第34話 墓制から見た東アジア・朝鮮半島、そして倭国
森下章司(大手前大学教授)によれば、中国漢代の墓制や死生観は、総じていえば、墳墓が死者のための施設にとどまらず、祖霊に対する祭祀とそのための設備により、生者の世界と恒常的に結びついていたことに特徴がある。この中国式の墓制は高句麗の王墓には影響を与えた可能性が高い。高句麗では墳墓の周囲に敷石や陪塚・祭壇・建物や石碑などから構成される中国的な「陵園」が形成された。墳丘は陵園の中に築かれた。陵園を備えた王墓には居宅を意識した柱などを壁画や彫刻で表現した例が認められる。百済や新羅の墳墓に関しては、こうした比較は難しいが、文献記録によると、王墓の近くの廟で祖先祭祀を行っていた可能性は高い。
朝鮮半島の諸地域における墳墓の形式は、本格的な朝鮮三国時代に突入した段階で、それぞれ異なる墓葬制を確立し、あたかも各地域勢力のアイデンティティであるかのようにそれを維持した。高句麗では鴨緑江流域の大型
ところが、倭国では大きく異なる方向に墳墓が進化する。倭国の古墳の大きな特徴は、墳丘に対するこだわりである。前方後円墳という奇妙な形を採用し、300年近く継承し続けた。他の地域では、高句麗や百済では方墳、加耶や新羅は円墳といった単純な形がほとんどであることと比較すると、倭国においては墳丘が特別な意味をもっていたといえる。
倭国の前方後円墳の特徴は、形もさることながら、墳丘があまりに大きいことである。中国の場合、高い墳丘や石積みの周囲に、死者への奉仕や祭祀、葬祭に関わる多数の建築物を擁する広大な施設があり、それを合わせて墓を構成する。一方、前方後円墳に付属施設は確認できず、墳丘のみが巨大化している。埋葬後、長期にわたって死者への祭りが続けられた形跡も乏しい。前方後円墳は立地にも特徴があり、山や丘陵の頂部、河川や陸路などの交通の要衝、海路に沿った海辺など、目立つところを選んで築かれた。墳丘の形も朝鮮半島と倭国とでは異なる。朝鮮半島の大型古墳は、墳丘の平面積に対し、墳高がきわめて高い。そのため傾斜が急で、しかも段築がなく、墳頂にも平坦面がない。一方、日本列島の古墳は墳丘の平面積が広いものの墳丘は低く、テラスや墳頂平坦面が広い。それは「登るための墳墓」であり、朝鮮半島の古墳は「登らない墳墓」である。
被葬者を納めた埋葬施設の位置も重要である。倭国では埋葬施設が墳丘の上部に位置する。墳丘を積み上げた後、古墳時代の前期は、上から穴を掘って埋葬を行った。埋葬の時点で墳丘の形がほぼ出来上がっているのが特徴である。中国の墓では墓室は地下に設けるのが基本であり、墳丘はその上を覆うような位置にある。4~5世紀の新羅や加耶の墳墓も埋葬が終わってから墳丘の構築を行う例が多い。中国式の墳墓では、王朝や一族が続く限り祖先祭祀を繰り返し行い続け、その継続性が重要であった。朝鮮半島でも、統一新羅(676年~935年)・
朝鮮半島や倭国で大型墳墓が発達する時期、本家の中国では王墓を築く風習が衰退していた。これは逆の作用、つまり中国王朝の墳墓秩序が弱まったことが影響していると考えられる。漢代の墳墓は皇帝陵を頂点とし、墳丘の高さ、付属する陵園などに関して秩序と法則があった。倭人がそうした墳墓の決まりごとを直接目にする機会はあり得た。楽浪郡では多数の墳墓が築かれている。漢王朝が隆盛を誇ったときは東夷の地とはいえ、こうした規制を破るような墳墓を築造できたはずはない。その当時の北部九州の王の墳丘は低平で、規模は30メートル程度である。漢が衰退に向かった2世紀後半に規制がゆるみ、倭国では吉備の
