第33話 文字文化

 人類の歴史と文化の発展において、文字の具体化とその使用は画期的な出来事であった。東アジアにおいて、中国で発達した漢字とその文化は、中国周辺の諸民族へと波及し、ベトナム・朝鮮半島・日本列島などにも漢字文化が影響を及ぼしている。しかし、漢字文化を受容して発展させた国々においても、それがそのまま受け継がれて展開したわけではない。古代の日本においても例外ではなかった。


 もともと独自の文字を持たなかった日本列島に漢字がもたらされたのは弥生時代後半であるが、この段階ではまだ列島内部において漢字が必要とされておらず、漢字自体の理解や認識もなかったため、普及しなかった。初期には貨幣や鏡・印など鋳造された完成品に漢字が記され日本に渡来した。なかでも北部九州の人びとが、漢字が記された品物に初めて接したと考えられる。具体的には1世紀初頭の貨泉かせんや五銖銭などの貨幣、吉祥句や年紀・工房などが記された青銅鏡、「漢委奴国王」と陰刻された金印などである。貨泉とは、中国の前漢と後漢の間に王莽おうもうが建国した新(紀元後9年~23年)の時代の紀元後14年に発行した円形銅銭で、方形孔の右に「貨」の字、左に「泉」の字を配している。発行期間が限定されているため、出土する遺跡の年代を推定する基準ともなる。王莽の貨泉は北部九州や山陰、さらに山口県・岡山県・大阪府・京都府の日本海側の沿岸などから見つかっている。具体的には、伊都国の北側のシマ地域にある御床松原みとこまつばら遺跡や隣接する新町遺跡、鳥取市青谷上寺地遺跡、大阪府亀井遺跡、岡山県高塚遺跡から貨泉が出土している。これらはいずれも海村である。 


 森浩一によれば、貨泉かせんや五銖銭などの貨幣の場合は、鋳出されている文字が「貨泉」とか「五銖」であって、句や文ではない。また弥生時代での出土地も銅鏡に比べ一つの地域での浸透度は弱い。これに対して銅鏡は、弥生中期には主として玄界灘沿岸と有明海沿岸に集中していたものが、弥生後期の拡散過程を経て古墳前期には、南東諸島(種子島・屋久島以南の南西諸島)と北海道・東北北部を除く、ほぼ日本列島全域に分布し、しかもその大半が、漢字による句もしくは文を持っており、倭人、とりわけ各地域の末端の支配者層の人たちさえも、銅鏡銘文を通して中国文に接していたことは疑問の余地がない。華北や華中で出土している前漢(BC206年~紀元後8年)から中国南北朝時代(220年~589年)の南朝である六朝りくちょうごろの銅鏡銘文は、長寿や子孫の繁栄あるいは官吏としての出世や富を願う内容のものが多い。長寿を願うことが、やがて神獣鏡の銘文のように不老長寿の理想郷としての神仙世界へのあこがれになっているものもあった。


 日本列島における漢字の受容を物語る遺物には、銘文のある鏡・剣・大刀・墓碑・墓誌などの他に、印・貨泉・仏像銘・木簡・墨書土器などがある。北部九州の甕棺墓かめかんぼなどから「楚辞」系の詩句や吉祥句を鋳出した漢代の鏡が出土し、字そのものに呪力があると信じられていた時期には、しばしば一字だけを土器に書くことが行われた。57年の「漢倭奴国王」の朝貢に上表文などの文書の提出が伴っていたかどうかについて、梶山勝(名古屋市博物館研究員)は、“金印は「・・・王」で終わっているのは、文字を理解しない異民族の王侯に与えた官印であるためであり、文字を理解する民族に対する印文の最後の「璽」や「印」に相当する文字を使用していない。したがって、上表文はなかったと推定している。しかし、3世紀前半の邪馬台国時代の上表文は女王が提出しており、使者である都市牛利としごり大夫たいふ難升米なしめなどは渡来系で文字を理解し使用する人たちであったと考えられる”、という。


