第32話 渡来人と帰化人
渡来人とは、7世紀の飛鳥時代以前に朝鮮半島から日本列島へ移住してきた人びとである。上田正昭(京都大学名誉教授)によると、渡来のピークは次の四段階がある。
① 弥生時代の草創期のいわゆる弥生人。
② 4世紀末~5世紀前葉(応神・仁徳期)。その多くは洛東江下流域の南部加耶地域からの人びとが河内へ移住。
③ 5世紀後半から6世紀前半(雄略期から継体・欽明期まで)。
④ 7世紀後半、白村江の敗北後、特に天智期とその前後の時期。 その多くは滅亡した百済・高句麗からの亡命者。
このうちの③と④は「
日本列島の倭人社会は、「倭人社会」と一括りにできないほどの多様性を持ちながら、政治・経済・文化のあらゆる面で、中国大陸・朝鮮半島からもたらされる資源・技術・知識に大きく依存していた。倭人の農耕社会を支えた鉄と鉄器は少なくとも5世紀まで、その素材も加工技術も朝鮮半島からの移入に頼っていた。もしそれがなければ、古墳時代は到来しなかったといわれる。したがって、倭人の首長たちは、その共同体の維持と自らの権威の維持のため、朝鮮半島や中国大陸の諸地域との交流を積極的に持とうとした。それが一共同体の手に負えないものであれば、共同体の連携を進め、ときには連合して社会組織を整備していった。やがて中国人によって主観的に「倭人」と名づけられた人びとは、倭人としての社会的まとまりを形成していった。
中国大陸や朝鮮半島から運ばれてくる文物や文化とそのルートのあり方は、倭人社会の歴史的展開に決定的な作用を及ぼした。この渡来文物・文化を日本列島へ運んだのは人であった。それは外交使節や交易などによって平和的に運ばれる場合もあり、南部加耶地域の支配者たちの移住によって持ち込まれた場合もあり、また朝鮮半島本国の紛争や飢饉・疫病の蔓延などから逃れた人びとによって運ばれた場合もあった。特に、最新の生産技術を持つ技術者や、政治・思想・文化に通じる知識人の渡来が極めて大きな意味を持ったのは当然のことであった。しかし、渡来の技能者たちが、そのまま日本列島に移住・定住したとは限らない。日本書紀が伝える渡来系氏族の祖たちも、何処で一生を終え、何処に葬られたかがほとんど分かっていない。
各地の首長たちは、軍事王権としての性格を強めたヤマト王権の外交・対外戦争に結集・参画することで、朝鮮半島諸国、なかでも南部加耶諸国と独自の関係を深める機会を得て、そこから技能者たちを呼び込んだと思われる。渡来工人を招き、独自に操業を始めた各地の須恵器窯の多くが、5世紀中ごろまでにその姿を消している。加耶系渡来人の関与で5世紀前半に鉄器作りを始めた吉備(岡山県総社市)の
5世紀の韓式系土器の分布状況から渡来人の定着地を調べると、圧倒的に河内が多く、次に大和の葛城から飛鳥にかけての大和西南部となる。吉備は一つの地方の中心ではあるが、筑紫や畿内には及ばない。5世紀から6世紀にかけて渡来人たちが海を渡るのに使った船は、丸木舟の上に舷側板と前後の竪板を立てた準構造船であった。10人以上で漕ぐ相当な大きさであった。6世紀代まで使用されていたと考えられる。5世紀前半から中頃の船材はモミの木の朝鮮製で、5世紀中頃から後半に作られた船材はスギの木の倭国製と考えられている。しかし、朝鮮海峡や玄界灘の潮流や風雨を乗り越えて朝鮮半島南部と北部九州を往来するのは、まだ命がけの時代であった。日本列島に渡来人が来るには、それ相応の動機と覚悟があったはずである。
5世紀初頭(応神・仁徳期)前後に洛東江下流域の南部加耶地域からの渡来人が急増しているのは、高句麗の南下政策により、百済は高句麗と衝突し、新羅は高句麗と同盟し加耶諸国に圧力をかけ始めたため、百済と加耶諸国が同盟し、南部加耶の鉄に依存する日本列島の倭人もその争いに引き込まれていった。広開土王碑に、高句麗軍が任那加羅城(
百済や加耶諸国は、日本列島の倭人に鉄や先進文物だけでなく、技能者までも日本列島の首長層に贈与し、その見返りに軍事力を求めた。日本列島の倭国では、これを限られた地域の首長だけで背負うには無理があり、倭国の大王を核に広域的・階層的・分業的な組織を構築し、これに対応しようとした。しかし、大王がそれを独占できる立場には未だなっていなかった。実際に武器・兵を持って紛争に関与した首長らは、その他の首長たちより優位に百済・加耶諸国との交流を持ち、渡来人・渡来文化を保有することができた。例えば、
5世紀後半から6世紀中ごろまで(雄略期から継体期まで)の朝鮮半島激動の時代、特に国が滅亡した加耶諸国と、衰退した百済から多くの人が渡来し移住してきた。倭国では、500年ごろに
倭王権は朝鮮半島諸国との外交や国内の文書行政においても渡来人を活用した。それらの人びとの間にも新・旧の差異が生じてくるのは当然のことであった。「
7世紀後半の唐・新羅の連合軍による百済滅亡(660年)、白村江の敗戦(663年)という出来事は、倭王権に空前の危機をもたらした。それは、強国が攻め入るかもしれないという危機だけではなく、国際的に孤立したまま国内諸階層への対外的・文化的優位性を失うという王権の権威の源泉ともかかわる危機である。このころの渡来人は百済人を中心に王族・貴族から僧侶・一般の人びとと多様であった。この危機が一つの契機となって、王権は大きな構造改革の時代を迎えた。大王を中心とした中華的・中央集権的な国家を樹立し、国名「日本」、王号「天皇」を採用したのである。「
[7世紀後半から8世紀にかけての帰化人の記録]
・百済王
・百済男女400人を近江神前郡に置く(665年)
・百済男女2千余人を甲斐国他東国に居く(666年)
・百済男女7百余人を近江蒲生郡へ移住させた(669年)
・甲斐国の9郷に高句麗人を配置(7世紀後半)
・上野国(群馬)の6郷に渡来人を集約(711年)
・尾張国の加耶人を美濃国の4郷へ再配置(715年)、席田郡を置いた。
・武蔵国の高句麗難民を1799人追加して再配置(716年)、入間郡を割いて高麗郡を置いた。高句麗王家の末裔(後の高倉朝臣家)を配下に置いたことになる。
・武蔵国の新羅人の再配置(758年)を行い、新羅郡(後の新座郡)を置いた。これは新羅対策の隔離政策でもあった。
渡来人の
ところで、水野祐によれば、渡来人には二つの系列があるという。大和地方には古くから楽浪郡・三韓(馬韓・弁韓・辰韓)からの渡来系氏族が定住していたことは史籍にてらして明らかであるが、特に百済系の渡来氏族の勢力基盤であった。これに対して、山陰地方から北陸地方に渡り、それから南に入って、近江・信濃・関東にわたる地域では、新羅・高句麗系の渡来氏族の勢力基盤であった。このことは飛鳥時代の寺院・仏像・瓦などから、日本の仏教には二つの系列があり、一つは北部九州 -> 瀬戸内 -> 大和へ入る百済系仏教のルートであり、もう一つは高句麗・新羅 -> 山陰 -> 北陸 -> 信州 -> 上州 -> 武蔵へ入る新羅・高句麗系仏教のルートで、この二つの伝播は、他の文化の伝播においてもあてはめられる。この仏教文化の伝播の法則は、さらにさかのぼって、4世紀ごろの大陸文化の伝播についても、東国の式内社の分布、出雲族の移動伝説や古墳分布の問題などから実証された。後の律令時代の帰化人安置に際しても、百済系は大和に、新羅や高句麗系は畿外に転々と移され、武蔵には土地を与えて安置させ、それぞれ一郡を形成させた。
次にヤマト王権を支えた有力な渡来系氏族の概要を紹介する。本編の各話の中で紹介する豪族については内容を省略する。
[高句麗系]
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欽明31年(570年)に高句麗使が到着したところから高句麗との交流は始まったとするのが確実な資料である。僧
[新羅系]
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後述する。
[加耶・百済系]
初期の渡来人の中心を占めたのは、倭国と古くから通交のあった
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後述する。
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後述する。
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百済系の渡来氏族である。欽明期に蘇我馬子の下で吉備の
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