第25話 木羅斤資・木満致父子、そして武内宿禰とは誰か?

 さて、晋書しんしょの413年に、「倭国は東晋とうしんの安帝に方物を献じた」とある。 それから8年後の421年に、倭王さんそうに遣使している。この時代のことをもう少し追求してみたいと思う。ここでいう新羅は斯廬しろのことである。

 鈴木武樹は、“しかし、ここで注意しなくてはならないのは、倭王のこの朝貢の開始が決して周辺諸国から独立して見られるものではないということである。高句麗は336年に東晋へ、百済は372年に東晋へ、新羅は377年には前秦へ、それぞれが中国王朝への最初の朝貢を実施している。413年の倭国による東晋への朝貢は最も遅れている。この時代の朝鮮三国および倭(加耶)の相互関係は、高句麗に新羅が従属して、高句麗と新羅は百済・倭(加耶)の連合と対立していたという状態で、朝鮮半島南部の加耶地方には中国に朝貢するだけの勢力は未だなく、おそらくそこでは百済と、加耶・倭国(北部九州)の連合勢力と、新羅とが様々に入り組んだ形でもつれ合っていたようである。例えば、日本書紀の引用する「百済記」によると、この時期には「木満致もくまんちが、父の功績のゆえをもって任那を専らにしていた(専権を振るった)」、とあるが、木満致は百済が倭(加耶)に派遣した百済人の将軍の木羅斤資もくらこんしと新羅の女性との間に生まれた子であることから、5世紀初頭の加耶地方は百済出身の武将の子によって倭国(北部九州)との連携を基盤として支配されていたともとれる”、と述べて、朝鮮三国より倭国の中国王朝への朝貢の再開が遅れていることを指摘し、日本列島の倭国の後進性を立証している。 


 この時期の加耶は百済の将軍の木羅斤資もくらこんしとその子木満致もくまんちによって支配されていたとあるが、この父子は日本列島の北部九州や近畿の倭国にどのような影響を与えたのだろうか? これこそ巨大古墳の時代を河内に築いた河内王権成立の問題を解く鍵となると思われる。


もくまたは木刕もくら氏は百済大姓八族の一つで、大姓の中には王・侯に封じられた者もある。隋書・百済伝には、「国中に大姓八族あり。沙氏・燕氏・らい氏・解氏・貞(真ヵ)氏・国氏・木氏・白氏」、とある。

・日本書紀の神功49年には、

「倭・百済による新羅攻撃が計画され、荒田別あらたわけ鹿我別かがわけを将軍に任命し、卓淳とくじゅん国に至り、百済の木羅斤資もくらこんし沙沙奴跪ささなこの増兵を得て、新羅を討ったとある。木羅斤資は百済の将軍である。その戦果は、比自火ひしほ(昌寧)・南加羅(金海)・喙国とくのくに(慶山)・安羅(咸安)・多羅(陝川)・卓淳(昌原)・加羅(高霊)の七国の平定と南蛮の耽羅たんら(済州島)を討伐し、百済に授けられた。木羅斤資は荒田別あらたわけとともに、百済の近肖古きんしょうこ王(346年~375年)とその王子の貴須くるす意流村おるすきで会った」、と記されている。意流村おるすきの場所については諸説あるが、今の全羅北道辺りと推定されている。このとき、木羅斤資は初めて百済王に会ったかのように書かれており、百済の将であったのは矛盾するので、木羅斤資は辰国しんこくの将であったともいわれる。

