第34話 墓制から見た東アジア・朝鮮半島、そして倭国

 森下章司(大手前大学教授)によれば、中国漢代の墓制や死生観は、総じていえば、墳墓が死者のための施設にとどまらず、祖霊に対する祭祀とそのための設備により、生者の世界と恒常的に結びついていたことに特徴がある。この中国式の墓制は高句麗の王墓には影響を与えた可能性が高い。高句麗では墳墓の周囲に敷石や陪塚・祭壇・建物や石碑などから構成される中国的な「陵園」が形成された。墳丘は陵園の中に築かれた。陵園を備えた王墓には居宅を意識した柱などを壁画や彫刻で表現した例が認められる。百済や新羅の墳墓に関しては、こうした比較は難しいが、文献記録によると、王墓の近くの廟で祖先祭祀を行っていた可能性は高い。 


 朝鮮半島の諸地域における墳墓の形式は、本格的な朝鮮三国時代に突入した段階で、それぞれ異なる墓葬制を確立し、あたかも各地域勢力のアイデンティティであるかのようにそれを維持した。高句麗では鴨緑江流域の大型積石つみいし塚、百済では漢江流域の葺石封土ふきいしふうど墳や大型積石塚と木棺もっかく墓、新羅では慶州盆地の積石木槨墳、加耶諸国では副槨をもつ大型木槨墓や円形封土墳と竪穴式石槨せっかく墳、そして栄山江よんさんがん流域の甕棺かめかん古墳といった具合で、それぞれに特徴がある。


 ところが、倭国では大きく異なる方向に墳墓が進化する。倭国の古墳の大きな特徴は、墳丘に対するこだわりである。前方後円墳という奇妙な形を採用し、300年近く継承し続けた。他の地域では、高句麗や百済では方墳、加耶や新羅は円墳といった単純な形がほとんどであることと比較すると、倭国においては墳丘が特別な意味をもっていたといえる。

 倭国の前方後円墳の特徴は、形もさることながら、墳丘があまりに大きいことである。中国の場合、高い墳丘や石積みの周囲に、死者への奉仕や祭祀、葬祭に関わる多数の建築物を擁する広大な施設があり、それを合わせて墓を構成する。一方、前方後円墳に付属施設は確認できず、墳丘のみが巨大化している。埋葬後、長期にわたって死者への祭りが続けられた形跡も乏しい。前方後円墳は立地にも特徴があり、山や丘陵の頂部、河川や陸路などの交通の要衝、海路に沿った海辺など、目立つところを選んで築かれた。墳丘の形も朝鮮半島と倭国とでは異なる。朝鮮半島の大型古墳は、墳丘の平面積に対し、墳高がきわめて高い。そのため傾斜が急で、しかも段築がなく、墳頂にも平坦面がない。一方、日本列島の古墳は墳丘の平面積が広いものの墳丘は低く、テラスや墳頂平坦面が広い。それは「登るための墳墓」であり、朝鮮半島の古墳は「登らない墳墓」である。

 被葬者を納めた埋葬施設の位置も重要である。倭国では埋葬施設が墳丘の上部に位置する。墳丘を積み上げた後、古墳時代の前期は、上から穴を掘って埋葬を行った。埋葬の時点で墳丘の形がほぼ出来上がっているのが特徴である。中国の墓では墓室は地下に設けるのが基本であり、墳丘はその上を覆うような位置にある。4~5世紀の新羅や加耶の墳墓も埋葬が終わってから墳丘の構築を行う例が多い。中国式の墳墓では、王朝や一族が続く限り祖先祭祀を繰り返し行い続け、その継続性が重要であった。朝鮮半島でも、統一新羅(676年~935年)・高麗こうらい(936年~1392年)・李氏朝鮮(1392年~1910年)時代と墳丘をもつ王墓が造られ、社会的機能が続いた。


