第18話 神武東征と当時の大和地方

 2世紀から3世紀における大和地方の状況を確認する前に、まずは記紀に記されている歴代天皇の初代から第12代までを確認しておく。第12代の垂仁すいにんまでは、どこから来たのかは別にして、確実に奈良盆地、すなわち大和地方に本拠を置いたと考えられる。その中で特に有名なのが、初代の神武じんむと第10代の崇神すじんである。


記紀によれば、

 初代 神武じんむ:カムヤマトイワレヒコ(ワカミケヌ)、始馭天下天皇(はつくにしらす・すめらみこと)、大和橿原かしはら宮(磐余いわれの地)、いわゆる神武陵は7世紀に畝傍山うねびやま山麓にあったのは事実である。皇后は出雲系の事代主ことしろぬしの娘のタタラ・イスズヒメ(日本書紀)、大物主おおものぬしの娘のタタラ・イスケヨリヒメ(古事記)。その三男がカムヌナカワミミ(綏靖すいぜい)。

 第2代 綏靖すいぜい:カムヌナカワミミ、葛城かつらぎ高丘宮(奈良・御所市)、桃花鳥田丘上陵(奈良・橿原市)。皇后は事代主の娘のイスズヨリヒメ。

 第3代 安寧あんねい:シキツヒコタマテミ、片塩浮孔宮(大和高田市)、畝傍山西南御陰井上陵(奈良・橿原市)。皇后は出雲系の事代主の子孫のヌナソコ・カナツヒメ。父の綏靖すいぜい同様葛城系である。

 第4代 懿徳いとく:オオヤマトヒコスキトモ、軽曲峡宮(奈良・橿原市)、畝傍山南織沙渓上陵(奈良・橿原市)。皇后は姪のアマトヨツヒメ。葛城系を継承。

 第5代 考昭こうしょう:ミマツヒコカエシネ、葛城腋上宮(奈良・御所市)、腋上博多山上陵(奈良・御所市)。皇后はヨソタラシヒメ、尾張氏の祖とされるオキツヨソの妹。葛城系を継承し、尾張氏と提携。

 第6代 考安こうあん、ヤマトタラシヒコクニオシヒト、葛城室秋津島宮(奈良・御所市)、玉手丘陵(奈良・御所市)。皇后は兄で和邇わに氏の祖とされるアマタラシヒコの娘のオシヒメ。

 第7代 考霊こうれい:オオヤマトネコヒコフトニ、黒田盧戸いおと宮(奈良・磯城)、片丘馬坂陵(奈良・北葛城郡)。皇后はホソヒメ。四道将軍の一人(西海道)である吉備津彦は考霊の皇子で桃太郎のモデル。箸墓はしはかの倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は考霊あるいは考元の皇女の一人で、巫女であるとの説がある。ここから卑弥呼の墓説が出た。

 第8代 考元こうげん:オオヤマトネコヒコクニクル、軽境原宮(奈良・橿原市)、剣池嶋上陵(奈良・橿原市)。皇后はウツシコメ。稲荷山鉄剣の初代オホヒコ(大彦)は四道将軍の一人(北陸道)であり、孝元の皇子である。大彦の娘(ミマキヒメ)は崇神の皇后になった。また大彦の子の武淳川別たけぬなかわわけは四道将軍の一人(東海道)。崇神と争った武埴安彦たけはにやすひこは考元の皇子である。

 第9代 開化かいか:ワカヤマトネコヒコオオヒヒ、春日率川いざかわ宮、春日率川坂上陵。皇后は物部の租のオオヘソキの娘のイカガシコメ。皇子の彦坐ひこいます王は四道将軍の一人(丹波道)。

