第23話 謎の4世紀時代の朝鮮半島と倭国

 日本で謎の4世紀(266年~413年)と呼ばれる時代のもう一つの動き、それは朝鮮半島諸国、高句麗・百済・斯廬しろ(後の新羅)・加耶諸国、その中でも特に加耶での出来事である。3世紀後半から5世紀にかけて、東アジアは動乱の時代であった。その動きを追って見る。


・265年の12月、から禅譲を受けしんの皇帝となった司馬炎しばえんは年号を秦始たいしと改めた。魏に代わって建国した晋は280年にを滅亡させて中国を再び統一した。都は洛陽らくようである。

・311年、匈奴きょうどの劉聡は晋の都洛陽らくようを攻め焼き払い、その時の皇帝司馬熾しばしを拉致し、晋は事実上滅亡した。それは永嘉えいかの乱と呼ばれる。このときの匈奴はすでに自立していて、304年に漢(後の前趙)と号していた。華北では、この304年から、同じ匈奴の北涼ほくりょう鮮卑せんぴの北魏に滅ぼされる439年までの136年間を五胡十六国時代と呼ぶ。五胡とは、匈奴きょうど・匈奴の別種のけつ鮮卑せんぴ・チベット系のていきょうであり、十六国とは、前趙・後趙・前燕・前秦・後燕・後秦・南燕・北燕・西秦・前涼・後涼・南涼・北涼・西涼・成漢せいかんの非漢民族の国々である。中国の華北は五胡十六国の時代に入り、周辺諸国に対する影響力が弱まる。このため朝鮮半島の政治情勢も不安定化する。

・317年、晋の皇族であった司馬睿しばえいは晋の諸将や東部鮮卑の慕容ぼよう部などの推戴を受け江南の地で即位した。それが東晋(317年~420年)であり、都は建鄴けんぎょう(建康、今の南京)である。この東晋の時代までは華北から江南へ移り住む者が数多く存在していた。それが江南地域社会の大きな不安定要因となっていた。東晋の荊州けいしゅう(長江中流域の今の湖北省)刺史ししであった桓温かんおんは347年にしょくの成漢を滅ぼし、蜀の地を手に入れた。その子桓玄かんげんは399年の五斗米道ごとべいどうの孫恩の乱に乗じて自ら皇帝の位に即き、国号をとした。しかし、東晋の将軍であった賤しい寒門の出身者である漢族の劉裕りゅうゆうは404年に桓玄を破り殲滅し、東晋を再興させた。420年に劉裕は東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受け、そう(420年~479年)を建国し、以後、せい(479年~502年)・りょう(502年~557年)・ちん(557年~589年)と続く南朝の先駆けとなった。

・高句麗は311年の晋の滅亡など中国本土の混乱に乗じて、313年に楽浪郡、314年に帯方郡を滅ぼし、朝鮮半島北部を制圧した。これにより約400年続いた中国による朝鮮半島の郡県支配が終焉した。朝鮮半島東南部では斯廬しろが辰韓諸国を糾合し、西南部では伯済はくさいが馬韓諸国を糾合し百済くだらを名乗り国際社会に登場してくる。南部の弁韓諸国では加耶(加羅)と総称される政治的なまとまりが生まれた。

・百済の建国は近肖古きんしょうこ王(在位346年~375年)による346年である。馬韓54部落の一つだった伯済はくさいは260年には馬韓を統一していた。

・朝鮮半島東南部の辰韓12国は斯廬しろ国を中心に356年に統一された。国号を新羅しらぎと定めたのは510年ごろである。

・4世紀中頃の百済・斯廬しろ(後の新羅)への再編に取り込まれなかった加耶の国々、金官国(金海きめ)・大加耶(高霊こりょん)・卓淳とくじゅん(金海の西側の昌原ちゃんうぉん)・安羅(阿羅)加耶(卓淳国の西側の咸安はまん)などの有力国は、連合体を構成せず、それぞれの国が百済・斯廬しろ(後の新羅)・日本列島の倭国などと交流を持った。


 鈴木武樹は、三国史記の伝える3世紀の倭国と加耶(加羅)・斯廬しろ(後の新羅)との関係を考察するための手掛かりの一つは、斯廬の訖解きつかい王(在位310年~356年)の父親である于老うるが274年に倭人に殺された原因は倭王とその妃を侮辱したことにあるという于老の挿話(日本書紀では宇流うると表記)であるという。また、直支とき未斯みしの倭国への人質など「日本書紀」と「三国史記」「三国遺事」に共通して現れる記事もみられるという。 


