第30話 雄略後の混乱と河内王権の断絶

記紀によれば、

 第22代 清寧せいねい:シラカノ・オオヤマトネコ、磐余甕栗いわれみかくり宮(奈良・桜井市)、河内坂門原陵(大阪・羽曳野市)。雄略の第3皇子で、母は葛城つぶら大臣の娘の韓媛からひめ。后妃も皇子女もいない。生まれながらの白髪であったと伝えられ、白髪しらか皇子と呼ばれた。

 xxx 飯豊いいとよ皇女:イイトヨノヒメミコ、清寧死後に即位したとの説が有力。大和の葛城の忍海おしぬみの高木の角刺つのさし宮。父は履中りちゅう、母は葛城襲津彦の孫娘の黒媛くろひめで、忍海郎女おしぬみのいらつめと呼ばれた。葛城襲津彦の孫同士の間に生まれたことになり、葛城襲津彦の曾孫になる。履中の皇子の市辺押磐いちべのおしは王は兄で、その子である仁賢にんけん顕宗けんぞうは甥にあたる。生涯独身で巫女であったと伝えられる。古事記では、雄略死後の混乱期に有力な豪族たちによって擁立されたとされる。水野祐は清寧せいねいから武烈ぶれつまでは存在せず、雄略死後の混乱期は大伴氏の擁立のもとで飯豊天皇であったとしている。

 第23代 顕宗けんぞう:ヲケ、近飛鳥ちかすあすか八釣宮(奈良・明日香村)、近飛鳥ちかすあすかとは河内であるともいわれる。傍丘磐坏丘南陵(奈良・香芝市)。皇后はナニワノ・オノノミコ。履中の孫で、父は履中の子の市辺押磐いちべのおしは王、母は葛城のはえ媛。市辺押磐いちべのおしは王が雄略に殺されたため、同母兄のオケとともに播磨に身を隠していた。

 第24代 仁賢にんけん:オケ、石上広高宮(奈良・天理市)、埴生坂本陵(大阪・藤井寺市)。皇后は雄略皇女のカスガノ・オオイラツメ(春日大娘)。後に継体の皇后となる手白髪たしらか皇女は娘にあたる。履中の孫で、父は履中の子の市辺押磐いちべのおしは王、母は葛城のはえ媛。市辺押磐王が雄略に殺されたため、同母弟のヲケとともに播磨に身を隠していた。

 第25代 武烈ぶれつ:オハツセノ・ワカササギ、泊瀬列城はつせのなみき宮(奈良・桜井市)、傍丘磐坏丘北陵(奈良・香芝市)。父は仁賢、母は雄略皇女のカスガノ・オオイラツメ(春日大娘)。后妃も皇子女もいない。稀代の暴君であったと記されるが定かではない。この皇統(河内王権)はここで断絶した。


 水野祐は、“記紀の記述の信憑性から考えると、489年の雄略の崩御後から500年ごろの継体擁立までの10年間の清寧から顕宗・仁賢を経て武烈までの4代は存在せず、この混乱期には、有力豪族たちが皇女「飯豊いいとよ」を名目上擁立していた。なぜなら、記紀は万世一系の皇統を基本としており、それを守るため作為したと考えられるからである。したがって、これらの4天皇は架空の天皇である”、という。