 田中史生(関東学院大学教授)によれば、日本列島への漢字文化の伝播は、BC108年の前漢武帝による朝鮮半島の郡県支配が最初の画期となった。これにより朝鮮半島に配置された漢の官吏が簡牘かんとく(竹簡や木簡)や封泥の印などを用いた中国式の文書行政を持ち込んだからである。武帝が設置した漢四郡、楽浪らくろう玄兎げんと真蕃しんぱん臨屯りんとんのうち、BC75年の改編で楽浪郡は25県を擁する大郡となり、漢の東方進出の前線基地として成長する。楽浪郡では文字を使用していたため、石のすずりと硯石が出土している。楽浪郡の影響は朝鮮半島南部へも及び、南部加耶の昌原ちゃんうぉん市にあるBC1世紀中ごろの茶戸里たほり遺跡の1号墳からは、BC1世紀ごろの漢式遺物とともに両端に筆毛のついた筆と漆のさやに入った鉄製の刀子とうすが出土している。刀子は文字を書くときに竹簡や木簡を削るために用いる。1号墳は茶戸里の古墳群の中でも上位階層のもので、地域の有力層は漢字文化も受容して楽浪郡との直接交渉を進め、郡から漢式の文物を入手し、自らの威信を高めていた。そして、倭人社会が中国王朝との交渉を本格化させるのもこの頃からである。それを端的に示すのが、「漢書」地理誌・燕条の「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来たりて、献見す」、という記述である。漢と倭人との交流は楽浪郡を介してのものであった。交流を求める倭人とは、いくつかの「クニ」の首長たちであった。そうなると首長たちにはある程度の漢字文化の理解が求められることとなる。57年に光武帝から授与された福岡県の志賀島で発見された「漢委奴国王」と陰刻のある金印は、そのことをうかがわせる。その後、後漢末期の204年に楽浪郡の南に帯方たいほう郡が置かれるが、漢王朝の力に陰りがみえても、中国の官印はなお首長たちの羨望の的であった。238年に帯方郡を介して魏に朝貢した卑弥呼も、「親魏倭王」の称号とともに金印紫綬を賜与された。卑弥呼の王権は印だけでなく、外交文書も重視していた。しかし、外交文書を作成できるほどの高度な文字技術も、それを使いこなす文字技能者も、未だ保持していなかった可能性は高い。その時の外交文書は帯方郡の官吏が作成していたと思われる。この頃の北部九州の遺跡から出土した土器片には1字程度の記号的な文字が記されているだけである。それでも魏志倭人伝の時代である2~3世紀は、北部九州の倭人社会が漢字を理解する土地として明瞭に描き出されているのに対して、近畿地方の大和や河内では漢字とは系統を異にする記号文があるのみである。記号文はそれなりの発達を示していたが、古墳時代前期になって銘文をもつ銅鏡が豊富に畿内に埋納されるようになると、そのような記号文は急速にすたれている。 


 4世紀に入ると東アジア地域における漢字の普及状況は一変する。中国ではしんが南に追いやられ、華北が五胡十六国時代に突入すると、楽浪郡・帯方郡が孤立し、313年~314年には高句麗によって滅亡させられたからである。勢いを増して南下政策をとる高句麗に対抗して百済と倭国の同盟関係が形成された。この時代の朝鮮半島と日本列島の漢字文化に重要な役割を果たしたのは、中国系の知識人たちである。彼らは華北の争乱と楽浪郡・帯方郡の滅亡を契機に、朝鮮半島に亡命・流入した人たち、およびその子孫たちで高句麗や百済に属すると、その知識で両国の成長を助けた。彼らは中国的な一字姓を持ち、墓誌などに江南地方に遷都した東晋の年号・称号を用いるなど、晋への志向が強かった。しかし4世紀の日本列島の倭国には漢字で文字を記す習慣は未だなかった。 

水野祐は、“5世紀は宋書・梁書などの中国正史によって倭国の事情が推測できるが、5世紀以前の倭国は記録時代に入っていず、伝承時代であったと考えられるから、倭国側には確実な史実を伝える記録は皆無と思われる”、という。


