第19話 崇神とは誰か?

 2代目の綏靖すいぜいから9代目の開化かいかまでは欠史八代と呼ばれ、その実在は疑問視されているが、初代の神武じんむから9代目の開化までの時代は未だ王権といえるほどの経済力も武力も組織もなかったため、人びとの記憶に残るような業績も示していなかったといえる。そのうえ、8世紀初頭に作成された日本書紀では、倭国の成立年代を古く見せるために皇紀讖緯こうきしんい説を採用して実際よりも860年も前に初代天皇を持ってきた。記紀では、第39代天武てんむのころに編纂された初代神武から第16代仁徳にんとくまでの歴史には作為や修飾が多く、倭国の成立年代を古く見せるために造作された架空の天皇や、万世一系とするための天皇や皇子・皇后も作られたと考えられる。これらのことから、神武から開化までの9代は存在せず、造作された架空の天皇であると考えられるようになった。

 一方、第10代崇神すじんの時代には、箸墓はしはか古墳を代表とする前方後円墳が築造されたことにより、王権と呼べる経済力・武力・組織が備わったと推定される。その結果、ヤマト王権の実質的な初代は崇神であるというのが現在の定説となっている。

しかし、直木孝次郎は次のように指摘している。“崇神は実在した初代の王とする説が有力であるが、有力なのは存在した可能性だけで、記紀に記されている疫病が流行したとき大田田根子おおたなねこを探し出し、大物主おおものぬし神を祀らせたら疫病が治まったという話や、日本書紀にみえる四道将軍の話などはその時期の事実とは思われない。”


 謎の4世紀が始まった266年といえば、記紀ではまさに崇神の時代が始まる直前である。現在、崇神の即位年は290年ごろで崩御年は318年というのが文献的にも考古学的にも最も妥当とされている。台与とよが290年ごろまで生きて、その後を男王である崇神が継いだとも考えられるが、はたしてそうであろうか?しかも、ちょうどそのころ纏向まきむくに箸墓古墳が築造されている。箸墓の被葬者は台与である可能性はあるのだろうか?もしそうであれば、266年から290年までの間に、台与は北部九州から大和へ東遷したことになる。その東遷には、東遷途上にある吉備・播磨・讃岐の勢力も加わっていたと考えられる。また、崇神は加耶または北部九州から東遷したのか、あるいは大和の土着勢力だったのか?いくつもの疑問が出てくる。森浩一・直木孝次郎・水野祐・田中卓・江上波夫・松本清張・鈴木武樹の説を参考にして考えてみたい。


 大和の古墳文化は“突然の出現”である。弥生時代においては宗像むなかたを代表とする北部九州の東側地域は出雲地方とも近畿地方とも親しい関係であった。3世紀後葉、大和地方では、北部九州の西側地域の筑紫と、吉備や出雲にあった要素が総合され、さらに円筒埴輪にみられるような、大和地方でより強調された部分も加味されて、大和で前期古墳文化が成立し、古墳時代に入った。


「ヤマト」は、かなり早くから奈良盆地中東部、三輪山山麓から城上・城下・十市の郡域にわたる一帯を呼んでいた。古事記における「ヤマト」は音仮名では「山跡」「夜麻登」、漢字では「倭」だけを用いるのが原則で、しかもその「ヤマト」は奈良盆地の中東部、特に三輪山周辺の限られた一帯である。しかし、「大倭」は本州を指している。

日本書紀では、対外記事に関しては、古事記の「倭」を「日本」に改めている。しかし、狭義の「ヤマト」に限っては「倭」を用いている。

万葉集では、「日本」は対外用として日本全土の意味で使うよりも、むしろ奈良盆地の「ヤマト」を指す場合に「倭」よりも多く用いている。

また、音仮名としても「倭」から「和」への推移が明瞭となってきた。「倭」に代わって「日本」という国号を広く公的に用いるようになったのは大宝令制定の701年に始まる。奈良盆地の狭義の「ヤマト」の律令制の国名は「倭国」から「大倭国」、そして757年(養老令の施行年)の藤原仲麻呂が光明皇太后の国政を補佐したときに叛乱を未然に防いだ後に「大和国」となった。「大和」が国名や地名として文献に登場するのは718年の養老令の撰上からであり、実際に使用が広まるのは、それが施行された757年からである。


 森浩一はヤマト王権成立を考えるうえで、大和の磐余いわれの地にある桜井(外山)茶臼山古墳の重要性について次のように述べている。

“奈良盆地の南東で纏向まきむく遺跡の南にあたるところに狭義のやまとという地域があり、重複するようにして磐余の地がある。ヤマト王権の初代の王の名は磐余彦(イワレヒコ)であり、奈良時代につけられた漢風諡号は神武天皇である。この磐余のはずれに古墳時代前期(3世紀後葉~4世紀)の墳丘の長さ208メートルの巨大な前方後円墳の茶臼山ちゃうすやま古墳がある。ここでは古墳文化の特徴である円筒埴輪を使っていない。円筒埴輪の起源は吉備である。また、墳丘表面を河原石で覆う葺石ふきいしは出雲から丹後の弥生時代の古い墓(四隅突出型方墳や方形貼石墓)で見られ、それは採用している。茶臼山古墳は箸墓など他のヤマト王権の古墳とは異質な古墳である。つまり大和の古墳時代前期の古墳文化は、各地の古墳文化を総合して作り出したものである。さらに、茶臼山古墳が造営された土地は昔の鵄邑とびむらで、それが現在の外山とびとなった。神武が大和土着の豪族「長髓彦ながすねひこ」との戦で形勢が悪かったとき、金色のとびが飛んできて磐余彦の弓にとまった。この言い伝えによってこの土地を鵄邑というようになり、鳥見とみと訛るようになったという。また、茶臼山古墳のすぐ東に宗像むなかた神社がある。宗像神社は福岡県宗像郡と玄界灘の2島に分かれて鎮座する古社である。このように神武の説話といい宗像神社といい、九州との関係が示唆されている。茶臼山古墳から出土した81面の銅鏡は埋納にさいし故意に破砕したようである。桁外れの大量埋納である。伊都国最後の王墓といわれる平原ひらばる古墳に埋納された40面の約2倍の数である。銅鏡を墓へ納めることは近畿地方の弥生時代には皆無といってよい。平原古墳と外山茶臼山とびちゃうすやま古墳とでは100年ほどの隔たりはあるとはいえ、北部九州からの風習の伝播と見るほか説明することはできない。平原古墳では、すべての銅鏡を破砕して墓に埋めていた。外山茶臼山古墳でも銅鏡は破片となって出土した。この視点からも北部九州と大和との関連が強まった。” 

この外山とび鳥見山とみやま古墳群にあるメスリ山古墳(230メートル)からは鉄製の弓(1.8メートル)と弦・矢が出土している。箸墓古墳のある纏向まきむく箸中はしなかとも呼ばれる)古墳群と異質であることから、初代神武の系統と第10代崇神の系統とは異なると言えるかもしれない。


 一方、直木孝次郎は磐余いわれの地について森浩一とは異なる見解を持っている。

“三輪王権三代の宮は磐余の地である。崇神すじん(ミマキイリヒコ・イニエ)・垂仁すいにん(イクメイリヒコ・イサチ)・景行けいこう(オホタラシヒコ・オシロワケ)の三輪王権は大和の三輪山西麓地域を基盤として、3世紀末あるいは4世紀初頭に成立した王権である。神武の大和平定の伝説はその過程を説話化したものと思われる。このことは1970年代から指摘されている。”

さらに、直木孝次郎は「初期の大王は崇神・垂仁・景行の3人だけか?」の中で次のように述べて、古墳時代前期の270年ごろ~380年ごろにはすくなくとも8人の大王がいたと推定している。

“神武から開化に至る9代の大王たちが実在したとする見解は、現在ほとんど否定されている。その次の崇神・垂仁・景行については記紀に多くの記事がある。もちろんそこに伝えられる事柄は、それぞれの大王の時代の史実と思われないものが多く、この3代の大王の実在の証拠とすることはできない。しかし、3代の大王の名にみえるイリヒコ(崇神・垂仁)、ワケ(景行)の語は、4~5世紀の大王の名に限って用いられる語であって、5世紀後半以降の大王の名にみえないので、後代に造作された名とは思われない。それを根拠の一つとして、この3代は初期の大王と認められる。但し、その支配領域は後の大和と呼ばれる地域を中心とし、河内をも支配していたと思われるが、それ以上には及んでいない。3世紀~4世紀の倭国には文字の記録の術は伝わっておらず、おくりななどは天皇系譜をまとめた「帝紀」の原文が作られたときに付加されたのである。その時期はおそらく古くても5世紀後半の雄略期をさかのぼることは困難である。しかし、崇神など3代の大王のほかに名は分からないが古代の大和を支配した大王が存在した可能性はある。

古墳時代前期(270年ごろ~380年ごろ)の1世紀余りの期間内に200メートル以上の大和における大型前方後円墳は、箸墓古墳(278メートル)を除いて8基で、この時期の大王が少なくとも8人であった可能性はすこぶる高い。古墳時代前期前半では、大和東部では、天理市の西殿塚古墳(220メートル)、行燈山あんどんやま古墳(240メートル)、渋谷向山古墳(310メートル)、桜井市の外山茶臼山古墳(208メートル)、メスリ山古墳(230メートル)の5基。さらに、大阪藤井寺市の津堂城山古墳(208メートル)、岸和田市の摩湯山古墳(200メートル)もある。前期後半では、奈良盆地北部の佐紀丘陵に移るが、五社神ござし(278メートル)、佐紀石塚(220メートル)、佐紀陵山(210メートル)である。この3古墳は前期前半の古墳より小型化し、勢力が衰えた感がある。それは中期になると、大古墳の造営は大和から河内に移り、大山(486メートル)、誉田御廟山こんだごびょうやま(420メートル)、上石津ミサンザイ(365メートル)が築かれる前兆とも思える。さらに佐紀丘陵の南西に宝来山(227メートル)があるが、この古墳は中期と思われる。

古墳時代前期の100年余りで8人とすると、一代の在位年数は平均12年~13年となる。古墳時代前期の大和は、政治的には王陵の地が奈良盆地東南部から北部に移った変動期以外はほぼ平穏に経過したようである。日本書紀の紀年がほぼ正確になる第26代継体けいたいの507年から第49代光仁こうにんの退位781年まで、二人の重祚ちょうそをそれぞれ1代と計算すると、一代平均12.5年になる。古代においてこのように在位年数が短いのは、父子直系で王位に就く制度や慣例はなく、豪族を形成する親族集団の族長が氏ノ上の地位につくことと、族長が兄弟間で相続されるされることが多かったためである。一族内の信望を集めて族長の地位に就く者は、相当の年配、古代でも40歳前後が多いと思われる。それは中央豪族である大王家でも同様であったとすれば、一代12年前後というのは妥当な年数である。父子直系相続が理想とする考えが出てくるのは7世紀後葉の天智・天武期ごろからである。”

つまり、神武から開化までの9代の存在は確認できないが、古墳時代前期の270年ごろから380年ごろまでの間に少なくとも8人の大王は存在していたというものである。その8人とは、270年ごろから380年ごろまでという年代から推定すると、第14代仲哀ちゅうあいまでの大王たちである。計算上では第7代考霊から第14代仲哀までとなるが、第10代の崇神の崩御年が318年であれば、第7代考霊の崩御年が270年ごろというのはあり得なくもないと思われる。ということは、崇神以前の第7代考霊、その次の第8代孝元、第9代開化は、その和風諡号はともかくとしても、大和地方に実在していた可能性はあるといえる。


 水野祐は古事記と日本書紀を分析し、次のように要点を整理している。

・古事記と日本書紀に共通して記されている時代は、初代の神武から第33代の推古までである。古事記の古写本にみえる崩年干支の注記は、33天皇のうちの15天皇に限りついている。その15代の最初の天皇は崇神である。この15代と算定した崩年干支がついた古い帝紀があったはずである。しかし、日本書紀では崇神は第10代となっている。 

