第24話 加耶の有力国と栄山江流域、騎馬文化の伝播

 加耶は三韓の時代(紀元~3世紀)に「弁辰(弁韓)」と呼ばれた地域と「倭」と呼ばれた地域の集合体である。また、当時の「倭」には、朝鮮半島西南端に位置する栄山江よんさんがん流域も含まれていた。


・「後漢書」韓伝に「馬韓は西に在り、54国を有し、その北は楽浪と、南は倭と接す。辰韓は東にあり、12国を有し、その北はわいはくと接す。弁辰(弁韓)は辰韓の南にあり、亦た12国を有し、その南亦た倭と接す」、とある。倭は朝鮮半島南岸地域のほぼ全域にあった。


 4世紀、朝鮮三国時代(4世紀~7世紀)に入ると、洛東江以西地域に存在していた弁韓諸国の中から金官加耶・阿羅加耶・大加耶などが有力な勢力として登場する。しかし、それらの勢力は最後まで単一の勢力となりきれないままであった。加耶史からみると日本列島の倭国の加耶への関与は局部的であり、金官加耶きんかんかやの滅亡後は阿羅加耶あらかやとの関係が残っていた程度である。但し、倭系の貴族は加耶諸国にかなりいた。それは日本列島の北部九州・吉備・近畿の勢力との強いつながりを物語る。


 加耶の有力国の詳細を述べる前に、朝鮮半島の古代史をより深く理解するため、吉井秀夫(京都大学准教授)による朝鮮半島の地理的環境を見ておく。


 朝鮮半島は中国東北部から南に伸びる南北約1000キロ、東西約250キロの半島である。北側は鴨緑江おうりょくこう豆満江とまんこうを境として、中国とロシアに接し、東西は海に囲まれ、南側は朝鮮海峡を挟んで日本と向かい合っている。ユーラシア大陸の東端に位置する朝鮮半島は、日本に比べて空気が乾燥しており、気温の年較差は大きい。但し、南北に長い地形のため地域による気候の違いも大きい。日本の京都や名古屋とほぼ同緯度の朝鮮半島南海岸は、西日本と同様の照葉樹林帯に属する。日本の東北地方とほぼ同緯度のソウルや平壌ぴょんやんは落葉広葉樹林帯にあたる。朝鮮半島の古代国家である高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎの王都はいずれも落葉広葉樹林帯に属している。日本の古代国家形成に深く関わる地域のほとんどが照葉樹林帯に属していることとは対照的である。これは農業生産の基盤が異なっていたことを意味する。朝鮮半島の背骨ともいえる太白たいはく山脈は、朝鮮半島の東海岸近くを北西から南東に伸びる。そこから肋骨のように北東・南西方向に幾筋もの山脈が伸び、地理的な境界を形成している。太白山脈の位置が半島の東側に偏っているために、西海岸および南海岸に向って流れる川は傾斜が緩やかで長く、その周囲には平野が発達している。また、西海岸と南海岸は、海岸線が入り組み、大小多くの島々が散在する。こうした地理的特徴は海上交通を発達させるための拠点となる港の形成に適した地形を提供している。一方、東海岸に流れる川は、太白山脈と海岸との距離が近く、豆満江を除いて流路が短くて傾斜度が大きいため、平野は発達していない。

高句麗の二番目の王都であった集安しゅうあんは鴨緑江中流域の北岸に位置する。西海岸の大同江だいどうこう中流域の北岸に位置する平壌は、高句麗の最後の王城が置かれた長安城と同じ位置にある。大同江を挟んで南側には楽浪郡が置かれたと考えられる楽浪土城があり、楽浪漢墓と呼ばれる墳墓が多数築造された。ソウルと高麗こうらい王朝(936年~1392年)の王都があった開城けそんの中間を流れる臨津江りんじんこうは高句麗と百済の領域を分けていた時代が長かった。ソウルが北岸に位置する西海岸の漢江かんこうは上流で南漢江と北漢江に分かれ、その流域面積は広い。漢江を挟んで南側には、百済の最初の王都である漢城の遺跡が広がっている。

西海岸のさらに南にある錦江きんこう流域には、扶余ふよ松菊里そんぐんり遺跡に代表される青銅器時代から初期鉄器時代にかけての遺跡が分布し、細形銅剣を中心とする多様な青銅器も多く出土している。475年に高句麗によって漢城を失った百済は、錦江流域の熊津ゆうしん(今の公州市)を王都として再興をはかり、538年にはやや下流の泗沘しひ(今の扶余)に遷都した。錦江の上流は蟾津江せんじんこうの上流や洛東江らくとうこうの支流である南江なんこうの上流と接しており、加耶の南海岸や内陸部と百済を結ぶ交通上の要地であった。

