第28話 宋に朝鮮半島南部の潜在主権と爵号を求める
さて、「ワケ・タラシ」系の河内王権の出自および本国は
414年:
420年:東晋の将軍であった漢族の
421年:倭王「
427年:高句麗は朝鮮半島統一のため都を鴨緑江中流北岸の
438年:倭王「
443年:倭王「
450年:長らく高句麗の支配下にあった新羅(斯慮)が明確に高句麗への反抗を示すのは450年代からで、新羅(斯慮)は百済・加耶と連携して高句麗からの独立を図るようになった。
451年:倭王「済」が安東大将軍とともに、
462年:倭王「
475年:高句麗により百済の漢城(ソウル)が陥落し、百済は一時的な滅亡に瀕した。477年に都を南方の
478年:倭王「
479年:宋の滅亡と
495年:百済の東城王は南朝の
505年:辰韓は
広開土王碑によると、倭王権は少なくとも391年から407年までの17年間、百済や伽耶諸国と連合し、高句麗や新羅と激しく戦ったのは歴史的事実であった。倭国の重要な拠点が北部九州から河内へ移動したのは、朝鮮半島での軍事連合の失敗と限界の認識に立った対応と考えられる。倭国の政治や社会は新しい国際関係の中で大きな転機を迎えることになった。
・「宋書」の倭国伝に「倭の五王」の自称と除正(正式の任命)の要請の記事あり。488年成立の「宋書」は
このような朝鮮半島での深刻な状況をふまえて、5世紀の河内王権は中国南朝の宋(420年~479年)と直接的な外交関係を結ぶことになる。称号の末尾の「倭国王」は倭国の支配者の地位を国際的に認定してもらうためであり、また中国王朝の権威を借りながら、国内支配の維持・安定に努める必要もあったことを示している。宋書には
また、倭の五王による南朝宋との外交は4世紀後葉以降の高句麗の台頭という朝鮮半情勢と深く関わっていた。邪馬台国時代の卑弥呼や台与、また遣隋使や遣唐使時代の倭の国王は、その同時代の中国の官制に則った自称をしていない。この自称は「倭の五王」時代特有の出来事である。それは朝鮮半島南部における倭王の潜在主権を宋から認めてもらうためであった。
朝鮮半島南岸地域は馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代(紀元前後~3世紀)から倭の領域だった。380年代に神功皇后と武内宿禰が河内を制圧後、仁徳の時代(在位:395年~427年)には北部九州から瀬戸内・山陰・近畿・北陸・東海、さらに雄略の時代(在位:463年~489年)には関東平野にまで勢力を拡大した。そこまで100年かかっている。百済や新羅をも凌ぐ強力な軍事力を獲得した允恭(在位:439年~462年)、安康(在位:462年~462年)、雄略(在位:463年~489年)の時代になってから、河内王権の本国でもある
鈴木武樹は、“
任那は金官加耶を中心とした南部加耶、
さらに鈴木武樹は、“倭王珍は438年に南朝宋に朝見したとき、「
加羅は
[爵号の高低]
爵号の高低は、上位から
加羅王の
次に、高句麗・百済・倭国の南朝からの爵号の推移をみてみると、中国王朝からみて高句麗・百済・倭という序列は最後まで変わらなかったことが分かる。
高句麗:征東大将軍(420年)-> 車騎大将軍(463年)-> 車騎大将軍(479年)-> 車騎大将軍(502年)
百済:鎮東将軍(372年)-> 鎮東大将軍(420年)-> 征東大将軍(479年)-> 征東大将軍(502年)
倭王:倭国王 -> 安東将軍(438年)-> 安東大将軍(451年)-> 鎮東大将軍(479年)-> 征東将軍(502年)
新羅:高句麗と百済とに道を遮られて南朝へは使者を派遣できなかった。
加羅王(高霊の大加耶):本国王・補国将軍(479年に梁へ朝貢)
水野祐は、倭王が宋に爵号を求めた理由として、“中国南朝に朝貢し、爵位を受けようとしたのは、朝鮮半島南部諸国支配を正当化し、高句麗を牽制するためであった。倭王武が宋に呈した上表文などは、決して倭王武の勇猛果敢な行動を誇っているのではなく、これほど長い間日本列島社会の統一と朝鮮半島政策に意を用いてきたにもかかわらず、その目的が十分に達せられないので、宋の権威を借りて何とか所期の目的を達成したいということを懇願した愁訴状と見るべき性質のものだと思う”、と述べている。
江上波夫は、“辰王朝が夫餘系であったから、辰王朝の子孫あるいは後継者として自認していた倭の五王も当然、自分たちは夫餘系だと思っていたに違いない。倭の五王が「
松本清張は、倭の五王のうち4人が宋に爵号を求めた理由について次の二つの理由をあげている。