 斯廬しろ于老うるが倭人に殺されたとき、次の王になる訖解王はまだ2~3歳であった。つまり、269年から284年までの間の倭王は男子であったことになる。266年に倭国の女王台与とよは中国の晋に朝貢しているので、その後20年以内に台与は死ぬか、退位して倭国は再び男子の王を戴くことになったと考えられる。しかも、その倭国は近畿ではなく、北部九州にあったように書かれているのである。


 三国史記の新羅本紀には、倭人が頻繁に斯廬しろを脅かしたことが記されている。3世紀だけでも8例が記録されている。4世紀初頭になると、斯羅しら斯廬しろ、後の新羅)が、「倭国と礼物を交わした」という記事が現れる。それから10年ほどたつと、斯羅しら訖解きつかい王(在位310年~356年)の条に、「倭国の王が使者をよこして子のために妻を求めてきたので、阿飡あさんの急利の娘を送った」とある。訖解王37年(346年)に倭兵が斯羅の都金城(今の慶州)を包囲して激しく攻めた。城門を閉じて出撃しなかった。すると糧食が尽きて退却した。次いで、奈勿なむる王(在位356年~402年)9年(364年)に、4月倭兵が大挙して来た。不意打ちして敗走させた。倭はつねに海辺・東辺・南辺から斯羅を攻め、倭兵の犯した土地は金城周辺の海岸あるいはそれを少し入ったあたりに限られる。倭兵は斯羅の城を攻め落としたり、数日間包囲したりはしているが、斯羅の領土の一部なり、全部なりを長期にわたって占領したり支配したりという記録はない。


 また、日本書紀の巻九の神功皇后紀によると、百済と加耶諸国とが初めて交渉を持ったのは百済の近肖古きんしょうこ王(在位346年~375年)と近仇首きんきゅうしゅ王(在位375年~384年)の時代で、百済に使者を送ったのは安羅あら加羅から(金官加耶)・卓淳とくじゅんであり、それらの国の王は「旱岐かんき」と呼ばれていた。日本書紀に出てくる「甲子の年」は364年と推定される。そこには、「神功46年3月、斯麻しま宿禰を卓淳とくじゅん国に派遣した。ここに卓淳の王末錦旱岐まきんかんきが、甲子の年7月中旬に百済人三人が我が国に至り、百済の王、東に日本という貴国あることを聞いて臣らを派遣してその貴国に朝した」、とある。


 鈴木武樹によれば、三国史記の記事の一部は、430年前後からはほぼ正確に中国文献のそれと一致し始める。また、4世紀後半までさかのぼってもかなり信憑性はあるとみられる。事実、広開土王碑文と三国史記の391年から5世紀初頭までの記事には多くの一致点が見られるという。


 三国史記の高句麗本紀・新羅本紀・百済本紀と三国遺事には、4世紀後葉から5世紀初頭までの百済と高句麗の攻防、さらに、倭と倭国・倭人、斯羅しら斯廬しろ、後の新羅)も加えての戦闘や人質の様子が生々しく語られている。その一部を抜粋する。これらの記事からすると、倭・倭国は百済と友好関係にあるが、新羅とは人質を取りながらもなお対立の状態にあったことがわかる。但し、ここに出てくる倭は、北部九州の倭人勢力なのか、加耶の倭人勢力なのか、鈴木武樹は明確にしていないが、倭と倭兵は朝鮮半島の加耶勢、倭人と倭国は北部九州勢と考えられる。その理由は後で述べる。また、新羅とあるのは斯廬しろのことである。新羅となるのは510年ごろとなる。


<371年>

百済本紀:高句麗が兵を挙げて攻め寄せてきた。精兵3万で高句麗に侵入し平壌城を攻撃した。 

高句麗本紀:百済は兵3万で平壌城を攻めた。王は流れ矢に当って死んだ。

<375年>

百済本紀:高句麗は北辺の水谷城を攻めて陥落させた。 

高句麗本紀:百済の水谷城を攻めた。

<377年>

百済本紀:将兵3万で平壌城を攻めた。 

高句麗本紀:南へ百済を討伐した。

<385年>

高句麗本紀:兵4万を出して遼東を襲った。

<386年>

百済本紀:高句麗が侵入してきた。 

高句麗本紀:百済を侵伐。

<389年>

百済本紀:高句麗の南辺を犯す。 

高句麗本紀:百済が南鄙を犯す。

<390年>

三国遺事:新羅、王子の未叱喜みしきを倭に人質として送る。 

百済本紀:高句麗を破り、都伸城を抜く。 

高句麗本紀:百済が都伸城を抜く。

<392年>

新羅本紀:高句麗の使者が来た。高句麗の勢いが強いので王は実聖じっせいを質に出した。百済本紀:永楽大王が兵4万をもって北辺に来襲して城をいくつか陥した。また関弥城を攻略した。 

