第36話 越王ヲホド(後の継体)の登場と新王権

 雄略ゆうりゃくが489年に崩御後、激しい王位継承争いが続き、507年にヲホド(後の継体けいたい)が即位するまでの約20年間、大王の権威は弱体化していた。そうしたなか、近江に定着していた傍系王族のヲホドが頭角を現した。ヲホドは越前から近江・美濃・尾張へと勢力を拡大していた。ヲホドが地盤とした勢力は、4世紀後葉に応神おうじん仁徳にんとくと同時期に北部九州から東征し、その後110年~130年を経て、北陸・近江・美濃・尾張で土着化した倭人集団である。500年ごろには鉄器もこの地域に行きわたっており、河川の築堤や鉄の刃先を付けた農耕具の利用などにより、農産物・魚介類・畜産物も豊富となり、水運による交易も盛んになっていた。越前・近江・濃尾平野の豊かさがその地の土着倭人集団に河内・大和の中央政権を凌ぐ力を与えたのである。これが評価されて大伴氏や物部氏ら中央豪族によって、武烈ぶれつ没後にヲホドは大王に擁立された。ヲホドが擁立されたのは500年ごろと推定されるが、即位したのは507年である。擁立の中心となったのは大連おおむらじ大伴金村おおとものかなむらだった。日本書紀では、ヲホドは河内王権の仁賢にんけんの娘の手白髪たしらか媛との婚姻によって王権継承が認められたとある。越前から来た新王権の誕生となった。しかし、大和に定着するまでに20年を要したことから、ヲホドの即位に反対する仁徳・葛城系の河内王権勢力が河内や大和にまだ残存していたとみられる。ヲホドは河内王権との血縁関係はなく、しかも越前から近江を経て大和へ入っているため、大伴氏や物部氏ら中央豪族の統制が優先課題であった。ヲホドの時代には、百済・新羅による加耶(任那みまな)地方への進出が強まった。ヲホドは百済や新羅に対し、軍事的に対抗しようとしたが、その前に、独自の外交的な動きをしていた筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわいを倒す必要があった。


 ヲホドが擁立される前に、丹波桑田郡(今の亀岡市)にいた倭彦やまとひこ王が候補に挙げられた。倭彦王は応神の父の仲哀ちゅうあいの5世の孫とされるが、この系譜は疑わしい。しかし、その名から倭王権の血筋をひく実在の人物で、地理的にも大和に近い丹波に住むという有利な条件からまず擁立されたと推測される。6世紀前半に築造された亀岡市の千歳車塚古墳(88メートルの前方後円墳)は倭彦王が被葬者とする見解がある。しかし、何らかの理由で倭彦王の即位は実現せず、ヲホド擁立となった。日本書紀によると、ヲホドは武烈8年(506年)に57歳であり、当時としては老齢だった。しかし、古事記には崩御したときの年齢は43歳と記されており、そこから逆算すると、506年当時は18歳となり、若すぎることになる。これらのことから実際の年齢はよくわかっていない。


 日本書紀では、河内王権は武烈で血統が絶えたので、越前三国みくにから応神の5世の孫であるヲホドを倭国の王として、河内に本拠を持つ大伴金村が迎え入れたとなっている。そのときに密使となったのが河内の馬飼首荒籠うまかいのおびとあらこである。河内では5世紀から馬の飼育が行われていた。騎馬の風習は5世紀からあるが、普及したのはヲホドの時代からである。ヲホドの父親である彦主人ひこうしまたは汗斯うし王は琵琶湖の西側の高島郡三尾みおにいたが、早くに亡くなったので、越前の九頭竜川流域の高向たかむくで、母親の振姫ふりひめに育てられた。振姫ふりひめは越前坂井郡を本拠とする豪族の娘である。坂井郡は九頭竜川の下流域で、河口には三国湊みくにみなとがある。九頭竜川中流域では、4世紀中葉~5世紀後葉にかけて、松岡古墳群や六呂瀬山ろくろせやま古墳群で、全長90メートル~140メートルの前方後円墳が5基築造されている。ヲホド擁立以前の越前三国みくにの勢力の大きさがうかがえる。ヲホドが近江の三尾みお君を祖とする若比売わかひめをはじめとして、近江から三人の娘を妃としているのも近江との深いつながりを物語る。ヲホドの本拠地の一つであった近江高島郡水尾みお村にある6世紀前半の鴨稲荷山古墳からは金製耳飾り・金銅製冠・金銅製双魚はい(腰帯)・金銅製くつなど朝鮮半島南部とのつながりを示す副葬品が出土している。ヲホドを応神の5世孫としたのは、後の「りょう」の規定では天皇の5世までを皇親と認めることから、日本書紀ではそれを考慮したと考えられる。