 朝鮮半島や倭国で大型墳墓が発達する時期、本家の中国では王墓を築く風習が衰退していた。これは逆の作用、つまり中国王朝の墳墓秩序が弱まったことが影響していると考えられる。漢代の墳墓は皇帝陵を頂点とし、墳丘の高さ、付属する陵園などに関して秩序と法則があった。倭人がそうした墳墓の決まりごとを直接目にする機会はあり得た。楽浪郡では多数の墳墓が築かれている。漢王朝が隆盛を誇ったときは東夷の地とはいえ、こうした規制を破るような墳墓を築造できたはずはない。その当時の北部九州の王の墳丘は低平で、規模は30メートル程度である。漢が衰退に向かった2世紀後半に規制がゆるみ、倭国では吉備の楯築たてつきなど巨大な墳丘をもった墓が登場したのである。さらに、魏の曹操そうそうとそれ以降の3~4世紀にかけて中国の墳墓は薄葬へと転換し、墳丘の存在も顕著ではなくなった。同時期、倭国の前方後円墳のような大型の墳墓が飛躍的に登場したのは、中国の墓制の動向とは反対の動きである。そして中国の南北朝時代前半(5世紀後半)、中国で墳丘を築く風習がさらに弱くなった頃、倭国や朝鮮半島では王墓の規模は頂点に達する。特に極端な大型化を進めたのは、中国から最も遠いところに位置した倭国であり、墳墓の秩序から完全に離脱したものであった。百済の武寧王ぶねいおう陵は南朝の墳墓と埋葬施設の構造は共通するものの、墳丘などの規模においては倭国のものより比較にならないほど小さい。これは遠慮が働いたものと思われる。一方、百済の支配下にはなかった段階の朝鮮半島南西部の栄山江よんさんがん流域では百済王墓を上回る規模の墳丘を築いた。東夷各地の墳墓の違いは大きい。墳墓は本質的には地域社会に根差した事情・風習・信仰などと深く関わるのである。


 倭国では8世紀に古墳の時代が廃れてしまった。しかも、平城宮造営のときに大王墓の前方部を削り取ったという事実もあることから、倭国では墳墓に対する祖先祭祀の継続という意識が弱いと言わざるを得ない。倭国の古墳の特徴の一つは、見る古墳であり、見られる古墳でもあることである。しかも大型・中型の古墳群の周囲では同時期の集落遺跡がなく、その独立性・隔絶性は際立っている。神戸市の五色塚古墳はその一例といえる。また、大王墓や支配者の古墳の系譜が、しばしば移動することも確かめられている。7世紀以降、倭国は隋唐帝国や新羅と前代以上に密接な関係を結び、律令制や都城制、様々な文物の輸入など、政治・文化の各方面で多大な影響を受けるようになる。しかし、中国式の墳墓の制度はついに導入されなかった。その独自性の淵源は前方後円墳の時代にある。

 また、倭国の墳墓における階級差は規模や量の差であって、決定的な質の差ではない。こうした有様は倭王の地位が完全に独立・確立していなかったという王権の状況とも関係している。それだけでなく、一定の決まりごとに沿った墳形・規模・副葬品の種類といった仕組みを共有することに意義があったと思われる。それは倭国における墳墓の社会的役割によるものとみられる。


五色塚ごしきづか古墳]

神戸市にあり、兵庫県最大の前方後円墳(200メートル)で4世紀の古墳である。五色塚古墳の立地は畿内と西方を結ぶ交通路において重要な場所である。瀬戸内海に面した丘陵上にあり、淡路島との間が最も狭い明石海峡を見下ろす場所にある。それは見せるための古墳である。被葬者は単なる地域の一支配者ではなく、海路・陸路を往来する人びとや朝鮮半島・中国大陸からの渡来者とも関係する重要人物であったと推測される。