朝鮮半島西南端に位置する栄山江よんさんがん流域は自然環境に恵まれた穀倉地帯である。三国時代においては、独特の形態の甕棺かめかんを埋葬する独自の墓制が展開した。また、前方後円墳が築造された地域として注目さているが、それ以前から日本列島との交流があり、日本にとって重要な地域である。朝鮮半島の東南部を南北に流れる洛東江およびその支流南江などの流域に沿って多くの盆地が連なっている。三国時代においては、各盆地を単位として加耶諸国とその独特な文化が広がっていた。

新羅の王都であった慶州は東海岸南部の浦項ほこうに河口を持つ兄山江きょうさんこう流域に位置するが、洛東江流域との関係が深い地域である。


 次に、加耶の有力国の位置を確認しておく。朝鮮半島東南部の洛東江流域に散在していた加耶の諸部族は、洛東江以西の地域にあって、西と北が各々智異山ちりさん加耶山かやさんに阻まれて、他の地域と隔離されていた地域である。その有力国の金官伽耶きんかんかや卓淳とくじゅん阿羅加耶あらかや(安羅加耶)は洛東江の下流域にあり、小加耶しょうかやは洛東江の支流で西方から洛東江に合流する南江の中流域にあり、多羅たら大加耶だいかやは洛東江の中流域に位置する。洛東江河口近くの西側に金官加耶、その西側に卓淳、その西側に阿羅加耶、その西側に小加耶というように並んでいる。小加耶のさらに西側には智異山がある。多羅は金官加耶から洛東江を北へさかのぼり、洛東江の中流域に至り、その洛東江沿いの西側にある。大加耶は多羅の北側に位置する。大加耶のすぐ北西には加耶山がある。


1)金官伽耶きんかんかや(金官国)

三国志東夷伝韓条(魏志韓伝)では弁辰12国の一国の弁辰狗邪国べんしんくやこく、広開土王碑では任那加羅みまなから、三国史記では金官国きんかんこく南加羅みなみから、金官加耶と称されるのは532年に滅亡後の7世紀後半以後のこと、魏志倭人伝では狗邪韓国くやかんこく、日本書紀では任那みまなと表記される。三国遺事にある駕洛国記からこくきは金官加耶の歴史を記したものである。今の洛東江の河口、金海きめ地方にあった。金海は洛東江河口の西側に位置し、北・東・西側を山に囲まれている。南側は朝鮮三国時代において海であったことがわかっており、桟橋の跡も見つかっている。金海は海上交通の拠点としての役割を果たしていた。海上交易が生産基盤であったが、それに増して南西10キロには周囲が鉄鉱山に囲まれた盆地があり、製鉄が行われ鉄鋌てっていが生産されていた。三韓時代(紀元前後~3世紀)から南部加耶の中心地であり、4世紀を中心に盛行し加耶諸国の盟主となった。5世紀初めまでの王や王族の墓は大成洞てそんどん古墳群にある。加耶諸国で大伽耶と共に最も有力であったが、5世紀に入ると400年の高句麗による侵攻を境にして衰退し始めた。滅亡は532年、新羅に併合された。そのときに新羅は金官加耶の王族を新羅の都金城(今の慶州)に移して、その本国(金官加耶の領土)を食邑しょくゆうとして与えて、新羅の上級貴族の中に取り込んだ。

良洞里やんどんに遺跡>

慶尚南道金海きめ市の良洞里墳墓群にはBC2世紀末から4世紀までの500年間にわたる墓がある。これまでに三韓時代(紀元前後~3世紀)から三国時代(4世紀~7世紀)の木棺墓42基、木槨墓408基、竪穴式石槨墓32基、甕棺墓73基などが検出され、三韓時代の墓制が木棺墓から木槨墓へ、三国時代になると竪穴式石槨墓へ変遷することが明らかになった。墳墓群の中心時期は大型木槨墓が集中して築造された2~3世紀とみられる。最古期の積石木棺墓である70号墓はBC2世紀末あるいはBC1世紀初頭に位置づけられる。良洞里および大成洞において墳墓が群集して築造され始めるのは、1世紀になってからであり、集団内での階層化の進行も比較的ゆるやかである。この段階の墳墓には鉄器の副葬が普及し、鉄剣・鉄矛・鉄やじりなどの武器類、鉄鎌・鉄斧・刀子などの農工具が副葬される。また、北部九州との交流を示す小形仿製鏡も出土している。2世紀には大型木槨墓が登場し、多数の鉄製品・中国製品の他、銅矛や鏡など北部九州の製品も出土している。広い地域と交流をもった支配者あるいは王の墓とみられ、吉備の楯築たてつきなど倭国の大型墓とほぼ同時期に登場する点は注目される。1世紀から3世紀前半までの狗邪くや国の中心邑落は良洞里遺跡周辺にあったとみられるが、それを構成する集落の様相はよくわかっていない。この遺跡の最大の特徴は楽浪郡および北部九州との交流を示す遺物が多く副葬される点である。楽浪系は後漢鏡・銅鍑どうふく(湯を沸かすための容器)・鉄鍑・銅鼎どうてい(三足器)などで、倭系は小形仿製鏡・中広形銅矛・広形銅矛などである。

