第37話 加耶・倭国連合政権の崩壊
加耶・倭国連合政権の崩壊の始まりは512年の
[
任那四県とは、朝鮮半島南西部、今の全羅南道で
継体は527年に九州の
継体の地盤である越前と近江の古墳の一部からは、まるで福岡県の王塚古墳や熊本県の横山古墳にみるような船形石棺と石屋形の横穴式石室があるのは注目される。日本には約15万の古墳があるけれど、そのうちで被葬者がほぼ確定しているのは15~20にすぎない。継体と磐井の古墳はその数少ない確定している古墳である。磐井の古墳は福岡県
[
527年に
日本書紀には、磐井が新羅と通じ、継体が南加羅(金海や昌原など金官加耶圏)の復興のために派遣した
磐井の乱は単なる地方豪族の叛乱ではない。それは国家形成期における畿内の倭王権と有力な地方勢力との軍事的衝突である。もともと筑紫勢力は、朝鮮半島との主体的な交渉権をもちながら、他方で畿内の倭王権の外交政策を支えていた。新羅の加耶侵攻を契機として、畿内の倭王権が筑紫勢力の対外交渉権を掌握しようとしたために起こったものだった。磐井は畿内の倭王権による九州支配の強化に対して決然と抵抗した。5世紀(河内王権)から6世紀前葉(継体の新政権)において、筑紫勢力は、倭国と百済・
磐井の乱は5世紀末ごろから整えられはじめた
直木孝次郎は、この乱の重要性について次のように指摘している。
“磐井に打ち勝ったことにより継体政権が確立したことは確かであるが、より重要なのは、ヤマト王権(畿内の倭王権)に対する地方勢力の叛乱が、この乱以後、数世紀にわたって起こらなかったことである。倭国は6世紀後半に至って国家体制が整備・充実し、地方勢力とは隔絶した軍事力・経済力を保有するようになった。地方の勢力は、ヤマト王権(畿内の倭王権)に対抗できる政権を打ち立てる望みを失ったのである。”
[
福岡県
大伴金村は
[
大伴氏は応神・仁徳の東遷に従って
祖先神はアメノオシヒ(アメノオシホミミ)で、ニニギが降臨する際に武具を帯して随従したとされる。また、その子孫は神武東征の道案内の
[
古事記ではニギハヤヒは天孫の天降りを聞いた後に、それを追って天降りし、「
継体即位後の25年間は国内・国外で動揺が続いた時代である。そこに継体が登場する契機があったはずである。河内王権は先進文化の継続的な受容のためにも朝鮮半島南部の任那(加耶)の地を死守する必要があった。いやそれ以上に、任那(加耶)は河内王権の支配者たちの母国であり、失ってはならない土地であった。雄略以後、河内王権の力が衰え、自力では任那(加耶)への兵力派遣が難しくなっていた。そこで、近江から越前・美濃・尾張と勢力を拡大し、水運による物資の配送により大きな富を貯えていた継体に、河内王権の有力豪族であった大伴氏が倭王権を託したと思われる。継体が尾張に勢力を伸ばしたことは、継体が尾張連
継体は531年に亡くなった。継体の軍事優先路線は
[継体の
継体の真の陵は摂津北部の三島にある今城塚古墳(190メートル:大阪府高槻市)と比定されている。墳丘の周囲に二重の濠と堤がめぐっている。6世紀前半に築造された古墳では日本最大である。そこから出土した家形石棺に阿蘇ピンク石・二上山白石・竜山石などが使用されているが、阿蘇ピンク石(熊本県宇土半島産)は初葬時のもので、継体と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます