第27話 倭の五王と巨大古墳

 413年に「倭王」が南朝の東晋に遣使した「晋書」の記載は、台与とよが266年11月にしんに朝貢して以来147年ぶりの中国王朝への遣使であった。それは倭の五王の時代の始まりであり、巨大古墳の始まりでもあった。応神(390年~394年)、仁徳(395年~427年)、履中(428年~432年)、反正(433年~438年)、允恭(439年~462年)、安康(462年~462年)、雄略(463年~489年)と続いた河内王権の時代である。各倭王の在位年は記紀の崩年干支や記載内容からの推定であり、中国や朝鮮などの文献内容と矛盾しているところもある。特に応神と仁徳の在位年には異論も多く、ここから応神・仁徳同一人説も出ている。413年の「倭王」と応神・仁徳についてはすでに述べた。ここでは履中から雄略の時代について述べる。


 宋書に記載された倭の五王とは、さん(仁徳または履中)、ちん(履中または反正)、さい(允恭)、こう(安康)、(雄略)と考えられている。一方、梁書には「」があるが、「珍」はないという違いがある。雄略の前後は、記紀に記載された歴代の天皇名により倭王の系譜をたどることができる。興の安康と、武の雄略は定説となっているが、讃・珍・済にはまだ異説がある。


記紀によれば、

 第17代 履中りちゅう:オオエノ・イザホワケ、磐余いわれ稚桜宮わかさくらのみや(奈良・桜井市)で即位、百舌鳥もず耳原南陵(大阪・堺市)。父は仁徳、母は葛城襲津彦の娘・磐之媛いわのひめ、皇后は黒姫くろひめと仁徳の皇女の幡梭媛はたびひめ。倭の五王の「讃」あるいは「珍」と推定される。

 第18代 反正はんぜい:タジヒノ・ミズハワケ、河内かわち丹比たじひ柴籬宮しばかきのみや(大阪・松原市)、百舌鳥もず耳原北陵(大阪・堺市)。父は仁徳、母は葛城襲津彦の娘・磐之媛いわのひめ、履中の弟。皇后は津野媛つのひめ弟媛おとひめ。淡路島で生まれ、歯並びが美しかったとされる。当時、風雨は穏やかで五穀豊穣で人民は富み栄え、天下太平であった。倭の五王の「珍」と推定されるが、梁書にある「彌」とも目される。宋書では、珍は讃の兄弟とある。

 第19代 允恭いんぎょう:オアサツマ・ワクゴノスクネ、遠飛鳥宮(奈良・明日香村)、恵我長野北陵(大阪・藤井寺市)。父は仁徳、母は葛城襲津彦の娘・磐之媛いわのひめ、履中・反正の同母弟。皇后は忍坂大中媛おしさかのおおなかつひめ、その子に木梨軽皇子きなしのかるのみこ穴穂皇子あなほのみこ。倭の五王の「済」とされ、葛城色が強いといわれる。「アサツマ」は葛城郡朝津間あさつまを指す。その名前が異なることから、允恭は履中・反正とは系譜が異なるとの説がある。

 第20代 安康あんこう:アナホ、石上穴穂宮いそのかみあなほのみや(奈良・天理市)、菅原伏見西陵(奈良市)。父は允恭、母は忍坂大中媛、皇后は履中皇女あるいは允恭皇女の中莘媛なかしひめ。倭の五王の「興」とされる。亡父が安康に殺されたことを知った皇后の連れ子の仁徳の孫にあたる眉輪まよわ王に刺殺された。水野祐は、安康ではなく、その兄である木梨軽皇子が大王位についたとする。

 第21代 雄略ゆうりゃく:オオハツセノ・ワカタケル、泊瀬はつせ朝倉宮(奈良・桜井市)、丹比たじひ高鷲原陵(大阪・羽曳野市)。允恭の第5皇子で、安康の弟、母は忍坂大中媛、皇后は草香幡梭媛くさかのはたびひめまたの名は橘媛たちばなひめ、妃は葛城韓媛かつらぎのからひめ吉備稚媛きびのわかひめ眉輪まよわ王と同母兄の二人を殺し、さらに履中皇子の市辺押磐いちべのおしわ王とその弟も殺害して即位した。埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に、治天下のワカタケル大王とある。葛城氏の本宗家を滅ぼし、吉備を屈服させた。さらに武力と政略結婚により各地の豪族たちを従えた。倭の五王の「武」とされる。倭王武は478年に宋に遣使し安東大将軍に任ぜられた。5世紀後葉の雄略期の日本列島規模の政治的変動期が朝鮮半島の加耶の政治中核が南部の金官加耶から北部の大加耶に移動する時期と対応している。日本書記によれば、雄略以前は年二回の春秋年であった。また、万葉集や日本霊異記にほんりょういきなどは雄略から始まるため古代における区切りの時代ともされる。


 河内王権は巨大古墳を造営したことに特色があるが、今の天皇陵は明治初年に指定され、宮内庁によって管理されている。天皇陵古墳を終生の研究テーマとしていた森浩一は、“巨大古墳とは、その多くが天皇陵古墳になっていて、我々が一歩たりとも墳丘に入って観察することが許されない皇室の私的な陵墓なのである。さらに、天皇陵古墳の研究は一般人が行えるものではない。また、天皇陵古墳の被葬者の割り出しは必ずしも的確とはいえない。間違っているとしか言えないものも少なくはないし、そうでない場合も宮内庁の治定じじょうでよいとすることを傍証できる場合も多くはない”、と述べている。一般人とは考古学者も含めてという意味である。


 発掘どころか、墳丘の様子を目で観察することすらできない天皇陵古墳の割り出しの難しさのなかで、過去の盗掘の記録に頼って、その年代を推定したのが、日本列島最大の古墳、大山だいせん古墳である。そのいきさつを森浩一は次のように述べている。

“明治5年(1872年)、堺県令で元薩摩藩士だった税所篤が、大山古墳が鳥の巣となり、糞でよごれているので、その清掃を口実に発掘している。そのときの様子を伝える旧堺の岡村家文書がある。そこには石室の平面図と石棺の断面図、それと石室の位置を示す墳丘の断面図と甲冑や硝子がらす杯など遺物についての文書がある。そのうちの甲冑の現物は石室に埋め戻したという。アメリカのボストン美術館に、仁徳陵出土とされている銅鏡一面と環頭大刀の柄の部分が伝えられている。さらに三環鈴や馬鐸ばたくも所有している。これらの遺物の入手経路やその事情を伝える記録は残っておらず、1908年に館蔵品になったことが分かるだけである。白銅鏡と3個の鈴のついた環鈴、二つの馬鐸、それに環頭大刀の柄を明治25年(1892年)に売りにきた百舌鳥もず村の老人の話が雑誌「考古学」に載っている。それら遺物が写っている写真はボストン美術館のものと同一であることから、その老人がそれらを一括して和泉の神社の神官に売った。その後、京都の古美術商が買い受けた後、ボストン美術館に入ったようだが、真相はわかっていない。” 

しかし、これらの限られた遺物からだけでも、その造営年代は5世紀末あるいはそれ以降と推定できるという。


 この一例をみても、陵墓指定墓や陵墓参考地を調査できない考古学者の苛立ちがよく分かる。したがって、記紀の記述に頼るしかないが、その記紀は7世紀初頭の成立であり、記紀のもとになった「帝紀」「旧辞」は、古くても5世紀後半の雄略期をさかのぼることは困難であり、おそらく6世紀中葉の欽明期に日本書紀につながる帝紀(大王の系譜)や旧辞(物語や歌謡)が取りまとめられ始めたと考えられている。河内王権の巨大古墳の時代は4世紀初頭から4世紀後葉までである。文字による記録がまだ存在していなかった4世紀のことを、記紀が正しく記載しているとは考え難い。


