第24話 加耶の有力国と栄山江流域、騎馬文化の伝播
加耶は三韓の時代(紀元~3世紀)に「弁辰(弁韓)」と呼ばれた地域と「倭」と呼ばれた地域の集合体である。また、当時の「倭」には、朝鮮半島西南端に位置する
・「後漢書」韓伝に「馬韓は西に在り、54国を有し、その北は楽浪と、南は倭と接す。辰韓は東にあり、12国を有し、その北は
4世紀、朝鮮三国時代(4世紀~7世紀)に入ると、洛東江以西地域に存在していた弁韓諸国の中から金官加耶・阿羅加耶・大加耶などが有力な勢力として登場する。しかし、それらの勢力は最後まで単一の勢力となりきれないままであった。加耶史からみると日本列島の倭国の加耶への関与は局部的であり、
加耶の有力国の詳細を述べる前に、朝鮮半島の古代史をより深く理解するため、吉井秀夫(京都大学准教授)による朝鮮半島の地理的環境を見ておく。
朝鮮半島は中国東北部から南に伸びる南北約1000キロ、東西約250キロの半島である。北側は
高句麗の二番目の王都であった
西海岸のさらに南にある
朝鮮半島西南端に位置する
新羅の王都であった慶州は東海岸南部の
次に、加耶の有力国の位置を確認しておく。朝鮮半島東南部の洛東江流域に散在していた加耶の諸部族は、洛東江以西の地域にあって、西と北が各々
1)
三国志東夷伝韓条(魏志韓伝)では弁辰12国の一国の
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慶尚南道
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慶尚南道
4世紀前半の13号墳は6x3.7メートルの大形木槨墓で、鉄製武器をはじめとする豪華な副葬品や3人の殉葬などが認められ、王墓と考えられている。4世紀後葉の68号墳からは朝鮮半島南部で最も古い
大成洞の古墳群は5世紀初頭~前葉を最後に首長墓の築造が中断する。金官加耶の王族や有力者たちはどこへ行ったのか? 5世紀初頭といえば、河内王権が始まる時期で、その王権は倭の五王を輩出している。その背景には高句麗の加耶侵攻と新羅の洛東江下流域への進出があり、事実上金官国がいったん滅亡し、それを盟主とする前期加耶連盟も瓦解したと考えられる。
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5世紀に入ると金官加耶は衰退し、洛東江河口の対岸にある
2)
金官加耶の西の現在の
3)
金官加耶の西の現在の
4世紀後半に倭・百済と同盟し、400年の高句麗南下のときには金官加耶に援軍を送った。520年代に新羅が金官加耶に侵入すると、倭や百済に救援を求めた。反新羅の有力国で、532年以後、現地の倭系安羅人や加耶諸国の
4)
慶尚南道の洛東江の西方にあった。金官加耶より西方の
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6)
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慶尚北道
7)
朝鮮半島西南端に位置する
さらに注目されるのは、5世紀前半以降の「倭系古墳」の存在である。これらは全羅南道海岸の海辺の近くに立地する竪穴系埋葬施設を持つ円墳で、倭系甲冑などが副葬されている。5世紀は倭の五王の時代であり、6世紀前半は継体から欽明に至る時代に当る。また、朝鮮半島南部に日本産の須恵器が集中的に流入するのは5世紀中ごろ~6世紀初頭に当るのはこれらの前方後円墳築造と大いに関係がある。6世紀前半における栄山江流域の墳墓には、在地的な要素、百済的な要素と、日本列島に起源を持つ要素が混在している。こうした状況が出現した歴史的背景の一つは、百済の
加耶の歴史と社会文化は朝鮮古代史の中で最も不明である。それは、三国史記で、高句麗・百済・新羅のような独立した本紀を持ちえなかったことが第一であり、次に、他の三国の本紀に加耶の記事が載っていても、その内容がわずかで貧弱であるがためである。加耶諸国は統一されないまま、新羅膨張の波に飲み込まれ、新羅に同質化されてしまったため、独自の文献記録を持ちえなかった。
朝鮮半島南部の加耶と栄山江流域は、地理的に日本列島に近いことから日本列島勢力と深い関係があった。朝鮮半島の倭系文物は、現在のところ南海岸および西南海岸沿いに集中して分布する。これは地理的条件から見れば、ごく自然なことである。
古墳時代の日本列島に伝来した渡来文化は体系立って流入したものが多いが、その渡来文化の故地は一つではなかった。加耶の影響が一番大きいが、百済・新羅・栄山江流域など、様々な地域の文化や文物が入ってきているのも大きな特徴である。一方、日本列島から朝鮮半島へ渡った文物は、土師器・須恵器・馬具・大刀・甲冑・巴形銅器・石製模造品・南島産ヤコウガイ製の
[加耶から日本列島の倭国への騎馬文化の伝播]
日本列島に定着していった騎馬文化の組織的な受容は、395年から410年にかけての高句麗広開土王による南進が契機となっている。広開土王の治世中に亡くなった
奈良県橿原市の南山4号墳では加耶陶質土器の軽装の騎馬人物形土器が見つかっている。応神期(4世紀後葉)に百済から雌雄一対の馬がもたらされ、軽の坂上の
倭国の馬具の系譜は鮮卑馬具から伝わったものであるが、最も大きな影響は加耶から受けている。しかし、最近は百済もその候補と推定する意見がある。5世紀初頭に福岡県朝倉市の池の上古墳群や福岡市の老司古墳で
最古の本格的な馬匹生産の事例は、5世紀前半から渡来人が集落を形成し始める大阪府の生駒山西麓の河内湖周辺の四条畷市
[近畿地方における初期馬具出土の古墳(5世紀前葉)]
・行者塚古墳(兵庫県加古川市、99メートルの前方後円墳):
近畿地方では最も古く、4世紀末から5世紀初頭。
・南山4号墳(奈良県橿原市、18メートルの円墳):
5世紀初頭の築造。
・鞍塚古墳(大阪府藤井寺市、48メートルの帆立貝形の前方後円墳):
・七観山古墳(大阪府堺市、径56メートルの円墳):
上石津ミサンザイ(365メートル)の陪塚といわれる。木心鉄張
・大谷古墳(和歌山市):
1958年の発掘で、金銅製の馬具のセットが出土している。特に
[近畿以外の初期馬具出土の古墳(5世紀前葉)]
他にも出土例はあるが、ここでは代表的な熊本県のみ掲載する。熊本は
・上生上ノ原3号墓・八反原2号墓(熊本県菊池川上流):
出土した
[馬具・装飾金具]
馬具は中国の
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