第17話 三韓と倭・加耶、および辰王

史記しきの朝鮮列伝」に記載されたBC2世紀ごろの朝鮮情勢によると、朝鮮はかって中国戦国時代(BC470年~BC221年)の七国の一つえんの支配下にあった。しかし、しんが燕を滅ぼしてからは、朝鮮は国境外の地となった。ついでかんが秦を滅ぼしたが、ハイ水(鴨緑江おうりょくこうの南で、平壌ぴょんやんがある大同江だいどうこうの北)までを遼東郡の支配地として、その南にある朝鮮は支配外のままだった。 


 漢の高祖劉邦りゅうほうのとき、燕人の衛満えいまんは漢の中の燕王蘆綰ろわんに仕えていたが、BC195年に蘆綰が匈奴に亡命し、燕国が漢と対立して瓦解した後、満は徒党を率いて東走し、えんせいからの亡命者たちを従えて王となり、王険城(平壌ぴょんやん)に都した。真番しんぱん臨屯りんとんは衛氏朝鮮に服属した。このときに沃沮よくそわいも服属したと思われる。そして、BC194年に衛氏えいし朝鮮を称した。漢の高祖のあとを継いだ呂后ろごうと二代目の恵帝のとき、遼東太守は衛満を外臣となし、塞外さいがい(長城の北側)の蛮夷を抑えて辺境を侵盗させないこと、蛮夷の君長で入朝を願うものを阻止しないことを誓約させた。漢は朝鮮の王を臣属させる見返りとして武器を与え、国境の保全と周辺民族の統制を企図した。衛氏朝鮮は亡命漢人と土着豪族とから構成された政権であり、前漢王朝の外臣として存続した。BC128年に衛氏朝鮮に服属していた濊族が漢に降り、漢の武帝はその地に蒼海そうかい郡を設置した。この蒼海郡の位置は明確ではないが朝鮮半島東北部と推定される。しかし、わずか2年で廃止され、武帝による最初の朝鮮半島進出は失敗に終わった。衛氏朝鮮時代には燕の鉄器文化とともに木槨墓が流入してきた。しかし、衛氏朝鮮では燕系の文化要素と青銅器時代以来形成されてきた在地の文化要素を融合させた非漢式文化要素が極めて濃厚であった。さらに、BC108年に武帝により楽浪郡が設置された後も、これら非漢式文化が継承され、漢文化と融合して楽浪文化が形成されていったものと考えられる。


 朝鮮王位は衛満、その子、その孫の右渠うきょに引き継がれた。満の孫、右渠の時代になると、漢からの亡命者が次第に多くなった。右渠は漢に朝貢しないばかりか、真番周辺の諸国が漢に朝貢するのを妨げた。そこでBC109年の漢は右渠と戦い、翌年のBC108年に衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされた。武帝は朝鮮北部に漢四郡、楽浪らくろう玄菟げんと臨屯りんとん真番しんぱんを置き、その下に多くの県を置いた。これによって衛氏朝鮮と濊の故地は漢の郡県支配に組み込まれた。王険(平壌)城陥落後、その地に楽浪郡が置かれ、以後313年までの420年間、中国の朝鮮半島支配の拠点として存続した。この郡県統治により、朝鮮半島南部の三韓や日本列島の倭が漢文明と接触する大きな契機となり、漢の先進文化が広まった。また、朝鮮半島南部の一部には北方人と南の土着人と雑居した移民社会ができた、さらに済州島にも影響を与えていた。

朝鮮半島北部の漢の郡県統治時代、南部には三つの部落集団、馬韓・辰韓(秦韓)・弁韓があった。馬韓が最も大きく三韓の盟主とされていた。辰韓(秦韓)は主に中国の秦からの難民の部落であった。三韓の時代(紀元~3世紀)は、完全な鉄器時代で、前段階からの青銅器は消滅し、鍛造鉄器などが中心であった。


 220年に後漢の後を継いだの東方政策は遼東郡を起点とし、楽浪・帯方二郡を前進基地としていた。その政策の対象とする国は、高句麗こうくりを第一とし、夫餘ふよ沃沮よくそ挹婁ゆうろうわいと続く。これに対し、朝鮮南部のかん族地域には積極的な軍事行動をとっておらず、この地方の事情は韓族や倭人の朝貢によって知るにすぎなかった。魏の時代の東方諸民族で一応統一国家の形態をとっていたのは夫餘と高句麗のみで、他は集落連合国家あるいは地域別の小国家の段階であった。魏志韓伝によれば、三韓時代(紀元前後~3世紀)の朝鮮半島南部には、馬韓54国、辰韓12国、弁韓(弁辰)12国があった。


