第37話 加耶・倭国連合政権の崩壊

 加耶・倭国連合政権の崩壊の始まりは512年の任那みまな四県(栄山江よんさんがん流域)の百済への割譲だった。百済は加耶・倭国連合政権の盟友であるが、北方の高句麗からの侵略に晒されていたため、南方の任那四県を完全に自国の領土に組み入れて国力を増強する必要があった。一方、加耶・倭国連合政権は東方の新羅からの侵略に対抗するには百済との同盟を維持する必要があり、任那四県の百済への割譲をのまざるを得なかったと考えられる。任那(加耶)の西側にあたる栄山江よんさんがん流域は独立した地域であり、古くから北部九州とのつながりは深いが、加耶にも百済にも属していなかった。しかし、当時の南部加耶の盟主であり、加耶・倭国連合の本宗家を自認する金官加耶の王族はこの割譲に強く反対した。それにもかかわらず、任那みまな四県の百済への割譲は倭国主導で実行されたため、金官加耶の王族は倭国との連合より新羅との連携を模索する行動にでた。それは新羅の王女との婚姻であったが、新羅はこれをきっかけとして加耶地域へさらに進出した。


任那みまな四県の百済への割譲]

任那四県とは、朝鮮半島南西部、今の全羅南道で栄山江よんさんがん流域のほぼ全域にあたる上哆唎おこしたり下哆唎おろしたり沙陀さだ牟婁むろの四県の地域のことである。継体6年(512年)に、百済からの任那四県の割譲の申し出に対して、哆唎たり国守穂積臣押山ほずみのおみおしやまが百済に割譲することを継体けいたいの倭王権に具申し、倭王権から派遣された大伴金村おおとものかなむらは同意せざるを得なかった。押山は四県が百済に近接していることと、このままでは百済や新羅の侵攻から哆唎たり国を守りえないとしていた。百済の加耶地域への侵攻が始まる6世紀初頭の段階において、新羅もその西方の北部加耶、その南方の南部加耶への侵攻を図り、その北方でも高句麗の勢力を退けて、東海岸沿岸地域を北上して領土を回復しようとしていた。この栄山江流域では、3世紀から5世紀にかけて、大型甕棺かめかん墓という朝鮮半島では特色のある墓制が盛んであった。さらに、5世紀中頃から6世紀前半には、前方後円墳が登場し、13基ほど確認されている。この地域は日本列島の倭国、特に北部九州地域と非常に関係が深く、宋書にある倭の五王が支配権を主張した慕韓ぼかんと推定される。さらに、日本書紀によると、513年には、伴跛はへ(大加耶)が己汶こもんの領有をめぐり百済と争い、百済に奪われたようである。また、倭は帯沙たさの地を百済に賜ったとある。この己汶こもん帯沙たさの2国は蟾津江せんじんこうの右岸地域と推定される。蟾津江は加耶の西側を北から南に流れ、朝鮮半島南部沿岸地域の今の全羅南道と慶尚南道の境となっている。このように、百済の圧力により加耶地域の縮小化が進んだ。


 斯慮しろは510年に新羅しらぎと称し、514年には智証王が死去してその子の法興王(在位514年~540年)が即位した。この法興王の時代に国家体制を整え、加耶地域へ侵攻して領土拡張を進めようとした。三国史記に、524年に法興王は加耶との境界を越えて領土を広げたとある。大伴金村おおとものかなむら継体けいたいは加耶へ援軍を送ろうとしたが、筑紫の磐井いわいの抵抗に遭遇した。


 継体は527年に九州の磐井いわいと大戦争をした。磐井は筑後川流域の支配者であるだけでなく、玄界灘、周防灘に面した豊前の上膳などを支配する北部九州の大王であり、新羅・百済・加耶諸国との通商権も握っていたと思われる。物部麁鹿火もののべのあらかいは磐井の叛乱のときに大将軍として九州に派遣され磐井の鎮圧に成功した。継体勢力が磐井との戦争の後に奪ったのは、玄界灘にある貿易拠点である。もともと継体の前身の越の勢力は北部九州とは頻繁に交流のある土地柄だったが、継体が倭王権の大王になってから対立関係が生じた。それは磐井が北部九州の重要な港である玄界灘沿岸の香椎潟かしいがたを支配していたことと、新羅との貿易を独占していたためと思われる。真相は新羅の圧力を警戒した安羅加耶あるいは大加耶が倭王に軍事支援を要請したところ、新羅側についた磐井がその支援を妨害し、乱を起こしたのであった。北部九州の有力な首長たちにとって、自らの共同体の存亡に関わる対外関係は、百済・新羅・加耶と畿内の倭王権との関係を天秤にかけて自ら選択したのである。 

