第22話 景行一族による北部九州から近畿への東征

 では、オホタラシヒコ(景行)とオホタラシヒメ(神功皇后)の子孫の誰がいつ大和へ東征したのだろうか?その東征のときの武将の武内宿禰たけのうちのすくね武振熊たけふるくまとは誰か?そして巨大古墳の真の被葬者は誰なのか?また、413年に東晋に遣使した「倭王」とは誰だろうか?その「倭王」は北部九州あるいは加耶にいたはずである。418年以後、倭王さい允恭いんぎょう)が即位した439年ごろまでには、加耶から北部九州を経て近畿へ東遷は行われていた。東征したのは本当に倭王さんの時代で、その讃とは誰なのか?これらの謎を解きながら、真の史実に迫りたい。


 まずは、古事記・日本書紀の景行から神功皇后までの記事の中から、九州における活動のみを抜粋してみる。なぜなら、4世紀後半の350年代~380年代に大和の勢力が北部九州から東国(関東地方)にまで遠征したという事実は、考古学的に認めがたいからである。記紀に記された歴史には作為や修飾が多いことは広く知られている通りである。 

直木孝次郎は、“景行のときの東西征服の英雄ヤマトタケルの話も信頼できない。歴史の事実として、畿内を中心にして、東国・西国に勢力を拡げるのは5世紀になってからと考えられる。倭王(雄略)の上表文にある東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を平らげるとあるが、東西に領域を広げたのは5世紀であるべきである”、と述べて、明確に4世紀中葉の景行やヤマトタケルの東国への遠征の話を否定している。雄略は5世紀後半の大王である。


景行けいこう(オホタラシヒコ・オシロワケ)は、熊襲討伐で筑紫つくしに向かい、周防すおうの「娑麼さば」の賊を討伐し、豊前の長峡県ながおのあがた行宮かりみやを建てて居住した。その所をみやこという。そこで土蜘蛛つちぐもを亡ぼし、さらに日向に向い行宮かりみやを設けた。その後、熊県くまのあがたで熊襲を退治してから阿蘇を経て筑後から八女県やめのあがたに到着した。その後、日向から都へ帰還したことになっているが、その都は大和ではなく、実際は筑紫あるいは周防へ帰還したと思われる。景行の次男はヤマトタケル、四男は後の成務せいむである。古事記での景行はヤマトタケルの父親であり、大男で子だくさんな天皇として登場するだけで存在感の薄い人物である。古事記の原典となった帝紀では景行の存在がよくわかっていなかったと思われる。

・ヤマトタケル(倭建)は、名をヲウス(小碓)といい、父に似て大男であった。父は景行で、古事記によれば熊襲・出雲・東国を討伐したとあるが、史実は南九州のクマソタケル兄弟の討伐だけであったと思われる。

成務せいむ(ワカタラシヒコ)は、景行の第四子で、ヤマトタケルの弟。武内宿禰たけのうちのすくねを大臣とした。日本書紀では成務と武内宿禰は同じ日に生まれたとする。これは何を暗示しているのか、誰も答えを出していない。また、成務には皇子がいなかったので、甥のタラシナカツヒコを皇太子とした。

仲哀ちゅうあい(タラシナカツヒコ)はヤマトタケルの第二子で、父に似て大男であった。妻は神功皇后。穴門あなと(長門)の豊浦宮とゆらのみや(今の下関)に住んだ。自ら熊襲と戦い、敵の矢にあたって、筑紫の儺県なのあがた橿日宮かしひのみや(香椎宮)で崩じた。古事記では、仲哀は穴門の豊浦宮(今の下関)と筑紫の香椎宮(今の福岡)で天下を統治したとある。大和ではない。

神功皇后じんぐうこうごう(オキナガタラシヒメ)は仲哀の妃である。熊襲を討伐し、荷持田村のとりたのふれ(福岡県甘木市)の羽白熊鷲はしろくまわし撃ち滅ぼし、山門県やまとのあがたの土蜘蛛の田油津たぶらつ媛を誅殺し、松浦県まつらのあがたを経て筑紫の儺県なのあがた橿日宮かしひのみや(香椎宮)に戻った。その後、穴門の豊浦宮とゆらのみや(今の下関)から武内宿禰と共に群臣を率いて大和へ東征した。オホタラシヒコ(景行)が征服していない残りの九州西北部、つまり、今の福岡県と長崎県に至る部分を、オキナガタラシヒメ(神功皇后:オホタラシヒメ)が征服している。この二つ合わせると、九州の中部から北部の全てが平定されたことになる。


 これらの伝承は九州勢力の東征とともに大和に持って来られたものと思われる。第21話で鈴木武樹が考察したように、日本書紀の仲哀と神功皇后による北部九州の平定の記事と、三国史記の百済の太子直支ときの倭国への人質(397年)の記事から推定すると、360年前後に、伊都いと国はタラから入ってきたオホタラシヒコ・オホタラシヒメというタラ族によって征服される。そのタラ族のオホタラシヒコとオホタラシヒメが九州中部以北を征服する。そのころの奈良盆地にはカムヤマトイハレヒコ(神武じんむ)を信奉する系統の豪族がいた。彼らは崇神すじんが発展させた三輪王権の子孫たちである。