 第22話「景行一族による北部九州から近畿への東征」で、代表的な前期古墳(3世紀後葉~4世紀後葉)と中期古墳(4世紀後葉~5世紀後葉)を見てきたが、前期古墳は主に崇神の三輪王権の墳墓であり、中期古墳は主に応神と仁徳の河内王権の墳墓である。

前にも述べたが、古代の河内は今の大阪府全体に兵庫県の神戸や西宮など大阪湾沿岸部を加えた地域に相当する。また、当時は河内湖と呼ばれる大きな湖が難波から生駒山地のふもとまで達していた。河内王権の巨大墳墓はその河内のほぼ中央に位置する古市ふるいち古墳群と百舌鳥もず古墳群にある。東にあるのが古市古墳群で、西にあるのが百舌鳥古墳群である。これは広範囲の一大墓地域があらかじめ設定され、その内部で次々に古墳が造営され、6世紀後葉に両古墳群のほぼ中央の空白部に河内大塚古墳(335メートル)を造営して約200年におよんだこの大墓地域での造墓活動が終わったと考えられている。倭の五王をどの大王にあてるかの問題は別にして、それらの倭王の大部分が古市古墳群か百舌鳥古墳群の巨大古墳に葬られているのは確かである。


 森浩一は、河内王権の大王の墓について、築造年代順は、誉田山こんだやま古墳(425メートル)-> 上石津かみいしづミサンザイ古墳(365メートル)-> 大山だいせん古墳(486メートル)であるという。 

一方、直木孝次郎は、“河内の巨大古墳の築造順序は、仲津山なかつやま古墳(290メートル) -> 上石津かみいしづミサンザイ古墳 -> 誉田山こんだやま古墳 -> 大山だいせん古墳である。もう一つ、土師はぜニサンザイ(290メートル)も大王陵の候補であるとすると5つある。古墳時代中期中葉(5世紀中葉)を過ぎるころから古墳の巨大化の流れは止まり、古墳は逆に縮小する。これは允恭いんぎょうの本拠地が河内から大和へ移った時期に合致する”、と述べている。 

このように、森・直木という古代史の大家でさえ、意見が分かれているが、ここでは天皇陵古墳を終生の研究テーマとしていた森浩一の説をとることにする。森浩一は大王の墓を次のように推定している。


応神おうじん

古市古墳群の誉田山こんだやま古墳(425メートル:(伝)応神天皇陵)。その陪塚のアリ山古墳からは、箱に入っていたとみられる武器や農具や工具がまとまって出土した。鉄刀が77本、鉄やじりが1,542本もあった。鉄鏃のうち2割強が二段逆刺鉄鏃で、それは南九州の隼人はやと特有の鏃で、応神の妃となる髪長媛かみながひめの父は日向の諸県君もろあがたのきみ牛諸井うしもろいである。応神勢力の九州からの東進に関係しそうな遺物である。したがって、(伝)応神天皇陵のままでよいとする。

仁徳にんとく

仁徳陵が石津原にあったとする伝承から、百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳(365メートル:(伝)履中陵)が仁徳陵の有力候補となる。その陪塚の七観古墳からは、刀剣200口以上・甲冑10領以上・その他鉄やじりなどとともに馬具も出土した。百舌鳥古墳群の中の巨大前方後円墳として最初に造営されたのは上石津ミサンザイ古墳であるが、最も古い古墳は石津遺跡の隣接地の乳岡ちのおか古墳(150メートル)である。石津原には上石津ミサンザイ古墳(365メートル)と百舌鳥大塚山古墳(168メートル)の2基がある。上石津ミサンザイ古墳が大王墓ならば、大塚山古墳はその縁者または近臣の古墳と推定される。

履中りちゅう

堺市の百舌鳥もずにある土師はぜニサンザイ(290メートル:(伝)反正天皇陵)は倭の五王の一人の墓と考えられ、履中陵を百舌鳥古墳群で求めるとしたら、土師はぜニサンザイ古墳しかない。

反正はんぜい

反正の推定される都は、大和・難波・大津の三方向からの交通の要衝に当るところで、それは百舌鳥もずの地であり、陵墓もそこにあるとすれば、田出井山いでいやま古墳(148メートル)と考えられる。

