第35話 銅鏡

 古代の鏡はオリエントを起源とする柄鏡えかがみと、ちゅうひもを通して使用する中央・東アジアのタイプに分けられる。ちゅうとはひもを通すためのあなあるいはつまみのことである。鈕付鏡については中国青銅器の中央アジア起源説と関連して西トルキスタン地域起源といわれている。中央アジアの円形鏡はたが状の縁取りをもち、「コ」字形のこしらえであり、背面に紋様を描くことはない。東アジアの円形鏡は平縁で縁取りがないか、あるいは小さく盛り上がって外縁はおわる。ちゅうは半円形を呈し、背面に各種の幾何学紋を配するものが主流であり、無紋の小型鏡はいん代後期から西周せいしゅう期に限って出現するにすぎない。中国最古の鏡はいん後期のBC1300年ごろである。東北アジアのシャーマンの事例をみると、頭や胸に飾る4~12センチの小型鏡と背中につるす15~30センチほどの大型鏡の2種類がみられる。多鈕たちゅう鏡は東北アジアで特異に出現・展開したものとみなされる。また、多鈕鏡が凹面であるのは、朝鮮半島において小型無紋鏡が欠落する過程で、多鈕鏡が神鏡であるとする観念とともに大型化して凹面鏡に変化したものである。西周せいしゅうを滅亡させた騎馬民族には鏡を伴わないことから、鏡は騎馬民族以前のいん的な車馬民に属する文化であり、西周後の遼寧りょうねい地方にはいん的な要素が残ったと考えられる。


 基本的に中国では鏡は化粧道具である。化粧箱に収められた出土例も多くある。しかし、文様として神仙など信仰対象を好んで表しているし、銘文の中には子孫繁栄や富を得られるといったような吉祥句が多くあるので、信仰的・呪術的な意味もあった。倭では呪術性が拡大されて、支配者の象徴的な器物となり、政治的な配布物ともなった。朝鮮半島南部でも前漢鏡が出土するが数は少ない。倭における鏡の特殊な意義は北部九州で発達し、2世紀後半から西日本各地に普及し始めた。


[後漢時代(紀元後25年~220年)の中国鏡]

後漢後半では、華北の徐州(山東省の西南部から江蘇省の北部)・四川・江南(江蘇省南部の蘇州と浙江省の紹興)に主要な生産地があった。

徐州じょしゅう

 2世紀後半から3世紀初め、「倭国乱」からその終息期にかけて時期、それはまた公孫氏の時代でもあるが、徐州系の鏡が楽浪郡経由で大量に流入している。それは楽浪郡や倭の各地でも数多く出土している。代表的なものは上方作系獣帯じゅうたい鏡や飛禽文ひきんもん鏡で、どちらも直径は10センチ前後の小ぶりの鏡。倭には徐州から山東半島・楽浪郡を経由して入ってきたと考えられる。これらの鏡は瀬戸内海ルートを中心に東国まで拡がり、前方後円墳出現前夜の地域の首長たちも入手している。この鏡は大王が配布したものではないと考えられる。倭には未だ大王がいなかったともいえる。もう一つ、卑弥呼の擁立時期以降に流入する画文帯神獣がもんたいしんじゅう鏡がある。楽浪郡でも少し出土するが、倭では畿内・播磨・四国東部の首長が入手する。そこに分布が集中している。この鏡は政治的な目的をもって配布された可能性がある。これらの徐州系鏡は他の地域でほとんど見られないことから、徐州の工人たちは楽浪郡と倭向けに作っていたと推定される。

四川しせん

 後漢時代の三段式神仙鏡は四川省と陝西せんせい省に分布する。この鏡は道教の源流とされる五斗米道とつながりを持つ鏡である。この鏡が群馬県の前橋天神山古墳から出土している。

江南こうなん

 代表的なものは画像鏡と神獣鏡である。これらの鏡は江南では多数出土するが、中国の他地域ではほとんど見られない。ところが、少数ながら、倭の神戸市の夢野丸山古墳と京都木津川の椿井大塚山つばいおおつかやま古墳から出土している。楽浪郡での出土例は未だない。流入ルートは不明である。


