第21話 加耶からの渡来と北部九州の平定
古文献の記載や考古学的状況をたどっていくと、57年に後漢の光武帝から金印を賜った漢委奴国王から、266年の台与による晋への遣使までは、伊都国・奴国を中心とした北部九州に倭王がいた。しかし、その後の足取りは中国史書上において空白となり、413年に突如として晋書に「倭国」が朝貢に来たとある。その8年後には、宋書の421年に倭王
・「晋書」安帝本紀に、「
・「宋書」倭国伝に、「高祖の永初2年(421年)、
朝鮮史料を詳しく分析した元明治大学教授(独文学)の鈴木武樹は、日本書紀の記事を次のように読み解いた。
“413年、晋書に、「倭国は東晋の安帝に方物を献じた」とある。それから8年後の421年に、倭王讃が宋に遣使している。413年の倭王「倭夷」は九州にいて、460年代以降の倭王
つまり、ホムタワケ(応神)は伊都国で生まれ、母であるオホタラシヒメ(
さらに、オホタラシヒメ(神功皇后)について、次のように述べている。
“オホ多羅(タラ)シ(シは“の”の意)媛(ヒメ)」は
多羅は朝鮮半島南部の加耶中部にある。弁辰12ヶ国の一つ
さらに、“日本書紀の景行(オホタラシヒコ)12年に北部九州平定の記事がある。その行程は、周防の
以上の内容を整理すると、次のようになる。
・4世紀の後半に加耶の一国である多羅(弁辰12ヶ国の一つの
・その後、息子のイザサワケと妃のオホタラシヒメ(神功皇后)は北部九州から東進し、
・イザサワケが13歳前後のころ、
・倭王の都は418年以後、倭王
この鈴木武樹の分析は何を意味するのか? 他の方々の諸説も参考にして考えてみたい。
水野祐は“神功皇后の物語は、崇神王権と仁徳王権とを一系に結合する機能を果たさせるために、この架空の神功皇后が崇神王権最後の仲哀の皇后であるとされ、その腹に生まれた応神を仁徳の父とすることによって、崇神王権との血縁的なつながりをもたせた”、と述べ、神功皇后の物語は架空としている。
さらに、応神・仁徳について、“記紀によれば、仁徳は都を突然難波の高津宮に遷している。それは大和からではなく、
① 高句麗に対抗するには、東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達し、多くの兵力を徴用する必要があった。
② また、本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移し、万全を期すためでもあった。
当時、難波には大きな河内湖があり、必ずしも生活上恵まれた地ではなかったが、三輪王権の本拠である大和は避けたと思われる。そのため、
江上波夫は、“第一回の日本建国の主役は4世紀初頭に加羅(任那)から筑紫へ進出した
松本清張は、“4世紀前後の高塚古墳に代表される第一期の大陸文化の流入によって地域別にブロックを形成し、出雲などに連合勢力体なる部族国家ブロックをつくっていった。しかし、このブロック連合体の相互の間に緊密な連絡はなく、政治的な協力関係もなかった。いわばルーズな関係であった。そこに皇室の祖先となった第二期の朝鮮半島南部からの渡来人集団が大和に入り込んできた。この際も、ルーズな連合体は、一致して新しくきた有力な勢力に抵抗することもなかった。そこで、大和だけが4世紀後半から5世紀初めにかけて第二期の弁韓からの渡来人によって占拠され、それが次第に各地方に侵略していった。その渡来勢力は北部九州には上陸せず、応神としてすぐに河内から奈良盆地に入った。これは河内の中期古墳から朝鮮的な武具・馬具が出土するのに、北部九州からそれが少しも出土しないからである。皇室の祖先となった渡来人集団は武力では勝ったが、人数では在地豪族が圧倒的に多いため、政治的に妥協するため、在地勢力の女子と婚姻を繰り返した。したがって、在地豪族が持っていた故事・旧事が天皇家のそれと合わないのは当然である”、と述べて、4世紀後半から5世紀初めにかけて第二期の弁韓(加耶)からの渡来勢力により大和が占拠された。彼らは北部九州には上陸せず、応神としてすぐに河内から奈良盆地に入ったとする。
これら鈴木武樹・水野祐・江上波夫・松本清張の諸説には違いがあるが、加耶の集団が北部九州を経て畿内へ東征したということに違いはない。異なるのは東征の時期である。ここでは、一番具体性のある鈴木武樹の説を中心に、他の諸説の一部を取り込んで、次の8点に絞り込んでみた。
① 4世紀の後半に加耶の一国である多羅から王族の一派であるオホタラシヒコ(後の景行)が北部九州の伊都国に渡来して、その後、周防(山口県南部)を根拠地として、さらに北部九州一帯をも平定した。