允恭いんぎょう

大山だいせん古墳の造営年代は5世紀後葉あるいはそれ以降と推定され、その被葬者は允恭か、もう少し後の雄略が候補となる。允恭の墓は、百舌鳥古墳群の大山だいせん古墳(486メートル:(伝)仁徳天皇陵)、あるいは市野山古墳(230メートル:(伝)允恭陵)と思われる。

安康あんこう

安康の墓は大和にあると伝えられている。奈良県の佐紀丘陵の南西に宝来山ほうらいさん古墳(227メートル)がある。この古墳は前期古墳(3世紀後葉~4世紀後葉)の(伝)垂仁陵とされているが、中期古墳(4世紀後葉~5世紀後葉)であることが分かっている。このことから現在では安康の真の墓陵と考えられている。

雄略ゆうりゃく

現在、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間の、やや古市よりの河内大塚古墳(335メートル)が真の墓陵と考えられているが、それは6世紀後葉の第30代敏達びだつ陵の方がふさわしい。そうなると、百舌鳥古墳群の大山だいせん古墳(486メートル:(伝)仁徳天皇陵)が有力ということになる。


 さらに、森浩一は、“古市古墳群に最初にできた巨大古墳は津堂城山古墳(208メートル)である。これを造営したのは、神功東征の時に敗れた忍熊おしくま王と考える。また、古市古墳群の市野山古墳(230メートル:(伝)允恭陵)の二基の陪塚が九州産の石材を使った古式の家形石棺に葬られていることは重要である。古式の家形石棺はの国(熊本)で舟形石棺からの変遷がたどれる。おそらく、肥国ひのくに(熊本)出身の有力な武将の墓かもしれない。あるいは、悲惨な死を遂げた父、市辺いちべ王の墓を第23代顕宗けんぞうが即位した後に造営したとみることもできる”、とも述べて、河内王権成立前の忍熊おしくま王や、神功皇后の東征に参加した肥国ひのくに(熊本)の有力な武将にまで言及している。


 森浩一はこのように推定しているが、これらの古墳はすべて陵墓や陵墓参考地に治定じじょうされており、現在、発掘できない状況にある。将来、発掘により考古学的な検証がなされ、記紀の伝承と照らし合わせることができるようになるまで、その被葬者については推測の域をでない。発掘が実現されれば、応神と仁徳が同一人物かどうかも分かるようになるかもしれない。


[日本列島の10大前方後円墳(河内が6基、大和が2基、吉備が2基)]

1.大山だいせん古墳(486メートル):河内の百舌鳥もず

2.誉田山こんだやま古墳(425メートル):河内の古市ふるいち

3.上石津ミサンザイ古墳(365メートル):河内の百舌鳥もず

4.造山つくりやま古墳(360メートル):吉備の岡山県総社市

5.河内大塚古墳(335メートル):河内の百舌鳥もず古市ふるいちの間

6.見瀬丸山古墳(318メートル):奈良県最大の古墳で、橿原市。中期古墳ではなく、6世紀後葉の後期古墳。

7.渋谷向山古墳(310メートル):奈良県天理市。中期古墳ではなく、4世紀中葉の前期古墳。

8.土師はぜニサンザイ古墳(290メートル):河内の百舌鳥もず

9.仲津山なかつやま古墳(290メートル):河内の古市ふるいち

10.作山つくりやま古墳(286メートル):吉備の岡山県総社市


 5世紀には古墳の内容だけでなく、様々な文化の面でも大きな変化が現れた。5世紀は日本列島における技術革新の世紀とも呼ばれる。須恵器や鉄器などの手工業生産、金工技術、馬匹ばひつ生産、土木、生活様式に至るまで、様々な文化が朝鮮半島から導入された。そこには当然かなりの数の人の朝鮮半島南部からの移住が伴っていたはずである。先住の畿内およびその周辺地域の人びとはそれを受け入れ、取捨選択しながら自らのものとしていったと思われる。豪族の住居は大規模化し、多様な機能を備えて一般民衆の家から隔絶した特徴を持つようになり、朝鮮半島からは新しい鉄製農具が伝来して乾田農法が始まり、乾いた土地まで耕地開発が進んだ。大阪市上町うえまち台地の法円坂遺跡からは90平方メートルにおよぶ5世紀中ごろの巨大高床倉庫16棟が整然と並んで発見された。巨大倉庫には米・塩・兵器などが収納されていたと思われる。庶民の生活文化も大きく変わった。造り付けカマドを持つ竪穴住居が定着し、米を炊く方法も、かめで煮る方法から朝鮮半島伝来のカマドやこしきを使用して蒸す方法に代わるなど、衣食住にわたって新しい生活様式が始まった。このような変化は明らかに当時の緊迫した朝鮮半島情勢を受けてのものである。342年にえんに大敗し、王都である鴨緑江中流北岸の丸都がんと(国内城)を焼き払われた高句麗は、4世紀後半になって南の諸国に対し攻勢を強めていた。朝鮮半島の西側では百済が高句麗と激しく衝突し、その東側では斯廬しろ(後の新羅)が高句麗と結び、さらにその南方の南部加耶に圧力をかけ始めた。このため敵を同じくした百済と南部加耶諸国が結びつき、南部加耶の鉄に依存する日本列島の倭国もその混乱の中に引き込まれていった。


 5世紀の鉄は朝鮮半島東南部から鉄鋌てっていと呼ばれる板状鉄の形で入手されていた。鉄鋌の形は加耶のものと同様で、そのことは科学的な材質分析からも裏付けられている。鉄鋌は5世紀の古墳を中心に千数百枚発見されており、その90%が近畿中央部(河内・大和)に集中する。河内王権がいかに大量の鉄素材を入手し、保有していたかを物語っている。 

近畿中央部では鍛冶具を副葬した例も多く、大規模な鉄器生産遺跡も多い。例えば、大阪府柏原市大県おおあがた遺跡、石上いそのかみ神宮付近の天理市布留ふる遺跡、葛城氏が掌握していた奈良県御所ごせ南郷なんごう遺跡などである。鉄製甲冑・刀剣・矛・やじりなどの鉄製武器類も量産されており、その多くは大王墓の倍塚に副葬されていた。河内王権は独占的に入手した加耶の鉄を使って、渡来系鍛冶集団を掌握して鉄製武器・甲冑の集中生産を行い、それを中央豪族や地方豪族へ供給・配布する権限を掌握していた。戦略物資である鉄素材の鉄鋌てっていと鍛冶技術は河内王権の支配者たちが組織的に加耶から持ち込んだと考えられる。それは第12代の景行から始まり、第18代の反正にまで続く「ワケ・タラシ」系の大王たちが、加耶から北部九州(筑紫)・中九州(肥後と日向)・周防を経て瀬戸内地方、そして河内・大和までをほぼ掌握したことを物語る。

 

 百済や加耶は、製陶や金属工芸技術などの先進技術を発展させており、4世紀末から6世紀前半にかけて、それらの製品や鉄鋌てっていとともに、多くの技術者が日本列島に渡来してきた。渡来氏族は、日本列島の倭王権やそれを構成する有力首長層の支配化に入って、政治や外交、経済、文筆や新知識、鉄器や須恵器すえきの生産、馬の飼育など多方面にわたって活躍した。5世紀後半から6世紀前半の加耶では前方後円墳が現れ、日本列島の倭王権から百済や中国南朝へのルート上にある朝鮮半島南西部では倭系の滑石製祭器が多量に出土している。5世紀の倭の五王という時代は、日本列島の倭王権が百済や加耶との緊密な交流を通じて、新文化を展開させ、国家形成を大きく進めた画期的な時代であった。


 畿内での4世紀の三輪王権と5世紀の河内王権の違いは古墳の副葬品にもでている。

4世紀の三輪王権の古墳からは、三角縁神獣鏡を中心にした大型銅鏡や鍬形石くわがたいし車輪石しゃりんせき石釧いしくしろなどと呼ばれる碧玉製腕輪あるいは腕輪型宝器など、いわば呪術的な品物が重視された副葬品が出土している。 