記紀によれば、

 第26代 継体けいたい:ヲホド、樟葉宮くすはのみや(大阪・枚方ひらかた市)、三嶋藍野陵。皇后は仁賢にんけんの娘の手白髪たしらか皇女、妃は尾張の目子めのこ媛、近江の三尾のやまと媛ら7人。応神の五世の孫と伝えられる。えつ王とも呼ばれ、新王権を誕生させた。当時の越は越前(現在の福井平野)から新潟の秋田市辺りまで。越は古くから朝鮮半島との交流が深かった。父は近江高島郡の彦主人ひこうし王、母は垂仁の7世孫の越前の振姫ふりひめで、近江で幼少期を過ごし、父を亡くした後は越前の高向たかむくで育った。日本書紀によれば、越前の高向にいたヲホドが57歳の時に武烈が死に、倭王になることを大伴金村から要請された。しかし、武力による王権奪取かも知れない。近畿入りしてからは507年に枚方ひらかた樟葉宮くすはのみやで即位し、山背やましろ筒城つつき宮・弟国おとくに宮を経て、20年後の526年に大和の磐余玉穂いわれたまほ宮に都した。百済との関係が非常に深い。継体の25年間は、任那四県(栄山江よんさんがん流域)を百済に割譲(512年)、磐井の乱(527年)など国内・国外で動揺が続いた時代である。継体の勢力が畿内へ移住した後、元の越前の本拠地に敬語をつけて御国みくに(三国)と呼ばれ、その土地に残ったのが三国氏である。日本書紀によれば、継体は継体25年(531年)に82歳で崩御したとあるが、古事記では43歳で崩御となっており、崩御したときの実年齢には疑問が残っている。

 第27代 安閑あんかん:ヒロクニオシタケ・カナヒ、勾金橋まがりかなはし宮(奈良・橿原市)、古市高屋丘陵(大阪・羽曳野市)。皇后は仁賢にんけんの娘の春日山田かすがのやまだ皇女。父は継体、母は尾張連草香くさかの娘、目子めのこ媛。安閑には御子がいない。継体没後、534年正月に即位、在位はわずか2年で、535年12月に70歳で死去。

 第28代 宣化せんか:タケオヒロクニ・オシタテ、檜隈廬入野ひのくまいおりの宮(奈良明日香村)、身狭桃花鳥坂上陵(奈良・橿原市)。皇后は仁賢の娘の橘仲たちばなのなかつ皇女。父は継体、母は尾張連草香くさかの娘、目子めのこ媛。安閑の同母弟。蘇我稲目そがいなめは宣化元年(536年)に大臣に就任している。大伴金村おおとものかなむら物部麁鹿火もののべのあらかいは引き続き大連であった。在位4年で、539年2月に73歳で死去。


 三王朝交代説の水野祐は次のように述べている。

“越前の地域と朝鮮半島南部との関係は、崇神期の意富加羅おほから(金官加耶)の王の子、名は都怒我阿羅斯等つぬがあらしとが敦賀市気比の浦に渡来した逸話を記述し、また北部加耶地域の高霊こりょん(大加耶)から出土した金銅の冠と福井県永平寺町の二本松山古墳から出土した鍍金と鍍銀の冠が類似することからもうかがわれる。畿内入りして最初に都を置いたのは、大阪府枚方ひらかた市の樟葉くすは、次に南山背やましろ筒城つつき、淀川水系の北の弟国おとくにを経て、大和の磐余玉穂宮いわれたまほのみやに都した。大和の磐余玉穂宮の場所は不明であり、実際は大和入りしなかったと思われる。507年に継体が樟葉宮くすはのみやで即位の儀礼をしたときに、大伴金村がひざまずいて鏡と剣を奉った。これは越の国から来た継体に大和側が降伏している儀式と考えるのが妥当と思われる。さらに、新王朝として越前から迎えられた継体は、その出自を応神おうじんに結び付けられている。また、近江の豪族息長おきなが氏もその出自を同じく応神に結び付けている。そこに、この両者の系統は血縁的に同族の関係に立つ。そこで、息長氏と血縁関係のある舒明じょめいとその皇后(後の皇極こうぎょく)をモデルとした神功皇后じんぐうこうごうは応神の生母という位置に置かれる。そして、応神が仁徳と越前からの継体とを系譜的に結びつける役割を演じているように、その生母として位置付けられた神功皇后は原大和国家であった崇神すじん王権(三輪王権)と九州から出現した征服王朝(河内王権)としての仁徳とも系譜的に結合する媒介としての役割を演じさせられることになった。また、応神の生母である神功は、同時に仲哀の皇后であることが要求され、天皇ではなく皇后の地位に置かれた。これは、天皇家は皇祖以来万世一系であるという思想が確立する段階において要求されたのである。”


 ヲホド(継体)は、近江の三尾みお氏(琵琶湖北の高島)・息長おきなが氏(琵琶湖南の米原)・坂田さかた氏(長浜)などの豪族たちを結集させ、さらにその地の利を生かし、越前・美濃・尾張の豪族たちもその勢力下に置いて、その豊かな経済力と交易による地方豪族との連携、さらには日本海航路による朝鮮半島南部諸国との貿易も行うことにより畿内の倭王権(河内王権)に対抗し、10年近くをかけて新王権を打ち建てた。息長おきなが氏や坂田さかた氏は湖北で産出する鉄、尾張氏は現在の大垣市赤坂にあった金生山きんしょうざんの鉄(高品位な赤鉄鉱)を支配下においていたと考えられる。ヲホドが擁立された背景として、鉄と交通路、琵琶湖水運を握っていた。さらに、角鹿つぬが(敦賀)の塩、若狭の塩も支配していたと思われる。

 ヲホド(継体)はもともと三国湊みくにみなとを拠点として、若狭・越中を結ぶ日本海海運と、九頭竜川の水運であったが、琵琶湖・淀川水系を利用した活動や交流を通して、その地の首長の子女を妻とするなどして多くの首長たちと婚姻関係を結び、交易の主体となった。活動範囲には大和も含まれていた。その一方で、近江などの鉄資源の採掘と鉄器生産の管理にも当っていたと推測される。交易活動は日本海を挟んで、朝鮮半島諸国、特に高霊こりょんの大加耶とつながりをもち、渡来人集団を受け入れ、その技術を管理するようになったことが、湖西のカマド付きの住居跡、土器、古墳出土の金銅製装身具などからうかがわれる。さらに、継体・欽明きんめいのころから乗馬の風習が日本列島に急速に広がった。乗馬の重要性に注目し、それを実用化したのは継体であったとも推測できる。


 ヲホド(継体)は507年に枚方ひらかた樟葉宮くすはのみやでの即位に際し、擁立に尽力した大伴金村おおとものかなむら物部麁鹿火もののべのあらかいを大連に、巨勢男人こせおひとを大臣に任じた。


 上田正昭(京都大学名誉教授)は、ヲホド(継体)がなぜ河内の樟葉宮くすはのみやで即位したのか、その理由を次のように述べている。

“河内に基盤を有する大伴氏らが擁立し、むらじ姓グループが勢力の結集をはかり、河内の茨田連まむたのむらじの娘をキサキ(妃)として迎えるという状況のほかに、樟葉宮が所在する枚方ひらかたの地域は、淀川水系の要衝であり、渡来系の人びととのつながりが深かったことも軽視できない。河内の茨田まむたに渡来の人びとが居住していたことは、「播磨風土記」の漢人あやひとの記事にも反映されているが、古事記には仁徳の代に茨田堤を秦人はたひとが築いたと述べ、日本書紀の仁徳11年の是歳の条には、やはり茨田堤を新羅人が築造したと書くように、渡来系の人びととの関係が深い。「新撰姓氏録しんせんしょうじろく」によって、渡来系の茨田村主まむたのすぐりが居住し、近くの交野かたのには、やはり渡来系の交野忌寸かたののいみきが住んでいたことが確かめられる。”