 第10代 崇神すじん:ミマキイリヒコイニエ、御肇国天皇(はつくにしらす・すめらみこと)、磯城しき瑞籬みずがき宮(三輪山西麓)、山辺道勾岡上陵(奈良・天理市)。皇后は大彦の娘ミマキヒメ。父は開化、母は物部氏のイカガシコメ。葛城王権に取って代わった三輪王権(イリ王権)の始祖といわれる。池を掘るなど土木工事により農業を発展させた。また、疫病を鎮めるため、オオタナネコを神主として三輪山に大物主おおものぬしを祀ったり、宮中で祀っていた天照大神あまてらすおおみかみを皇女の豊鋤入姫とよすきいりひめに託して宮外に祀らせたりした。オオタナネコは神君みわのきみ鴨君かものきみの祖先である。大物主の妻はヤマトトトヒモモソヒメ(大市に葬る、時の人、その墓を号けて箸墓はしはかという)。箸墓古墳造営時期は3世紀後葉から4世紀初頭。南山背の武埴安彦たけはにやすひことの戦に勝った後に四道将軍(北陸・東海・西海・丹波)を派遣、出雲には神宝検校の使を出した。畿内とその周辺、いわゆる銅鐸文化圏を征服・統治し、祭祀を統括した。実質的な初代天皇といわれる。最古の前方後円墳である箸墓古墳の伝承は崇神紀にある。磯城しきは崇神・垂仁・景行3代の大王の都と記紀に記される。箸墓は崇神天皇陵とする説もある。

 第11代 垂仁すいにん:イクメイリヒコイサチ、纏向まきむく珠城宮(奈良・桜井市)、菅原伏見東陵(奈良市)。最初の皇后はサホヒメで、叛乱を起こした兄と共に火中で自ら命を絶つ、次のヒバスヒメは第12代景行けいこう倭姫やまとひめの母。父は崇神、母は大彦の娘ミマキヒメ。垂仁は五大夫(阿部・和邇・中臣・物部・大伴)を動員し、近江・美濃を経て伊勢に進出し、この地に神宮を創祀して、皇女の倭姫やまとひめを伊勢神宮に仕えさせた。また、殉死の禁止と埴輪の埋葬を定めた。


 初代の神武は何者なのか?記紀によれば、九州に天孫降臨したニニギの曾孫にあたるワカミケヌ(神武・イワレヒコ)は大和へ東遷してヤマト王権の創建者となった。その時期は、崇神の9代前であり、後述する直木孝次郎の説をとって一代の平均在位年を12年と仮定すれば、崇神の時代の110年ほど前である。崇神の崩御年を318年とすれば神武の崩御年は紀元後210年ごろとなり、倭国乱(146年~189年)終結後の20年ほど後となる。その活躍時期は180年~210年とみるのが妥当と思われる。


 1~3世紀にかけての時代は、倭人の各地域では様々な物品の交流が活発化する。それまでは北部九州が中心であった漢の器物も、そうした地域間ネットワークを通じ、西日本の各地、近畿地方、そして東国の世界へと広まっていった。こうした交流において、新たに成長した各地の大規模集落が拠点となった。北部九州では、博多湾沿岸の比恵ひえ那珂なか遺跡群や博多はかた遺跡群、吉備きびでは津寺つでら遺跡、九州以外では、河内かわち久宝寺きゅうほうじ遺跡、伊勢の雲出川くもずがわ遺跡群、三河の鹿乗川かのりがわ遺跡群、その他、遠江、駿河、信州、房総、越など各地で交易の中心を担ったと考えられる大集落が確認されている。


 では、初代神武じんむが東征した2世紀後葉から、第10代崇神すじんが登場する3世紀後葉までの大和地方はどのような状況だったのかをみてみる。それはまさに北部九州における邪馬台国時代でもある。


 近畿地方の弥生中期(BC2世紀~1世紀)までの拠点集落は弥生後期(2世紀~3世紀)に入ると存続しないものが多い。河内の池上曽根いけがみそね遺跡が代表例である。約500年間にわたって居住してきた拠点集落の廃絶には、極めて大きな強制力が作用したはずである。銅鐸どうたくの埋納はこれと連動する。それぞれの地域で高地性集落が一時的に現れることから、それは他の勢力による武力的圧力をかけての覇権行為があったからとみられる。しかし、多くの地域で拠点集落が解体するなかで、河内中部や大和南部の拠点集落は存続する。河内の亀井かめい遺跡や大和の唐古からこかぎ遺跡が代表例である。

