第26話 葛城襲津彦と葛城氏、そして河内王権の成立
記紀によれば、
その葛城氏の本拠地であった奈良盆地の西南部の
それによると、“
古墳からの出土物から判断すると、葛城氏以下これらの豪族は明らかに渡来系である。古墳の推定年代には数十年の幅があり、武内宿禰の墓が「室墓」とされる室宮山古墳(240メートル)か、あるいは巣山古墳か確定できないが、奈良盆地の西南部の馬見の地が武内宿禰一族の中で最も有力であった葛城氏の本拠地であったことは事実である。
[
奈良盆地の西南部にある葛城氏の本拠地。大和の三輪と河内の中間に位置する。
<4世紀前半>
原初的な長持形石棺を納めた竪穴式石室、直弧文鏡3面を含む34面の銅鏡・中国晋代の金銅製帯金具・玉類・腕輪型石製品・鉄製武器などが出土していることから、被葬者は朝鮮半島とかかわりのある武将と思われる。
<4世紀後半>
島の山古墳(馬見北にある190メートルの前方後円墳):
大量の腕輪型石製品が出土。粘土槨の中に割竹形木棺がある。首飾りや手玉が装着状態で出土し、武器・武具が見られないことから前方部の被葬者は女性と推定される。葛城氏の本拠地に築造されていることから、葛城氏にかかわる人物の墓と想定される。
周濠と外堤がある、玉類・腕輪型石製品が出土。周濠から準構造船の竪板と舷側板が出土。この古墳周辺にはいくつかの前方後円墳や帆立貝式古墳が集中して築造されていることから、古事記に記された
粘土槨内に木棺、木棺底板上に鏡36面・鍬形石1個・石釧1個・銅鏃4個・巴形銅器1個・石製刀子34個・勾玉13個・管玉19個などが副葬されていた。銅鏡には四神四獣鏡などとともに仿製の家屋文鏡が含まれ、高床建物・平地建物・高床倉庫・竪穴住居の四種の建物が表現され他の例がないものである。このモデルは中国の屋舎人物画像鏡と考えられる。これらの副葬品から、被葬者は大王家と深いかかわりを持つ人物と推定される。
<4世紀後葉>
周濠を持ち、墳丘には円筒埴輪が並んでいた。陵墓参考地なので詳細は分からない。
<4世紀末>
葛城地域最大、石室に長持形石棺、11面以上の銅鏡・玉類・鉄製の武器武具、石室の上部から壮大な家形埴輪群とそれを囲む
<5世紀初頭>
乙女山古墳(馬見中央にある130メートルの帆立貝式古墳):
宮崎の西都原古墳群の
巣山のすぐ西南に位置し、そのすぐ西には、倍塚の
ここで、日本書紀と三国史記における
<382年(神功62年)>
前話の第25話「
一方、同じ神功62年に、
これらのことから、壬午の年(382年)の
<403年(応神14年)>
百済から渡来した
<405年(応神16年)>
<418年(三国史記)>
新羅の
三国史記新羅本記に、新羅(当時は斯廬)は倭国と国交を結び、
日本書紀(神功5年)に、「新羅の使者3人が倭国に来て、人質になっていた
この418年の記事は、日本書紀の神功皇后5年が応神期の後になるというように、年代に矛盾が生じている。三国史記の年代は正しいと考えられているので、日本書紀の方に混乱があることになる。
葛城襲津彦に関する日本書紀の記事の大半は加耶での出来事である。
それについて、松本清張は、“日本書紀では、
[
新撰姓名録によれば、葛城郡
葛城氏は奈良盆地西南部(今の
[葛城氏の関連遺跡]
葛城氏の関連遺跡から出土の遺物は、葛城氏の発祥と朝鮮半島との関わりを4世紀前葉にまでさかのぼって考える必要があることを示している。
4世紀前葉は三輪王権の崇神の時代である。この御所市の二つの遺跡が4世紀前葉であれば、崇神の本拠地であった奈良盆地東南部の
<御所市
古墳時代前期中葉(4世紀前葉)の一号墳(20メートルx16メートルの方墳)から4面の三角縁神獣鏡が出土した。
<御所市
4世紀前葉の大規模な(50メートルx50メートル以上)板塀状の方形区画遺構が6基も出土した。マツリゴト(祭政)やクラ(蔵)を目的とした地域支配の中枢施設と首長の居住施設をうかがわせる大型掘立柱建物も発掘されている。その周囲からは多数の竪穴住居と韓式系をはじめ東海・北陸・山陰・東部瀬戸内地域の土器、須恵器、製塩土器、
5世紀は、朝鮮半島南部の加耶からの良質な鉄素材の供給が保証され、渡来系鍛冶工人により鉄器生産が多様化した時代であった。北部九州・吉備と並び近畿地方でも鉄器生産が本格化したが、その代表的な遺跡が北河内の森遺跡や
<
奈良盆地西南部の御所市南郷付近に所在する5世紀を中心とした集落遺跡。5世紀前半から渡来人の居住と生産活動が行われた。
これらの遺跡の南にある極楽寺ヒビキ遺跡では、東西70メートル以上、南北40メートル以上で、その周囲に幅13メートルの掘がめぐる首長居館が見つかっている。この居館の南面中央には幅8メートルの土橋がかけられていた。居館の敷地の縁辺部には掘立柱による板塀がめぐらされ、中央に門がもうけられていた。この門の内側に3個の柱穴と、入ったすぐ西側に桁行5間、梁行5間、南と西に縁を設けた楼上の建物が建っていた。しかし、その東半部には東北端に高床倉庫状の建物一棟が構築されているだけで、特に顕著な建物のない空間をなしていた。このような大型掘立柱建物は祭殿か高殿と思われ、首長のマツリゴト(祭政)空間の実景を彷彿させる。この遺跡は首長の管理のもとに諸物資を交易する市が開設された場所と理解すべきものと考えられる。
井戸大田台遺跡からは5世紀の3棟以上の倉や大壁造建物の遺構が見つかっている。この建物遺構は渡来系氏族が集住した近江の大津市
南郷角田遺跡からは5世紀前半の焼土層などから、大量の小鉄片・銅滓・銀滴、直弧文を刻んだ鹿角製品の断片、滑石製小玉・ガラス玉類などが出土している。これらのうち小鉄片には
遺跡群の南端付近に位置する南郷安田遺跡では桁行六間、梁行六間の四面に
南郷大東遺跡からは水の祭り、南郷柳原遺跡・井戸井柄遺跡からは渡来系の建物や石垣、その他の遺跡からは竪穴建物を中心とした一般庶民の集落などさまざまな属性をもつ遺跡が地形を活用して点在し、首長による地域支配が貫徹されていたことがうかがえる。
南郷遺跡は葛城氏の本拠地であり、朝鮮半島西南部地域を中心とした渡来系集団が主導し、鉄器生産の他、武器・装身具・金銅製品などが生産されていた。これらは有力集団による家産であり、葛城氏の権力の源泉であった。渡来人が関わる倭王権の生産集落や倉庫群は、大王の居宅とは別であり豪族の支配拠点での規模を上回るが、大王の居宅での渡来人の様相はほとんど不明である。
日本書紀によれば、神功皇后の母は葛城氏の女であり、葛城襲津彦は神功皇后とは同族となっている。
さて、ここまで分析したところで、オオホタラシヒコ(景行)の加耶から
350年代に、オホタラシヒコ(景行)は筑紫と周防に攻め入りそこを占拠し、次に中九州(今の熊本と宮崎地方)の熊襲と戦ったが勝利することはできなかった。オホタラシヒコ(景行)の子であるヤマトタケル(ヲウス)とワカタラシヒコ(成務)の兄弟も熊襲と戦ったが、ヤマトタケルはその途上で病死してしまった。さらにヤマトタケルの第二子で、父に似て大男であったタラシナカツヒコ(仲哀)も熊襲との戦いの中で362年に戦死してしまった。
タラシナカツヒコ(仲哀)の妻であったオキナガタラシヒメ(神功皇后)は、370年ごろから
オホタラシヒコ(景行)が350年代に日本列島の筑紫と周防に攻め込んだのは、高句麗が313年に楽浪郡を占領し、続いて314年に帯方郡を滅ぼして朝鮮半島北部を支配する体制を固めたことによる朝鮮半島での政治状況の変化に対応するためでもあった。朝鮮半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)では、馬韓の一部落国家であった辰王系の
鈴木武樹は、辰王の一派が弁韓につくった国が多羅であり、その建国は3世紀後半とみている。狗邪国(後の金官加耶)を中心とした南部加耶諸国は、BC75年の大楽浪郡の成立以後、北部九州のクニグニ、特に
そして、380年代に、北部九州と中九州、そして周防一帯(山口県)を平定した
倭王
水野祐が指摘した加耶勢による日本列島の近畿地方征服目的は次の二つである。
① 高句麗に対抗するには、日本列島の東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達し、多くの兵力を徴用する必要があった。
② 本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移し、万全を期すためでもあった。
これらの目的は、オホタラシヒコ(景行)が350年代に日本列島の周防と筑紫に攻め込んでから、428年のオオエノイザホワケ(履中)の大和での即位まで、実に70年~80年を要してようやく達成したのである。オキナガタラシヒメ(神功皇后)とともに、邪馬台国時代の卑弥呼の領域であった筑後川流域を征服して北部九州を制圧し、さらに近畿地方へ東征したのは木羅斤資、すなわち日本書紀に記載される武内宿禰であった。武内宿禰の子孫たちは、葛城氏・紀氏・波多氏・許勢氏・蘇我氏・平群氏・久米氏として、その後もヤマト王権の中枢を担っていった。
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