第26話 葛城襲津彦と葛城氏、そして河内王権の成立

 記紀によれば、武内宿禰たけのうちのすくね葛城かつらぎ氏・波多はた氏・許勢こせ氏・蘇我そが氏・平群へぐり氏・きの氏・久米くめ氏ら大王家を構成した有力豪族の祖とされる。その中で、4世紀末から5世紀後半にかけて、最も有力だったのが葛城氏である。葛城は大和のかずらの地を本拠とする氏(きの氏)と考えられる。その「紀氏家牒きのしかちょう」によれば、葛城襲津彦は武内宿禰の子であるとしている。


 その葛城氏の本拠地であった奈良盆地の西南部の馬見うまみ古墳群に武内宿禰の墓と伝承される「室墓むろはか」と目される室宮山むろのみややま古墳がある。その古墳の被葬者は武内宿禰の子の葛城襲津彦との説もあるが、その築造年代は4世紀末とされ、年代的にも武内宿禰の活躍時期の最後に合致する。14世紀に成立した「帝王編年記」の仁徳紀に、武内宿禰の墓は室破賀むろはか(室墓)と呼ばれ、むろの地にあったとみなされていた。日本書紀・允恭いんぎょう紀に襲津彦の孫の玉田宿禰が反正はんぜいもがりを担当しながら、それを行うことを怠り、允恭が視察に派遣した使者の尾張連吾襲おさを殺害し、武内宿禰の墓に逃げ隠れたとある。このことから、武内宿禰の墓が実在したとすれば、それは馬見丘陵の東丘陵に4世紀後半に築造された巣山すやま古墳であると推定する小笠原好彦(滋賀大学名誉教授)の説がある。 

 それによると、“巣山すやま古墳(220メートル)は馬見丘陵に築造された中で、初めて200メートルを超えた有力首長墓である。しかも、この古墳周辺にはくつかの前方後円墳や帆立貝式古墳が集中して築造されている。三吉二号墳(90メートルの帆立貝式古墳)、ナガレ山古墳(105メートルの前方後円墳)、佐味田さみだ狐塚古墳(85メートルの帆立貝式古墳)、倉塚古墳(180メートルの前方後円墳)、一本松古墳(130メートルの前方後円墳)、さらにその北には乙女山古墳(130メートルの帆立貝式古墳)がある。このように巣山古墳の周辺に築造された3基の前方後円墳と3基の帆立貝式古墳を理解すると、ここには巣山古墳を中心に、極めて重要な同族関係もしくは擬制的な同族関係が示されているものとみなされる。巣山古墳が築山つきやま古墳(210メートル)より先に築造された有力首長慕であるとすると、葛城襲津彦に先立つ有力首長である。それは武内宿禰と考えられる。武内宿禰を同祖とする氏族のうち、波多氏・許勢氏・蘇我氏・平群氏・葛城氏らはいずれも大和盆地の西南部から南部地域を本拠とする有力氏族である。巣山古墳は武内宿禰が埋葬された首長墳であり、周辺に築造された首長墳は、武内宿禰と同族的あるいは擬制的な同族関係が成立した葛城氏の本拠周辺を本貫とする波多氏以下の氏族の有力首長が埋葬された首長墳とみなされる”、という。

 古墳からの出土物から判断すると、葛城氏以下これらの豪族は明らかに渡来系である。古墳の推定年代には数十年の幅があり、武内宿禰の墓が「室墓」とされる室宮山古墳(240メートル)か、あるいは巣山古墳か確定できないが、奈良盆地の西南部の馬見の地が武内宿禰一族の中で最も有力であった葛城氏の本拠地であったことは事実である。


馬見うまみ古墳群]

奈良盆地の西南部にある葛城氏の本拠地。大和の三輪と河内の中間に位置する。新山しんやま古墳から出土した三葉文系帯金具は4世紀の中国のしんの腰帯の部品であり、加耶を経て伝わったと推定される。4世紀前半の秋津遺跡と中西遺跡から大規模な掘立柱建物群が発見され、葛城氏に先行する地域集団の拠点の可能性がある。この地は河内および紀伊への要衝である。さらに、この両遺跡の下からは弥生時代前期の大規模な水田跡も確認された。広大な水田の存在は農業生産力の高さを示している。

<4世紀前半>

新山しんやま古墳(馬見うまみ南にある127メートルの前方後方墳):

原初的な長持形石棺を納めた竪穴式石室、直弧文鏡3面を含む34面の銅鏡・中国晋代の金銅製帯金具・玉類・腕輪型石製品・鉄製武器などが出土していることから、被葬者は朝鮮半島とかかわりのある武将と思われる。

<4世紀後半>

島の山古墳(馬見北にある190メートルの前方後円墳):

大量の腕輪型石製品が出土。粘土槨の中に割竹形木棺がある。首飾りや手玉が装着状態で出土し、武器・武具が見られないことから前方部の被葬者は女性と推定される。葛城氏の本拠地に築造されていることから、葛城氏にかかわる人物の墓と想定される。

巣山すやま古墳(馬見中央にある220メートルの前方後円墳):

周濠と外堤がある、玉類・腕輪型石製品が出土。周濠から準構造船の竪板と舷側板が出土。この古墳周辺にはいくつかの前方後円墳や帆立貝式古墳が集中して築造されていることから、古事記に記された波多はた氏・許勢こせ氏・蘇賀そが氏・平群へぐり氏・きの氏・葛城かつらぎ氏・久米くめ氏・怒能のの氏、これらの豪族の祖とされる武内宿禰の墓であると小笠原好彦は推定する。

佐味田さみだ宝塚古墳(馬見中央にある111メートルの前報後円墳):

粘土槨内に木棺、木棺底板上に鏡36面・鍬形石1個・石釧1個・銅鏃4個・巴形銅器1個・石製刀子34個・勾玉13個・管玉19個などが副葬されていた。銅鏡には四神四獣鏡などとともに仿製の家屋文鏡が含まれ、高床建物・平地建物・高床倉庫・竪穴住居の四種の建物が表現され他の例がないものである。このモデルは中国の屋舎人物画像鏡と考えられる。これらの副葬品から、被葬者は大王家と深いかかわりを持つ人物と推定される。

<4世紀後葉>

築山つきやま古墳(馬見南にある210メートルの前方後円墳):

周濠を持ち、墳丘には円筒埴輪が並んでいた。陵墓参考地なので詳細は分からない。

<4世紀末>

室宮山むろのみややま古墳(葛城南部にある240メートルの前方後円墳):

葛城地域最大、石室に長持形石棺、11面以上の銅鏡・玉類・鉄製の武器武具、石室の上部から壮大な家形埴輪群とそれを囲むゆき・盾・短甲・きぬがさなどの埴輪、加耶の舟形陶質土器が出土。陶質土器の副葬は朝鮮半島では多くみられる。被葬者は朝鮮半島南部地域とのつながりが深い。陪塚的な猫塚古墳(70メートルの方墳)もある。武内宿禰の「室墓」という伝承がある。しかし、応神と同時代の葛城襲津彦そつひこの墓という説もある。

<5世紀初頭>

乙女山古墳(馬見中央にある130メートルの帆立貝式古墳):

宮崎の西都原古墳群の男狭穂塚おさほづか古墳(176メートル)とともに帆立貝式古墳では最大規模を誇る。

新木山にきやま古墳(200メートルの前方後円墳):

巣山のすぐ西南に位置し、そのすぐ西には、倍塚の三吉石塚みつよしいしづか古墳(45メートルの帆立買式古墳)がある。陵墓参考地なので詳細は分からない。


ここで、日本書紀と三国史記における葛城襲津彦かつらぎそつひこに関係する記載を時系列で並べて、その活動を確認してみる。


<382年(神功62年)>

前話の第25話「木羅斤資もくらこんし木満致もくまんち父子、そして武内宿禰とは誰か?」でも述べたが、日本書紀、神功62年に引用する「百済記」によれば、壬午の年(382年)に新羅が貴国(倭国)に朝貢しなかったので、沙至比跪さちひこを派遣して新羅を討たせることにしたが、新羅は美しい女を二人飾り立てて沙至比跪を港に出迎えた。沙至比跪はその美女を受け入れて、かえって加羅(大加耶)を討った。派遣された木羅斤資は軍勢を率いて加羅(大加耶)に集結させて加羅(大加耶)の国を復興した、とある。 

一方、同じ神功62年に、襲津彦そつひこを派遣してに新羅を討たせたとある。日本書紀、神功62年の記事では、沙至比跪と葛城襲津彦とを同一視している。しかし、木羅斤資は沙至比跪を討って加羅の国(大加耶)を復興させており、木羅斤資と沙至比跪は競合関係にあった。また、木羅斤資と武内宿禰の活躍時期は同じで、二人は同一人物であると推定され、葛城襲津彦は武内宿禰の子の一人である。

これらのことから、壬午の年(382年)の沙至比跪さちひこと、次の403年から418年に登場する襲津彦とは別人と思われる。

<403年(応神14年)>

百済から渡来した弓月の君ゆつきのきみはた氏の祖)は、120のこおりの民草(民衆)を招くために襲津彦を加羅に遣わした。しかし、3年経っても襲津彦は帰国しなかった。

<405年(応神16年)>

平群木菟へぐりのつく宿禰・的戸田いくはのとだ宿禰らを加羅に遣わして新羅を破り、弓月の君の民草(民衆)と共に襲津彦を帰還させた。いくはは福岡県浮羽うきは郡の旧名である。

<418年(三国史記)>

新羅の訥祇ぬるち王2年(418年)に、「未斯欣みしくむが倭国から逃げ戻ってきた」、とある。

三国史記新羅本記に、新羅(当時は斯廬)は倭国と国交を結び、奈勿なむる王(在位356年~402年)の王子未斯欣みしくむを「質」とした(402年)とある。また、三国遺事には新羅は390年にも王子の未叱喜みしきを倭国に「質」として送っているとある。この時期、新羅は倭国にだけでなく、高句麗にも実聖じつせいを「質」として送っている(392年)。実聖は401年に帰国し、奈勿王が薨去したとき、その子が幼少であったので即位した(在位402年~417年)。また、奈勿王の王子卜好ぼくこうを高句麗に「質」として送っている(412年)。このように新羅は4世紀後葉から5世紀前葉にかけて、高句麗や倭国に「質」を送り、その圧力を緩和する外交を展開していた。そのような状況下にあって、未斯欣は新羅の金堤上きむとまらの計略により倭国の人質から脱出した。そのとき金堤上に裏をかかれたのは葛城襲津彦である。 

日本書紀(神功5年)に、「新羅の使者3人が倭国に来て、人質になっていた微叱許智伐旱みしこちほっかん(=未斯欣みしくむ)をしばらく本土に帰らせてほしいと願いでたので、葛城襲津彦を付き添わせて新羅に向かわせた。ところが、対馬の水門みなとに泊まっていたとき、新羅の使者らはひそかに船と水手かこを配して、微叱許智みしこちを逃れさせた。そうして人形を造って、微叱許智みしこちの床に置いて、偽って病気をしているように見せかけた。襲津彦は欺かれたことを知って、新羅の使者3人を殺した。そうして新羅へ行き、蹈鞴津たたらのつ(釜山の南の多大浦)を拠点に、(金堤上の勢力圏であった)新羅の草羅さわら城(今の蔚山うるさん近辺)を抜いて(攻め落として)、帰還した」、とある。この時に俘人とりことして連れ帰ったのが、大和の葛城地域の忍海・桑原・高宮・朝妻の四邑の漢人あやひとの租である。そこには5世紀を中心とした南郷遺跡群がある。

この418年の記事は、日本書紀の神功皇后5年が応神期の後になるというように、年代に矛盾が生じている。三国史記の年代は正しいと考えられているので、日本書紀の方に混乱があることになる。 