高句麗本紀:新羅に使者を送り、実聖を質にとる。

<393年>

新羅本紀:倭人が金城を5日間囲む。 

百済本紀:高句麗が占拠した関弥城を攻囲したが、堅く守られたので引き揚げた 

高句麗本紀:百済の南辺を侵す。百済の十城を抜き、関弥城も陥す。 

<394年>

百済本紀:高句麗と水谷城で戦い、敗北した。 

高句麗本紀:百済が南辺を侵したので将帥に防がせた。

<395年>

百済本紀:永楽王(広開土王)とハイ水(鴨緑江の南で、平壌がある大同江の北)で戦い、大敗した。 

広開土王碑:王が塩水に遠征する。

<396年>

高句麗本紀:百済をハイ水のほとりで破り、8千余を捕虜にした。

広開土王碑:王は百済に親征し、王弟や大臣を質として帰る。

<397年>

百済本紀:王は倭国と修好して、太子の腆支とむき(日本書紀の応神紀では直支とき)を人質として送った。広開土王碑では399年とある。

<400年>

三国遺事:倭は新羅に兵を送り、高句麗に負ける。

広開土王碑:歩騎5万を新羅に送り、倭を破る。

<401年>

新羅本紀:高句麗の人質になっていた実聖が帰る。

<402年>

新羅本紀:奈勿なむる王(在位356年~402年)が死去、その子が幼かったため実聖が王位を継いだ。倭国と誼みを結んで、奈勿王の子、未斯欣みしくむを人質に出す。

百済本紀:使者を倭に送って大珠を求む。

<403年>

新羅本紀:秋七月、百済が辺境を侵す。 

百済本紀:春二月、倭国の使者が来る。秋七月、新羅の辺境を侵す。

<404年>

高句麗本紀:燕を侵す。

広開土王碑:倭が帯方界を犯し、高句麗に耐らる(敗れた)。

<405年>

新羅本紀:倭兵が来て明活城を囲む。

百済本紀:倭国から兵士百人に護送されて腆支が帰ってきて王位につく。

高句麗本紀:燕に襲われる。

<406年>

百済本紀:晋に使者を遣わして朝貢した。

<407年>

新羅本紀:倭人が東辺と南辺を侵した。

広開土王碑:王は歩騎5万をもって外征す。

<408年>

新羅本紀:倭人が対馬で兵器と食料を貯えて我が国を襲おうとしているので、討とうとしたが、海を渡る危険を考えて中止した。

<409年>

百済本紀:倭国が使者をよこして夜明珠を送ってきたので、王はその使者を厚くもてなした。

<410年>

広開土王碑:王は東夫餘を征した。

<412年>

新羅本紀:卜好ぼくこうを高句麗に人質に出す。

広開土王碑:王が死ぬ。

<413年>

高句麗本紀:晋に使者を送った。

中国の史書:倭、高句麗などが晋に朝貢した。


 ここには高句麗・百済・新羅・倭・倭兵・倭人・倭国が頻繁に登場する。日本書紀の応神紀から安康紀に至る(390年ごろ~460年ごろ)までの期間には朝鮮出兵の記事が全くない。したがって、421年~462年の間に宋へ遣使した倭王さんからこうの時代の倭国および倭人の新羅(斯廬しろ)への侵攻はすべて北部九州勢と思われる。また、倭王も478年まで、喪に服して兵を動かさなかったとあり、次に掲げる三国史記における415年から463年までの倭人による新羅(斯廬しろ)侵攻は北部九州勢によるものである。倭兵は朝鮮半島の倭、すなわち加耶勢であるが、その中に北部九州の倭人も含まれていた可能性はある。