 日本書紀での活動から分かることは、景行の系統は一貫して熊襲、すなわち狗奴くな国と戦っていることである。加耶から渡来した景行一族は筑紫(佐賀と福岡県の大部分)・豊の国(福岡県東部と大分)・周防(山口)を地盤として、肥の国(熊本)や日向の国(宮崎)の熊襲(狗奴国)と壮絶な戦いを行い、その戦いの中でヤマトタケルも仲哀(タラシナカツヒコ)も亡くなっている。神功皇后の時代になってから、武内宿禰の助けを借りて、やっとのことで邪馬台国時代の卑弥呼の地盤であった筑後川下流の山門県やまとのあがたを熊襲(狗奴国)から奪還した。350年代から380年代まで、実に30年にもおよぶ長い戦いであった。


 古事記では、崇神・垂仁の次はいきなりヤマトタケルの出生の話から国の東西への遠征の物語となる。そして成務の時代の短い話の後は、仲哀と神功皇后と武内宿禰の長い物語となる。このことからも分かるように、大和における崇神系は第11代垂仁で断絶している。次の加耶の多羅から来たとされる第12代景行(オホタラシヒコ・オシロワケ)の「タラシ」系は第13代成務のワカタラシヒコ、第14代仲哀のタラシナカツヒコ、仲哀の妃とされるオキナガタラシヒメ(神功皇后)へと続く。そして、「ワケ」系は、第15代応神のホムタワケ、第17代履中のオオエノ・イザホワケ、第18代反正のタジヒノミツハワケのとなる。第16代仁徳のオオサザキ以外は、第12代景行から第18代反正まですべての大王に「ワケ」・「タラシ」がつく。仁徳は応神の成人した姿であり、同一人物との説がある。

これらのことは何を意味するのか?それは、266年から290年の間のどこかで、伊都国王であった難升米なしめの後継者が北部九州から大和へ東遷した崇神系は、垂仁(318年~330年ごろ)の後も数代は続いていたはずである。それは考古学的に推定できる。しかし、4世紀後葉から5世紀初頭に大和へ東征してきた景行系の大王である応神あるいは仁徳に取って代わられ、垂仁の後の数代は大王の系譜にその名は残らなかった。その代わりに、応神・仁徳系は、加耶から渡来した3代前の景行にさかのぼって大王の系譜に名を残したのである。景行は筑紫と周防に攻め入り、次に中九州の狗奴国(熊襲)と戦ったが完全には征服できず、次の世代の景行の子であるヤマトタケル(ヲウス)と成務の兄弟、さらにその次の世代のヤマトタケルの子である仲哀とその妃とされる神功皇后と、実に三代にわたる狗奴国(熊襲)との熾烈な戦争を戦い抜き、最後に武内宿禰の助けを借りて、北部九州・中九州と周防一帯を支配することができたと思われる。その武内宿禰とは何者かについては、後で述べる。そして、記紀では大和への東征となる


記紀によれば、

 第15代 応神おうじん:ホムタワケ、軽島豊明宮(奈良・橿原市)で即位とされるが、実際は難波の大隈宮に居ますとある。恵我藻伏崗陵(大阪・羽曳野市の誉田山こんだやま古墳)。皇后は河内の豪族の娘、仲媛なかつひめ。吉備の兄媛えひめ、和邇氏の二人の娘、等、複数の妃がいたが、地方豪族との関係も重要であった。その妃たちの間に多くの皇子女をもうけた(古事記では27人、日本書紀では19人)。父は仲哀でその第四子、母は神功皇后。神功皇后が三韓出兵の帰途に宇美(福岡・糟屋郡宇美町)で生んだとされるが、創作と考えられる。応神・仁徳の時代は巨大古墳の時代の頂点であり、崇神から始まった三輪王権に取って代わり、今の大阪府を拠点とする河内王権(ワケ王権)の初代である。応神期には多くの渡来人が日本に先進文化を伝えた。百済からは阿知吉師あちきしがやってきて文字文化を伝え、その後、和邇わに(王仁)吉師きしが論語十巻、千字文一巻を携えてやってきた。また、5世紀は技術革新の世紀とも呼ばれる。須恵器すえきや鉄器などの手工業生産、金工技術、馬匹生産、土木、生活様式に至るまで、様々な文化が朝鮮半島から導入された。これらにより農業生産高が飛躍的に高まったとされる。古事記には、応神・仁徳・雄略の三人の天皇とその恋の相手にまつわる歌物語が多く収められている。これは後世の人びとがこの三人が有力な大王であったと考えていたからと思われる。応神は形の上では仲哀の子であるが、実際は神の子であるという考えが早くから存在していたようだ。それは始祖王の条件であり、応神は新しい政権である河内王権の始祖たる資格をもつものである。記紀の応神紀と仁徳紀には混じり合った話が多く、また日本書紀に応神の陵のことが書かれていないことから、応神と仁徳は同一人物であるとの説がある。

 第16代 仁徳にんとく:オオサザキ、難波高津宮(大阪市)、百舌鳥もず耳原中陵(大阪・堺市の大仙だいせん古墳)。父は応神、母は仲媛なかつひめ。仁徳の最初の妻は応神が呼寄せた日向の髪長媛かみながひめ、それを取り次いだのは武内宿禰大臣たけのうちのすくねのおおおみ、髪長媛を大和へ呼んだのは応神だったが、摂津に滞在していた髪長媛を見たオオサザキ(仁徳)は一目ぼれをした、それを知った応神は髪長媛を譲ったことになっている。次が大和の葛城襲津彦そつひこの娘・磐之媛いわのひめ、豪族から妃を出す例は多くあったが、皇后になったのは稀だった。応神没後、三人による王位継承の争いの末、勝ち残ったのは応神の第四子の仁徳であり、難波の上町台地に高津宮を営んだ。難波の堀江の開削、墨之江すみのえ(住吉)津の整備、茨田の堤の造成など淀川と上町台地、また河内平野の治水事業を行い、農業生産力を拡大させた。倭の五王の最初の「さん」とみなされる。 


