第29話 雄略の時代

 5世紀は日本古代史上極めて重要な時期である。この時期に最も積極果敢な行動をとったのは雄略であった。雄略は大連おおむらじを親衛軍として組み入れ、その上に立って倭国の発展と大王権の拡大のために戦い抜いた英雄であった。雄略は478年の宋へ朝貢し「安東大将軍」の称号を授与されたが、高句麗は征東大将軍、百済は鎮東大将軍と倭王より上の称号にすでに任ぜられていた。しかし、その時の雄略の上表文は有名である。


 宋書の順帝昇明二年(478年)の条に記されている倭王武の上表文の要約:

「(累代)冊封されてきた我が国は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する(天子の)藩屛はんぺい(屛・垣根)になっている。昔より祖禰そでい(祖先)、自ら甲冑に身を包み、盛んに四隣を征服して国力を伸張させ、倭の国内も、東は毛人けひとを征すること55国、西は衆夷しゅういを服すること66国、というように九州より関東におよぶ広大な領域を平定した上、渡りて海北を平ぐること95国(新羅しらぎ百済くだら任那みまな加羅から秦韓しんかん慕韓ぼかん等朝鮮半島南部の六カ国)をも併呑した一大勢力を築きあげてきたのであったが、父のさいの時以来水軍を整備して百済の救援に心を悩ましてきたが、それは高句麗が無道であって、朝鮮半島南部の諸国をことごとに侵略しようとして軍を南下させてくるので、倭王の父祖のあとをついで、大軍を興して兵備を整えて高句麗の無道を征伐しようと努力してきたにもかかわらず、歴戦久しきにおよぶも今もって強敵を滅ぼすことができない。それゆえ、この際宋の援助を得て、所期の目的を達成し得るようにしてもらいたい。もしそうできるならば、速やかに高句麗の圧迫を排して朝鮮半島南部の治安を維持し、宋朝に対して忠節をつくすであろう。」


 秦韓しんかんとは新羅の前身であるが、ここでは5世紀の新羅の北辺の新羅に未だ服属していない地域、慕韓ぼかんとは百済の南辺の百済に未だ服属していない地域で栄山江流域と思われる。任那みまなは金官加耶を中心とした南部加耶、加羅からは大加耶を中心とした北部加耶と推定される。倭国の狙いは高句麗の南進政策に対抗することであった。当時の高句麗は北朝の北魏にも朝貢し、冊封を受けていた。


 森公章(東洋大学教授)は、この上表文の全文の構成について次のようにまとめている。

① 倭国の歴史と過去における宋との関係を概観したうえで、

② 近時における国際的案件の発生(高句麗と百済の戦争)と倭国の宋への入貢断続化の現況を説明し、

③ 再び時をさかのぼって近き過去の状況として、倭王さいの時代の対高句麗戦準備と、その中断について述べ、

自身の対高句麗戦遂行の意志と、そのための官爵仮授(申請)の執行(除正)を上表する。


 倭国はこの後、502年にりょうに遣使をしたが、それ以降600年の遣隋使派遣まで中国との通交を途絶しており、その意味でも武の478年の遣使は重要である。


 472年の百済王余慶よけい、すなわち蓋鹵がいろ王(在位455年~475年)と、495年の牟大むだい、すなわち東城とうせい王(在位479年~501年)の上表文は、倭王武の上表文と相似している。文章の構成や、冒頭部分の「自昔(昔より)」という語句の一致をはじめとして、用字にも良く似た所が見られる。中国の史書ししょ経書けいしょに依拠して作成されていることから、中国系渡来人が高句麗・百済・倭国の各国でふひととして重用されていたと考えられる。


 また、5世紀の倭の五王の時代には、祭式の原形が成立し、東北から九州まで日本列島の東西で共有されるようになった。5世紀の祭式は次のような流れであり、伊勢神宮の古代の祭式と基本的に一致している。

① 武器・農具と布類を組み合わせた幣帛へいはくと、飲食を供えた土師器・須恵器の神饌しんせんの準備

② 祭祀

幣帛へいはくなどの高床倉への収納


 5世紀から6世紀、沖積平野の洪水後の環境変化に伴い、水田と灌漑用水路の再開発が行われ、集落が再び平野に進出し、東国(関東)でも100メートル級の巨大な古墳群が成立した。それは4世紀後半に朝鮮半島の情勢変化に連動し、鍛冶・紡織・須恵器焼成という最新技術が伝えられ、鉄素材である鉄鋌てっていも多量に流入した結果、鉄製の鋤や鎌が水田の造成やイネの生産に威力を発揮したおかげであった。河内王権は自然環境の働きを神として祭ることで、自然環境がもたらす恵みを享受し、災いは未然に防ぎ、列島に暮らす人びとの生活と生産の安寧を図ったのである。これこそが大王の「治天下ちてんか」を象徴する行為であったと思われる。ここに国家領域の天下に対応し、律令時代へとつながる古代祭祀の基本形が成立したと考えらえる。 