 楽浪郡成立以降の倭国と朝鮮半島諸地域の副葬品を比較したとき、その違いが大きいのは権威の見せ方である。漢文化の影響以降、倭国では銅鏡が権威を象徴する代表的な器物となった。これは倭国独特の風習である。BC1世紀の北部九州の飯塚市の立岩遺跡10号墓では、6面の中国鏡が棺内の被葬者の脇に置かれていた。下って、4世紀前葉の天理市の黒塚古墳では33面もの三角縁神獣鏡が棺の死者を護るような位置に立て並べられていた。埋葬にあたって銅鏡が死者を保護する役割を果たしていた。この伝統は中国文化との接触以降、500年以上の長期にわたって継続した。銅鏡という器物に呪術性を求め、墓に大量副葬する風習の淵源も漢代の中国にあったかもしれないが、倭国ではその呪術的性格にさらに特別な価値を認め、権威の象徴や支配の証しという役割すら付与するという、きわめて特異な意義の拡大を行ったのである。但し、3世紀までは、倭国のどの地域でも銅鏡を重視していたわけではなかった。2世紀後半の吉備の楯築たてつきには鏡の副葬はない。ところが3世紀中頃の前方後円墳の出現以降は、南部九州から東北地方まで銅鏡が広く墳墓に副葬されるようになる。銅鏡だけでなく、石製品・甲冑など権威を示す器物が定式化され、時期ごとに変化する。それらを王権が配布し、各地の支配者が入手し墓に副葬するという方式も定着する。


 墓の副葬品から見た時、BC1世紀~2世紀の朝鮮半島南部で重視された器物は中国系の文物の他に鉄器と銅剣があった。2世紀の辰韓(後の新羅)の慶州市舎羅里130号墓では木棺墓の中に銅鏡・玉類・腕輪・帯金具・馬具・銅剣・鉄剣・鉄鍑てつふくなど多様な副葬品の他、棺の下に61枚もの平たい板状鉄斧が敷き詰められていた。また同じ慶州市の九政洞2号墓では26本もの鉄矛が被葬者の近くに置かれていた。板状鉄斧・鉄矛ともに大型化しており、実用性は乏しいが、非常に丁寧に作られており、財として副えることにも意義があったともいえる。朝鮮半島東南部では地元産の鉄製品が権威を示す器物とされた。この地域で倭国の副葬品との違いとして、中国製の青銅容器の出土がやや目立つ。これらは儀式に用いられるが、倭国での出土例はない。また、中国貨幣は双方の地域で出土するが、朝鮮半島東南部では墳墓の副葬品に用いた例が多い。倭国では副葬例はなく、集落から出土している。

 倭国から朝鮮半島南部にもたらされた青銅製品には中広形・広形銅矛がある。倭国では祭祀に用いられ、基本的に埋納されたが、朝鮮半島では副葬品として出土する。4世紀の金官加耶の古墳群からは豊富な倭系遺物が出土し、日本列島の倭国との密接な交流を強く示す。この地域は縄文・弥生時代から北部九州との交流が盛んな地域である。ここから大量に出土した筒型銅器は倭国の前期古墳からも大量に出土しており、どちらで製作されたのかわからない状況である。どちらの製品であろうと、4世紀における両地域の深いつながりを強く示す器物である。

 4~5世紀の朝鮮半島と日本列島において、王墓の出現と展開という過程がほぼ同時期に確認できるのは、東アジア全体の動向と密接な関わりをもつと思われる。また、王墓の出現にあたり、他の地域の墓制の要素が積極的に取り入れらていることからみて、各地域の王たちが、周辺地域の動向を知るだけでなく、直接・間接的に墓制に関する情報を入手できるような関係をもっていたことが考えられる。


 では、墓制から見た朝鮮三国と倭国が如何に密接な関係であったかを、BC3世紀にさかのぼり、土生田純之(専修大学教授)による分析によって確かめてみる。


BC3世紀~3世紀の木槨もっかく墓:

 木槨墓は中国で成立し、朝鮮半島の楽浪らくろう郡・帯方たいほう郡を経て狗耶くや国(後の金官加耶)を中心とした朝鮮半島南部にまで伝わった墓制である。かくとは木棺を覆う外箱のような形態で、当然底部まで木材を渡して床面を形成するものである。しかし、朝鮮半島の東南部(金海きめなど)では、床部は掘り込みを行ったままの状態で、木材を渡した床は形成されていない。日本列島では弥生中期(BC2世紀~1世紀)から木槨墓が営まれるようになるが、この時代の木槨は規模も小さくむしろ二重木棺といえる。しかも弥生中期の段階は北部九州にとどまっている。弥生後期から終末(2世紀~3世紀)になると、分布範囲が東に広まり、終末ごろには石川県の北中条遺跡などの北陸地方にまで類例が見られるようになる。日本列島で唯一、底部まで木材を渡して床面を形成した木槨墓が見られるのは、3世紀中葉ごろの吉備の楯築たてつき墳丘墓のみである。また、奈良のホノケ山墳丘墓は、日本列島で確認された30例ほどの木槨墓の中でも特に大型であり、後の竪穴式石室に引き継がれる要素があり、箸墓はしはかに隣接する初期ヤマト王権の中枢に位置していることなどから注目に値する。ホノケ山の場合の床には3本の「まくら木」が渡されているにすぎない。この「まくら木」構造の墓は徳島県の萩原1号墓や京都府の黒田古墳でも確認されている。この構造は朝鮮半島東南部から伝播した木槨墓が列島内で変形したものと考えられる。