 継体の地盤である越前と近江の古墳の一部からは、まるで福岡県の王塚古墳や熊本県の横山古墳にみるような船形石棺と石屋形の横穴式石室があるのは注目される。日本には約15万の古墳があるけれど、そのうちで被葬者がほぼ確定しているのは15~20にすぎない。継体と磐井の古墳はその数少ない確定している古墳である。磐井の古墳は福岡県八女やめ市の岩戸山古墳(138メートル)であり、継体の古墳は大阪府高槻市の今城塚古墳(190メートル)である。岩戸山古墳の東にある乗場のりば古墳(70メートル)は磐井の子葛子くずこの墓と推定される。久留米の高良山こうらさん神籠こうご石があり、その山から流れているのが岩井川という、日本で一番短い川である。継体が磐井との戦いに勝った後に繁栄するのは、壱岐いきと福岡県の宗像むなかたである、彼らは継体に味方したと思われる。南九州のクマソ(熊襲)がどちらに味方したかは未だ分かっていない。


磐井いわいの乱]

527年に筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわいが叛乱を起こす。雄略の死からヲホド(後の継体)擁立前後までの倭王権(河内王権)が不安定な時期、磐井を盟主とする北部九州勢は朝鮮半島情勢に対しても独自の動きを志向していた。彼らは百済ではなく、新羅寄りであったとされる。そして、継体がついに河内・大和の中央豪族を掌握し、大和の磐余玉穂宮いわれたまほのみやに遷都した翌年の継体21年(527年)に、九州の磐井いわいと大戦争をした。南加羅(金海きめ昌原ちゃんうぉんなど金官加耶圏)とその北にある喙己呑とくことんが新羅に領域化されたことを受け、倭王権の故地奪還を目的として継体政権が出兵をすることになったが、磐井が同意しなかったため、継体政権が磐井を征伐することとなった。日本書紀によると、磐井の乱は継体21年(527年)6月から継体22年(528年)11月まで約1年半にわたったとされる。その磐井の勢力は筑後を拠点に筑前・肥前・肥後・豊前・豊後という北部九州から中九州にまたがっていた。筑後川下流域に基盤をおく磐井は、有明海沿岸の諸勢力や豊前・豊後の勢力をも糾合して一年半にわたって継体の新王権に抵抗した。

日本書紀には、磐井が新羅と通じ、継体が南加羅(金海や昌原など金官加耶圏)の復興のために派遣した近江毛野臣おうみのけなのおみの軍勢を妨げる行動に出たので、大連物部麁鹿火もののべのあらかいを大将として磐井が起こした乱を鎮圧し、その磐井の子の葛子くずこは528年12月に福岡平野の東部にある糟谷屯倉かすやのみやけを献上して服従したとある。糟谷屯倉は志賀島がある郡で、玄界灘沿岸の海上交通の拠点である。この時、継体は物部麁鹿火に「筑紫より西はなんじ制せよ」と促していることは物部氏と継体との倭王権内での位置を示唆している。王権の直轄地である屯倉みやけの設置は、玄界灘に面した糟谷屯倉が最初で、その後の安閑元年(531年)の摂津三嶋郡の竹村たかふ、535年には筑紫の穂波ほなみ鎌屯かま、豊国の桑原など5か所、さらに火(肥)国の春日部など北部九州から瀬戸内・東国にかけて計26か所にも及んだ。その多くは西日本、なかでも瀬戸内地域や、磐井の勢力下にあった筑紫・豊国・火(肥)国に偏り、屯倉みやけがまずは、磐井の乱後の対外ルートの掌握という課題と連動して進んだことがわかる。宣化元年(536年)には外交窓口となる筑紫の那津なのつ(博多湾)のほとり官家みやけを作り、河内・尾張・伊賀などの屯倉から稲を運ばせ、かつての磐井の勢力圏であった筑紫・火(肥)国・豊国の屯倉からも稲を集めた。これによって、九州各地の屯倉は対外交通の要衝に置かれた那津官家なのつのみやけの管理下に入り、北部九州諸勢力の独自の対外交渉機能も、倭王権の統括下に置かれるようになった。博多湾に面した福岡市の比恵ひえ遺跡は那津官家なのつのみやけに当ると考えられている。 