<415年>

新羅本紀:倭人と風島で戦う。

<431年>

新羅本紀:倭兵が東辺に侵入して明活城を囲むが、なんの成果もあげずに退いた。

<440年>

新羅本紀:倭人が南辺を侵して捕虜を略奪した。6月、また東辺を侵した。

<444年>

新羅本紀:倭兵が金城を包囲したが、十日後に糧食が尽きて退いた。

<459年>

新羅本紀:倭人が船百余隻に乗って東辺を襲い、進んで月城を攻囲した。

<462年>

新羅本紀:倭人が活開城を襲ってこれを破り、1000人を捕虜として連れ去った。

<463年>

新羅本紀:倭人が歃良城に侵入したが勝てずに去った。また、王は倭人がしばしば辺境を侵すので周辺に城を二つ築いた。


 元都立大学教授の旗田巍はただたかしは、“倭の新羅(斯廬しろ)への来襲の記事が多いが、その季節は旧暦の夏の4月から6月に集中している。しかも4月が圧倒的に多い、秋から冬はゼロである。4月から6月は季節風が弱く、比較的波が静かな季節である。当時の舟や航海技術は風波の制限を受けていたと考えられる。一方、後の高麗(936年~1392年)の末期の倭寇の侵入は季節の制約を受けていないので、少なくとも5世紀(500年)までの倭寇(北部九州勢)というのは季節的な制約を受けていたと考えられる。新羅へ侵入した場所は東辺と南辺であり、北辺・西辺はゼロである。そして襲来する場所は新羅の都の金城(現在の慶州)周辺が多い。その侵入は領土的な支配ではなく、季節的な海賊集団のようにみえる。4世紀末から5世紀初めの倭と朝鮮三国の関係をみると、百済と高句麗は広開土王が出現する以前には、お互いに勝ったり負けたりの戦争をしている。新羅は高句麗の属国のようになっており、王子を人質に出したり、高句麗が王位継承に干渉し、実聖じっせい王(402年~417年)を殺して訥祇ぬるち(417年~458年)を王にしたりした。百済と新羅はときに連合し、ときに戦争するという関係であった。倭と百済は非常に親密であるが、倭と新羅の関係は微妙である。それを解く一つの説は、新羅が人質を出した倭は朝鮮半島南部の倭(加耶)で、侵入してきた倭は北部九州の倭人であるということであるが、これも決定的とはいえない”、と述べている。

旗田巍は北部九州勢とは決定できないと述べているが、謎の4世紀の時代(266年~413年)から倭王武の478年まで、近畿勢は朝鮮半島での争いに登場していない。まだそれだけの経済力も武力も、大型の舟も朝鮮海峡を渡海する技術もなかった。当時、朝鮮海峡を渡るための舟は準構造船と呼ばれ、丸木舟の船縁ふなべりにタナ(棚)と呼ばれる側板を付けて大型化し、積載量や耐航性能を向上させた舟で、全長10メートルほどであったと考えられている。


 鈴木武樹は、倭と特に関係が深い斯廬しろ(後の新羅)との関係を次の三期に分類している。ここでは、三国史記の記載に倣って新羅としているが、当時は斯廬しろであった。


第一期(300年ごろ~345年ごろ)

倭は新羅と修交し、王子および王の妻を一度ずつ新羅に求めた。

第二期(346年ごろ~390年ごろ)

倭は新羅に求婚して断られたことを理由に新羅と絶交する一方、百済の馬韓統一、新羅の辰韓統一によって北から圧迫され始めた加耶地方の国々を通して百済に接近し、百済・加耶・倭の連合軍という形で幾度かに渡って新羅に侵攻したが、その都度敗れた。

第三期(390年ごろ~420年ごろ)

百済は北から高句麗に脅かされて倭との連帯の緊密化を求め、新羅は百済・加耶・倭の連合軍の圧力を跳ね返すために高句麗と結んだが、400年に高句麗が倭の新羅侵攻を圧伏すると、その後は高句麗の勢力に拮抗するために倭に接近した。しかし倭はそれ以後も、5世紀いっぱいは、倭・加耶連合軍という形で新羅を侵し続けた。ちなみに、5世紀に入ると、百済と新羅は高句麗に対抗するために友好的な関係を持続した。倭が413年以後、対中国関係を重視して、南朝にたびたび使者を派遣したことの裏にはそのような事情があったと考えられる。


 4世紀は中国の北や西の地域にいた五胡と呼ばれる遊牧騎馬民族が中国本土へ侵入してきた時期である。朝鮮半島の北から中国の東北部を支配していた高句麗も慕溶鮮卑ぼようせんぴが建てた前燕(337年~370年)に攻撃されて大きな打撃を受け、北の領土を失った。そのため高句麗は本格的に南下策を取るようになった。4世紀半ば過ぎ、高句麗が南下し、朝鮮半島情勢はにわかに緊迫化する。朝鮮半島の南にいた新羅や百済は騎馬軍団を持つ高句麗により国家存亡の危機に立たされた。

加耶諸国も同様であった。新羅は高句麗に接近し、百済と加耶諸国は日本列島の倭国と結んで高句麗に対抗しようとした。そのため百済や加耶から多くの渡来人を送って倭人たちに馬や馬具の生産技術を教えた。さらに、渡来人たちは文字の使用法をはじめ学問・思想なども倭人たちに伝え、これが日本列島の古代倭国が東アジアの文明社会の仲間入りをするうえで非常に大きな役割を果たすことになった。しかし、高句麗の南下は、鉄資源を朝鮮半島南部の加耶諸国に依存する日本列島の倭人のクニグニにとっても大きな危機であった。 