 4世紀末の応神の時代に百済から阿知吉師あちきしがやってきた。その後、和邇吉師わにきしが論語十巻、千字文一巻を携えてやってきた。そして、朝鮮の鍛冶かじ、呉の機織はたおりはた氏の祖、あや氏の祖、さらに酒の醸造を知った須々許理すすこりなどが倭国に渡来してきた。 

751年に成立した漢詩集「懐風藻かいふうそう」は、その序を倭国の漢字導入における渡来人の活躍の紹介から書き起こす。4世紀末の応神15年に百済の使者として来倭した阿直岐あちき、彼は良馬を献上し、そのまま軽の坂上のうまやでそれを飼う任についた。応神の皇子、菟道稚郎子うじのわきいらつこの師として経典も教えたという。続けて、より優秀な博士王仁わにを求め、上毛野かみつけぬ君の租荒田別あらたわけらを百済に派遣した。これに応じて渡来した王仁は緒籍に通じ、阿直岐と同じく菟道稚郎子の師となり、西文かわちのふみ氏の租となった。王仁は漢字学習書である千字文と論語を持参して教えたと伝えられる。中国において論語は早くから重視され、大学や国学でも論語は孝経とともに必須であった。


 5世紀で特に注目されるのは、472年の百済王けいの北魏への上表文と、478年の倭王の宋への上表文が、いずれも中国典籍の表現を広く活用しつつ、特に晋代の語句用例を強く意識・参照して作成されていることである。また、425年の倭王さんの遣宋使では、中国系とみられる司馬曹達しばそうたつが表を奉呈していて、中国系の知識人層は百済などを介して倭国にも渡来し、王権の外交や文書作成に関わったとみられる。 

 倭国における文字の使用例として確実なものに、千葉県市原市の5世紀中葉~後半築造の稲荷台一号墳(27メートルの円墳)出土の「王賜」鉄剣銘がある。「○○王」と記していないことや、「廷刀」の表記があることが注目される。しかも表の銘文の「王賜□□敬安」が裏の銘文の「此廷刀」以下の文よりも、二字あげて書く、貴人への書法の形式をとっている。

 雄略期に活躍した史部ふひとべ身狭村主青むさのすぐりあお檜隈民使博徳ひのくまたみのつかいはかとこなどは文字の知識を有するふひととして王権を支え、雄略の信頼も厚かったと思われる。この二人はともに大和の高市郡の檜隈ひのくま身狭むさに居住した朝鮮半島からの渡来系の人である。雄略12年の条に「身狭村主青むさのすぐりあお檜隈民使博徳ひのくまたみのつかいはかとこを遣わして呉国に使せしむ」とある。 

この5世紀後葉の雄略期の文字文化を検証できるのは、稲荷山古墳と江田船山古墳の鉄剣銘文である。鉄剣には中国年号に基づく歴「辛亥の年(471年)七月中記す」が使用されている。朝鮮半島出土の大刀銘文としては、東京国立博物館蔵の5世紀ごろの環頭大刀銘文で、17字が確認できる。その字音仮名や書風が、稲荷山古墳の鉄剣銘文と類似している。

 5世紀後半以降、王権の工房など中央の生産組織では、貢納や生産管理などで歴が一部利用され始めた可能性が考えられる。また、和歌山県橋本市の隅田すだ八幡宮蔵の人物画像銘文がある。「みずのとひつじの年の八月」から始まる48字である。癸未は允恭期の443年と仁賢期の503年説があるが、443年説が有力である。この隅田すだ八幡宮人物画像銘の記録関係者も渡来系の人物であったと考えられる。