 日本書紀では、オキナガタラシヒメ(神功皇后)と武内宿禰が大和へ東征する途中、播磨の斗賀野とがので仲哀の子である香坂かごさか王と忍熊おしくま王が襲ってきたが、和邇わに氏の祖先となる武振熊たけふるくまがそれを破った。武内宿禰は御子(応神)を連れて禊ぎをしようと近江・若狭を経て、越の角鹿つぬがに仮の宮殿を建てた。そして武内宿禰は御子(応神)とともにオキナガタラシヒメ(神功皇后)が待つ大和へ帰ってきた。他所からの侵略者は陸地に近接した海で囲まれた島に根拠地を置くことはよくある。応神の場合は、難波の大隅島にあった大隅宮である。日本書紀では弟の忍熊王のほうが物語の主役になっている。忍熊王の母方は河内湖から大和川流域を地盤とした大江王である。福井県の劔神社では忍熊王を劔の御子として祀っている。三輪王権はこの忍熊おしくま王をもって没落し、ここからは応神・仁徳の河内王権の時代となる。


和邇わに氏]

記紀の上では、武内宿禰と共に仲哀と景行の孫にあたる大中姫との子である香坂王と忍熊王を播磨で破った武振熊たけふるくまが和邇氏の祖である。和邇氏は奈良盆地北東部を本拠とし、5世紀から6世紀後半にかけて后妃を輩出したおみ姓の大豪族である。和邇氏の祖として、開化期・崇神期・神功皇后期にみえる伝承がある。和邇氏出身の女性は応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の7天皇に計9人の后妃を入れている。5世紀末か6世紀に渡来したはた氏よりも古い渡来人集団で、4世紀の東大寺山古墳は天理市の和邇町にある。その古さから渡来人とは言われていない。琵琶湖北西の高島の南には湖西線の「和邇わに」という駅がある。古代豪族和邇氏の地盤があったところである。「ワニ」は古代朝鮮語で剣あるいは鉄を意味することから、鉄器生産(鍛冶・鍛造技術)にかかわった氏族であり、近江の鉄器生産は和邇氏によって開始された可能性は高い。和邇氏は6世紀に奈良県北部の春日野の地へ移り春日氏を称した。その後、小野、粟田、柿本、大宅、春日などの総称を和邇氏と呼んでいる。

大和における和邇氏の本拠地は天理市の和邇町と考えられており、その和邇町に最も近い場所に築かれたのが東大寺山古墳群であり、その中で最初に築かれたのが、漢中平□年(後漢の中平は184年~189年)の銘文がある鉄の大刀が出土している4世紀中葉の東大寺山古墳である。被葬者は初期ヤマト王権を支える有力者である和邇氏と考えられることから、和邇氏は4世紀中葉までには大和へ進出していたという事実がある。

応神と武内宿禰が大和へ東征する以前に、和邇氏はすでに畿内へ進出していたと思われる。当時の和邇氏の進出は争いを伴わないものであったようだ。おそらく、鉄器生産(鍛冶・鍛造技術)を畿内にもたらしたのではないかと考えられる。もしそうであれば、崇神の三輪王権下の人びとからは歓迎された移住であったと思われる。鉄器生産(鍛冶・鍛造技術)に必要な鉄塊や鉄鋌てっていなどの鉄素材は朝鮮半島南部の加耶から入手せざるを得なかったため、和邇氏は畿内に移住後も加耶との交流は継続していたはずである。そうした事情から、和邇氏は結果として、応神らの大和への東征の先発隊の役割を担うこととなったと思われる。


 5世紀は前方後円墳が巨大化した時代である。造営地は奈良盆地から大阪平野の河内へと移り、古市ふるいち古墳群と百舌鳥もず古墳群が形成された。(伝)応神陵と(伝)仁徳陵がその代表である。河内王権(ワケ王権)の巨大前方後円墳は、前世紀の三輪王権の前方後円墳を大きく凌ぐことにより、その武力・経済力を含めた支配力を大和東南部の三輪王権の残存勢力、さらに畿内およびその周辺各地の諸豪族に見せつけるためであったと思われる。巨大前方後円墳では竪穴式石室に長持形石棺と呼ばれる大型の組合式石棺が納められるようになった。それは王者の石棺とたとえられている。


 直木孝次郎は次のように述べて、三輪王権から河内王権への移行をはっきりと認めている。 

“4世紀の大和では、墳長230メートルの大古墳メスリ山古墳が鉄製武器の出土の多い古墳として知られるが、刀剣11口・槍先212口・鏃236点・実用性のない鉄弓と鉄矢5本程度であるのに対し、河内の5世紀の古墳ではそれをはるかに超える多数の鉄製武器・甲冑を出土する古墳が少なくない。