3世紀後葉~4世紀前葉の竪穴式石室:

 古墳時代になると巨大な前方後円墳が築かれるようになるが、その埋葬主体部には長大な竪穴式石室が構築される。竪穴式石室は一般的には板石を用いて構築されるが、初期のものは丸みのある塊石を用いて石室が構築されている。それは播磨地域に多く見られる。天理市の黒塚古墳では、下部に丸みのある塊石を用い、上部に板石を使用している。木槨墓が省略されて周囲の囲み石が竪穴式石室になったと考えられる。石室内には割竹形木棺が多い。稀に、箱型組み合わせ、あるいは刳り貫きの石棺がある。これらの内部埋葬施設は日本独特のものである。竪穴式石室は同時代の朝鮮半島南部の短小な竪穴式石室と関連がある。


5世紀中葉の竪穴式石室:

 5世紀中葉になると、山陽地方において長さが短く幅の広い、壁体が直立した竪穴式石室が構築される。これは朝鮮半島の洛東江の中・下流域(加耶地方)に多く見られる様式であり、兵庫県のカンス塚古墳・宮山古墳・池尻2号墳・岡山県の随庵古墳などには、朝鮮半島系文物や遺物を多く副葬されている。播磨風土記には応神期における新羅の王子であるアメノヒボコ伝承が伝わっており、播磨は日本列島で最も早く須恵器生産を行った神戸市の出合窯(4世紀後半の百済系)や5世紀に操業した総社市の奥ヶ谷窯跡など早い時期での須恵器生産が注目されている。4世紀末~6世紀にかけて播磨・但馬・吉備(備前・備中)などに濃厚にみられる朝鮮系文物の分布は、当然その背景として人びとの移住・交流があった。


5世紀中葉~後半の積石塚:

 この時期、東日本各地で積石塚(方形墳)が構築された。特に多いのは上野毛西部の高崎市辺りから榛名山北東麓である。これは各地首長がヤマト王権との関係に基づき馬匹ばひつ生産の増強を目的として東国各地で渡来人を受け入れた結果であると考えられる。積石塚とは通常の古墳とは異なり、石材を積み上げて墳丘を形成する古墳である。漢城(今のソウル)時代の百済の王陵は積石塚である。これは百済王が高句麗と同族であるという出自に由来するものである。なお、甲を着た古墳人で話題となった群馬県渋川市金井東裏遺跡は5世紀後半のものであり、その古墳人は形質人類学やストロンチウム分析により渡来系人物であることが解明された。


5世紀の北部九州および6世紀の畿内における横穴式石室:

 竪穴式石室はその地域の首長個人の墓室という性格が強い。一方、横穴式では二つ以上の石室や粘土槨などが後円部だけでなく、前方部にまで埋葬される一墳多葬の家族墓的性格も持つ。日本で最初に横穴式石室が出現するのは5世紀中頃の北部九州で、福岡市の丸隈山まるくまやま遺跡や鋤崎すくざき古墳、唐津市の横田下よこたしも古墳である。初期の横穴式石室は瀬戸内海沿岸部を経て畿内へと波及していった。6世紀初頭~前半に畿内で大王墓などの主要前方後円墳に横穴式石室が採用された。実際例には、高取町の市尾墓山古墳、高槻市の今城塚古墳、天理市の東乗鞍古墳などがある。ヤマト王権による公式採用を意味しており、これら主要古墳の造営を経て定型化した6世紀後半の畿内型石室につながっていった。倭における横穴式石室は漢城(今のソウル)期の百済地域との関係性が有力視されている。