 最初に「治天下」大王と名乗ったのは倭王武(雄略)である。しかし、対外的には大王の称号は使わなかった。特に宋に対しては使えなかった。「天下」とは、「世界中、中国全土」のことであり、中国皇帝の支配がおよぶ範囲を示すものである。「治天下」という表現は、天下を治めるのは皇帝であり、被冊封国である倭国は、中国との外交の場では称することができないものである。高句麗の太王たいおうも国内向けであった。王権の統治制度として用いられたひと制や将軍号などを与える府官ふかん制を作ったのは雄略である可能性が極めて高い。雄略の時代(在位463年~489年)は対外的に厳しい時代だった。国際関係が行き詰まり、国内の抵抗勢力も抱えて、国内外で一番圧迫された王であった。百済では475年に高句麗により漢城(ソウル)が陥落し、都をその南方の熊津ゆうしん(今の公州こんじゅ)に移したように亡国の瀬戸際に立たされるという大きな事件があった。そのような状況下において倭国内で新たな支配体制を築くという無理をした。叛乱の伝承が雄略期に多いのも雄略期の性格を表している。吉備の下ツ道臣しもつみちのおみの叛乱、任那の吉備きび上ツ道臣かみつみちのおみ田狭たさの反抗、筑紫の水間君みずまのきみの事件、播磨の文石あやいし小麻呂の叛乱、伊勢の朝日郎あさのいらつこの討伐。これらは雄略のときに畿内政権の勢力が発展し、地方の反抗を圧倒した事実を反映していると考えられる。厳しい統制を創りあげる過程でのきしみが、叛乱伝承となっていると考えられる。その苦境の中で描き出されたのが、大王と天下であったと思われる。


吉備きびの反抗]

吉備は倭王権成立の指標となる前方後円墳の成立段階から葬送儀礼を共通にしており、瀬戸内海交通確保のうえでも倭王権が重視すべき存在だった。吉備氏は複数の有力豪族の連合体で、盟主の墓もその時々に変動している。5世紀には造山つくりやま(ぞうざん)古墳・作山つくりやま(さくざん)古墳など巨大な前方後円墳を築造し、倭王権に匹敵する勢力を有していた。瀬戸内海交通を押さえるだけでなく、瀬戸内の塩、中国山地の鉄という有用な資源を持つ点でも、倭王権の中に占める位置は大きかった。

吉備氏の叛乱は何回かあったと伝えられる。この叛乱には任那(加耶)や新羅(斯廬しろ)も関わっていたようである。備中に、5世紀初頭の造山つくりやま(360メートル)と、5世紀中葉の作山つくりやま(286メートル)、備前に、5世紀後半の両宮山りょうぐうざん(192メートル)の3古墳の存在と朝鮮半島系遺物の出土は、この伝承を示唆している。

吉備がヤマト王権に服従した後に反抗したという伝承は三つ残っていて、そのうちの初めの二つは雄略期である。 

 一つ目は、雄略7年、吉備の下ツ道しもつみちの臣、前津屋さきつやで、大王に対する不敬があったとして、大王は物部の兵士30人を派遣して、前津屋とその一族70人を殺させた。 

 二つ目は、吉備の上ツ道かみつみちの臣、田狭たさで、大王は田狭を任那のみこともち(国司)に任命してその妻の稚媛わかひめを奪った。みこともちとは、大王の命令みことを携えて地方に派遣される官職である。田狭は任那に拠って新羅に接近したのだが、新羅討伐のため朝鮮半島に渡った田狭の息子の弟君おときみが父親に内通して妻に殺されたとある。しかし、田狭のその後は記されていない。吉備は新羅に近かったことは明らかである。弟君おときみの妻のくす媛は海部直あまのあたい赤尾と一緒に百済の才伎てひとたちを率いて倭国に帰った。この才伎てひとたちというのが、陶部すえつくり高貴、鞍部くらつくり堅貴、畫部えかき因斯羅我、錦部にしごり定安那錦じゃうあんなこむ譯語おさ(通訳)卯安那うあんならで、彼らは大和の高市郡の桃原に住まわされた。 

