第21話 加耶からの渡来と北部九州の平定

 古文献の記載や考古学的状況をたどっていくと、57年に後漢の光武帝から金印を賜った漢委奴国王から、266年の台与による晋への遣使までは、伊都国・奴国を中心とした北部九州に倭王がいた。しかし、その後の足取りは中国史書上において空白となり、413年に突如として晋書に「倭国」が朝貢に来たとある。その8年後には、宋書の421年に倭王さんが登場してくる。


・「晋書」安帝本紀に、「義熈ぎく9年(413年)是の歳、高句麗、倭夷わい、西南夷、銅頭大師、並びに方物を献ず」とある。 安帝9年(413年)、高句麗・倭国などが東晋に入貢したが、倭王の名はない。413年は高句麗・長寿王の即位元年である。このとき長寿王は征東将軍高句麗王楽浪公に除正されたが、倭王の除正の記載はない。後に編さんされた「梁書」倭伝に、「晋の安帝の時、倭王さん有り、遣使して朝貢す」、とあるので、この時の倭王は「讚」であったとする説が有力であるが、鈴木武樹は「讃」と断定せず、「倭夷」とする。安帝の在位は396年~418年。


・「宋書」倭国伝に、「高祖の永初2年(421年)、みことのりしていわく、倭讃わさん、万里はるばる貢を修む。遠方からの忠誠、よろしくあらわすべく、除授を賜うべし」とある。


 朝鮮史料を詳しく分析した元明治大学教授(独文学)の鈴木武樹は、日本書紀の記事を次のように読み解いた。

“413年、晋書に、「倭国は東晋の安帝に方物を献じた」とある。それから8年後の421年に、倭王讃が宋に遣使している。413年の倭王「倭夷」は九州にいて、460年代以降の倭王は近畿の大王である。また、418年に新羅(斯廬しろ)の王弟・未斯欣みしくむが倭国(北部九州)から逃げ帰っている。これらのことから倭王の都は418年以後、460年前後までの間に北部九州から近畿に移っていなければならない。倭の五王、さんちんさいこう、のうち済・興・武の三人の倭王は日本書紀の内容からして近畿にいたことは確かであるから、済の即位した440年代までには東遷は行われていなければならない。東進したのは倭王さん(イザサワケ)である。イザサワケはオホタラシヒコとオホタラシヒメとのあいだに生まれた子で、日本書紀によれば筑紫の蚊田かたで生まれたといい、そこは筑後の御井郡賀田郷、あるいは筑前の怡土いと郡長野村蚊田かたといわれるが、加耶との関係の深さから伊都国があった怡土いと郡の方が有力である。「イザサ」あるいは「イザ」の名がつく地名はかなり早くから瀬戸内一帯に散らばっている。長門の伊佐いさ、豊前の諌山いさやま、伊予の伊狭爾波岡いさにはをか、備後の諌山いさやま、播磨の伊佐佐いささ神社、淡路の伊佐佐いささなどであるが、イザサワケはそれらの同族を頼りつつ東進したと思われる。日本書紀によれば、イザサワケを守る一隊は豊後水道を南下して四国の南から木ノ水門に向う一方、イザサワケの母、オホタラシヒメを奉じる一隊は瀬戸内海をまっすぐ難波に向った。そして木(紀)ノ国で合流したこの二つの軍勢は、武内宿禰たけのうちのすくね武振熊たけふるくまとの指揮のもとに、まず山背やましろ(山城・京都盆地)と淡海あふみ(近江)で忍熊おしくま王と戦い、瀬田でこれを誅した。こうして淡海あふみ(近江)で勝利を収めたオホタラシヒメは石村いわれ(磐余)に都をおいてイザサワケを太子とした。このイザサワケが13歳前後のころ、角鹿つぬが(敦賀)の気比けひの大神のもとを訪ねて、その大神のホムタワケと名前を交換して自らホムタワケ(応神おうじん)と名のった”、と分析している。

つまり、ホムタワケ(応神)は伊都国で生まれ、母であるオホタラシヒメ(神功皇后じんぐうこうごう)とともに北部九州から東進し、武内宿禰と武振熊の指揮のもとに、畿内の三輪王権の勢力を破り征服したのである。


