第31話 豪族

 朝鮮半島の南部加耶から北部九州を経て東征し、畿内を支配したのは大王家だけではない。後に中央豪族と呼ばれた一群の有力氏族も大王とともに畿内に移住したのである。東征してきた少数の支配者が畿内の古くからの多数の住民を支配できたのは、鉄の鍛冶技術、鉄製武器・武装具、鉄製農具による耕地開発、須恵器などの生活用品、金属加工技術などの手工業生産、馬匹ばひつ生産など様々な先進文化をもたらしたからである。応神おうじんを伴った神功皇后じんぐうこうごう武内宿禰たけのうちのすくねを大和へ導きいれた和邇わに氏も渡来系豪族である。


 松本清張は、ヤマト王権の有力豪族について実に明快な見解を次のように示している。“倭の五王のヤマト王権は、弁辰(弁韓)に入ってきた夫餘ふよ族が、さらにそこから日本列島の畿内に移住してつくったもので、日本で最初の統一政権である。そのとき、他の任那みまな加耶かや)の倭系豪族たちも一緒に渡来移住したと考えられる。したがって、倭王やそのときの豪族たちにとって、弁辰(弁韓)の地は母国である。そして5世紀の倭の五王の時代には本家の弁辰(弁韓)の地よりもはるかに強大となった。日本書紀は伝説的な応神とともに、あるいはそれと前後して5世紀ごろに日本に移住してきた有力な任那(加耶)の族長だけを載せている。大和周辺の豪族の伝承は7世紀中頃にできたらしい。葛城かつらぎ平群へぐり巨勢こせきの蘇我そが羽田はた和邇わになどは古くからの大和の豪族のように思われているが、本当は3世紀後半から5世紀にかけて任那(加耶)地域から渡来した倭人の族長たちの後裔である。このうち、蘇我氏がもっとも遅れて移住してきたようだ。物部もののべ大伴おおともは応神とともに移住している。日本書紀はかれらの出自を隠すために、それらの豪族の祖が大和に以前から住んでいて、大王の命令で朝鮮半島諸国に派遣されたとしている。葛城襲津彦かつらぎそつひこらが日本に帰国していないのは、かれらが朝鮮半島南部の土着人であったことを暗示している。和邇氏は対馬を本貫とした倭人と思われる。鳥・動物・魚貝などの名のついたものは朝鮮半島諸国からの移住民に多い。これは朝鮮半島諸国でも同じであり、朝鮮半島の風習からきている。”


 さらに、日本書紀に朝鮮半島南部で活躍したと記される、葛城襲津彦かつらぎそつひこ荒田別あらたわけとその子鹿我別かがわけ紀角きのつの宿禰、平群木菟へぐりのつく宿禰、紀小弓きのおゆみ蘇我韓子そがのからこ大伴語おおとものかたり大伴小鹿火おおとものをかひ紀大磐きのおいわ宿禰、吉備上道臣きびのかみつみちのおみ田狭たさ哆唎たり国守・穂積臣押山ほずみのおみおしやまらはもともと弁辰(弁韓)のころからその地にいた倭系の土着豪族であったと考えられるとして、次の4つの理由をあげている。

① この任那(加耶)地域が首長国家的な自治体であった。

② 対高句麗・新羅の倭兵は任那(加耶)と北部九州との連合であって、大和からの出兵はほとんどなかったとみられる。

③「任那日本府」「安羅日本府」という出先機関の行政や官吏の組織がはっきりしない。

④ 高句麗・新羅の軍事的な攻勢と、百済からの外交的な圧迫が強くなると、派遣の将軍たちがヤマト王権に背いている。


 古事記では武内宿禰に9人の子があったと記している。波多はた八千代、許勢こせ小柄、蘇賀そが石河宿禰、平群へぐり都久、きの角宿禰、葛城かつらぎ襲津彦、久米くめ若子わくご宿禰、久米くめ能摩伊刀媛まいとひめ怒能のの伊呂媛いろひめである。これらの渡来系豪族は、大王家と共に畿内に移住してきて奈良盆地の周辺に定着したと思われる。これらの一部は大王家より先に移住していたかもしれないが、後から来た大王家に協力したと考えられる。古事記には大王家とこれら豪族らの婚姻の記載があり、これらの豪族が大王を共立していたのである。大伴・物部の祖は大王家とともにその親衛隊として奈良盆地入りしたと思われる。その大王とは応神である。古事記では大王を共立した豪族をまとめて武内宿禰の子供としているが、実態は異なる。応神はこれらの豪族によって共立された王であり、倭国支配の実権は豪族たちにあったと思われる。これらの渡来系豪族のなかでも畿内において大王に比肩する勢力を有していたのは葛城氏であった。 それは葛城氏が大王家そのものともいえる存在であった。6~7世紀に活躍する蘇我氏は葛城氏から分立した勢力と考えられている。

