第16話 卑弥呼の死とその墓、宗女台与(壹與)

・「魏志倭人伝」

卑弥呼ひみこ以って死す。大いにちょうを作る。径百余歩(約145メートル)、葬に徇ずる者は奴婢百余人。更に男王を立てしも国中服さず、更に相誅殺ちゅうさつす。時に当りて千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女の台与とよとし十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。張政ちょうせい等、げき(布告文あるいは檄文)を以って台与とよを告喩す。台与とよ、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗ややく等二十人を遣わし、政(張政)等の還るを送らしむ。りてたい(洛陽の宮廷)にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚、異文雑にしき二十匹を貢す。」


 卑弥呼が死んだのは247年あるいは248年である。魏志倭人伝には、そのあと男王が立ったが、女王国に属していた国々が不服を唱え相誅殺(お互いに殺し合い)し、千余人が命を落とした。そこで、卑弥呼の宗女である十三歳の台与とよを王に立てたとある。台与とよは原文では「壹與」あるいは「臺輿」で、それぞれ「いよ」「どや」とも呼べる、「壹」は今の字では「壱」、「臺」は「台」となるが、ここでは現在通常に用いられる「台与」を使用する。

卑弥呼はどのように死んだのか? 自然死あるいは病死か、神託が外れ自死したのか、あるいは殺されたのか? それを知る鍵は狗奴くな国と、帯方郡から247年に派遣された塞曹椽史そくそうえんし(魏の武将名)の張政ちょうせいにある。


 森浩一は、“来朝した郡史(張政)がげきをつくって難升米なしめに告げ諭した結果、卑弥呼は死亡した。それは非業の死であったと思われる。卑弥呼が死んだあと倭人伝を素直に読むと、張政は狗奴くな国の男王卑弥弓呼ひみくこを卑弥呼の後の倭国王に任命したと読める。卑弥呼の死後、大いに塚を作った。卑弥呼のちょうは径百余歩である。直径145メートルほどの墓域を持った低墳丘の古墳または円形周溝墓のようである。そして奴婢百余人を殉葬している。日本の古墳では馬を生贄いけにえにした例はかなり多いが、古墳に伴う生贄はなく、卑弥呼の塚の場合は例外となる。卑弥呼が死んだのは247年あるいは248年で、その後、狗奴くな国の勢力が北部九州に及んだとみられる。狗奴くな国王とみられる男王が倭国王になると元の女王国に属していた国々が不服を唱え相誅殺し千余人が命を落とした。そこで、卑弥呼の宗女である十三歳の台与とよを王に立てた。ここでも張政ちょうせいが大きな役割を果たしていたと思われる。だらからこそ、266年(秦始二年)に新しく女王となった台与が建国したばかりのしんへ20人からなる大規模な使節団を派遣し、19年間も滞在した張政ちょうせいを帯方郡に送り届けたのだった。張政ちょうせいは卑弥呼を死なせ、台与を2代目の女王にすると同時に倭国を一つにまとめることに成功して帰った。その功績を帯方郡に伝えるため台与とよは大使節団を送ったのである”、と述べている。

さらに、卑弥呼の死について、“詔書・黄幢を卑弥呼ではなく、難升米なしめに仮授し、檄(布告文)を告喩している。神託が外れ、狗奴くな国に敗れたため、おそらく自死したと思われる。卑弥呼が住んでいたのは邪馬台国といわれている。そこは筑後川下流域の現在の山門やまと郡と推定される。筑後川流域は女王国連合の南半分である。女王国連合の南の地域を拠点としていた狗奴くな国との戦いに敗れ、卑弥呼はその責任を取らされたのである。しかし、卑弥呼は死んだとき、伊都いと国にいたと推測される。そこには、張政ちょうせいをはじめとする帯方郡からの郡使が滞在していた。難升米なしめ伊都いと国王であったかもしれない”、としている。 

森浩一が言うように、中国の皇帝の「詔書」がその国王ではなく、異民族の臣下に出されるなど絶対にありえないことからも、難升米なしめ伊都いと国王であった可能性は高いといえる。


 もう一つ考えなくてはならないのは、238年(景初二年)8月に魏が公孫氏を滅ぼしていることである。卑弥呼が女王に共立されたのは180年代後半とされる。公孫氏(189年~238年)が204年に帯方郡を設立した直後から卑弥呼と公孫氏との関係は深かったと推測される。それを裏付けるものとして、天理市の東大寺山古墳(4世紀末ごろの築造)から出土した鉄剣の銘文に後漢の霊帝の年号である「中平」(184年~189年)という後漢の年号が記されている。但し、柄頭は古墳前期のものである。この鉄剣は後漢あるいは公孫氏から倭国にもたらされたものであり、しかも倭国乱の時代(146年~189年)の有力な資料である。中平銘の鉄刀に限らず、中国製の武器や銅鏡などは、公孫氏を通じて北部九州にはたくさんもたらされている。一方、近畿地方では河内平野の遺跡からは少なからず出土するが、大和地方にはきわめて出土例が少ない。公孫氏による楽浪郡・帯方郡占拠以後、北部九州では漢式鏡である画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょうを中心に増加する傾向を示している。 

卑弥呼は、公孫氏滅亡後の239年(景初三年)6月には早速、公孫氏から魏の支配下になった帯方郡に出向き、魏への朝貢を願い出ているが、魏の帯方郡からは良い印象を持たれていなかった可能性はある。もしそうであれば、女王国連合の南半分を失った責任を取らされた、あるいは自分で責任を取って自死したと考えても不思議ではない。「大いにちょうを作る。径百余歩、葬に徇ずる者は奴婢百余人」とあるから、自死である可能性のほうが高いと思われる。


 松本清張は巫女という観点から卑弥呼は自死したと見て、次のように推測する。

“女王国の敗北により卑弥呼は殺された。卑弥呼の後継者台与とよは13歳である。古代の王は祭司を兼ね、霊力があると信じられていたから、天候の調節に失敗したり、戦争に負けたりすると、その責めを長老たちに負わされて殺される運命にあった。その場合、王の霊力は彼の死の直前に後継者に転移するとフレイザーはその「金枝篇」で説いている。後継者の年の少ないほど霊力を受け継ぎやすい。これは魏志夫餘ふよ伝に、「夫餘の古い習慣では天候が不順で穀物が実らないと、その責任は王にあるといい、あるいは退位させられ、あるいは殺害された」という記事に続いて「王の麻余は死し、その子の依慮六歳を立てて王となす」、とあるのに相似している。”


 ところで、卑弥呼の墓はどこにあるのか?それは卑弥呼がどこで死んだかにもよる。卑弥呼がいた邪馬台国は背振山地の南側の筑後川流域にあったするのが最も有力な説である。しかし、森浩一が推測するように、卑弥呼は死んだとき伊都いと国にいた可能性は高い。なぜなら、卑弥呼は狗奴くな国との戦争における窮状を帯方郡に訴え、それに応じて派遣された張政ちょうせいや、帯方郡からの郡使がそこに常駐していたからである。


 卑弥呼の墓がどこかについては、いくつかの説がある。有名なのは次の4つである。

① 筑後川下流の筑後山門やまと郡の王塚おうづか古墳

② 筑後の久留米市の祇園山ぎおんやま古墳

伊都いと国の平原ひらばる遺跡の平原一号墓

④ 大和の纏向まきむく遺跡の箸墓はしはか古墳


① 邪馬台国の有力地である筑後川下流の筑後山門やまと郡(瀬高町山門)には田油津媛たぶらつひめの墓と伝えられる王塚おうづか古墳や神籠石こうごいしのある女山ぞやまがある。神功皇后紀に土蜘蛛・油津媛を成敗したとある。この神功皇后紀は創作と思われるが、古代の北部九州には巫女女王が多くいた。神籠石のある女山は朝鮮式山城と考えられる。王塚古墳が卑弥呼の墓であるというのは日本法制史学者の牧健二(元京都大学教授)の説である。王塚古墳は5つの色彩で彩られた壁画が石室内ほぼ全面に施されていることで知られている。失われた部分を完全に復原すると、全長約86メートル、後円部径約56メートル、後円部高約9.5メートル、前方部幅約60メートル、墳丘は二段築成で黒色と赭土色あかつちいろの粘質土を交互に積み上げ版築状に造り上げている。斜面には円礫の葺石ふきいしが葺かれていて、円形埴輪も確認されている。二重の周濠が巡らされている。王塚古墳の最大の特徴は、石室のほぼ全面に施された壁画である。描かれている図像は馬、ゆぎ、盾、刀、弓などのほか双脚輪状文、わらび手文、三角文、円文などの幾何学的文様。 現在、日本で確認されている装飾古墳の壁画で使われている色は6色(赤・黄・緑・青・黒・白)あるが、そのうち青を除く5色が使われており、国内最多である。王塚古墳は発見されるまで未発掘の古墳だった。そのため副葬品の大部分が残された状態で発見されている。古墳からは、変形神獣鏡1面、玉類、金鐶1箇、馬具類、銀鈴1箇、土器類(須恵器台付壺・ふた付坏・提瓶・高坏等)、鉄大刀たち、鉄ほこ、鉄刀子とうす、鉄やじりなどが出土している。


