第28話 宋に朝鮮半島南部の潜在主権と爵号を求める

 さて、「ワケ・タラシ」系の河内王権の出自および本国は任那みまな(南部加耶地域)であり、その中心国は金官加耶である。このことは、倭の五王による朝鮮半島南部の支配権を要求する中国の宋への遣使の内容からも推測することができる。この倭の五王の時代に起こった朝鮮半島における重要な出来事と、倭王の中国南朝の宋からの除正(正式の任命)を年代順に見てみると、朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅(当時は斯廬しろ)と、朝鮮半島南部の加耶を含む日本列島の倭国の大きな動きが見える。


414年:広開土王こうかいどおう好太王こうたいおう)碑を建立。高句麗の広開土王(在位:391年~412年)は国を躍進させ、太王の号を称し、永楽という年号を使用するまでになった。次の長寿王(在位:413年~491年)は414年に父の功績を称えて広開土王(好太王)碑を建立している。 

420年:東晋の将軍であった漢族の劉裕りゅうゆうは東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受け、宋(420年~479年)を建国した。 

421年:倭王「さん」宋に遣使。421年は前年の東晋滅亡と宋成立直後であった。

427年:高句麗は朝鮮半島統一のため都を鴨緑江中流北岸の丸都がんとから平壌ぴょんやんに移した。高句麗の平壌遷都は百済に対する大きな脅威となった。

438年:倭王「ちん」が安東将軍倭国王に任命された。中国の五胡十六国の一つである北燕が滅亡し、北からの脅威がなくなり、高句麗はますます強大となって南進政策を強力に推進するようになった。

443年:倭王「さい」が宋に遣使。これは済(允恭いんぎょう)の即位による遣使であった。宋に朝鮮半島南部の支配権を認めるよう要求している。新羅(斯慮)については倭国に対する敵対的な記事が多いなかで、日本書紀の允恭紀には新羅(斯慮)と親密な関係の記事が多く異彩を放っている。三国史記でも、444年から459年までの15年間に倭との交戦記事がみられない。一方、百済は440年代から高句麗との熾烈な戦いが続き、倭・新羅(斯慮)との連携を必要としていた。

450年:長らく高句麗の支配下にあった新羅(斯慮)が明確に高句麗への反抗を示すのは450年代からで、新羅(斯慮)は百済・加耶と連携して高句麗からの独立を図るようになった。 

451年:倭王「済」が安東大将軍とともに、使持節しじせつ都督ととく、倭・新羅・任那・加韓・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えられ、配下の23人に軍の将軍号と郡の太守号が与えられた。また、宋はこのときに初めて、「使持節しじせつ都督ととく」という皇帝からの委任と軍事権を倭王に与えている。

462年:倭王「こう」が安東将軍倭国王に任命された。

475年:高句麗により百済の漢城(ソウル)が陥落し、百済は一時的な滅亡に瀕した。477年に都を南方の熊津ゆうしん(現在の公州こんじゅ)に遷した。その後、倭国で生まれ育った百済の王子牟大むだいが帰国し、東城とうせい王(在位479年~501年)として即位し、新羅(斯慮)と連合して高句麗と戦い、体制を立て直した。

478年:倭王「」が安東大将軍倭国王に任命された。

479年:宋の滅亡とせい(479年~502年)の建国。宋は450年の北魏による侵攻により淮水以北から山東半島にいたる領土を完全に奪われ、宋の国力は衰退の一途をたどった。その北部戦線で実力を築いた軍閥であった蕭道成しょうどうせいが斉を建国した。

495年:百済の東城王は南朝のせいに遣使した。

505年:辰韓は斯慮しろ部落を基礎に東海岸一帯を統一し、510年ごろになってから新羅と称した。新羅は5世紀前半の高句麗の好太王・長寿王の時代には高句麗の支配下に置かれたが、5世紀後半に入ってから自立を目指していた。


 広開土王碑によると、倭王権は少なくとも391年から407年までの17年間、百済や伽耶諸国と連合し、高句麗や新羅と激しく戦ったのは歴史的事実であった。倭国の重要な拠点が北部九州から河内へ移動したのは、朝鮮半島での軍事連合の失敗と限界の認識に立った対応と考えられる。倭国の政治や社会は新しい国際関係の中で大きな転機を迎えることになった。


・「宋書」の倭国伝に「倭の五王」の自称と除正(正式の任命)の要請の記事あり。488年成立の「宋書」はりょうの沈約により編纂され、高句麗国・百済国・倭国の三国伝がある。正式な国交に用いられた国書を資料として、「宋書」は南朝宋の歴史を紀伝体で記した史書である。倭の五王は朝鮮半島南部の軍事的支配権を主張し、安東大将軍・倭国王を自称した。


 このような朝鮮半島での深刻な状況をふまえて、5世紀の河内王権は中国南朝の宋(420年~479年)と直接的な外交関係を結ぶことになる。称号の末尾の「倭国王」は倭国の支配者の地位を国際的に認定してもらうためであり、また中国王朝の権威を借りながら、国内支配の維持・安定に努める必要もあったことを示している。宋書にはさんからまでの5人の倭王が421年から478年までの間に10回にのぼる遣使・朝貢をして、官位・爵号の授与を求めたとある。宋での将軍府の幹部を表す長史・司馬・参軍などの府官号、さらに将軍号や郡太守号を受けた。それを倭王は自らや臣下にも授けることにより国内の支配秩序を形成した。この官号や爵位が府官ふかんである。これにより、中央の豪族と地方の首長層の政治的地位、王権での序列付けが図られ、国内支配の安定を保とうとした。

 また、倭の五王による南朝宋との外交は4世紀後葉以降の高句麗の台頭という朝鮮半情勢と深く関わっていた。邪馬台国時代の卑弥呼や台与、また遣隋使や遣唐使時代の倭の国王は、その同時代の中国の官制に則った自称をしていない。この自称は「倭の五王」時代特有の出来事である。それは朝鮮半島南部における倭王の潜在主権を宋から認めてもらうためであった。


 朝鮮半島南岸地域は馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代(紀元前後~3世紀)から倭の領域だった。380年代に神功皇后と武内宿禰が河内を制圧後、仁徳の時代(在位:395年~427年)には北部九州から瀬戸内・山陰・近畿・北陸・東海、さらに雄略の時代(在位:463年~489年)には関東平野にまで勢力を拡大した。そこまで100年かかっている。百済や新羅をも凌ぐ強力な軍事力を獲得した允恭(在位:439年~462年)、安康(在位:462年~462年)、雄略(在位:463年~489年)の時代になってから、河内王権の本国でもある任那みまな(南部加耶)が潜在主権を持っている朝鮮半島南部地域の所有権を宋に認めさせようとしたのである。


 鈴木武樹は、“任那みまなの文字が最初に現れるのは、414年建立の「広開土王碑」で、そこに任那加羅みまなからと記されている。この任那加羅は弁韓(加耶地域)の一国の名である。479年にりょうへ朝貢した加羅王(高霊の大加耶)の荷知かちの称号、本国王・補国将軍から判断すると、任那とは「本国」の意味である。つまり、「任」は主・本の意味で、「那」はで、国の意味なのである。その本国を旧しん王国とすれば、本国加羅=太羅たらとなるかもしれない。しかし、438年に倭王珍が自称した称号の中の「任那」は加耶地域全域を呼んでいる。そこで考えられるのは、任那加羅の王族の一派(加耶の多羅たらを本貫とする一団の渡来者たちで、初代は景行)が4世紀中ごろに倭国(北部九州)に入ってきたとき、彼らは自分たちの出自である国は「任那加羅」と呼び、加耶地域全域は「任那」と呼んでいたと思われる。さらに近畿地方に東遷した後の倭の五王の済は、任那(加耶地域)と、月支国にいた当時(BC1世紀)の辰王の時代に潜在主権の及んだ土地である慕韓ぼかん秦韓しんかん(辰韓)の名目上の支配権を中国および朝鮮半島の国々に対して主張したのである。金官加耶は辰王の時代から加耶諸国に対する潜在主権を持っていたと推測される。倭国が任那を自分の領土だと主張し始めるのは文献的には438年の倭王珍からで、百済・新羅という未征服の土地がその領土の中に含まれている”、と述べて、倭の五王が自分の支配が及んでいない朝鮮半島南部諸国の潜在主権を主張した理由をあげている。

 任那は金官加耶を中心とした南部加耶、秦韓しんかん慕韓ぼかんは辰韓・馬韓で新羅や百済にまだ編入されていない独立した地域を指すものと思われる。特に朝鮮半島南西部の栄山江よんさんがん流域では5~6世紀の前方後円墳が見つかっており、6世紀前半ごろまで百済とは一定の距離を置き、倭国と連帯する独自の勢力が存在していたことがうかがわれる。この栄山江流域が慕韓であったと推定される。秦韓は洛東江下流域の東側の沿岸地域で新羅の南にあたる地域と推定される。