 さらに、“ヲホド(継体)の樟葉宮の即位で見逃せないのは、日本書紀が「鏡剣の璽符じふ」を大伴金村がたてまつると明記し、ヲホド(継体)がオケ王(仁賢)の娘の手白髪たしらか王女を娶っていることである。古代における大王・天皇のレガリア(神璽しんじ)、王位の象徴の宝器、が二種(鏡・剣)であったことは、持統4年(690年)正月の正式の即位のおりに「神璽の剣・鏡を皇后に奉上」したとあるのをはじめとして、「大宝令」「養老令」や「古語拾遺」などにもはっきりと記すとおりである。レガリアを「三種の宝物(剣・鏡・玉)」とする確かな例は冷泉天皇から後深草天皇までの編年体の記録である「百錬抄」の後嵯峨天皇即位の仁治3年(1242年)正月の条の「三種の宝物」の記事からであった。継体以前では、允恭いんぎょうの条で「璽符じふ」、雄略ゆうりゃく顕宗けんぞうの条で「」とみえるだけで、具体的な内容は一切書かれていない。それなのにヲホド(継体)の即位では、はじめて「鏡剣の璽符じふ」と二種の神器がレガリアになっている。このことは日本書紀の編者が、王統断絶の危機のなかで擁立された継体大王の即位を正当として重視していることを示す”、と述べている。


 鈴木靖民(国学院大学教授)は、“継体の即位は前代の血統を受けることなく、異系統の地方首長による新たな王位継承である。継体は記紀に応神の五世の孫と記されるが、応神の系譜や血縁に関係あるとする確証はない。おそらく、倭王のときに属僚(府官)となって倭王権に関与し出し、雄略後の大王位継承の混乱の中で、ついに大王になった人物と考えられる。5世紀末~6世紀初めの段階では、まだ倭王としての王統や王家が他に隔絶した決定的存在として特定されていたとは限らない。5世紀の倭王の出自は宋書に、さんちん系とさいこう系の二つの血縁集団が認められ、両者は何らかの関係を有するとしても、王統が単一集団に特定されていない。姓は外交上の必要を契機とする共通の名乗りと考えられる。大王の資格者が一定の王統のものに限るというのは、8世紀初めの記紀編纂時における王統重視の血縁原理と、群臣の新王推挙の形式を反映するものである。継体の即位は、王権のある大和でだけでなく、地方にも王の候補者を求める意識の表れである。ここには、王位継承に際して、唯一特定の血縁集団のみが大王を出すとの一系的な王統思想が見られない。むしろ倭王と地方の有力首長の娘との婚姻が族内婚以前の一般的な姿として認められる”、と述べている。


息長おきなが氏]

 天日槍あめのひぼこ伝承と深い関係がある新羅(実際は加耶)系氏族で近江の坂田郡息長村(現在の近江町)を本貫とする豪族である。息長氏と継体はいずれも応神の孫のオオホドを共通の祖とする皇族である。継体の父のヒコウシ王は息長氏の出身といわれている。息長氏は政治の前面に現れたことはほとんどないものの、6~7世紀の大王の身内的な存在として隠然たる実力を有していたようである。7世紀後葉の天武期においても継体の親族として評価されていた。それは記紀における神功じんぐう舒明じょめいの和風諡号がオキナガであることからも推察できる。近江の東南部を拠点としていた。関ヶ原にほど近いところにある日撫ひなで神社は、神功皇后が三韓征伐から凱旋したあと、この地にほこらを立てて父の息長宿禰と少彦名すくなひこな神を祀ったのが始まりだという。息長氏と三尾氏は、ともに新羅(実際は加耶)系の渡来氏族であり、息長氏は琵琶湖の東岸、三尾氏は西岸を根拠地とし、北陸に深い関わりを持つという共通性がある。息長氏は5世紀の中葉から後半ごろ敦賀に来着した新羅文化を背景に持つ加耶系有力氏族の集団と考えられる。