 上田正昭(京都大学名誉教授)によると、朝鮮半島南部と北部九州などとの間では、古くは共通の言語文化圏が存在したと推定されるが、5世紀後半ごろになると、倭語と朝鮮語との差異も具体化してくる。日本書紀の雄略7年の条に、陶部すえつくりべ鞍部くらつくりべ画部えかき錦部にしごりらの渡来・居住記事のなかに、譯語おさ卯安那うあんながいる。譯語おさは通事(通訳)であり、遣隋使・遣唐使・遣新羅使・遣渤海使などの交渉にも登場する。倭の五王のころの外交にも通事(通訳)の随伴があったと考えられる。日本書紀の敏達12年の条に、吉備海部直きびあまべのあたい羽嶋はしまが、百済にいる倭系百済官人の日羅にちらを召喚する説話が載っている。そのなかで、「韓婦」と「韓語」を使って語る伝承がある。これなども「倭語」と「韓語」の違いを象徴している。

 文字使用の広まりに古渡こわたり今来いまきの渡来人や渡来氏族が大きな役割を担っていた。しかし、4世紀後半から5世紀後半の仿製(国産)鏡には文字の配置をまちがえたり、左右が逆になったり、位置が違っていたり、文様化したりしており、倭国の鏡作りの工人たちがまだ漢字・漢文を理解していなかったことを物語っている。


 6世紀に入ると、倭と中国王朝との交流は中断し、朝鮮半島では加耶諸国が衰退・滅亡する一方、新羅が大きく成長する。こうした状況の中で倭国の外交は百済を基本としつつ、新羅との関係も模索するものとなった。また、国内対立を治めた倭王権は地方支配を強化する。各地に屯倉みやけと呼ばれた拠点を築いて、在地首長を王権に取り込み編成する国造くにのみやつこ制や部民べみん制を導入した。6世紀末から7世紀初頭、屯倉みやけは各地に広がり、在地首長の地方経営と結びついて、地域の生産や交通・流通の拠点となり、各地から中央へ人と物資が運ばれる体制が構築された。その中でも、対外交流の拠点となる要地の屯倉には渡来系の技能者が投入され、一部編戸も行われるなど、文字を使用し先駆的な経営が行われた。

 倭国は、百済出土の木簡に示されるような百済・新羅の文字技術を、百済などを介して保有していた。しかし、それは百済や新羅と同レベルに達していたということではない。すでに多くの6世紀の木簡が確認されている百済や新羅と、未だ6世紀の木簡が確認できない倭国では、文字普及に大きな差があった。日本最古の木簡としては、7世紀の640年代のものが知られており、6世紀にも木簡が使用されたと推測される。日本書紀に記載される、5世紀初頭の阿直岐あちき王仁わにの伝承や、6世紀中葉の渡来人である王辰爾おうじんにとその甥である膽津いつ(胆津)らが、船のみつき(税)を数え、王権の直轄地である吉備の白猪屯倉しらいのみやけなどで戸籍を作成したという記事は、こうした仮説を裏付ける。しかし、朝鮮半島の百済や新羅では日本より100年以上前には文字が使用されていたと考えられている。

 ところで、国初から「留記」100巻を残したといい、373年の律令頒布りつりょうはんふや、414年に建立された広開土王碑を通して早い時期から文字が使用された高句麗での木簡は現在まだ確認されていない。百済では538年の泗沘しひ(今の扶余)遷都を契機に官司制の整備とともに、漢字文化を支配層が共有するため「太学」が設置された。また、新羅でも6世紀後半には漢字を用いて日常的な行政を行っていた。ところが倭国では、文字の担い手は百済や新羅からの渡来人や史部ふひとべを継承する渡来系氏族であり、文字を使用する場も王宮周辺や要地の屯倉みやけにとどまっていた。