 馬韓の地は近世に穀倉地帯と呼ばれるほど農耕に適した気候・風土である。一方、辰韓・弁韓の地には太白山脈と小白山脈に囲まれ、さらに両山脈の支脈が縦横に走っている。その上、中央を流れる洛東江は海抜がきわめて低く、その傾斜度は、河口から120キロで8メートル、300キロ上流で80メートルである。この傾斜度のゆるさは流域の排水を遅らせることになり、その河岸の沖積平野が近代まで農耕地として利用できなかった理由でもある。もう一つの特色は盆地や山間が多いことである。 

 三韓地方はわい以北よりも生産力が豊かで人口も多く、馬韓54国のうち大国は1万余戸、小国でも数千戸であって、総計10余万戸といわれている。辰韓・弁韓は地形的な制約もあって、合わせて24の小国中、大きいものは4千~5千戸、小さいものは6百~7百戸で、総計4万~5万戸であった。

 魏志韓伝には、

「その風俗は法規が少なく、国や村には首長がいるけれども、村人と一緒に住み、充分支配することができない。ひざまずいて敬礼する作法さえない。しかし、その国が危急な場合には、首長の命令で国の集会所に集まり、城郭を築くなどのことをする」

「毎年五月に種まきが終わると神を祭る。このとき村人が総出で歌や舞をまい酒を飲む。昼夜休みなく数十人が交互に舞い、調子を合わせて、あるいは高く、あるいは低く活発に踊り、その音楽の節は中国の民間舞踊である鐸舞たくぶに似ている。十月、収穫が終わったときにもまたこのような祭りがある」とある。

 これに対して高句麗や濊などは十月の収穫祭だけしか伝えていない。高句麗は山谷が多く、良田があってもそれだけでは生活のできない半農半狩で、韓族の農耕生産を主体とするものと祭祀の方法も異なっている。韓族は鬼神を信じており、国や村にはそれぞれ天神を祭る人がいて、天君といわれている。

 また、高句麗の北にある夫餘伝には、「夫餘の古い習慣では天候が不順で穀物が実らないと、その責任は王にあるといい、あるいは退位させられ、あるいは殺害された」とある。


 魏志東夷伝の支配関係記事は夫餘・高句麗と韓族とでは対照的である。夫餘では国王のもとに六加(地方に勢力を持つ中央貴族)がいて、村落には豪民と下戸げことの階層が明確に分かれている。高句麗でも地方に基盤を持つ中央貴族の五族がおり、大家と下戸との階層が明瞭に分化している。

 これに対して韓族は帯方郡から与えられる称号には差異があっても、国内や村落内部での階級的な差異は描き出されていない。弁韓伝では、「その風俗では道行く人があうとき皆互いに道を譲る」とあって身分の上下による対応を示していない。このような韓族の政治制度や社会秩序からすれば、3世紀の韓族社会はまだ権力支配を知らない農村共同体の社会であったと思われる


 第10話「倭国王の誕生」で述べたように、三韓の中では馬韓が最も強大で、三韓はともに馬韓の種族を立てて辰王とし、三韓の地をことごとく支配した。辰王は月支国に都を置き統治していた。弁韓(弁辰)・辰韓合わせて24国のうちの12国は辰王に属し、辰王はつねに馬韓の人を用いている。世々相継いでいるが、辰王は自立して王となることができないとある。

 辰韓は馬韓の東の日本海側にある。辰韓の伝承として、秦人が逃げて朝鮮半島南部におもむき、馬韓が東界の土地を割いてこれに与えたとある。城柵があり、言語は馬韓と異なり、秦人に似ている。そのために、名付けて秦韓となすという記述もある。秦人とは、中国の秦漢文化を受けた塞外さいがい民族(長城の北側にいる半農半牧の人びと)のことを指す。辰韓ははじめ6国であったが、後しだいに分かれて12国になった。辰韓はいつも馬韓人を君主として戴いていた。辰韓人は他所から移り住んだ人たちである故に馬韓のために制されている。辰韓人の男女は倭に近く、また文身している。歩戦が巧みで、武器は馬韓と同じである。

 弁韓(弁辰)もまた12国で、また多くの小さな別邑があり、そのそれぞれに「渠帥きょすい(首長)」がいて、その勢力の大きなものを「臣智」、その次は「険側」などといった。弁韓(弁辰)は辰韓と雑居し、城郭があり、衣服・居処は辰韓と同じで、言語、法俗も似ている。鬼神きじんを祠祭する点では異なるところがあり、かまどを設けるところはみな戸の西にある。その瀆廬とくろ国は倭と界を接している。12国にはそれぞれ王がいる。その形はみな大きく、衣服は清潔で、髪は長く伸ばしている。そして幅広の細布を織る。法と風俗はとくに峻厳である。 

 弁辰(弁韓)の南の海峡に面したところに倭があった。また、辰韓人の男女は倭に近く、また文身しているとあるので、朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)・辰韓・倭は言語も風俗も近かったことになる。

 これらのことから、3世紀において弁韓(弁辰)・辰韓・倭は一つの民族に近く、馬韓はそれと少し異なる存在ということになる。しかし、支配者層の出自はみな馬韓出身の夫餘族と思われる。また、朝鮮半島の南部には三韓時代(紀元前後~3世紀)以前に、辰国と呼ばれる国があったが、その国は馬韓の勢力が拡大したために、分裂して馬韓・辰韓・弁韓に分かれたと解釈できる。


 後の加耶諸国の母体である弁韓(弁辰)12国とは、弥離弥凍・接塗・古資弥凍・古淳是・半路・弥鳥邪馬・甘露・狗邪・定漕馬・安邪・瀆盧の11国と、不斯か弁楽奴か弁軍弥かのうちのどれか一国である。ここに狗邪くや安邪あや瀆盧とくろの名が見える。

加耶諸国の国名について、三国史記では、236年以前において加耶・南加耶・押督・比只・多伐・草八・浦上八国・骨伐。

 また、三国史記の他の記述では、比斯伐・南加羅(金官国)・阿尺良(阿那加耶)・太良・達句火(卓淳)・大加耶(高霊)・任那加良、と記載されている。

これらの連合体が加耶の総称となり、任那みまなもその別名となった。

日本書紀に記された任那十国として最後まで残ったものは、安羅(咸安)・加羅(高霊)・斯二岐(新反里)・多羅(陝川)・卒麻(生林面馬沙里)・固嗟(固城)・巳伊(居昌)・散半下(草渓)・乞飡(昌原)・稔礼(渭川面)などが知られている。

 加耶諸国の名はその時期や史書により異なるが、魏志韓伝に記される弁韓(弁辰)12国とその中の1国である瀆廬とくろ国と界を接している倭を加えた国々が後の加耶を構成したと考えられている。


 馬韓を統一した百済王は、北魏の孝文帝に上表した文中に「臣は高句麗とともに、源夫餘ふよず」とある。また、7世紀末の百済最後の王・義慈王の太子で、百済滅亡のとき、唐側に捕われて長安に送られ、その地で683年に死んだ扶余隆の墓誌銘に「公、いみなは隆、あざなも隆、百済辰朝の人なり」とあることから、辰王の系統と、馬韓54国の一つであった伯済はくさいの王統とは、同一の流れを引くものである可能性が極めて高い。辰王の姓も扶余ふよで、この姓は夫餘から高句麗・百済へ引き継がれているが、さらに騎馬種族のツングース族にまでたどれる。


 江上波夫は、“夫餘系といわれる高句麗が313年に楽浪郡を占領し、続いて帯方郡を滅ぼして朝鮮半島北部を支配する体制を固めた。他方、同じ夫餘系の別枝が朝鮮半島を南下して、そこにあった馬韓・弁韓・辰韓の大半を支配し、馬韓の一部落国家に都して辰王国を創った。続いて、華北の晋が316年に滅んで、その王朝が江南に遷って東晋を興すころになると、馬韓の諸部落50余国が統一されて、辰王朝の一王家を戴いた百済が346年に創建された。同じころの4世紀初頭、辰王朝の本家と考えられる王家が弁韓(弁辰)に遷って、そこに任那加羅(王家の土地の加羅の意)といわれる新辰王国を創った。ここには韓人ばかりでなく、倭人も早くから住んでおり、その任那加羅みまなから、すなわち狗邪韓国くやかんこくは魏志倭人伝では倭の北岸といわれており、朝鮮半島から対馬・壱岐を経由して北部九州に至る主要航路の基点でもあって、ここを占拠した辰王国の意図が、日本列島の倭人の征服にあることは明らかである。このような朝鮮半島の情勢を目前にした北部九州の邪馬台国(倭国連合)が盟友と頼むしんも、その出先機関の楽浪郡・帯方郡も今はなく、孤立無援の立場に追い込まれた形で、新天地を求めて北部九州から畿内へ東遷したと考えるのは自然である”、と述べて、馬韓の月支国にいた辰王は馬韓が統一される過程で、追われて弁韓に入りそこに新しく国をつくったが、ここも追い立てられて、ついには日本列島の倭国に落ち延びてきたという。


 鈴木武樹は、辰王が弁韓につくった国は、その発音から月羅(ta-r-ra)、多羅たらであるという。多羅たら任那みまな十国の一つである。その建国は3世紀後半で、「タラ」族が倭国に渡来したのは4世紀中葉以降という。 

 日本書紀にあるオホタラシヒコ(景行)とオホタラシヒメ(神功皇后:記紀ではオキナガタラシヒメ)は「タラ」族である。オホタラシヒメは宇佐神宮の「託宣集」本来の呼び名である。つまり、江上波夫や長田夏樹の説に従えば、ツングース族に属する夫餘・高句麗の一派で「扶余ふよ」を姓とする部族が、3世紀後半に馬韓の伯済はくさい国に入って、そこの王となり、その後、百済ひゃくさい(記紀では“くだら”と呼ぶ)と改号して4世紀半ばまでに馬韓50余国を統合した。その馬韓統一の過程で、月支国に都していた同じ夫餘族のまた別の一族、すなわち「辰王族」はそこを追われて、南の弁韓に入り、その地に「太羅たら」を建国した、ということになる。多羅たら多伐たばつともいう)は金官加耶の北方にある。瀆盧とくろ国は後の任那にある「多羅」のことと推定されている。「弁辰(弁韓)は辰韓と接す。 ・・・其の瀆盧とくろ国は倭と界を接す」とあり、三韓時代は倭ではなく、弁韓に属していたことになる。


 朝鮮半島における三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓、そして倭)は紀元前後から3世紀まで、三国時代(高句麗・百済・新羅、そして加耶)は4世紀から7世紀までとなる。三韓時代の倭、三国時代の加耶は往々にして無視されているようである。その理由は次の三つにあると考えられる。


 1)朝鮮において古文献が残っていないことに起因する。最も古い朝鮮の歴史書は、高麗こうらい時代の1145年に完成された「三国史記」と、1280年に高麗の僧、一然いりょんにより作成された「三国遺事」のみである。それ以前の史書は失われ現存していない。 

 2)新羅より前に繁栄していた加耶諸国の歴史を新羅が自分の歴史に取り込んでしまったことである。つまり、三国史記には、加耶諸国の建国伝説やその統治形態や風俗は描かれていないし、新羅による金官国の併合(532年)、大加耶の滅亡(562年)、統一新羅の成立(676年)へ至る過程もすべて新羅からの視点になっている。

 3)唐・新羅の連合軍による百済滅亡(660年)、白村江の敗戦と筑紫君の捕囚(663年)、高句麗滅亡(668年)そして新羅が朝鮮半島を統一(676年)と続いたなかで倭・韓連合(日本列島の倭国と朝鮮半島の加耶諸国)が完全に崩壊してから古事記(712年)・日本書紀(720年)が編纂されたため、その時の天皇である天武てんむは日本建国史の観念を変え、天皇は悠久の昔から日本列島だけを統治したと強調し、朝鮮半島との関係を抹殺してしまった。660年の百済滅亡後、倭国(日本)に亡命した王族・貴族が多数くいたが、記紀の編纂には、そのときに持ち込まれた百済記くだらき(4世紀から5世紀の百済について記された史書)からは日本書紀の神宮皇后紀・応神紀・雄略紀の注などに5か所引用されているにとどまっている。また、百済新撰くだらしんせんからも雄略紀・武烈紀に3か所、百済本記くだらほんきからも継体紀・欽明紀に18か所引用されているのみである。これら三つの百済の歴史書は現在失われており、その中身を知ることはできない。


 日本の古代史を難しくしているのは、朝鮮・日本両国において、三韓時代の倭、三国時代の加耶の歴史がしっかりとした形で残らなかったこの三つの要因が大きいと思われる。


 266年から413年まで中国の文献に倭に関する記事がないということで「謎の4世紀」と呼ばれているが、朝鮮史料の「三国史記」「三国遺事」「広開土王碑文」には多くの記載があると鈴木武樹は指摘している。

 鈴木武樹は、“日本書紀や古事記の謎というのは、実は、その大部分が、朝鮮半島諸国と倭国との間の、多くは一方的な、交流の関係を巧みに消してしまったことに由来するのだから、「三国史記」や「三国遺事」と合致する記事は、抹殺された倭と朝鮮半島諸国との関係を復元するのに不可欠なものなのである。だから、それらの記事を捨てて顧みないのは、日本書紀にだけただひたすら頼ってこしらえあげた幻想をこわしたくないという国史学者の怯懦きょうだ(臆病で気が弱い)以外のなにものでもないように、私には思われる”、という。