さらに、水野祐はこの征服王朝(仁徳王朝=河内王権)の時代について、“5世紀の日本列島社会は、朝鮮半島における情勢の変化に対応して、兵力の増強を計るため、広大な領域の開拓と多数の労働力の収奪を政策として取らざるを得なかった。強大な征服王朝の確立のためには専制的な支配権の強化が必要であり、そのためには支配層も努力を傾け、天皇(大王)氏を核心として協働しようとしたが、他面においては各うじの勢力伸長のために互いに確執を繰り返し、内部の抗争が激しく、その抗争は天皇(大王)氏までも巻き添えにして皇族部内の内紛を起させた。こういう氏姓うじかばね社会の自己矛盾を止揚するために、有力な氏上うじがみたちがその勢力均衡を得る手段として推戴する天皇(大王)の地位が、最高支配者として保たれてきたのである。そして前者の目的完遂のためには、天皇(大王)氏も他の強大な氏上うじがみ氏人うじひととともに、おみむらじ連合勢力を結集して、勢力伸長の戦いを辺境の地に向けて継続して行わなければならなかった。5世紀を通じてこの動向は成功裏に進展し、天皇は大王と称される力を持つにいたった。仁徳王朝(河内王権)もその初期段階では、大和の豪族として大和の地名を冠したうじの名を持つ葛城・平群・許勢・石川・蘇我などの武内宿禰たけのうちのすくね系氏族がおみ姓を称し、彼らはおおむね文官的性格をもって執政に関与し、その中から平群・許勢などの大臣おおおみが現れて、最高執政官として天皇(大王)氏とならぶ権力を握っていた。ところが仁徳王朝(河内王権)も中葉以降になると、ついに大伴・物部らのむらじ姓のうじの中から、大連おおむらじ大臣おおおみに対抗的に現れる。この大連おおむらじうじは、天皇(大王)氏の親衛軍の管掌者としての伴造とものみやつこ的地位を占めていたうじの族長たちで、武官的性格を持つものである。この大連おおむらじ姓のうじ大臣おおおみ姓のうじと本質的に性格を異にするものであり、5世紀中葉になって大連おおむらじの勢力が大臣おおおみの勢力を圧倒するような形勢を占めてくるのは、当時の国内の政治的情勢の変化、すなわち征服戦争が激化してきたことに対外的な情勢の変化が加わって、武官的なうじが時代の主導権を握ったことによるものであろう。大伴の「おお」は、ともが多数であるという意味ではなく、「天皇(大王)」のともという意味であろうと解釈される”、と述べている。

雄略期から仁賢期に大連おおむらじの地位にあった大伴室屋おおとものむろやは、紀伊・讃岐・伊予・備前・出雲・隠岐・筑後・肥後・日向・薩摩など、西日本各地に大伴部おおともべを設置して勢力を拡大した。在地首長がそれら大伴部の伴造とものみやつことなり、その子弟らを靫負ゆげいとして大伴大連の下に上番させ、王宮の諸門の守衛に奉仕させる体制を確立した。


 森浩一は、“履中の子の市辺押磐いちべのおしわ皇子は安康の後の大王の候補であったが、雄略に殺された。市辺押磐皇子の子であるヲケ(顕宗)・オケ(仁賢)は播磨に逃げのび、馬甘うまかい牛甘うしかいとなった。二人は清寧と飯豊の死後に相次いで即位した。だが、実際は播磨北東部にあるヤマト政権の屯倉みやけで勢力を伸ばしていたと思われる。叔母である飯豊も葛城の忍海おしぬみでそれなりの力は保っていたとみられるし、雄略の支配力も国土の隅々にまで浸透する力はなかったと思われる”、と述べている。 


 こうした混乱が生じた最大の理由は、雄略が即位するに際してライバルとなる皇子らをことごとく殺害したことにある。これらの事件は記紀に記されているが、それに加えて、雄略の兄の安康は、かつて従兄弟の履中の子の市辺押磐いちべのおしは皇子を即位させようとしていたことがあり、雄略はそれを恨みに思って皇子を殺したと伝えられている。


 雄略の後に即位した清寧の名を後世につたえるため、屯倉みやけとして白髪部しらかべが各地に設置された。日本書紀によれば、大伴連室屋おおとものむらじむろやが諸国に遣わされ、各地の国造の領域内に白髪部しらかべを設置し、国造の子弟らをひと制に基づき、白髪部舎人とねり(王族の護衛)・膳夫かしわで(食膳を司る)・靫負ゆげい(宮門の守備)として大和の王宮へ奉仕させたが、その費用は白髪部しらかべに負担させたとある。白髪部しらかべが設置された地域は、東国では遠江・駿河・武蔵・常陸・上野・下野、西国では石見・備中・周防・肥前・肥後などであった。