息長氏は近江を本貫として、そこから北陸方面にかけての地域に広範に分布していた豪族である。若狭湾から琵琶湖周辺、一方では越の国方面に分布した息長氏は日本海の航海を通じて新羅と結びつく漁労・航海民であり、新羅系渡来氏族との混淆も行なわれ、また製鉄文化・日本海の塩の文化も掌握した有力な氏族であった。「息長」または「気長」と書かれる。淡海あふみ(近江)の坂田郡は、もとは阿那吾あなごと呼ばれていた土地が、息長氏のものとなってから坂田と名付けられた。阿那吾あなご天日槍あめのひぼこ伝承に出てくる「吾名邑あなむら」そのものである。淡海・野洲やす(夜臼)・安川・志賀(志賀)など、北部九州の伊都いと国およびその周辺と関わりのある地名が少なくない。息長氏と天日槍あめのひぼことは丹波氏を仲介として結びつく。つまり、4世紀初めに北部九州の伊都いとに本拠を置いた天日槍あめのひぼこ族は、いくつもの波に分かれて東進を始め、そのうちの一波は淡海に入り、さらに但馬の出石いづしに移ってそこに定着する。息長氏は淡海と出石とも姻戚関係を結んだ。息長氏はオホタラシヒメ伝承を受容して、そこからオキナガタラシヒメ(神功皇后)を生み出した。


 5世紀の倭国は、難波なにわ・河内に都した倭の五王が中国南朝の宋に朝貢していた時代である。一方、日本海側においては、朝鮮半島との交流が弥生時代以来ずっと続いており、5世紀後半になると、北部加耶地域の高霊こりょん(大加耶)の産物が若狭・福井を中心にした北陸に多数見られる。5世紀後葉の雄略期の日本列島規模の政治的変動期が加耶の政治中核が南部加耶の金官加耶から北部加耶の大加耶に移動する時期と対応している。また、6世紀になると加耶系から百済系文物の出土が多くなる、この背景には百済の復興と継体による新王権の成立がある。


 日本書紀の継体紀には、「百済王武寧ぶねいこう(死去)」「任那四県を百済へ割譲」など朝鮮半島半島関係の記事が圧倒的に多い。森浩一は、“大王家の血筋が絶えたから継体が擁立されたのではなく、東アジアの新しい動きの中から倭王にふさわしい人を推挙しようという動きの流れの中から出てきた”、と述べている。そこで5世紀後葉から6世紀前葉までの主な出来事を列挙して、当時の国際情勢を改めて概観してみる。


471年:

日本書紀に、紀大磐きのおいわ宿禰が父の紀小弓きのおゆみ宿禰の病没を聞いて渡韓し、父の兵権をおさめたが、副将の蘇我韓子そがからこと反目して、これを弓で射殺し(雄略9年:471年)、それから25年も任那みまな(加耶)にあって高句麗にも通じ、権力をふるい、「まさに三韓で西王たらんとし、自ら神聖かみと称した」とある。帰国のことはみえない。ところが、紀大磐きのおいわは継体紀の505年ごろの記事に30年ぶりに現れる。

475年:

百済では、371年からの都である漢城かんじょう(今のソウル)が、高句麗により陥落し、477年に都を熊津ゆうしん(今の公州《こんじゅ>)に移したように亡国の瀬戸際に立たされる。

479年:

加耶では、479年に加羅国王「荷知かち嘉悉かしつ王)」が中国南朝の南斉に遣使しているが、その加羅国は北部加耶(高霊こりょん)の大加耶とみられ、5世紀後半、北部加耶に大加耶連盟が形成されていたと思われる。

487年:

帯山城しとろもろのさし事件と呼ばれる北部加耶をめぐる百済と倭系の紀大磐きのおいわとの紛争が起きた。

489年:

雄略が崩御。

500年:

斯慮しろ(後の新羅)は5世紀前半の高句麗の好太王・長寿王の時代には高句麗の支配下に置かれたが、5世紀後葉ごろから自立を目指し、6世紀に入ると、500年に智証王が即位し、異斯夫いしふを軍主に任じて領土を広げ、斯慮しろ部落を基礎に505年には朝鮮半島南部の東海岸一帯を統一した。