 磐井の乱は単なる地方豪族の叛乱ではない。それは国家形成期における畿内の倭王権と有力な地方勢力との軍事的衝突である。もともと筑紫勢力は、朝鮮半島との主体的な交渉権をもちながら、他方で畿内の倭王権の外交政策を支えていた。新羅の加耶侵攻を契機として、畿内の倭王権が筑紫勢力の対外交渉権を掌握しようとしたために起こったものだった。磐井は畿内の倭王権による九州支配の強化に対して決然と抵抗した。5世紀(河内王権)から6世紀前葉(継体の新政権)において、筑紫勢力は、倭国と百済・栄山江よんさんがん流域・大加耶との交渉を実質的に担っていた。河内王権との政治的な関係を示す銘文入り刀剣を副葬した著名な二つの古墳、熊本の江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳にも大加耶系装身具が副葬されている。一方、新羅との関係も強かった筑紫勢もいた。磐井がいた八女市や福岡県飯塚市・田川市・糟屋郡などの古墳から華麗な帯金具・耳飾り・馬具などが出土している。磐井の乱の後の筑紫勢力は百済や大加耶との関係を重視する畿内の倭王権の外交政策に従事するようになったことは副葬品から知ることができる。

磐井の乱は5世紀末ごろから整えられはじめたうじかばねによる氏姓制度や国造くにのみやつこ制などの地方支配体制を整備し実施する契機となった。乱の後には田地・港湾などの直轄地の屯倉みやけの整備とともに、畿内の倭王権から領域支配を認められた国造が配置されたと考えられている。また、乱の後には朝鮮半島南西部の栄山江流域での倭系の前方後円墳の築造が停止したとされる。それは磐井をはじめとする九州地域の豪族が独自に展開していた外交の権益が剥奪されたことを意味し、畿内の倭王権に外交権が一本化されたことを示唆する。


 直木孝次郎は、この乱の重要性について次のように指摘している。

“磐井に打ち勝ったことにより継体政権が確立したことは確かであるが、より重要なのは、ヤマト王権(畿内の倭王権)に対する地方勢力の叛乱が、この乱以後、数世紀にわたって起こらなかったことである。倭国は6世紀後半に至って国家体制が整備・充実し、地方勢力とは隔絶した軍事力・経済力を保有するようになった。地方の勢力は、ヤマト王権(畿内の倭王権)に対抗できる政権を打ち立てる望みを失ったのである。”


磐井いわい岩戸山いわとやま古墳]

 福岡県八女やめ市の人形原にんぎょうばる古墳群にある北部九州最大の岩戸山古墳(138メートルの前方後円墳)が磐井の墓とされ、武人や力士などの石人せきじん石馬せきばと呼ばれる石で作られた人や馬がある。墳丘の周囲に濠と堤をめぐらせ、北東部に張出部(別区)を設けている。人形原古墳群は5世紀中頃から造営され、6世紀後半まで間断なく古墳が造られ、最も古いのは5世紀中頃の石人山せきじんやま古墳(120メートルの前方後円墳)である。この古墳は北部九州・中九州では最大規模であり、5世紀後半以降全国的に古墳が小型化していくなかで例外的ともいえる。石人・石馬と横口式家形石棺を持つ古墳はその多くが佐賀県から熊本県にかけての有明海沿岸地域に存在する。八代海を含む有明海沿岸の豪族たちは弥生時代から朝鮮半島南部の国々と緊密な関係にあった。有明海沿岸地域は石棺製作に適した阿蘇溶結凝灰岩が豊富に分布しており、肥後で製作された石棺は4世紀後半から瀬戸内海沿岸や近畿地方に船で運ばれていた。