 また、和邇わに氏は、応神と武内宿禰が大和へ東征する以前にすでに畿内へ進出していたと思われることはすでに述べた。 和邇氏は6世紀に奈良県北部の春日野の地へ移り春日氏を称した。その後、小野氏・粟田氏・柿本氏・大宅氏などに分かれたとされる。


 日本列島の古代豪族はその多くが原初に小国の王あるいは各地の首長であり、自立した存在であった。しかし、彼ら豪族の支配を強化する先進文物・知識の受容、特に鉄資源の獲得において、日本列島各地の諸勢力の多くは地勢的に限界があり、その自立性は磐石ではなかった。そこに、畿内諸勢力のみならず日本列島諸勢力の利害を代表する形で緩やかな連合体を作り上げたヤマト王権登場の契機があった。倭王権の盟主である大王おおきみは4世紀後半に北部九州から東征して河内や大和地方を制圧した後、出雲や吉備などの豪族を武力や同盟によって傘下に取り入れ、6世紀にかけて徐々に日本列島内の支配体制を整えていった。地方の古代豪族は本拠地における自立性と倭王権に対する従属性という二面性を有する存在であった。倭王権側は6世紀初頭に成立した「うじ」と「かばね」を与えることで豪族層の地位を承認したり、有力な豪族が奉じる神々を序列化したりして、豪族たちの独自性を奪い彼らを王権内に取り込んだ。

 古代豪族のかばねは大王から与えられるもので、倭王権内での豪族の出自・役割や序列を反映している。おみは元来、大王家に匹敵するような中央・地方の有力豪族(紀・平群・吉備・出雲・など)、むらじは大王に仕える王権組織を分掌する有力豪族(大伴・物部・中臣・など)に付され、みやつこは連より下で、王権組織を支える豪族、あたえは渡来系氏族や地方の国造くにのみやつこなどが称することが多い。また、上毛野かみつけぬ君・筑紫ちくし君のような遠隔地の地方豪族はきみを称する例もある。

 倭の五王の南朝宋との通交では、高句麗の「こう」、百済の「」にならって、倭国でも「」姓を称したことがあった。しかし、478年の倭王を最後に中国の冊封体制から離脱したため定着せず、倭国では大王と奴婢には姓がなく、大王は姓を与える存在となった。5世紀の倭国では氏姓うじかばね制度は未成立であったと考えられる。6世紀になって安定した世襲王権の成立、地方豪族の平定と中央集権化への胎動が始まるなかで、国造くにのみやつこ制や部民べみん制が成立し、大王との関係が固定化される過程で氏姓うじかばね制度が成立するのである。


 直木孝次郎によれば、ヤマト王権を構成する豪族を分類すると次のようになるという。

<地名をうじおみかばねとする氏族> 

葛城(蘇我はその後裔)・和邇(春日はその後裔)・平群など。本拠地は大和。王権に反抗した伝承があり、大王家との姻戚もある。大王家とは家系的に近い。

<職掌をうじむらじかばねとする氏族> 

大伴・物部・中臣なかとみ弓削ゆげ土師はじなど。本拠地は河内。王権に反抗した伝承がなく、大王家との姻戚もほとんどない。大王家とは身分が違う。

<豪族の本拠地>

大伴(河内から和泉へかけての海よりの地)、物部(大和川下流の河内中部)、中臣(生駒山の西の山麓)、弓削(大阪平野の八尾市)、土師(大阪平野)。これらの本拠地は、河内王権が当初、大阪平野の豪族によって構成されて成立したことを示す。大伴・物部が大和にも本拠地を持ったのは、河内王権が5世紀中葉以降に大和へ都を移したためである。


 雄略期(463年~489年)以降に豪族に与えられたかばね

[中央]

おみ

 紀・平群・葛城・和邇・巨勢・蘇我など。

ヤマト連合政権を構成して王権創業に関わった畿内の有力豪族。その多くは地名をうじ名とする。出自が大王家といわれる、特に葛城と平群。したがって、大王家へ妃を入れることができた。葛城・和邇・蘇我からが多い。むらじからは妃を入れられなかった。しかし、後世になると例外もいくつかある。例えば、6世紀初頭の継体けいたいの妃の出身である尾張氏はむらじである。