 さらに鈴木武樹は、“倭王珍は438年に南朝宋に朝見したとき、「使持節しじせつ都督ととく、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭国王」を自称したが、宋からは「安東将軍倭国王」を認められただけだった。使持節は晋や宋の「総督」の称号で、都督は「藩鎮の任を負う者」を指し、その下に所轄の地名が来る。爵号の高低は、車騎 -> 征東 -> 鎮東 -> 安東、の順で安東は一番低い。つまり、倭王珍は、百済をも自分の版図の中に入れながら、それでいて将軍の位はその百済の国王よりも二段階下のものを宋に要求するという矛盾を犯している。その上、宋は倭王珍に安東大将軍すら認めず、その一つ下の安東将軍を与えたにすぎない。その後、451年になってから、倭王済は安東大将軍に進号し、加除「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」、(配下の)23人の軍・郡を除正されている。このことからだけでも、5世紀の中葉における宋と百済と倭国との上下関係は歴然としている”、と述べて、倭国の評価の低さを指摘している。倭国側の自称には百済が含まれているが、宋の承認(除正)では必ず除外されているということから、宋からの評価は倭国より百済の方が常に上であった。しかし、451年の安東大将軍への進号は倭国にとって特筆すべき外交成果だった。

 加羅は高霊こりょんの大加耶で、北部加耶の中心となる国であり、松本清張は、“任那加羅(金官加耶)が衰退すると、加羅王(高霊の大加耶)の荷知かちが479年に直接南斉に遣使して爵号を受けるという、かつてない現象も起こった。これは任那の在地豪族が倭国離れをしたからである”、と指摘している。


[爵号の高低]

爵号の高低は、上位から車騎しゃき -> 征東せいとう -> 鎮東ちんとう -> 安東あんとうの順で車騎が一番高い。

加羅王の補国ほこく将軍の爵号の高低については不明であるが、将軍号からいえば、倭の五王がその臣下に除正を求めた将軍号と等しい低位の地位と推定される。


 次に、高句麗・百済・倭国の南朝からの爵号の推移をみてみると、中国王朝からみて高句麗・百済・倭という序列は最後まで変わらなかったことが分かる。


高句麗:征東大将軍(420年)-> 車騎大将軍(463年)-> 車騎大将軍(479年)-> 車騎大将軍(502年)

百済:鎮東将軍(372年)-> 鎮東大将軍(420年)-> 征東大将軍(479年)-> 征東大将軍(502年)

倭王:倭国王 -> 安東将軍(438年)-> 安東大将軍(451年)-> 鎮東大将軍(479年)-> 征東将軍(502年)

新羅:高句麗と百済とに道を遮られて南朝へは使者を派遣できなかった。

加羅王(高霊の大加耶):本国王・補国将軍(479年に梁へ朝貢)


 水野祐は、倭王が宋に爵号を求めた理由として、“中国南朝に朝貢し、爵位を受けようとしたのは、朝鮮半島南部諸国支配を正当化し、高句麗を牽制するためであった。倭王武が宋に呈した上表文などは、決して倭王武の勇猛果敢な行動を誇っているのではなく、これほど長い間日本列島社会の統一と朝鮮半島政策に意を用いてきたにもかかわらず、その目的が十分に達せられないので、宋の権威を借りて何とか所期の目的を達成したいということを懇願した愁訴状と見るべき性質のものだと思う”、と述べている。


 江上波夫は、“辰王朝が夫餘系であったから、辰王朝の子孫あるいは後継者として自認していた倭の五王も当然、自分たちは夫餘系だと思っていたに違いない。倭の五王が「使持節しじせつ都督ととく、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍」と称し、宋に承認を求めたが、宋は百済を外し、六国としている。過去の三韓時代(紀元前後~3世紀)から5世紀の現在に至る国々の名を列挙して、南朝鮮の支配権を過去にさかのぼって宋に追認せしめようとした。ここに弁韓(後の任那)はない。それは、任那は倭王が現実に領有しているからである。また、上表文に、「東は毛人けひとの五十五国を征す、西は衆夷しゅうい六十六国を服す、海北を平ぐること九十五国」とある。毛人とは蝦夷えみしを指し、衆夷とは倭を指す。言い換えれば、征服者は蝦夷でも倭でもなかったことが暗示されている。これは三韓の時代に朝鮮半島南部を広く支配した辰王の時代にさかのぼって朝鮮半島南部の支配権を主張したものであり、倭の五王は辰王の子孫か、辰王の継承者を自認したものと考えざるを得ない。それは倭王の直接の出自が朝鮮半島南部にあったことを意味する。すなわち、任那から日本列島に進出し、倭王という倭韓連合国の王になったということである。旧唐書東夷伝の日本国の条に、「あるはいう、日本もと小国、倭国の地をわす」とあるのに合致する”、と述べている。なお、海北とは朝鮮半島南部諸地域のことである。