 大伴金村は雄略ゆうりゃくの遺志を引き継ぎ、南部加耶諸国の防衛に奔走していた。加耶へ援軍を派遣するためには、越王として勢力を拡大しつつあったヲホド(後の継体)を倭王として擁立する以外に道はなかったと考えたようだ。しかし、景行けいこう以来の豪族のうち、大和の河内王権の残存勢力と北部九州の勢力は継体に反抗した。それが、継体の即位の遅れ(500年から507年まで7年かかった)、大和入りの遅れ(即位後20年経った526年に磐余玉穂宮いわれたまほのみやに都した)、筑紫の磐井による加耶への援軍派遣の妨害(継体の大和入り直後の527年から528年)に現れている。日本書紀は、磐井の乱の後に、6万の兵を率いて南加羅(金海や昌原など金官加耶圏)に遠征した近江毛野臣おうみのけなのおみは大きな成果が伝えられないまま、帰国途上の対馬で病没したと伝えている。6万の兵という数字は大きすぎて信用できないが、継体の地盤である近江の兵が主力であったようだ。しかし、如何にせん援軍が遅すぎた。その3年後の531年に継体は崩御した。その翌年の532年には大伴金村の願い空しく、金官加耶は新羅に併合されてしまった。350年代の景行による加耶から北部九州への侵攻から始まり6世紀前葉の越王継体による新王権まで、約180年続いた加耶・倭国連合政権はついに崩壊してしまった。


大伴おおとも氏]

大伴氏は応神・仁徳の東遷に従って難波なにわに至り、大阪上町丘陵地帯を占拠した。同じ大王に直属する親衛隊を物部氏とともに形成していた。大伴は大王に仕えるともを統率する、あるいはそれを代表するうじ名であり、本来特定の職掌を持たなかったともいわれる。大伴氏は金村かなむらが継体の即位を支持したことを契機に成立したうじと考えられる。大伴氏は大和には当初基盤を持たず、大和周辺の摂津・和泉・紀伊・河内が基盤であった。雄略期の東国遠征により相模・甲斐・武蔵・下総・安房・常陸・上野・磐城・下野へと勢力を拡げた。 

祖先神はアメノオシヒ(アメノオシホミミ)で、ニニギが降臨する際に武具を帯して随従したとされる。また、その子孫は神武東征の道案内の道臣命みちおみのみことという。ともに最高位の人物の道案内役として活躍した先祖伝承が残されている。大王に直属する親衛隊の首長であり、雄略期に室屋むろや大連おおむらじになっている。室屋の子がかたりで、465年に紀小弓きのおゆみらとともに新羅征伐のために派遣されている。日本書紀によれば、雄略9年(471年)に新羅で戦死している。その子の大伴金村かなむらは継体・安閑・宣化にも大連として倭王権の軍事・外交に多大な影響力を行使したが、継体期の512年に大伴金村は任那四県を百済に割譲する事件が起きた責任をとらされ、物部氏により欽明元年(540年)に失脚させられた。6世紀半ばには大伴氏に代わって物部氏・蘇我氏が勢力を有したが、金村の子の狭手彦さてひこは何度も朝鮮半島に出兵し、562年には高句麗軍を破っており、大伴くいは587年の物部守屋討伐軍に参加している。壬申の乱においては、大和国で大伴馬来田まくた吹負ふけい兄弟が大海人皇子(天武)側の中心的な勢力として活躍した。この兄弟は金村の孫である。8世紀の万葉集には大伴旅人たびとや、その子家持やかもちをはじめ多くの大伴氏の歌を載せる。大伴家持は万葉集の主たる編集者である。823年、淳和天皇即位を期に大伴一族は「とも」と姓を改めた。平安期の9世紀半ばには藤原氏により政治的地位を失った。


物部もののべ氏]

部民べみんの一つである物部もののべを統轄する伴造とものみやつこ氏族であった。「物」とは武器や軍人を意味する言葉で、物部は軍事や刑罰を担った部民とされる。物部のうじ名は部民制が導入された初期の5世紀後半に成立したうじ名とみられ、麁鹿火あらかいが継体の即位を支持したことを契機に成立したと考えられる。物部氏は大伴氏とともにむらじの雄族で、伊莒弗いこふ麁鹿火あらかい尾輿おこし守屋もりやと代々大連おおむらじで世襲であった。

古事記ではニギハヤヒは天孫の天降りを聞いた後に、それを追って天降りし、「天津瑞あまつしるし」を献じて大王に仕えたニギハヤヒの子ウマシマデは物部連もののべのむらじ穂積臣ほづみのおみ娞臣うねのおみの祖なりと記す。記紀に共通するのは、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹トヨヤビメとの間にウマシマデが生まれた、ニギハヤヒは神武に帰順した、ということである。その後、ヤマト王権の親衛隊となり、版図拡大の先兵部隊となった。垂仁すいにん期に十千根とおちねの名がみえる。継体擁立に大伴金村とともに功があったのが麁鹿火あらかいで、磐井の叛乱のときに大将軍として鎮圧に成功した。麁鹿火の子が、その子が荒山あらやま、その子が尾輿おこしで大伴金村を失脚させ大連おおむらじを独占した。尾輿おこし蘇我稲目そがいなめと排仏・崇仏で対立し、それぞれの子の時代に引き継がれ、蘇我馬子そがうまこが物部守屋もりやを587年に守屋の本拠のある河内の渋河で討った。畿内諸豪族にとって、昔九州から東征してきた河内の本宗家の物部氏が排除されたことになる。その後衰退したが、物部八十氏といわれるほど複姓が多く、おびとみやつこなどとして全国に分布していた。大友皇子と天武てんむに仕えた大和の物部麻呂まろの時に石上いそのかみを名乗るようになった。684年の天武期の「八色やくさかばね」で第二位の朝臣あそみとなった石上いそのかみ氏は物部氏の後裔こうえいである。七支刀しちしとうは百済からの使節が神功皇后52年(369年)に献上。現在天理市の石上いそのかみ神宮にある。天理市の石上いそのかみ神宮、東大阪市の石切劔箭いしきりつるぎや神社、八尾市の矢作やはぎ神社・弓削ゆげ神社・跡部あとべ神社、島根県の物部神社などは物部氏と同じ祖先神を奉じる一族が神職を継承する。ニギハヤヒが最初に勢力を広げたのは北河内と中河内であり、物部氏の本宗家が根拠地とした土地でもある。そこは旧大和川の下流域にあたる。氏族の中には、交野かたの物部(河内)・鳥見とみ物部(大和)・筑紫つくし物部(豊前)のように地名を冠して区別する場合が多い。


 継体即位後の25年間は国内・国外で動揺が続いた時代である。そこに継体が登場する契機があったはずである。河内王権は先進文化の継続的な受容のためにも朝鮮半島南部の任那(加耶)の地を死守する必要があった。いやそれ以上に、任那(加耶)は河内王権の支配者たちの母国であり、失ってはならない土地であった。雄略以後、河内王権の力が衰え、自力では任那(加耶)への兵力派遣が難しくなっていた。そこで、近江から越前・美濃・尾張と勢力を拡大し、水運による物資の配送により大きな富を貯えていた継体に、河内王権の有力豪族であった大伴氏が倭王権を託したと思われる。継体が尾張に勢力を伸ばしたことは、継体が尾張連草香くさかの娘、目子めのこ媛を妃としたことで分かる。目子媛との子は、後に安閑あんかん宣化せんかとなる。継体が大伴金村に擁立され507年に即位後、最初に都を置いたのは大阪府枚方ひらかた市の樟葉くすは、その5年後に南山背やましろ筒城つつき、さらに6年後に淀川水系の北の弟国おとくにを経て、20年目に大和の磐余玉穂宮いわれたまほのみやに入っている。その背景には、継体の大和入りに反対する勢力がいたといわれる。しかし、継体は大和の磐余に入るまでは淀川・木津川水系から離れていない。 継体は淀川・木津川水系地域の治水と開発、河津の整備、軍事・物流のための大型輸送船の建造を行っていたと考えられる。継体の時代前後には倭王権の内外でいくつかの叛乱が発生している。512年には、大伴金村が任那四県を百済に割譲する事件が起き、527年には筑紫国造磐井の叛乱も起きている。そして、安閑元年(531年)の武蔵国造の継承をめぐる上毛野かみつけぬ小熊おくまが推す小杵おきと、倭王権が推す使臣おみとの争いがあった。この争いには使臣が勝利したが、使臣は武蔵から4つの屯倉みやけを献上させられている。これにより倭王権は相模から北方にその直轄領を進め、そこを前身基地として北関東に独立国のように存在していた毛野けぬ国を6世紀後半には服属させた。また、532年には新羅による金官加耶の併合があり、朝鮮半島における倭国の権威・影響力も大きく後退した。 


