第22話 景行一族による北部九州から近畿への東征
では、オホタラシヒコ(景行)とオホタラシヒメ(神功皇后)の子孫の誰がいつ大和へ東征したのだろうか?その東征のときの武将の
まずは、古事記・日本書紀の景行から神功皇后までの記事の中から、九州における活動のみを抜粋してみる。なぜなら、4世紀後半の350年代~380年代に大和の勢力が北部九州から東国(関東地方)にまで遠征したという事実は、考古学的に認めがたいからである。記紀に記された歴史には作為や修飾が多いことは広く知られている通りである。
直木孝次郎は、“景行のときの東西征服の英雄ヤマトタケルの話も信頼できない。歴史の事実として、畿内を中心にして、東国・西国に勢力を拡げるのは5世紀になってからと考えられる。倭王
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・ヤマトタケル(倭建)は、名をヲウス(小碓)といい、父に似て大男であった。父は景行で、古事記によれば熊襲・出雲・東国を討伐したとあるが、史実は南九州のクマソタケル兄弟の討伐だけであったと思われる。
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これらの伝承は九州勢力の東征とともに大和に持って来られたものと思われる。第21話で鈴木武樹が考察したように、日本書紀の仲哀と神功皇后による北部九州の平定の記事と、三国史記の百済の太子
日本書紀での活動から分かることは、景行の系統は一貫して熊襲、すなわち
古事記では、崇神・垂仁の次はいきなりヤマトタケルの出生の話から国の東西への遠征の物語となる。そして成務の時代の短い話の後は、仲哀と神功皇后と武内宿禰の長い物語となる。このことからも分かるように、大和における崇神系は第11代垂仁で断絶している。次の加耶の多羅から来たとされる第12代景行(オホタラシヒコ・オシロワケ)の「タラシ」系は第13代成務のワカタラシヒコ、第14代仲哀のタラシナカツヒコ、仲哀の妃とされるオキナガタラシヒメ(神功皇后)へと続く。そして、「ワケ」系は、第15代応神のホムタワケ、第17代履中のオオエノ・イザホワケ、第18代反正のタジヒノミツハワケのとなる。第16代仁徳のオオサザキ以外は、第12代景行から第18代反正まですべての大王に「ワケ」・「タラシ」がつく。仁徳は応神の成人した姿であり、同一人物との説がある。
これらのことは何を意味するのか?それは、266年から290年の間のどこかで、伊都国王であった
記紀によれば、
第15代
第16代
日本書紀では、オキナガタラシヒメ(神功皇后)と武内宿禰が大和へ東征する途中、播磨の
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記紀の上では、武内宿禰と共に仲哀と景行の孫にあたる大中姫との子である香坂王と忍熊王を播磨で破った
大和における和邇氏の本拠地は天理市の和邇町と考えられており、その和邇町に最も近い場所に築かれたのが東大寺山古墳群であり、その中で最初に築かれたのが、漢中平□年(後漢の中平は184年~189年)の銘文がある鉄の大刀が出土している4世紀中葉の東大寺山古墳である。被葬者は初期ヤマト王権を支える有力者である和邇氏と考えられることから、和邇氏は4世紀中葉までには大和へ進出していたという事実がある。
応神と武内宿禰が大和へ東征する以前に、和邇氏はすでに畿内へ進出していたと思われる。当時の和邇氏の進出は争いを伴わないものであったようだ。おそらく、鉄器生産(鍛冶・鍛造技術)を畿内にもたらしたのではないかと考えられる。もしそうであれば、崇神の三輪王権下の人びとからは歓迎された移住であったと思われる。鉄器生産(鍛冶・鍛造技術)に必要な鉄塊や
5世紀は前方後円墳が巨大化した時代である。造営地は奈良盆地から大阪平野の河内へと移り、
直木孝次郎は次のように述べて、三輪王権から河内王権への移行をはっきりと認めている。
“4世紀の大和では、墳長230メートルの大古墳メスリ山古墳が鉄製武器の出土の多い古墳として知られるが、刀剣11口・槍先212口・鏃236点・実用性のない鉄弓と鉄矢5本程度であるのに対し、河内の5世紀の古墳ではそれをはるかに超える多数の鉄製武器・甲冑を出土する古墳が少なくない。
以上のように4世紀の大和の古墳と5世紀の河内の古墳とでは、副葬品にみる鉄製武器・甲冑の数量に非常に大きな差がある。鉄製武器だけを収納した施設が古墳の封土中に設けられているのも河内だけであり、同一政権内で盟主の墓を大和から河内に移したというだけでは済まない大きな変化が起こっている。王権が交代したと考えるのが妥当である。”
次に代表的な前期古墳(三輪王権)と中期古墳(河内王権)を見てみる。
[前期古墳(3世紀後葉~4世紀後葉):三輪王権]
奈良県天理市から「山の辺の道」を桜井市までの奈良盆地の東南部にある古墳時代前期(3世紀後葉~4世紀後葉)の古墳群。北から南へ、大和・柳本・纏向・鳥見山となる。この地域に初期ヤマト王権の基盤が存在した。それは三輪(イリ)王権であるが、その前の神武系も含まれている。4世紀の三輪王権の時代は、北部九州で台与の後に男王(伊都国王
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西殿塚(220メートル、天理市、箸墓と似た形をしていることから箸墓に続いて造られたと思われる)、東殿塚(175メートル、円筒埴輪には船が描かれている)、中山大塚古墳(132メートル、大量の葺石で覆われている)。ここには前方後方墳もある。前方後方墳は全国的にも珍しいが、奈良県内の10基あまりの中の6基が大和古墳群に含まれている。その出現地域とされる東海地方との関係が示唆される。
<柳本古墳群>
天神山古墳(100メートル、内行花文鏡など23牧の鏡が出土)、黒塚(初期の竪穴式石室、130メートル、33枚の三角縁神獣鏡が棺外から出土、1枚の画文帯神獣鏡は棺内の頭部に置かれていた)、櫛山古墳(155メートル、多量の腕輪形石製品の破片が墳丘に撒かれていた)、
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纏向遺跡の古墳群については「崇神」の項を参照。
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纏向遺跡の南にあたる
桜井(外山)茶臼山(208メートル、銅鏡の破片が多数出土し、81面の銅鏡が副葬されていた、碧玉製の玉杖や玉葉は貴重な遺物である)、メスリ山(224メートル、鉄製の弓(1.8メートル)・弦・矢が出土)。
桜井茶臼山古墳の北400メートルの城島遺跡から古墳築造に使用されたとみられる木製の鋤や鍬などが大量に出土している。また、容量の大きな東海・山陰の甕なども共伴することから、遠くから多くの人が集められたと考えられる。
奈良盆地の前期古墳には、「山の辺の道」以外にも重要な古墳群が存在する。奈良盆地北部の
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奈良市の平城宮の北にある4世紀代の大王墓群。4世紀後半の佐紀陵山古墳(210メートル)、佐紀石塚山古墳(220メートル)、
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奈良盆地の西南部にある葛城氏の本拠地にあり、4世紀前葉から5世紀中葉までの古墳群。後述の「武内宿禰」の項を参照。
[中期古墳(4世紀後葉~5世紀後葉):河内王権]
5世紀の巨大前方後円墳の時代である。全長が280メートルを超える前方後円墳は11基あり、河内が6基、大和が3基、備中が2基となる。
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津堂城山古墳(208メートル:長持形石棺・水鳥形埴輪)、
<松原市・羽曳野市>
河内大塚古墳(335メートル)、真の雄略天皇陵と推定されるが、異論もある。百舌鳥古墳群と古市古墳群の間に位置する。
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ウワナベ古墳(255メートル、その陪塚(大和6号墳:径25メートルの円墳)から大型282枚・小型594枚の合わせて876牧、重量140キロの鉄鋌が出土、さらに574点ものミニチュア農耕具・工具が出土し、朝鮮半島南部の洛東江中・下流域との密接な関わりが推測される)、コナベ古墳(207メートル)、市庭古墳(253メートル)
<大和の古墳群>
渋谷向山(310メートル)、
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造山古墳(360メートル)、作山古墳(286メートル)、
直木孝次郎は、“佐紀古墳群のウワナベ古墳の陪塚から出土した
また、次の福永伸哉(大阪大学教授)による古墳の埋葬方法や副葬品の変化からも大和から河内への勢力交代があったことがわかる。
“古墳時代中期の開始を画する大阪府の古市・百舌鳥古墳群の形成は4世紀後葉には始まっていた。4世紀(後葉)とは古墳時代を前期と中期に区分する考古資料上の大きな変化が進行した激動の世紀だった。4世紀後葉に始まる変動はただ古墳築造動向の変化だけでなく、埋葬施設構造、副葬品などの古墳要素の変化を伴っている。埋葬施設構造でいうと、王墓を含む最有力古墳には従来の長大な竪穴式石室と割竹形木棺という組み合わせにかわって、短く幅広の竪穴式石室と長持形石棺からなる新たな構造が採用され、地域首長の古墳には木棺を粘土で覆った粘土槨が普及する。長持形石棺は、古市古墳群最初の巨大前方後円墳である大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(208メートル)に最古型式のものが使用された。粘土槨は、現在知られる最古のものは古墳時代前期後葉の大阪府富田林市の
副葬品の点では、古墳時代前期において最も重要な品目であった
したがって、初期ヤマト政権を主導的に運営した大和盆地東南部勢力から、巨大な古市・百舌鳥古墳群を造営しうる政治権力を伸長させた河内勢力へと、倭の盟主権が移動したととらえるのが最も妥当である。有力者の古墳築造とそこで行われる葬送儀礼は、それ自体が政治権力の大きさやその継承者の正統性をアピールする政治セレモニーであった。4世紀後半の一時期に河内・大和という新旧勢力の間に主導権争いが起こり、やがて古市・百舌鳥古墳群の造営者を核とする河内の新興勢力が各地の首長系列を刷新しながら中央政権の主導権を握るに至ったと考える。”
さらに、福永伸哉は、この古墳の内容の変化は、水野祐の「三王朝交代説」の古王朝(崇神の三輪王権)から中王朝(仁徳の河内王権)への交代局面と関連を持っていると述べている。
このように前期古墳群と中期古墳群を比較してみても、応神・仁徳の時代(4世紀後葉~5世紀前葉)に、倭王は北部九州から畿内へ東遷したことはまちがいないようである。それは水野祐が定義した「征服王朝」で、仁徳から履中・反正・允恭・木梨あるいは安康・雄略まで続き、倭の五王の時代を創出した。それは畿内の古墳の副葬品からも証明されている。特に、
応神・仁徳の「征服王朝」には、景行以来の加耶勢も加わっていたと考えられる。そのことを裏付けるのが、朝鮮半島から伝わったとされる鉄と
[鉄について]
村上恭通(愛媛大学教授)は、“大きな変化もなく、地域的な格差を持ちながら発展した弥生時代の鉄器生産は古墳時代の開始期(3世紀後葉)に入ると飛躍的な発展を迎える。そのことを端的に示すのが北部九州の福岡市博多遺跡群である。そこには新たな
その変化は北部九州の倭人が朝鮮半島で垣間見た技術と九州在来の技術との融合の産物である。その背景として、中国では晋の滅亡(316年)による混乱、高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし北部を制圧するなどにより、鉄素材入手の楽浪郡ルートがなくなり、朝鮮半島南岸の弁辰(弁韓)ルートに大きく依存し、精製度の低い、いわば製鉄直後の鉄塊を求めざるを得なくなったからである。古墳出現期の副葬品は長剣のような舶載品以外の鉄鏃・短剣・ヤリのような小型武器や農機具は基本的に日本列島産である。”
さらに、“大和地方にしっかりした形で鉄器が入ってきたのは
それは王権の加耶地域および北部九州からの東遷を意味している。その時期は、記紀に記載される武内宿禰と応神による河内王権樹立の時期と重なる。
4世紀代に日本列島に入ってきた鉄素材である
実際、日本列島内の鉄器生産 について、村上恭通(愛媛大学教授)は次のように述べている。
“古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)には、良質な舶載(輸入)鉄資材の補給も保証された存在であったともいえる渡来系鍛冶工人により鉄器生産が多様化した。その生産は奈良盆地・岡山平野・
また、“鉄器の利用で大和地方が他の西日本地域に伍するようになるのは5世紀に入ってからである。それは仁徳による河内王権確立に伴って畿内に移住してきた渡来人の力によるところが大きいといえる”、とも述べている。
なぜ古墳時代中期(4世紀後葉~5世紀後葉)は、良質な舶載(輸入)鉄資材の補給も保証された存在であったのか?それは、応神・仁徳の河内王権はその出自が加耶にあったからである。当時の鉄は戦略物資であり、鉄加工技術は国家機密であった。その鉄を加耶が河内王権に提供していたということは、朝鮮半島の加耶と日本列島の河内王権とは一体であったことを意味する。
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須恵器は
朝鮮半島加耶地域出土の倭系須恵器は5世紀後半~6世紀前半の古墳の副葬品として高霊を中心とした大加耶と固城を中心とした小加耶で確認されているが、馬韓(百済)地域では古墳の副葬品の他に集落でも日常的に使用されていた。須恵器の焼成温度は1300℃で、高温を得るためには丘の麓などの斜面に登り窯を築かなければならない。この焼成温度は鉄器生産も容易にした。一方、弥生土器の系統を継ぐ土師器の焼成温度は800℃ほどで、青銅器の鋳造を可能にする温度でもある。
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木槨墓は中国で成立し、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡を経て
以上のことから、413年に中国南朝の東晋に遣使した「倭王」は応神あるいは仁徳以外にはいない。応神と仁徳は同一人物ではなく、記紀に記されているように親子であったとすれば、当時「倭王」は筑紫あるいは周防にいたはずであることから、その「倭王」は応神と考えるのが自然と思われる。しかし、仁徳の在位年(395年~427年)が合っているとすれば、東遷前の仁徳となる。そして、418年以後、倭王
神功皇后と武内宿禰の東征に協力した水先案内人は誰か? それは
[応神と住吉大社]
田中卓(元皇學館大学長)によると、住吉大社は大阪市住吉区にあり、津守という一族がまつる航海の安全を司る神である。筑前の阿曇郡志賀島の志賀海神社で、安曇(阿曇)氏が祀るイザナキの
また、松本清張によれば、応神には
神功皇后とその子応神は、現在の天皇家に直接つながっている。それは記紀に一度も名前の出ないにもかかわらず、ヤマト王権から大いなる崇敬を受けている宇佐八幡宮に対する特別扱いからも推測できる。ヤマト王権にとって如何に重要かがわかる。そのヤマト王権とは崇神の三輪王権ではなく、景行から始まる応神・仁徳、そして倭の五王へと続く河内王権である。
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