500年ごろ:

大伴金村が継体を倭王に擁立。

501年:

百済では、武寧王(在位501年~523年)が即位。武寧王は日本書紀にも登場し、筑紫で誕生している。古墳からは中国南朝の影響を受けた副葬品の数々とともに、高野槇こうやまきで作られた木棺が発見されている。北は高句麗と戦ってその南下を防ぎ、南は加耶地域への進出を企てた。武寧王は百済中興の祖となった。

502年:

中国南朝のりょうへ遣使、梁は倭王「」を鎮東大将軍から征東将軍に昇進させた。倭王(雄略)は489年に死去しているので、この時の倭王は武烈ぶれつであると推測する。

505年:

日本書紀に、紀大磐きのおいわは任那に地歩を占めて高句麗に通じ、百済・新羅・高句麗を支配しようとしていたが、最後は百済との戦いに敗れ、任那みまな(加耶)から倭国に帰ったとあるが、実態は任那の最高軍事責任者で、百済と斯慮しろ(後の新羅)の攻勢から任那を守ろうとしたが、失敗したと思われる。 

507年:

継体が即位。

510年:

斯慮しろ新羅しらぎと称し、514年には智証王(在位500年~514年)が死去してその子の法興王(在位514年~540年)が即位した。この法興王の時代に国家体制を整え、さらに領土拡張を進めた。特に加耶地域への領土拡張を進めた。

512年:

倭王権は任那四県(栄山江よんさんがん流域)を百済へ割譲した。この時の倭王権は南部加耶と日本列島の倭国(継体政権)との連合政権である。

516年:

百済が加耶地域へさらに進出。

521年:

長らく高句麗の属民であった新羅は521年に南朝に朝貢したのを皮切りに、倭国や高句麗と同様に中国の冊封国になった。 

524年:

新羅は大加耶(高霊こりょん)と婚姻同盟を結ぶ一方、南部加耶の金官加耶と喙己呑とくことんへ侵攻。それに対して、卓淳とくじゅん安羅あらなどの他の南部加耶諸国は倭国に救援を要請した。

527年:

倭国では、筑紫国造磐井いわいの乱が起きた。磐井の乱は継体21年(527年)6月から継体22年(528年)11月まで約1年半にわたった。

529年:

3月、磐井いわいの乱平定後、近江毛野臣おうみのけなのおみは6万の兵を率いて南加羅(金官加耶)に遠征したとされるが、6万の兵という数字は大きすぎて信用できない。4月、新羅が将軍の異斯夫いしふを派遣して「四村を抄掠しょうりゃく」した。その四村とは、金官きんかん背伐へぼつ安多あた委陀わだとある。これら四村は金官国を構成する主な村であったと考えられる。結局、近江毛野臣は大きな成果が伝えられないまま、530年に帰国途上の対馬で病没した。 

531年:

日本書紀「百済本紀」に、「日本(倭国)では天皇(継体)・太子・皇子がともに死没する」、と記される。

532年:

金官国(金官加耶)の国王が王妃や王子を伴って新羅に降りた。これにより、金官国(金官加耶)は新羅に併合された。


 502年に中国南朝のりょうは倭王を鎮東大将軍から征東将軍に昇進させた。しかし、このは誰か? 継体は未だ正式に即位していない。また、倭王(雄略)は489年に死去しているので、年代的にはこの時の倭王「」は武烈であるとするのが妥当である。当時は雄略後の混乱期にあったが、百済と斯慮しろ(後の新羅)は加耶への攻勢を強めており、この両国に対抗するために、大伴金村が加耶・倭国連合政権の倭王「」として遣使したと推測する。この記事を最後に中国文献から約100年間、倭の文字は消える。次に現れるのは推古8年(600年)の遣隋使である。この100年間に倭国内部で重大な政治的変革があったから遣使できなかったとしか考えられない。それは継体から欽明を経て推古に至る時期にあたる。継体期には、任那みまな四県を百済に割譲(512年)、新羅による金官国の併合(532年)と加耶地域の縮小が続き、日本列島内では、磐井いわいの乱(527年~528年)が起きている。

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