・日本書紀が編纂されたのは第43代元正げんしょう(715年~724年)の時代である。第34代舒明じょめい(629年~641年)から元正までの10代は記録時代であったので、勝手に削ったり、付け加えたりはできなかった。それに古い帝紀の15代、その間を9代に増やし、最後に神武から開化までの9代を加え、元正までを43代とした。現在の39代弘文こうぶんは明治時代に追加されている。15という数字は中国の老陽老陰という奇数・偶数の最大の極数である9と6の合計である。

・古事記に崩年干支があるのは、崇神・成務・仲哀、応神・仁徳・履中・反正・允恭・雄略、継体・安閑・敏達・用明・崇峻・推古の15代である。崇神以降で崩年干支がないのは、垂仁・景行・安康・清寧・顕宗・仁賢・武烈・宣化・欽明の9天皇である。


そして、次の四つの論拠に基づき三王朝交代説を組み立てたとする。

① 万世一系の神聖皇統の思想は、天武天皇の頃に発生・確立したものである。

② 古事記崩年干支注記が、日本書紀紀年と異なる別な年代記の存在を示し、かつ崩年干支をもつ特定の天皇によって古い歴代が構成されていた一つの記紀以前の古帝紀の原本が存在していたと考えられる。

③ 歴代天皇の和風諡号の成立過程によって、古くから確認されていた天皇と、後から想定され歴代に挿入された天皇との別が考えられる。

④「皇位は一日も空しくすべからず」という立場を示す日本書紀が、その基本精神に背反する長期の空位を伝える矛盾を犯し、かつその空位が整然と故意に配置されている。


その三王朝とは、

・古王朝(呪教王朝)

先王朝(200年ごろ~290年ごろ):奈良盆地に発祥した。司祭者数代あるが詳細は不明。司祭者が中心になって政治の権力も握る。

崇神王朝(290年ごろ~362年):崇神・成務・仲哀(三代)。

・中王朝(征服王朝)

仁徳王朝(363年~489年):(応神)仁徳・履中・反正・允恭・木梨(安康ではない)・雄略(七代)。応神は九州で崩じた。仁徳の時代に九州から難波に移り都した。この王朝は日本列島の征服を行ったので征服王朝と名づけた。

後仁徳王朝(490年~499年):飯豊皇女(一代)

・新王朝(統一王朝)

継体王朝(500年ごろ~現代まで):継体の直系は継体・安閑・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の七代(宣化を除く)であり、その系統は現在まで続く。


初代大王について水野祐は、“神武は実在した大王ではなく、神武とともに「ハツクニシラススメラミコト」と称される崇神こそ実在の初代大王と考えられる。この両者を比較して言えることは、大和を統一してはじめて初代天皇となった理由が説明されるのは神武であるが、崇神には初代天皇たる理由の説明が欠けている。それに反して、神武には初代天皇として君臨してから後のそれにふさわしい治績が実録に欠けているが、崇神はその点では十分である。元来「ハツクニシラススメラミコト」は一人であって、神武紀と崇神紀とを合体させると、真の「ハツクニシラススメラミコト」にふさわしい伝説となる。崇神紀には敬神のことが記され、政教分離を意味する天照大神の祭祀を笠縫邑かさぬいむらに遷して未婚の皇女(斎王)にその祭祀を託し、天皇は完全な政治的君主として君臨することになった。だからこれ以後の物語では、天皇が親しく司祭となって天神地祇てんじんちぎの祭祀を行うという話は姿を消す。これは原大和国家の統一が完成し、その大きな社会経済的基盤の上に立って政治的支配者としての地位が固定してきた時に、天皇は自らその司祭的王としての権威を捨て、祭祀のことは巫であり司祭として未婚の皇女に委譲してしまい、自らは純然たる政治的王として君臨するにいたったことを意味するのである。ついで政治的王としての地位を確立した統治者は、さらに原大和国家の政治的勢力の拡大をはかり、四隣をも政治的に統一しようとする。それを示すのが四道将軍の物語である。そして建国の物語の最後を飾るのが出雲の統合の物語である。「ハツクニシラススメラミコト」の性格は、なお純然たる政治的王というのではなく、司祭的王から政治的王への移行型を示す王者という本質において理解すべきものである。崇神の前に初代天皇としての神武を加上したのは、律令国家完成期の皇親政治体制のもとで、天皇の親政が我が国固有の統治形態であることを明確にし、天皇の統治権を確立させる精神的支柱として、万世一系の皇統の思想を浸透させる目的から行われた物語の原作の改作であると考える。崇神は、それに先立つ神武から開化まで9代の先王権があるが、それは奈良盆地を統一した祭祀集団的部族国家であると推定するが、すべて記紀の国史編纂の構想に基づき作り出されたものであって、実在の大王の伝説とはいえない。しかし、崇神の時代にこの王権は一大発展を遂げ、本州の近畿以西の地域を領有し、原ヤマト国家を形成した。この国家は九州に興った女王卑弥呼に代表される女王国や狗奴国などの倭人諸国に対抗する一大部族国家であった。この王権の第3代の仲哀の時代に列島を統一するため九州に遠征し、九州の倭人国と戦争したが敗れ、362年に仲哀は敵の矢に当たって戦死し、その後、九州の倭人国によって滅ぼされることになる”、と述べている。

つまり、崇神こそ大和地方を発展させ、王権を確立した初代大王と位置付けている。しかし、その王権はまだ呪術的な王権にとどまっており、九州に興った女王卑弥呼に代表される女王国や狗奴国などの倭人諸国に対抗する一大部族国家であったとしている。

また、水野祐は次のように述べて、崇神期における加耶の影響も肯定している。

“崇神紀65年の条に、「任那みまな国、蘇那曷叱智そなかしちを遣わして朝貢す。任那は筑紫国を去ること二千余里。北、海をへだてて鶏林しらきの西南にあり」とある。記紀に任那国が現れるのはこれをもって初めとする。崇神紀には任那(加耶)やその他東アジア系の伝承の要素が相当包含されている。”