しょく三国としんの時代(220年~316年)の中国鏡]

中国では後漢時代の製品から大きく変貌し、粗悪品が多くなり、倭の鏡作りとの逆転が進行した。倭が前方後円墳の時代へ移行する時期に銅鏡生産や流通に大きな変化が生じていた。

<魏晋鏡>

 3世紀中頃以降の青龍三年という魏の年号が入った方格規矩四神ほうかくきくししん鏡が代表する。魏晋鏡は中国の北方に分布するが、倭では北部九州や山陰に多く出土する。楽浪郡では未だ出土していないし、時期的には公孫氏が滅んだ後になるので、公孫氏の鏡ではない。

<呉の紀年銘鏡>

 銘帯対置式神獣鏡で、江南にしか分布しないのに、数は少ないが、倭でも出土する。山梨県市川三郷町の鳥居原とりいばら(狐塚)古墳(18メートルの円墳)からは赤烏元年(238年)、兵庫県宝塚市の安倉高塚あくらたかつか古墳(17メートルの円墳)からは呉の赤烏7年(244年)のわずか2面しかない。もう一つ紀年銘はないが、夢野丸山古墳(60メートルの前方後円墳:神戸市兵庫区)、奈良の黒塚古墳に次ぐ時期、呉の重列式神獣鏡(227年か228年製)が出土している。これらの三国時代の孫権の時代の呉鏡は楽浪郡・帯方郡からの出土例がないことから、浙江せっこう会稽かいけい郡山陰の鏡師の工房で製作された後、中国東海岸を北上し、山東半島先端の成山を中継し、朝鮮半島南西海岸を南進し、黒山群島から対馬・壱岐を通り、博多湾から瀬戸内海を辿り摂津に到来したと考えられる。232年3月に呉は海路から使者を遼東に派遣・交易し、名馬を調達している。その直後に呉は公孫淵を燕王に冊封している。赤烏7年(244年)などの呉の鏡も公孫氏を介した入手を考える必要がある。


 日本列島では、縄文時代にはまだ金属製の鏡が大陸から伝わった気配はない。弥生時代になって最初に出現したのは、漢式鏡(中国鏡)ではなく、弥生中期前半(BC2世紀~BC1世紀前半)に朝鮮半島を中心に一部は中国の遼寧省や沿海州など東北アジアに広がった多鈕細文鏡たちゅうさいもんきょうであった。多鈕細文鏡は凹面・幾何学文様・銘文なしの銅鏡である。一方、漢式鏡はやや凸面・神仙の図文など・銘文有りの銅鏡である。多鈕細文鏡は太陽光線を反射させて光を生じる機能を持ち、太陽信仰にかかわりを持つことは事実である。弥生中期初頭(BC200年ごろ)の伊都いと国と国の間の吉武高木遺跡などの北部九州や山口県では、多鈕細文鏡は銅剣・銅矛・銅矛とともに、地域の支配者の墓の副葬品として埋納されていた。 

 中国鏡が大量にもたらされるのは、多鈕細文鏡流行より50年か100年ほど後のことで、弥生中期後半(BC1世紀後半~1世紀)の出来事であり、楽浪郡を介して華北とのつながりができたからである。中国鏡を見る場合、華北は直径12~14センチぐらいの中型鏡で平縁の主に化粧具、江南は直径18センチ以上の大型鏡で三角縁である。

 BC1世紀以降、倭には驚くべき量の多種多様な銅鏡がもたらされた。銅鏡重視の風習は古墳時代の終末に至るまで500年以上にわたって続いた。楽浪郡を主な経由地とした中国鏡の流入は継続され、2世紀後半~3世紀にかけては、中国の徐州で製作された銅鏡が大量に輸入される。徐州は山東省南西部から江蘇省北部にあたる地域で、後漢代の銅鏡生産の中心地のひとつであった。少数ではあるが、四川の鏡が楽浪漢墓と倭で出土している。倭では丹後や但馬など日本海側に出土例が目立つ。ガラス小玉と同様、これらの地域の有力者が海洋交易を通じて直接入手したと推定される。2世紀に江南で作られた画像鏡は倭では丹後の岩滝丸山古墳から一例が出土しているのみである。これも中国南方から直接流入したと考えざるを得ない。


 1世紀の中国の江南の人王充おうじゅうは「論衡ろんこう」で倭人と越人とをセットで扱っている。入れ墨の風習、稲作と漁撈、舟による交易活動や移住性、武器の種類や戦法など強い共通性をもっている。前漢時代の南越国の2代目の国王の墓が広州市の象崗山で発掘され金印をはじめ、38面の銅鏡が副葬されていた。中国では例のないことである。朝鮮半島の三韓の地域でも銅鏡を副葬する風習はほとんどなかった。しかし、朝鮮半島南岸の金海きめの古墳(2世紀後半)からは北部九州で作られた小型鏡を含む10面の銅鏡が出土している。その中に直径41.5センチの中国鏡としては異例の超大型鏡が含まれている。これらのことは、越人社会と倭人社会、それに朝鮮半島南岸の海岸地域に共通する風習があった一例とみられる。伊都いと国の平原ひらばる古墳から出土した39面の銅鏡のうち33面が銘文を鋳出しており、弥生人社会も文字を受け入れつつあったと思われる。

 東アジア全域を見渡しても、日本列島ほど銅鏡を愛用した土地はない。銅鏡愛好の風習とは王や豪族の死にさいして墓に複数の銅鏡を副葬することである。墓に化粧道具として銅鏡を一面か二面だけ副葬することは中国や朝鮮半島でも広く行われていた。ところが、倭地では伊都国や奴国での墳墓のように一人の墓に十数面から四十面の銅鏡を埋納している。このような仕来りは愛好というより死後の世界観にからんだ信仰がそうさせたのである。4世紀になって近畿地方を中心として大きな前方後円墳が造営され始めると、銅鏡の多数埋納は中国の不老不死の信仰(神仙信仰)の影響をうけて、神獣鏡とよばれる日本列島特有の大型の銅鏡を大量生産するようになった。これらの銅鏡の源流は中国の江南の紹興しょうこうに求められ漢式鏡と呼ばれるが、倭地で作られた倭鏡(仿製鏡ぼうせいきょう同笵鏡どうはんきょう)である。弥生時代の近畿地方では銅鏡を墓に納めることは皆無だった。弥生時代後期の北部九州では銅鐸、銅鏡、銅矛、銅戈、銅鏃、銅鏡、銅釧(腕輪)、銅の鋤先などの青銅器の製作では高い技術水準に到達していた。特に伊都国においては、方格規矩鏡ほうかくきくきょうや大型の内行花文鏡ないこうかもんきょうの製作にさいし、同型・同笵の技術が使用されていた。このような同型鏡(同笵鏡)の技術が古墳時代前期(3世紀後葉~4世紀後葉)の三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうへとつながることになる。

 4世紀~7世紀の、朝鮮三国時代における鏡の副葬は極めて稀で、百済の武寧王ぶねいおう陵や新羅の皇南大塚南墳で出土した銅鏡は貴重である。倭の五王の時代に中国南朝への遣使を通じて、人物画像鏡じんぶつがぞうきょう画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょうが輸入され、それらの銅鏡を原鏡として次々と銅鏡が製作された倭とは大きな違いがある。


銅鏡の誕生から中国・朝鮮半島における状況を見たところで、日本列島における銅鏡の変遷を見てみる。


弥生時代後期前半(2世紀):

