第25話 木羅斤資・木満致父子、そして武内宿禰とは誰か?
さて、
鈴木武樹は、“しかし、ここで注意しなくてはならないのは、倭王のこの朝貢の開始が決して周辺諸国から独立して見られるものではないということである。高句麗は336年に東晋へ、百済は372年に東晋へ、新羅は377年には前秦へ、それぞれが中国王朝への最初の朝貢を実施している。413年の倭国による東晋への朝貢は最も遅れている。この時代の朝鮮三国および倭(加耶)の相互関係は、高句麗に新羅が従属して、高句麗と新羅は百済・倭(加耶)の連合と対立していたという状態で、朝鮮半島南部の加耶地方には中国に朝貢するだけの勢力は未だなく、おそらくそこでは百済と、加耶・倭国(北部九州)の連合勢力と、新羅とが様々に入り組んだ形でもつれ合っていたようである。例えば、日本書紀の引用する「百済記」によると、この時期には「
この時期の加耶は百済の将軍の
・
・日本書紀の神功49年には、
「倭・百済による新羅攻撃が計画され、
・日本書紀の神功62年に引用されている「百済紀」には、
「壬午の年(382年)に、新羅が貴国に朝貢しなかったので、貴国は
さらに、「一説には、沙至比跪は倭王の怒りを知って、ひそかに倭国に帰り隠れていた。その妹が宮中に仕えていたので、ひそかに使人を遣わして、倭王の怒りが解けるかどうかを問わしめた。妹は、夢で沙至比跪を見たと倭王に申し上げた。倭王は大いに怒った。沙至比跪は許されないのを知って、岩穴に入って死んだ」、とある。
・日本書紀の応神紀25年には、
「百済の
・日本書紀の応神紀25年に引用されている「百済紀」には、
「
・
井上秀雄(元東北大学教授)によると、“日本書紀における百済記はヤマト王権に迎合的に書かれたので、ヤマト王権との関係は保留して読まなければならない。この木満致は任那(加耶)地方に本拠を持ち、百済・新羅とも関係があった人である。木満致が百済の文周王(在位475年~477年)を助け南に落ち延びた木劦満致であるなら、任那(加耶)地方を本拠とした小国王と見ることができる。そうすれば百済に好意を持つ小国王たちが百済王の遺児文周を擁立して第二の百済を建てたと考えるのが穏当である”、と述べて、木満致は加耶諸国の中の一つの国の
また、
では、
3~4世紀の朝鮮半島と大和との関わりをみると、それは奈良盆地の中央部・東南部のごく限られた地域に留まるが、5世紀になるとその様子が一変する。5世紀以降の奈良盆地の韓式系土器の分布を見てみると、大和川をさかのぼった支流の隅々にまで分布している。この土器の分布はヤマト王権、すなわち河内王権の下で朝鮮半島系の人びとが渡来したことを物語るもので、他の生産品からも様々な技術の移植に、渡来人が指導的な役割を演じ、大きな技術革新がおこった。それはまさに記紀に記された神功皇后(363年~389年)・応神(390年~394年)・仁徳(395年~427年)の時代の後半である。日本書紀によると、武内宿禰は仲哀期(356年~362年)に大臣となり、仁徳期の初期に死去とある。360年ごろから400年ごろまで大臣であったことになる。それが武内宿禰の活躍期であった。
・日本書紀では、武内宿禰は神功皇后と共に朝鮮へ出兵したことになっている。“武”は勇ましい、“内”は大王の側近、“スクネ”は古い時代から名前の下につけた尊称と推定される。父方は孝元の玄孫で、母方は紀伊の国造の祖(
・「紀氏
・古事記では、竹内宿禰の父は孝元の皇子であるヒコフツオシノマコト、母は紀伊国造ウズヒコの妹である山下
・神功皇后と応神の畿内入りを阻止しようと
・福井県敦賀市の
[
日本書紀の
武内宿禰は架空の人物とされるが、真の姿は一体誰なのか? 任那(加耶)を出自とし、オキナガタラシヒメ(神功皇后)とその子ホムタワケ(応神)を担いで大和に乗り込んだ人物は有能な武将であったに違いない。今まで数多くの歴史家あるいは文献史学者たちがその特定を試みているが、いまだに定説がない。しかし、最も可能性が高いと思われるのは、百済の近肖古王(346年~375年)の時代に百済の将であった
また、「百済紀」に記載されている壬午の年(382年)に、
・北部九州勢と思われる倭人も出兵した369年に百済は高句麗を破り、371年には平壌城を奪った。しかし、400年には高句麗軍が任那加羅城(金海)を攻略、そして高句麗が再び5万の大軍を発し、407年には百済を攻撃し、百済・倭連合軍を撃破した。この後、高句麗軍は北へ戻り、百済と加耶は再び高句麗と新羅へ攻勢をかけている。
・広開土王碑によると、北部九州の倭人勢力は少なくとも391年から407年までの17年間、百済や加耶諸国と連合し、高句麗や新羅と激しく戦ったのは歴史的事実である。
北部九州勢と思われる倭人も出兵した369年から、広開土王碑に記載された391年から407年までの17年間に至る、朝鮮半島南部における激動の時代に、加耶(任那)で活躍したのは木羅斤資と木満致父子であることは間違いない。4世紀後葉から5世紀前葉までの加耶地方は、百済出身の武将木羅斤資と、その子である木満致によって、北部九州勢との連携を基盤として支配されていたのである。
そして、そのころの日本列島では、「第21話 加耶からの渡来と北部九州の平定」、第22話「景行一族による北部九州から近畿への東征」で述べたように、次のような状況にあった。
・景行は350年代に筑紫と周防に攻め入り、次に中九州の狗奴国(熊襲)と戦い、その子であるヤマトタケル(ヲウス)と成務の兄弟、さらに仲哀・神功皇后夫婦と三代にわたる狗奴国(熊襲)との熾烈な戦争を戦い抜き、最後に武内宿禰の助けを借りて、長い努力の末に北部九州から周防一帯を支配することができたと思われる。北部九州を平定したのは神功皇后の時代(363年~389年)と推測する。
・ホムタワケ(応神)は伊都国で生まれ、母であるオホタラシヒメ(神功皇后)とともに北部九州から東進し、
・高句麗による百済・加耶地域への攻勢に備えるためにも、加耶・北部九州連合は日本列島における勢力拡大を急いだはずである。国の奥行を深くして、国力を増大させることが大和地方への東征の動機であった。
・413年に東晋に遣使した応神と思われる「倭王」は筑紫にいた。東征後30数年を経て、河内平野の開発が進んだことから420年ごろに河内の難波へ遷都した。それは、加耶が高句麗に対抗するために、日本列島の東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達してそこから多くの兵力を徴用することを目的としていた。また、本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移して国の奥行を深くして背後を固めるためでもあった。そのために、北部九州から瀬戸内海を経て河内・大和地方への東遷を決意したのである。
では、まだ若い応神を連れて、神功皇后とともに東進したとされる武内宿禰は本当に木羅斤資と同一人物なのか? 加耶地域は息子の木満致に任せて、木羅斤資は北部九州と大和地方の制圧に専念したのかもしれないが、それはよくわからない。しかし、木羅斤資と木満致の「木」は木(もく・き)氏、すなわち紀(きの)氏に通じる。5世紀後半の
・日本書紀の
「紀大磐宿禰は、任那を股にかけて、高麗(高句麗)と通交した。 西方で、三韓の王となろうとして、官府を整え終わって、自ら
[
日本書紀では、ニニギの天孫降臨のときに、
紀ノ川河口には5世紀から7世紀前半にかけて築造された古墳群がある。そこからは高句麗系の大量の横穴式石室が出ている。また、鳥形埴輪・両面埴輪・
[
487年に起きた加耶地域北部をめぐる百済と任那(加耶)の
なぜ記紀は武内宿禰を創造したのか、それは明白である。任那(加耶)から来た百済の将であった
武内宿禰が実際には百済の将であった木羅斤資とすれば、663年の白村江の大敗後に朝鮮半島から追い出された天智・天武の時代には受け入れることができなかった。ましてや、武内宿禰は645年の
記紀によれば、武内宿禰は三輪王権の成務(350年ごろ~355年)と仲哀(355年~362年)、さらに河内王権の神功皇后(363年~389年)と応神(390年~394年)・仁徳(395年~427年)の5代にわたる大王に大臣として仕えたとされる。二つの王権をまたいでの大臣というのはあり得ないと考えるのが自然である。武内宿禰は記紀に記された異なる二つの王権をつなぐために創作され、しかも長命にされたと考えられている。しかし実際は、景行 -> 成務 -> 仲哀 -> 神功皇后 -> 応神 -> 仁徳、とつながる河内王権の実質的な最高権力者であり、河内王権の大王一族でもあった。そして、記紀では大王に使える忠臣のように描かれてはいるが、その行動は、あたかもオキナガタラシヒメを妃とし、ホムタワケ(後の応神)の父であるかのようである。もしそうであれば、武内宿禰と神功皇后、その子応神との親密さ、さらに武内宿禰が葛城氏・紀氏・蘇我氏など、大王家を構成した有力豪族の祖とされていること全てがよく理解できる。
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