 日本書紀の巻九(神功皇后紀)によると、百済と加耶諸国とが初めて交渉を持ったのは百済の近肖古王(在位346年~375年)と近仇首王(在位375年~384年)の時代で、百済に使者を送ったのは安羅あら加羅から(金官加耶)・卓淳とくじゅんであり、それらの国の王は「旱岐かんき」と呼ばれていた。日本書紀に出てくる「甲子の年」は364年と推定される。そこには、「神功46年3月、斯麻しま宿禰を卓淳国に派遣した。そのとき卓淳王の末錦まきむ旱岐が斯麻宿禰に告げて、“甲子の年7月中旬に百済人三人が我が国に至り、百済王は東に日本という貴国あることを聞いて臣らを派遣してその貴国に朝した。ところが道に迷い、この卓淳に来てしまった。道を教えて通交させてくだされば、我が王は必ず深く君主を喜ばしいと思うことでしょう。もし貴国(日本)の使者が来たならば、必ず我が国にお知らせくださいと言った」、とある。


 北部九州勢と思われる倭人も出兵した369年に百済は高句麗を破り、371年には平壌城を奪った。この時の百済王は近肖古王で、太子は後の近仇首王である。この勝利に貢献した倭国に対して、372年に百済は使節を倭国に派遣し、倭王に鉄製の七支刀しちしとうを献上したとされる。

沖ノ島の祭祀跡から出土したペルシャ製のカットグラス・晋代の金銅製龍頭・唐三彩など超一級の奉献品から、それはヤマト王権による国家的な性格の祭祀であったと考えられている。この祭祀の始まりは、出土した三角縁神獣鏡の様式から4世紀の第4四半期と想定される。それは4世紀後半における百済と倭王権との同盟関係の成立、それに伴う北部九州の倭人たちの出兵と関連するものと考えられる。この4世紀後半に成立した南部加耶と日本列島の倭国、さらに百済との同盟関係は基本的に6世紀初頭まで続くことになる。この時の倭国の主体は誰だったのか? それはまさに実在を疑われている神功皇后(363年~389年)と応神(390年~394年)の時代である。これこそ、謎の4世紀最大のミステリーといえる。


七支刀しちしとう

百済は倭と同盟して新羅を攻め、加耶諸国を守ったのを記念して369年に製造し、神功皇后52年(372年)の9月に百済からの使節である久氐くて等が千熊長彦に従って倭に来て、七支刀一振と七つ子の鏡一面を献上。現在、天理市の石上いそのかみ神宮に6叉の鉾として伝えられている。実用的な武器ではなく祭祀用である。長さ75センチ、刀身65センチの両刃の鉄剣で、剣身の左右に3本ずつ枝を出す特異な形からその名がある。剣の表に34文字、裏に27文字、合わせて61文字の金象嵌の銘文がある。高句麗の南下に備えて百済と倭国が同盟し、その記念として372年に百済の近肖古きんしょうこ王は太子の貴須くるす、後の近仇首きんきゅうしゅ王の名で倭王に七支刀(鉄製)を献上したとする説が有力である。石上いそのかみ氏は物部氏の後裔こうえいである。物部氏は、もとは筑紫の高良山(筑後国御井郡)をその宗祀とする一族で、高良こうら加羅からに由来すると見られる。物部氏の祖であるニギハヤヒは十種の神宝を持ち、三十二神を率いて、船長・梶取・船子らの乗る天磐船あめのいわふねで、河内国の河上のイカルガ峯に降臨し、それから大和ヘ移ったという伝説を持っている。

田中卓によれば、その銘文は、「泰和四年五月十六日丙午正陽、百練の□の七支刀を造る。出でては百兵を避け、供供たる候王に宜し。□□□□の作なり。先世以来、未だ此の刀有らず。百済王・世子、生を聖音に奇す。故に倭王の旨とて造り、後世に伝示す」。“七”は日本書紀にある比自火ひしほ・南加羅・喙国とくのくに・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を象徴するものかもしれない。泰和四年は東晋の年号の泰和四年で369年である。

両面の銘文は、表には作刀年月日、吉祥句、作刀者名を記し、裏には具体的な作刀事由を記したもので、七支刀は、道家思想に傾倒する奇(近仇首王)によって儀器として作られ、後世に長く伝えられることを願って倭王「旨」に贈られた。百済は日本列島の倭国に政治的な働きかけをして連携を模索した。