むらじ

 大伴・物部・中臣・忌部いんべ・土師・弓削など。

職掌をもって比較的早い時期から王権に仕えていた氏族。物部や大伴部という部民を率いて大王に奉仕したことから連になった。物部・大伴・中臣などの名は地名に由来していない。

 

[地方]

おみ

 吉備きび出雲いずも

創業期から大王家とかかわった有力豪族。特に吉備は景行から雄略に至る河内王権において大王家に多くの妃をいれている。しかし、その皇子で大王になった者は一人もいない。

きみ

 筑紫つくし上毛野かみつけぬ下毛野しもつけぬ車持くるまもち・など。

大王家の一族で地方に派遣された豪族。

あたえみやつこおびとふひと

 丹波直・笠原直・東漢やまとのあや直・馬飼造・西文かわちのふみ首・舟史ふねのふひと・など。

ヤマト王権に降った地方豪族あるいは渡来人

伴造とものみやつこ

 その下には、ヤマト王権に仕える品部しなべ(直属の官人)、直轄地(屯倉みやけ)を耕作する田部たべ、豪族の領地を耕作する部曲かきべ、などがある。

国造くにのみやつこ

 その多くは以前からその地域に土着し部民べみんを私有していた豪族で、その国に任じられた。

県主あがたぬし

 ヤマト王権直轄地の長、国造の下部組織の長、あるいは祭祀を司った長、など。


 次にヤマト王権を構成した中央豪族と有力な地方豪族の概要を紹介する。本編の各話の中で紹介した、または紹介する予定の豪族については内容を省略する。


[中央の有力豪族]

和邇わに氏>

 前述の項を参照

きの氏>

 前述の項を参照

葛城かつらぎ氏>

 前述の項を参照

平群へぐり氏>

 武内宿禰たけのうちのすくねの子の平群都久つく(木菟)宿禰が平群氏の直接の祖である。都久つくは応神・仁徳・履中の3代にわたり忠誠を尽くした。本拠地は奈良県の西北部に位置する大和国平群郡(生駒郡平群町)である。平群地域は大和川水系や竜田道の陸路によって河内から難波津へと通じる交通の要衝にある。雄略は「眉輪まよわ王の変」で葛城つぶら大臣を死に追いやり、葛城氏を滅亡させた後、都久つくの子である平群真鳥まとり大臣おおおみに、大伴室屋むろやと物部大連おおむらじに任じた。雄略は吉備の反乱を抑え、朝鮮半島にも派兵した。真鳥まとりは雄略・清寧・顕宗・仁賢の時代にわたり大臣を務め、政治をつかさどった。このころが平群氏の全盛期であった。仁賢死後には、大王家を凌ぐほど専横をきわめて、武烈の即位に関わり、平群大臣おおおみ家は真鳥の子であるしびのときに大伴金村により滅ぼされたとされる。平群氏は馬匹ばひつ集団でもあった。真鳥の弟である額田早良ぬかたのさわらは母性を負い額田首ぬかたのおびとを称した。大和と河内に額田郷があった。また、額田ぬかた馬は日向の隼人はやと馬でもあり、平群氏は日向との関係も深い。後の時代に紀氏の一部は紀州から平群の地に移り住んだため、坐紀氏にますきのうじ神社が平群郡にある。

許勢こせ(巨勢)氏>

 蘇我氏・平群氏と同じ武内宿禰の後裔氏族である。継体期には男人おひとが大臣となり、朝鮮半島との外交・軍事に活躍した。丁未の役では比良夫ひらふが、蘇我蝦夷えみし厩戸うまやど王の子である山背大兄皇子やましろのおおえのおうじを討伐するときには徳多とこたが、蘇我氏側として参加している。しかし、乙巳いっしの変で蘇我入鹿いるかが討たれると、すぐに中大兄皇子なかのおおえのおうじ側についた。

物部もののべ氏>

 後述する。

大伴おおとも氏>

 後述する。

蘇我そが氏>

 後述する。

中臣なかとみ氏>

 後述する。

息長おきなが氏>

 後述する。

土師はじ氏>

 土師氏の祖は、垂仁期にもともと出雲の人で相撲をとるために大和に呼ばれたと云われる野見宿禰のみのすくねとされる。土師氏は埴輪を大量に焼成する役割を果たしたことから、古墳の設計・企画・造成・葬送儀礼を含む葬儀全般を取り仕切った。土木建築・軍事・外交関係の伝承が多い。土師氏の居住地域は今の羽曳野市・藤井寺市あたりで、(伝)応神陵を中心として直径1キロ範囲のところに土師の窯址がある。782年に改氏し、菅原すがわら秋篠あきしの大枝おおえの三氏に分立した。ここから菅原道真すがわらのみちざねが出ている。