 弥生時代に誕生した小銅鏡は倭人が作り始めた最初の鏡であるが、その起源については朝鮮半島と北部九州と見解が分かれている。一般的には、楽浪郡からの後漢鏡流入が減少し、日本列島内での銅鏡需要が増加するという状況で、その不足を補うため、後漢鏡を模倣し同じ鋳型で鋳造した小型仿製鏡ぼうせいきょう(同笵鏡)が製作されたといわれている。福岡平野を中心とするドーナツ状の分布態様も中枢地から周辺部への配布という理解がされている。また、破鏡されず、一面単位で機能し、地域社会の基礎的集団のリーダーに象徴的に与えられたと考えられる。小型仿製鏡の東方への波及は早期に行なわれ、近畿では中国鏡の流入画期が二度あることと関連付けられる。第一期は弥生後期初頭~前半(2世紀)で、ここから兵庫県や大阪府への流入が始まる。近畿では弥生中期前半(BC2世紀)から銅鐸・銅剣・銅戈の単独生産(田能遺跡・雲井遺跡・など)が開始されるが、弥生中期中頃から後半(1世紀)にかけては大規模集落(唐古・鍵遺跡・東奈良遺跡(茨木市)・鬼虎川遺跡(東大阪市)・など)での青銅器複合生産が安定化するが、銅鏡生産は未だ行われていない。近畿で小型仿製鏡が誕生したのは弥生中期から後期への転換事であり、古墳時代の庄内期(2世紀末~3世紀中葉)に入るまで生産されることになる。第二期は古墳時代前期となる。


邪馬台国時代(3世紀):

 景初三年(239年)の朝貢の返礼として、魏の皇帝から卑弥呼に送られた「銅鏡百枚」はどのような鏡だったのか? それについて100年前から論争が続いているが、現在それは内行花文鏡ないこうかもんきょうにほぼ絞り込まれているようだ。

森浩一は、“徐苹芳の「三国・両晋・南北朝時代の銅鏡」によれば、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳きほう鏡・盤龍鏡・鳥文鏡・双頭龍鳳文鏡・位至三公いしさんこう鏡などであると限定し、それゆえに、卑弥呼とその後継者が中国より入手した銅鏡は、以上挙げたような銅鏡の鏡種の範囲を逸脱することはありえない”、と述べている。実際に弥生遺跡で出土している例に照合すると、吉野ヶ里遺跡のある有明海沿岸地域を含む北部九州に集中している。一方で、弥生時代の大和地方からは破片すら出土していない。 


古墳時代前期(3世紀後葉~4世紀後葉):

 弥生時代では鏡の墓への埋納は北部九州に限られている。この鏡を墓へ埋納する弥生時代の北部九州に見られる風習が、古墳時代前期になると近畿地方に現れる。特に三角縁神獣鏡は前方後円墳の築造に伴い大量に副葬され、その分布の中心は畿内にある。

3世紀の初めの204年、公孫氏により帯方郡が設立され、韓と倭はそれに属するようになるが、銅鏡の流入に影響を与えた様子はない。しかし、3世紀中頃の卑弥呼の魏への朝貢前後の時期、中国の銅鏡生産に大きな変化があった。漢代に成立した生産系統の多くが姿を消し、魏と呉でそれぞれ特色を持った生産系統が成立した。三角縁神獣鏡の製品あるいは製作工人の倭国への流入もこの時期に発生している。このことは、朝貢以外でも魏の地域との交流があったことを表わしている。三角縁神獣鏡が大和の三輪王権により各地に配布されたことはもはや異論の余地はない。古墳時代前期前半(3世紀後葉~4世紀前葉)の天理市の黒塚や桜井市の桜井茶臼山古墳での大量の三角縁神獣鏡の出土は大和に配布者が登場したことを示している。


古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉):

 古墳へ大量に銅鏡を埋納するのは古墳前期に集中しており、河内の地に誉田山こんだやま古墳や大山だいせん古墳などの超大型古墳が築かれるようになる古墳中期の河内王権の時代には、銅鏡埋納は下火になった。中期古墳の銅鏡には、奈良県御所市室大墓むろのおおはか(室宮山古墳)のようになお三角縁神獣鏡を鏡群の中に交える例もあるが、馬具や金・銀装身具など従来なかった副葬品を出す古墳では、画文帯神獣鏡・画像鏡・獣帯鏡などを出すのが目立っている。北方の騎馬文化を濃厚に表した古墳では、前期古墳に一般的であった三角縁神獣鏡をことさら忌避した傾向がある。