大成洞てそんどん遺跡>

慶尚南道金海きめ市にある金官加耶の首長墓(王族)を中心とした遺跡。三韓時代(紀元~3世紀)から墳墓が築造されていたが、三国時代になると、3世紀後半から5世紀前半の大型木槨墓では馬具や武具、装身具、巴形銅器、鉄鋌など、北方系や倭系も含めて豊富な副葬品が発見されている。副葬品の中で注目されるのが、外来系遺物の存在である。銅鍑・虎形銙帯かたいや馬具類はいわゆる北方系文物であり、一方、筒型銅器・巴形銅器・鏃形石製品・紡錘車形石製品など日本列島の古墳時代前期の特徴的な遺物である文物が出土している。なかでも、槍の石突、あるいは玉杖の装飾と推定される筒型銅器は日本の古墳時代前期における代表的な副葬品である。しかし、大成洞墳墓および釜山の福泉洞ぽくちょんどん墳墓群での出土例が増加した結果、その総数は日本での出土数に匹敵し、一つの古墳での出土数が日本では1~2個であるのに、2個あるいはそれ以上を集中的に副葬する例が少なくない。こうした状況から、筒型銅器は金海・釜山地域で製作され、日本にもたらされた可能性が大きく、大成洞墳墓群の被葬者たちが、倭の諸勢力、なかでも近畿勢と密接な関係を有していたと考えられる点が重要である。但し、大成洞の大型墳墓は5世紀の前葉を境に築造を停止する。こうした変化の歴史的背景として、広開土王碑に記録された高句麗軍の南下を契機として金官加耶が衰退したことが関係すると考えられる。

4世紀前半の13号墳は6x3.7メートルの大形木槨墓で、鉄製武器をはじめとする豪華な副葬品や3人の殉葬などが認められ、王墓と考えられている。4世紀後葉の68号墳からは朝鮮半島南部で最も古いくらくつわあぶみなどの馬具が出土している。これらはしんの馬具の影響を受けていると思われる。88号と91号墳からは中国の晋の帯金具や中原のもの、中国の東北の三燕(鮮卑せんぴ慕溶ぼよう氏による前燕(337年~370年)・後燕(384年~409年)・南燕(398年~410年))の器、シリア周辺で製作されたローマングラス、琉球のイモガイ製の馬具、日本列島の巴形銅器などが出土している。五つの地域のものが集まっているのは、当時の金官加耶が鉄の貿易を中心に、日本列島・朝鮮半島・中国北部との交流の中心的な役割を果たしていたからと考えられる。4世紀代において、金官加耶から鉄など中国産の様々なものが日本列島に送られ、その見返りに筒型銅器や巴形銅器を入手したと思われる。大型木槨墓は楽浪郡の中国系官人が営んだ本格的な木槨墓があり、その影響が加耶など朝鮮半島東南部に及び、さらに倭国の弥生時代後期の木槨墓に影響を与えたと思われる。江上波夫によれば、木槨墓はもともとスキタイを代表する墓室で、中央アジアのサカやアフガニスタンの月氏などの間で紀元前後まで広く採用されていた。騎馬民族にとって祭事や宴会や儀式に欠かせないオルドス型ケトル(銅鍑どうふく)が金官加耶の王墓から出土したことは、その出自が東北アジアの騎馬民族であったことを有力に示唆する。

大成洞の古墳群は5世紀初頭~前葉を最後に首長墓の築造が中断する。金官加耶の王族や有力者たちはどこへ行ったのか? 5世紀初頭といえば、河内王権が始まる時期で、その王権は倭の五王を輩出している。その背景には高句麗の加耶侵攻と新羅の洛東江下流域への進出があり、事実上金官国がいったん滅亡し、それを盟主とする前期加耶連盟も瓦解したと考えられる。

福泉洞ぽくちょんどん遺跡>

5世紀に入ると金官加耶は衰退し、洛東江河口の対岸にある釜山ぷさん福泉洞ぽくちょんどん遺跡に中心が移る。4世紀前半の38号墳の木槨墓からは、朝鮮半島南部では最古の鉄板製かぶとや短甲、馬面冑、筒型銅器、初期の陶質土器のほか、日本列島製と思われるオレンジ色の瑪瑙めのうやじり翡翠ひすい勾玉まがたまも出土している。大阪府八尾市の大竹西遺跡で布留ふる式の土師器はじきと共に出土したオレンジ色の瑪瑙の鏃と全く同じものである。くつわ小札こざねをおどした札甲さっこうは遼寧省の慕溶鮮卑ぼようせんぴのものと類似している。被葬者は初期の金官加耶を構成する勢力の一つであったが、5世紀以降は新羅の政治的影響を受けながらも5世紀後半まで倭系遺物が副葬されている。


2)卓淳とくじゅん

金官加耶の西の現在の昌原ちゃんうぉんにあったという説が有力である。倭王権と卓淳国との関係は日本書紀や好太王碑の391年の記事からさかのぼると364年までたどることができる。日本書紀・神功46年(364年)に、斯摩しま宿禰を卓淳国に派遣したときの卓淳国王は末錦旱岐まきんかんきである。その卓淳国を仲介役として倭は百済と軍事同盟関係となる。それを記念して369年に作られたのが「七支刀しちしとう」である。卓淳国の古墳の大部分は円墳で、内部には日本の竪穴式石室に共通した構造の石室が設けられている。卓淳国は532年に南加羅(金官加耶)その他とともに新羅に併合された。第10話の「倭国王の誕生」で言及したように、昌原ちゃんうぉんにあるBC1世紀中ごろ~紀元後1世紀の茶戸里たほり遺跡は、倭人社会の東アジアとの接点を考える上で重要な遺跡である。


3)阿羅加耶あらかや(安羅加耶)

金官加耶の西の現在の咸安はまんにあった。魏志韓伝にある弁辰12国の一国の「安邪あや国」がその前身であり、日本書紀の欽明紀には「安羅あら」が国名としてたびたび登場する。三国史記では「阿那加耶」、三国遺事では「阿羅加耶」と記される。このように3世紀から6世紀まで表記は異なるが、同じ国名が現れる。

4世紀後半に倭・百済と同盟し、400年の高句麗南下のときには金官加耶に援軍を送った。520年代に新羅が金官加耶に侵入すると、倭や百済に救援を求めた。反新羅の有力国で、532年以後、現地の倭系安羅人や加耶諸国の旱岐かんきなどの首長たち、それに百済と折衝し仲介する倭王権から遣わされた官人が駐在して、しばしば会議がもたれた。日本書紀の任那みまな日本府の実態はこれでであった。562年には大加耶が新羅に滅ぼされ、やがて他の諸国もすべて新羅に吸収されたが、その時に新羅に降った。安羅あら安耶あやあやの音から東漢やまとのあや氏の故地を安羅あらとする説は根強く、東漢やまとのあや氏、西文かわちのふみ氏は安羅出身と考えられている。飛鳥あすか安村あすかで、安羅から来た人たちの村の意である。 天日槍あめのひぼこも、日本書紀には新羅の王子とあるが、その当時新羅は未だ成立しておらず、実際は三輪王権と深いつながりのある安羅加耶から来たと考えられる。

咸安はまんには、道項里どはんに末山里まるさんに古墳群がある。


4)小加耶しょうかや

慶尚南道の洛東江の西方にあった。金官加耶より西方の固城こそん・生草・晋州を本拠とする集団。固城の南東には巨済こじぇ島があり、入り組んだ海岸線と小島が連なっている。巨済島南端から対馬海峡を渡れば倭国には最も近い。小加耶様式の陶質土器は九州の朝倉や四国の初期須恵器に強い影響を与えた。固城の西が泗川さちょん市で半島側から1.7キロの狭い水道を挟んだところに勒島のくどと呼ばれる小島がある。ここが1~3世紀の朝鮮半島南部最大の交易拠点であった。楽浪土器・弥生土器が集中的に出土し、楽浪の中国人や倭人や在地の加耶の人びととの間で盛んに交易が行われていた。巨済島の古墳には北部九州型横穴式石室、土師器はじきなど日本列島の倭人の墓と推定される円墳がある。この時期は朝鮮半島南岸地域と対馬・壱岐・北部九州は一つの文化圏であり、倭人の生活圏であったといえる。