 さらに、オホタラシヒメ(神功皇后)について、次のように述べている。

“オホ多羅(タラ)シ(シは“の”の意)媛(ヒメ)」は多羅たらに出自をもつ人物と考えられる。この「タラ」は、加耶の一国である多羅で、太良・大耶とも表記される。加耶の多羅を本貫とする一団の渡来者たちが、まず穴門あなと(長門、山口県北部)の豊浦とよら(下関市)に橋頭堡を置いた後、周防すおう(山口県南部)の「娑麼さば(防府市)」を根拠地として北部九州の経略に乗り出したと推測される。多羅族が岡ノ津(おか、遠賀川下流地域)まで来ると、そこへ伊都国の五十迹手いとてが穴門(長門)の引嶋ひこじままで出迎えに来た。つまり、アメノヒボコの後裔である五十迹手は、いちはやく恭順の意を表したのである。この後、オホタラシヒメは橿日かしひ(香椎、筑紫の儺県なのあがた)から儺(福岡)・松峡まつを(福岡県朝倉郡)・夜須やす山門やまと末羅まつら(松浦)へと転戦して、伊都国の勢力範囲とその周辺を平定した。日本書紀の仲哀(タラシナカツヒコ)と神功皇后(オホタラシヒメ=オキナガタラシヒメ)による北部九州の平定の記事から、多羅族による北部九州平定の年代は4世紀後半と百済の太子直支とき(腆支)の倭国への人質(397年)との間になる。つまり4世紀の後半に加耶の一国である多羅から王族の一派が日本列島の倭国に渡来して、伊都国を配下に収め、さらに九州西北部一帯をも平定しおえたのである。オホタラシヒメは後に宇佐神宮に祀られている。仲哀(タラシナカツヒコ)は後世において作為された人物か、オホタラシヒメとはまったく関わりを持たない人物である。” 

多羅は朝鮮半島南部の加耶中部にある。弁辰12ヶ国の一つ瀆盧とくろ国は後の任那みまな(加耶)にある多羅のことと推定されている。 


 さらに、“日本書紀の景行(オホタラシヒコ)12年に北部九州平定の記事がある。その行程は、周防の娑麼さば(今の山口県防府市佐波)から始まり-> 長峡県ながおのあがた(福岡県行橋市)に行宮かりみやを建て、みやことした -> 碩田おおきた(大分市)-> 速見邑はやみのむら(大分県速見郡)の土蜘蛛つちぐもを成敗 -> 日向に行宮を建て、高屋宮たかやのみやとした -> 襲国そのくに八十梟帥やそたけるを成敗 -> 熊県くまのあがた(熊本県球磨郡人吉市)の熊津彦を成敗 -> 八代県やしろのあがた-> 高来県たかくのあがた(長崎県高来郡) -> 阿蘇(熊本県阿蘇郡) -> 筑後の御木みけ(福岡県大牟田市)-> 八女県やめのあがた(福岡県八女郡)-> 的邑いくはのむら(福岡県浮羽郡)へと移動している。そこには大和から周防の娑麼さばへの経路が示されていない。この伝承は、オホタラシヒコは九州の西北部の筑後を支配していた大王で、その大王が九州の東海岸から出発して版図をさらに南にまで広げたという物語である。大王の支配地域である筑後・肥後は彫刻壁画古墳が分布する地域であり、また舟型石棺・石人石馬が分布する地帯でもある”、と述べて、ホムタワケ(応神)の父はオホタラシヒコ(後の景行)で、北部九州を支配していた大王であるとしている。しかし、オホタラシヒコは息子のホムタワケ(応神)と妃のオホタラシヒメ(神功皇后)とは一緒に東進していない。


以上の内容を整理すると、次のようになる。


・4世紀の後半に加耶の一国である多羅(弁辰12ヶ国の一つの瀆盧とくろ国)から王族の一派が倭国に渡来して、北部九州の伊都国を配下に収め、周防(山口県南部)を根拠地として、さらに九州の東海岸から日向・肥後そして筑後をも平定しおえた。それを成し遂げたのはオホタラシヒコ(後の景行)である。

・その後、息子のイザサワケと妃のオホタラシヒメ(神功皇后)は北部九州から東進し、武内宿禰たけのうちのすくね武振熊たけふるくまの指揮のもとに、大和地方の土着勢力を破り畿内を征服した。

・イザサワケが13歳前後のころ、角鹿つぬが(敦賀)の気比けひの大神ももとを訪ねて、その大神のホムタワケと名前を交換して自らホムタワケ(応神)と名のった。イザサワケは倭王讃であり、名前を変えてホムタワケ(応神)となった。