 三つ目は、雄略23年、清寧の即位に際し、稚媛わかひめの次男の星川皇子の叛乱である。稚媛の父親である吉備の上ツ道の臣たちは星川皇子を救うため舟40隻を率いて大和へ向かったが、稚媛母子は殺されていたことが分かると、吉備へ帰った。そこで、皇太子だった後の清寧せいねいは使者を吉備に送って上ツ道の臣らを攻め、彼が治めていた山部を奪った。この叛乱は雄略死後の大王位をめぐる紛争であった。この紛争後、吉備には大古墳が見られなくなったのは、吉備勢力の解体や崩壊の結果を示している。


 ひと制や大王の称号を確認できるのは、稲荷山いなりやま古墳と江田船山えたふなやま古墳から出土の鉄剣である。その背景には、急速な領域の拡大、国内支配の強化、近隣諸国の制圧、中国との積極的な外交などがあった。「大王」以前の称号には「ワケ」がある。「ワケ」は「別」「和気」などと表記されるが、「ワケ」は首長しゅちょうを意味する古語と考えられ、倭王権の王や吉備などの地方豪族が共通して名乗る称号であった。


ひと制]

ひと制や部民べみん制は、百済の部司ぶし制(穀部・肉部・馬部などの12の内官と、司軍部・司徒部などの10の外官からなる行政制度)に倣って成立したといわれる。5世紀に成立したひと制は人が特定の職務を持って中央に上番し、王権に奉仕する体制と考えられる。そこで習得した技術や文化は地方に持って帰った。5世紀の段階は王権が王権活動の成果を各地に分配する構造であった。6世紀には部民べみん制へと発展した。 


稲荷山いなりやま古墳の鉄剣銘文]

埼玉県行田市の埼玉さきたま古墳群にある稲荷山古墳(120メートル、5世紀後葉)の鉄剣の表裏には115文字の金象嵌きんぞうがん銘文がある。「辛亥の年(471年)七月中記す」から始まり、オホヒコ(四道将軍の一人で北陸へ派遣された)からヲワケにいたる8代の系譜を述べ、ヲワケがワカタケル大王(雄略)の杖刀人じょうとうじん(親衛隊)のおびととしてに仕えてきた由来を刻んだとある。ヲワケは臣であることから中央の官人であったと考えられる。その子孫が稲荷山古墳に追葬されたと思われる。銘文は朝鮮半島の記載法と同じであり、渡来人による撰文と考えられる。古墳の副葬品には武器・武具が多く、鉄鉗かねばさみ砥石といしもあり、被葬者は鉄器製作を掌握した武人的首長であった。大王という称号は金石文としては確実な初見になる。5世紀後半の雄略期に人名や地名を、漢字を用い一字一音で表記し、ヲワケの家系や、ヲワケが天下統治に功績があったことなどを簡略な漢文で表記し、それを金象嵌の技術で彫っていることから、この銘文鉄剣は雄略の寺(役所)のある斯鬼宮しきのみや(大和の三輪山の麓の磯城しき)の工房で制作されたと推定される。この銘文の歴史的意義は極めて大きいと言える。


江田船山えたふなやま古墳の鉄剣銘文]

菊池川左岸の台地上にある熊本県和水なごみ町の清原せいばる古墳群にある江田船山古墳(62メートル)の鉄剣には不明な部分も多いがむねに銀象嵌銘文が74文字あり、ワカタケル大王と読め、雄略紀の鉄剣である。「治天下ワカタケル大王の世」から始まり、「奉事する典曹人てんそうじんふみの役所の人)、名はムリテ」とあり、銘文末尾には「書者張安也」とある。張姓が百済の対中国外交における使者の姓であることから、百済系渡来人と思われる。古墳には5世紀後葉・6世紀初頭・6世紀前半の3人が埋葬されている。横口式の石棺式石室の被葬者は豪華な百済系と考えられる金銅製の冠や冠帽・帯金具・飾履などの装身具を多数副葬しており、この古墳の被葬者をはじめ、5世紀後半以降の筑後川流域を含む有明海・八代海沿岸の首長たちが、海上交通の担い手として倭国と朝鮮半島各地との交渉・交易に極めて重要な役割を果たしたことは疑いない。5世紀中葉以降の石棺式石室などの有明海沿岸地域(筑後・肥後・肥前)の特色ある古墳文化は、吉備・近畿・出雲・伯耆などにおよんでいる。