倭国では8世紀に古墳の時代が廃れてしまった。しかも、平城宮造営のときに大王墓の前方部を削り取ったという事実もあることから、倭国では墳墓に対する祖先祭祀の継続という意識が弱いと言わざるを得ない。倭国の古墳の特徴の一つは、見る古墳であり、見られる古墳でもあることである。しかも大型・中型の古墳群の周囲では同時期の集落遺跡がなく、その独立性・隔絶性は際立っている。神戸市の五色塚古墳はその一例といえる。また、大王墓や支配者の古墳の系譜が、しばしば移動することも確かめられている。7世紀以降、倭国は隋唐帝国や新羅と前代以上に密接な関係を結び、律令制や都城制、様々な文物の輸入など、政治・文化の各方面で多大な影響を受けるようになる。しかし、中国式の墳墓の制度はついに導入されなかった。その独自性の淵源は前方後円墳の時代にある。
また、倭国の墳墓における階級差は規模や量の差であって、決定的な質の差ではない。こうした有様は倭王の地位が完全に独立・確立していなかったという王権の状況とも関係している。それだけでなく、一定の決まりごとに沿った墳形・規模・副葬品の種類といった仕組みを共有することに意義があったと思われる。それは倭国における墳墓の社会的役割によるものとみられる。
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神戸市にあり、兵庫県最大の前方後円墳(200メートル)で4世紀の古墳である。五色塚古墳の立地は畿内と西方を結ぶ交通路において重要な場所である。瀬戸内海に面した丘陵上にあり、淡路島との間が最も狭い明石海峡を見下ろす場所にある。それは見せるための古墳である。被葬者は単なる地域の一支配者ではなく、海路・陸路を往来する人びとや朝鮮半島・中国大陸からの渡来者とも関係する重要人物であったと推測される。
楽浪郡成立以降の倭国と朝鮮半島諸地域の副葬品を比較したとき、その違いが大きいのは権威の見せ方である。漢文化の影響以降、倭国では銅鏡が権威を象徴する代表的な器物となった。これは倭国独特の風習である。BC1世紀の北部九州の飯塚市の立岩遺跡10号墓では、6面の中国鏡が棺内の被葬者の脇に置かれていた。下って、4世紀前葉の天理市の黒塚古墳では33面もの三角縁神獣鏡が棺の死者を護るような位置に立て並べられていた。埋葬にあたって銅鏡が死者を保護する役割を果たしていた。この伝統は中国文化との接触以降、500年以上の長期にわたって継続した。銅鏡という器物に呪術性を求め、墓に大量副葬する風習の淵源も漢代の中国にあったかもしれないが、倭国ではその呪術的性格にさらに特別な価値を認め、権威の象徴や支配の証しという役割すら付与するという、きわめて特異な意義の拡大を行ったのである。但し、3世紀までは、倭国のどの地域でも銅鏡を重視していたわけではなかった。2世紀後半の吉備の
墓の副葬品から見た時、BC1世紀~2世紀の朝鮮半島南部で重視された器物は中国系の文物の他に鉄器と銅剣があった。2世紀の辰韓(後の新羅)の慶州市舎羅里130号墓では木棺墓の中に銅鏡・玉類・腕輪・帯金具・馬具・銅剣・鉄剣・
倭国から朝鮮半島南部にもたらされた青銅製品には中広形・広形銅矛がある。倭国では祭祀に用いられ、基本的に埋納されたが、朝鮮半島では副葬品として出土する。4世紀の金官加耶の古墳群からは豊富な倭系遺物が出土し、日本列島の倭国との密接な交流を強く示す。この地域は縄文・弥生時代から北部九州との交流が盛んな地域である。ここから大量に出土した筒型銅器は倭国の前期古墳からも大量に出土しており、どちらで製作されたのかわからない状況である。どちらの製品であろうと、4世紀における両地域の深いつながりを強く示す器物である。
4~5世紀の朝鮮半島と日本列島において、王墓の出現と展開という過程がほぼ同時期に確認できるのは、東アジア全体の動向と密接な関わりをもつと思われる。また、王墓の出現にあたり、他の地域の墓制の要素が積極的に取り入れらていることからみて、各地域の王たちが、周辺地域の動向を知るだけでなく、直接・間接的に墓制に関する情報を入手できるような関係をもっていたことが考えられる。
では、墓制から見た朝鮮三国と倭国が如何に密接な関係であったかを、BC3世紀にさかのぼり、土生田純之(専修大学教授)による分析によって確かめてみる。
BC3世紀~3世紀の
木槨墓は中国で成立し、朝鮮半島の
