第29話 雄略の時代
5世紀は日本古代史上極めて重要な時期である。この時期に最も積極果敢な行動をとったのは雄略であった。雄略は
宋書の順帝昇明二年(478年)の条に記されている倭王武の上表文の要約:
「(累代)冊封されてきた我が国は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する(天子の)
森公章(東洋大学教授)は、この上表文の全文の構成について次のようにまとめている。
① 倭国の歴史と過去における宋との関係を概観したうえで、
② 近時における国際的案件の発生(高句麗と百済の戦争)と倭国の宋への入貢断続化の現況を説明し、
③ 再び時をさかのぼって近き過去の状況として、倭王
④
倭国はこの後、502年に
472年の百済王
また、5世紀の倭の五王の時代には、祭式の原形が成立し、東北から九州まで日本列島の東西で共有されるようになった。5世紀の祭式は次のような流れであり、伊勢神宮の古代の祭式と基本的に一致している。
① 武器・農具と布類を組み合わせた
② 祭祀
③
5世紀から6世紀、沖積平野の洪水後の環境変化に伴い、水田と灌漑用水路の再開発が行われ、集落が再び平野に進出し、東国(関東)でも100メートル級の巨大な古墳群が成立した。それは4世紀後半に朝鮮半島の情勢変化に連動し、鍛冶・紡織・須恵器焼成という最新技術が伝えられ、鉄素材である
最初に「治天下」大王と名乗ったのは倭王武(雄略)である。しかし、対外的には大王の称号は使わなかった。特に宋に対しては使えなかった。「天下」とは、「世界中、中国全土」のことであり、中国皇帝の支配がおよぶ範囲を示すものである。「治天下」という表現は、天下を治めるのは皇帝であり、被冊封国である倭国は、中国との外交の場では称することができないものである。高句麗の
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吉備は倭王権成立の指標となる前方後円墳の成立段階から葬送儀礼を共通にしており、瀬戸内海交通確保のうえでも倭王権が重視すべき存在だった。吉備氏は複数の有力豪族の連合体で、盟主の墓もその時々に変動している。5世紀には
吉備氏の叛乱は何回かあったと伝えられる。この叛乱には任那(加耶)や新羅(
吉備がヤマト王権に服従した後に反抗したという伝承は三つ残っていて、そのうちの初めの二つは雄略期である。
一つ目は、雄略7年、吉備の
二つ目は、吉備の
三つ目は、雄略23年、清寧の即位に際し、
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埼玉県行田市の
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菊池川左岸の台地上にある熊本県
この二つの古墳には、馬具・装身具(耳飾・帯金具など)・武器(鉄
この二つの銘文には、ワカタケル大王(雄略)の他にもう一つ共通点がある。「杖刀人」・「典曹人」とあるのは職務を示している。いわゆる
このワカタケル大王(雄略)の時代、倭国は高句麗に圧迫され滅亡に瀕していた百済を支援して王室を再興する一方、苦戦に終始したとはいえ、雄略20年(476年)には、新羅にも北部九州勢と思われる500人が出兵して戦った。倭国内では、少なくとも、東は武蔵国、西は肥後国までワカタケル大王(雄略)の名は鳴り響いていたことになる。
東国進出が本格化するのは、5世紀の河内王権の段階からと推測される。当時の東国は関東地方を指している。大和からは
もう一つ、日本の5世紀に文字文化が普及し始めたことを確認できる重要な銘文がある。
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紀伊国伊都郡隅田(現在の和歌山県橋本市垂井)所在の仿製(倭国製)人物画像鏡である。銘文が癸未年にはじまる紀年銘鏡で、銅鏡の鏡背に、「
5世紀の巨大古墳時代の社会は、北は関東から南は九州まで、支配する者と、租税を納め
雄略期には、
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雄略によって滅ぼされた葛城氏(本宗家)葛城地域に割拠した土豪たちの連合体であり、雄略に対する有力な対抗勢力であった。5世紀末ごろまでのヤマト王権は日本列島各地の首長たちによる連合政権的な体制であった。但し、地方の豪族はその地域の支配者であり、畿内のヤマト王権との関係はそれぞれであった。彼らは政治的にはヤマト王権の官吏であったり、貴族であったり、また、そのいずれでもないような立場であったと思われる。盟主の地位にある大王の力も限られていた。畿内においても葛城氏(本宗家)と大王家の勢力は拮抗し、微妙な政治的バランスの下で共存していた。葛城氏の力の源泉は奈良盆地西南部(御所市、金剛山地葛城山の東麓)の南郷遺跡にみられるように渡来系の鉄器生産などの技術者集団にあった。彼らの定住は5世紀前葉には始まっていた。記紀によれば葛城襲津彦は神功5年に新羅(加耶)に行き
大王の外戚という地位を得て権勢を振るった葛城氏の衰退は、葛城色が強いといわれる允恭の死を契機として始まった。後継を約束された
日本書紀によれば、雄略9年(471年)に、新羅討伐軍として、紀
雄略期には、多くの渡来人により文字知識・統治システムや生活上の技能・技術がもたらされ、文化力・武力ともに発展し、雄略はその支配地の拡大に邁進した。直木孝次郎は次のように述べて、この時代は日本の古代史において画期となったという。
[画期としての雄略期]
万葉集は元明あるいは元正のころに最初の編纂が行われ、奈良時代の終わりごろに大伴家持によって現在の万葉集が形作られた。その巻一は雄略の歌から始まっている。巻二の冒頭は仁徳の皇后で葛城襲津彦の娘・
小川清彦により1940年に書かれた「日本書紀の歴日に就て」によると、日本書紀には二つの歴が使用されているという。神武から仁徳までは干支が
これらのことから、任那(加耶)王族の日本列島征服計画は雄略の時代までは成功していたと思われる。しかし、雄略の時代(463年~489年)が終わるころには、オホタラシヒコ(景行)が350年代に日本列島の筑紫と周防に攻め込んでから130年が経ち、母国の任那(加耶)王族との血縁的なつながりも薄れ、畿内での激しい王位争いの結果、多くの王族の男性は殺され、雄略の後を継ぐ人材にも事欠くことになっていた。さらに、母国の南部加耶地域の中心である金官加耶が400年の高句麗による侵攻以来、主力勢力が日本列島の畿内へ移動したことも影響して衰退し、洛東江上流域の北部加耶の
日本列島において畿内を中心とした中央集権を目指した雄略は病に倒れ、489年に崩御した。中央集権化は未完のまま終り、その後507年に継体が即位するまでの約20年の間に大王の権威は弱体化した。その間隙をついて豪族たちは再び勢力を増した。雄略期においては、葛城本宗家は失脚したが、
雄略は死去に際して
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