5世紀の河内王権の古墳からは、鏡類よりも実用的な鉄製の武器・甲冑・馬具、鉄製の農具などが多く出土し、古墳の副葬品や埋納品が激変している。さらに金製品や金色に対する愛好が急激に現れる。つまり巨大古墳の被葬者たちは、4世紀の大和の豪族とは系統を異にする軍事的な色合いが濃厚な種族であり、朝鮮半島も含めた東北アジアの騎馬文化の強烈な影響を受けていることは否定できない。


 さいこうの各倭王は、加耶・百済との連携強化と宋の支持を背景に、有力首長を押さえ込みながら、倭王が持つ対外的優位性を、より直接的に渡来系技術や文化の、集中・編成・再生産に使うようになった。倭王権の工房が配置された大阪湾沿岸部は、倭王権が瀬戸内海と通じるための重要な港があった所で、倭王権と西日本・朝鮮半島とを結ぶ重要な場所であった。したがって、5世紀の倭王権は、多くの渡来人を投入し、積極的にこの地を開発し続けた。巨大古墳が造営されていた当時の河内は、大土木工事の世紀であった。それは、運河と排水の両目的をもった作り川や河内湖周辺での築堤などが主要な内容であるが、なかでも5世紀後半に淀川河口部に広がる河内湖周辺の治水と、河内湖の水を大阪湾に流す「堀江」の掘削に成功した意味は大きく、近畿の諸地域は諸河川伝いに「堀江」付近に設けられた港(難波津なにわつ)を通って瀬戸内海へ出ることが容易になった。河内に渡来系技能者を集約し、その生産物を倭国内の首長層に分配し、朝鮮半島に運ぶ場合にも、難波津は地政学的要地になりえたのである。独自に加耶諸国と外交・交易を行った倭国内の大首長のいくつかが、その舵取りを誤り、勢力を弱める一方、河内王権の大王へ結集する動きを強める首長層は増え続けていったのである。5世紀後半の倭王権が倭国の混迷時代を切り抜け、その影響力を伸ばした背景には、このような事情が横たわっていた。そしてこれ以降、大和だけでなく、倭王権の工房が集中する河内にも拠点を築いた物部氏や大伴氏などが急成長を遂げた。


[土木技術]

 古墳時代前期末(4世紀後葉)ごろに新たな古墳構築技術が出現する。長さ30センチ程度・厚さ約10センチ程度の土嚢あるいは土塊を面的ないしは列状に積み重ねる構築技術である。最古の例は4世紀末の大阪府藤井寺市津堂城山古墳の外堤・内堤である。以降、古市・百舌鳥古墳群で継続的に用いられた。また、広島県東広島市三ッ城古墳1号墳など各地で卓越する古墳時代中期の大型前方後円墳にも採用された。

 古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)以降、土嚢・土塊積み技術が古墳や各種土木構築物に採用された。古墳の墳丘斜面が急角度化するのも、こうした技術の採用にともなうものと考えられる。

 古墳終末期の6世紀末には、百済の版築技術が飛鳥寺の基壇に導入された。以降、牽牛子塚けんごしづか古墳(斉明天皇陵)・高松塚古墳・キトラ古墳などの終末期古墳(7世紀中葉~後葉)にも用いられた。また、百済からは、土との摩擦力を高めるために草木・樹皮などを挟む盛土補強工法で城壁や堤、低湿地の道路、など堅牢性が要求される構造物に用いられた敷葉工法と呼ばれる工法も導入された。


[渡来系武装具]

古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)古墳から出土する外来系武装具としては、鉄やじり胡簶ころく(鏃を下向きに収納する金銅の金具で飾った容器)、環頭大刀、鉄ほこ、縦長板かぶと小札こざねよろいなどがある。これらの武装具は日本列島各地の首長や有力者の墓からの出土品が多く、倭王権が流通に関与した威信財としての性格が強いが、自らが加耶から携えてきた武器が含まれている可能性もある。これらの武器や埋葬施設が出土する朝鮮半島系の古墳は、奈良県の南山4号墳、大阪府の高井田山古墳、兵庫県の宮山古墳・カンス塚古墳、和歌山県の椒古墳、岡山県の天狗山古墳・勝負砂古墳、香川県の原間6号墳、などである。

朝鮮半島における代表的な武器・武具としては次のものがある。

・朝鮮半島東南部(加耶・新羅): 初期の胡簶ころく・縦長板冑・小札甲

・朝鮮半島中西部(百済): 銀装素環頭大刀


[渡来系集団の集落や墓地]

これらの集落や墓地からは、武装具・馬具などは渡来系ではあるが、やじりや鉄剣・大刀などの倭系や倭・韓共通形式武器も併せて出土している。また、鍛冶や馬匹ばひつ生産の拠点もある。古墳時代中期に定着する馬匹生産は、渡来人の馬飼集団によってもたらされた。馬の前身骨格が出土し、「河内の馬飼」との関連も想定される大阪府の蔀屋しとみや北遺跡周辺から多数の朝鮮半島系考古資料が出土していることは、そのことを如実に示す。一方で、出土馬具の分析からは、牧周辺での馬具製作に在来の木工が関わっていた形跡がうかがえる。渡来人と在来の倭人が協業することによって日本列島最初の馬匹ばひつ生産は軌道に乗ったといえる。5世紀を中心とした奈良盆地西南部の南郷遺跡群はヤマト王権を構成した豪族である葛城氏の本拠地である。集落内では朝鮮半島西南部地域を中心とした渡来系集団が主導し、鉄器生産や金銅製品の生産が行われた。これらは権力の源泉であった。

渡来系武装具・馬具が出土した古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)の代表的な遺跡は、大阪府の蔀屋しとみや北遺跡(朝鮮半島南西部)、奈良盆地西南部の御所市の南郷なんごう遺跡群、岡山県総社市の窪木薬師くぼきやくし遺跡、福岡県南部の朝倉地域の池の上・古寺・堤蓮町墳墓群、静岡県二本ヶ谷積石塚群、などである。


[5世紀に活躍した海人あま族]

日本書紀の仁徳紀から武烈紀までの5世紀代には、九州に関する記事はほとんど出てこない。その数少ない記事に阿曇あずみ(安曇)と胸形むなかた(宗像)がある。彼らは海人あま族である。

5世紀の初頭の仁徳の時代においては阿曇一族が瀬戸内海の海運を担っていたようである。ところが仁徳が死ぬと、履中に背いた、しかし目のふちに入れ墨をされただけで許されている。この入れ墨は阿曇(安曇)一族の特徴的な風習である。これは仁徳系と履中系の対立を象徴し、履中の背後には胸形(宗像)がついていたと思われる。つまり、瀬戸内海の制海権は阿曇(安曇)に帰したとしても、沖ノ島経由の朝鮮半島航路は胸形(宗像)が握っていたと思われる。つまり、履中の時代に入ると、ヤマト王権が胸形(宗像)を配下に置いたともいえる。胸形(宗像)は朝鮮語で「水方」の意である。また、胸形(宗像)は玄界灘を通じて出雲とも結ばれていたと推測され、宗像三神は新羅系の流れをくむ神々である。一方、阿曇(安曇)一族の神々は神話のワタツミ三神であり、この三神は神功皇后紀に登場することから息長おきなが氏との関係も深い加耶系の神々である。


 ところで、4世紀後葉、神功皇后・武内宿禰によって、北部九州を中心とした倭国が畿内へ東征した後の伊都いと国・国は誰の支配下にあったのだろうか? それは筑後川左岸の三井みい郡・八女やめ郡・山門やまと郡を勢力としていた水間君みずまのきみと思われる。その勢力は玄界灘沿岸にまで及んでいたとみられる。479年に百済の昆支こにき王の第二皇子の牟大むだい、またの名は末多またを筑紫の兵士500名と共に帰国させ、牟大は帰国後、東城王に即位している。この時の兵士は筑紫の馬飼臣と安致臣あちのおみと推定され、そのまま高句麗との戦争に突入している。この時期の百済は政情が極めて不安定で、百済国王の地位に対して倭国王の力が強く働いていたと考えられる。安致臣は筑紫の物部系氏族である。5世紀後半から6世紀初頭にかけての北部九州は、水間みずま君や安致あち臣などの物部系の勢力が牛耳っていた。ヤマト王権は物部氏の力を通してそれらの諸氏族の一部を掌握していたものと推測される。継体期における527年の筑紫国造くにのみやつこ磐井いわいの叛乱と、その叛乱をヤマト王権が大連物部麁鹿火あらかいを大将として鎮圧したこととは関連があると思われる。水間みずま君や安致あち臣などは、380年代に木羅斤資もくらこんし(=武内宿禰)とオキナガタラシヒメ(神功皇后)が筑後川流域を征服して北部九州を制圧して以来の彼らの腹心の部下の後裔であったと推測される。したがって、応神・仁徳による河内王権に服属していたはずである。


 河内王権の仁徳による河内(大阪平野)の開拓が進展し、仁徳に続く履中と反正の時代は天下太平であったと伝えられる。しかし、イザホワケ(履中)即位の際には、墨江中すみのえなか王による叛乱が起き、履中は河内から大和へ逃げたと記紀に伝えられる。その墨江中王を殺害して叛乱を終了させたのがミズハワケ(反正)であった。

記紀では履中と反正は兄弟とある。宋書でも、倭の五王の「讃」と「珍」は兄弟であることから、履中が「讃」という説が出ている。梁書では「珍」はなく「彌」とあるが、ここでも「讃」と「彌」は兄弟となっている。一方、崩御年の干支の分析からは、「讃」は仁徳であるという説は動かないようだ。もしそうであれば、仁徳と履中は兄弟となる。記紀では履中と反正は兄弟とされるので、仁徳・履中・反正は皆兄弟ということになる。応神は複数の妃との間に多くの皇子女をもうけた(古事記には27人、日本書紀には19人)とあることを考慮すれば、仁徳と履中・反正は歳の離れた兄弟であってもおかしくはない。反正が墨江中王を殺害して叛乱を終了させて河内を支配し、大和へ逃れた履中が大和を支配したという、二人の王による並立説が事実とすれば、河内という朝鮮半島との交通の要所を押さえた反正が「珍」ということになる。次の允恭が「済」という説は確実とされているが、ここで、鈴木武樹の「葛城氏と允恭による大王位簒奪説」を取り上げてみる。


 鈴木武樹は、“履中と反正は大和の磐余いわれと河内で両立していたが、この二人は時を同じくして殺され、その後に允恭が大王位についたと考えられる。本来、允恭は履中・反正の長兄であったという伝承がある。オアサツマ・ワクゴノスクネの「アサツマ」は葛城郡朝津間を指す。新撰姓名録によれば、この朝津間は弓月の君が朝鮮半島南部の120のこおりの民草(民衆)を率いて移住してきた所である。おそらくは百済・加耶系の開拓者たちが開いた土地と見られる。母は葛城襲津彦の娘・磐之媛いわのひめである。一方、履中・反正の生まれには疑問が残る。そのため、葛城氏は履中が死ぬと、反正を倒し、允恭を大王位に就けたと推測できる”、という。 

 また、「宋書」では、讃と珍は兄弟、済と興とは父子とするが、珍と済との血縁関係は記していないことから、二人は血縁上の近いつながりはなかったと考え、二人を兄弟とする記紀の記載は後代の作為とする説が有力である。さらに、反正死後、允恭が即位するまで3年間の皇位空白状態が生じており、允恭は本拠地も河内から大和の飛鳥あすかに移している。これらのことから、第12代の景行から続いた「ワケ・タラシ」系の直系の大王は第18代の反正で終わり、第19代允恭からは同じ「ワケ・タラシ」系でも、より葛城色の強い大王となったと考えられる。

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