① 倭の五王のうち4人が宋に爵号を求めた理由の一つは、倭国の東アジアにおける国際的地位、特に朝鮮半島での地位を高め、先に高句麗に敗北し、失われかけた朝鮮半島南部の占有権を合理的に回復しようとしたことである。高句麗は北朝の前燕から「征東大将軍・楽浪公」、前燕の後の北魏から「征東将軍・遼東郡公・高句麗王」の爵号を受けている一方、南朝の宋にも遣使朝貢を行い、「車騎大将軍」を受けていた。宋はこの高句麗の二股外交が信頼できないため、この高句麗を後方から牽制させる意味から、百済には「鎮東大将軍」の爵号を与えて厚遇した。その百済と共に高句麗に対抗する倭には「安東大将軍」を与えたようである。
② もう一つの理由は、旧弁辰12国である秦韓と慕韓の軍事権の承認も得ることにあった。倭王にとって、その地は故国であり、何としても所有権を維持する必要があったからである。倭王「珍」のとき「倭隋等十三人」にも称号を求めたのは、主に加耶諸国(旧弁辰十二国)の首長たちにそれ相当の称号をもらってやる意味があったと推定する。倭王にとって、任那は故国であると同時に朝鮮半島諸国や中国との交易拠点でもあったため、死守する必要があった。任那は朝鮮半島南部の地において、百済と新羅以外のすべての領域であった。”
また、鈴木武樹も爵号を求めた理由について、“隋書・新羅伝には、「新羅国は高句麗の東南の、漢の時代の楽浪の地にあり、
中国南北朝時代の南朝は、
413年:高句麗・倭国が東晋に朝貢。
421年:「讃」宋に遣使、除綬あり(具体的な爵号の記載はない)。421年は前年の東晋滅亡と宋成立直後であった。北朝は北魏による安定が保たれていた。百済の宋入貢は424年が最初であった。
425年:「讃」
430年: 倭国王、遣使して方物を献ずる。
438年:「珍」除正(正式の任命)「安東将軍倭国王」、
443年:「済」除正「安東将軍倭国王」
451年:「済」安東大将軍に進号し、加除「
460年:倭国、遣使して方物を献ずる。
462年:「興」除正「安東将軍倭国王」
477年:倭国、遣使して方物を献ずる。
478年:「武」除正「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」
479年: 宋の滅亡後、引き続き
502年: 斉の滅亡後、
480年から501年までの約20年間遣使していない。5世紀後葉の朝鮮半島では、百済と新羅が手を組んで、北朝の北魏と結んでいた高句麗と対立していた。したがって、百済と親しかった倭国は高句麗とは敵対関係にあり、倭国は高句麗に道を阻まれて南朝へ朝貢できなかったと考えられる。当時の倭の五王の使節は、主に対馬から朝鮮半島南西部の
また、井上秀雄(元東北大学教授)によれば、“倭・百済の家臣に除綬を要求した将軍号をみると、倭や百済の上級貴族は第三品の将軍号を得ている。しかし、倭は国王の将軍号が低く、438年の安東将軍は第三品階下位にすぎない。このことから、倭は国王と上級貴族との差がきわめて少ないが、百済では456年の段階で、国王は第三品階上位の鎮東大将軍であるのに対し、上級貴族の最高が第三品階下位の征虜将軍にすぎない。王と上級貴族の格差は倭より百済のほうがはるかに大きい。これらの将軍号は倭や百済が要求するものであるから、それぞれの国内事情がある程度反映される。百済は倭より王権が発達しており、王族や上級貴族への王の支配権力が一応完成していたといえる。倭の場合は、王と上級貴族との差は事実上認められず、小国連合体制の王位を示す将軍号の請求である”、という。倭国の場合、大王と同族、あるいは同程度の者が王権を補佐する構造であったと推定される。
当時、倭国は身分秩序が未熟なため称号は中国に依拠していた。高句麗や百済の場合も中国王朝に通交し、高句麗王・百済王に冊封されること、すなわち自己の支配領域の認定を求めたのである。倭王の姓は「倭」、高句麗は「高」、百済は「余」と称し、これらが各王家の中国風の姓になった。しかし、倭国はその後、中国との通交が途絶するので、倭国では大王の姓としての「倭」は定着しなかった。
宋への上表文における倭の五王の姓は「倭」であり、「扶余」ではないことから、金官加耶は辰王の時代から加耶諸国に対する潜在主権を持っていたと推測されるとはいえ、倭の五王は金官国王の直系子孫とは思われない。この当時は倭・加耶連合の時代であったから、辰王の時代からの潜在主権を主張できたともいえる。とすれば、倭の五王は鈴木武樹が提起しているように、
倭国は479年の宋の滅亡後、斉・梁に各一回遣使したが、その後、推古8年(600年)の最初の遣隋使まで約100年間遣使しなかった。それは、479年に宋が滅亡してから、倭国は中国王朝の冊封関係を軸とした国際政治の枠組みから離脱して独自の道を目指すことになったからである。倭王「
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