第19話 崇神とは誰か?
2代目の
一方、第10代
しかし、直木孝次郎は次のように指摘している。“崇神は実在した初代の王とする説が有力であるが、有力なのは存在した可能性だけで、記紀に記されている疫病が流行したとき
謎の4世紀が始まった266年といえば、記紀ではまさに崇神の時代が始まる直前である。現在、崇神の即位年は290年ごろで崩御年は318年というのが文献的にも考古学的にも最も妥当とされている。
大和の古墳文化は“突然の出現”である。弥生時代においては
「ヤマト」は、かなり早くから奈良盆地中東部、三輪山山麓から城上・城下・十市の郡域にわたる一帯を呼んでいた。古事記における「ヤマト」は音仮名では「山跡」「夜麻登」、漢字では「倭」だけを用いるのが原則で、しかもその「ヤマト」は奈良盆地の中東部、特に三輪山周辺の限られた一帯である。しかし、「大倭」は本州を指している。
日本書紀では、対外記事に関しては、古事記の「倭」を「日本」に改めている。しかし、狭義の「ヤマト」に限っては「倭」を用いている。
万葉集では、「日本」は対外用として日本全土の意味で使うよりも、むしろ奈良盆地の「ヤマト」を指す場合に「倭」よりも多く用いている。
また、音仮名としても「倭」から「和」への推移が明瞭となってきた。「倭」に代わって「日本」という国号を広く公的に用いるようになったのは大宝令制定の701年に始まる。奈良盆地の狭義の「ヤマト」の律令制の国名は「倭国」から「大倭国」、そして757年(養老令の施行年)の藤原仲麻呂が光明皇太后の国政を補佐したときに叛乱を未然に防いだ後に「大和国」となった。「大和」が国名や地名として文献に登場するのは718年の養老令の撰上からであり、実際に使用が広まるのは、それが施行された757年からである。
森浩一はヤマト王権成立を考えるうえで、大和の
“奈良盆地の南東で
この
一方、直木孝次郎は
“三輪王権三代の宮は磐余の地である。
さらに、直木孝次郎は「初期の大王は崇神・垂仁・景行の3人だけか?」の中で次のように述べて、古墳時代前期の270年ごろ~380年ごろにはすくなくとも8人の大王がいたと推定している。
“神武から開化に至る9代の大王たちが実在したとする見解は、現在ほとんど否定されている。その次の崇神・垂仁・景行については記紀に多くの記事がある。もちろんそこに伝えられる事柄は、それぞれの大王の時代の史実と思われないものが多く、この3代の大王の実在の証拠とすることはできない。しかし、3代の大王の名にみえるイリヒコ(崇神・垂仁)、ワケ(景行)の語は、4~5世紀の大王の名に限って用いられる語であって、5世紀後半以降の大王の名にみえないので、後代に造作された名とは思われない。それを根拠の一つとして、この3代は初期の大王と認められる。但し、その支配領域は後の大和と呼ばれる地域を中心とし、河内をも支配していたと思われるが、それ以上には及んでいない。3世紀~4世紀の倭国には文字の記録の術は伝わっておらず、
古墳時代前期(270年ごろ~380年ごろ)の1世紀余りの期間内に200メートル以上の大和における大型前方後円墳は、箸墓古墳(278メートル)を除いて8基で、この時期の大王が少なくとも8人であった可能性はすこぶる高い。古墳時代前期前半では、大和東部では、天理市の西殿塚古墳(220メートル)、
古墳時代前期の100年余りで8人とすると、一代の在位年数は平均12年~13年となる。古墳時代前期の大和は、政治的には王陵の地が奈良盆地東南部から北部に移った変動期以外はほぼ平穏に経過したようである。日本書紀の紀年がほぼ正確になる第26代
つまり、神武から開化までの9代の存在は確認できないが、古墳時代前期の270年ごろから380年ごろまでの間に少なくとも8人の大王は存在していたというものである。その8人とは、270年ごろから380年ごろまでという年代から推定すると、第14代
水野祐は古事記と日本書紀を分析し、次のように要点を整理している。
・古事記と日本書紀に共通して記されている時代は、初代の神武から第33代の推古までである。古事記の古写本にみえる崩年干支の注記は、33天皇のうちの15天皇に限りついている。その15代の最初の天皇は崇神である。この15代と算定した崩年干支がついた古い帝紀があったはずである。しかし、日本書紀では崇神は第10代となっている。
・日本書紀が編纂されたのは第43代
・古事記に崩年干支があるのは、崇神・成務・仲哀、応神・仁徳・履中・反正・允恭・雄略、継体・安閑・敏達・用明・崇峻・推古の15代である。崇神以降で崩年干支がないのは、垂仁・景行・安康・清寧・顕宗・仁賢・武烈・宣化・欽明の9天皇である。
そして、次の四つの論拠に基づき三王朝交代説を組み立てたとする。
① 万世一系の神聖皇統の思想は、天武天皇の頃に発生・確立したものである。
② 古事記崩年干支注記が、日本書紀紀年と異なる別な年代記の存在を示し、かつ崩年干支をもつ特定の天皇によって古い歴代が構成されていた一つの記紀以前の古帝紀の原本が存在していたと考えられる。
③ 歴代天皇の和風諡号の成立過程によって、古くから確認されていた天皇と、後から想定され歴代に挿入された天皇との別が考えられる。
④「皇位は一日も空しくすべからず」という立場を示す日本書紀が、その基本精神に背反する長期の空位を伝える矛盾を犯し、かつその空位が整然と故意に配置されている。
その三王朝とは、
・古王朝(呪教王朝)
先王朝(200年ごろ~290年ごろ):奈良盆地に発祥した。司祭者数代あるが詳細は不明。司祭者が中心になって政治の権力も握る。
崇神王朝(290年ごろ~362年):崇神・成務・仲哀(三代)。
・中王朝(征服王朝)
仁徳王朝(363年~489年):(応神)仁徳・履中・反正・允恭・木梨(安康ではない)・雄略(七代)。応神は九州で崩じた。仁徳の時代に九州から難波に移り都した。この王朝は日本列島の征服を行ったので征服王朝と名づけた。
後仁徳王朝(490年~499年):飯豊皇女(一代)
・新王朝(統一王朝)
継体王朝(500年ごろ~現代まで):継体の直系は継体・安閑・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の七代(宣化を除く)であり、その系統は現在まで続く。
初代大王について水野祐は、“神武は実在した大王ではなく、神武とともに「ハツクニシラススメラミコト」と称される崇神こそ実在の初代大王と考えられる。この両者を比較して言えることは、大和を統一してはじめて初代天皇となった理由が説明されるのは神武であるが、崇神には初代天皇たる理由の説明が欠けている。それに反して、神武には初代天皇として君臨してから後のそれにふさわしい治績が実録に欠けているが、崇神はその点では十分である。元来「ハツクニシラススメラミコト」は一人であって、神武紀と崇神紀とを合体させると、真の「ハツクニシラススメラミコト」にふさわしい伝説となる。崇神紀には敬神のことが記され、政教分離を意味する天照大神の祭祀を
つまり、崇神こそ大和地方を発展させ、王権を確立した初代大王と位置付けている。しかし、その王権はまだ呪術的な王権にとどまっており、九州に興った女王卑弥呼に代表される女王国や狗奴国などの倭人諸国に対抗する一大部族国家であったとしている。
また、水野祐は次のように述べて、崇神期における加耶の影響も肯定している。
“崇神紀65年の条に、「
任那国は金官加耶、
水野祐と同様に崇神大和土着説をとるのは田中卓である。
“記紀によれば、神武は九州から東進してきたが、第9代の開化までは土着の豪族の娘から妃を娶るという相対的な立場であって、大きな勢力を持つまでには至らなかった。しかし、崇神(父は開化、母は物部氏のイカガシコメ)の時代になると、
また、“崇神までは、皇居の大殿の中に天照大神(
一方、崇神は加耶から北部九州の筑紫に来たとするのは江上波夫である。
“4世紀前半、朝鮮半島中部に初めて東北アジアの
松本清張は、“紀元後300年ごろに第一期の大陸文化の流入があり、かれらは3世紀の末から4世紀の始めの高塚古墳(円墳・前方後円墳など)に代表される地域にそれぞれがブロックを形成し、出雲などに連合勢力体なる部族国家ブロックをつくっていった。しかし、このブロック連合体の相互の間に緊密な連絡はなく、政治的な協力関係もなかった。いわばルーズな関係であった。高塚古墳は3世紀の末から4世紀の始めに、外から北部九州・吉備・畿内にほぼ同時期に持ち込まれている。そこには弥生時代からの連続性はない。それは高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし朝鮮半島北部を制圧した後に、その地から日本列島に逃れてきた人びとが持ち込んだのではないだろうか”と述べて、崇神期において朝鮮半島北部の楽浪郡・帯方郡の支配者層の一部が、朝鮮半島南部を経て、日本列島の北部九州・吉備・畿内へ進出したとしている。