 この二つの古墳には、馬具・装身具(耳飾・帯金具など)・武器(鉄ほこ)などの様々な朝鮮半島系の副葬品が納められていた。その形状や製作技術は大加耶や百済と共通する。江上波夫は、“父系男子の名前を単純に連ねただけの系譜は騎馬民族の特徴である。また、杖刀人と盃捧持者は群臣のなかで特別重要な家臣であることも北方ユーラシアの騎馬民族の特徴である”、という。


 この二つの銘文には、ワカタケル大王(雄略)の他にもう一つ共通点がある。「杖刀人」・「典曹人」とあるのは職務を示している。いわゆるひと制と呼ばれる職務制度が5世紀に存在していた証拠とみなされている。ひと制には酒人さかびと倉人くろうど舎人とねりなどもあり、「周礼」をはじめ中国の史料にみられ、中国に由来する。

このワカタケル大王(雄略)の時代、倭国は高句麗に圧迫され滅亡に瀕していた百済を支援して王室を再興する一方、苦戦に終始したとはいえ、雄略20年(476年)には、新羅にも北部九州勢と思われる500人が出兵して戦った。倭国内では、少なくとも、東は武蔵国、西は肥後国までワカタケル大王(雄略)の名は鳴り響いていたことになる。


 東国進出が本格化するのは、5世紀の河内王権の段階からと推測される。当時の東国は関東地方を指している。大和からは山背やましろ・近江を経て、東山道を通って、上毛野かみつけぬ(群馬県)へ、そこから南進して武蔵むさし国へ至った。もう一つのルートは大和から伊勢に至り、「三尾勢さんびせいの海」を横断して、尾張や三河に上陸、東海道を東進して相模から浦賀水道を渡って、上総かずさに上陸し、下総しもうさ武蔵むさしに至ったと考えられる。「三尾勢の海」とは、三河・尾張・伊勢湾の総称である。古代の「三尾勢の海」は現在よりも広域だった。岐阜県大垣市辺りまで入り込んでいたのである。伊勢から尾張に向かうには、陸路よりも海路の方が便利だった。


 もう一つ、日本の5世紀に文字文化が普及し始めたことを確認できる重要な銘文がある。隅田すだ八幡神社所蔵の銅鏡の銘文である。


隅田すだ八幡神社所蔵鏡銘文]

紀伊国伊都郡隅田(現在の和歌山県橋本市垂井)所在の仿製(倭国製)人物画像鏡である。銘文が癸未年にはじまる紀年銘鏡で、銅鏡の鏡背に、「癸未きびの年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加おしさかの宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直かわちのあたい、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」という48字の文字がある。「癸未年」が何年かについていくつか説があるが、水野祐は443年であれば允恭5年にあたり、銘文の事実とも符合するという。銘文には「意柴沙加おしさか(忍坂)」の名があり、それは允恭いんぎょうの皇后である忍坂大中媛おしさかのおおなかつひめと考えられる。5世紀中葉であれば日本における最初の記録の出現となる。稲荷山古墳と江田船山古墳の鉄剣銘文と共に、それを書き刻んだ工人は朝鮮半島あるいは中国からの渡来人あるいはその子孫であったと思われる。


 5世紀の巨大古墳時代の社会は、北は関東から南は九州まで、支配する者と、租税を納め賦役ふえき労働に駆り出される者とに明確に分かれた階級社会が到来した時代であった。470年ごろに、宋から承認は得られなかったが、雄略が「開府儀同三司かいふぎどうさんし」を名のって、自分の下に将軍などを序列化し、軍制をしく政治方式を強化した。このような中国起源の府官ふかん制と、大王に仕える「文人あやひと」「倉人くろうど」「舟人ふなびと」「酒人さかびと」などのひと制とが、首長を介した間接的な政治・軍事制度として倭王権下に組織されたのである。 

