第20話 三輪(イリ)王権と“アメノヒボコ”

 290年ごろから340年ごろまで、崇神すじん垂仁すいにんと続いた三輪山麓の纏向まきむくを拠点とした「三輪王権」は一大発展を遂げ、近畿の西にあたる東瀬戸内地域の吉備や播磨・阿波地域などとも連合し、原ヤマト国家を形成した。三輪山は河内から大和へ入るときの西峠から、また近江から大和へ入るときの奈良山峠からよく見える。その三輪山は大和の土地の神である。その神は大物主おおものぬしと呼ばれている。三輪王権は崇神の和風諡号しごう、ミマキイリヒコイニエ、垂仁の和風諡号、イクメイリヒコイサチ、両者に共通する「イリ」をとって「イリ王権」ともいわれるので、「三輪(イリ)王権」とする。


 4世紀に入るころになると、纏向まきむくの勢力は箸墓はしはか古墳を造営できるほどに成長し、奈良盆地全体を支配するようになった。3世紀後葉から4世紀前半の出現期の前方後円墳は奈良盆地(大和)東南部、京都(山背)南部、大阪(河内)、兵庫(播磨)、岡山(吉備)を中心に分布する。各地の首長たちは、大和の勢力を中核として政治・経済的な利害が一致する連合を結び、その証として共通する古墳と祭式が受容された。古墳には前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳があり、出現期から並存する。墳形の違いはそれぞれの首長の系譜などヤマト王権との関係の深さが関わっていたと考えられる。

 崇神の時代、三輪山を神体山とする大物主おおものぬしは土着の神であった。その大物主がヤマト王権の一族である倭迹迹日百襲姫ヤマトトトヒモモソヒメと結ばれる説話は大きな意味をもつ。日本書紀では倭迹迹日百襲姫は巫女として崇神を補佐し、大物主の妻となって、没後に大市に葬られ、その墓は箸墓であるとされている。一方、古事記では倭迹迹日百襲姫は崇神の大叔母としているだけである。


 伊都国王であった難升米なしめは、伊都国に留まった、あるいは大和へ東遷後に亡くなったと考えられる。難升米が大和へ東遷したとすれば、その墓はホノケ山古墳(86メートル)が考えられる。その古墳は出土した素環頭大刀・槍・剣などから、被葬者は朝鮮半島というより中国との関わりが非常に強い人と考えられている。 


・景初二年(238年)六月(238年8月に公孫氏は滅亡しているため239年の誤りとされる)、倭の女王、大夫難升米なしめ等を遣わし(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、ひきい送りて(引率して)京都けいと(洛陽)にいたらしむ。


 難升米らは帯方郡を経て、魏の都洛陽にまで行っている。ホノケ山古墳、その次の古墳である中国製の甲冑などが副葬品として入っている黒塚古墳(天理市)・椿井つばい大塚山古墳(京都府山城町)などは洛陽にまで行った彼ら、あるいはその子弟らの墓である可能性は高いといえる。では、箸墓はしはかの被葬者は誰か?箸墓古墳はその形態や規模の大きさからヤマト王権の初代の王の墓であるという説は今も有力である。ホノケ山古墳が難升米の墓とすれば、箸墓は難升米の後継者である崇神の墓である可能性は高い。箸墓の築造時期は3世紀後葉から4世紀初頭ということから推定すると、239年に魏の洛陽にまで行った難升米ではなく、その1代後の後継者と考えられ、崇神は難升米の子弟の一人であったとするのが自然である。


 崇神の三輪(イリ)王権と交流があったのは加耶諸国である。高句麗の広開土王碑には、「高句麗軍が任那加羅城(金海)を陥落させた(400年)」とある。そこに任那みまなという名称が出てくる。加耶は加耶諸国連合体の総称となっており、任那はその別名である。伊都国から東遷してきた難升米とその後継者である崇神はその加耶(任那)の支配者層と深いつながり、おそらく血縁あるいは姻戚関係があったと推測される。任那加羅は邪馬台国時代の狗邪韓国で、後の時代の金官加耶であり、2世紀から4世紀において、加耶諸国の中で最も繁栄していた国である。三輪(イリ)王権は加耶の先進文化や鉄器を取り入れることができたからこそ発展できたといえる。