朝鮮の古文献から日本古代史を解明しようとする鈴木武樹は、“ミマキイリヒコ(崇神)の「イリ」は高句麗系の貴族の尊称と考えられる。高句麗には「イル」という尊称があって、その「イル」が「ウル」になった。新羅にも同じ尊称があった。7世紀に高句麗から倭に来た使者に、「イリ」という名字を持つものが二人いて、彼らは最高級の貴族の出である。したがって、ミマキイリヒコ(崇神)、イホキイリヒコ、イクメイリヒコ(垂仁)の「イリ」は高句麗系の貴族の尊称である可能性が非常に強いと思う”と述べて、崇神あるいはその祖先の出自が夫餘系であることを強く示唆している。
以上のように森浩一・直木孝次郎・水野祐・田中卓・江上波夫・松本清張・鈴木武樹の見解は異なっているが、朝鮮半島の加耶や北部九州の影響を受けて、3世紀後葉から4世紀初頭に大和地方が発展した事実があったことは認めている。
さて、ここで崇神期における疑問を絞り込むため、ヤマト王権の発祥の地とされている大和の
大和の古墳文化は“突然の出現”である。弥生時代においては宗像を代表とする北部九州の東地域は出雲とも近畿とも親しい関係であった。古墳文化に入ると、吉備・出雲・北部九州の西地域(筑紫)にあった要素が総合され、さらに円筒埴輪にみられるような、大和でより強調された部分も加味されて、前期古墳文化が成立した。吉備の
古墳時代前期に大型鏡が果たした役割は大きく、大王陵には直径40センチ近い内行花文鏡が特別な小石室に埋納され、また主体部に副葬されている。
[
前方部が小さく低い纏向型前方後円墳:
石塚(まだ前方後円墳ではなく墳丘墓)、矢塚(90メートル)、ホノケ山(末期の木槨墓:86メートルの長突円墳)。これらの古墳は箸墓古墳より古く、3世紀中頃の造営。
前方部が少し長くなった古墳:
勝山(110メートル)、東田大塚(120メートル)。これらの古墳は箸墓古墳より古いが、纏向型の後の造営。
前方部が高く巨大化した古墳:
ホノケ山古墳からは、それぞれ自立した木槨部分と石槨部分からなる重槨構造の埋葬施設を備え、そこから2枚の鏡が出ている。画文帯同向式神獣鏡と画文帯求心式神獣鏡であろうと言われている。このことから、築造年代は3世紀半ば以降である。画文帯同向式神獣鏡は徐州(山東省の南から長江下流の北にかけての地域で、かつての礎の国)で製作され、楽浪郡経由で倭国に入ってきたことが明らかにされている。出土した素環頭大刀・槍・剣などから、被葬者は朝鮮半島というより中国文化との関わりが非常に強い人と考えられる。その次の段階である4世紀前葉の黒塚古墳・
纏向には崇神・垂仁・景行というヤマト王権初期三代の宮が置かれていたと記紀にある。崇神は
纏向遺跡は弥生時代の集落を囲む環濠が埋められたり、銅鐸が埋められたりするのと入れ替わりに、ある日突然というように2世紀末~3世紀初頭に出現した。遺跡から出土した
弥生時代には人が住んでいなかった土地に多くの移住者を受け入れるため、居住域の造成、建物の建築、排水溝や幅6メートルの護岸に矢板を並べた運河の掘削などの土木作業を、木製の鋤を使って行ったと推定される。それは初期段階の治水を想起させる。
遺跡からは日本列島各地の土器が出土している。大和の土器が7~8割を占めるが、山陰・吉備・阿波・讃岐・伊予・河内・近江・北陸・東海の土器も多く出土している。北部九州と南関東の土器もあるが数は少ない。土器から推定すると、纏向は当時の物資の流通センターであったということがいえる。纏向遺跡からは3世紀前葉~中頃の大型建物群も発見されている。3世紀前半の他の大型遺跡は北部九州の
こうした纏向遺跡の状況から分かることは、266年に張政を帯方郡に送り届ける前から北部九州と
纏向遺跡からは、朝鮮半島南部の瓦質土器破片、楽浪郡からと思われる表面に酸化アルミニウムが塗られた土器破片、木製
それでは、崇神の出自はどこにあるのだろうか?