② 神功皇后のモデルは加耶出身の「オホタラシヒメ」であり、後に宇佐神宮に祀られている。オホタラシヒメは宇佐神宮の「託宣集」本来の呼び名である。タラシナカツヒコ(仲哀)は後世において作為された人物か、オホタラシヒメとはまったく関わりを持たない人物である。
③ ホムタワケ(応神)の父はオホタラシヒコ(景行)で、母はオホタラシヒメ=オキナガタラシヒメ(神功皇后)である。
④ 加耶は朝鮮半島における高句麗との大規模な戦闘の結果、400年に任那加羅城(金海)が陥落し、大打撃を受けた。その高句麗に対抗するために、加耶は、東方の未開の地を開拓して経済的および軍事的資源を調達して多くの兵力を徴用し、本拠地を朝鮮半島からより遠い地に移し、国の奥行を深くして背後を固める必要があり、瀬戸内を経て河内・大和地方への東遷を決意した。
⑤ その東征のときの武将は
⑥ 413年に東晋に遣使した「倭王」とは誰か?その倭王は北部九州あるいは加耶にいたはずである。推定される在位年からいえば仁徳のようであるが、異論も多く、このことから応神・仁徳同一人説が出ている。
⑦ 晋書・宋書の記事と日本書紀の内容から、418年以後、倭王済(允恭)の即位した439年ごろまでには、倭王の都は北部九州から近畿へ移された。それは倭王讃(仁徳あるいは履中)の時代であったと推測される。
⑧ 倭王讃は421年と425年に南朝宋に遣使していることから、418年から421年までには難波に都を構えたと考えられる。そうでないとすれば、倭王讃は筑紫から南朝宋に遣使していたことになる。
さて、神功皇后や応神についてより理解を深めるため、オホタラシヒメ(神功皇后)が祀られているといわれる
[
[
[
福岡県
現在の福岡県のほぼ中央部に位置する嘉穂地方は遠賀川上流域にあたり、東・南・西の三方を山地に囲まれた盆地であり、旧筑前国の東部(現在の飯塚市と嘉麻市の大部分)に位置する。そこは内陸交通の要地で峠を越えると、東は旧豊前国の田川盆地・行橋平野を経て周防灘へ、西は福岡平野を経て玄界灘へ、南は筑紫平野を経て有明海へ、北は遠賀川沿いに下り響灘に至る。この地のすぐ西側には応神天皇が生まれたという宇美八幡宮がある。
飯塚市にある立岩堀田遺跡の弥生中期後半(BC1世紀後半~紀元後1世紀)の立岩堀田10号甕棺には前漢鏡中型6枚、鉄剣1本、中細形銅矛1本、鉄鉇1本、砥石2個が副葬されていた。他の甕棺から出土したものを合計すると、前漢鏡は10枚にのぼり、その数は
以上の内容から、加耶・北部九州勢による大和への東征と河内王権については、次のように解釈してみたい。
崇神の「三輪王権」は「イリ王権」ともいわれる。それは第10代崇神のミマキイリヒコイニエ、第11代垂仁のイクメイリヒコイサチ、の「イリ」から名付けられた。しかし、第12代景行はオホタラシヒコ・オシロワケであり、「ワケ」・「タラシ」系となり「イリ」とは異なる。他に「ワケ」がつくのは、第15代応神のホムタワケ、第17代履中のオオエノ・イザホワケ、第18代反正のタジヒノミツハワケ、となる。また、加耶の多羅から来たとされる「タラシ」がつくのは、第6代考安のヤマトタラシヒコクニオシヒト、第13代成務のワカタラシヒコ、第14代仲哀のタラシナカツヒコ、仲哀の妃とされるオキナガタラシヒメ、である。第16代仁徳のオオサザキ以外、第12代景行から第18代反正まですべての大王には「ワケ」・「タラシ」がつく。仁徳のオオサザキは「大きな
直木孝次郎は次のように指摘している、“古墳時代前期(270年ごろ~380年ごろ)の1世紀余りの期間内に200メートル以上の大和における大形前方後円墳は、
その8人とは第14代仲哀までの大王たちである。計算上では第7代考霊から第14代仲哀までとなる。しかし、景行以降は加耶出身の大王と推定すると、第7代の考霊、第8代の孝元、第9代の開化、第10代の崇神、第11代の垂仁までの5人の後に、記紀に記載されていない3人がいたことになる。この8人が水野祐の三王朝説の最初の王朝である古王朝(呪教王朝)の主体であったと考えられる。この古王朝を発展させたのは北部九州の伊都国から東遷した崇神であるが、それは先住の首長たちを征服したのではなく、住み分けによる平和的な移住であった。
直木孝次郎は記紀に記された三輪王権を崇神・垂仁・景行の三代としているが、実際は崇神・垂仁の二代で、さらに記紀に記載されていない次の三代を加えて、合計五代で三輪王権は終焉したと思われる。景行(オホタラシヒコ)は、鈴木武樹の言うように、加耶にある多羅の王族の出自で、4世紀後半に北部九州に渡来し、そこを平定し、その後にその一族が畿内へ東征して打建てた河内王権の租であったと考えたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます