第17話 三韓と倭・加耶、および辰王
「
漢の高祖
朝鮮王位は衛満、その子、その孫の
朝鮮半島北部の漢の郡県統治時代、南部には三つの部落集団、馬韓・辰韓(秦韓)・弁韓があった。馬韓が最も大きく三韓の盟主とされていた。辰韓(秦韓)は主に中国の秦からの難民の部落であった。三韓の時代(紀元~3世紀)は、完全な鉄器時代で、前段階からの青銅器は消滅し、鍛造鉄器などが中心であった。
220年に後漢の後を継いだ
馬韓の地は近世に穀倉地帯と呼ばれるほど農耕に適した気候・風土である。一方、辰韓・弁韓の地には太白山脈と小白山脈に囲まれ、さらに両山脈の支脈が縦横に走っている。その上、中央を流れる洛東江は海抜がきわめて低く、その傾斜度は、河口から120キロで8メートル、300キロ上流で80メートルである。この傾斜度のゆるさは流域の排水を遅らせることになり、その河岸の沖積平野が近代まで農耕地として利用できなかった理由でもある。もう一つの特色は盆地や山間が多いことである。
三韓地方は
魏志韓伝には、
「その風俗は法規が少なく、国や村には首長がいるけれども、村人と一緒に住み、充分支配することができない。ひざまずいて敬礼する作法さえない。しかし、その国が危急な場合には、首長の命令で国の集会所に集まり、城郭を築くなどのことをする」
「毎年五月に種まきが終わると神を祭る。このとき村人が総出で歌や舞をまい酒を飲む。昼夜休みなく数十人が交互に舞い、調子を合わせて、あるいは高く、あるいは低く活発に踊り、その音楽の節は中国の民間舞踊である
これに対して高句麗や濊などは十月の収穫祭だけしか伝えていない。高句麗は山谷が多く、良田があってもそれだけでは生活のできない半農半狩で、韓族の農耕生産を主体とするものと祭祀の方法も異なっている。韓族は鬼神を信じており、国や村にはそれぞれ天神を祭る人がいて、天君といわれている。
また、高句麗の北にある夫餘伝には、「夫餘の古い習慣では天候が不順で穀物が実らないと、その責任は王にあるといい、あるいは退位させられ、あるいは殺害された」とある。
魏志東夷伝の支配関係記事は夫餘・高句麗と韓族とでは対照的である。夫餘では国王のもとに六加(地方に勢力を持つ中央貴族)がいて、村落には豪民と
これに対して韓族は帯方郡から与えられる称号には差異があっても、国内や村落内部での階級的な差異は描き出されていない。弁韓伝では、「その風俗では道行く人があうとき皆互いに道を譲る」とあって身分の上下による対応を示していない。このような韓族の政治制度や社会秩序からすれば、3世紀の韓族社会はまだ権力支配を知らない農村共同体の社会であったと思われる
第10話「倭国王の誕生」で述べたように、三韓の中では馬韓が最も強大で、三韓はともに馬韓の種族を立てて辰王とし、三韓の地を
辰韓は馬韓の東の日本海側にある。辰韓の伝承として、秦人が逃げて朝鮮半島南部におもむき、馬韓が東界の土地を割いてこれに与えたとある。城柵があり、言語は馬韓と異なり、秦人に似ている。そのために、名付けて秦韓となすという記述もある。秦人とは、中国の秦漢文化を受けた
弁韓(弁辰)もまた12国で、また多くの小さな別邑があり、そのそれぞれに「
弁辰(弁韓)の南の海峡に面したところに倭があった。また、辰韓人の男女は倭に近く、また文身しているとあるので、朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)・辰韓・倭は言語も風俗も近かったことになる。
