第20話 三輪(イリ)王権と“アメノヒボコ”
290年ごろから340年ごろまで、
4世紀に入るころになると、
崇神の時代、三輪山を神体山とする
伊都国王であった
・景初二年(238年)六月(238年8月に公孫氏は滅亡しているため239年の誤りとされる)、倭の女王、大夫
難升米らは帯方郡を経て、魏の都洛陽にまで行っている。ホノケ山古墳、その次の古墳である中国製の甲冑などが副葬品として入っている黒塚古墳(天理市)・
崇神の三輪(イリ)王権と交流があったのは加耶諸国である。高句麗の広開土王碑には、「高句麗軍が任那加羅城(金海)を陥落させた(400年)」とある。そこに
記紀によれば、
第12代
xxx
第13代
第14代
xxx
記紀での三輪王権は、第10代の崇神から垂仁・景行・成務・仲哀と続き、景行の子としてヤマトタケル、仲哀の妃として神功皇后も登場する。
直木孝次郎は、“崇神・垂仁・景行については記紀に多くの記事がある。もちろんそこに伝えられる事柄は、それぞれの大王の時代の史実と思われないものが多く、この3代の大王の実在の証拠とすることはできない。しかし、3代の大王の名にみえるイリヒコ(崇神・垂仁)、ワケ(景行)の語は、4~5世紀の大王の名に限って用いられる語であって、5世紀後半以降の大王の名にみえないので、後代に造作された名とは思われない。それを根拠の一つとして、この3代は初期の大王と認められる”、と述べている。
水野祐はその三王朝交代説で、崇神王朝(290年ごろ~362年)は、崩年干支があることから崇神・成務・仲哀の三代としている。初代の崇神は同じであるが、その後の二代は異なる。しかし、崇神以下2代で、崇神系全体では3代であるという共通点がある。また、二人ともヤマトタケルと神功皇后は架空の話としている。
崇神以降の大王の名に違いはあるが、290年ごろから360年ごろまで崇神の系統は続いたと考えてもいいと思う。この時代、朝鮮半島では高句麗が楽浪郡(313年)と帯方郡(314年)を滅ぼし北部を制圧した後、国境を接することとなった高句麗と百済が旧楽浪郡・帯方郡地域の支配権をめぐって熾烈な戦争を繰り広げていた。また、三国史記の新羅本紀によると、倭兵が
一方、記紀では、ヤマト王権を創建した天孫系民族が東征して大和に進出する前に、出雲を中心として
水野祐は、“日本書紀の記載から推せば、出雲の服属は崇神期あるいは垂仁期である4世紀初頭に第一段階が遂行された。その際に大きな働きをしたのは
村上恭通(愛媛大学教授)は次のように述べている。“古墳時代に入ると(3世紀後葉)、新たな鍛冶・鍛造技術が北部九州に登場し、大きな画期となった。その背景として、中国では晋の滅亡(316年)による混乱、高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし北部を制圧するなどにより、鉄素材入手の楽浪郡ルートがなくなり、朝鮮半島南岸地域の弁辰(弁韓)ルートに大きく依存し、精製度の低い、いわば製鉄直後の鉄塊を求めざるを得なくなったからである。”
この鉄素材入手ルートの変化は壱岐の
長崎県壱岐の原の辻遺跡は弥生時代前期から古墳時代初期の環濠集落である。遺跡から出土の土器の中には楽浪郡のみならず、中国東北地方から搬入された可能性のあるものも含まれている。弥生中期前半(BC2世紀~BC1世紀前半)になると環濠が16万平米の居住域を囲み、その中央には祭儀場があり、環濠の西外側の低地には大陸系の工法で日本最古の船着場が作られた。楽浪土器と三韓土器の比率はほぼ1:1である。炊事用土器もあり、楽浪人の居住を示す。人面石、ココヤシで作られた笛などもある。また、
壱岐の原の辻遺跡は単なる海村ではなく、魏志倭人伝に登場する
4世紀中ごろの原の辻集落の衰亡は、313年・314年の楽浪郡・帯方郡の滅亡、316年の晋(西晋)の滅亡により、BC108年の楽浪郡設置以来の中国王朝との直接的なつながりが途絶え、日本列島において北部九州の女王国連合体制から畿内のヤマト王権体制への移動に伴う、いわゆる倭人伝ルートから沖ノ島ルートへの航路変更により、その交易の存立基盤を失ったことが原因である。この壱岐の原の辻遺跡の興亡は倭国の主体が北部九州から畿内へと移動したことを物語っている。
記紀によれば、崇神の三輪王権最後の大王は
仲哀の真の狙いは加耶との関係を深めて鉄素材の入手や鉄器生産の技術を取り入れることにあったのではないかと考えられる。崇神が初代の三輪王権は加耶(任那)の支配者層と深いつながりがあるとはいえ、先進文化の利器である鉄素材や鉄器の入手は容易ではなかった。一方、北部九州や熊襲の地である中九州は、BC108年の楽浪郡設置後の漢の鉄器文化の中で鍛鉄が日本に普及し、弁辰(弁韓)から地金が供給されたころから、主に加耶(任那)を通じて継続的に鉄素材を入手し、農業生産力や武力の増強を図っていた。三輪王権最後の大王となる仲哀は、三輪王権の経済的・政治的な発展のためには、より多くの先進文化の威信財(鏡・鉄剣・玉類)や鉄器(農具・武器)が必要と考え、三輪王権の故地であるかつての伊都国の、その時の首長である
・仲哀が熊襲征伐のため筑紫に行幸の際、伊都の
伊都国王の祖先は高麗(高句麗)の国から来た「アメノヒボコ」であると言っている。その祖先は高麗(高句麗)の地と自らいっているが、高句麗は夫餘の後裔の一つであることから、伊都国の遠い祖先は夫餘となる。また、加耶諸国の前身は辰王が治めた弁韓・辰韓24国のうちの12か国である。辰王も夫餘の後裔である。「アメノヒボコ」は4世紀初頭の崇神が初代の三輪王権、あるいは応神が初代の河内王権に大きな影響を与えているはずである。「アメノヒボコ」に関する記紀の記述を追って見る。古事記では「天之日矛」、日本書紀では「天日槍」と表記されている。
日本書紀、垂仁3年(320年ごろ)の条に、「新羅の王子である
兵庫県豊岡市の大師山古墳群には朝鮮半島南岸の加耶(加羅)に多い竪穴系横口式石室が多く、明らかに渡来系集団の墓地であり、天日槍との関連が推測される。天日槍系と思われる集団は、後に大和の三宅郷、北部九州の伊都国の後の
日本書紀には、垂仁3年に新羅(実際は加耶)の王子である
古事記では応神天皇の項に8種の神宝持って渡来した
「アメノヒボコ」集団に象徴される伝承は鉄の文化であり、さらに須恵器の陶工も関わっているといわれている。「アメノヒボコ」を祀った神社は西日本に40社以上存在するが、最も多いのは但馬の
日本書紀には、新羅の王子である
以上が、記紀に描かれた三輪王権の姿であるが、本当だろうか?当時、鉄素材の入手が死活問題であったとすれば、入手先の加耶からの視点がすっぽり抜け落ちていると言わざるを得ない。この視点に光を当てたのが鈴木武樹である。次にその分析内容を見てみる。
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