 ここで確認しておくが、古代の河内かわちは今の大阪府全体に兵庫県の神戸や西宮など大阪湾沿岸部を加えた地域に相当する。また、当時は河内湖と呼ばれる大きな湖が難波から生駒山地のふもとまで達していた。今の摂津や和泉という地方名は律令制度ができた8世紀になってから河内から分割されて定められた。したがって、古代における河内は大阪湾沿岸部と大阪平野全域にあたる地域であり、古代史では西の河内、東の大和という表現が多く見受けられる。


 大和の唐古からこかぎ遺跡の最盛期は弥生時代中期であり、径500メートルの環濠を持ち、木器・青銅器・石器製作の工房がある。そこで出土した弥生中期中ごろ(BC1世紀)の北部九州の須玖すぐ式の土器片は遠隔地との交流を示している。青銅器鋳造(銅鐸文化)のピークは弥生中期末(1世紀後葉)から後期初頭(2世紀初頭)にあり、土製鋳型外枠を利用していた。この遺跡を特徴付けるのは弥生土器に線刻で建物・人物・動物などを描いた絵画土器である。しかし、弥生時代後期になり、その東南5キロにある纏向まきむく遺跡が発生すると、衰退に転じた。

 大阪平野の池上曽根いけがみそね遺跡は弥生時代の初めから村全体を囲む環濠集落である。そこでは弥生中期末から後期初めに濠を埋めてしまっているが、大和の唐古からこかぎ遺跡では弥生後期の最後まで濠を掘りなおしている。しかし、弥生後期(2世紀~3世紀)の畿内の拠点集落での鉄器出土量は少なく、吉備・出雲・丹後のような大型墳丘墓もない。大和地方において2世紀末までは先進文化の恩恵や影響はなかったようである。しかし、弥生時代の集落を囲む環濠が埋められたり、銅鐸が埋められたりするのと入れ替わりに、突然というように2世紀末~3世紀初頭に大和の纏向まきむく遺跡は出現している。この時期に纏向遺跡に進出したのは誰か?210年ごろが神武の崩年とすれば、その活躍時期(180年~210年)から推して、それはまさに神武東征の時期と重なる。


[青銅器文化]

日本列島における本格的な青銅器文化は、弥生中期初頭(BC2世紀初頭)に始まった。北部九州では弥生中期初頭に朝鮮半島から武器型青銅器を受容した。銅鐸は当初から祭器として登場した。銅鐸は北部九州の武器型青銅器とは異なる祭器を求めた山陰から北陸・近畿、そして東海に及ぶ広域に広がった。この二つの潮流は青銅器出現当初から形成された。青銅器は鎔かした金属を鋳型に流し込んで作る鋳造品で、鋳型には石製と土製の2種類がある。遺跡からは石製鋳型と、粘土で鋳型の形を作って焼き上げた土製の鋳型外枠が出土する。銅鐸の鋳型は石製から土製鋳型外枠へと変化していく。近畿地方は当初から祭祀としての銅鐸、北部九州地方では銅剣・銅矛・銅鏡を青銅器祭器として尊重した。しかし、南九州に青銅器はほとんど存在しない。南九州は青銅の神を仰ぐことのない独自の弥生文化であった。


 倭国乱(146年~189年、あるいは178年~184年)の時代に、瀬戸内地方や近畿地方の地域共同体が使用していた銅矛・銅鐸などの青銅祭器が消滅して、西日本は北部九州で尊重された銅鏡を最高の威信財とする体制となった。それを裏付けるように、鏡を副葬する風習が北部九州以外でも見られるようになった。北部九州では大乱の痕跡がない。倭国乱の象徴ともされる防御のための高地性集落は、北部九州には少ない。また、北部九州の伊都いと国・国の遺跡群は古墳時代前期(3世紀後葉~4世紀)になっても継続繁栄するするのに対して、近畿地方で弥生時代の大集落といわれている大和の唐古からこかぎ遺跡や河内の池上曽根いけがみそね遺跡などは終焉を迎え、倭国乱は近畿地方で終息した。そして、2世紀末~3世紀初頭に突然出現するのが大和地方の纏向まきむく遺跡である。それはまさに神武の時代であり、それが神武東遷伝承となったと考えられる。

こうした事実から、倭国乱の首謀者は北部九州勢である可能性は大きいといえるが、記紀における神武の東征伝説には狗奴くな国の影響が強かった南九州の要素が少なくないことから、南九州勢も加わっていた可能性は高い。 


 弥生時代の東日本の鉄器化の状況について村上恭通(愛媛大学教授)は、“近畿から関東にかけての地域では、武器や農具の鉄器化は弥生時代には実現しなかった。唯一の鍛冶かじ工房は弥生終末期(3世紀後葉)の愛知県豊田市の遺跡のみである。しかし、この地域では銅鐸に代表される青銅器が生産されていた。鉄器は実用品で再生不可能、青銅器は祭器で再生可能ということから、鉄素材の入手に関係がなかった、または関与できなかったことが理由と思われる。倭国の銅の鋳造技術は中国の遼寧りょうねい地域で生産された羽口はぐちである折れ羽口と共通している。また、羽口先端付近に付加される馬頭の造形が熊本市の遺跡出土にも見とめられる。遼寧青銅器文化が朝鮮半島経由で弥生青銅器文化へと継承された可能性は高い。3世紀のやじりの出土状況を概観すると、西(九州・山陰・越・瀬戸内西部)の鉄やじり、東(瀬戸内東部・近畿・東海)の銅やじりの様相を呈している”と述べている。 

当時の近畿地方は銅鐸と呼ばれる祭祀用の青銅器を珍重していた時代である。青銅器は農耕・土木の工具には不向きである。近畿や東海、関東沿岸地域では、鉄素材の入手はままならず、鉄器の利用はほとんどできず、祭祀用の青銅器はあったとはいえ、人びとの生活はまだ石器時代に等しい状況にあった。


鋳造鉄斧の分析により弥生時代後期(2世紀~3世紀)の鉄器伝播ルートが解明されている。


① 鋳造鉄斧の上面に縦方向の隆起線がない。

加耶 -> 対馬下県しもあがた厳原いずはら -> 壱岐 -> 玄界灘 -> 北部九州(末盧国・伊都国・奴国)

② 鋳造鉄斧の上面に縦方向の隆起線がある。

加耶 -> 対馬上県かみあがた比田勝ひたかつ -> 沖ノ島 -> 北部九州の鐘崎・宗像地域 (日本書紀にある海北道中のルート) -> 山陰 ->瀬戸内 -> 近畿


この時期の近畿地方への鉄器の流入は、山陰から山陽を経て近畿地方へというルートであり、大和地方での鉄器の乏しさが理解できる。


 弥生時代の北部九州と大和地方はどんな時代だったのか、その実像をみるため弥生時代の代表的な二つの遺跡、北部九州の吉野ヶ里よしのがり遺跡と大和の唐古からこかぎ遺跡を比較してその違いを確認しておく。


             吉野ヶ里(筑後)    唐古・鍵(奈良盆地中央)

BC500年ごろ     

(弥生前期初頭)  板付Ⅰ式土器・松菊里文化     ---

          の三角形石包丁。

BC5世紀~BC4世紀前半

(弥生前期前半)  小規模な集落からは松菊里型  稲作農耕技術を持った人に

          竪穴住居・貯蔵穴。      より集落が成立。

BC4世紀後半~BC3世紀

(弥生前期後半)  本格的な環濠集落       大型建物(80平米)の出現

          土器は縄文晩期の夜臼式土器  木棺墓の人骨は長身面長の

          大陸系磨製石器        大陸系の人。

          縄文の剥片石器

          青銅器鋳造の開始。

BC2世紀~BC1世紀前半

(弥生中期前半)  環濠集落の大型化       弥生中期前葉には大環濠の

          貯蔵穴群・高床式建物     掘削により巨大集落として

          磨製石器全盛期、銅剣や    成立。

          銅矛の鋳型や鉱滓、錫塊

          佐賀地域では銅剣・銅矛・

          銅戈・銅鐸などの鋳型、

          人骨(石鏃が突刺さった・

          頭骨のない・刀傷など)

          墳丘墓の築造、墳丘墓の甕棺

          は身分の高い男性。

BC1世紀後半~1世紀

(弥生中期後半)  青銅器生産の主力は福岡県   弥生中期末~後期初頭の

          春日市の須玖遺跡へ移動、   青銅器鋳造工房が存在、

          小型の漢鏡・イモガイ製の   多数の絵画土器が出土。

          腕輪の女性・絹の布片、

          大形・中型の銅鏡は北部九州

          の須玖岡本遺跡など、

          鉄刀子・鋳造鉄斧の破片を

          加工したのみなどの鉄製品、

          弥生中期末~後期初頭の

          青銅器鋳造工房が存在、

          多数の絵画土器が出土。

2世紀 

(弥生後期前半)  隅丸長方形の竪穴住居     洪水による堆積と環濠集落

          ・高床倉庫・高床式の祭殿、  の再建発展、

          物見やぐら・高床式の住居   この時期の弥生土器   

          ・共同炊事場。        の消費量は膨大。

3世紀

(弥生後期後半)  大規模環濠集落へと発展、   多量の土器の投棄により

          環濠内に内濠が掘られた    大半の環濠は埋没、

          内部に様々な施設、大型の   環濠内部の青銅器工房跡に

          竪穴住居・長大な建物、    方形周溝墓が造営、   

          終末期には、交易のための   小型板状鉄斧は出土したが

          高床倉庫と考えられる100基   鉄器はごくわずか、

          以上の掘立柱建物群。     環濠は消滅したが規模を

          3世紀後半になると外環濠や   縮小したムラは存在。 

          内濠はほぼ埋没、

          弥生時代の終わり、古墳時代

          の到来とともに集落は消滅。


 この二つの「ムラ」の成立は1世紀ほどの違いしかないが、青銅器の導入はBC3世紀とBC1世紀と、200年ほどの違いがある。同様に、鉄器も1世紀と3世紀と、200年ほどの違いが出ている。しかも、鉄器の場合その出土数の違いは桁違いである。北部九州において鍛冶工房が明瞭な形で現れたのは弥生中期末葉(1世紀後半)である。国を支えた須玖岡本すぐおかもと遺跡群には青銅器・ガラスも含めた生産基地があり、鉄器生産も鉄戈をはじめとする長大な武器類、多種多様な農機具を生産していたとみられる。王権による鉄戈を含む鉄製武器の生産としては日本列島で最初の例である。このように1世紀の終わりの段階における北部九州と大和地方の先進性の違いは非常に大きなものがある。近畿地方にはもう一つ弥生時代を代表する拠点集落として南河内に池上曽根遺跡がある。池上曽根遺跡も唐古・鍵遺跡とほぼ同様の成立から消滅までの経緯をたどっていることから、弥生時代において近畿地方全域で同じような状況であったと思われる。


 神武東征の物語の舞台である瀬戸内海・近畿では高地性集落遺跡が次々と発見されている。これらの遺跡は機能からいえば、弥生時代の山城のようである。倭国乱の象徴ともされる防御のための高地性集落は標高200~300メートルの山頂や急斜面に立地することも少なくなく、石製武器が多量に出土することが多い。 

神武の東遷は、九州や山陰地方で鉄の農具の普及が進み農業生産力が増大し、人口も急激に増加したため、鉄の武器と農具をたずさえて、新天地を求めて九州のいくつかの小集団が瀬戸内地方や近畿地方に進出した中の一集団であって、神武の時代に大和地方(奈良盆地)全体を征服したわけではない。まだ先住の人びとと共存していた時代である。