忌部いんべ(斎部)氏>

 中臣と並ぶ古くからの祭祀集団。祭祀を担当するとともに品部しなべとして諸国に設置された忌部いんべを管理した。その中には出雲の忌部も含まれていた。中臣氏の祖であるアメノコヤネは祝詞のりとをとなえ、忌部氏の祖であるアメノフトダマが御幣ごへいを持つ役目を担っている。この二人はペアとなって神話に登場していることから、中臣氏とともに宮廷の祭祀を分掌していたと思われる。しかし、藤原氏が台頭すると、忌部氏は宮廷祭祀からはじき出されるようになった。

久米くめ(来目)氏>

 久米集団は熊本県人吉盆地の球磨くま郡出身と言われ、クマソ(熊襲)であったといわれるが、よく分かっていない。もともとは宇陀の高城たかきという奈良の山間部にあり、山林を監督する山守部を統率する山人集団であって、後に農民化したものであるともいわれる。


[地方の有力豪族]

出雲いずも氏>

 出雲おみの祖はアメノホヒで、葦原の中つ国平定のときに高天原から中つ国に派遣されたが、オオナムチ(大国主)に懐柔され復命しなかった。神賀詞かんよごとでは、アメノホヒが復命して国譲りが実現し、大国主は皇孫の守り神として杵筑きづき大社に鎮まったとする。このことから、出雲氏はもともと天孫系で、出雲に定着する以前は大和に拠点があったと推定する田中卓の説もある。律令国家によって出雲臣から任命された出雲国造は天皇に神宝を献上するとともに神賀詞を奏上する儀礼を行っていた。出雲世系譜によれば、17世の宮向みやむく臣のとき、初めて国造に任じられ、出雲姓を賜り出雲氏を称したという。出雲氏の本貫地は出雲東部の意宇おう大草さくさ郷(松江市の南部)と考えられている。出雲という地名は簸川ひかわ斐伊ひい川から発生したもので、意宇郡のかなり西方に位置する。出雲氏はもともと意宇おう氏を名乗っていたが、西部へも進出し、出雲全体を支配することになったため出雲氏に改めたと推定される。

吉備きび氏>

 吉備氏とは岡山県南部を本拠とした豪族で、かばねおみである。始祖伝承にはいくつかあるが、考霊の皇子ワカタケヒコ(吉備津彦)を始祖とする伝承が本来的で6世紀前後に成立したと思われる。吉備津彦は四道将軍の一人である。国作りの初期段階の吉備はヤマト政権中枢の有力な立場を示し、抵抗勢力たる地方政権の扱いは見いだせない。吉備氏はいくつかの有力豪族の連合体で、盟主墓も変動しているが、5世紀にはヤマト王権に匹敵する勢力を示している。瀬戸内海交通を押さえるだけでなく、瀬戸内の塩、中国山地の鉄といった有用な資源を持っていた。雄略期の倭国の朝鮮半島との外交に吉備氏が関与し、独自の専権力を持っていたことは、ヤマト王権と吉備の有力氏族が近い関係にあったと推定できる。463年ごろ、百済と連携して高句麗に対抗しようとする安康・雄略・大伴に対して、葛城氏と吉備氏が反対し内乱になった。雄略・大伴が勝利し、葛城氏と吉備氏は没落した。岡山平野には、古墳時代中期である5世紀に造山つくりやま古墳(360メートル)、作山つくりやま古墳(286メートル)、両宮山りょうぐうざん古墳(192メートル)が築かれた。特に、5世紀前葉の造山古墳は、従来の最大規模の渋谷向山古墳(300メートル)を凌駕しており、その当時の倭国の大王ともいえる。5世紀の吉備にはヤマト政権に比肩する強大な勢力があった。6世紀前半の任那日本府に関する加耶の史料によると、吉備臣が安羅あらにいた倭人集団の中心にいた。天武期に吉備は備前・備中・備後の三国に分割された。これと連動して、吉備氏は中央と地方に分化して、684年の「八色の姓やくさのかばね」において、下道しもつみち臣とかさ臣に朝臣あそみが与えられ、中央官人化した。

尾張おわり氏>

 古代の尾張・美濃に一大勢力をなし、多数の氏族と同族関係を持つ巨大な氏族である。天孫ニニギの子(あるいは兄)とされるアメノホアカリ(ホノアカリ)とその子のアメノカゴヤマを祖神とする。尾張氏はもと大和国葛城の高尾張邑たかおわりむらより起こり、移住してそれが尾張の国名となった、したがって物部氏と同族という田中卓の説もある。海にまつわる伝承をもち、尾張西部や丹後などに広く分布する海部あまべ氏と同族関係にあるなど海との関係が強い。その特徴は后妃伝承が目立つことにある。継体の即位前の正妃である目子媛めのこひめは安閑・宣化の母である。ヤマトタケルの妻となった宮簀媛みやずひめ草薙剣くさなぎのつるぎを預かり、熱田神宮にその剣を奉祀した。また、大和葛城地域に高尾張邑たかおわりむらが存在し、尾張氏には葛城・葛木を冠する祖先がいる。5世紀末(継体の即位前)を境にして、尾張の埴輪生産は猿投型円筒埴輪に規格化され、窯業として合理化・システム化された生産方式へと切り替わった。その背景には地域を統合した支配者集団の存在が考えられ、そのときに尾張氏が登場したと推定できる。6世紀になると、山城南部など、より広域な活動ネットワークを持つようになった。

4世紀ごろ、古墳時代前期の白鳥塚しらとりづか古墳(115メートル:名古屋市守山区)の出現は突然であり、それは天理市の行灯山あんどんやま古墳と同類であり、それに続く古墳の埴輪も大和東南部の大王墓の埴輪に酷似している。つまり、初期ヤマト政権と強いつながりを持つ集団であるといえる。物部氏とは系譜や神剣をご神体とする神社を奉斎しているという点で共通している。尾張連草香くさかの娘、目子媛めのこひめが継体の妃となり、安閑・宣化の兄弟を生んでいることから、天皇家に近い家柄と思われる。名古屋の熱田神宮、京都府京宮津市のこの神社、伊勢市の伊勢神宮外宮は尾張氏と同じ祖先神を奉じる一族が神職を継承する。

宗像むなかた氏>

 前述の「宗像(むなかた)大社」の項を参照

安曇あづみ(阿曇)氏>

 安曇氏はヤマト政権下では摂津国(大阪市)を拠点として広く全国に進出したが、海神を仰ぐ安曇氏の発祥地は博多湾沿岸である。イザナキのみそぎから生まれた三神(ソコツワタツミ・ナカツワタツミ・ウハツワタツミ)を祖先神とし、ワタツミの子であるウツシヒガナサクの子孫である。本拠地は「漢委奴国王」の金印が出土した筑前の阿曇郡志賀島しかのしまで、志賀海しかうみ神社が鎮座する。日本海を海の道として各地へ移住し長野には安曇野と呼ばれる土地があり、穂高神社もある。三河も渥美半島の渥美郡は阿曇氏に因んだ地名である。瀬戸内海を中心に勢力を張っていた海人あま部を統率した判造とものみやっこむらじであった。「八色の姓」では宿禰すくねとなった。 

上毛野かみつけぬ氏>

 群馬の豪族として有名である。崇神の皇子豊城入彦とよきいりひこを始祖とするが、新撰姓氏録には皇別と諸蕃に併載されているように、氏族の形成過程は複雑である。上限は不確かだが、遅くとも5世紀までには和歌山の紀の川流域に勢力を張る「荒河戸畔あらかわとべ」という集団があり、その集団はヤマト王権を擁立したという伝えを持つ。加耶から渡来した荒田別あらたわけが遠祖ともいわれる。荒田別あらたわけ木羅斤資もくらこんしとともに新羅と戦い、それを討ったとある。この集団は5世紀代には大阪湾沿岸に勢力を拡大し、須恵器で有名な陶邑すえむらを含む茅淳県ちぬのあがた県主あがたぬしに任じられ、大王に近侍する集団を出し、三輪山信仰との関係も深かったと想定される。5世紀後半、彼らの中から百済との交渉にあたるため朝鮮半島に渡ったと日本書紀に記される荒田別あらたわけ鹿我別かがわけらが出た。荒田別は王仁わにを招へいしたと伝えられる。彼らの後裔が500年前後に朝鮮半島から河内・飛鳥に定着したことから諸蕃の根拠となった。一方、5世紀代に行政・軍事権を付与され東国に派遣された人びとも出た。その子孫が6世紀~7世紀のなり、上毛野君を中心に、東国に東国六腹あずまのくにむつはら朝臣と称される貴族となった。上毛野・下毛野しもつけぬ・大野・車持くるまもち佐味さみ・池田の6氏である。一族には田辺ふひともあり、上毛野君一族は文書の読解・作成・活用の能力、中国・朝鮮との交渉能力を持ってヤマト政権の要職に就いたと考えられる。663年の白村江の戦いには将軍として上毛野君稚子わくごが出兵した。8世紀には対蝦夷政策政策の中心的役割も担った。さらに、渡来集団のために、711年に上毛野国内に多胡たご郡、713年に備前国に美作みまさか郡を設けている。