朝鮮半島で最初に横穴式石室が出現するのは高句麗である。高句麗の積石塚の最終形は、吉林省集安にある400年ごろの将軍塚や太王陵の階段式積石塚である。その内部に切石で構築された横穴式石室がある。

松本清張は、“中国の横穴式石室は漢代から行われているが、墓室に画像を描く画像石は山東省に多くその発祥の地と思われる。山東省は神仙思想を軸にした道教の発祥の地でもある。古事記の「天の岩屋戸」、日本書紀の「天の岩窟いわや」は横穴式石室墳墓のことである”、という。


6世紀前半の朝鮮半島の前方後円墳と倭系の横穴式石室:

 現在13基が確認されているが、全羅北道の1基を除き、他はいずれも全羅南道(朝鮮半島南西部の栄山江よんさんがん流域)に所在する。その古墳の多くは倭系の横穴式石室を内蔵している。また、埴輪を有する古墳もある。これらの古墳は継体期の512年に起きた、大伴金村による任那四県(今の全羅南道の栄山江流域)を百済に割譲する事件との関わりが議論されている。被葬者は倭国と密接な関係を有する在地首長と考えられる。同じ頃、加耶地域の古墳では倭系横穴式石室が構築されている。特に任那日本府が置かれていたとされる安羅加耶の二つの古墳は重要である。その古墳の特徴は九州の筑後川中・下流域から熊本北部にかけて存在する古墳と同じである。これらの前方後円墳も倭系横穴式石室をもつ古墳も1代限りで終わっている。6世紀前半に倭国も百済も新羅も、周辺地方に対する支配領域の拡張と直接支配を目指していた。こうしたなか、倭国では527年に筑紫国造磐井いわいの叛乱をはじめとして、吉備・播磨・伊勢などの叛乱や逆臣騒動が起きている。また、百済(516年)・新羅(524年)による加耶諸国への進出、そして新羅による金官国の併合(532年)となった。こうした背景のなかで北部九州を中心とする多くの倭人が加耶の支援のため朝鮮半島南部へ渡海したと思われる。


7世紀の横口式石槨と切石石室:

 横口式石槨は天井石・側石・底石を持ち、一方の小口を横口としてここに板石の閉塞石を置く形態で、内部に木棺などを安置する。横穴式石室が追葬可能な構造で、家族墓とも言われるのに対し、石室の規模が小さくなった横口式石槨は明らかに個人墓である。7世紀初頭に南河内の石川流域や大和の葛城地域で採用された。横口式石槨の源流は百済あるいは高句麗の石槨であり、両国からの渡来人によってもたらされた墓制である。さらにその源流は北周の墓制である。7世紀前半までは渡来人に限定されていたが、倭が中央集権体制へと進むにつれて、上層階級にも受け入れられた。7世紀後半には牽牛子塚けんごしづか古墳(斉明陵)に採用されている。一方、切石石室は7世紀前半に導入されるが、百済の王陵と酷似しており、百済の影響によるものであるのは明らかである。これは663年の白村江の戦いに破れ、多くの百済系亡命者が渡来したからと思われる。


 墓制は時の権力者を象徴するものである。その墓制が朝鮮半島諸国と類似しているということは、朝鮮半島諸国との交流という言葉ではすまされない。朝鮮半島の墓制は加耶を通じて人の移動と共に伝播してきたと考えられる。それは加耶の支配層と倭国の支配層が同族であったことの証明でもある。


 次に、倭国の固有の墓制として発達した前方後円墳の出現過程を見てみる。


出現期と前期古墳文化(3世紀後半~4世紀後葉):

 3世紀後葉、大和の地に突如大型の前方後円墳が登場する。その後、南は鹿児島から北は宮城までこの共通する形式の墳墓が広まった。埋葬施設の形式や葺石ふきいし、副葬品の種類など墳墓の細かい特徴も共通し、古墳を築く技術や各種の器物も伝播したことを物語る。墳丘の形や大小、副葬品の多寡など墳墓の階層が明確となり、全体を通ずる秩序もみられる。 