任那国は金官加耶、鶏林しらき新羅しらぎのことである。つまり、日本書紀は倭国の対外関係が金官加耶から始まったと言っており、それは極めて象徴的なことである。蘇那曷叱智は垂仁2年に帰国している。その帰国途上で、新羅は蘇那曷叱智の持っているものを奪ったため、その後、両者で争いが起こるようになった。歴史的な対象として新羅が登場するのはこれが最初である。しかし、水野祐は江上波夫の「騎馬民族説」には賛成していない。


 水野祐と同様に崇神大和土着説をとるのは田中卓である。

“記紀によれば、神武は九州から東進してきたが、第9代の開化までは土着の豪族の娘から妃を娶るという相対的な立場であって、大きな勢力を持つまでには至らなかった。しかし、崇神(父は開化、母は物部氏のイカガシコメ)の時代になると、天神てんじん地祇ちぎの制度を確立し、調和共存に成功し、南山背の武埴安彦(タケハニヤスヒコ)との戦に勝った後に四道将軍(北陸・東海・西道・丹波)を派遣、出雲には神宝検校の使を出し、畿内とその周辺(銅鐸文化圏)を征服・統治し、祭祀を統括した”と述べて、崇神期における版図の拡大を主張している。

また、“崇神までは、皇居の大殿の中に天照大神(天神てんじん)・倭国魂神(地祇ちぎ=大物主(三輪山))と共に住んでいたが、国家統治体制の進化と共に祭政の分離が生じ、この際に、地祇を天神同様に尊重して、信仰の調和が図られた”、としている。


 一方、崇神は加耶から北部九州の筑紫に来たとするのは江上波夫である。

“4世紀前半、朝鮮半島中部に初めて東北アジアの夫餘ふよ系騎馬民族出身の辰(秦)王朝が成立し、韓人諸国(馬韓・弁韓・辰韓など)の大半を支配した。その中心が最初は馬韓にあったが、後に弁韓に遷り、最後に筑紫(北部九州)に上陸した。記紀に記された天孫降臨はこれを指すものと考えられ、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)といわれた崇神がこの最初の建国の主人公である。当時は、まだ朝鮮半島南部の加耶に本拠地を置いていて、九州の筑紫までを支配する倭・韓連合国であった。これがそもそも「日本」の始まりと考えられる。そして5世紀になると、応神が加耶から北部九州に渡り、勢力を増して畿内に東征した。さらに雄略の代になると奈良に都を移し、かの地の豪族たちと連合してヤマト王権をつくり、関東から九州までの日本列島の大部分を統治するようになったのである”と述べて、崇神は北部九州の筑紫に進出したが、それは朝鮮半島南部の加耶との連合政権であったとする。


 松本清張は、“紀元後300年ごろに第一期の大陸文化の流入があり、かれらは3世紀の末から4世紀の始めの高塚古墳(円墳・前方後円墳など)に代表される地域にそれぞれがブロックを形成し、出雲などに連合勢力体なる部族国家ブロックをつくっていった。しかし、このブロック連合体の相互の間に緊密な連絡はなく、政治的な協力関係もなかった。いわばルーズな関係であった。高塚古墳は3世紀の末から4世紀の始めに、外から北部九州・吉備・畿内にほぼ同時期に持ち込まれている。そこには弥生時代からの連続性はない。それは高句麗が楽浪郡(313年)・帯方郡(314年)を滅ぼし朝鮮半島北部を制圧した後に、その地から日本列島に逃れてきた人びとが持ち込んだのではないだろうか”と述べて、崇神期において朝鮮半島北部の楽浪郡・帯方郡の支配者層の一部が、朝鮮半島南部を経て、日本列島の北部九州・吉備・畿内へ進出したとしている。


 朝鮮の古文献から日本古代史を解明しようとする鈴木武樹は、“ミマキイリヒコ(崇神)の「イリ」は高句麗系の貴族の尊称と考えられる。高句麗には「イル」という尊称があって、その「イル」が「ウル」になった。新羅にも同じ尊称があった。7世紀に高句麗から倭に来た使者に、「イリ」という名字を持つものが二人いて、彼らは最高級の貴族の出である。したがって、ミマキイリヒコ(崇神)、イホキイリヒコ、イクメイリヒコ(垂仁)の「イリ」は高句麗系の貴族の尊称である可能性が非常に強いと思う”と述べて、崇神あるいはその祖先の出自が夫餘系であることを強く示唆している。


 以上のように森浩一・直木孝次郎・水野祐・田中卓・江上波夫・松本清張・鈴木武樹の見解は異なっているが、朝鮮半島の加耶や北部九州の影響を受けて、3世紀後葉から4世紀初頭に大和地方が発展した事実があったことは認めている。 


 さて、ここで崇神期における疑問を絞り込むため、ヤマト王権の発祥の地とされている大和の纏向まきむく遺跡についての考古学的な所見を確認しておく。


 大和の古墳文化は“突然の出現”である。弥生時代においては宗像を代表とする北部九州の東地域は出雲とも近畿とも親しい関係であった。古墳文化に入ると、吉備・出雲・北部九州の西地域(筑紫)にあった要素が総合され、さらに円筒埴輪にみられるような、大和でより強調された部分も加味されて、前期古墳文化が成立した。吉備の楯築たてつき墳丘墓は直径40メートルの円丘の両側にそれぞれ20メートルの突出部を持っている。突出部の一つを取れば纏向型前方後円墳の比率と形になる。吉備の楯築墳丘墓は箸墓はしはか古墳直前の築造と推定されている。纏向まきむく型前方後円墳における副葬品の鏡・玉類・武器のセット、水銀朱を大量に棺に布くこと、鏡の破砕、などは伊都国の要素である。また、木の仮面も出土しており、祭祀にも纏向以前とは大きな変化があった。纏向遺跡の最も重要なことは、前方後円墳が最初に誕生したことである。畿内の弥生時代には、副葬品を持つ墓はほとんどなく、大和で墓への大量副葬が始まるのは纏向遺跡以降である。中国鏡も金属器も纏向遺跡以降急増したが、北部九州では徐々に減り始めた。


 古墳時代前期に大型鏡が果たした役割は大きく、大王陵には直径40センチ近い内行花文鏡が特別な小石室に埋納され、また主体部に副葬されている。伊都いと国の平原ひらばる遺跡出土の超大型倣製内行花文鏡(直径46.5センチ)は、大和地方の前期古墳時代の倣製内行花文鏡の祖形となることから、鏡を尊重する前期古墳文化の重要な構成要素の一つが伊都国の弥生文化の伝統から継続して受け継がれていることは明らかである。伊都国で確認されている約50基の前方後円墳の約40%が前期古墳であることも、伊都国から大和への継承の裏付けになっている。


[纏向まきむく遺跡の古墳群]

前方部が小さく低い纏向型前方後円墳:

石塚(まだ前方後円墳ではなく墳丘墓)、矢塚(90メートル)、ホノケ山(末期の木槨墓:86メートルの長突円墳)。これらの古墳は箸墓古墳より古く、3世紀中頃の造営。

前方部が少し長くなった古墳:

勝山(110メートル)、東田大塚(120メートル)。これらの古墳は箸墓古墳より古いが、纏向型の後の造営。

前方部が高く巨大化した古墳:

箸墓はしはか(国内最古級の前方後円墳、276メートル)。築造時期は3世紀後葉から4世紀初頭。記紀では、崇神10年の造営で、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓と伝えられている。箸墓古墳の縮尺比を基準とした古墳がいくつも築造されるなど、以降の前方後円墳の原型となった。


 ホノケ山古墳からは、それぞれ自立した木槨部分と石槨部分からなる重槨構造の埋葬施設を備え、そこから2枚の鏡が出ている。画文帯同向式神獣鏡と画文帯求心式神獣鏡であろうと言われている。このことから、築造年代は3世紀半ば以降である。画文帯同向式神獣鏡は徐州(山東省の南から長江下流の北にかけての地域で、かつての礎の国)で製作され、楽浪郡経由で倭国に入ってきたことが明らかにされている。出土した素環頭大刀・槍・剣などから、被葬者は朝鮮半島というより中国文化との関わりが非常に強い人と考えられる。その次の段階である4世紀前葉の黒塚古墳・椿井つばい大塚山古墳などからは中国製の甲冑などが副葬品として入っていることからも、これらの被葬者は楽浪郡・帯方郡や加耶諸国と強いつながりのあるヤマト王権の支配者と考えられる。


 纏向には崇神・垂仁・景行というヤマト王権初期三代の宮が置かれていたと記紀にある。崇神は磯城しき瑞籬みずがき宮、垂仁は纏向まきむく珠城たまき宮、景行は纏向まきむく日代ひしろ宮、と伝えられている。纏向の諸古墳、ホノケ山・箸墓などは、ヤマト王権初期三代(崇神・垂仁・景行)と関わりのある人物の墓と考えられる。それらは魏志倭人伝の墓制の「かんあってかくなし」には整合しない。しかし、北部九州の甕棺、箱式石棺、木棺直葬などとは整合する。


 纏向遺跡は弥生時代の集落を囲む環濠が埋められたり、銅鐸が埋められたりするのと入れ替わりに、ある日突然というように2世紀末~3世紀初頭に出現した。遺跡から出土したすき(ショベルとして土を掘り返す)・くわ(畑を耕す)のうち鋤が95%を占める比率分析から、纏向遺跡に居住していたのは農業をしない人びとであったと考えられる。それは、遺跡から田や畑の痕跡は未だ見つかっていないことからも立証される。 

弥生時代には人が住んでいなかった土地に多くの移住者を受け入れるため、居住域の造成、建物の建築、排水溝や幅6メートルの護岸に矢板を並べた運河の掘削などの土木作業を、木製の鋤を使って行ったと推定される。それは初期段階の治水を想起させる。 

遺跡からは日本列島各地の土器が出土している。大和の土器が7~8割を占めるが、山陰・吉備・阿波・讃岐・伊予・河内・近江・北陸・東海の土器も多く出土している。北部九州と南関東の土器もあるが数は少ない。土器から推定すると、纏向は当時の物資の流通センターであったということがいえる。纏向遺跡からは3世紀前葉~中頃の大型建物群も発見されている。3世紀前半の他の大型遺跡は北部九州の国の比恵・那珂遺跡と博多遺跡、伊都いと国の三雲・井原遺跡などがある。纏向はそれらに匹敵する規模である。この地は「大市郷」に比定され、大きな市があったという伝承がある。それを取り仕切った人物は何者なのか?前方後円墳が出現する前の3世紀前半の纏向はまだ鉄がない時代であった。それは崇神の数代前と思われ、第5代の考昭、第6代の考安、第7代の考霊が考えられる。

こうした纏向遺跡の状況から分かることは、266年に張政を帯方郡に送り届ける前から北部九州と狗邪くや国(狗邪韓国・後の金官加耶)の倭国連合は新天地への移動を画策していたということである。北部九州の土器は少ないとはいえ、纏向に存在していたということは、大和の大きな市に北部九州から参加していた者がいた、あるいは大和から北部九州へ交易のために旅していた者がいて、大和地方の情報を入手していたということになる。

纏向遺跡からは、朝鮮半島南部の瓦質土器破片、楽浪郡からと思われる表面に酸化アルミニウムが塗られた土器破片、木製輪鐙わあぶみ、ベニバナ染めの廃液、も見つかっている。特筆すべきことは、送風管の羽口や鉄滓が出土し、3世紀後半には北部九州系の鍛冶技術が纏向に持ち込まれていたことである。古代において治水は住民の生活を安定させる最大の事業である。中国の夏(BC2070年~BC1600年)の初代の王、は治水の功績が認められて王朝を開いた。の治水とは、道路や水路の交通網の整備と農地の整備であった。纏向を拠点として鉄の刃先を付けた鋤や鍬を使って奈良盆地を本格的に開拓したのは誰か?国家機密であるこ鍛冶技術が持ち込まれたということは、加耶あるいは北部九州の支配層の移住が想定される。そして、3世紀後葉~4世紀初頭に日本最古の大型前方後円墳である箸墓古墳が造営されている。それはまさに崇神の時代である。


 それでは、崇神の出自はどこにあるのだろうか?

先ほども述べたように、その当時、狗邪くや国(狗邪韓国・後の金官加耶)を含む加耶諸国は、鉄素材と鉄器生産を行い、朝鮮半島南部諸国の中では一番豊かではあったが、高句麗の南下政策の圧迫をうけ、生き延びるために新天地の開拓が喫緊の課題であった。一方、北部九州の有力国であった伊都いと国と国も南から狗奴くな国(後の熊襲)の攻勢を受けて脅威を感じていた。そのような状況下において、倭国連合の有力国である朝鮮半島南部の狗邪くや国(後の狗邪韓国・金官加耶)、北部九州の伊都いと国と国、この三者が結束して新たな拠点づくりを画策したと思われる。では、崇神は誰か?


崇神の出自については次の三つの説に大別される。

① 任那から来た辰王の血を引く狗邪国(後の狗邪韓国・金官加耶)の王族で、筑紫にいた。(江上波夫の説)

② 台与の時代に北部九州から東遷した伊都国王であった難升米なしめあるいはその後継者。(森浩一の説は台与の時代の北部九州勢の東遷のみで、難升米についての言及はない)

③ 神武系から発展した大和の有力豪族。(水野祐・田中卓の説)


崇神の出自を判断するときの要素として次のことがある。

・3世紀後半には北部九州系の鍛冶技術が纏向に持ち込まれている。鍛冶技術は国家機密であり、この技術が持ち込まれたということは加耶あるいは北部九州の支配層の移住が想定される。 

・3世紀後葉~4世紀初頭に国内最古級の巨大な前方後円墳(276メートル)である箸墓古墳が造営されている。大和の古墳文化は“突然の出現”である。その古墳は北部九州の鏡・銅剣・銅矛文化の影響を受けている。

・北部九州の倭国連合が狗奴くな国(後の熊襲)との抗争に敗れて台与の時代に崩壊したときは、弥生時代から古墳時代へと移行する過渡期に相当する。3世紀後半になると、前方後円墳が近畿の大和地方に突然出現している。纏向遺跡は古墳時代の幕開けを告げた遺跡でもある。纏向にある石塚・矢塚・勝山墳墓などである。これらは楕円形の後円部と短い前方部を持ち、これ以降の前方後円墳とは様相を異にする。その出現期の前方後円墳を構成する要素を分析すると、次の4つがある。

1.前方後円墳という外形

2.石囲い木槨や竪穴式石室

3.船底状刳り抜き式木棺という主体部

4.多量の銅鏡を含む副葬品

この4つのうち、前者の2つが東瀬戸内、後者の2つが北部九州の弥生文化から継承されたものである。近畿地方の弥生文化から古墳時代に継承される構成要素がないことは、近畿地方の弥生人が古墳の出現に主体的に関与していないことを明示している。それは奈良の唐古・鍵遺跡や大阪の池上曽根遺跡などの拠点集落が、弥生後期後半~終末に終焉を迎えていることからも分かる。こうしたことから、前方後円墳は各地の様々な首長墓の要素を集合して考案されたものであると考えられる。


 これらの要素を重要視すれば、③の神武系から発展した大和の有力豪族という説は弱いように思う。崇神の三輪王権は神武以来の祭祀集団的要素は強かったことは確かであるが、それは新たな支配者が先住の神武系の祭祀を尊重した結果である。北部九州からは鉄と鍛冶技術とが大和にもたらされている。鉄器を土木工事や農機具に使用すれば、新たな農地を開拓できるし、既存の農地の水はけを良くして改良することもできる。先住の人びとにとって非常に有用であったことは疑いようがない。鉄製の武器・甲冑や中国鏡なども持ち込んでいるが、それらも先住の人びとにとって先進的なものと映っていたいたはずである。また、崇神期における纏向遺跡の最も重要なことは、前方後円墳が最初に誕生したことである。畿内の弥生時代には、副葬品を持つ墓はほとんどなく、大和で墓への大量副葬が始まるのは纏向遺跡以降である。中国鏡も金属器も纏向遺跡以降急増したが、北部九州では徐々に減り始めた。こうしたことから、②の北部九州から東遷してきた集団が大和の新たな支配者となったと考えることは自然と思われる。

 

 北部九州の卑弥呼の女王国連合は狗奴くな国(後の熊襲)との抗争に敗れてその南半分を占拠されてしまった。その後、帯方郡から派遣されてきた張政の後押しで台与が跡を継ぎ、しばらくの間は安定を得たようだが、265年の魏から晋への中国王朝の交代を受け、266年に張政は帯方郡に帰国し、台与の倭国連合はその後ろ盾を失ってしまった。帯方郡の後ろ盾なくして狗奴国には対抗できないと判断した伊都国と奴国を中心とした台与の倭国連合は、かつてから交流があり、その土地の事情をよく知っていた大和地方へ東遷したと考えられる。その東遷の中心人物が崇神であり、それは伊都国王難升米なしめあるいはその後継者であった可能性が最も高い。倭国連合のもう一つの有力国であった朝鮮半島南部の狗邪くや国(後の狗邪韓国・金官加耶)は、帯方郡の直轄地であったことから、中国における魏から晋への王朝交代に動揺していたはずである。しかし、帯方郡が無くなったわけではないので、張政帰国後の帯方郡の情勢を注意深く見守っていたと思われる。したがって、①の任那から来た辰王の血を引く狗邪国の王族の可能性は少ないといえる。


 ②の北部九州から東遷してきた集団が大和の新たな支配者となったとしても、台与の消息については未だ疑問が残る。もし台与が難升米あるいはその後継者とともに大和へ東遷したとすれば、卑弥呼や台与の何らかの伝承が記紀に残るべきと思うが、それがない。実権のない巫女女王であった彼女らは大和への東遷に関わりがなかったと思う。しかし、多少の伝承は残り、それが形を変えて記紀神話のアマテラスの世界へ組み入れられたのかもしれない。台与の死後、長田夏樹がいうように台与を含めた卑弥呼一族は豊国とよのくにの宇佐八幡宮(大分県宇佐市)、または宇佐八幡の古宮あるいは元宮といわれる同じ豊国の香春かわら神社(福岡県田川郡香春町)に宗教的権威として祀られたと考えられる。香春神社の祭神の一人である豊比咩とよひめは台与を連想させる。 

ここで、古代における豊国とよのくにの範囲を確認しておくと、豊国は現在の大分県と福岡県東部(田川市、北九州市、など)とを合わせた九州北東部にあたる。今の北九州市は豊国に含まれるが、宗像むなかた筑紫国つくしのくにの東端にあたる。


 難升米あるいはその後継者が東遷したと考えられるもう一つ重要な出土品がある。それは大和の東大寺山古墳出土の鉄剣(鉄刀)である。


[東大寺山古墳]

天理市にある東大寺山古墳は4世紀中葉の130メートルの前方後円墳で、そこからは漢中平□年の銘文がある鉄の大刀が出土している。刀身の長さは110センチ(四尺)で、日本刀とは逆の内反りになっている。この鉄刀は、刃側が度重なる研磨によって減じ、それによって内反りが大きくなったと考えられている。それは、100年~200年の伝世期間があったことの証明である。象嵌の「蹴り彫り」技術は古墳時代の朝鮮半島にも日本にもなく、後漢の技術である。また、その銘文が韻を踏んでおり、その書体は後漢や三国の時代の「鏡銘体」と共通している。これらのことから、この刀は中国の中原あるいはその文化が直接的に及ぶ地域で造られたと考えられる。それは倭国乱の時代の後漢の中平(184年~189年)のことであり、公孫氏を介して賜与されたと推測される。この中平銘の刀は本来あった環頭の部分が切り取られているが、元は素環頭であったと思われる。そこに日本の工人が青銅で家形の柄頭を作りつけた。この鉄刀が畿内で出土した事実をどう解釈すべきかは大きな謎である。

和邇わに氏の本拠地は天理市の和邇町と考えられており、その和邇町に最も近い場所に築かれたのが東大寺山古墳群であり、その中で最初に築かれたのが東大寺山古墳である。被葬者は初期ヤマト王権を支える有力者である和邇氏と考えられる。盗掘されていたが、棺外から20振り余りの刀と7振り以上の剣が出土しており、武器が多く副葬されている点に特色がある。東大寺山古墳から推測されることは、和邇氏は4世紀中葉までには大和へ進出していたという事実である。

魏志倭人伝に、「景初二年(238年)六月、倭の女王、大夫難升米なしめ等を遣わし(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、ひきい送りて京都けいと(洛陽)に詣らしむ。其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、吏を遣わして、汝の大夫難升米・次使都市牛利としごりを送り、汝の献ずる所の男生口四人・女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って至る」とあり、このときに、紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜っている。

東大寺山古墳出土の鉄剣(鉄刀)は、このときに下賜された「五尺刀二口」にあたる可能性が高いとの見解がある。もしそうであれば、伊都国王であった難升米に下賜された鉄剣(鉄刀)は難升米あるいはその後継者が伊都国から大和へ持ち込んだものとなる。

和邇氏の「ワニ」は古代朝鮮語で剣・刀あるいは鉄を意味するともいわれる。その出自は加耶の狗邪くや国で、伊都国王であった難升米あるいはその後継者が北部九州から東遷したときに一緒に来たと考えてもよいかもしれない。そのときの水先案内人は宗像むなかた勢である。彼らは海人あま族であり、組織化された水軍を持っていた。宗像は、アマテラスとスサノオが天の安河をはさんで誓約うけひをしたときにうまれた宗像三女神、タゴリヒメ(オキツシマヒメ)、タギツヒメ、イチキシマヒメ(サヨリビメ)を信奉する一族である。誓約うけひとは、あらかじめ決めたとおりの結果が出るか否かで吉凶や正邪を判断する占いである。古代において神意を問うため誓約うけひが広く行われていた。

宗像三神はニニギの天孫降臨のときに登場することから、その出現時期は、おそらく魏志倭人伝の女王国の時代(2世紀後葉~3世紀前半)、あるいは崇神の東遷の時代(3世紀後葉)と思われる。


宗像むなかた大社]

遠賀おんが郡宗像郷に鎮座している。沖ノ島(沖津宮・タゴリヒメ)、大島(中津宮・タギツヒメ)、玄海町田島(辺津へつ宮・イチキシマヒメ)にある三社よりなる。三宮は九州から朝鮮半島に向かって一直線に並ぶ。記紀の中で天照大神がスサノオとの誓約うけひをして子をなしたさいに生まれたのが宗像三神である。沖ノ島は航海の目印とされ崇敬を集めていた。宗像氏は海上交通・輸送を支配した海洋豪族であった。672年の壬申の乱のとき天武天皇の長子で全軍の指揮を取り勝利に導いた高市皇子たけちのみこ胸形むなかた徳膳とくぜんの娘が生んでいる。現在、辺津宮の境内に建てられた神宝館には4世紀後半から10世紀初頭にかけての遺物12万点の中の祭祀具・鏡・ガラス玉・金メッキされた指輪などが展示されている。さらに沖ノ島からは鉄鋌てってい、金銅製の馬具なども出土している。大和の外山とび村宮ノ谷に宗像神社がある。この神社は桜井(外山)茶臼山古墳の東方至近の地に鎮座する。ニギハヤヒの東遷伝承と深く関わっていると思われる。


海北道中うみきたのみちなか

日本書紀の一書に、ニニギの天孫の降臨を助けるため、アマテラスがその三人の娘(宗像三女神)を海北(朝鮮半島南部)と筑紫との間のいわゆる道中に降ろしたという。それは加羅国(加耶)から筑紫への道中である。このルートは、現在の釜山辺りから対馬を経て沖ノ島・大島を伝わり福岡県宗像郡の神湊付近に至る海路だと考えられている。これが玄界灘の沖ノ島・大島・宗像に現在祀られている宗像三社の縁起となっている。このような所伝から、天皇家の祖先とされる天孫が朝鮮半島南部から北部九州に渡来し、そこにまず日本における最初の拠点を置いたことが推定される。そして何代かの後さらに畿内に向って進出することになった。そのことが神武の東征伝説に反映している。このルートは古くから開かれていたと思われる。後漢書に、「委奴国、貢ぎを奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす」。建武中元二年(57年)に後漢光武帝は倭の奴の国王に金印を与えた。さらに、後漢安帝永初元年(107年)に「倭国王帥升すいしょう等、生口せいこう160人を献じて請見を願う」。これらの朝貢はこのルートを使って行われたと考えられる。