369年の七支刀に関係する重要資料が、最近、忠清北道の忠州ちゅんじゅ市の弾琴台たんぐむで土城で発見された貯水槽の中から40本もの重くて分厚い良質の鉄鋌てっていが出土した。日本書紀の神功皇后記に、百済の近肖古王(在位346年~375年)、実名であるいみな余句よく、が倭国の斯麻しま宿禰の従者である爾波移にはやに「鉄鋌四十枚」を授けたとある。まさにその実物と思われる。また、百済の近肖古王は「臣が国の西にかわ有り。源は谷那こくなの鉄山より出ず」、と述べたうえで、百済の谷那鉄山の鉄を倭国に贈ると述べている。弾琴台土城の近くに漆琴洞ちるぐむどん製鉄遺跡があることから、谷那鉄山も近くにあると考えられている。


 倭王「旨」は、誰なのだろうか? 記紀によれば、それは神功皇后(363年~389年)の時代で、ホムタワケ(後の応神)はまだ幼子であり、その時代の実力者といえば、武内宿禰であるが、その存在自体に謎が多く、そのままには受け取れない。鈴木武樹はオホタラシヒコ(景行)であるというが、それでは記紀の記述から推定した景行の年代(330年ごろ~350年ごろ)と合わない。真相は不明であるが、七支刀しちしとう石上いそのかみ神宮の神宝として現在も存在している。それは360年代に、百済と倭が同盟して高句麗や斯廬しろ(後の新羅)と戦ったことの証である。倭の実態は、加耶の七国と北部九州の連合勢力であったと考えるのが自然と思われる。


 さて、ここで中国本土の混乱に乗じて楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし朝鮮半島北部を制圧した高句麗の動きを確認しておく。楽浪郡・帯方郡を攻略した高句麗は流入してくる中国の政治・軍事・文化に精通した知識人たちを積極的に受け入れ、4~5世紀に飛躍的に発展・成長することになるが、その間の4世紀前半には前燕と対峙し、342年には燕に大敗し、王都は焼き払われてしまった。さらに、371年にも百済に敗れたりして、百済との間で熾烈な抗争を演じることとなった。しかし、その後、広開土王(在位391年~412年)は太王(好太王)の号を称し、永楽という年号を使用するまでになった。次の長寿王(在位413年~491年)は414年に父の功績を称えて「広開土王碑」を建立した。さらに、高句麗は427年に朝鮮統一のため都を平壌に移した。438年には北燕が滅亡し、北からの脅威がなくなり、ますます強大となって南進政策を推進するようになった。


 高句麗の広開土王碑には、次のような記載があるが、これらを三国史記の371年から415年までの内容と合わせると、百済と倭が連合して新羅を攻撃し、それに対して新羅(斯廬しろ)が高句麗に支援を求めた様子がよく理解できる。

・391年 倭は391年以来渡海して百済・新羅を侵略し臣民にした。

・396年 高句麗が百済を討伐。

・399年 百済が再び倭と和通し新羅に侵入、倭人が新羅の国境に満ちていた、新羅は高句麗に援助を請う。

・400年 新羅城を侵略した倭人を5万の高句麗軍が駆逐、敗退した倭人が任那加羅(金官加耶)へ逃げ、追撃した高句麗軍が任那加羅城(金海)を攻略し、安羅あら人の戌兵じゅへい(国の境界を守る兵卒)とも戦う。

・404年 百済と倭は連合して再び帯方郡にまで侵攻したが、高句麗に敗北。

・407年 高句麗は再び5万の大軍を発し、百済を攻撃し、百済・倭連合軍を撃破。


 ここでいう「倭」は朝鮮半島の倭、すなわち加耶勢であり、「倭人」は日本列島の倭人で、北部九州勢である。加耶勢と北部九州勢からなる加耶・倭国連合は、百済と同盟関係を結び、北から南下してくる高句麗に必死に対抗していたのである。それは、記紀でいう神功皇后(363年~389年)・応神(390年~394年)・仁徳(395年~427年)の時代に重なっている。記紀ではヤマト王権の朝鮮半島への出兵と表現しているが、実態はまるで異なる。 

松本清張は、“この時期の倭の集団は加耶の倭種と北部九州の倭種との連合軍と思われる。391年に倭が百済・新羅を侵略し臣民にしたという時点では、河内勢力が数万の軍勢を海外派兵するだけの力はなかったと思われる”、という。


広開土王こうかいどおう好太王こうたいおう)碑]