百舌鳥もず古墳群では、大塚山古墳(168メートル)の副葬品のみを収める粘土槨4基から300点をはるかに超す鉄製武器が出土した。ミサンザイ古墳(365メートル)の陪塚の七観古墳から刀剣200口以上・甲冑10領以上・その他鉄鏃などとともに馬具も出土した。御廟山古墳(203メートル)の陪塚カトンボ山古墳から鉄製の刀剣鏃などの武器多数が粘土槨から出土した。 

古市ふるいち古墳群では、誉田山古墳(425メートル)の陪塚アリ山古墳に3つの埋葬施設があり、刀剣が85口・鉾や鏃などをあわせると鉄製武器は2000口を超える。墓山古墳(225メートル)の陪塚西墓山古墳では鉄剣だけで113口以上の多数の鉄製武器が出土し、陪塚野中古墳では甲冑11領をはじめ628本の鏃を含む鉄製武器の他、36キロの鉄鋌が出土した。鉄鋌は朝鮮半島からの舶載品と思われる。 

以上のように4世紀の大和の古墳と5世紀の河内の古墳とでは、副葬品にみる鉄製武器・甲冑の数量に非常に大きな差がある。鉄製武器だけを収納した施設が古墳の封土中に設けられているのも河内だけであり、同一政権内で盟主の墓を大和から河内に移したというだけでは済まない大きな変化が起こっている。王権が交代したと考えるのが妥当である。”


次に代表的な前期古墳(三輪王権)と中期古墳(河内王権)を見てみる。


[前期古墳(3世紀後葉~4世紀後葉):三輪王権]

奈良県天理市から「山の辺の道」を桜井市までの奈良盆地の東南部にある古墳時代前期(3世紀後葉~4世紀後葉)の古墳群。北から南へ、大和・柳本・纏向・鳥見山となる。この地域に初期ヤマト王権の基盤が存在した。それは三輪(イリ)王権であるが、その前の神武系も含まれている。4世紀の三輪王権の時代は、北部九州で台与の後に男王(伊都国王難升米なしめと推定)が立った時期(280年ごろ)の後である。その王権は吉備の勢力と共に奈良盆地の東南部を掌握したと考える。畿内の前期古墳の副葬品である鏡・剣・玉の三種は北部九州からの継承といえる。北部九州では、農業と結びつく日迎えと祭祀の道具としての鏡を持ち、権益守護の武器をたずさえ、身分表示として首飾りをかけるということで、弥生時代における北部九州の支配者的性格をあますことなく備えている。

大和おおやまと古墳群>

西殿塚(220メートル、天理市、箸墓と似た形をしていることから箸墓に続いて造られたと思われる)、東殿塚(175メートル、円筒埴輪には船が描かれている)、中山大塚古墳(132メートル、大量の葺石で覆われている)。ここには前方後方墳もある。前方後方墳は全国的にも珍しいが、奈良県内の10基あまりの中の6基が大和古墳群に含まれている。その出現地域とされる東海地方との関係が示唆される。

<柳本古墳群>

天神山古墳(100メートル、内行花文鏡など23牧の鏡が出土)、黒塚(初期の竪穴式石室、130メートル、33枚の三角縁神獣鏡が棺外から出土、1枚の画文帯神獣鏡は棺内の頭部に置かれていた)、櫛山古墳(155メートル、多量の腕輪形石製品の破片が墳丘に撒かれていた)、行燈山あんどんやま古墳(240メートル:古墳時代前期後半)、渋谷向山しぶたにむかいやま古墳(310メートル:(伝)景行天皇陵)。

纏向まきむく箸中はしなか)古墳群>

纏向遺跡の古墳群については「崇神」の項を参照。

外山とび鳥見山とみやま古墳群> 

纏向遺跡の南にあたる磐余いわれの地である、他のヤマト王権古墳とは異質な古墳である。銅鏡が古墳への埋納にさいし故意に破砕したことは、北部九州の平原ひらばる古墳との共通性が見られる。

桜井(外山)茶臼山(208メートル、銅鏡の破片が多数出土し、81面の銅鏡が副葬されていた、碧玉製の玉杖や玉葉は貴重な遺物である)、メスリ山(224メートル、鉄製の弓(1.8メートル)・弦・矢が出土)。

桜井茶臼山古墳の北400メートルの城島遺跡から古墳築造に使用されたとみられる木製の鋤や鍬などが大量に出土している。また、容量の大きな東海・山陰の甕なども共伴することから、遠くから多くの人が集められたと考えられる。


 奈良盆地の前期古墳には、「山の辺の道」以外にも重要な古墳群が存在する。奈良盆地北部の佐紀さき古墳群と奈良盆地の西南部の馬見うまみ古墳群である。

佐紀さき古墳群の西群>

奈良市の平城宮の北にある4世紀代の大王墓群。4世紀後半の佐紀陵山古墳(210メートル)、佐紀石塚山古墳(220メートル)、五社神ごさじ古墳(278メートル)、宝来山ほうらいさん古墳(227メートル:(伝)垂仁陵、佐紀丘陵の南西にあり、現在では安康あんこうの真の陵とされる)。5世紀の応神期以降は和邇わに氏の拠点となった。

馬見うまみ古墳群>

奈良盆地の西南部にある葛城氏の本拠地にあり、4世紀前葉から5世紀中葉までの古墳群。後述の「武内宿禰」の項を参照。


[中期古墳(4世紀後葉~5世紀後葉):河内王権]