5)多羅たら

多伐たばつとも呼ばれ、金官加耶の北方にあった。瀆盧国とくろこくは後の任那にある「多羅」のことと推定されている。「弁辰は辰韓と接す。其の瀆盧国とくろこくは倭と界を接す」とあり、三韓時代(紀元~3世紀)は倭ではなく、弁辰(弁韓)に属していたことになる。鈴木武樹は馬韓の月支げっし国にいた辰王が弁韓につくった国は、その発音から月羅(ta-r-ra)=多羅であり、その建国は3世紀後半とみる。 

玉田おくちょん古墳群>

高霊こりよんの南西にあたる加耶中部の多羅に比定されている陝川はぷちょんにある。古墳群は、石室ごとに墳丘をもつのではなく、低い丘陵上に密集して造られている5世紀中葉から6世紀初めまでの共同墓地あるいは集団墓地的な様相を示している。しかし、その中には、70号墓のように、武具・甲冑類、大刀などの武器、馬冑(馬面)など、豊富な鉄製品が出土した石室墳も含まれている。また、3号墳は竪穴式石室で、まさに加耶の典型的な墓制と言える。そこには主槨と副槨があって、主槨には鋳造斧形品が棺の台の下に敷かれ、その周囲に武器・武具が置かれている。さらに重要なのは、文様が象嵌ぞうがんされた大刀や環頭大刀が9口以上存在していることである。被葬者の頭近くには馬甲ばこうと馬冑(馬面)が置かれ、よろいや飾り馬具なども出土している。被葬者は騎馬の武人とみられる。11号墓は横穴式石室をもつ王陵級の6世紀前半の墓である。


6)大加耶だいかや

伴跛はへとも呼ばれ、加耶北部の高霊こりよんにあった。「南斉書」には加羅から国、「日本書紀」には加羅からと記されている。5世紀後半から台頭し、6世紀には加耶と百済の国境地帯の麗水よす周辺の四県を保有していたと考えられている。その地からは大加耶様式の土器や金製の装身具が出土している。この様式の装身具は5世紀後半から6世紀前半まで日本列島の有明海沿岸・若狭湾沿岸・紀伊・武蔵などの中大形前方後円墳から出土している。大加耶は百済に影響された独自の文化を作り上げていた。その一つは5世紀後半の龍鳳文の大刀で、稲荷山鉄剣とよく似た書体の象嵌を持っている。大伽耶の近くにも鉄鉱山があり、金官加耶の滅亡後は、後期加耶連盟ともいえる北部加耶諸国の盟主となるが、562年に新羅に吸収された。

池山洞ちさんどん古墳群>

慶尚北道高霊こりょん郡にあり、大加耶時代の大小700基ほどの古墳群で、大加耶の王陵と考えられているのは32号墳(径13(径27メートルの円墳)メートルの円墳)、44号墳(径27メートルの円墳)、45号墳(径28メートルの円墳)である。高霊の西に位置する美崇山みすんさんが鉄鉱山であり、鉄生産が行われていたと推定される。池山洞44号墳は大型円墳で中央に主石室(石槨)、南側と西側に副石室(石槨)がある。22体以上の人骨が出土し、韓国で初めて殉死者の埋葬が確認された。装飾大刀や冠などの装身具と形や意匠・材質を共有する装飾馬具が5世紀後半の有力古墳に副葬されている。大加耶の装飾馬具には長期にわたる新羅的要素と百済的な要素の双方が認められる。32号墳の甲冑のうち鋲留短甲・衝角付かぶと・頸甲・肩甲などの一式や、45号墳の銅鏡は日本列島産のものと考えられる。32号墳の金銅冠が、福井市の5世紀後半の二本松山古墳(90メートル)から出土した鍍金冠に類似している。越前(福井)の高向たかむこは継体の母振媛ふりひめの出身である。