414年に高句麗長寿王が父の広開土王、いみな(実名)は談徳、おくりなは好太王、の勲功を後世に伝えるため王城(丸都城)のある鴨緑江北岸の集安の東に立てた記念碑で、碑文の文字は隷書体である。この碑文は1880年に農民が見つけた。碑石は高さ約6メートルの不正四角形の柱状の自然石で、4面に1802字が刻まれているが、そのうち260字は読めない。第一段は、高句麗の開国伝説から始まり、広開土王をたたえ、碑を建てたいわれを記す。第二段は、広開土王の戦功を年代順に記す。第三段は墓守りのことを記す。開国伝説は、高句麗は始祖鄒牟すうむ王(朱蒙)の創基なり、北夫餘ふよより出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。戦功については、稗麗ひれい(契丹)を討ち、百済を討伐し、帛慎はくしん(粛慎)を討った。新羅救援のために朝鮮半島南部に出兵して、新羅を侵略する倭軍を破った。その後、帯方郡に来攻した倭軍を破った。他にも征戦し、東夫餘を討った。これらは395年から410年の間の出来事である。

倭に関する記述は、391年・399年・400年・404年・407年の5ヶ所にみえる。倭が朝鮮半島へ侵攻したことは宋書の倭国伝などからも裏付けられるが、その倭は加耶勢であり、日本列島からの派兵は小規模なものであったと推定される。


[太王陵]

広開土王(好太王)碑の南西200メートルに位置する墳墓。一辺66メートルの歪な正方形で現在の高さは14.8メートルの積石塚。巨石を七層に構築し、横穴式石室に家形石槨を内蔵。2003年の発掘で「辛卯年(391年)好太王 □造鈴 九十六」の銘がある青銅製馬鐸(馬鈴)や鞍金具・あぶみなどの馬具類が出土した。鐙は鮮卑の馬具と新羅の馬具の中間の形態をもっており、馬具の伝来ルートを如実に示している。この太王陵の付近には八角柱座の礎石群や瓦が多数発見されており、この陵墓には積石塚の墳丘以外にも多くの建造物がともなっていたらしい。


[将軍塚]

広開土王碑の近くにある。一辺が32メートル前後、高さ13メートルだが、花崗岩の巨大な切石を七段に積み上げた階段状ピラミッド型の精美な外観が特徴で、内部には巨石の切石を用いた長さ13メートル弱の大型の横穴式石室があり、二つの棺台が残されている。広開土王の墓が太王陵か将軍塚なのか意見は分かれている。


[高句麗と騎馬]

騎馬民族国家の高句麗は馬を飼い、農耕や軍事などに使う馬文化を持っていた。4世紀中葉には、歩兵用の短甲から小鉄板をつないで蛇腹のようにした乗馬に適した挂甲けいこう馬甲ばこうを使うようになる。馬甲とは馬の頭部から顔面を覆う鉄のかぶとである。やがて、朝鮮半島南部にも挂甲や馬甲が現れるようになり、日本列島には4世紀末ごろに馬具と乗馬の技術が伝わり、5世紀後半には挂甲が現れ、馬面も和歌山県大谷古墳で出土している。日本列島での馬具生産の本格化は5世紀後半ごろからである。それは倭の五王の済(允恭)・興(安康)・武(雄略)のころからとなる。また、5世紀後半ごろには帯金具や馬具に鍍金ときん(メッキ)する装飾技法が始まり、6世紀には金環など多くの製品が鍍金技法で作られるようになり、金属装飾上の一大画期となった。5世紀の終わりから6世紀の初めごろの金メッキや銀メッキされた冠が、越の国の九頭竜川を見下ろす山頂の豪族の古墳から出土している。これは、朝鮮半島では国王または国王に近い王族の人が儀式のときにかぶるものである。奈良県で出土した最も古い朝鮮系の冠は藤ノ木古墳の冠で、藤ノ木古墳は6世紀末の継体けいたいの孫の崇峻すしゅんの御陵と推定されている。


 以上、高句麗について述べてところで、松本清張が指摘する三国志東夷伝における「倭」と「倭人」との使い分けについて言及しておく。この違いは、倭の主体が朝鮮半島南部にあったのか、あるいは北部九州や近畿にあったのかを判断するうえで非常に重要である。それは倭王の出自にもかかわる問題である。


