には、その領域へのヤマト王権の介入に反発する者もあったし、農民の暮らしの発展が貢納・力役という形で阻止され破壊される動きに対して、有力な農民層も不満を抱いていた。これに加えて、朝鮮半島の加耶地域の西側では、512年には任那みまな四県(栄山江流域)の百済への割譲、その翌年の513年には己汶こもん帯沙たさの両地域が百済に奪われるという事態が起こった。その東側では、新羅が加耶諸国を圧迫していた。そこでヤマト王権は朝鮮半島への出兵を計画し、大規模な軍事行動に出ようとしたが、527年に北部九州の豪族たちは筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわいを中心として朝鮮半島への出兵を拒否し、叛乱を起こした。1年半にわたる筑紫つくし肥国ひのくに豊国とよのくにを挙げての磐井いわいの叛乱は、ヤマト王権にとって大きな打撃となり、朝鮮出兵の計画も効果をあげないまま挫折してしまった。そして532年には南部加耶の南加羅(金官加耶)・喙己呑とくことん卓淳とくじゅんが新羅に併合されてしまった。

 このような国内外における多くの困難に直面しながらも、500年ごろの継体けいたい擁立から540年の欽明きんめい即位までに、有力なおみ姓氏族である和邇わにきの巨勢こせ平群へぐり蘇我そがなどの皇系氏族集団によってヤマト王権は成立したと思われる。しかし、この時期は倭国にとって地理的、歴史的、さらに倭王の血縁的にも、最も深い関係にあった朝鮮半島南部の栄山江流域や加耶の諸国が次々と滅ぼされていくという加耶の滅亡の時代でもあった。

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