7)栄山江よんさんがん流域

朝鮮半島西南端に位置する栄山江よんさんがん流域は、後に任那みまな四県と呼ばれ、512年に百済へ割譲された地域である。全羅南道(朝鮮半島西南部)を中心とした栄山江流域は百済の南進(477年の熊津への遷都以後)とともにその勢力下に組み込まれたが、独立した地域であり、古くから北部九州とのつながりも深い。栄山江流域の土器は、3世紀以降日本列島各地で出土している。また、蓋杯などの日本の須恵器における代表的な器種の一部は、この地域の土器と共通する。こうしたことからみて、栄山江流域の地域集団と日本列島の諸集団との間には長期間にわたる交流関係があったと考えられる。この地域の墓制は百済とは異なる。特に5世紀後半~6世紀には複数の異なる方式が混在する。特徴的なのは北部九州と同じ甕棺かめかんがあり、この甕棺を墳丘に複数納めてある。5世紀後半には、同時期の百済の王墓を凌駕する径45メートル、高さ9メートルを越えるような大型墓が登場する。この地域の墳墓には倭国の古墳と共通するところがある。また、この地域には現在14基におよぶ5世紀後半~6世紀前半の前方後円墳も存在する。但し、その多くは平面積に対して墳丘が非常に高いという特徴がある。内部は盗掘を受けており出土品は少ないが、残存品はいずれも百済に特徴的な土器・鉄器・装飾具である。一部には鉄の武器・武具・農具・馬具、金銅製の装身具なども出土している。墓室は北部九州系の横穴式石室で、埴輪と共通する土製品や木製品なども出土した。特に、筑前・豊前・肥前・肥後の豪族との密接な関連性がうかがえる。

さらに注目されるのは、5世紀前半以降の「倭系古墳」の存在である。これらは全羅南道海岸の海辺の近くに立地する竪穴系埋葬施設を持つ円墳で、倭系甲冑などが副葬されている。5世紀は倭の五王の時代であり、6世紀前半は継体から欽明に至る時代に当る。また、朝鮮半島南部に日本産の須恵器が集中的に流入するのは5世紀中ごろ~6世紀初頭に当るのはこれらの前方後円墳築造と大いに関係がある。6世紀前半における栄山江流域の墳墓には、在地的な要素、百済的な要素と、日本列島に起源を持つ要素が混在している。こうした状況が出現した歴史的背景の一つは、百済の熊津ゆうしん(現在の公州市)への遷都以後に、百済勢力が栄山江流域および洛東江以西地域の加耶諸国に影響力を強めようとしたことがあげられる。


 加耶の歴史と社会文化は朝鮮古代史の中で最も不明である。それは、三国史記で、高句麗・百済・新羅のような独立した本紀を持ちえなかったことが第一であり、次に、他の三国の本紀に加耶の記事が載っていても、その内容がわずかで貧弱であるがためである。加耶諸国は統一されないまま、新羅膨張の波に飲み込まれ、新羅に同質化されてしまったため、独自の文献記録を持ちえなかった。

朝鮮半島南部の加耶と栄山江流域は、地理的に日本列島に近いことから日本列島勢力と深い関係があった。朝鮮半島の倭系文物は、現在のところ南海岸および西南海岸沿いに集中して分布する。これは地理的条件から見れば、ごく自然なことである。

古墳時代の日本列島に伝来した渡来文化は体系立って流入したものが多いが、その渡来文化の故地は一つではなかった。加耶の影響が一番大きいが、百済・新羅・栄山江流域など、様々な地域の文化や文物が入ってきているのも大きな特徴である。一方、日本列島から朝鮮半島へ渡った文物は、土師器・須恵器・馬具・大刀・甲冑・巴形銅器・石製模造品・南島産ヤコウガイ製の杓子しゃくし、さらに前方後円墳や埴輪などがある。しかし、一過性のものが多く、通時的にみられるものは少なく、定着した状況はみられない。それらは日本列島の各地域勢力が北部九州や大和地方を介さず、それぞれが独自に朝鮮半島諸国や勢力とつながっていたと考えられる。


[加耶から日本列島の倭国への騎馬文化の伝播]

日本列島に定着していった騎馬文化の組織的な受容は、395年から410年にかけての高句麗広開土王による南進が契機となっている。広開土王の治世中に亡くなったちんの墓の壁画には、牛車に乗った主人公の人物を、馬冑(馬面)をつけた鎧馬の重装騎兵が取り囲み、それをさらに軽装の騎兵が取り囲んでいる。この重装騎兵を彷彿とさせる陶質土器が加耶の金海きめで出土している。日本列島の倭国は4世紀中葉には金官加耶を介して、前燕(337年~370年)の慕溶鮮卑ぼようせんぴ系の馬具や騎馬文化を受容できる可能性はあったが、それは400年以降からとなった。この半世紀の時間差は、馬具技術の流出を規制していた金官加耶が400年に高句麗の南進で大打撃を受け、その後の金官加耶の支配層の亡命などで日本列島の倭国に4世紀の鮮卑馬具が入ったと考えられる。岡山県の5世紀前半の榊山さかきやま古墳から出土した龍文透かし彫り金具(バックルの飾り金具)は、4世紀前半から中頃の慕溶鮮卑あるいは同時期の金官加耶の王陵級古墳から出土しているものと同形である。慕溶鮮卑の馬具がまとまったセットで、いきなり朝鮮半島南端の金海まで持ち込まれたのは、鉄の求心力であったと考えられる。金官加耶の故地にあたる釜山市福泉洞ぽくちょんどん古墳群の5世紀中葉の首長墓から高句麗系の甲冑類・馬具類が出土している。日本列島の倭国にとって加耶諸国による対高句麗戦が直接に利害にかかわる課題となっていた。

