第30話 雄略後の混乱と河内王権の断絶
記紀によれば、
第22代
xxx
第23代
第24代
第25代
水野祐は、“記紀の記述の信憑性から考えると、489年の雄略の崩御後から500年ごろの継体擁立までの10年間の清寧から顕宗・仁賢を経て武烈までの4代は存在せず、この混乱期には、有力豪族たちが皇女「
さらに、水野祐はこの征服王朝(仁徳王朝=河内王権)の時代について、“5世紀の日本列島社会は、朝鮮半島における情勢の変化に対応して、兵力の増強を計るため、広大な領域の開拓と多数の労働力の収奪を政策として取らざるを得なかった。強大な征服王朝の確立のためには専制的な支配権の強化が必要であり、そのためには支配層も努力を傾け、天皇(大王)氏を核心として協働しようとしたが、他面においては各
雄略期から仁賢期に
森浩一は、“履中の子の
こうした混乱が生じた最大の理由は、雄略が即位するに際してライバルとなる皇子らをことごとく殺害したことにある。これらの事件は記紀に記されているが、それに加えて、雄略の兄の安康は、かつて従兄弟の履中の子の
雄略の後に即位した清寧の名を後世につたえるため、
日本書紀によれば、清寧没後は、オケ・ヲケの兄弟が即位している。兄弟の父親は雄略に殺された履中の子の
仁賢没後は、その子のオハツセノ・ワカササギが即位した、武烈である。日本書紀では、即位後の武烈について目を覆わしめる極悪非道な行為があったことを列挙しているが、どこまで事実であったか疑わしい。しかし、日本書紀の編纂者たちが、武烈期に至り河内王権が衰亡の危機に瀕していたとの歴史認識を持っていたことを示しているといえる。この点からも、ヲオド(後の
ところで、
松本清張は河内王権を総括して、“応神を初代とする河内王権の360年ごろから500年ごろまでの140年は、旧弁辰(弁韓)の地を百済や新羅からの外交・軍事攻勢から守り、南部加耶諸国と共同で、なんとかしてこれを持ちこたえたいという苦闘の時代でもあった。これを中国の史書からみると、朝鮮半島南部の支配をめぐって倭・高句麗・百済が三つ巴になって争い、それぞれがその資格称号を江南に移った中国の朝廷から認めてもらうべく競願しているとなる。また、新羅は当時高句麗の支配下にあったが、東から洛東江を越えて、加耶諸国を侵略しようとしていた”、 と述べている。
雄略の死後、第3皇子である清寧が即位したのかもしれないが、雄略のような力を持った大王にはなり得なかった。仁徳以来、大王家として大きな勢力と権威を誇った葛城氏の有力者たちは、一族内の権力争いの中で同じ葛城氏出身の雄略によって殺されていた。また、雄略は、倭国内で厳しい統制を創りあげる過程で無理をしたため、多くの叛乱が起こった。そのためもあってか、雄略の死後にその支配体制は否定され、
武烈まで約150年続いた「征服王朝」の終わりまで見たところで、次の
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