 

 葛城襲津彦に関する日本書紀の記事の大半は加耶での出来事である。 

それについて、松本清張は、“日本書紀では、葛城襲津彦かつらぎそつひこ荒田別あらたわけとその子鹿我別かがわけ紀角きのつの宿禰・平群木菟へぐりのつく宿禰・紀大磐きのおいわ宿禰・吉備上道臣きびのかみつみちのおみ田狭たさら倭の将軍や国司がヤマト王権からそのつど加耶や新羅・百済に派遣されているように書かれている。さらに継体紀6年に哆唎たり国守穂積臣ほずみのおみ押山おしやまが、任那四県(今の全羅南道のほぼ全域)を百済に割譲することをヤマト王権に具申し、ヤマト王権から派遣された大伴金村が同意せざるを得なかったのは、高句麗や新羅の圧迫があったからである。これら将軍や国司、押山は、もともと弁辰(弁韓)のころからその地にいた倭系豪族や大和にいた彼らの子弟ではなかったかと考えられる”、と述べて、葛城襲津彦や荒田別らは、ヤマト王権からの派遣ではなく、現地の加耶にいた倭人たちであったと推定している。


葛城かつらぎ氏]

 新撰姓名録によれば、葛城郡朝津間あさつま弓月の君ゆつきのきみが朝鮮半島南部の120のこおりの民草(民衆)を率いて移住してきた所である。新羅系ともいわれるが、おそらくは百済・加耶系の開拓者たちが開いた土地と見られる。弓月の君ははた氏の祖でもある。

葛城氏は奈良盆地西南部(今の御所ごぜ市、金剛山地葛城山の東麓)を勢力拠点とし、4世紀末から5世紀後半にかけて、倭王権で大王に比肩し得る力を保持した最大級の古代豪族である。なかでも、日本書紀の神功・応神・仁徳の代に対朝鮮活動で中心的な役割を演じた葛城襲津彦そつひこは際立っている。その勢威は馬見うまみ古墳群に見て取れる。葛城氏が活躍した時代は神功皇后から雄略の時代に限られる。記紀では、葛城氏はこれらの大王の時代に、加耶地域での倭国の鉄資源の利権確保や、対高句麗・新羅・百済活動の拠点維持のために中心となり出兵を繰り返していた豪族とされる。また、記紀には渡来人を掌握し、先進文物の獲得に努めたことが記されている。奈良県御所ごせ市の南郷遺跡は葛城氏の拠点である。そこからは渡来人集団の住居跡や大規模な鉄器生産遺跡がみられる。 また、記紀ともに仁徳の妃磐之媛いわのひめは葛城襲津彦の娘であり、履中りちゅう反正はんぜい允恭いんぎょうの母としている。葛城氏は大和南部を本拠とする波多氏・巨勢氏・蘇我氏、西北部を本拠とする平群氏、さらに紀氏とも同族関係あるいは擬制的同族関係を結んでおり、葛城氏を盟主とするヒエラルキーを成していた。ヤマト王権では、他に比肩する氏族のない卓越した軍事力を有する有力氏族であった。6~7世紀に活躍する蘇我氏は葛城氏から分立した勢力と考えられている。


[葛城氏の関連遺跡]

葛城氏の関連遺跡から出土の遺物は、葛城氏の発祥と朝鮮半島との関わりを4世紀前葉にまでさかのぼって考える必要があることを示している。

 4世紀前葉は三輪王権の崇神の時代である。この御所市の二つの遺跡が4世紀前葉であれば、崇神の本拠地であった奈良盆地東南部の磐余いわれの地とほぼ同時期に、奈良盆地西南部にも三輪王権に対抗する勢力があったことになる。

<御所市鴨都波かもつば遺跡>

古墳時代前期中葉(4世紀前葉)の一号墳(20メートルx16メートルの方墳)から4面の三角縁神獣鏡が出土した。

<御所市秋津あきつ遺跡>

4世紀前葉の大規模な(50メートルx50メートル以上)板塀状の方形区画遺構が6基も出土した。マツリゴト(祭政)やクラ(蔵)を目的とした地域支配の中枢施設と首長の居住施設をうかがわせる大型掘立柱建物も発掘されている。その周囲からは多数の竪穴住居と韓式系をはじめ東海・北陸・山陰・東部瀬戸内地域の土器、須恵器、製塩土器、ふいごの羽口や鉄滓てつし、銅鏃、馬歯、などが出土した。

 5世紀は、朝鮮半島南部の加耶からの良質な鉄素材の供給が保証され、渡来系鍛冶工人により鉄器生産が多様化した時代であった。北部九州・吉備と並び近畿地方でも鉄器生産が本格化したが、その代表的な遺跡が北河内の森遺跡や私部きさべ南遺跡であり、大和の南郷遺跡である。

南郷なんごう遺跡群>

奈良盆地西南部の御所市南郷付近に所在する5世紀を中心とした集落遺跡。5世紀前半から渡来人の居住と生産活動が行われた。 

これらの遺跡の南にある極楽寺ヒビキ遺跡では、東西70メートル以上、南北40メートル以上で、その周囲に幅13メートルの掘がめぐる首長居館が見つかっている。この居館の南面中央には幅8メートルの土橋がかけられていた。居館の敷地の縁辺部には掘立柱による板塀がめぐらされ、中央に門がもうけられていた。この門の内側に3個の柱穴と、入ったすぐ西側に桁行5間、梁行5間、南と西に縁を設けた楼上の建物が建っていた。しかし、その東半部には東北端に高床倉庫状の建物一棟が構築されているだけで、特に顕著な建物のない空間をなしていた。このような大型掘立柱建物は祭殿か高殿と思われ、首長のマツリゴト(祭政)空間の実景を彷彿させる。この遺跡は首長の管理のもとに諸物資を交易する市が開設された場所と理解すべきものと考えられる。 

井戸大田台遺跡からは5世紀の3棟以上の倉や大壁造建物の遺構が見つかっている。この建物遺構は渡来系氏族が集住した近江の大津市穴太あのう遺跡などで6~7世紀のものが顕著に検出されている。同様の建物遺構は百済公州こんじゅの艇止山遺跡で多く見つかっており、この地域にも朝鮮半島から移住した渡来人が集住したことを示している。  

南郷角田遺跡からは5世紀前半の焼土層などから、大量の小鉄片・銅滓・銀滴、直弧文を刻んだ鹿角製品の断片、滑石製小玉・ガラス玉類などが出土している。これらのうち小鉄片には小札こざねが含まれているので、甲冑が製作され、鹿角製品は刀剣類の装備にかかわったとみなされるので、ここで渡来系の鍛冶工人や金工工人らによって武器・武具をはじめ、高度な金属製や・ガラス製の手工業製品が生産されていたものと推測されている。

遺跡群の南端付近に位置する南郷安田遺跡では桁行六間、梁行六間の四面にひさしをもち、太いヒノキ材の柱によって構築された大型の掘立柱建物が検出されている。これらの建物はその規模から5世紀前半にこの地に集住した多くの渡来系の工人集団を統率した首長が居住した居館的な建物とされる。

南郷大東遺跡からは水の祭り、南郷柳原遺跡・井戸井柄遺跡からは渡来系の建物や石垣、その他の遺跡からは竪穴建物を中心とした一般庶民の集落などさまざまな属性をもつ遺跡が地形を活用して点在し、首長による地域支配が貫徹されていたことがうかがえる。 

南郷遺跡は葛城氏の本拠地であり、朝鮮半島西南部地域を中心とした渡来系集団が主導し、鉄器生産の他、武器・装身具・金銅製品などが生産されていた。これらは有力集団による家産であり、葛城氏の権力の源泉であった。渡来人が関わる倭王権の生産集落や倉庫群は、大王の居宅とは別であり豪族の支配拠点での規模を上回るが、大王の居宅での渡来人の様相はほとんど不明である。