5世紀の巨大前方後円墳の時代である。全長が280メートルを超える前方後円墳は11基あり、河内が6基、大和が3基、備中が2基となる。

百舌鳥もず古墳群(堺市)>

上石津かみいしづミサンザイ古墳(365メートル:(伝)履中天皇陵)、大山だいせん古墳(486メートル:(伝)仁徳天皇陵)、土師はぜニサンザイ(290メートル:(伝)反正天皇陵)、百舌鳥御廟山(203メートル)、大塚山古墳(168メートル)、田出井山たでいやま古墳(148メートル)、

古市ふるいち古墳群(堺市)>

津堂城山古墳(208メートル:長持形石棺・水鳥形埴輪)、仲津山なかつやま古墳(290メートル)、誉田山こんだやま古墳(425メートル:(伝)応神天皇陵)、墓山古墳(225メートル)、

<松原市・羽曳野市>

河内大塚古墳(335メートル)、真の雄略天皇陵と推定されるが、異論もある。百舌鳥古墳群と古市古墳群の間に位置する。

佐紀さき古墳群の東群(奈良盆地北部)>

ウワナベ古墳(255メートル、その陪塚(大和6号墳:径25メートルの円墳)から大型282枚・小型594枚の合わせて876牧、重量140キロの鉄鋌が出土、さらに574点ものミニチュア農耕具・工具が出土し、朝鮮半島南部の洛東江中・下流域との密接な関わりが推測される)、コナベ古墳(207メートル)、市庭古墳(253メートル)

<大和の古墳群>

渋谷向山(310メートル)、五社神ごさじ古墳(278メートル)、この二つは4世紀後半の前期古墳になるが、巨大古墳である。見瀬(五条野)丸山古墳(318メートル:実際は6世紀の古墳で真の欽明陵と推定される)。

吉備きび

造山古墳(360メートル)、作山古墳(286メートル)、


 直木孝次郎は、“佐紀古墳群のウワナベ古墳の陪塚から出土した鉄鋌てっていについて、鉄鋌のような鉄素材は前期の古墳からは出てこないが、中期になると河内の古墳からも出てくる。中期古墳は非常に大量の鉄製武器を副葬するという習慣があるが、武器になる以前の材料まで葬るということは、大和の前期古墳の伝統にはないので、この佐紀古墳群の東群の勢力は、4世紀末から5世紀の河内王権と結びつきがあると考えてよい”、と述べている。この佐紀古墳群は、5世紀(中期古墳)の応神期以降は和邇わに氏の拠点となった。


 また、次の福永伸哉(大阪大学教授)による古墳の埋葬方法や副葬品の変化からも大和から河内への勢力交代があったことがわかる。

“古墳時代中期の開始を画する大阪府の古市・百舌鳥古墳群の形成は4世紀後葉には始まっていた。4世紀(後葉)とは古墳時代を前期と中期に区分する考古資料上の大きな変化が進行した激動の世紀だった。4世紀後葉に始まる変動はただ古墳築造動向の変化だけでなく、埋葬施設構造、副葬品などの古墳要素の変化を伴っている。埋葬施設構造でいうと、王墓を含む最有力古墳には従来の長大な竪穴式石室と割竹形木棺という組み合わせにかわって、短く幅広の竪穴式石室と長持形石棺からなる新たな構造が採用され、地域首長の古墳には木棺を粘土で覆った粘土槨が普及する。長持形石棺は、古市古墳群最初の巨大前方後円墳である大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(208メートル)に最古型式のものが使用された。粘土槨は、現在知られる最古のものは古墳時代前期後葉の大阪府富田林市の真名井まない古墳や、大阪府羽曳野市の庭鳥塚にわとりづか古墳に認められる。

副葬品の点では、古墳時代前期において最も重要な品目であった三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうが激減し、これにかわって朝鮮半島系(加耶)の鉄素材や加工技術を駆使して作られた帯金式短甲おぶがねしきたんこうが最上位に位置づけられるようになる。その帯金式短甲を最も多く出土した古墳が大阪府堺市の黒姫山古墳や藤井寺市の野中古墳のようにやはり南河内の地に存在していることは、古市・百舌鳥古墳群を残した政治権力が帯金式短甲の生産や分配を主導したことを示している。三角縁神獣鏡は大和盆地東南部に集積と再分配の中心があったことは疑いなく、初期ヤマト政権と地域首長との政治的連携を示す器物と理解するのが妥当である。こうした資料から、仿製三角縁神獣鏡を政治的に利用した大和盆地東南部の勢力と帯金式短甲を利用した新興の河内の勢力は、各地の首長との間にそれぞれ異なる政治系列を作り上げる動きを、別個に進めていたと理解できる。

したがって、初期ヤマト政権を主導的に運営した大和盆地東南部勢力から、巨大な古市・百舌鳥古墳群を造営しうる政治権力を伸長させた河内勢力へと、倭の盟主権が移動したととらえるのが最も妥当である。有力者の古墳築造とそこで行われる葬送儀礼は、それ自体が政治権力の大きさやその継承者の正統性をアピールする政治セレモニーであった。4世紀後半の一時期に河内・大和という新旧勢力の間に主導権争いが起こり、やがて古市・百舌鳥古墳群の造営者を核とする河内の新興勢力が各地の首長系列を刷新しながら中央政権の主導権を握るに至ったと考える。”