古墳時代後期(5世紀後葉~7世紀前葉):

 6世紀の初頭を過ぎると、乗馬の風習や金銀装身具の使用が急速に始まる古墳後期には10面をこすような銅鏡の大量埋納はなくなり、銅鏡を副葬する古墳も少なく、奈良県橿原市の新沢千塚では発掘の対象となった140基の古墳の中、銅鏡副葬例は9基であり、その中には前期古墳をあって、後期に限ると、銅鏡を副葬する割合は20基に1基ほどになる。


次にあげる銅鏡は、倭国で珍重された鏡である。


方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう

 後漢の初め、1世紀初頭の鏡。古墳時代直前の弥生時代終末(3世紀中葉)に後漢鏡を入手できるのは伊都国しかなく、邪馬台国の卑弥呼時代に配布される鏡は、方格規矩四神鏡か内行花文鏡しかない。したがって、これらの鏡は特別扱いされて頭部付近に副葬される。伊都国の平原遺跡出土の方格規矩四神鏡の製作時期は後漢末の200年ごろと推定される。四神とは、北が玄武(蛇は亀を巻いている)、南は朱雀、東は青龍、西は白虎、である。

内行花文鏡ないこうかもんきょう

 後漢の1世紀後半の鏡。伊都国の平原ひらばる遺跡から出土した40面の鏡のうち、5面の同形同大の超大型鏡(直径46.5センチ)が内行花文鏡である。また、この鏡を伊勢神宮にある八咫やたの鏡とみる説がある。中国では連弧文鏡と呼んでいる。内行花文は花の文様ではなく、太陽の輝きをとらえた模様だと推定し、天照大神そのものにふさわしいともいわれる。平原遺跡が卑弥呼の墓であれば、この鏡は魏志倭人伝に記載されている景初三年(239年)に魏から卑弥呼に授けられた鏡ということになる。3世紀初頭の平原遺跡から約半世紀後の3世紀後半には、纏向まきむく遺跡のすぐ北に位置する大和南部の初期ヤマト王権の中枢部の柳本古墳群にある天神山古墳からも内行花文鏡が出土している。

画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょう

 画文帯神獣鏡は後漢末(3世紀初頭)以降の鏡である。画文帯神獣鏡は弥生時代遺跡からは出土せず、古墳時代になってから出土する。奈良県北葛城郡の上牧久渡かんまきくど3号墳、大阪府和泉市の和泉黄金塚いずみこがねづか古墳(景初三年銘がある)、熊本県玉名郡の江田船山古墳など。卑弥呼が魏から受領した「銅鏡百枚」の可能性は残っている。

三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう

 中国において三角縁神獣鏡は3世紀以降の鏡である。日本では4世紀初頭に出現する。三角縁神獣鏡は前方後円墳への飛躍とともに大量に副葬され、畿内に分布の中心がある。それは中国の工人が製作したものであり、文様・銘文・製作技法は中国鏡の系統をひく。生産系統としては魏鏡ときわめて関係が深い。鈕孔形態や文様・銘文の細部の特徴が魏の紀年鏡と一致する。また、中国の徐州の鏡の図像や銘文も継承している。こうした中国鏡の特徴を備えているにもかかわらず、中国では発掘例がない。したがって、中国の工人が倭へ渡来して製作したと考える説が有力である。しかも、同時期の朝鮮半島南部を越えて到来していることも重要である。三角縁神獣鏡には同笵品や同型品が多数あり、石製の宝器・鉄製武具などと共に大和の王権から各地に配布されたと考えられている。その見返りは、その地域の首長が大和の王権に服属することであった。また、その数量には明確な格差があった。三角縁神獣鏡は威信財の典型例といえる。

三角縁神獣鏡は既に日本国内で560面の存在が知られており、出土数は増え続けている。主として背面の縁の断面が三角形に盛り上がり、内側に神仙や神獣が半肉彫りで描かれた鏡である。卑弥呼が魏から景初三年(239年)に下賜げしした「銅鏡百枚」ではないかと一時は注目されたが、三次元形状計測の結果、製作地はすべて日本製か中国製のいずれかであることが判明した。三角縁神獣鏡が中国で出土していないことを考えると、日本製である可能性が高く、卑弥呼の鏡ではないと思われる。三角縁の鏡と神獣紋様の鏡がともに作られていたのは江南の呉の地域であるから、日本列島に渡った呉の工人が、魏の年号や地名を銘記した鏡を作った。また、古墳の木棺内では小型だが明らかに中国鏡といえる鏡が出土しているのに対し、三角縁神獣鏡は古墳の木棺内ではなく木棺を覆う粘土槨の外側から出土していることから、その重要性は低かったと考えられる。したがって、魏鏡に模して日本列島で作られたと見たほうが無理がない。

中国社会科学院考古研究所所長の王仲殊は三角縁神獣鏡について、中国で鋳造されたものではなく、280年に呉が魏により滅ぼされた後、呉の地である会稽・蘇州から渡来した鏡作り師が、呉で作られていた平縁神獣鏡の内区と三角縁画像鏡の外区を合わせて作ったのが、倭国にだけ出土する三角縁神獣鏡であると述べている。後漢にしても魏晋にしても、鏡は官営工場で鋳造するものであって、外国のある一国のために特別に鋳造するようなことは絶対にないとも述べている。また、森浩一も、三角縁神獣鏡は出土したとき鋳物土がついている状態なので、日本製と断言している。さらに、藤本昇(化学者)による鉛同位体比の分析によると、三角縁神獣鏡には神岡鉱山の鉛が使われ、すべて日本製であることが証明されている。鉛は質量の異なる四種類の同位体で成り立っており、この四つの同位体の混合比率を鉛同位体比という。これらのことから三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。


 初期ヤマト王権(三輪王権)の基盤が存在した奈良盆地の東南部の「山の辺やまのべの道」の北から南へ、大和・柳本・纏向・鳥見山の古墳群の柳本古墳群にある天神山てんじんやま古墳(100メートル)からは大小合わせて23牧もの鏡が出土し、方格規矩鏡・内行花文鏡・三角縁神獣鏡・画像鏡・獣帯鏡など古墳時代初期の鏡が出土している。このうち方格規矩鏡は23.4センチなど3枚、内行花文鏡は23.8センチなど3枚、合計6枚が19センチを超える大型鏡で、後漢鏡である。これらの鏡が大和の三輪王権における日本製鏡のモデルとなった。天神山古墳は3世紀後半の築造で、そこにはまだ三角縁神獣鏡はない。天神山古墳と同じ柳本古墳群にある4世紀前葉の黒塚(130メートル)からは34枚の銅鏡が出土し、そのうち33枚が三角縁神獣鏡で棺外から出土し、1枚の画文帯神獣鏡は棺内の頭部に置かれていた。このことからも日本製の三角縁神獣鏡は中国鏡の画文帯神獣鏡より重要視されていなかったことがわかる。4世紀前葉の京都府木津川市山城町の椿井大塚山つばいおおつかやま古墳からは、36面以上の鏡のうち、32面が三角縁神獣鏡で、画文帯神獣鏡が1面、内行花文鏡が2面、方格規矩四神鏡が1面が出土。小林行雄(元京都大学教授)によると、椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡の同じ鋳型によるおよそ80枚にものぼる同笵鏡の分与先は、椿井大塚山古墳を中心にして放射線状となっている。これは大和の三輪王権が勢力を拡大するために、三角縁神獣鏡を地方に配布したことを示している。

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