奈良県橿原市の南山4号墳では加耶陶質土器の軽装の騎馬人物形土器が見つかっている。応神期(4世紀後葉)に百済から雌雄一対の馬がもたらされ、軽の坂上のうまやで飼育したと日本書紀にある。その背景には葛城の集団がいた。武内宿禰あるいは葛城襲津彦の墓という伝承のある室大墓むろのおおはかでは、加耶の舟形陶質土器の破片が出土している。渡来人移住の背景には葛城氏と加耶との親密な関係があると思われる。5世紀の初めには馬や馬具が倭国にも定着し始めたことは兵庫県の行者塚古墳のくつわなどが物語っている。

倭国の馬具の系譜は鮮卑馬具から伝わったものであるが、最も大きな影響は加耶から受けている。しかし、最近は百済もその候補と推定する意見がある。5世紀初頭に福岡県朝倉市の池の上古墳群や福岡市の老司古墳でくつわなどが出土している。日本での出土例で有名なのは、埼玉県の埼玉さきたま古墳群の稲荷山古墳と将軍山古墳である。時期は稲荷山鉄剣の銘文と同時期の471年ごろである。大阪府百舌鳥もず古墳群の履中陵の陪塚として知られる七観しちかん古墳からは5世紀前葉あるいは5世紀中葉の初期馬具が出土している。そのくつわは加耶様式である。大山だいせん古墳((伝)仁徳天皇陵)の前方部の石槨から2点のローマングラスが出ているが、皿と椀という組み合わせは新羅で見られるものと同じである。倭国における馬具の系統は、5世紀初頭の南部加耶の金官加耶系から始まり、その後、5世紀のある段階から新羅系、そして百済系、北部加耶の大加耶系と転換していく。

最古の本格的な馬匹生産の事例は、5世紀前半から渡来人が集落を形成し始める大阪府の生駒山西麓の河内湖周辺の四条畷市蔀屋しとみや北遺跡において確認できる。これらからの馬具類は朝鮮半島東南部の金海・陝川地域の型式をルーツとしつつも、畿内地域で渡来人馬具工人だけでなく、在来の工人も参与し、生産されたと考えられる。また、遺跡周辺で確認された土器による製塩に関しても、馬には多量の塩が必要であることから、牧経営を補完した在来の産業の一つといえる。しかし、5世紀前半段階の馬具については、耳飾りなど他の朝鮮半島系遺物の様相も踏まえれば、多元的な入手・生産ルートが想定できる。その後、時を余り経ずに、長野の伊那谷で確認できる。さらに北関東・遠江でも、5世紀には畿内主導で渡来人により馬匹生産されていたが、地域ごとに様相が異なっていることから、入手ルートは異なっていたと考えられる。古墳時代の馬の大きさは、馬の背が120~130センチほどの現在のポニーよる少し大きめ程度であった。


[近畿地方における初期馬具出土の古墳(5世紀前葉)]

・行者塚古墳(兵庫県加古川市、99メートルの前方後円墳):

近畿地方では最も古く、4世紀末から5世紀初頭。くつわは百済・金官加耶系、鉄鋌てっていは金海・釜山地域のもの、鉄鍑は金官加耶の前身の狗邪韓国。この古墳の被葬者は直接的に朝鮮半島南部との繋がりを持っていたとみられる。播磨地域からは渡来系文物が比較的多く見られ、4世紀後半の窯跡から出土した土器は百済土器に類似している。

・南山4号墳(奈良県橿原市、18メートルの円墳):

5世紀初頭の築造。くつわは釜山地域、鉄鋌は加耶・新羅地域、高坏形器台は阿羅加耶系。近接する集落遺跡からは4世紀末から5世紀初頭の陶質土器と軟質土器が出土しており、その系譜は加耶および百済に起源が求められる。これは飛鳥地域に渡来人の存在が確認できる最初の資料である。

・鞍塚古墳(大阪府藤井寺市、48メートルの帆立貝形の前方後円墳):