先ほども述べたように、その当時、
崇神の出自については次の三つの説に大別される。
① 任那から来た辰王の血を引く狗邪国(後の狗邪韓国・金官加耶)の王族で、筑紫にいた。(江上波夫の説)
② 台与の時代に北部九州から東遷した伊都国王であった
③ 神武系から発展した大和の有力豪族。(水野祐・田中卓の説)
崇神の出自を判断するときの要素として次のことがある。
・3世紀後半には北部九州系の鍛冶技術が纏向に持ち込まれている。鍛冶技術は国家機密であり、この技術が持ち込まれたということは加耶あるいは北部九州の支配層の移住が想定される。
・3世紀後葉~4世紀初頭に国内最古級の巨大な前方後円墳(276メートル)である箸墓古墳が造営されている。大和の古墳文化は“突然の出現”である。その古墳は北部九州の鏡・銅剣・銅矛文化の影響を受けている。
・北部九州の倭国連合が
1.前方後円墳という外形
2.石囲い木槨や竪穴式石室
3.船底状刳り抜き式木棺という主体部
4.多量の銅鏡を含む副葬品
この4つのうち、前者の2つが東瀬戸内、後者の2つが北部九州の弥生文化から継承されたものである。近畿地方の弥生文化から古墳時代に継承される構成要素がないことは、近畿地方の弥生人が古墳の出現に主体的に関与していないことを明示している。それは奈良の唐古・鍵遺跡や大阪の池上曽根遺跡などの拠点集落が、弥生後期後半~終末に終焉を迎えていることからも分かる。こうしたことから、前方後円墳は各地の様々な首長墓の要素を集合して考案されたものであると考えられる。
これらの要素を重要視すれば、③の神武系から発展した大和の有力豪族という説は弱いように思う。崇神の三輪王権は神武以来の祭祀集団的要素は強かったことは確かであるが、それは新たな支配者が先住の神武系の祭祀を尊重した結果である。北部九州からは鉄と鍛冶技術とが大和にもたらされている。鉄器を土木工事や農機具に使用すれば、新たな農地を開拓できるし、既存の農地の水はけを良くして改良することもできる。先住の人びとにとって非常に有用であったことは疑いようがない。鉄製の武器・甲冑や中国鏡なども持ち込んでいるが、それらも先住の人びとにとって先進的なものと映っていたいたはずである。また、崇神期における纏向遺跡の最も重要なことは、前方後円墳が最初に誕生したことである。畿内の弥生時代には、副葬品を持つ墓はほとんどなく、大和で墓への大量副葬が始まるのは纏向遺跡以降である。中国鏡も金属器も纏向遺跡以降急増したが、北部九州では徐々に減り始めた。こうしたことから、②の北部九州から東遷してきた集団が大和の新たな支配者となったと考えることは自然と思われる。
北部九州の卑弥呼の女王国連合は
②の北部九州から東遷してきた集団が大和の新たな支配者となったとしても、台与の消息については未だ疑問が残る。もし台与が難升米あるいはその後継者とともに大和へ東遷したとすれば、卑弥呼や台与の何らかの伝承が記紀に残るべきと思うが、それがない。実権のない巫女女王であった彼女らは大和への東遷に関わりがなかったと思う。しかし、多少の伝承は残り、それが形を変えて記紀神話のアマテラスの世界へ組み入れられたのかもしれない。台与の死後、長田夏樹がいうように台与を含めた卑弥呼一族は
ここで、古代における
難升米あるいはその後継者が東遷したと考えられるもう一つ重要な出土品がある。それは大和の東大寺山古墳出土の鉄剣(鉄刀)である。
[東大寺山古墳]