 松本清張は、“陳寿は「三国志・東夷伝」を偏するにあたって「漢書・地理志」の書法を踏襲している。「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来たりて、献見す。」である。この場合、「倭人」は日本列島のことである。陳寿の「三国志・東夷伝」もこれを受けて、日本列島つまり九州のことを「倭人」とした。倭の民族はもともと朝鮮半島南部の一角と北部九州との両地域に居住し、両地域は同一文化と生活圏であって、「倭種の国」が二つ存在していた。それで陳寿は「三国志・東夷伝」を書くにあたり、両者を区別するため、朝鮮半島南部の「倭種の国」を「倭」と表現し、日本列島のそれを「漢書・地理志」にならって「倭人」と書き表したのである。その証拠に、朝鮮半島南部の倭種居住地域をさして決して「倭人」とはいっていない。また、国の名を表す「倭人」の条の本文中には、倭人という文字は一つもない。人を呼ぶときは「倭種」「倭の水人」となっている。また、「倭人」は国の名だから、その条下に国の名を出すときは「倭人」の重複を避けて、「其の国」「倭の地」「倭国」などとしている。「三国志・東夷伝」では各国名を小項目名のように出して、それに続く記事の冒頭にはまた同じ国名を出している。例えば、「夫餘 夫餘は長城の北・・・。 高句麗 高句麗は遼東の東・・・。 韓 韓は帯方の南・・・。 倭人 倭人は帯方の東南大海の中・・・。」のように書いている。これは題名につづく本文の始めだからである。したがって、本文中にはなるべく国名の重複を避けている。「三国志・東夷伝」弁辰の条、「国、鉄を出す。韓・倭・わい、皆従って取る。諸の市買には皆鉄を用いる。中国の銭を用いるが如し。又以って二郡に供給す。」というのは、弁辰(弁韓)の四方隣国にこうした三国があったことをいうのであり、朝鮮半島南部の倭種が弁辰(弁韓)の鉄を得て、これを北部九州に輸出していたのである。奈良県北部の(5世紀前半の)ウワナベ古墳の陪塚である高塚古墳から朝鮮半島南部産の鉄鋌が大小あわせて876枚も出土したことを参考にすべきである。「弁辰は辰韓と接す。 ・・・其の瀆盧国とくろこくは倭と界を接す」というのも、朝鮮半島南部の倭の地域の位置を示す記事であって、また「辰韓人皆褊頭、男女倭に近し」というのも、辰韓人の着物が隣接している倭種と似ていることを写しているのである。瀆盧国は後の任那の北部にある「多羅」のことと推定されている”、と述べている。 


 鈴木武樹は倭(加耶)と倭国(北部九州)とをはっきりと分けていないが、朝鮮半島南岸地域の「倭」と「倭兵」、日本列島の「倭人」と「倭国」、この使い分けは重要である。広開土王(好太王)碑建立の414年ごろまでの朝鮮半島における倭の主体は加耶諸国の倭兵であった。その後徐々に日本列島の倭兵が朝鮮半島へ出兵する機会が増えてきて、新羅を侵した482年~500年には倭兵の主力は日本列島の倭人となっている。近畿勢の出番は、その後の6世紀に入ってからとなる。これを日本の歴史と比較すると、414年ごろは仁徳の時代であり、482年~500年は雄略から継体へ移行する時期である。このことは何を意味するのか? 朝鮮半島の「倭」と日本列島の「倭人」とを明確に分けて読むことによって、倭人たちの真の行動が見えてきて、歴史を正しく理解できるようになる。


 3世紀には朝鮮半島南岸にも北部九州にも倭人が居住し、両地域は同一文化、同一生活圏だった。三国志東夷伝によれば、「倭」は朝鮮半島南岸一帯、東は慶尚道から西は全羅道までの地域に居住していた。倭人伝や広開土王碑では日本列島の倭人のクニグニを「倭人」とし、朝鮮半島南部の倭人の国を「倭」として使い分けている。また、「南斉書」によると、朝鮮半島の「倭」の加羅国(この時代の加羅国は大加耶と推定される)が479年に南斉へ朝貢している。三国史記では朝鮮半島の「倭」の兵隊を「倭兵」としている。「百済本紀」では、百済の皇太子「腆支とむき直支とき)」が倭国の人質となったのは397年である。新羅本紀では、新羅の太子「未叱喜みしき」が倭国の人質となったのは402年である。この倭国は北部九州(筑紫)の「倭国」と思われる。広開土王碑建立の414年ごろまでの朝鮮半島における倭の主体は加耶諸国の倭兵であった。この時代の朝鮮半島の「倭」は北部九州の「倭人」の勢力を加えることによって、百済・新羅を凌ぐ国力があったと推測できる。

これらのことから、2世紀から続く加耶勢と北部九州勢からなる加耶・倭国連合が400年前後でも健在であったといえる。兵士の動員力・農業生産力では北部九州勢が優勢であったことはまちがいない。しかし、鉄の生産とその技術においては加耶勢が断然勝っていた。加耶は紀元前後から辰国の領域にあり、また楽浪郡を通じて漢の先進文化が流入していたため、軍事力や生活文化の先進地域であった。

次に、その加耶の有力国についてその詳細を見てみる。

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