 継体は531年に亡くなった。継体の軍事優先路線は安閑あんかん宣化せんかに引き継がれた。継体から安閑・宣化にかけての時期には、各地に屯倉みやけが設置され、軍事動員の重圧が地方豪族にも重くのしかかってきた。しかし、531年の継体崩御後の皇位継承も不明なところがある。一説には大伴氏が推す安閑・宣化と、物部氏・蘇我氏が推す欽明きんめいが争い、安閑・宣化は即位しなかったともいわれる。継体崩御後の7年間(532年~539年)は欽明と安閑・宣化との並立時代であったという「辛亥しんがいの変」については後述する。大伴金村は継体・安閑・宣化の時代に大連おおむらじとして倭王権の軍事・外交に多大な影響力を行使したが、欽明元年(540年)に失脚し大伴氏は衰退した。


[継体の今城塚いましろつか古墳]

継体の真の陵は摂津北部の三島にある今城塚古墳(190メートル:大阪府高槻市)と比定されている。墳丘の周囲に二重の濠と堤がめぐっている。6世紀前半に築造された古墳では日本最大である。そこから出土した家形石棺に阿蘇ピンク石・二上山白石・竜山石などが使用されているが、阿蘇ピンク石(熊本県宇土半島産)は初葬時のもので、継体と肥国ひのくにとの関連が示唆されるが、これは磐井の乱を鎮圧した結果なのかもしれない。宇土半島産の阿蘇ピンク石で造られた家形石棺が、主として5世紀後半~6世紀初頭に近畿地方に運ばれていることは明らかになっている。今城塚と岩戸山という、同時期に築造された日本最大級の古墳で、被葬者が判明している稀な例である。両古墳は周堤から突き出した張出部を持ち、そこに形象埴輪や石製表飾(石人・石馬など)を配置するという特徴がある。これは6世紀前半から中頃の大型古墳の特徴でもある。九州と畿内とを結ぶ輸送ルートや沿岸首長との関係は、磐井に対処する継体王権にとっても重要な布石となったと思われる。今城塚古墳には、二重の濠の間の土を盛った内堤部に長さ65メートル、幅10メートルにわたり、武人や巫女・力士などの人物、犬・水鳥などの動物、神殿などの家、さらに盾・大刀・塀・柵など様々な形象埴輪136体以上が配置されている「埴輪祭祀区」の存在が確認されている。そこから出土した円筒埴輪には帆掛け舟がへらで描かれている。継体が日本海、九頭竜川、淀川の水上交通を支配していたのは確かである。また、日本書紀では、ヲホド(後の継体)がまだ越前にいて、倭国の王になってほしいという誘いがあったとき、北河内(東大阪市)の馬飼の集団の頭に連絡をとり、大和や河内の情勢を確認している。日本列島で馬具が急増するのは6世紀初頭の継体の頃である。継体の時代に乗馬の風習が日本に普及し始めている。日本で、古墳の周囲に馬がたくさん埋めてあるのは熊本県と長野県である。このあたりで馬が育てられていたと思われる。(伝)継体陵に治定じじょうされているのは太田茶臼山古墳(226メートル:大阪府茨木市)で、河内の古市古墳群の5世紀中ごろの市野山古墳や墓山古墳とほぼ同形同大である。さらに出土した埴輪の分析からも太田茶臼山古墳は5世紀中ごろの古墳と判断され、日本書紀などで531年に没したとされる継体の墓ではないことが確定している。

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