 日本書紀によれば、神功皇后の母は葛城氏の女であり、葛城襲津彦は神功皇后とは同族となっている。応神おうじんの第四子である仁徳にんとくの妃の磐之媛いわのひめは襲津彦の娘である。履中りちゅう反正はんぜい允恭いんぎょうは仁徳と磐之媛の子であるので、襲津彦の孫にあたる。安康あんこう雄略ゆうりゃくは允恭と忍坂大中媛の子であり、襲津彦の曾孫にあたる。清寧せいねいは雄略の第三子であり、襲津彦の玄孫にあたり、母の韓媛は襲津彦の曾孫である。顕宗けんぞう仁賢にんけんは履中の子である市辺押磐皇子と襲津彦の曾孫のはえ媛の子であり、襲津彦の曾孫同士の間に生まれたことになる。武烈ぶれつは襲津彦の玄孫同士の子である。第16代仁徳から第24代仁賢までの9人の大王のうち、葛城氏を母とする大王は6人、皇妃とするものが3人おり、安康あんこうを除く8人が葛城氏と結びつく大王である。このように河内王権はすべて葛城襲津彦の子孫であり、まさに葛城王権といっても過言ではない。


 さて、ここまで分析したところで、オオホタラシヒコ(景行)の加耶から周防すおう(山口県南部)と筑紫つくし(福岡県)への侵攻からオキナガタラシヒメ(神功皇后)と武内宿禰による近畿地方への東征、そして仁徳による河内王権の成立までを振り返ってみる。


 350年代に、オホタラシヒコ(景行)は筑紫と周防に攻め入りそこを占拠し、次に中九州(今の熊本と宮崎地方)の熊襲と戦ったが勝利することはできなかった。オホタラシヒコ(景行)の子であるヤマトタケル(ヲウス)とワカタラシヒコ(成務)の兄弟も熊襲と戦ったが、ヤマトタケルはその途上で病死してしまった。さらにヤマトタケルの第二子で、父に似て大男であったタラシナカツヒコ(仲哀)も熊襲との戦いの中で362年に戦死してしまった。

 タラシナカツヒコ(仲哀)の妻であったオキナガタラシヒメ(神功皇后)は、370年ごろから壬午じんごの年の382年までに加耶や耽羅たんら(済州島)を征服し支配した百済の将と伝えられる木羅斤資もくらこんしに助けを求めた。景行一族は木羅斤資の卓越した軍事力のおかげで、ついに熊襲から筑後川流域を奪還した。その地は3世紀半ばの卑弥呼の女王国の時代に狗奴くな国(熊襲)に奪われた地域であった。それはオホタラシヒコ(景行)からヤマトタケル(ヲウス)とワカタラシヒコ(成務)兄弟、さらにタラシナカツヒコ(仲哀)とオキナガタラシヒメ(神功皇后)へと、実に三代にわたる熊襲との熾烈な戦争を戦い抜いた結果であった。最後は、木羅斤資(武内宿禰と同一人物と推定)の助けを借りたとはいえ、長い戦いの末についに北部九州・中九州と周防(今の山口県)一帯を支配することができた。それは380年代後半のことと思われる。350年代から380年代まで、実に30年にもおよぶ長い戦いであった。

 オホタラシヒコ(景行)が350年代に日本列島の筑紫と周防に攻め込んだのは、高句麗が313年に楽浪郡を占領し、続いて314年に帯方郡を滅ぼして朝鮮半島北部を支配する体制を固めたことによる朝鮮半島での政治状況の変化に対応するためでもあった。朝鮮半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)では、馬韓の一部落国家であった辰王系の伯済はくさいが346年に百済を創建した。辰韓でも斯廬しろを中心として国としてのまとまりを見せ始め、それが後の新羅に発展した。一方、弁韓はその南にある倭と融合し、加耶と呼ばれるようになった。その加耶諸国の中では狗邪くや国(後の金官加耶)が有力ではあったが、最後まで一つの国にまとまることはなかった。オホタラシヒコ(景行)はその加耶の一国であった多羅たらから渡来したと思われる。多羅は狗邪国(後の金官加耶)の北方にあるため、港を持っている狗邪国(後の金官加耶)との共同作戦でなければ渡海できなかったはずである。

 鈴木武樹は、辰王の一派が弁韓につくった国が多羅であり、その建国は3世紀後半とみている。狗邪国(後の金官加耶)を中心とした南部加耶諸国は、BC75年の大楽浪郡の成立以後、北部九州のクニグニ、特に伊都いと国や国とは交易や人的交流を通じて密接な関係があった。その関係を利用して南部加耶諸国は北部九州へ進出することによって国を発展させ、新羅や高句麗に対抗しようとした。204年以来、狗邪国(後の金官加耶)や伊都国は公孫こうそん氏やの帯方郡の影響下にあったが、314年の帯方郡の滅亡により、その拠り所を失ってしまった。そのような状況下において、狗邪国(後の金官加耶)を中心とした南部加耶諸国は辰王系のオホタラシヒコ(景行)を先頭にして周防・筑紫に侵攻したと考えられる。

 そして、380年代に、北部九州と中九州、そして周防一帯(山口県)を平定した木羅斤資もくらこんし(武内宿禰)は、妃のオキナガタラシヒメ(神功皇后)とまだ幼かったホムタワケ(後の応神)を伴い、本来の目的であった近畿地方への東征を実行に移した。それは、高句麗の広開土王碑に記載がある391年から407年の間に行われたと考えられる。この高句麗の広開土王による百済・加耶への大攻勢に対して、百済や北部九州勢との連繋を基盤として、高句麗に対処していたのが、加耶を支配していた木羅斤資とその子木満致もくまんちであった。しかし、400年の任那加羅城(金海きめの金官加耶)陥落が決定的であった。木羅斤資は、百済と連携して加耶諸国を防衛することを、息子の木満致に任せて、自分自身はオキナガタラシヒメ(神功皇后)とホムタワケ(応神)とともに東進して河内と大和地方を征服することに専念した。河内地方の征服は410年ごろまでには終えたと思われるが、大和地方の征服までには至らなかった。しかし、その都はまだ筑紫に置いたままであった。413年の「倭王」による東晋への朝貢は、未だ筑紫にいたホムタワケ(応神)であったと推測する。福岡県糟屋かすや郡宇美町には、宇美うみ八幡宮という応神が生まれたという伝説を持つ神社が今も鎮座している。

 倭王さんによる難波への遷都は、河内平野の治水と農地整備がある程度進んだ後の418年から421年の間であると推定される。倭王さんは応神の第四子であるオオサザキ(仁徳)と思われる。しかし、水野祐は、ホムタワケ(応神)とオオサザキ(仁徳)は同一人物とみている。また、直木孝次郎も、応神と仁徳は同じ人物であって、ホムタワケの別名がオオサザキではないかと推定している。大和地方に進出したのはオオサザキ(仁徳)の子であるオオエノイザホワケ(第17代履中りちゅう)の時代(428年)になってからで、さらに本拠を河内から大和へ遷したのは第19代允恭いんぎょうになってからである。


 水野祐が指摘した加耶勢による日本列島の近畿地方征服目的は次の二つである。

① 高句麗に対抗するには、日本列島の東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達し、多くの兵力を徴用する必要があった。

② 本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移し、万全を期すためでもあった。 


 これらの目的は、オホタラシヒコ(景行)が350年代に日本列島の周防と筑紫に攻め込んでから、428年のオオエノイザホワケ(履中)の大和での即位まで、実に70年~80年を要してようやく達成したのである。オキナガタラシヒメ(神功皇后)とともに、邪馬台国時代の卑弥呼の領域であった筑後川流域を征服して北部九州を制圧し、さらに近畿地方へ東征したのは木羅斤資、すなわち日本書紀に記載される武内宿禰であった。武内宿禰の子孫たちは、葛城氏・紀氏・波多氏・許勢氏・蘇我氏・平群氏・久米氏として、その後もヤマト王権の中枢を担っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る