雄略期には、平群へぐり大臣おおおみ大伴おおとも物部もののべ大連おおむらじに任じられている。しかし、有力な豪族が相互に職務を分担し合うなど、大王とは対等的であった。葛城かつらぎ一族でもある雄略は、畿内で大王に並ぶほどに隆盛を誇った葛城本宗家の有力者たちや、強大な地域王権を誇った吉備氏を鎮圧するなどして中央集権を目指したが、まだおよばなかったと思われる。しかし、雄略以降、大型の前方後円墳が築かれなくなったことから、雄略の時代に3世紀後葉以来の広域首長連合としてのヤマト王権は事実上終焉を迎え、大王権力による地方支配がある程度は進展したと考えられる。そうしたヤマト王権の地方支配の強化の方向性は6世紀初頭における継体けいたい王権の成立や、その後の北部九州の磐井いわいとの戦争によってさらに進むこととなった。


葛城かつらぎ氏(本宗家)の滅亡]

雄略によって滅ぼされた葛城氏(本宗家)葛城地域に割拠した土豪たちの連合体であり、雄略に対する有力な対抗勢力であった。5世紀末ごろまでのヤマト王権は日本列島各地の首長たちによる連合政権的な体制であった。但し、地方の豪族はその地域の支配者であり、畿内のヤマト王権との関係はそれぞれであった。彼らは政治的にはヤマト王権の官吏であったり、貴族であったり、また、そのいずれでもないような立場であったと思われる。盟主の地位にある大王の力も限られていた。畿内においても葛城氏(本宗家)と大王家の勢力は拮抗し、微妙な政治的バランスの下で共存していた。葛城氏の力の源泉は奈良盆地西南部(御所市、金剛山地葛城山の東麓)の南郷遺跡にみられるように渡来系の鉄器生産などの技術者集団にあった。彼らの定住は5世紀前葉には始まっていた。記紀によれば葛城襲津彦は神功5年に新羅(加耶)に行き俘人とりことして葛城地方の4邑へ漢人あやひとを連れ帰ったとする。また、仁徳から仁賢までの9人の大王のうち、葛城氏を母とする大王は6人、皇妃とするものが3人おり、安康を除く8人が葛城氏と結びつく大王である。

大王の外戚という地位を得て権勢を振るった葛城氏の衰退は、葛城色が強いといわれる允恭の死を契機として始まった。後継を約束された木梨軽皇子きなしのかるのみこは実弟の安康に追われ、即位した安康は地位不安定で眉輪まよわ王に殺された。雄略は、眉輪王とともに、雄略と同じく葛城襲津彦の孫にあたる葛城つぶら大臣を倒し、続いて葛城系の履中皇子の市辺押磐いちべのおしわ皇子が皇位を継ぐが、その市辺押磐いちべのおしわ皇子を殺してようやく皇位につくことができた。允恭の死後、雄略の即位に至る間には、倭王さいによる第二次の遣使が行われた451年から倭王の第一次の遣使が行われた477年までに、一連の皇位争奪争いが起こり、大きな内乱となった。これらの内乱は市辺押磐いちべのおしわ皇子ら葛城系の皇統を支持する葛城本宗家と、中央集権化を図る雄略を推す大伴氏や物部氏などの軍事的な伴造とものみやつこである新興氏族との対立によって導かれたと推測される。

日本書紀によれば、雄略9年(471年)に、新羅討伐軍として、紀小弓おゆみ・蘇我韓子からこ・大伴かたり・大伴小鹿火をかひの4人が大将軍として派遣され、紀小弓が戦病死した後は、子の大磐おいわが派遣され専権をふるったとされる。彼らは派遣されたのか、土着の豪族だったのかは別として、このときまでに葛城氏本宗家は滅亡していた。その結果、葛城氏の配下にいた渡来人などは王権に帰属することになり、倭王の権力が一層強化された。但し、古事記では雄略が葛城に行幸したとき、一言主ひとことぬし大神という葛城の神に敬意を払ったという。雄略も葛城一族の一人であるという事実に変わりはない。


 雄略期には、多くの渡来人により文字知識・統治システムや生活上の技能・技術がもたらされ、文化力・武力ともに発展し、雄略はその支配地の拡大に邁進した。直木孝次郎は次のように述べて、この時代は日本の古代史において画期となったという。


[画期としての雄略期]