古事記の神武(イワレヒコ)東征伝承はおおよそ次のように記されている。

日向ひゅうがを出発し、とよ宇佐うさに到る途中、速吸之門はやすいのと(豊予海峡)においてウズ彦に遭遇している。ウズ彦は後の倭直やまとのあたいの始祖であり、本来、豊後ぶんご海部かいふ郡の海上交通の技術集団であった。宇佐に寄港した後、筑紫つくし岡田おかだ宮または遠賀おかに一年、多祁理たけり宮、または安芸あきに7年、吉備きび高島たかしま宮に8年などにあらわれ、長い場合は寄港地に8年も滞在した。宇佐では土地の豪族であるウサツヒコとウサツヒメが一柱騰宮あしひとつあがりのみや(壁を持たない一柱の建物)を建て、イワレヒコを饗応した。次に船団は西に向かい、関門海峡を通って響灘に出て、玄界灘沿岸の東部地域の遠賀川おんががわ河口のおかにわざわざ寄り道している。

吉備の高島で最後の準備を整え、大和の攻略に向かったイワレヒコの軍勢が、最初にナガスネヒコの軍勢と戦うのは、生駒山の西のふもとのクサカ(草香:現在の東大阪市日下町)である。当時は河内湖と呼ばれる大きな湖が難波から生駒山地のふもとまで達していた。古事記では、ナニワ(浪速=難波)の渡しを経てさらに急流を遡って船で進み、ナガスネヒコの軍勢と遭遇したとき、船に積んでいた楯を取り出したので、その地を楯津たてつと呼んだという。クサカでイワレヒコの軍勢は敗北を喫し、イワレヒコの兄、イツセノミコト(五瀬命)が深手を負った。このときイワレヒコは「日神の子である我らが日に向かって戦うから負けたのだ」と言って、日を背に負って戦うべく、大阪湾を南下して熊野に向かった。イツセノミコトは紀淡海峡を南下する途中で死んだ。紀伊国名草郡の竃山かめやまに葬ったとある。律令時代には守戸を設け管理されていた。和歌山市の井辺いんべ八幡山古墳には顔面に入墨をし、ふんどし姿の力士や武人の埴輪があり、隼人はやとの習俗との関係が考えられる。

名草郡を経て、イワレヒコの船団は熊野に向かっている。熊野では丹敷浦にしきうら(現在の三重県紀勢町錦)で高倉下たかくらじの支援を得て、丹敷戸畔にしきとべを誅殺している。丹敷浦での戦いの後、イワレヒコの軍勢は船を捨てて、険しい山道を徒歩で行く軍勢に変身している。熊野での物語が少しあって、その後吉野川の河尻(宇智郡)に到達している。吉野川が紀ノ川となるあたりは大和国宇智郡で隼人とのかかわりが深い土地である。紀ノ川は水運の発達したところで、川を遡れば船を利用したままで南大和まで到達することができる。

イワレヒコは大和入りにさいして、まず、南九州勢力の分住していた地域に入っている。吉野川を遡った五条市には阿太比売あたひめ神社がある。主神はコノハナサクヤヒメで、イワレヒコの祖母にあたる。イワレヒコの軍勢が熊野で苦難に遭遇したとき、ヤタガラス(八咫烏)が先導して、河尻(宇智郡)に到った。815年に成立した「新撰姓氏録しんせんしょうじろく」では、これはカモ氏の祖がカラスに化けて先導したとしている。宇智郡と境を接する葛城にいたカモ氏ならばイワレヒコを宇智郡に案内するのに最適である。