・日本書紀の神功62年に引用されている「百済紀」には、

「壬午の年(382年)に、新羅が貴国に朝貢しなかったので、貴国は沙至比跪さちひこを派遣して新羅を討たせることにした。すると新羅は美しい女を二人飾り立てて沙至比跪を港で迎え誘わせた。沙至比跪はその美女を受け入れて、反対に加羅国(大加耶)を討った。そのため加羅の国王の己本旱岐こほかんきと、その子の百久至はくくち阿首至あしゅち国沙利こくさり伊羅麻酒いらます爾汶至いもんちらは民草(民衆)を率いて百済に逃げてきた。百済は彼らを厚く遇した。加羅(大加耶)国王の妹の既殿致けでんちは大倭(倭国)に出向いて、啓して、「王は沙至比跪さちひこを遣わし、新羅を討とうとしました。しかし沙至比跪は新羅の美女を手に入れると、新羅を討たず、反対に我が国を滅ぼしました。兄弟・民草(民衆)は流浪させられ、悲しみに堪えることができない。ですから、ここに来てこのことを申し上げる」、と告げた。倭王は大いに怒り、ただちに木羅斤資もくらこんしを遣わした。木羅斤資は軍勢を率いて加羅(大加耶)に来集して、その社稷しゃしょく(加羅(大加耶)の国)を復興した。」

さらに、「一説には、沙至比跪は倭王の怒りを知って、ひそかに倭国に帰り隠れていた。その妹が宮中に仕えていたので、ひそかに使人を遣わして、倭王の怒りが解けるかどうかを問わしめた。妹は、夢で沙至比跪を見たと倭王に申し上げた。倭王は大いに怒った。沙至比跪は許されないのを知って、岩穴に入って死んだ」、とある。

・日本書紀の応神紀25年には、

「百済の直支とき王=腆支てんし王(在位405年~420年)が死に、子の久爾辛くにしん王(在位420年~427年)が王となった。王はまだ幼かったため、木満致もくまんちが国の政治を見たが、王の母と密通して、数多くの無礼を行ったので、倭王はそれを聞くと彼を召喚した」、とある。

・日本書紀の応神紀25年に引用されている「百済紀」には、

木満致もくまんち木羅斤資もくらこんしが新羅を討ったときに、その国の女性を娶って生んだ子である」、とある。さらに、「木満致もくまんちは父の功績のゆえに任那を専らにし(専権を振るい)、我が国(百済)に来て貴国(倭国)にかよい(往来し)、のり(指揮)を倭国に仰いで我が国(百済)の政治を執った。権勢は世にならびなかった。倭王はその彼の横暴を聞くと彼を召喚した」、とある。

木満致もくまんちが三国史記に最後に現れるのは472年で、そこには、「百済の蓋鹵こうろ王(在位455年~475年)の子、文周もんすを敵の手から救出し、後の文周王(在位475年~477年)とともに熊津ゆうしん(現在の公州市)に遷った」、とある。三国史記では木刕満致もくらまんちと表記されている。


 木羅斤資もくらこんしが任那(加耶)で活躍したのは360年ごろから400年ごろと考えられる。その後を引き継いだのが、その子の木満致もくまんちである。400年は高句麗軍が任那加羅みまなから城(金海きめ)を攻略した年にあたる。そのときまで木羅斤資が加耶にいたかどうかは分からない。木羅斤資が健在で、任那(加耶)にいなければ、木満致が高句麗軍に対処していたことになる。いずれにせよ、北部九州勢と思われる倭人も出兵した369年に百済は高句麗を破り、371年に平壌城を奪った時から、高句麗が再び5万の大軍を発し、百済を攻撃し、百済・倭連合軍を撃破した407年までの朝鮮半島南部における激動の時代に任那(加耶)で活躍したのは木羅斤資と木満致父子であることは間違いないと思われる。


 井上秀雄(元東北大学教授)によると、“日本書紀における百済記はヤマト王権に迎合的に書かれたので、ヤマト王権との関係は保留して読まなければならない。この木満致は任那(加耶)地方に本拠を持ち、百済・新羅とも関係があった人である。木満致が百済の文周王(在位475年~477年)を助け南に落ち延びた木劦満致であるなら、任那(加耶)地方を本拠とした小国王と見ることができる。そうすれば百済に好意を持つ小国王たちが百済王の遺児文周を擁立して第二の百済を建てたと考えるのが穏当である”、と述べて、木満致は加耶諸国の中の一つの国の旱岐かんき(首長)であったと推定している。5世紀初頭の加耶地域は百済出身の武将木羅斤資もくらこんしの子、木満致もくまんちによって、倭国(北部九州)との連繋を基盤として、支配されていたととれる。


 また、木満致もくまんちは蘇我氏の祖である蘇我満智まちと同一人物とされる説があるが、武内宿禰の子は蘇我石川宿禰であり、その子が雄略期(463年~489年)の満智まちであるので、木満致ではないと思われる。蘇我満智の活躍した時代は木満致より一世代下る。大同二年(807年)成立の「古語拾遺」によれば、蘇我満智は雄略期(463年~489年)に増大する諸国からの貢物に対応すべく、東漢やまとのあや氏・西文かわちのふみ氏・はた氏ら渡来系氏族を統率して、斎蔵いみくら内蔵うちくら大蔵おおくらという王権の官物を納めた三蔵を管理したとされる。蘇我満智の子は韓子からこ、その子は高麗こまといずれも朝鮮半島の国名を用いて名づけられていることから、蘇我満智は任那(加耶)の木満致と何らかの関係があると考えられる。


では、武内宿禰たけのうちのすくねとは誰か?


 3~4世紀の朝鮮半島と大和との関わりをみると、それは奈良盆地の中央部・東南部のごく限られた地域に留まるが、5世紀になるとその様子が一変する。5世紀以降の奈良盆地の韓式系土器の分布を見てみると、大和川をさかのぼった支流の隅々にまで分布している。この土器の分布はヤマト王権、すなわち河内王権の下で朝鮮半島系の人びとが渡来したことを物語るもので、他の生産品からも様々な技術の移植に、渡来人が指導的な役割を演じ、大きな技術革新がおこった。それはまさに記紀に記された神功皇后(363年~389年)・応神(390年~394年)・仁徳(395年~427年)の時代の後半である。日本書紀によると、武内宿禰は仲哀期(356年~362年)に大臣となり、仁徳期の初期に死去とある。360年ごろから400年ごろまで大臣であったことになる。それが武内宿禰の活躍期であった。


・日本書紀では、武内宿禰は神功皇后と共に朝鮮へ出兵したことになっている。“武”は勇ましい、“内”は大王の側近、“スクネ”は古い時代から名前の下につけた尊称と推定される。父方は孝元の玄孫で、母方は紀伊の国造の祖(菟道彦うじひこ)の娘で、景行期に棟梁之臣、成務期に大臣、仲哀期に大臣、神功皇后期に大臣、応神期に大臣、仁徳期にも大臣であるが、仁徳期の初期に死去で、60年~70年の長期にわたり仕えた。

・「紀氏家牒かちょう(系図)」によれば、その子に、葛城襲津彦かつらぎそつひこ紀角きののつの平群都久へぐりのつくがいる。

・古事記では、竹内宿禰の父は孝元の皇子であるヒコフツオシノマコト、母は紀伊国造ウズヒコの妹である山下影日売かげひめとある。 武内宿禰の子は男7人、女2人で、波多はた八千代、許勢こせ小柄、蘇賀そが石河宿禰、平群へぐり都久、きの角宿禰、葛城かつらぎ襲津彦、久米くめ若子わくご宿禰、久米くめ摩伊刀媛まいとひめ伊呂媛いろひめと記している。

・神功皇后と応神の畿内入りを阻止しようと斗賀野とがの(播磨の赤石)で待ち受けていた仲哀の子とされる香坂かごさか王と忍熊おしくま王を、和邇わに氏の祖となる武振熊たけふるくまが武内宿禰とともに打ち破り、その後、近江に逃れた忍熊王を敗死させ、神功皇后と応神は難波に河内王権を打建てたのである。その一番の功労者が武内宿禰である。 

・福井県敦賀市の気比けひ神宮に祀られているのは、武内宿禰が新羅への遠征から戻ったオキナガタラシヒメ(神功皇后)が生んだホムタワケ(応神)を連れ角鹿つぬが(敦賀)に宿ったときに、名前を交換したイザサワケである。祭神のイザサワケは天日槍あめのひぼこが持ってきたという膽狭浅大刀いささのたちと関わりがあると考えられている。社殿の裏手には摂社の、角鹿つぬが神社があり、都怒我阿羅斯等つぬがあらしとが祀られている。この神は崇神の時代に渡来した意富加羅おほから(金官加耶)の王子である。ホムタワケ(応神)は後に、山代(山背)の木幡の豪族、丸迩わに(和邇)の娘であるヤカハエヒメ(矢河枝比売)を妻とした。敦賀の町と敦賀湾を一望する向出山むかいでやま古墳群の5世紀末築造の一号墳からは、朝鮮半島のものと思われる鉄地金銅装の眉庇付冑や頸冑が出土している。敦賀は天然の良港であり、背後の山を越えれば琵琶湖へと通じることから、大和が政治の中心となるより前に、日本海を通じて朝鮮半島や中国大陸との交流があったと思われる。10世紀に渤海ぼっかい史の使節のために、敦賀に松原客館が設けられていたことも、日本海ルートにおける重要な場所であったことを物語る。これらの説話からも神功皇后と武内宿禰、それに応神は朝鮮半島と関係が深い、あるいは出自が朝鮮半島にあると考えられても不思議ではない。


都怒我阿羅斯等つぬがあらしと

日本書紀の天日槍あめのひぼこ渡来の記事の直前(垂仁2年)に、意富加羅おほから(金官加耶)の王の子、名は都怒我阿羅斯等つぬがあらしと穴門あなと(長門)から出雲を経て敦賀に上陸し、3年間滞在した後に帰国し、任那みまなの王になったという。「ツヌガ」は金官加耶の最高官位「角干すぷるかん」にもとづき、「阿利斯等ありしと」は任那(金官加耶)国王の名である。


 武内宿禰は架空の人物とされるが、真の姿は一体誰なのか? 任那(加耶)を出自とし、オキナガタラシヒメ(神功皇后)とその子ホムタワケ(応神)を担いで大和に乗り込んだ人物は有能な武将であったに違いない。今まで数多くの歴史家あるいは文献史学者たちがその特定を試みているが、いまだに定説がない。しかし、最も可能性が高いと思われるのは、百済の近肖古王(346年~375年)の時代に百済の将であった木羅斤資もくらこんしと武内宿禰が同一人物であるという説である。近肖古王は馬韓を統一して、346年に百済を建国した初代の百済王である。木羅斤資は加耶諸国を平定したことで有名であるが、当時の加耶は百済には属していない。なぜ同一人物とみなされるのか? それは、その活躍時期が一致しているからである。木羅斤資が加耶(任那)で活躍したのは360年ごろから400年ごろと考えられている。一方、日本書紀によれば武内宿禰は360年ごろから400年ごろまで大臣であり、その活躍期である。この活躍時期が正しければ、倭王さんによる北部九州から大和への遷都(418年から421年の間)の前となり、日本書紀に記載された大和への推定東征時期(380年代)とも合う。実際の東征と大王による遷都との時期が異なるのは通常のことである。その地域を平定後に都を遷すのはいつの時代でも起きている。


 また、「百済紀」に記載されている壬午の年(382年)に、木羅斤資もくらこんしは軍勢を率いて加羅(大加耶)に来集して、その社稷しゃしょく(大加耶の国)を復興させている。さらに、その10数年前には、比自火ひしほ(昌寧)・南加羅(金海)・喙国とくのくに(慶山)・安羅(咸安)・多羅(陝川)・卓淳(昌原)・加羅(高霊)の七国の平定と南蛮の耽羅たんら(済州島)を平定している。その時期に、それらの地域を百済に授けたというのは、他の文献や考古学的史料からして信じがたいが、加耶や耽羅たんら(済州島)を征服し、支配したことは信じていいと思う。その後、その軍事力をもって、北部九州にも攻め入ったと考えたい。


・北部九州勢と思われる倭人も出兵した369年に百済は高句麗を破り、371年には平壌城を奪った。しかし、400年には高句麗軍が任那加羅城(金海)を攻略、そして高句麗が再び5万の大軍を発し、407年には百済を攻撃し、百済・倭連合軍を撃破した。この後、高句麗軍は北へ戻り、百済と加耶は再び高句麗と新羅へ攻勢をかけている。

・広開土王碑によると、北部九州の倭人勢力は少なくとも391年から407年までの17年間、百済や加耶諸国と連合し、高句麗や新羅と激しく戦ったのは歴史的事実である。


 北部九州勢と思われる倭人も出兵した369年から、広開土王碑に記載された391年から407年までの17年間に至る、朝鮮半島南部における激動の時代に、加耶(任那)で活躍したのは木羅斤資と木満致父子であることは間違いない。4世紀後葉から5世紀前葉までの加耶地方は、百済出身の武将木羅斤資と、その子である木満致によって、北部九州勢との連携を基盤として支配されていたのである。


 そして、そのころの日本列島では、「第21話 加耶からの渡来と北部九州の平定」、第22話「景行一族による北部九州から近畿への東征」で述べたように、次のような状況にあった。


・景行は350年代に筑紫と周防に攻め入り、次に中九州の狗奴国(熊襲)と戦い、その子であるヤマトタケル(ヲウス)と成務の兄弟、さらに仲哀・神功皇后夫婦と三代にわたる狗奴国(熊襲)との熾烈な戦争を戦い抜き、最後に武内宿禰の助けを借りて、長い努力の末に北部九州から周防一帯を支配することができたと思われる。北部九州を平定したのは神功皇后の時代(363年~389年)と推測する。

・ホムタワケ(応神)は伊都国で生まれ、母であるオホタラシヒメ(神功皇后)とともに北部九州から東進し、武内宿禰たけのうちのすくね武振熊たけふるくまとの指揮のもとに、畿内の土着勢力を破り征服した。それは、北部九州平定後の神功皇后の時代(363年~389年)の末期と思われる。

・高句麗による百済・加耶地域への攻勢に備えるためにも、加耶・北部九州連合は日本列島における勢力拡大を急いだはずである。国の奥行を深くして、国力を増大させることが大和地方への東征の動機であった。

・413年に東晋に遣使した応神と思われる「倭王」は筑紫にいた。東征後30数年を経て、河内平野の開発が進んだことから420年ごろに河内の難波へ遷都した。それは、加耶が高句麗に対抗するために、日本列島の東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達してそこから多くの兵力を徴用することを目的としていた。また、本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移して国の奥行を深くして背後を固めるためでもあった。そのために、北部九州から瀬戸内海を経て河内・大和地方への東遷を決意したのである。


 では、まだ若い応神を連れて、神功皇后とともに東進したとされる武内宿禰は本当に木羅斤資と同一人物なのか? 加耶地域は息子の木満致に任せて、木羅斤資は北部九州と大和地方の制圧に専念したのかもしれないが、それはよくわからない。しかし、木羅斤資と木満致の「木」は木(もく・き)氏、すなわち紀(きの)氏に通じる。5世紀後半の紀小弓きののおゆみ紀大磐きののおいわ父子は任那(加耶)で権力を振るい、息子の紀大磐は三韓の王になろうとした(顕宗紀)とある。このことからも、5世紀において、木羅斤資の系統は加耶でも近畿の河内王権においても大きな権力を保持していたことが分かる。


・日本書紀の顕宗けんぞう紀3年:

「紀大磐宿禰は、任那を股にかけて、高麗(高句麗)と通交した。 西方で、三韓の王となろうとして、官府を整え終わって、自ら神聖かみと称した」、とある。


きの氏]

日本書紀では、ニニギの天孫降臨のときに、日像ひがた鏡・日矛ひぼこ鏡を携えて付き従ったアメノミチネ(天道根命)が祖。アメノミチネはカミムスヒの五世孫とされる。その鏡が日前ひのくま宮のご神体である。日前ひのくま宮は紀伊国一宮となった。紀伊国名草郡(和歌山市と海南市)が本貫。武内宿禰の子とされる紀角きののつの紀臣きののおみらの租とされる。紀ノ川河口の豪族である紀直きののあたいと中央豪族の紀臣きののおみとの関係は不明とされる。対外交渉や軍事活動で活躍し、日本書紀に、紀大磐きののおいわ宿禰が父の紀小弓きののおゆみ宿禰の病没を聞いて渡韓し、父の兵権をおさめたが、副将の蘇我韓子そがのからこと反目して、これを弓で射殺し(雄略9年)、それから25年も任那(加耶)を根拠として権力をふるい、高句麗にも通じて、「まさに三韓で西王たらんとし、自ら神聖かみと称した(顕宗紀)」とある。帰国のことはみえない。これは487年の帯山城しとろもろのさし事件と呼ばれる。松本清張は任那(加耶)の族長が渡来して紀伊に移住したと推測する。 

紀ノ川河口には5世紀から7世紀前半にかけて築造された古墳群がある。そこからは高句麗系の大量の横穴式石室が出ている。また、鳥形埴輪・両面埴輪・胡籙ころく(矢を入れて携行する道具)形埴輪・など、類例のない特徴的な埴輪が出土している。紀ノ川右岸の和歌山市善明寺の丘陵上に位置する鳴滝なるたき遺跡からは古墳時代中期前葉(5世紀初頭)の大型建物が7棟発掘されており、それは高床式の倉庫である。すぐ南は紀ノ川の河口であり、朝鮮半島につながる水運の便が考慮されていた。


帯山城しとろもろのさし事件]

487年に起きた加耶地域北部をめぐる百済と任那(加耶)の紀大磐きののおいわとの紛争。対高句麗戦遂行の過程で加耶北部へ進出した百済の武将を紀大磐が殺害し、さらに帯山城を築いて籠城し、高句麗と通交しようとしたという事件。これは480年代の百済から新羅への対高句麗戦救援軍派遣と、それに伴う百済の加耶地域北部への進出という流れに合致した出来事である。


 なぜ記紀は武内宿禰を創造したのか、それは明白である。任那(加耶)から来た百済の将であった木羅斤資もくらこんしが若年のホムタワケ(後の応神)を担いで北部九州から大和へ東征し、崇神の三輪王権を打倒して新王権を成立させたのでは、悠久の昔から日本列島内で発展してきた万世一系の天皇系譜にはふさわしくないからである。

武内宿禰が実際には百済の将であった木羅斤資とすれば、663年の白村江の大敗後に朝鮮半島から追い出された天智・天武の時代には受け入れることができなかった。ましてや、武内宿禰は645年の乙巳の変いっしのへんのクーデターで、天智・天武側が打倒した蘇我氏の祖である。さらに、672年の壬申の乱じんしんのらんで権力を握った天武は土着の伊勢・尾張・美濃の勢力を基盤としており、外来の仏教よりも崇神すじん以来の天神地祇てんじんちぎの国神の方を重んじた。だから、記紀では架空の成務・仲哀・神功皇后を創作したのである。


 記紀によれば、武内宿禰は三輪王権の成務(350年ごろ~355年)と仲哀(355年~362年)、さらに河内王権の神功皇后(363年~389年)と応神(390年~394年)・仁徳(395年~427年)の5代にわたる大王に大臣として仕えたとされる。二つの王権をまたいでの大臣というのはあり得ないと考えるのが自然である。武内宿禰は記紀に記された異なる二つの王権をつなぐために創作され、しかも長命にされたと考えられている。しかし実際は、景行 -> 成務 -> 仲哀 -> 神功皇后 -> 応神 -> 仁徳、とつながる河内王権の実質的な最高権力者であり、河内王権の大王一族でもあった。そして、記紀では大王に使える忠臣のように描かれてはいるが、その行動は、あたかもオキナガタラシヒメを妃とし、ホムタワケ(後の応神)の父であるかのようである。もしそうであれば、武内宿禰と神功皇后、その子応神との親密さ、さらに武内宿禰が葛城氏・紀氏・蘇我氏など、大王家を構成した有力豪族の祖とされていること全てがよく理解できる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る