さらに、福永伸哉は、この古墳の内容の変化は、水野祐の「三王朝交代説」の古王朝(崇神の三輪王権)から中王朝(仁徳の河内王権)への交代局面と関連を持っていると述べている。


 このように前期古墳群と中期古墳群を比較してみても、応神・仁徳の時代(4世紀後葉~5世紀前葉)に、倭王は北部九州から畿内へ東遷したことはまちがいないようである。それは水野祐が定義した「征服王朝」で、仁徳から履中・反正・允恭・木梨あるいは安康・雄略まで続き、倭の五王の時代を創出した。それは畿内の古墳の副葬品からも証明されている。特に、鉄鋌てっていであり、大量の鉄製武器であり、帯金式短甲である。

応神・仁徳の「征服王朝」には、景行以来の加耶勢も加わっていたと考えられる。そのことを裏付けるのが、朝鮮半島から伝わったとされる鉄と須恵器すえき、そして木槨墓もっかくぼである。 


[鉄について]

村上恭通(愛媛大学教授)は、“大きな変化もなく、地域的な格差を持ちながら発展した弥生時代の鉄器生産は古墳時代の開始期(3世紀後葉)に入ると飛躍的な発展を迎える。そのことを端的に示すのが北部九州の福岡市博多遺跡群である。そこには新たな鍛冶かじ鍛造たんぞう技術が登場し、大きな画期となった。断面が蒲鉾かまぼこ型をした羽口(博多型)が福岡市博多遺跡に現れ、性能の高いふいごの導入により高温の鍛錬鍛冶たんれんかじが可能となった。北部九州の博多遺跡群では大小の蒲鉾形のをしたふいご羽口、鍛冶(おり・かす)や段増剥片、粒状滓、鉄板の裁断片が大量に出土した。その鍛冶滓は古墳時代中期(5世紀)ですら匹敵する例のないほど大型で大量である。朝鮮半島から舶載(輸入)される鉄が製錬された素材ではなく、製鉄で生産されたばかりの粗鉄に対しても対応できる鍛冶は舶載(輸入)鉄素材の質に左右されない鉄器生産を実現することになった。この博多遺跡では粗鉄を精製してインゴット化する技術を唯一持っていた。その生産量は厖大なもので、古墳時代後期(6世紀)の大阪柏原市の大県おおあがた遺跡とか交野市の森遺跡に匹敵するくらいに大量生産していた。その生産量の多さは自己消費をはるかに凌駕しており、博多遺跡を起点とした倭国における鉄素材の供給体制が形成されたと推測される。この渡来系技術は高温操業による素材生産や古鉄再利用に恩恵をもたらした。蒲鉾型羽口はこの時期、急速に日本海側では石川県まで、瀬戸内(愛媛県今治市の松木広田遺跡で出土)経由では奈良の纏向遺跡、東海を経て神奈川・千葉・群馬にまで伝わった。

その変化は北部九州の倭人が朝鮮半島で垣間見た技術と九州在来の技術との融合の産物である。その背景として、中国では晋の滅亡(316年)による混乱、高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし北部を制圧するなどにより、鉄素材入手の楽浪郡ルートがなくなり、朝鮮半島南岸の弁辰(弁韓)ルートに大きく依存し、精製度の低い、いわば製鉄直後の鉄塊を求めざるを得なくなったからである。古墳出現期の副葬品は長剣のような舶載品以外の鉄鏃・短剣・ヤリのような小型武器や農機具は基本的に日本列島産である。”

さらに、“大和地方にしっかりした形で鉄器が入ってきたのは箸墓はしはかの築造時期である3世紀後葉から4世紀初頭である。北部九州・中九州、山陰・瀬戸内地域より100年から200年も遅れている。このような時代に大和地方が武力や文化で他の西日本地域より優れていたとはとてもいえない。しかし、古墳時代前期後半(4世紀後半)になると、大刀・長剣の大量副葬が見られるようになる(奈良のメスリ山古墳・京都の紫金山古墳など)。長大な武器類の安定的生産の背景には、渡来系鍛冶の存在がある。ここにも王権直属の鉄器生産の萌芽を認めることができ、一つの画期とみなすことができる。この時期に西部瀬戸内沿岸地域に住居形態や集落構造に変容がおこる。愛媛県域の竪穴住居はもともと円形なのが、沿岸部から四角になっていった。それは鉄素材やその加工技術を獲得するため、近畿地方からの人の移動の結果である。近畿地方から人びとが機内系の古式土師器とともに四角の住居様式をもたらしたといえる。その動きは北部九州にも及んだと思われる。そして、奈良盆地の纏向まきむく遺跡や淡路市の五斗長垣内ごつさかいと遺跡に博多遺跡群に見られた技術革新の片鱗が確認されるようになる。近畿地方では、北部九州から鉄素材を供給するような体制が出来たためと考えられ、鉄鍛冶鍛錬技術が急激に向上した”、と述べる。