 日本書紀によれば、清寧没後は、オケ・ヲケの兄弟が即位している。兄弟の父親は雄略に殺された履中の子の市辺押磐いちべのおしわ王で、父親の殺害後、播磨の赤石あかし(明石)に隠れていたが、忍海部造おしぬみべのみやつこ細目ほそめの家で見い出され、大和に連れ帰されたと伝えられる。忍海部は飯豊いいとよ皇女のために播磨に設置された屯倉みやけであったことから、兄弟は地方の伴造の細目の下で庇護されていたとみられる。飯豊皇女は別名、忍海郎女おしぬみのいらつめと呼ばれ、古事記ではオケ・ヲケ兄弟の叔母に当る。即位は弟のヲケ(顕宗)が先で、兄のオケ(仁賢)はその後となった。しかし、古事記では、清寧の後はオケ・ヲケの兄弟ではなく、飯豊いいとよ皇女が即位したとあり、この伝承の方が史実に近いと思われる。12世紀末成立の「扶桑略記」でも、「飯豊天皇、24代女帝」と記し、清寧に続いて飯豊を女帝として立てたとしている。

 仁賢没後は、その子のオハツセノ・ワカササギが即位した、武烈である。日本書紀では、即位後の武烈について目を覆わしめる極悪非道な行為があったことを列挙しているが、どこまで事実であったか疑わしい。しかし、日本書紀の編纂者たちが、武烈期に至り河内王権が衰亡の危機に瀕していたとの歴史認識を持っていたことを示しているといえる。この点からも、ヲオド(後の継体けいたい)が擁立されて、新しい王権が始まったと考えることができる。

 ところで、大伴室屋おおとものむろやは武烈3年(501年)の記事を最後に記述がみえないことから室屋むろやはそのころに死去し、その孫の大伴金村おおとものかなむら大連おおむらじに任命されたと推測される。その前に、大伴金村は大臣おおおみ平群真鳥へぐりのまとりとその子しびを殺害している。 


 松本清張は河内王権を総括して、“応神を初代とする河内王権の360年ごろから500年ごろまでの140年は、旧弁辰(弁韓)の地を百済や新羅からの外交・軍事攻勢から守り、南部加耶諸国と共同で、なんとかしてこれを持ちこたえたいという苦闘の時代でもあった。これを中国の史書からみると、朝鮮半島南部の支配をめぐって倭・高句麗・百済が三つ巴になって争い、それぞれがその資格称号を江南に移った中国の朝廷から認めてもらうべく競願しているとなる。また、新羅は当時高句麗の支配下にあったが、東から洛東江を越えて、加耶諸国を侵略しようとしていた”、 と述べている。


 雄略の死後、第3皇子である清寧が即位したのかもしれないが、雄略のような力を持った大王にはなり得なかった。仁徳以来、大王家として大きな勢力と権威を誇った葛城氏の有力者たちは、一族内の権力争いの中で同じ葛城氏出身の雄略によって殺されていた。また、雄略は、倭国内で厳しい統制を創りあげる過程で無理をしたため、多くの叛乱が起こった。そのためもあってか、雄略の死後にその支配体制は否定され、府官ふかん制も解体されてしまった。そして、大王の地位は有力な親衛隊であるむらじ姓の大伴おおとも氏・東漢やまとのあや氏・物部もののべ氏らによって左右される状況になってしまった。記紀に名がある清寧・顕宗・仁賢・武烈、そして飯豊皇女も応神・仁徳の血筋という理由だけでむらじたちに担がれていただけだった。こうした日本列島内での大王位をめぐる混乱の時代、母国である金官加耶を中心とした加耶南部は百済と斯慮しろ(後の新羅)の攻勢にさらされ存亡の危機に陥っていた。このような状況下で、第25代武烈ぶれつ没後、大連おおむらじの大伴金村が中心となり、500年ごろに越前からヲオド(後の継体けいたい)を迎え入れ、6世紀の継体による新しい国づくりという形で歴史は進むことになった。しかし、それは350年代の景行による加耶から北部九州への侵攻から始まり、4世紀末から5世紀初頭にかけての応神・仁徳による大和への東征、さらに5世紀後葉の雄略、その後の清寧から武烈までを加えれば、約150年続いた水野祐が名付けた「征服王朝」の終わりを意味した。


 武烈まで約150年続いた「征服王朝」の終わりまで見たところで、次の越王えつおうヲホド(後の継体けいたい)の登場へ移る前に、「豪族」「渡来人」「文字文化」「墓制から見た東アジア・朝鮮半島、そして倭国」「銅鏡」について述べておきたい。これらの人びとや文化・文物は、倭人そして倭王の系譜を語るうえで欠くことができない重要な要素である。

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