天理市にある東大寺山古墳は4世紀中葉の130メートルの前方後円墳で、そこからは漢中平□年の銘文がある鉄の大刀が出土している。刀身の長さは110センチ(四尺)で、日本刀とは逆の内反りになっている。この鉄刀は、刃側が度重なる研磨によって減じ、それによって内反りが大きくなったと考えられている。それは、100年~200年の伝世期間があったことの証明である。象嵌の「蹴り彫り」技術は古墳時代の朝鮮半島にも日本にもなく、後漢の技術である。また、その銘文が韻を踏んでおり、その書体は後漢や三国の時代の「鏡銘体」と共通している。これらのことから、この刀は中国の中原あるいはその文化が直接的に及ぶ地域で造られたと考えられる。それは倭国乱の時代の後漢の中平(184年~189年)のことであり、公孫氏を介して賜与されたと推測される。この中平銘の刀は本来あった環頭の部分が切り取られているが、元は素環頭であったと思われる。そこに日本の工人が青銅で家形の柄頭を作りつけた。この鉄刀が畿内で出土した事実をどう解釈すべきかは大きな謎である。
魏志倭人伝に、「景初二年(238年)六月、倭の女王、大夫
東大寺山古墳出土の鉄剣(鉄刀)は、このときに下賜された「五尺刀二口」にあたる可能性が高いとの見解がある。もしそうであれば、伊都国王であった難升米に下賜された鉄剣(鉄刀)は難升米あるいはその後継者が伊都国から大和へ持ち込んだものとなる。
和邇氏の「ワニ」は古代朝鮮語で剣・刀あるいは鉄を意味するともいわれる。その出自は加耶の
宗像三神はニニギの天孫降臨のときに登場することから、その出現時期は、おそらく魏志倭人伝の女王国の時代(2世紀後葉~3世紀前半)、あるいは崇神の東遷の時代(3世紀後葉)と思われる。
[
[
日本書紀の一書に、ニニギの天孫の降臨を助けるため、アマテラスがその三人の娘(宗像三女神)を海北(朝鮮半島南部)と筑紫との間のいわゆる道中に降ろしたという。それは加羅国(加耶)から筑紫への道中である。このルートは、現在の釜山辺りから対馬を経て沖ノ島・大島を伝わり福岡県宗像郡の神湊付近に至る海路だと考えられている。これが玄界灘の沖ノ島・大島・宗像に現在祀られている宗像三社の縁起となっている。このような所伝から、天皇家の祖先とされる天孫が朝鮮半島南部から北部九州に渡来し、そこにまず日本における最初の拠点を置いたことが推定される。そして何代かの後さらに畿内に向って進出することになった。そのことが神武の東征伝説に反映している。このルートは古くから開かれていたと思われる。後漢書に、「委奴国、貢ぎを奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす」。建武中元二年(57年)に後漢光武帝は倭の奴の国王に金印を与えた。さらに、後漢安帝永初元年(107年)に「倭国王
伊都国王
当時の畿内には各地にいくつかの有力な豪族が割拠していた。神武系豪族もその中の一人であった。そこには当然、少なからず争いがあったにちがいない。有力な豪族たちは交易を通じて伊都国や奴国、さらに
弥生時代から古墳時代へと移行する過渡期となる3世紀後半には墳墓ばかりでなく、祭りも大きく変化した。近畿の
弥生時代から古墳時代にかけての大変動の鍵を握る古墳が大和にある
江上波夫は、“
崇神の即位年は290年ごろで崩御年は318年というのが文献史的にも考古学的にも最も妥当とされ、台与の後を継いだのが崇神とすれば、266年から290年の間のどこかで、伊都国王であった難升米あるいはその後継者は北部九州から大和へ東遷したはずである。そのときには、倭国連合の有力国であった朝鮮半島南部の
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