それは王権の加耶地域および北部九州からの東遷を意味している。その時期は、記紀に記載される武内宿禰と応神による河内王権樹立の時期と重なる。 

4世紀代に日本列島に入ってきた鉄素材である鉄鋌てっていは金官加耶(金海)産であったが、400年に高句麗の軍勢が加耶の金海まで南下すると、当時の鉄の国際市場が崩壊してしまった。これによって一番困ったのは日本列島の倭人たちであった。それまで金官加耶から入手していたが、それが一時的に困難になり新羅や百済から入手せざるを得なくなった。朝鮮半島の他の地域で鉄が豊富なのは新羅の地域で、蔚山うるさんからの鉄鉱石で鉄器を作っていた。したがって、5世紀になると新羅産が入ってくるようになった。新羅が倭国に王子を人質に出したり、高句麗に対して百済と新羅が連携していた5世紀前半は、新羅産の鉄鋌が日本列島に入っていた可能性は高いと考えられる。しかし、高句麗の加耶への南下は一時的であり、応神・仁徳の河内王権は南部加耶系であることから、大和地方には鉄素材は豊富に供給されていたと考えられる。

実際、日本列島内の鉄器生産 について、村上恭通(愛媛大学教授)は次のように述べている。 

“古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)には、良質な舶載(輸入)鉄資材の補給も保証された存在であったともいえる渡来系鍛冶工人により鉄器生産が多様化した。その生産は奈良盆地・岡山平野・美作みまさか盆地・福岡平野に集中している。この時代になると、瀬戸内海を突っ切る沖乗りルートができ、ヤマト王権直属の鍛冶工房は前代と比較して大きく変貌した。朝鮮半島との接触を色濃く反映する地上式鍛冶炉が大阪府交野市の森遺跡や私部きさべ南遺跡の古墳時代中期中葉(5世紀中葉)の遺構にみられる。これらの遺構は地上式鍛冶炉の中核施設である。また、葛城氏の御所市南郷遺跡などの有力豪族が盤踞した地域でもその存在が想定できる。鉄製鍛冶具の副葬が増加するのもこの時期であり、ヤマト王権中枢部の有力者のみならず、地方の有力者も鍛冶具の所有が可能となったことをその分布は示している。この時期、鍛冶関連遺物として増加が著しいのはふいご羽口であり、新型の「ハ」字形羽口が5世紀代に朝鮮半島から導入され普及した結果、前期の蒲鉾形から三角錐を呈する例が増加した。古墳時代中期の集落では竪穴系鍛冶工房や羽口を含む鍛冶関連遺物の検出例が増加し、南九州から東北地方までの集落での鉄器生産が一般化したとみられる。東北地方では鍛冶工房の普及が馬生産・朝鮮半島系土器・かまど付住居など渡来的要素との相関性が高いことが注目される。前方後円墳の副葬品の中に鉄製品が大量に入ってきたり、祭祀遺跡の中に鉄鋌や鉄製武器や農機具などが出てくる時期は、この5世紀である。”

また、“鉄器の利用で大和地方が他の西日本地域に伍するようになるのは5世紀に入ってからである。それは仁徳による河内王権確立に伴って畿内に移住してきた渡来人の力によるところが大きいといえる”、とも述べている。 

なぜ古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)は、良質な舶載(輸入)鉄資材の補給も保証された存在であったのか?それは、応神・仁徳の河内王権はその出自が加耶にあったからである。当時の鉄は戦略物資であり、鉄加工技術は国家機密であった。その鉄を加耶が河内王権に提供していたということは、朝鮮半島の加耶と日本列島の河内王権とは一体であったことを意味する。


須恵器すえきについて]

須恵器は穴窯あながまを用い、焼成の仕上げに窯を密閉して酸素を絶つと粘土の鉄分が還元され青灰色に変化する。そうして、ねずみ色に焼き上げた硬質の無釉器物である。須恵器は台付きの深い大皿を特徴とし、新羅焼とも称され、硬質の土器で、弥生土器の系統を継ぐ土師器はじきに対するものである。但し、煮炊きのためではなく、壺・甕・鉢・椀・杯などである。4世紀末ごろ、百舌鳥もず古墳群に近い陶邑すえむら窯群で須恵器生産が始まり、5世紀に入ると、南部加耶からの渡来工人を中心に生産体制が整えられた。須恵器は丘陵の斜面に構築した登り窯を利用して焼成した陶質土器である。小型容器なら一度に数百個は製作できるから、規格のそろった製品の量産という点でもまさっている。陶邑窯群で最古の須恵器を生産したのは大庭寺おばでら遺跡である。須恵器生産は加耶系渡来人主導で始まった。それは仁徳陵や履中陵の造営時期と重なり、初期須恵器は外来系の奢侈品として支配層に珍重された。

陶邑すえむら窯群では、5世紀中ごろに朝鮮半島南西部の栄山江よんさんがん流域の工人が加わり、生産を著しく拡大し、その製品は鉄器とともに前方後円墳の分布域全域に流通した。栄山江流域は後に任那四県と呼ばれ、百済へ割譲される地域である。やがて、その技術も四国や中部地方、さらに東北地方へと日本列島各地に伝えられた。5世紀後半の高畑古窯址群が出雲の安来市にある。河内王権は須恵器生産をその出現期から大規模に開始した。一方、西日本各地の出現期須恵器の窯は小規模であったため継続できなかった。

朝鮮半島加耶地域出土の倭系須恵器は5世紀後半~6世紀前半の古墳の副葬品として高霊を中心とした大加耶と固城を中心とした小加耶で確認されているが、馬韓(百済)地域では古墳の副葬品の他に集落でも日常的に使用されていた。須恵器の焼成温度は1300℃で、高温を得るためには丘の麓などの斜面に登り窯を築かなければならない。この焼成温度は鉄器生産も容易にした。一方、弥生土器の系統を継ぐ土師器の焼成温度は800℃ほどで、青銅器の鋳造を可能にする温度でもある。