鉄鋌てっていは金海・釜山・阿羅加耶地域、馬具や鉄鋌が副葬品箱や副室に別途入れられていた点は副槨に副葬するという朝鮮半島南部の影響とみられる。

・七観山古墳(大阪府堺市、径56メートルの円墳):

上石津ミサンザイ(365メートル)の陪塚といわれる。木心鉄張輪鐙わあぶみが出土している。5世紀中頃の滋賀県蒲生郡安土町の新開一号墳からも出土。これらに酷似する輪鐙わあぶみは釜山市の福泉洞ぽくちょんどんから出土しており、5世紀前葉とされている。さらに、新羅の皇南洞ふぁんなむどん、高句麗の吉林省集安からも出土している。これらの起源は5世紀初頭の遼寧省の北燕にあると思われる。

・大谷古墳(和歌山市):

1958年の発掘で、金銅製の馬具のセットが出土している。特に馬甲ばこうと馬冑(馬面)は、当時、北東アジアで唯一であった。その後、釜山の福泉洞ぽくちょんどん、慶尚南道陝川はぷちょん玉田おくちょんM三号墳などで見つかり、現在では16例を数える。


[近畿以外の初期馬具出土の古墳(5世紀前葉)]

他にも出土例はあるが、ここでは代表的な熊本県のみ掲載する。熊本は狗奴くな国の領域だった。

・上生上ノ原3号墓・八反原2号墓(熊本県菊池川上流):

出土したくつわは、その形態的特徴から百済や金官加耶周辺からもたらされた可能性が高い。菊池川流域からは、これ以降も連綿と馬具の出土が確認されており、渡来系による組織的な馬匹ばひつ繁殖が推定される。


[馬具・装飾金具]

馬具は中国のしんの時代(265年~317年)に初めてくらあぶみが登場し、それが刺激となって慕容鮮卑ぼようせんぴに金銅製の馬具が出現し、朝鮮半島諸国や日本列島に影響を与えた。くつわくらあぶみを基本とする馬具の中には金や銀などで装飾するものがあり、これらを一括して装飾馬具と呼んでおり、鏡板かがみいたくつわ杏葉ぎょうようはその代表例である。鏡板は馬の口の両端に付ける金具のことで、杏葉は轡や鞍の後方に付けた飾りである。では、日本列島の古墳時代に見られる装飾馬具はいつ、どこで成立したのか? 中国の魏晋南北朝の中原からは未だ出土していない。しかし、中国東北部遼寧省の西半に当たる遼西に、日本の古墳時代前期から中期前半に並行する晋から五胡十六国時代(304年~439年)にかけて、この地域に慕容鮮卑ぼようせんぴが移住し、鮮卑せんぴ慕溶ぼよう氏による三燕さんえん(前燕(337年~370年)・後燕(384年~409年)・南燕(398年~410年))を建国した。彼らの墳墓からの出土品から鏡板轡をはじめとするきらびやかな装飾馬具などは、朝鮮半島の三国時代や日本の古墳時代の文化と驚くほど類似する点がある。しかも、装飾馬具は三燕の故郷である内モンゴルの鮮卑族にはなく、3世紀中頃に慕容鮮卑が遼西に移住・定着した後に見られる現象である。晋の帯金具が、三燕において身分を可視化する装いの一つとして慕容鮮卑によって新たに創出されたものであった。それは、五胡十六国時代(304年~439年)に華北一帯で起こった胡漢融合の一様式であったと考えられる。この装飾金具は驚くべきスピードで朝鮮半島へと広がった。金海きめ大成洞てそんどん遺跡の91号墳から出土した各種装飾金具の中には、龍文透かし彫り辻金具など三燕ものと同じものがある。朝鮮半島南部では他に類例がなく、三燕で創出された装飾馬具は、ほとんど時間差なく、金官加耶にまでもたらされている。朝鮮半島で最も多く装飾馬具が出土している新羅では、4世紀後半に鉄製の鏡板轡が出現し、5世紀前半には新羅独特の形態も持つ金や銀の装飾馬具が慶州の大型積石木槨墳から出土している。新羅の装飾馬具には高句麗の強い影響がうかがえるが、高句麗にはない素材も用いている。似たような状況は5世紀後半の大加耶にも認められる。装飾大刀や冠などの装身具と形や意匠・材質を共有する装飾馬具が有力古墳に副葬されている。大加耶の装飾馬具には長期にわたる新羅的要素と百済的な要素の双方が認められる。百済の馬具はほとんどが鉄製で装飾は部分的である。百済では服飾品が身分を可視化する装いであったと考えられる。

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