これらのことから、3世紀において弁韓(弁辰)・辰韓・倭は一つの民族に近く、馬韓はそれと少し異なる存在ということになる。しかし、支配者層の出自はみな馬韓出身の夫餘族と思われる。また、朝鮮半島の南部には三韓時代(紀元前後~3世紀)以前に、辰国と呼ばれる国があったが、その国は馬韓の勢力が拡大したために、分裂して馬韓・辰韓・弁韓に分かれたと解釈できる。
後の加耶諸国の母体である弁韓(弁辰)12国とは、弥離弥凍・接塗・古資弥凍・古淳是・半路・弥鳥邪馬・甘露・狗邪・定漕馬・安邪・瀆盧の11国と、不斯か弁楽奴か弁軍弥かのうちのどれか一国である。ここに
加耶諸国の国名について、三国史記では、236年以前において加耶・南加耶・押督・比只・多伐・草八・浦上八国・骨伐。
また、三国史記の他の記述では、比斯伐・南加羅(金官国)・阿尺良(阿那加耶)・太良・達句火(卓淳)・大加耶(高霊)・任那加良、と記載されている。
これらの連合体が加耶の総称となり、
日本書紀に記された任那十国として最後まで残ったものは、安羅(咸安)・加羅(高霊)・斯二岐(新反里)・多羅(陝川)・卒麻(生林面馬沙里)・固嗟(固城)・巳伊(居昌)・散半下(草渓)・乞飡(昌原)・稔礼(渭川面)などが知られている。
加耶諸国の名はその時期や史書により異なるが、魏志韓伝に記される弁韓(弁辰)12国とその中の1国である
馬韓を統一した百済王は、北魏の孝文帝に上表した文中に「臣は高句麗とともに、源
江上波夫は、“夫餘系といわれる高句麗が313年に楽浪郡を占領し、続いて帯方郡を滅ぼして朝鮮半島北部を支配する体制を固めた。他方、同じ夫餘系の別枝が朝鮮半島を南下して、そこにあった馬韓・弁韓・辰韓の大半を支配し、馬韓の一部落国家に都して辰王国を創った。続いて、華北の晋が316年に滅んで、その王朝が江南に遷って東晋を興すころになると、馬韓の諸部落50余国が統一されて、辰王朝の一王家を戴いた百済が346年に創建された。同じころの4世紀初頭、辰王朝の本家と考えられる王家が弁韓(弁辰)に遷って、そこに任那加羅(王家の土地の加羅の意)といわれる新辰王国を創った。ここには韓人ばかりでなく、倭人も早くから住んでおり、その
鈴木武樹は、辰王が弁韓につくった国は、その発音から月羅(ta-r-ra)、
日本書紀にあるオホタラシヒコ(景行)とオホタラシヒメ(神功皇后:記紀ではオキナガタラシヒメ)は「タラ」族である。オホタラシヒメは宇佐神宮の「託宣集」本来の呼び名である。つまり、江上波夫や長田夏樹の説に従えば、ツングース族に属する夫餘・高句麗の一派で「
朝鮮半島における三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓、そして倭)は紀元前後から3世紀まで、三国時代(高句麗・百済・新羅、そして加耶)は4世紀から7世紀までとなる。三韓時代の倭、三国時代の加耶は往々にして無視されているようである。その理由は次の三つにあると考えられる。
1)朝鮮において古文献が残っていないことに起因する。最も古い朝鮮の歴史書は、
2)新羅より前に繁栄していた加耶諸国の歴史を新羅が自分の歴史に取り込んでしまったことである。つまり、三国史記には、加耶諸国の建国伝説やその統治形態や風俗は描かれていないし、新羅による金官国の併合(532年)、大加耶の滅亡(562年)、統一新羅の成立(676年)へ至る過程もすべて新羅からの視点になっている。
3)唐・新羅の連合軍による百済滅亡(660年)、白村江の敗戦と筑紫君の捕囚(663年)、高句麗滅亡(668年)そして新羅が朝鮮半島を統一(676年)と続いたなかで倭・韓連合(日本列島の倭国と朝鮮半島の加耶諸国)が完全に崩壊してから古事記(712年)・日本書紀(720年)が編纂されたため、その時の天皇である
日本の古代史を難しくしているのは、朝鮮・日本両国において、三韓時代の倭、三国時代の加耶の歴史がしっかりとした形で残らなかったこの三つの要因が大きいと思われる。
266年から413年まで中国の文献に倭に関する記事がないということで「謎の4世紀」と呼ばれているが、朝鮮史料の「三国史記」「三国遺事」「広開土王碑文」には多くの記載があると鈴木武樹は指摘している。
鈴木武樹は、“日本書紀や古事記の謎というのは、実は、その大部分が、朝鮮半島諸国と倭国との間の、多くは一方的な、交流の関係を巧みに消してしまったことに由来するのだから、「三国史記」や「三国遺事」と合致する記事は、抹殺された倭と朝鮮半島諸国との関係を復元するのに不可欠なものなのである。だから、それらの記事を捨てて顧みないのは、日本書紀にだけただひたすら頼ってこしらえあげた幻想をこわしたくないという国史学者の
鈴木武樹(元明治大学教授)の専門は独文学であるが、日本の記紀や、中国や朝鮮の古文献にも精通し、「東アジアの古代文化を考える会」の初代事務局長(会長は江上波夫)として、東アジアからの視点、特に朝鮮諸国との関係から日本古代史を分析し、多くの問題提起を行っている。
「
1145年に完成、全50巻。 高麗17代王仁宗の命によって
三国史記の倭関係記事は新羅と倭との関係が詳しく出てくるが倭による来襲記事が圧倒的に多い。百済と倭との関係はごくわずかで、しかも397年から428年までの約30年間の全部で7か所であり、倭と高句麗との関係はゼロで非常に偏っている。その紀年によれば、紀元前から500年までで、その後は7世紀末まで空白となっており、その次に出てくるときは「日本」となっている。
鈴木武樹は、“三国史記は、史料としてはかなり限界のあるもので、そこに書かれている古代のことをそのまま信じることはできないが、1971年7月に発掘された百済の武寧王の墓誌銘が記すこの王の没年(523年5月)と「三国史記」のそれとは完全に一致することからして、この書物の少なくともその時代以降の記事には相当の、少なくとも「日本書紀」のそれよりは、信憑性があるとみられる。百済・新羅が歴史時代に入るのは遅くとも4世紀後半とされるので、「三国史記」の記述もそのあたりから信頼度が高まると考えられる。しかも、この書物には「日本書紀」など日本の文献を採用した形跡は皆無であるから、古事記・日本書紀その他の日本側史料と三国史記・三国遺事とを対比した場合に得られる両者に共通する記事は、史実を記録したものである可能性がきわめて強い。三国史記を史料として用いるにさいしては、特に新羅・百済の4世紀前半以前の部分に関しては、十分に史料批判をすることが望ましい。しかし、6世紀前半以前について同じことが言える記紀に比べれば、三国史記ははるかに信頼するにたる文献である”、という。
「
1280年に高麗の僧、
「百済三書(
ヤマト王権に亡命した百済人が提出した百済系の史書。これら三つの百済の歴史書は現在失われており、その中身を知ることはできない。百済記と百済本記は共通した性格をもち、その主張は百済がヤマト王権の支援のもとで加羅地方を支配し、この地方に侵入している新羅勢力を駆逐するのが正しいあり方であるとしている。このような主張は6世紀初頭の新羅の拡大以後、百済が終始持ち続けたもので、特にヤマト王権との関係を強調したのは
さて、朝鮮半島における三韓(馬韓・辰韓・弁韓(弁辰))と、倭や加耶そして辰王について理解を深めたところで、卑弥呼・台与の後の日本列島、特に北部九州と大和地方の様子を比較してみる。いよいよ記紀に記された初代
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