・倭王の都は418年以後、倭王さいが即位した439年までの間に九州から近畿に移っていなければならない。


この鈴木武樹の分析は何を意味するのか? 他の方々の諸説も参考にして考えてみたい。


 水野祐は“神功皇后の物語は、崇神王権と仁徳王権とを一系に結合する機能を果たさせるために、この架空の神功皇后が崇神王権最後の仲哀の皇后であるとされ、その腹に生まれた応神を仁徳の父とすることによって、崇神王権との血縁的なつながりをもたせた”、と述べ、神功皇后の物語は架空としている。 

さらに、応神・仁徳について、“記紀によれば、仁徳は都を突然難波の高津宮に遷している。それは大和からではなく、狗奴くな国の都があった日向から遷都したと推定される。その理由は、


① 高句麗に対抗するには、東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達し、多くの兵力を徴用する必要があった。 

② また、本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移し、万全を期すためでもあった。

 

当時、難波には大きな河内湖があり、必ずしも生活上恵まれた地ではなかったが、三輪王権の本拠である大和は避けたと思われる。そのため、仁徳にんとくは河内平野の灌漑治水と干拓を遂行した。そのための技術力はあった。今に残る応神陵・仁徳陵はその技術力・動員力を証明している。応神は九州で崩じたが、仁徳は新王権の権威を示すために、陵墓として難波に巨大古墳を造営・改葬し王権を誇示した。このときから古墳の副葬品は鉄製の甲冑・馬具類・金銀製の刀剣・金冠など宗教的色彩のうすれた権力・富力・武力を表わすものに変化した。このような前期古墳(三輪王権)と中期古墳(河内王権)との相違は、両者は一線的な発展というのではなく、その発展の基盤となった社会状態の変化に起因するものと見ることができる。中期古墳にみられる厖大な封土の築造による墳丘と、それを囲む周濠の美は天皇の権力と統制力との象徴であり、大土木工事の完遂のために投下された厖大な労働力の収奪は、鉄製農具の普及による水稲耕作技術の発達に伴う大規模な河内平野の開拓によってもたらされた農業生産力の向上をバックとしてはじめて可能となったものである。実用什器としての土器は土師器はじきから須恵器すえきに代わり、北方アジア系馬具類が出土するのは、この古墳文化に大陸系要素が濃厚に影響を与えたことを示す。しかし、このことは騎馬民族の征服に基づく結果ではなく、朝鮮半島における高句麗との大規模な戦闘の結果、大打撃を受けた日本(九州)が苦い体験で騎馬戦の有利さに目を見張り、その乗馬の習俗を急速に受容するに至ったためだと見える”、と述べて、父の応神は九州で崩じたが、子の仁徳の時代に高句麗に対抗するために都を日向から難波の高津宮へ遷したとする。 


 江上波夫は、“第一回の日本建国の主役は4世紀初頭に加羅(任那)から筑紫へ進出した崇神すじんである。この段階で本拠の加羅と合わせて対馬海峡の両岸にまたがる倭韓連合国が成立した。その連合国の王は筑紫に都した。この倭韓連合国家は漸次隆盛におもむき、4世紀中頃には百済と並んで朝鮮半島南部で大きな勢力となった。4世紀末から5世紀初頭にかけての応神の時代には、朝鮮半島南部諸国の対高句麗作戦の主力として活躍したことは高句麗の広開土王碑文から読み取れる。 広開土王碑には、倭が百済・新羅・加耶を侵略し臣民にした(391年)、高句麗が百済を討伐(396年)、百済が倭と和通し新羅に侵入、新羅は高句麗に援助を請う(399年)、新羅城を侵略した倭人を5万の高句麗軍が駆逐、敗退した倭人が任那加羅へ逃げ、追撃した高句麗軍が任那加羅城(金海)を陥落させた(400年)、百済と倭は連合して再び帯方郡にまで侵攻したが、高句麗に敗北(404年)、高句麗は再び5万の大軍を発し、百済を攻撃し、百済・倭連合軍を撃破(407年)とある。ときには倭軍は帯方郡にまで深く進攻した。このような時期に応神による畿内征服、そして第二回目の日本建国とその都の東遷を見たのは、朝鮮半島における作戦や形勢と関連があったに相違ない。これは、国の奥行を深くし、背後を固めて、朝鮮半島作戦の万全を期すためであったと考えられる”、と述べて、4世紀初頭の崇神の時代に筑紫に進出した加耶勢が対馬海峡の両岸にまたがる韓倭連合国を成立させたが、4世紀末から5世紀初頭には高句麗の南進政策により加耶勢は苦境に立たされ、倭国の奥行を深くし、背後を固めて、朝鮮半島作戦の万全を期すために北部九州から大和へ東遷した。それは応神の時代であったとする。