 松本清張は、倭の五王のうち4人が宋に爵号を求めた理由について次の二つの理由をあげている。

① 倭の五王のうち4人が宋に爵号を求めた理由の一つは、倭国の東アジアにおける国際的地位、特に朝鮮半島での地位を高め、先に高句麗に敗北し、失われかけた朝鮮半島南部の占有権を合理的に回復しようとしたことである。高句麗は北朝の前燕から「征東大将軍・楽浪公」、前燕の後の北魏から「征東将軍・遼東郡公・高句麗王」の爵号を受けている一方、南朝の宋にも遣使朝貢を行い、「車騎大将軍」を受けていた。宋はこの高句麗の二股外交が信頼できないため、この高句麗を後方から牽制させる意味から、百済には「鎮東大将軍」の爵号を与えて厚遇した。その百済と共に高句麗に対抗する倭には「安東大将軍」を与えたようである。 

② もう一つの理由は、旧弁辰12国である秦韓と慕韓の軍事権の承認も得ることにあった。倭王にとって、その地は故国であり、何としても所有権を維持する必要があったからである。倭王「珍」のとき「倭隋等十三人」にも称号を求めたのは、主に加耶諸国(旧弁辰十二国)の首長たちにそれ相当の称号をもらってやる意味があったと推定する。倭王にとって、任那は故国であると同時に朝鮮半島諸国や中国との交易拠点でもあったため、死守する必要があった。任那は朝鮮半島南部の地において、百済と新羅以外のすべての領域であった。”


 また、鈴木武樹も爵号を求めた理由について、“隋書・新羅伝には、「新羅国は高句麗の東南の、漢の時代の楽浪の地にあり、斯羅しらとも称する。魏の将軍毋丘倹ぶきゅうけんが高句麗を討って(244年に高句麗の首都である丸都城を陥落させた)、この国を破ると、この国の人たちは沃沮よくそはしったが、その後また戻った。故国に留まった者たちはついに新羅をなした。それゆえ新羅の人は雑多で、中国人・高句麗人・百済人がいて、沃沮・不耐・韓・わいの地を兼有していた。その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入ってついにその国の王になったのである」、とある。この記事からすると、月支国の辰王は、夫餘が南下して馬韓に侵入すると、そこを追われて辰韓に逃げ、また別の支族は弁韓に逃げたと推測される。辰王の馬韓における潜在宗主権は夫餘系の百済に奪われ、辰韓の約半分は新羅王となった辰王の一族が受け継ぎ、弁韓の約半分の潜在宗主権は、弁韓に逃げた辰王の一族が受け継いだのではないだろうか。弁韓に逃げた一族は、おそらく多羅たらの王や任那加羅みまなから(金官加耶)の王などになった。多羅または任那加羅(金官加耶)の王族の一派は4世紀後半に日本列島の倭国に入り、そこを統一して、倭の五王の祖先となった。そう考えれば、倭王「珍」がなぜ倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓に対する宗主権を主張したのかも、また、後の加耶地方が任那(本国)と呼ばれるのは、金官加羅(金官加耶)に入った辰王家の一族が自分たちこそ辰王家の正統の後継者で三韓の宗主権を持つと主張したのかも、すべて理解できる”、と述べて、辰王の血をひく倭王はBC1世紀の辰王の時代にまでさかのぼって、百済・新羅を含めた朝鮮半島南部の潜在主権をもっていると宋に対して主張し、その権利を認めさせようとしたとする。また、新羅と百済は400年前後に、それぞれ皇子と太子を倭に人質として送ってきているから、倭王はそれをもってこの二つの国が倭に帰服した証拠だとみなして、自称の中で表現したともいえるともいう。


 中国南北朝時代の南朝は、東晋とうしん(317年~420年)、そう(420-年~479年)、せい(479年~502年)・りょう(502年~557年)・ちん(557年~589年)と続いた。倭の五王は中国南朝への遣使をして、官位・爵号の授与を求めた。主な遣使した年は、讃(421年・425年)、珍(438年)、済(443年・451年)、興(462年)、武(478年~479年)である。