記紀によれば、

 第12代 景行けいこう:オホタラシヒコ・オシロワケ、纏向日代宮(奈良・桜井市)、山辺道上陵。皇后はハリマノイナビノ・オオイラツヒメ、ヤサカノ・イリヒメ。多くの妻子がいて、子供は男子だけで70余人といわれる。彼らの成人後に各地の国造くにのみやっこ県主あがたぬしに任命し、政治力を強めた。景行は西国に親征し、周防のカムナツソヒメ、豊後の土蜘蛛つちぐも、日向の熊襲タケルらを征伐し、同地に6年滞在した。また、武内宿禰たけのうちのすくねを北陸と東国に派遣して視察させている。

 xxx 倭建ヤマトタケル:ヲウス(小碓)と呼ばれ、景行の皇子の一人である。古事記によれば熊襲・出雲・東国を討伐した。草薙の剣を尾張のミヤスヒメの家においたまま伊吹山に登って命を落とした。墓は名古屋市熱田区にある白鳥陵。実在の人物ではなく、東国を征服した雄略ゆうりゃく(倭王武->倭武->倭建)の伝承がヤマトタケルになったといわれている。もう一つのモデルは壬申じんしんの乱における高市皇子である。壬申の乱の最大の功労者である高市皇子も倭建も未完の英雄として人びとに惜しまれて死んでいった悲劇の英雄であった。

 第13代 成務せいむ:ワカタラシヒコ、志賀高穴穂宮(滋賀・大津市)、狭城盾列池後陵(奈良市)。父は景行で、その第四子、母はヤサカノ・イリヒメ。皇后はオトタカラノ・イラツメ。武内宿禰を大臣として、くにこおりあがたむらを定めて、国造・県主・稲置いなぎなどを配した。また、国境を画定するなど地方行政を整備したとされる。

 第14代 仲哀ちゅうあい:タラシナカツヒコ、宮は不明、恵我長野西陵(大阪・藤井寺市)。皇后はオキナガタラシヒメ(神功皇后)。倭建(ヤマトタケル)の第二子で、父に似て大男であった。母は垂仁の娘。熊襲征伐のため筑紫に赴いたが、敵の矢にあたって、筑紫の儺県なのあがた橿日宮かしひのみやで崩じた。仲哀・神功皇后ともに創作された人物との説がある。

 xxx 神功じんぐう皇后:オキナガタラシヒメ、神功皇后の父は開化天皇の曾孫または玄孫と記紀では伝えられている。神宮皇后の父系は近江野洲郡三上郷の息長おきなが氏と丹波系氏族であり、母系は但馬の天日槍あめのひぼこにつながる加耶・新羅系渡来人である。開化天皇の皇別氏族は丹波系で、但馬を中心とした日本海側に分布した加耶・新羅系渡来人と混淆し、日本海の航海と通商を主導した氏族である。仲哀の熊襲征伐のとき、越前の敦賀から長門の豊浦へ行き、仲哀と合流したとされる。仲哀死後、熊襲を討ち、筑後の山門県やまとのあがたのタブラツヒメ(田油津媛)を殺し、筑紫へ戻り、那珂なか川から水を引き神田を作った。その後、新羅へ渡り、新羅には馬の供給、百済には中国への渡航のために施設の確保を約束させた。そして、仲哀の死後10ヶ月8日後に、神託により筑紫でホムタワケ(応神)を出産した後、船団を率いて大和へ出発した。このとき、仲哀の先妻の子である香坂かごさか王と忍熊おしくま王が神功皇后の近畿入りを武力で阻止する行動にでた。戦いは摂津・山城・近江と移動し忍熊王側を破った。戦いが終わると武内宿禰がホムタワケ(応神)をつれて越前の敦賀へ行き一連の行動を気比けひ大神に報告した。神功皇后は朝鮮からも女王扱いを受けている。神功皇后の三韓親征伝説は7世紀後半の斉明天皇の九州親征および天智天皇の百済救援軍派遣の過去因として構成されたとの説がある。


 記紀での三輪王権は、第10代の崇神から垂仁・景行・成務・仲哀と続き、景行の子としてヤマトタケル、仲哀の妃として神功皇后も登場する。 


 直木孝次郎は、“崇神・垂仁・景行については記紀に多くの記事がある。もちろんそこに伝えられる事柄は、それぞれの大王の時代の史実と思われないものが多く、この3代の大王の実在の証拠とすることはできない。しかし、3代の大王の名にみえるイリヒコ(崇神・垂仁)、ワケ(景行)の語は、4~5世紀の大王の名に限って用いられる語であって、5世紀後半以降の大王の名にみえないので、後代に造作された名とは思われない。それを根拠の一つとして、この3代は初期の大王と認められる”、と述べている。 

 水野祐はその三王朝交代説で、崇神王朝(290年ごろ~362年)は、崩年干支があることから崇神・成務・仲哀の三代としている。初代の崇神は同じであるが、その後の二代は異なる。しかし、崇神以下2代で、崇神系全体では3代であるという共通点がある。また、二人ともヤマトタケルと神功皇后は架空の話としている。


 崇神以降の大王の名に違いはあるが、290年ごろから360年ごろまで崇神の系統は続いたと考えてもいいと思う。この時代、朝鮮半島では高句麗が楽浪郡(313年)と帯方郡(314年)を滅ぼし北部を制圧した後、国境を接することとなった高句麗と百済が旧楽浪郡・帯方郡地域の支配権をめぐって熾烈な戦争を繰り広げていた。また、三国史記の新羅本紀によると、倭兵が斯廬しろ(後の新羅)に何度も侵攻している。これらの記事は事実と考えられている。


 一方、記紀では、ヤマト王権を創建した天孫系民族が東征して大和に進出する前に、出雲を中心として大国主おおくにぬしという名で象徴される大きな勢力があった。大国主には“アメノシタツクリシ”という枕詞が必ずついている。また、大和にも大物主おおものぬしによって象徴される大きな勢力があった。大物主は大和の三輪氏の源流とされている。 

 水野祐は、“日本書紀の記載から推せば、出雲の服属は崇神期あるいは垂仁期である4世紀初頭に第一段階が遂行された。その際に大きな働きをしたのは物部もののべ氏であった。4世紀に入り、ヤマト王権の西進運動の一環として吉備を服属させた後、吉備氏と物部氏の手で出雲が統合された”、と述べて、崇神の時代に発展した三輪王権は出雲と吉備を屈服させて、畿内から瀬戸内地方と山陰にかけて支配権を確立したと考えている。この出雲と吉備における二つの動きは異なる場所で異なる勢力による侵攻であるが、ある一つの目的において共通している。それは鉄資源の確保である。


 村上恭通(愛媛大学教授)は次のように述べている。“古墳時代に入ると(3世紀後葉)、新たな鍛冶・鍛造技術が北部九州に登場し、大きな画期となった。その背景として、中国では晋の滅亡(316年)による混乱、高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし北部を制圧するなどにより、鉄素材入手の楽浪郡ルートがなくなり、朝鮮半島南岸地域の弁辰(弁韓)ルートに大きく依存し、精製度の低い、いわば製鉄直後の鉄塊を求めざるを得なくなったからである。”


 この鉄素材入手ルートの変化は壱岐の原の辻はらのつじ遺跡が古墳時代初期に衰退したことからも推測できる。

長崎県壱岐の原の辻遺跡は弥生時代前期から古墳時代初期の環濠集落である。遺跡から出土の土器の中には楽浪郡のみならず、中国東北地方から搬入された可能性のあるものも含まれている。弥生中期前半(BC2世紀~BC1世紀前半)になると環濠が16万平米の居住域を囲み、その中央には祭儀場があり、環濠の西外側の低地には大陸系の工法で日本最古の船着場が作られた。楽浪土器と三韓土器の比率はほぼ1:1である。炊事用土器もあり、楽浪人の居住を示す。人面石、ココヤシで作られた笛などもある。また、けんというはかりおもり、貨泉、五銖銭、馬車の車軸のキャップにあたる車與具しゃよぐ、漢鏡、三翼やじり、楽浪土器など漢の文物も多く出土している。 

壱岐の原の辻遺跡は単なる海村ではなく、魏志倭人伝に登場する一支いつし国の拠点集落であり、楽浪郡 -> 朝鮮半島南部 -> 北部九州の長距離交易の中継地点であり、朝鮮半島との交易の結節点でもあった。近くに内海うちめ湾、この湾に注ぐ幡鉾はたほこ川がある。魏志倭人伝にある一支国の成立は中国の前漢時代の弥生中期後半(BC1世紀後半)にまでさかのぼる。

4世紀中ごろの原の辻集落の衰亡は、313年・314年の楽浪郡・帯方郡の滅亡、316年の晋(西晋)の滅亡により、BC108年の楽浪郡設置以来の中国王朝との直接的なつながりが途絶え、日本列島において北部九州の女王国連合体制から畿内のヤマト王権体制への移動に伴う、いわゆる倭人伝ルートから沖ノ島ルートへの航路変更により、その交易の存立基盤を失ったことが原因である。この壱岐の原の辻遺跡の興亡は倭国の主体が北部九州から畿内へと移動したことを物語っている。


 記紀によれば、崇神の三輪王権最後の大王は仲哀ちゅうあい(在位355年~362年)である。仲哀はなぜ九州へ遠征したのだろうか?この時代に大和から九州へ遠征するということには、よほどの理由があるはずである。記紀では、仲哀は熊襲(狗奴くな国)征伐のため筑紫の香椎かしい宮(橿日宮)に都を遷したが、この地で崩御となっている。本当だろうか? 


 仲哀の真の狙いは加耶との関係を深めて鉄素材の入手や鉄器生産の技術を取り入れることにあったのではないかと考えられる。崇神が初代の三輪王権は加耶(任那)の支配者層と深いつながりがあるとはいえ、先進文化の利器である鉄素材や鉄器の入手は容易ではなかった。一方、北部九州や熊襲の地である中九州は、BC108年の楽浪郡設置後の漢の鉄器文化の中で鍛鉄が日本に普及し、弁辰(弁韓)から地金が供給されたころから、主に加耶(任那)を通じて継続的に鉄素材を入手し、農業生産力や武力の増強を図っていた。三輪王権最後の大王となる仲哀は、三輪王権の経済的・政治的な発展のためには、より多くの先進文化の威信財(鏡・鉄剣・玉類)や鉄器(農具・武器)が必要と考え、三輪王権の故地であるかつての伊都国の、その時の首長である五十迹手いとてを頼って北部九州に遠征した。しかし、鉄素材の入手を目指して北部九州へ遠征した三輪王権最後の仲哀は、北部九州勢との争いの中で、362年に敵の矢に当って戦死してしまった。


・仲哀が熊襲征伐のため筑紫に行幸の際、伊都の県主あがたぬしの祖先の五十迹手いとてが奉迎し、「高麗の国の意呂おろ山に天より降り来し日桙ひぼこ苗裔すえ五十迹手いとて是なり」と自ら名のっている。 


 伊都国王の祖先は高麗(高句麗)の国から来た「アメノヒボコ」であると言っている。その祖先は高麗(高句麗)の地と自らいっているが、高句麗は夫餘の後裔の一つであることから、伊都国の遠い祖先は夫餘となる。また、加耶諸国の前身は辰王が治めた弁韓・辰韓24国のうちの12か国である。辰王も夫餘の後裔である。「アメノヒボコ」は4世紀初頭の崇神が初代の三輪王権、あるいは応神が初代の河内王権に大きな影響を与えているはずである。「アメノヒボコ」に関する記紀の記述を追って見る。古事記では「天之日矛」、日本書紀では「天日槍」と表記されている。


 日本書紀、垂仁3年(320年ごろ)の条に、「新羅の王子である天日槍あめのひぼこが7種(鏡・玉・矛・大刀・剣などの祭りの器とそれに関連する武器)の神宝を持って、船に乗って播磨国にやってきて宍粟邑しさはのむらにいた時、垂仁は三輪君の祖の大友主と倭直やまとのあたいの祖の長尾市を播磨に派遣して日槍と交渉せしめた。そして日槍に対して、播磨の宍粟邑と淡路島の出浅邑いでさのむらを居住地として与えようとしたが、日槍はこれを断り、むしろ自分自身で諸国を見て回り、気に入った土地を給わりたい旨申し出る。そして 日槍は、宇治川をさかのぼって北に進み、近江の吾名邑あなむらに入りて暫く住む、またさらに近江より若狭国を経て、西の但馬国に至りて即ち住処を定む」とある。吾名邑あなむらは草津近くの湖畔といわれている。そこには安羅(やすら・あら)神社がある。なお、播磨風土記によると、日槍が播磨において伊和大神(オオナムチ・アシハラシコオ)と戦争した物語が詳しく伝えられている。この二つは同じ事件であることは論証されている。この事件は、台与の倭国連合解体に伴い、最も中心的な国の一つであった伊都国の首長かそれに近いグループが北部九州を逃れて畿内に東進してきたことと関連があると考えられる。また、伊都国の主力が畿内に移動したことを裏付けるかもしれない史料として、魏志倭人伝では伊都国の戸数を「千余戸」、魏略では「戸万余」とある。魏略の方が、成立年代が古いので、魏志倭人伝の記事は主力が移動した後の数に改めたという説がある。 

 兵庫県豊岡市の大師山古墳群には朝鮮半島南岸の加耶(加羅)に多い竪穴系横口式石室が多く、明らかに渡来系集団の墓地であり、天日槍との関連が推測される。天日槍系と思われる集団は、後に大和の三宅郷、北部九州の伊都国の後の怡土いと郡などに存在した。また、垂仁3年に天日槍が播磨にきたとき、共に来朝したと伝えられる弓月君ゆつきのきみはた氏の祖となる。

 日本書紀には、垂仁3年に新羅(実際は加耶)の王子である天日槍あめのひぼこが来朝、但馬の土地の娘と結婚とある。その子孫に不老不死の橘を求めて派遣されたタジマモリ、さらに神功皇后の母となる葛城のタカヌカヒメがいる。したがって、神功皇后は天日槍の五世の孫となる。また、天日槍あめのひぼこは伊都国王の子孫で、狗奴くな国に滅ぼされた後、一族とともにヤマト王権のもとに逃れてきたとの説もある。

 古事記では応神天皇の項に8種の神宝持って渡来した天之日矛あめのひぼことして登場する。日本書紀との違いは、神宝に比礼ひれ(スカーフのようなまじないの布)が加わっている。日本書紀と古事記とでは神宝の内容が異なっている。これらの神宝、特に玉類は鎮魂祭に用いられた呪具ともいわれる。 


 「アメノヒボコ」集団に象徴される伝承は鉄の文化であり、さらに須恵器の陶工も関わっているといわれている。「アメノヒボコ」を祀った神社は西日本に40社以上存在するが、最も多いのは但馬の出石いずし神社とその周辺で、次は琵琶湖の周囲と北部九州である。天日槍の渡来伝承のなかには「客神」として受容される側面とともに「国占め」を争う伝承もある。


 日本書紀には、新羅の王子である天日槍あめのひぼことあるが、実際は三輪王権と深いつながりのある安羅加耶あらかやから来たといわれる。320年ごろには、新羅まだ存在していない。斯廬しろ国を中心に辰韓12国が連合したのが356年で、国号を新羅と定めたのは510年ごろのことである。大和の三輪王権は加耶諸国の中の安羅あらから来た「アメノヒボコ」の一族が畿内に進入してきたとき、播磨で交渉し、すでに三輪王権の居住地となっていた大和には入れなかったことを語っている。「アメノヒボコ」の加耶から畿内へ向かっての東進は、3世紀後半から4世紀末にかけて何回か繰り返された加耶勢や北部九州勢の大和への東進の一つであったと思われる。


 以上が、記紀に描かれた三輪王権の姿であるが、本当だろうか?当時、鉄素材の入手が死活問題であったとすれば、入手先の加耶からの視点がすっぽり抜け落ちていると言わざるを得ない。この視点に光を当てたのが鈴木武樹である。次にその分析内容を見てみる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る