 松本清張は、“4世紀前後の高塚古墳に代表される第一期の大陸文化の流入によって地域別にブロックを形成し、出雲などに連合勢力体なる部族国家ブロックをつくっていった。しかし、このブロック連合体の相互の間に緊密な連絡はなく、政治的な協力関係もなかった。いわばルーズな関係であった。そこに皇室の祖先となった第二期の朝鮮半島南部からの渡来人集団が大和に入り込んできた。この際も、ルーズな連合体は、一致して新しくきた有力な勢力に抵抗することもなかった。そこで、大和だけが4世紀後半から5世紀初めにかけて第二期の弁韓からの渡来人によって占拠され、それが次第に各地方に侵略していった。その渡来勢力は北部九州には上陸せず、応神としてすぐに河内から奈良盆地に入った。これは河内の中期古墳から朝鮮的な武具・馬具が出土するのに、北部九州からそれが少しも出土しないからである。皇室の祖先となった渡来人集団は武力では勝ったが、人数では在地豪族が圧倒的に多いため、政治的に妥協するため、在地勢力の女子と婚姻を繰り返した。したがって、在地豪族が持っていた故事・旧事が天皇家のそれと合わないのは当然である”、と述べて、4世紀後半から5世紀初めにかけて第二期の弁韓(加耶)からの渡来勢力により大和が占拠された。彼らは北部九州には上陸せず、応神としてすぐに河内から奈良盆地に入ったとする。


 これら鈴木武樹・水野祐・江上波夫・松本清張の諸説には違いがあるが、加耶の集団が北部九州を経て畿内へ東征したということに違いはない。異なるのは東征の時期である。ここでは、一番具体性のある鈴木武樹の説を中心に、他の諸説の一部を取り込んで、次の8点に絞り込んでみた。


① 4世紀の後半に加耶の一国である多羅から王族の一派であるオホタラシヒコ(後の景行)が北部九州の伊都国に渡来して、その後、周防(山口県南部)を根拠地として、さらに北部九州一帯をも平定した。

② 神功皇后のモデルは加耶出身の「オホタラシヒメ」であり、後に宇佐神宮に祀られている。オホタラシヒメは宇佐神宮の「託宣集」本来の呼び名である。タラシナカツヒコ(仲哀)は後世において作為された人物か、オホタラシヒメとはまったく関わりを持たない人物である。

③ ホムタワケ(応神)の父はオホタラシヒコ(景行)で、母はオホタラシヒメ=オキナガタラシヒメ(神功皇后)である。

④ 加耶は朝鮮半島における高句麗との大規模な戦闘の結果、400年に任那加羅城(金海)が陥落し、大打撃を受けた。その高句麗に対抗するために、加耶は、東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達して多くの兵力を徴用し、本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移し、国の奥行を深くして背後を固める必要があり、瀬戸内を経て河内・大和地方への東遷を決意した。

⑤ その東征のときの武将は武内宿禰たけのうちのすくね和邇わに氏の祖の武振熊たけふるくまであり、その指揮のもと畿内の土着勢力(三輪王権)を破り畿内を征服した。

⑥ 413年に東晋に遣使した「倭王」とは誰か?その倭王は北部九州あるいは加耶にいたはずである。推定される在位年からいえば仁徳のようであるが、異論も多く、このことから応神・仁徳同一人説が出ている。

⑦ 晋書・宋書の記事と日本書紀の内容から、418年以後、倭王済(允恭)の即位した439年ごろまでには、倭王の都は北部九州から近畿へ移された。それは倭王讃(仁徳あるいは履中)の時代であったと推測される。

⑧ 倭王讃は421年と425年に南朝宋に遣使していることから、418年から421年までには難波に都を構えたと考えられる。そうでないとすれば、倭王讃は筑紫から南朝宋に遣使していたことになる。


 さて、神功皇后や応神についてより理解を深めるため、オホタラシヒメ(神功皇后)が祀られているといわれる宇佐うさ神宮と、その古宮あるいは元宮という香春かわら神社、また、応神天皇が生まれたという伝説を持つ宇美うみ八幡宮についてその所伝を以下に示す。宇佐神宮とその元宮といわれる香春神社は、卑弥呼や台与との関係も推測されている。


宇佐うさ八幡神宮]

豊国とよのくにの大分県宇佐市にあり、八幡大神(応神)・比売ひめ大神・神功皇后の三神を祀る。比売大神は巫女を意味すると思われる。比売大神は宗像三神と同じと言われているが、もとは宇佐一族のウサツヒメだったかもしれない。記紀に一度も名前の出ない一地方神にもかかわらず、ヤマト王権から大いなる崇敬を受け、やがて京都の石清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮にまで勧請され、今日全国12万の神社のうち4万余に及ぶ八幡神社の総社となっているが、その創祀の事情は必ずしも明らかでない。言語学者長田夏樹は、比売ひめ大神はタマヨリヒメ(玉依姫)としての卑弥呼に重なるという。タマヨリヒメは神武の生母であり、神話におけるアマテラスとも受け取れる。神武東征説話には、宇佐では土地の豪族であるウサツヒコとウサツヒメが一柱騰宮あしひとつあがりのみや(壁を持たない一柱の建物)を建て、イワレヒコ(神武)を饗応したとある。この説話は、宇佐における政治的かつ宗教的勢力の起源が相当に古いことを思わせる。八幡は、多くのはたを立てた祭祀様式に名づけられたと考えられている。宇佐八幡は元来鍛冶集団の祀る韓国からくにの神であったが、辛嶋からしま氏によって韓国からくにからこの地に移されたと思われる。辛嶋氏は巫女、そして女の禰宜ねぎとして古くから宇佐八幡に仕えてきた。香春かわら神社の宮司の赤染氏と同様、はた氏系の渡来氏族である。また、宇佐八幡は日本における神仏習合のさきがけでもあったので、かつては境内に弥勒寺が建っていた。用明天皇の時(587年)に天皇の病気治療のため、豊国法師を内裏に入れたと日本書紀に記されている。法師を呼んだのは蘇我馬子であった。豊国は先端技術の面だけでなく、文化の面でも先進の地域であった。京都の石清水八幡宮は859年に宇佐八幡を勧請かんじょう(神霊を迎えること)して創建された。後に源氏が八幡神を勧請して鎌倉幕府の守護としたため、全国にその分社が勧請されて、一般民衆の間にも八幡信仰が広まった。


香春かわら神社・古宮八幡]

豊国とよのくにの福岡県田川郡香春町(遠賀川上流域)に鎮座する。古代日本において豊国は有数の銅の産地であり、その大半は豊前の田川の香春産であった。香春の銅が東大寺の大仏や和銅開珎わどうかいほうに用いられたことはよく知られている。香春の神は香春岳(山)の銅を求めて朝鮮半島から渡来した加耶・新羅系の人びとが祀った神と考えられている。実際この地方を含め、豊前ぶぜんにははた氏と関わる人びとが多く居住していることは、正倉院に残された702年の豊前国の戸籍その他から明らかにされている。出雲と同様、この地には採銅・製銅の技術を含め、先進文明の根拠地の一つがあった。祭神は辛国息長大姫大目からくにおきながおおひめおおま忍骨おしほね豊比咩とよひめの三柱である。香春の三神は宇佐の三神と明らかに関わりがある。辛国からくに韓国からくにである。宮司は古代から鶴賀氏と赤染氏が務めている。香春岳の近くには古宮八幡がある。そこは宇佐八幡の古宮あるいは元宮といわれる。第19話「崇神すじんとは誰か?」で、香春神社の祭神の一人である豊比咩とよひめは卑弥呼の宗女である台与とよを連想させるとした。


宇美うみ八幡宮]

福岡県糟屋かすや郡宇美町には、宇美うみ八幡宮という応神天皇が生まれたという伝説を持つ神社が今も鎮座している。糟屋郡の北東の遠賀川上流域の飯塚市を中心とした地域は邪馬台国時代の不弥ふみ国があったとされる。不弥国の領域内では国ほどではないけれど、伊都いと国と同じ程度の青銅器の生産を行っていた。その飯塚市にある立岩堀田遺跡の甕棺は魏志倭人伝に登場する不弥国の王墓と推測されている。 


 現在の福岡県のほぼ中央部に位置する嘉穂地方は遠賀川上流域にあたり、東・南・西の三方を山地に囲まれた盆地であり、旧筑前国の東部(現在の飯塚市と嘉麻市の大部分)に位置する。そこは内陸交通の要地で峠を越えると、東は旧豊前国の田川盆地・行橋平野を経て周防灘へ、西は福岡平野を経て玄界灘へ、南は筑紫平野を経て有明海へ、北は遠賀川沿いに下り響灘に至る。この地のすぐ西側には応神天皇が生まれたという宇美八幡宮がある。

