第31話 豪族
朝鮮半島の南部加耶から北部九州を経て東征し、畿内を支配したのは大王家だけではない。後に中央豪族と呼ばれた一群の有力氏族も大王とともに畿内に移住したのである。東征してきた少数の支配者が畿内の古くからの多数の住民を支配できたのは、鉄の鍛冶技術、鉄製武器・武装具、鉄製農具による耕地開発、須恵器などの生活用品、金属加工技術などの手工業生産、
松本清張は、ヤマト王権の有力豪族について実に明快な見解を次のように示している。“倭の五王のヤマト王権は、弁辰(弁韓)に入ってきた
さらに、日本書紀に朝鮮半島南部で活躍したと記される、
① この任那(加耶)地域が首長国家的な自治体であった。
② 対高句麗・新羅の倭兵は任那(加耶)と北部九州との連合であって、大和からの出兵はほとんどなかったとみられる。
③「任那日本府」「安羅日本府」という出先機関の行政や官吏の組織がはっきりしない。
④ 高句麗・新羅の軍事的な攻勢と、百済からの外交的な圧迫が強くなると、派遣の将軍たちがヤマト王権に背いている。
古事記では武内宿禰に9人の子があったと記している。
また、
日本列島の古代豪族はその多くが原初に小国の王あるいは各地の首長であり、自立した存在であった。しかし、彼ら豪族の支配を強化する先進文物・知識の受容、特に鉄資源の獲得において、日本列島各地の諸勢力の多くは地勢的に限界があり、その自立性は磐石ではなかった。そこに、畿内諸勢力のみならず日本列島諸勢力の利害を代表する形で緩やかな連合体を作り上げたヤマト王権登場の契機があった。倭王権の盟主である
古代豪族の
倭の五王の南朝宋との通交では、高句麗の「
直木孝次郎によれば、ヤマト王権を構成する豪族を分類すると次のようになるという。
<地名を
葛城(蘇我はその後裔)・和邇(春日はその後裔)・平群など。本拠地は大和。王権に反抗した伝承があり、大王家との姻戚もある。大王家とは家系的に近い。
<職掌を
大伴・物部・
<豪族の本拠地>
大伴(河内から和泉へかけての海よりの地)、物部(大和川下流の河内中部)、中臣(生駒山の西の山麓)、弓削(大阪平野の八尾市)、土師(大阪平野)。これらの本拠地は、河内王権が当初、大阪平野の豪族によって構成されて成立したことを示す。大伴・物部が大和にも本拠地を持ったのは、河内王権が5世紀中葉以降に大和へ都を移したためである。
雄略期(463年~489年)以降に豪族に与えられた
[中央]
<
紀・平群・葛城・和邇・巨勢・蘇我など。
ヤマト連合政権を構成して王権創業に関わった畿内の有力豪族。その多くは地名を
<
大伴・物部・中臣・
職掌をもって比較的早い時期から王権に仕えていた氏族。物部や大伴部という部民を率いて大王に奉仕したことから連になった。物部・大伴・中臣などの名は地名に由来していない。
[地方]
<
創業期から大王家とかかわった有力豪族。特に吉備は景行から雄略に至る河内王権において大王家に多くの妃をいれている。しかし、その皇子で大王になった者は一人もいない。
<
大王家の一族で地方に派遣された豪族。
<
丹波直・笠原直・
ヤマト王権に降った地方豪族あるいは渡来人
<
その下には、ヤマト王権に仕える
<
その多くは以前からその地域に土着し
<
ヤマト王権直轄地の長、国造の下部組織の長、あるいは祭祀を司った長、など。
次にヤマト王権を構成した中央豪族と有力な地方豪族の概要を紹介する。本編の各話の中で紹介した、または紹介する予定の豪族については内容を省略する。
[中央の有力豪族]
<
前述の項を参照
<
前述の項を参照
<
前述の項を参照
<
<
蘇我氏・平群氏と同じ武内宿禰の後裔氏族である。継体期には
<
後述する。
<
後述する。
<
後述する。
<
後述する。
<
後述する。
<
土師氏の祖は、垂仁期にもともと出雲の人で相撲をとるために大和に呼ばれたと云われる
<
中臣と並ぶ古くからの祭祀集団。祭祀を担当するとともに
<
久米集団は熊本県人吉盆地の
[地方の有力豪族]
<
出雲
<
吉備氏とは岡山県南部を本拠とした豪族で、
<
古代の尾張・美濃に一大勢力をなし、多数の氏族と同族関係を持つ巨大な氏族である。天孫ニニギの子(あるいは兄)とされるアメノホアカリ(ホノアカリ)とその子のアメノカゴヤマを祖神とする。尾張氏はもと大和国葛城の
4世紀ごろ、古墳時代前期の
<
前述の「宗像(むなかた)大社」の項を参照
<
安曇氏はヤマト政権下では摂津国(大阪市)を拠点として広く全国に進出したが、海神を仰ぐ安曇氏の発祥地は博多湾沿岸である。イザナキの
<
群馬の豪族として有名である。崇神の皇子
[各氏族(豪族)の祖先神と本拠地]
7~8世紀の豪族たちにとって、応神以前は神代のようなものであったと思われる。豪族たちが720年の日本書紀編纂時に、応神以前に自分の先祖を結びつけたのはその時代が漠然としていたからである。815年に
<
ニニギの天孫降臨のときに、
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高皇産霊(タカミムスヒ)。奈良盆地西南部(御所市、金剛山地葛城山の東麓)を勢力拠点とし、4世紀末から5世紀後半にかけて、倭王権で大王に比肩し得る力を保持した最大級の古代豪族である。
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饒速日(ニギハヤヒ)。大和の東南部および河内の渋江を勢力拠点とし、フツヌシ(タケミカヅチ)を奉斎する。部民の一つである物部を統轄する伴造氏族であった。「物」とは武器や軍人を意味する言葉で、物部は軍事や刑罰を担った部民とされる。
<
アメノオシヒ(アメノオシホミミ)、ニニギが降臨する際に随従したとされる。大伴は大王に仕える
<
葛城氏の後裔とされる。神功皇后以下5代の大王に仕えたとされる武内宿禰を祖とする豪族連合、
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アメノコヤネ。記紀の天岩戸の神話に出てきて祈祷した「
<
アメノホヒ。土師氏の祖は、垂仁期にもともと出雲の人で相撲をとるためにヤマトに呼ばれたと云われる
<
アメノフトダマ。中臣と並ぶ古くからの祭祀集団。祭祀を担当するとともに
<
神武東征の水先案内者である椎根津彦(シヒネツヒコ)を祖とする祭祀氏族である。元来は豊後水道または明石海峡の地を本貫としていた海神族である。
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出雲臣の祖はアメノホヒで、葦原の中つ国平定のときに高天原から中つ国に派遣されたが、オオナムチ(大国主)に懐柔され復命しなかった。
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天火明(ホノアカリ)。尾張の熱田神宮には
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