万葉集は元明あるいは元正のころに最初の編纂が行われ、奈良時代の終わりごろに大伴家持によって現在の万葉集が形作られた。その巻一は雄略の歌から始まっている。巻二の冒頭は仁徳の皇后で葛城襲津彦の娘・磐之媛いわのひめの歌となっている。平安時代の始めにできた日本最初の仏教説話集「日本霊異記にほんりょういき」の巻頭第一の物語は雄略の時代の話である。「もよ、み持ち・・・」で始まる、万葉集巻1の巻頭歌は雄略の作歌とされるが、あくまで伝承にすぎない。万葉集の編者らは大和のみならず日本全土を支配する大王の歌として万葉集全20巻の巻頭歌として位置付けた。9世紀半ば過ぎに編纂された新撰姓氏録しんせんしょうじろくのなかで、それぞれの氏族の先祖についての伝説を記しているが、自分の先祖は雄略の時代に手柄を立てたという話が多い。先祖はもっと古いが物語は雄略から始まる。日本書紀の編纂の区分も、巻13の允恭・安康紀と次の巻14の雄略紀との間に顕著な一線が引かれている。

小川清彦により1940年に書かれた「日本書紀の歴日に就て」によると、日本書紀には二つの歴が使用されているという。神武から仁徳までは干支が儀鳳暦ぎほうれきで書かれており、安康から持統まではより古い元嘉歴げんかれきが使われている。しかし、安康の最後の記事は雄略の即位事情を説明する部分に元嘉歴を使っているので、古い方は実質的には雄略から始まっていたと考えられる。儀鳳暦は唐で665年から728年まで使われた。元嘉歴は445年から唐代まで使われた。したがって、推古期の620年に編纂された天皇記・国記には元嘉歴が使われ、主に雄略から持統までの歴史が書かれたと思われる。それは蘇我馬子の業績と考えられている。一方、儀鳳暦は天智・天武のころに日本に入ってきたので、神武から仁徳までの歴史は天武のころに編纂を始めたと考えられる。新旧両方の歴史書を一緒にして日本書紀は720年に最終的に編纂されたようだ。7~8世紀の豪族たちにとって、応神以前は神代のようなものであったと思われる。豪族たちが720年の日本書紀編纂時に、応神以前に自分の先祖を結びつけたのはその時代が茫然としていたからである。


 これらのことから、任那(加耶)王族の日本列島征服計画は雄略の時代までは成功していたと思われる。しかし、雄略の時代(463年~489年)が終わるころには、オホタラシヒコ(景行)が350年代に日本列島の筑紫と周防に攻め込んでから130年が経ち、母国の任那(加耶)王族との血縁的なつながりも薄れ、畿内での激しい王位争いの結果、多くの王族の男性は殺され、雄略の後を継ぐ人材にも事欠くことになっていた。さらに、母国の南部加耶地域の中心である金官加耶が400年の高句麗による侵攻以来、主力勢力が日本列島の畿内へ移動したことも影響して衰退し、洛東江上流域の北部加耶の高霊こりょんにある大加耶に加耶諸国の盟主の座を奪われてしまった。


 日本列島において畿内を中心とした中央集権を目指した雄略は病に倒れ、489年に崩御した。中央集権化は未完のまま終り、その後507年に継体が即位するまでの約20年の間に大王の権威は弱体化した。その間隙をついて豪族たちは再び勢力を増した。雄略期においては、葛城本宗家は失脚したが、大連おおむらじの大伴氏・物部氏とともに葛城系の平群氏・蘇我氏は中央政界で健在であった。特に大伴氏は大王親衛隊の首領として最高の権力を握っていた。 


 雄略は死去に際して大伴連室屋おおとものむらじむろや東漢直掬やまとのあやのあたいつか都加使主つかのおみともいう)の二人に遺言して、「共治天下」の形ができているので何も心配ないと述べたとある。大伴氏はむらじ姓が示すように、おみ姓の葛城氏など大王家につながる有力血脈ではなく、家宰かさい的豪族に属する。雄略期における有力豪族に対する抑圧と宮廷組織の整備の中で、大伴氏や物部氏のような大王家と血脈のない豪族が権力を振るうようになる。葛城氏・吉備氏ら中央と地方の有力豪族の抑圧に加え、渡来人の掌握による様々な技術(飼馬・鉄器生産・織物・須恵器など)や文字の知識を有するふひとの専有と大伴氏・物部氏らによる官吏集団の形成は大王の権威確立に大きな意味があった。この日本列島内の整備を踏まえて、朝鮮半島での対高句麗の軍事行動を実現する準備が進められたが、允恭・安康・雄略の時代での近畿勢の朝鮮半島への派兵は実現されなかった。475年に百済は高句麗の攻撃により漢城(ソウル)が陥落し一時滅亡した。百済がその後の復興のための混乱状態にあったとき、雄略は百済・新羅を含めた朝鮮半島南部諸国を支配下に置き、高句麗に対抗しようとしていたと考えられる。

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