宇智からは吉野を経て奈良盆地の東南の山地であるウダ(宇陀)に入った。ウダでは、エウカシ(兄)・オトウカシ(弟)が在地の支配者であった。兄はイワレヒコに反抗した。このときのイワレヒコ側の武将は、大伴連の祖・道臣命みちおみのみことと、久米直の祖・大久米命おおくめのみことの二人であった。大久米は目の周りに入墨をしていた。久米集団は熊本県人吉盆地の球磨くま郡出身と言われ、クマソであり、邪馬台国と対立した狗奴くな国の有力候補である。この久米集団がウダでの戦いで活躍した。この戦いの後、弟は牛酒ししを用意してイワレヒコの軍勢をねぎらった。牛酒ししとは濃縮牛乳のことと思われる。ウダでの戦いのとき、イワレヒコ側にシイネツヒコ(ウズ彦)に率いられた女軍があらわれている。瀬戸内海の海賊には女子も戦闘要員として参加していた例にあるように、イワレヒコの軍隊は基本的には水軍であるので、女軍があっても不思議ではない。

イワレヒコは大和の南部を制圧した後、忍坂の大室のヤソタケル(八十建)、磯城しきのエシキなどの豪族を討ち、クサカで大敗したナガスネヒコと雌雄を決する戦いに入ったが、ナガスネヒコの妹と結婚していたニギハヤヒが離反し、ナガスネヒコは簡単に敗北した。ニギハヤヒの子がウマシマデであり、この父子は物部もののべ氏の祖である。ニギハヤヒは九州から天磐船あまのいわふねに乗って移住してきた天神てんじんの子である。イワレヒコとナガスネヒコとのやりとりで、「本当に天神の子であれば、それを証明する表物しるしものがあるだろう」というくだりがあり、矢とその入れ物のゆきを見せて、それらが同じ種類の物で同族であることを確認している。この結果、イワレヒコは大和の主要部を平定し、畝傍山うねびやまの東南にあたる橿原かしはらに都をひらいた。」



 水野祐は、“神武東征の初めの部分の日向から来たというのは、非常に簡単である。地名と年代しか書いていない。ところが大和を統一した征服伝説は非常に綿密に書いてある。だからその部分は、神武天皇というものを除外して考えたとしても、大和に起こった勢力が大和を統一していく物語というのは案外古くから部分的に存在したもので、それを後で神武天皇という初代の英雄に結びつけて、全体をつくったものだろう。つまり磯城しきを平定した話とか、吉野を平定した話とか、あるいは熊野を平定した話とかが部分的に存在していて、それが後に神武天皇の事蹟として集約されたものではないかと考える”と述べている。


 初代神武の東征伝承は、倭国乱が終息した直後に大和地方に突然出現する纏向まきむく遺跡の年代である2世紀末~3世紀初頭に九州勢が東進してきたという伝承を反映していると考えられる。記紀は8世紀初頭の成立なので、この伝承はそのまま信じることはできないが、これに近い古い伝承がいくつか大和地方に残されていた可能性はあったと思う。

神武(イワレヒコ)は畝傍山うねびやまの東南にあたる橿原かしはらに都をひらいたと伝えられている。その地は纏向まきむく遺跡の南にあたる。纏向遺跡から弧帯文こたいもんと呼ばれる直線と曲線を組み合わせた文様を付けた呪具が出土している。これは吉備の楯築たてつき古墳の特殊器台に付けられた文様で、それが纏向に持ち込まれていることから、神武東征には吉備を含む東瀬戸内の集団も絡んでいると推測される。それは古事記の神武東征伝承に、吉備の高島たかしま宮に8年滞在したと記されていることからも裏付けられる。

 

 近畿地方の多くの地域で弥生時代の拠点集落が解体するなかで、中河内や大和南部の拠点集落は存続する。河内の亀井遺跡や大和の唐古・鍵遺跡が代表例である。しかし、弥生後期(2世紀~3世紀)の畿内の拠点集落での鉄器出土量はごくわずかであり、吉備・出雲・丹後のような大型墳丘墓もない。神武が都を開いたといわれている橿原は大和地方の小集落の一つに過ぎないと思われる。神武東征とは、征服ではなく、単なる小規模な移住集団の出来事であったと考えられる。



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