413年:高句麗・倭国が東晋に朝貢。

421年:「讃」宋に遣使、除綬あり(具体的な爵号の記載はない)。421年は前年の東晋滅亡と宋成立直後であった。北朝は北魏による安定が保たれていた。百済の宋入貢は424年が最初であった。

425年:「讃」司馬曹達しばそうたつを宋に派遣して上表し、方物を献ずる。「司馬」は将軍名であり、「曹達」は姓名にあたる。司馬曹達は遣使の使節団長官であり、明らかに中国系渡来人である。

430年: 倭国王、遣使して方物を献ずる。

438年:「珍」除正(正式の任命)「安東将軍倭国王」、倭隋わずいら13人に平西・征虜・冠軍・輔国将軍号を除正。

443年:「済」除正「安東将軍倭国王」

451年:「済」安東大将軍に進号し、加除「使持節しじせつ都督ととく、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」、配下の23人に軍の将軍と郡の太守を除正。

460年:倭国、遣使して方物を献ずる。

462年:「興」除正「安東将軍倭国王」

477年:倭国、遣使して方物を献ずる。

478年:「武」除正「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」

479年: 宋の滅亡後、引き続きせいに遣使、斉は「武」を安東大将軍から鎮東大将軍に昇進させた。

502年: 斉の滅亡後、りょうに遣使、「武」を鎮東大将軍から征東将軍に昇進させた。倭王武(雄略)は489年に死去しているので、この武は誰か? これについては後述する。


 480年から501年までの約20年間遣使していない。5世紀後葉の朝鮮半島では、百済と新羅が手を組んで、北朝の北魏と結んでいた高句麗と対立していた。したがって、百済と親しかった倭国は高句麗とは敵対関係にあり、倭国は高句麗に道を阻まれて南朝へ朝貢できなかったと考えられる。当時の倭の五王の使節は、主に対馬から朝鮮半島南西部の栄山江よんさんがん流域を経由し、朝鮮半島西海岸を海路北上し、風を待って黄海を横断し山東半島に到り、江蘇省沿岸の海域を避けて江南にある南朝の都建鄴けんぎょう(今の南京)に至ったと推定される。


 また、井上秀雄(元東北大学教授)によれば、“倭・百済の家臣に除綬を要求した将軍号をみると、倭や百済の上級貴族は第三品の将軍号を得ている。しかし、倭は国王の将軍号が低く、438年の安東将軍は第三品階下位にすぎない。このことから、倭は国王と上級貴族との差がきわめて少ないが、百済では456年の段階で、国王は第三品階上位の鎮東大将軍であるのに対し、上級貴族の最高が第三品階下位の征虜将軍にすぎない。王と上級貴族の格差は倭より百済のほうがはるかに大きい。これらの将軍号は倭や百済が要求するものであるから、それぞれの国内事情がある程度反映される。百済は倭より王権が発達しており、王族や上級貴族への王の支配権力が一応完成していたといえる。倭の場合は、王と上級貴族との差は事実上認められず、小国連合体制の王位を示す将軍号の請求である”、という。倭国の場合、大王と同族、あるいは同程度の者が王権を補佐する構造であったと推定される。


 当時、倭国は身分秩序が未熟なため称号は中国に依拠していた。高句麗や百済の場合も中国王朝に通交し、高句麗王・百済王に冊封されること、すなわち自己の支配領域の認定を求めたのである。倭王の姓は「倭」、高句麗は「高」、百済は「余」と称し、これらが各王家の中国風の姓になった。しかし、倭国はその後、中国との通交が途絶するので、倭国では大王の姓としての「倭」は定着しなかった。


 宋への上表文における倭の五王の姓は「倭」であり、「扶余」ではないことから、金官加耶は辰王の時代から加耶諸国に対する潜在主権を持っていたと推測されるとはいえ、倭の五王は金官国王の直系子孫とは思われない。この当時は倭・加耶連合の時代であったから、辰王の時代からの潜在主権を主張できたともいえる。とすれば、倭の五王は鈴木武樹が提起しているように、多羅たらを本貫とする一団の渡来者たちの後裔で、初代はオホタラシヒコ(景行)と考えてもよいかもしれない。


 倭国は479年の宋の滅亡後、斉・梁に各一回遣使したが、その後、推古8年(600年)の最初の遣隋使まで約100年間遣使しなかった。それは、479年に宋が滅亡してから、倭国は中国王朝の冊封関係を軸とした国際政治の枠組みから離脱して独自の道を目指すことになったからである。倭王「」、すなわち雄略は「治天下ちてんか」の大王を名乗り中国の冊封体制からの自立をめざした。

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