 6世紀から7世紀にかけてのころになると、倭国での文字使用はさらに広まりをみせる。渡来系の人びとに大きく依存した倭国漢字文化のあり方は、6世紀に百済から五経博士が上番(交替)制で渡来し、仏教が伝来したことによって変化の契機が与えられた。五経博士とは儒教の五つの基本経典(詩経・書経・礼記・易経・春秋)を講じる学者を指し、前漢の武帝が初めて置いたとされる。中国南朝のりょうでは505年に五経館を開設し、教学を重んじて、書物の収集が積極的に行われていた。百済は6世紀初頭に武寧王(在位501年~523年)が即位して以後、国力を盛り返し、梁へも度々使節を送っていた。その百済と梁との交流の成果が五経博士の渡来となって、同盟国の倭国へももたらされた。五経博士は百済から上番(交替)制で渡来した。日本書紀には、継体期の513年の段楊爾だんようにが最初で、516年には漢高安茂あやのこうあんもに交替したとある。欽明期の553年には、倭国は百済に内臣うちつおみを遣わして、良馬・船・弓箭きゅうせん(弓矢)を送り、出兵を約束した見返りに、医・易・暦の各博士と仏僧らの交替と、ト書・暦本・薬物の送付を要請している。実際、554年に百済から五経博士の王柳貴おうりゅうき馬丁安ばちょうあんの交替として送られてきた。こうして渡来した博士たちは倭国において僧とともに支配層のブレーンとして活躍していた。百済から倭国に渡来した五経博士と仏教はいずれも百済が中国南朝のりょうと結んだ朝貢関係の成果として入手・導入したものを、同盟国である倭国へも送り、両国の戦略的連携の強化を狙ったものである。その中でも仏寺と僧尼は、未だ官人養成機関を持たない倭国において、漢字文化の伝承・習得に画期的なシステムをもたらした。それは氏族の世襲的な技能伝承とは異なる、師弟関係による技能伝承であった。また、王権の期待を担い、師を求めて倭国の外に飛び出し、最先端の技能を学習して帰国する留学も、仏教伝来を契機に本格的に始動した。仏教の受容は様々な葛藤を生みながら6世紀末の蘇我馬子が擁立した推古の登場とともに王権の基本方針として承認されたと見られる。これ以後、徐々に拡大した師弟関係に基づく知識・技能伝承方式は、漢字文化の担い手を渡来系から非渡来系へと押し広げることになった。また、仏教伝来を契機に、書物も重要な役割を果たしていた。例えば、602年に百済から渡来した僧観勒かんろくに学生をつけ、天文・地理・暦を学ばせたが、観勒は暦本及び天文地理書などを百済からもたらしている。留学生を次々に送り込んだ7世紀に始まる遣隋使・遣唐使が書物の請来を重要な目的としたという事実はそのことを端的に示している。9世紀末の「日本国現在書目録」が中国南朝の梁代の多様な書物を数多く収録していることからわかるように、五経博士の渡来の時代から書物による学習が始まり、漢字文化への理解が大きく深化し始めた。中国南朝の影響が想定される古代日本における呉音ごおんの定着も、おそらくこの時期に起こったと考えられる。


 7世紀後半になると、中央から地方の国府へ派遣された、後の国司に相当する国宰くにのもこともちという役人がテキストとして論語や千字文を地方社会に伝え、地方豪族たちも積極的に受け入れたと思われる。そうしたなか、大宝元年(701年)の遣唐使の任命を契機に日本は朝鮮半島から直接中国に向き合うようになった。その結果、木簡表記の字が「椋」から「倉」に変わる、また地方行政区のコホリが「評」から「郡」に変わるなどの変化が認められる。さらに、日付を書く位置も文頭から文末へ移動するなどの顕著な変化が認められる。これらは7世紀までの朝鮮半島的な要素を消し去ろうとする日本側の強い意志が働いているように思われる。


 鈴木武樹によると、“7世紀までは、新羅語・百済語を習わせたという記事はない。中国へ行くときは通訳をつけて行くが、新羅・百済・高句麗へ行くときは通訳がついて行かない。向こうからこちらに来るときもついてこない。そのときに話していたのは今でいう在日朝鮮人であった。家では加羅語・新羅語・百済語・高句麗語で、大和朝廷では倭人語という言語の二重構造が7世紀まではあったと思われる”、という。例えば、奈良ならは古代朝鮮語で、平地・都・国・王宮・王様を意味することからも推測できる。現代朝鮮語では奈良ならの意味は「国」だけとなっている。


 日本列島における文字の使用とその展開は、日本列島内部の情報伝達に寄与したばかりでなく、対外的な交渉や交易にも重要な役割を果たした。それは民族の形成や国家の成立・発展とも密接な関わりを持つ。

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