3世紀後葉~4世紀前葉の竪穴式石室:
古墳時代になると巨大な前方後円墳が築かれるようになるが、その埋葬主体部には長大な竪穴式石室が構築される。竪穴式石室は一般的には板石を用いて構築されるが、初期のものは丸みのある塊石を用いて石室が構築されている。それは播磨地域に多く見られる。天理市の黒塚古墳では、下部に丸みのある塊石を用い、上部に板石を使用している。木槨墓が省略されて周囲の囲み石が竪穴式石室になったと考えられる。石室内には割竹形木棺が多い。稀に、箱型組み合わせ、あるいは刳り貫きの石棺がある。これらの内部埋葬施設は日本独特のものである。竪穴式石室は同時代の朝鮮半島南部の短小な竪穴式石室と関連がある。
5世紀中葉の竪穴式石室:
5世紀中葉になると、山陽地方において長さが短く幅の広い、壁体が直立した竪穴式石室が構築される。これは朝鮮半島の洛東江の中・下流域(加耶地方)に多く見られる様式であり、兵庫県のカンス塚古墳・宮山古墳・池尻2号墳・岡山県の随庵古墳などには、朝鮮半島系文物や遺物を多く副葬されている。播磨風土記には応神期における新羅の王子であるアメノヒボコ伝承が伝わっており、播磨は日本列島で最も早く須恵器生産を行った神戸市の出合窯(4世紀後半の百済系)や5世紀に操業した総社市の奥ヶ谷窯跡など早い時期での須恵器生産が注目されている。4世紀末~6世紀にかけて播磨・但馬・吉備(備前・備中)などに濃厚にみられる朝鮮系文物の分布は、当然その背景として人びとの移住・交流があった。
5世紀中葉~後半の積石塚:
この時期、東日本各地で積石塚(方形墳)が構築された。特に多いのは上野毛西部の高崎市辺りから榛名山北東麓である。これは各地首長がヤマト王権との関係に基づき
5世紀の北部九州および6世紀の畿内における横穴式石室:
竪穴式石室はその地域の首長個人の墓室という性格が強い。一方、横穴式では二つ以上の石室や粘土槨などが後円部だけでなく、前方部にまで埋葬される一墳多葬の家族墓的性格も持つ。日本で最初に横穴式石室が出現するのは5世紀中頃の北部九州で、福岡市の
朝鮮半島で最初に横穴式石室が出現するのは高句麗である。高句麗の積石塚の最終形は、吉林省集安にある400年ごろの将軍塚や太王陵の階段式積石塚である。その内部に切石で構築された横穴式石室がある。
松本清張は、“中国の横穴式石室は漢代から行われているが、墓室に画像を描く画像石は山東省に多くその発祥の地と思われる。山東省は神仙思想を軸にした道教の発祥の地でもある。古事記の「天の岩屋戸」、日本書紀の「天の
6世紀前半の朝鮮半島の前方後円墳と倭系の横穴式石室:
現在13基が確認されているが、全羅北道の1基を除き、他はいずれも全羅南道(朝鮮半島南西部の
7世紀の横口式石槨と切石石室:
横口式石槨は天井石・側石・底石を持ち、一方の小口を横口としてここに板石の閉塞石を置く形態で、内部に木棺などを安置する。横穴式石室が追葬可能な構造で、家族墓とも言われるのに対し、石室の規模が小さくなった横口式石槨は明らかに個人墓である。7世紀初頭に南河内の石川流域や大和の葛城地域で採用された。横口式石槨の源流は百済あるいは高句麗の石槨であり、両国からの渡来人によってもたらされた墓制である。さらにその源流は北周の墓制である。7世紀前半までは渡来人に限定されていたが、倭が中央集権体制へと進むにつれて、上層階級にも受け入れられた。7世紀後半には
墓制は時の権力者を象徴するものである。その墓制が朝鮮半島諸国と類似しているということは、朝鮮半島諸国との交流という言葉ではすまされない。朝鮮半島の墓制は加耶を通じて人の移動と共に伝播してきたと考えられる。それは加耶の支配層と倭国の支配層が同族であったことの証明でもある。
次に、倭国の固有の墓制として発達した前方後円墳の出現過程を見てみる。
出現期と前期古墳文化(3世紀後半~4世紀後葉):
3世紀後葉、大和の地に突如大型の前方後円墳が登場する。その後、南は鹿児島から北は宮城までこの共通する形式の墳墓が広まった。埋葬施設の形式や
3世紀後半から4世紀初めにかけての出現期の前方後円墳は奈良盆地東南部、京都南部、大阪、兵庫、岡山を中心に分布する。特殊器台形埴輪と特殊壺形埴輪を伴うことも多く、吉備の影響が大きかった。近畿以外では、岡山市の浦間茶臼山古墳(138メートル)や豊前の石塚山古墳(120メートル)などがある。各地の古墳は墳丘の形、竪穴式石室、割竹形木棺など埋葬施設の共通性、三角縁神獣鏡など副葬品の共通性など画一的な内容で造営された。各地の首長たちは、大和の勢力を中核として政治・経済的な利害が一致する連合を結び、その証として共通する古墳と祭式が受容された。古墳には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳があり、出現期から並存する。墳形の違いは首長の系譜などヤマト王権との関係の深さが関わっていた。4世紀初めの奈良盆地東南部での出現期以降、大王墓の築造場所は転々と変わっていく。4世紀後半になると奈良盆地北部の佐紀と南部の馬見の地に、さらに中期の5世紀には大阪平野の
中期古墳文化(4世紀後葉~5世紀後葉):
4世紀末から5世紀の巨大古墳の時代である。前期古墳の粘土槨、後期古墳の横穴式石室内への埋葬に対して、竪穴式石室を墳頂近くに設け、内部に石棺などを安置する葬法が発達したことを特色とする。副葬品では、前期古墳の宝器的器物の埋葬が、中期になると、金冠・耳飾り・
この時代になると急に馬具の出土例が出てくる。大阪府の
後期古墳文化(5世紀後葉~7世紀前葉):
5世紀後葉~6世紀前葉、これまで大古墳を造営してきた場所ではなく、新たな場所に中形・小形の前方後円墳が築かれるようになった。石室も横穴式となり、来世での生活のために
古墳時代の終焉(7世紀中葉~後葉):
628年に没した
日本列島の古墳には一つの特徴がある。誰を葬ったかが伝わっていないという事実である。被葬者を示す墓誌がなく、宮内庁が管理している「天皇陵」もその多くの比定が誤っている。日本における古墳と天皇陵についての森浩一の見解を見てみる。これが日本の古墳の現状である。
“日本の古代文化の特色は、壮大な墓、つまり古墳を造営した点にある。古墳を造営する風潮は、日本歴史のどの時代にも、散発的に、また偶発的にあったのではなく、4世紀から7世紀の初めごろまでの約400年間に集中していることと、古墳の築かれた地域が大和や吉備だけでなく、ほとんど日本列島全体にわたっていることは見逃せない。このように時間的にはある時期に集中していた事実と、空間的には普遍化していた事実、さらには古墳を築いた階層が、当時の支配者だけでなく、極端な場合は、近世に農村(村落)があったところにはたいてい築かれているというほどの浸透性がみられるので、これを古墳時代と呼んでいる。現在、天皇陵に比定されている古墳のほとんどは真の陵墓であるという確信はない。全国には約10万前後の古墳があるけれども、その中で被葬者の名と古墳が築かれた年代とがほぼ判っているいるのは、福岡県八女市の岩戸山古墳と群馬県高崎市の山ノ上古墳など数基があるにすぎない。例えば、現在
宮内庁が管理している天皇陵、皇室関係の墓および参考地は約900あるが、古墳時代の天皇陵古墳は約80基が該当しそうである。しかし、そこには立ち入ることも許されていないので、学術調査ができない状況である。考古学に関しては、発掘が多いわりに、いつまでも古代史の体系がぐらついているのは、古墳時代研究の標準遺跡の大半を含んでいる天皇陵が、学問的に閉ざされていることに一因がある。現在の天皇陵には墳丘の外に砂礫を敷き詰めた拝所が設けられ、鳥居が立てられているが、これは幕末の文久年間の修築、および明治維新以降に行われたものである。また、現在の神武陵は、古墳でなく、幕末に造営された墓である。”
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