飯塚市にある立岩堀田遺跡の弥生中期後半(BC1世紀後半~紀元後1世紀)の立岩堀田10号甕棺には前漢鏡中型6枚、鉄剣1本、中細形銅矛1本、鉄鉇1本、砥石2個が副葬されていた。他の甕棺から出土したものを合計すると、前漢鏡は10枚にのぼり、その数は伊都いと国の三雲南小路遺跡、国の須玖岡本遺跡に次ぐものである。前漢鏡は倭と楽浪郡との単なる交易品ではなく、楽浪太守が倭国の族長を臣下に置き、その承認の証として下賜したともいわれる。副葬品は青銅器に比べて鉄器が圧倒的に多い。武帝時代の前漢鏡のうち「日有喜」銘の内行花文鏡と酷似した鏡が、大月氏のアフガニスタン北部のティリャ・テペの木棺墓からも出土している。「日有喜」銘の方格草葉文鏡は須玖岡本遺跡とベトナム北部のドンソン遺跡からも出土している。


以上の内容から、加耶・北部九州勢による大和への東征と河内王権については、次のように解釈してみたい。


 崇神の「三輪王権」は「イリ王権」ともいわれる。それは第10代崇神のミマキイリヒコイニエ、第11代垂仁のイクメイリヒコイサチ、の「イリ」から名付けられた。しかし、第12代景行はオホタラシヒコ・オシロワケであり、「ワケ」・「タラシ」系となり「イリ」とは異なる。他に「ワケ」がつくのは、第15代応神のホムタワケ、第17代履中のオオエノ・イザホワケ、第18代反正のタジヒノミツハワケ、となる。また、加耶の多羅から来たとされる「タラシ」がつくのは、第6代考安のヤマトタラシヒコクニオシヒト、第13代成務のワカタラシヒコ、第14代仲哀のタラシナカツヒコ、仲哀の妃とされるオキナガタラシヒメ、である。第16代仁徳のオオサザキ以外、第12代景行から第18代反正まですべての大王には「ワケ」・「タラシ」がつく。仁徳のオオサザキは「大きなささき」の意味で、固有名詞ではなく、諡号しごうとは思われない。また、「ワケ」もついていないため、本来は応神と仁徳は同一人物との説がある。このように見てみると、4世紀の後半に加耶の一国である多羅(弁辰12ヶ国の一つ瀆盧国)からオホタラシヒコ(後の景行)の勢力が北部九州に渡来して、伊都国を配下に収め、さらに九州中部と北部一帯をも平定した。その後、その一族は河内・大和地方へ東遷し、河内に巨大前方後円墳古墳を築造し、河内王権を成立させた。その巨大古墳の目的は、前世紀の崇神・垂仁の三輪王権の前方後円墳を大きく凌ぐことにより、その武力・経済力を含めた支配力を大和東南部の三輪王権の残存勢力、さらに畿内およびその周辺各地の諸豪族に見せつけるためであった。


 直木孝次郎は次のように指摘している、“古墳時代前期(270年ごろ~380年ごろ)の1世紀余りの期間内に200メートル以上の大和における大形前方後円墳は、箸墓はしはか古墳(278メートル)を除いて8基で、この時期の大王が少なくとも8人であった可能性はすこぶる高い。” 

その8人とは第14代仲哀までの大王たちである。計算上では第7代考霊から第14代仲哀までとなる。しかし、景行以降は加耶出身の大王と推定すると、第7代の考霊、第8代の孝元、第9代の開化、第10代の崇神、第11代の垂仁までの5人の後に、記紀に記載されていない3人がいたことになる。この8人が水野祐の三王朝説の最初の王朝である古王朝(呪教王朝)の主体であったと考えられる。この古王朝を発展させたのは北部九州の伊都国から東遷した崇神であるが、それは先住の首長たちを征服したのではなく、住み分けによる平和的な移住であった。 

直木孝次郎は記紀に記された三輪王権を崇神・垂仁・景行の三代としているが、実際は崇神・垂仁の二代で、さらに記紀に記載されていない次の三代を加えて、合計五代で三輪王権は終焉したと思われる。景行(オホタラシヒコ)は、鈴木武樹の言うように、加耶にある多羅の王族の出自で、4世紀後半に北部九州に渡来し、そこを平定し、その後にその一族が畿内へ東征して打建てた河内王権の租であったと考えたい。

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