3世紀後半から4世紀初めにかけての出現期の前方後円墳は奈良盆地東南部、京都南部、大阪、兵庫、岡山を中心に分布する。特殊器台形埴輪と特殊壺形埴輪を伴うことも多く、吉備の影響が大きかった。近畿以外では、岡山市の浦間茶臼山古墳(138メートル)や豊前の石塚山古墳(120メートル)などがある。各地の古墳は墳丘の形、竪穴式石室、割竹形木棺など埋葬施設の共通性、三角縁神獣鏡など副葬品の共通性など画一的な内容で造営された。各地の首長たちは、大和の勢力を中核として政治・経済的な利害が一致する連合を結び、その証として共通する古墳と祭式が受容された。古墳には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳があり、出現期から並存する。墳形の違いは首長の系譜などヤマト王権との関係の深さが関わっていた。4世紀初めの奈良盆地東南部での出現期以降、大王墓の築造場所は転々と変わっていく。4世紀後半になると奈良盆地北部の佐紀と南部の馬見の地に、さらに中期の5世紀には大阪平野の古市ふるいち百舌鳥もずで大型古墳の築造が始まった。


中期古墳文化(4世紀後葉~5世紀後葉):

 4世紀末から5世紀の巨大古墳の時代である。前期古墳の粘土槨、後期古墳の横穴式石室内への埋葬に対して、竪穴式石室を墳頂近くに設け、内部に石棺などを安置する葬法が発達したことを特色とする。副葬品では、前期古墳の宝器的器物の埋葬が、中期になると、金冠・耳飾り・帯鉤たいこう(帯金具)その他の装身具、青銅や金銅製・鉄製の甲冑、金銀製の刀剣などの武器、馬具類、多数の石製模造品、など宗教的色彩が薄れ、権力・武力・富力を誇示する実用器具類の副葬へと変化した。応神陵・仁徳陵を代表とする巨大古墳の造営は、鉄製農具の普及による水稲技術の発達と、大規模な河内平野の開拓に基づく農業生産力の向上によって可能となった。日常の土器は、弥生時代以来の土師器は祭器での使用となり、朝鮮の新羅焼土器の系統の硬質の須恵器が取って代わった。これは大陸の文化が大和の文化に急速に浸透してきた結果と見られる。

この時代になると急に馬具の出土例が出てくる。大阪府の古市ふるいち古墳群(羽曳野市・藤井寺市)や百舌鳥もず古墳群(堺市)の王陵クラスの古墳の陪塚などからも馬具が出てくる。馬具だけでなく、武器や武具類についても同じである。4世紀までの歩兵戦用の武器から騎馬戦向きのものに大きく変化している。日本における馬の文化の始まりは4世紀末から5世紀初頭であることはほぼまちがいない。


後期古墳文化(5世紀後葉~7世紀前葉):

 5世紀後葉~6世紀前葉、これまで大古墳を造営してきた場所ではなく、新たな場所に中形・小形の前方後円墳が築かれるようになった。石室も横穴式となり、来世での生活のために土師器はじき須恵器すえきなどの炊飯具や食器が副葬されるようになった。それまでの竪穴式石室では祭祀は墳頂で行われていたが、横穴式では入口の前庭が祭祀・儀式の場となり、その付近に人物埴輪などが立て並べられた。6世紀には近畿中央部では前方後円墳の築造が急減し、関東で急増した。特に上毛野かみつけぬ(今の群馬)で多い。上毛野かみつけぬ氏の氏神は前橋市の赤城神社である。装飾大刀も関東に多く、倭王が東国の首長層に下賜したもので、倭王権にとって東国が重要になったことを示している。6世紀には弥生時代以来の方形や円形の低墳丘墓が群集する同族の集団墓も大きく変わり、径10メートルほどの横穴式石室を持つ小円墳が激増した。河内・京都・飛鳥地域では渡来系氏族の集団墓が目立つ。また、長野・群馬・山梨などでは、倭王権のための馬生産に従事する渡来系の人びとが積石塚という渡来系古墳を築いている。


古墳時代の終焉(7世紀中葉~後葉):