 伊都国王難升米なしめあるいはその後継者と推定される崇神すじんと、神武系豪族を含む畿内の先住の豪族たちを結んだものは何か?古くから交易を通じて交流のあった伊都国王難升米あるいはその後継者を大和に迎え入れたのは、記紀の歴代天皇によれば第9代開化であったことになる。もちろん、開化の時代には神武系豪族もすでに大和地方で土着化していたはずである。もう一人受け入れた可能性のある人物は、第6代考安のヤマトタラシヒコクニオシヒトの後裔である。後で述べるが、考安の和風諡号にある「タラシ」がヒントとなる。

当時の畿内には各地にいくつかの有力な豪族が割拠していた。神武系豪族もその中の一人であった。そこには当然、少なからず争いがあったにちがいない。有力な豪族たちは交易を通じて伊都国や奴国、さらに狗邪くや国(狗邪韓国・後の金官加耶)ともつながりがあったと考えられる。豪族たちは、新天地の開拓が課題となっていた北部九州勢と利害が一致し、彼らを3世紀後葉に受け入れることにより先進文化の受容と権威づけを行うことができた。その結果、近隣の瀬戸内東部・北陸・東海・紀伊などの地域の人びととの交易がさらに拡大し、奈良盆地の東南部に弥生時代後期の2世紀初頭ごろから開かれていた市場が、崇神の時代には「大市」に発展したと思われる。その大市のあった場所が奈良盆地東南部の纏向であり、崇神・垂仁の本拠地となった。崇神の三輪王権は原ヤマト国家と呼ばれる。崇神・垂仁の三輪王権と考安・考霊・孝元・開化と続いた先住の豪族たちは併存していたと考えられるので、先住の豪族たちの存在と名前だけは伝わったと思われる。


 弥生時代から古墳時代へと移行する過渡期となる3世紀後半には墳墓ばかりでなく、祭りも大きく変化した。近畿の銅鐸どうたくや北部九州と中国・四国地方を中心とした武器形祭器など、弥生時代の主要な祭器が姿を消してゆく。銅鐸は基本的に村の外の丘陵などに埋納された祭器で、墓には副葬されない。共同体の人びとの所有物であり、その祭祀に用いられたものである。矛・戈の形をした武器形の祭器も新しい段階では埋納品が中心となる。終焉の時期には地域差があるが、吉備の楯築たてつきのように個人の大型墓の発達と併行して共同体の祭器の使用をやめていったようである。北部九州と近畿といった異なる地域で異なる種類の祭器が概ね同時期に終焉を迎えるのは興味深い。それは北部九州勢の近畿地方への東進を暗示する。弥生時代から古墳時代にかけて、広い地域で祭りの方法や信仰のあり方が大きく変化したのである。前方後円墳の出現以降も特定の地域が主導権を握っていたとすれば、その祭祀方法を継承したはずであるが、その形跡は見られない。祭器の製作技術にも大きな違いがあるため、従来の製作工人もほとんど姿を消したと考えざるを得ない。また、小型の青銅器については、古墳時代に入ると墓の副葬品となり、集落遺跡からの出土は稀になる。青銅器の保有管理体制にも変化が生じたと考えられる。

弥生時代から古墳時代にかけての大変動の鍵を握る古墳が大和にある箸墓はしはか古墳である。大型古墳の中でも最古のものである。同時期、他の地域にこれほどの規模の古墳はない。この墳墓以降、大和や河内・和泉の地域で200メートルを超える大型前方後円墳が300年にわたり築かれてゆく。それは厖大な労働力を継続的に動員できる体制が成立したことを意味し、そこには確立した王権の存在をみることができる。


 江上波夫は、“夫餘ふよ族の一派が馬韓を統一して百済を建国し、その王となった場合のように、被征服民族がある程度の社会的・経済的発達を遂げていなければ統一ある種族や民族国家はできない。征服民族たるヤマト王権によって日本の国家が成立したについても、その準備が被征服民族たる倭人によってすでに出来上がっていたと見なければならないと思う。すなわち日本列島においても倭人の弥生式文化の時代に、相当広範な地方的な政治・社会圏・文化圏というものが成立していた。そうしてそれは農耕という経済上の基礎において発達したものに相違ない”、という。3世紀後半の近畿地方にはこのような準備が出来上がっていたのである。


 崇神の即位年は290年ごろで崩御年は318年というのが文献史的にも考古学的にも最も妥当とされ、台与の後を継いだのが崇神とすれば、266年から290年の間のどこかで、伊都国王であった難升米あるいはその後継者は北部九州から大和へ東遷したはずである。そのときには、倭国連合の有力国であった朝鮮半島南部の狗邪くや国(狗邪韓国・後の金官加耶)、東遷途上にある吉備・播磨・讃岐の勢力も加わっていたと思われる。岡山市の吉備津きびつ神社には、桃太郎伝説のもとといわれる崇神が派遣した四道将軍のひとりである吉備津彦の温羅うら退治の話が伝わる。温羅は加耶と推定される地から鉄器生産技術をもって渡来し、鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという伝承もある。6世紀前半の任那日本府に関する加耶諸国の史料によると、吉備臣が安羅あらにいた倭人集団の中心にいたことから、崇神以前に加耶諸国の安羅から吉備への移住があったと思われる。安羅は安羅加耶と呼ばれ、現在の韓国慶尚南道の金海きめの西方にある咸安はまんに比定されている。纏向遺跡の箸墓古墳における、吉備の影響の強さを考えると、加耶諸国の有力国であった狗邪くや国と安羅あら国も伊都国王であった難升米なしめあるいはその後継者による北部九州から大和への東遷に関わっていたと思えてくる。

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