 鈴木武樹(元明治大学教授)の専門は独文学であるが、日本の記紀や、中国や朝鮮の古文献にも精通し、「東アジアの古代文化を考える会」の初代事務局長(会長は江上波夫)として、東アジアからの視点、特に朝鮮諸国との関係から日本古代史を分析し、多くの問題提起を行っている。


三国史記さんごくしき

 1145年に完成、全50巻。 高麗17代王仁宗の命によって金冨軾きむぷしくらが作成した。金冨軾は新羅の王族出身であるため新羅に厚くて他の二国に薄いという欠陥があり、儒教徒の事大主義に基づき編集されたため東夫餘と北夫餘が取り除かれ、朝鮮文化の発祥地が塵土の中に埋もれてしまった。また、前後に矛盾があったり、事件が重複したところも多いが、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。この書は現存しない「海東三国史」、あるいは「旧三国史」が基になっている。

三国史記の倭関係記事は新羅と倭との関係が詳しく出てくるが倭による来襲記事が圧倒的に多い。百済と倭との関係はごくわずかで、しかも397年から428年までの約30年間の全部で7か所であり、倭と高句麗との関係はゼロで非常に偏っている。その紀年によれば、紀元前から500年までで、その後は7世紀末まで空白となっており、その次に出てくるときは「日本」となっている。

 鈴木武樹は、“三国史記は、史料としてはかなり限界のあるもので、そこに書かれている古代のことをそのまま信じることはできないが、1971年7月に発掘された百済の武寧王の墓誌銘が記すこの王の没年(523年5月)と「三国史記」のそれとは完全に一致することからして、この書物の少なくともその時代以降の記事には相当の、少なくとも「日本書紀」のそれよりは、信憑性があるとみられる。百済・新羅が歴史時代に入るのは遅くとも4世紀後半とされるので、「三国史記」の記述もそのあたりから信頼度が高まると考えられる。しかも、この書物には「日本書紀」など日本の文献を採用した形跡は皆無であるから、古事記・日本書紀その他の日本側史料と三国史記・三国遺事とを対比した場合に得られる両者に共通する記事は、史実を記録したものである可能性がきわめて強い。三国史記を史料として用いるにさいしては、特に新羅・百済の4世紀前半以前の部分に関しては、十分に史料批判をすることが望ましい。しかし、6世紀前半以前について同じことが言える記紀に比べれば、三国史記ははるかに信頼するにたる文献である”、という。


三国遺事さんごくいじ駕洛国記からこくき

 1280年に高麗の僧、一然いりょんにより作成された。「三国史記」が正史とすれば、正史に洩れた雑多な記事を採録している私撰の史書である。この巻二の巻末に「駕洛国記」が抄録されている。駕洛国記は金官加耶(加羅)の歴史を記した史書で1076年に完成している。この書に載る駕洛国建国説話は記紀の天孫降臨説話と同型である。それは、神の命でその地に降臨してきた金の卵から六人の男が生まれ、最初に頭を出した一人の首露しゅろが王として駕洛国を開いたという建国神話である。駕洛国は魏志倭人伝の狗邪韓国くやかんこくであり、記紀のいう任那みまなである。また、首露王が天から降りる亀旨峰くじぼんは記紀のクジフル峰と同音であることはよく知られている。天孫降臨の伝承は高句麗の要素を思わせ、六加耶の首長の卵生神話には新羅の六村とその始祖の赫居世の卵生説話に似ている。


「百済三書(百済記くらだき百済新撰くだらしんせん百済本記くだらほんき)」

 ヤマト王権に亡命した百済人が提出した百済系の史書。これら三つの百済の歴史書は現在失われており、その中身を知ることはできない。百済記と百済本記は共通した性格をもち、その主張は百済がヤマト王権の支援のもとで加羅地方を支配し、この地方に侵入している新羅勢力を駆逐するのが正しいあり方であるとしている。このような主張は6世紀初頭の新羅の拡大以後、百済が終始持ち続けたもので、特にヤマト王権との関係を強調したのは聖明せいめい王(在位:523年~554年)であった。聖明王はヤマト王権に儒教・仏教の新文物を与え、その代償として救援軍を要請した。百済三書を通して年代的にいえば、近肖古きんしょうこ王(在位:346年~375年)から威徳いとく王(在位:554年~598年)までの252年にわたる歴史を述べたものである。


 さて、朝鮮半島における三韓(馬韓・辰韓・弁韓(弁辰))と、倭や加耶そして辰王について理解を深めたところで、卑弥呼・台与の後の日本列島、特に北部九州と大和地方の様子を比較してみる。いよいよ記紀に記された初代神武じんむ以下の歴代天皇の登場となる。

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