 628年に没した推古すいこは薄葬を遺言し、方墳に埋葬された。646年の大化薄葬令により前方後円墳の築造は全国的に終焉し、大王墓は方墳化した。倭国連合の身分制度の象徴であった前方後円墳の消滅は古墳時代への決別を告げる政治改革でもあった。蘇我氏は前方後円墳の廃止と方墳化を推進した。蘇我馬子の石舞台古墳(桃原墓)や蘇我系の用明陵(春日向山古墳)、推古陵(山田高塚古墳)は方墳である。蘇我稲目いなめの都塚古墳(方墳)がピラミッド型であることが2014年に判明した。しかし非蘇我系は円墳である。一方、横穴式石室は6世紀後半~7世紀初頭に巨大化し、石材も自然石の巨石を使って築くようになった。626年に没した蘇我馬子うまこの墓である石舞台古墳の石室はその典型である。7世紀中ごろ以降、渡来系の横口式石槨(石棺式石室)が大王陵などに採用され主流となる。その代表例が明日香村にある牽牛子塚けんごしづか古墳、高松塚古墳、キトラ古墳である。副葬品も少量となり、鏡・太刀・すずりなど程度となった。また、641年に没した舒明じょめい以降文武もんむまでの大王墓は道教的な八角形となっている。終末期古墳の特色の一つに高句麗の墓と同様な壁画である。高松塚古墳、キトラ古墳に見られる天体図・日月図・四神(玄武・青龍・白虎・朱雀)図は中国・高句麗・百済の古墳壁画の主題であった。


 日本列島の古墳には一つの特徴がある。誰を葬ったかが伝わっていないという事実である。被葬者を示す墓誌がなく、宮内庁が管理している「天皇陵」もその多くの比定が誤っている。日本における古墳と天皇陵についての森浩一の見解を見てみる。これが日本の古墳の現状である。

“日本の古代文化の特色は、壮大な墓、つまり古墳を造営した点にある。古墳を造営する風潮は、日本歴史のどの時代にも、散発的に、また偶発的にあったのではなく、4世紀から7世紀の初めごろまでの約400年間に集中していることと、古墳の築かれた地域が大和や吉備だけでなく、ほとんど日本列島全体にわたっていることは見逃せない。このように時間的にはある時期に集中していた事実と、空間的には普遍化していた事実、さらには古墳を築いた階層が、当時の支配者だけでなく、極端な場合は、近世に農村(村落)があったところにはたいてい築かれているというほどの浸透性がみられるので、これを古墳時代と呼んでいる。現在、天皇陵に比定されている古墳のほとんどは真の陵墓であるという確信はない。全国には約10万前後の古墳があるけれども、その中で被葬者の名と古墳が築かれた年代とがほぼ判っているいるのは、福岡県八女市の岩戸山古墳と群馬県高崎市の山ノ上古墳など数基があるにすぎない。例えば、現在欽明きんめい陵と伝えられる梅山古墳(全長140メートルの中型の前方後円墳)は当初は双円墳であったが、幕末の天皇陵の修築事業で改変されたと推測される。そこからは猿石と呼ばれる一群の特異な石人の彫像が出土しており、古墳時代後期(6世紀)までさかのぼるものではない。可能性としては、642年に工事を進めたと日本書紀に伝える蘇我蝦夷えみし入鹿いるか父子の双墳ではないかと思う。真の欽明の墓と推定するのは見瀬丸山古墳(全長318メートル、6世紀後半の前方後円墳、橿原神宮前)である。そのずば抜けた長さ26メートルの横穴式石室には二つの家形石棺が安置されている。612年に蘇我稲目の娘の蘇我堅塩きたし媛を合葬したと日本書紀に記されているので、欽明と堅塩媛と推定する。 

宮内庁が管理している天皇陵、皇室関係の墓および参考地は約900あるが、古墳時代の天皇陵古墳は約80基が該当しそうである。しかし、そこには立ち入ることも許されていないので、学術調査ができない状況である。考古学に関しては、発掘が多いわりに、いつまでも古代史の体系がぐらついているのは、古墳時代研究の標準遺跡の大半を含んでいる天皇陵が、学問的に閉ざされていることに一因がある。現在の天皇陵には墳丘の外に砂礫を敷き詰めた拝所が設けられ、鳥居が立てられているが、これは幕末の文久年間の修築、および明治維新以降に行われたものである。また、現在の神武陵は、古墳でなく、幕末に造営された墓である。”

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