木槨墓もっかくぼ

木槨墓は中国で成立し、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡を経て狗耶くや国(後の金官加耶)を中心とした朝鮮半島南部にまで伝わった墓制である。かくとは木棺を覆う外箱のような形態で、当然底部まで木材を渡して床面を形成するものである。BC3世紀~3世紀の木槨墓については後述する。


 以上のことから、413年に中国南朝の東晋に遣使した「倭王」は応神あるいは仁徳以外にはいない。応神と仁徳は同一人物ではなく、記紀に記されているように親子であったとすれば、当時「倭王」は筑紫あるいは周防にいたはずであることから、その「倭王」は応神と考えるのが自然と思われる。しかし、仁徳の在位年(395年~427年)が合っているとすれば、東遷前の仁徳となる。そして、418年以後、倭王さい(允恭)の即位した439年ごろまでには、瀬戸内海を経て近畿への東遷(遷都)は行われていた。それは倭王さんの時代であり、その讃とは仁徳と思われる。倭王讃は421年と425年に南朝宋に二度遣使している。この遣使は河内への東遷後と考えると、讃による遷都は418年から421年の間であると思われる。しかし、遷都と東征は異なる。大和地方征服のための東征は、遷都する前の380年代には行われていたと推定される。これについては後述する。


 広開土王こうかいどおう碑によると、日本列島の倭人勢力は少なくとも391年から407年までの17年間、百済や加耶諸国と連合し、高句麗や新羅と激しく戦ったのは歴史的事実である。それは百済や加耶諸国との密接な関係を通じて、鉄資源や先進技術・文化を安定的に確保するという政治・外交上の課題の解決策であった。特に、加耶諸国は高句麗の南進に対抗するため日本列島の倭人の軍事力を、日本列島の倭人は威信財と鉄を加耶諸国に求めていた。この高句麗や新羅と激しく戦った時期を含む350年ごろ~420年ごろの約70年の間に倭国の王陵の地が加耶から北部九州を経て河内へ移動した。日本列島の倭国の政治や社会は新しい国際関係の中で大きな転機を迎えることになった。 


 神功皇后と武内宿禰の東征に協力した水先案内人は誰か? それは安曇あずみ(阿曇)氏である。彼らは海人あま族であり、崇神の時代の宗像氏と同様に組織化された水軍を持っていた。安曇(阿曇)は、金印が出土した志賀島を根拠とする一族で、その信奉する神は、イザナキが海底で禊ぎをしたときに現れたワタツミ(綿津見)三神(ソコツワタツミ・ナカツワタツミ・ウハツワタツミ)である。


[応神と住吉大社]

田中卓(元皇學館大学長)によると、住吉大社は大阪市住吉区にあり、津守という一族がまつる航海の安全を司る神である。筑前の阿曇郡志賀島の志賀海神社で、安曇(阿曇)氏が祀るイザナキのみそぎから生まれた三神(ソコツワタツミ・ナカツワタツミ・ウハツワタツミ)と同じ時に誕生した三神(ソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲ)は「墨の江すみのえ三前みまえの大神」と呼ばれ住吉大社に祀られている。ホムタワケ(応神)は住吉三神の子であったとの伝えがあり、河内王権にとって重要な場所であった。神功皇后の朝鮮出兵のときに壱岐から対馬の南端にある豆酘つつ浦を寄港地としたと考えられる。豆酘には神住居かみすまい神社があり、祭神は神功皇后である。住吉のツツノヲ(豆酘つつ)の発祥地と考えられる。住吉社は9か所にあった。摂津(3か所)・播磨・長門・筑前の那珂・紀伊・大唐国・新羅国。大唐国は遣唐使に関係ありと思われる。新羅には神功皇后が新羅を平定した後に住吉大神の社が定められたとある。豆酘つつの地は、古来聖域として名高い龍良たてら山がそびえる神聖な場所である。田中卓によると、ここにコンパスの中心点を置いて円を描くと、ちょうど北部九州と朝鮮半島南部の真ん中で、対馬と壱岐の全領域が収まる要衝の地でもある。また、古代の北部九州を考える場合、対馬にコンパスの中心を置いて、円を描いた形、すなわち北部九州と朝鮮半島南部を一円とした地域が古代倭人の生活圏であったと見なければならないとも述べている。 


 また、松本清張によれば、応神には海人あま族の伝承が多い。福井県敦賀市の気比けひ神宮に祀られているのは、武内宿禰が新羅への遠征から戻ったオキナガタラシヒメ(神功皇后)が生んだホムタワケ(応神)を連れ角鹿つぬが(敦賀)に宿ったときに、名前を交換した「イザサワケ」である。そこは後の継体につながる越の地であり、海人族でもある。古代において、海上交通のほうが陸上を移動するよりはるかに速くて便利であった。


 神功皇后とその子応神は、現在の天皇家に直接つながっている。それは記紀に一度も名前の出ないにもかかわらず、ヤマト王権から大いなる崇敬を受けている宇佐八幡宮に対する特別扱いからも推測できる。ヤマト王権にとって如何に重要かがわかる。そのヤマト王権とは崇神の三輪王権ではなく、景行から始まる応神・仁徳、そして倭の五王へと続く河内王権である。

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