第16話 卑弥呼の死とその墓、宗女台与(壹與)
・「魏志倭人伝」
「
卑弥呼が死んだのは247年あるいは248年である。魏志倭人伝には、そのあと男王が立ったが、女王国に属していた国々が不服を唱え相誅殺(お互いに殺し合い)し、千余人が命を落とした。そこで、卑弥呼の宗女である十三歳の
卑弥呼はどのように死んだのか? 自然死あるいは病死か、神託が外れ自死したのか、あるいは殺されたのか? それを知る鍵は
森浩一は、“来朝した郡史(張政)が
さらに、卑弥呼の死について、“詔書・黄幢を卑弥呼ではなく、
森浩一が言うように、中国の皇帝の「詔書」がその国王ではなく、異民族の臣下に出されるなど絶対にありえないことからも、
もう一つ考えなくてはならないのは、238年(景初二年)8月に魏が公孫氏を滅ぼしていることである。卑弥呼が女王に共立されたのは180年代後半とされる。公孫氏(189年~238年)が204年に帯方郡を設立した直後から卑弥呼と公孫氏との関係は深かったと推測される。それを裏付けるものとして、天理市の東大寺山古墳(4世紀末ごろの築造)から出土した鉄剣の銘文に後漢の霊帝の年号である「中平」(184年~189年)という後漢の年号が記されている。但し、柄頭は古墳前期のものである。この鉄剣は後漢あるいは公孫氏から倭国にもたらされたものであり、しかも倭国乱の時代(146年~189年)の有力な資料である。中平銘の鉄刀に限らず、中国製の武器や銅鏡などは、公孫氏を通じて北部九州にはたくさんもたらされている。一方、近畿地方では河内平野の遺跡からは少なからず出土するが、大和地方にはきわめて出土例が少ない。公孫氏による楽浪郡・帯方郡占拠以後、北部九州では漢式鏡である
卑弥呼は、公孫氏滅亡後の239年(景初三年)6月には早速、公孫氏から魏の支配下になった帯方郡に出向き、魏への朝貢を願い出ているが、魏の帯方郡からは良い印象を持たれていなかった可能性はある。もしそうであれば、女王国連合の南半分を失った責任を取らされた、あるいは自分で責任を取って自死したと考えても不思議ではない。「大いに
松本清張は巫女という観点から卑弥呼は自死したと見て、次のように推測する。
“女王国の敗北により卑弥呼は殺された。卑弥呼の後継者
ところで、卑弥呼の墓はどこにあるのか?それは卑弥呼がどこで死んだかにもよる。卑弥呼がいた邪馬台国は背振山地の南側の筑後川流域にあったするのが最も有力な説である。しかし、森浩一が推測するように、卑弥呼は死んだとき
卑弥呼の墓がどこかについては、いくつかの説がある。有名なのは次の4つである。
① 筑後川下流の筑後
② 筑後の久留米市の
③
④ 大和の
① 邪馬台国の有力地である筑後川下流の筑後
② 久留米市御井町字高良山(旧筑後国御井郡)にある
森浩一は、“古墳の年代は卑弥呼の時代より半世紀余り後であるが、この古墳の裾を取り巻くように石蓋土壙墓や箱式石棺などの小規模な埋葬施設が52基群在している。これらは方墳の主に対する殉葬ではないかと考える。”と言う。卑弥呼の墓の殉葬とも考えられる。
③
平原王墓を発掘した地元の歴史家原田大六は、“魏志倭人伝の、「其の死するには
さらに、“
タマヨリヒメを卑弥呼と置き換えれば、平原一号墓は卑弥呼の墓となるが、これを卑弥呼の墓と断定はできない。しかし、「大いに
④ 大和の
当時の日本の古墳には墓誌銘が残されていないので、決定的といえるものは出土しない。しかし、③の
北部九州の先進的なクニグニの一つである
・「晋書(しんしょ)倭人伝」
「泰始(265年~274年)の初め、倭人来りて方物を献ず。」 晋書の武帝紀に、泰始二年(266年)11月に朝貢の記載あり。これは
魏使(帯方郡使)は
森浩一は、“卑弥呼の死後に「更に男王を立てしも国中服さず、更に相誅殺す。時に当りて千余人を殺す。」とあるのは、張政は
いずれにせよ、
また、森浩一は張政の帰国後について、“張政は倭国を一つにまとめた功績を評価され、帯方郡へ帰国後、太守になったと推定される、張撫夷という墓誌銘のある墳墓が帯方郡の遺跡(今の北朝鮮・黄海北道鳳山郡)から出土している。年代は288年ごろで、314年の帯方郡滅亡の少し前である”、と非常に興味深い推測をしている。
・「梁書倭伝」
「
266年の台与による晋への遣使の後にこの記事があるが、その後、倭国の消息は中国の史書から消えてしまい、その再出現は、413年に南朝の
水野祐は、“この147年間は日本国史上極めて重要な時期であるにもかかわらず、確実な記載がないということが一つには日本の古代史をいつまでも謎に包まれたままにしておかねばならない原因となっている。要するに5世紀以前の日本は記録時代に入っていず、伝承時代であったと考えられるから、日本側には確実な史実を伝える記録が皆無と思われる”、と述べている。
この間、大和地方に日本独自の前方後円墳が発生している。台与がいつどこで死んだのかも問題である。魏の帯方郡から派遣された張政は19年間(247年~266年)も駐在している。その間、北部九州の女王国連合は帯方郡から派遣された張政の監視下にあった。その張政を帯方郡に送り届けた後に張政の後任者が置かれたようにはみえない。なぜなら、3世紀の後半から4世紀の中葉に到る100年間は、日本列島においても動乱期であったが、中国でも朝鮮半島でも大きな政治的変動が起こっていたからである。中国では、2世紀中葉ごろから後漢が衰退したことにより、朝鮮半島での支配力が鈍り、やがて朝鮮半島北部の高句麗が強大化した。220年には後漢が滅亡して、以後の中国は魏・呉・蜀の三国時代に入る。それは朝鮮半島南部の韓民族を刺激し、馬韓・辰韓・弁韓の三韓はそれぞれが政治的に統一されていった。中国では後漢の次の魏は265年に滅亡してしまった。次に、280年に晋が三国の統一を果たしたものの、北方諸民族の侵入によって317年に晋はその根拠地を南方の長江流域に移さざるを得なくなり、東晋の時代になった。こうした状況の中、朝鮮半島北部の大同江流域を中心としていた楽浪郡・帯方郡は313年~314年にかけて高句麗によって滅ぼされた。それに刺激され、百済建国(346年)、斯廬(後の新羅)建国(356年)、また、日本書紀によると367年に任那(金官加耶)も建国に到っている。
朝鮮半島における三国時代(4世紀~7世紀)は、高句麗・百済・新羅の三国と加耶諸国が登場し、覇を競った時代である。高句麗はすでに1世紀ごろから中国史書に登場しているが、百済や新羅が中国史書や日本の古事記・日本書紀に登場するのは4世紀に入ってからのことである。それ以前から百済・新羅の中核をなす集団は存在したが、それらが周辺地域の集団をまとめ、隣接する王権との交渉を始めた段階である4世紀は朝鮮半島における画期となった。
魏に代わって265年に建国した晋は安定した政権ではなかった。そのため帯方郡もかつてのように韓と倭を支配下に置く余裕はなかったはずである。その証拠に、楽浪郡・帯方郡は晋に属してから50年足らずで高句麗に占領されてしまった。南側半分を
日本列島では、晋の時代(265年~317年)と同時期の3世紀後葉から4世紀初頭に奈良盆地を中心とする地域に前方後円墳が出現し、古墳時代を迎えている。東アジアでは、後漢の滅亡を契機として中国の王権が混乱する一方で、周辺地域の諸勢力が新たに台頭し成長していく変動期の中にあったといえる。
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