[各氏族(豪族)の祖先神と本拠地]

7~8世紀の豪族たちにとって、応神以前は神代のようなものであったと思われる。豪族たちが720年の日本書紀編纂時に、応神以前に自分の先祖を結びつけたのはその時代が漠然としていたからである。815年に桓武かんむ天皇の第5皇子である万多親王らによって奏進された古代氏族の系譜書である新撰姓氏録しんせんしょうじろくからは、古代の氏族たちの祖先神がわかるが、豪族たちはその祖先を古くみせるために神話の世界に紛れ込ませた。したがって、本当のこととは思われない。

きの

 ニニギの天孫降臨のときに、日像ひがた鏡・日矛ひぼこ鏡を携えて付き従ったアメノミチネ(天道根命)が祖。アメノミチネはカミムスヒの五世孫とされる。その鏡が日前ひのくま宮のご神体である。日前ひのくま宮は紀伊国一宮となった。紀伊国名草郡(和歌山市と海南市)が本貫。

葛城かつらぎ

 高皇産霊(タカミムスヒ)。奈良盆地西南部(御所市、金剛山地葛城山の東麓)を勢力拠点とし、4世紀末から5世紀後半にかけて、倭王権で大王に比肩し得る力を保持した最大級の古代豪族である。

物部もののべ

 饒速日(ニギハヤヒ)。大和の東南部および河内の渋江を勢力拠点とし、フツヌシ(タケミカヅチ)を奉斎する。部民の一つである物部を統轄する伴造氏族であった。「物」とは武器や軍人を意味する言葉で、物部は軍事や刑罰を担った部民とされる。

大伴おおとも

 アメノオシヒ(アメノオシホミミ)、ニニギが降臨する際に随従したとされる。大伴は大王に仕えるともを統率する、あるいはそれを代表する氏名うじなであり、本来特定の職掌を持たなかったともいわれる。摂津の住吉から河内の南部にかけてが本拠地。

蘇我そが

 葛城氏の後裔とされる。神功皇后以下5代の大王に仕えたとされる武内宿禰を祖とする豪族連合、きの巨勢こせ羽田はた平群へぐりなどの一つである。大和の西南部の現在の奈良県橿原市曾我町が本拠地。

中臣なかとみ

 アメノコヤネ。記紀の天岩戸の神話に出てきて祈祷した「天児屋あめのこやね」が祖である。欽明期に常盤ときわが中臣の氏名うじなを賜ったとされる。北河内から摂津にかけての地域が本拠地。

土師はじ

 アメノホヒ。土師氏の祖は、垂仁期にもともと出雲の人で相撲をとるためにヤマトに呼ばれたと云われる野見宿禰のみのすくねとされる。菅原道真すがわらみちざねの祖は土師氏で、菅原道真は日本における天神信仰の代表的な神になった。河内の古市が本貫。 

いんべ(斎部)>

 アメノフトダマ。中臣と並ぶ古くからの祭祀集団。祭祀を担当するとともに品部しなべとして諸国に設置された忌部を管理した。

大倭やまと

 神武東征の水先案内者である椎根津彦(シヒネツヒコ)を祖とする祭祀氏族である。元来は豊後水道または明石海峡の地を本貫としていた海神族である。

出雲いずも

 出雲臣の祖はアメノホヒで、葦原の中つ国平定のときに高天原から中つ国に派遣されたが、オオナムチ(大国主)に懐柔され復命しなかった。 

尾張おわり

 天火明(ホノアカリ)。尾張の熱田神宮には草薙くさなぎつるぎがある。ニニギの子のホノアカリを祖神とする尾張氏は考昭・崇神・継体に后妃を出し、古くから王権との深い関わりがある。特に継体との関係は事実であり重要である。尾張氏の家系図として「六人部連本系帳」がある。

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