② 久留米市御井町字高良山(旧筑後国御井郡)にある祇園山ぎおんやま古墳は、古墳時代前期に築かれたとみられる九州で最も古い段階に築かれた首長墓で、方墳(平面形が方形の古墳)の規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mと推定される。各辺とも直線でなく、中央部がやや膨らむ弧を描いている。墳丘は本来の地形を整形した上部に盛り土がされ、葺石ふきいしは2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)。埋葬施設は、墳頂部(一辺が役10mの平坦面)のほぼ中央に納められた箱式石棺。安山岩の板石を大小5枚使い、側壁の不足部を補う板石各1枚で構築された石棺の大きさは底部付近で長さ約2m、幅約90cm、深さ約90cmで、棺内にはふた石も含めて朱が塗られていた。石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、内部からの副葬品の出土はなかった。祇園山古墳の墳丘外周からは、発掘調査時に甕棺墓かめかんぼ3基、石蓋土壙墓どこうぼ32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。第一号甕棺からは、銅鏡片や曲玉・管玉が出土している。

森浩一は、“古墳の年代は卑弥呼の時代より半世紀余り後であるが、この古墳の裾を取り巻くように石蓋土壙墓や箱式石棺などの小規模な埋葬施設が52基群在している。これらは方墳の主に対する殉葬ではないかと考える。”と言う。卑弥呼の墓の殉葬とも考えられる。


伊都いと国最後の王の墓と考えられている平原ひらばる遺跡の一号墓は18メートルx14メートルの長方形周溝墳丘墓でありながら、大型前方後円墳をこえる副葬品をもつ。また、殉葬墓と考えられる土壙が墓域内および排水溝の内部に見受けられる。内部が朱塗りの割竹形木棺内には、ガラス製緑色勾玉まがたま3個、瑪瑙めのう製赤色管玉くだたま12個、琥珀こはく製小丸ぎょく約1000個、ガラス製小玉約600個、などの玉類、棺外には40面の鏡・鉄素環頭大刀そかんとうたち75センチなどがあるが、大刀と鏡の一部は棺内にあった可能性が高い。周溝内には鉄やじりやりがんななどが出土している。39面の鏡の中には直径46.5センチの超大型仿製鏡ぼうせいきょう(同笵鏡)が5面含まれている。この仿製鏡は後漢鏡を模倣拡大して、同じ鋳型で鋳造したものである。弥生時代に同じ鋳型から鋳造された銅鏡が出土しているのは、伊都いと国の王墳の一つといわれる平原遺跡だけであり、それが大量に出土したことは極めて特異な例である。古墳時代の三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうでは同笵鏡が大量に作られており、その初現がこの平原遺跡の鏡ではないかと注目されている。一号墓の築造時期は弥生終末の3世紀前半と思われるが、副葬されていたすべての鏡が副葬以前に破砕されていることから、被葬者にはなにか特別な事情があったのかもしれない。木棺内部の頭部位置から検出された耳璫じとう(みみだま)に焦点を当て分析されたところ、中国の漢代貴族では女性の装身具であることから、非葬者は巫女王といわれている。平原王墳は墳墓の立地及び主体部の構造と副葬品の特殊性に特徴があるが、平原墳墓群は日の出を観察するように東西に並び、古墳早期の奈良のホノケ山古墳のように木槨の可能性と割竹式木棺、頭部付近の玉類以外の副葬品は棺外、あるいは木槨上に副葬・供献されている。足元の多量の銅鏡が破砕されているのも特殊である。このような特殊な葬送儀礼は弥生後期の伊都国では普及しているが、近畿地方は古墳早期(3世紀後半)になってからである。伊都国の太陽信仰と葬送儀礼を継承している平原王墳は卑弥呼の生存年代と近接している。 

平原王墓を発掘した地元の歴史家原田大六は、“魏志倭人伝の、「其の死するにはかん有るもかく(棺の外囲い)無く、土を封じちょう(塚)を作る」、棺はあるが、棺を納める外囲いはなく、直接棺を直接土で埋めて盛土を作る、というのは平原古墳と同じである。これは近畿地方の古墳につながるものである。モガリノミヤの直下を方形の土壙に掘り窪め、モガリノミヤの主中線に一致させて棺を安置、被葬者の足は日向ひなた峠の方に向けられた。埋められた棺の日向ひなた峠と反対の方角に延長した排水溝の外縁に「一の鳥居」を建てた。それとともに東(やや南寄り)の日向ひなた峠を一緒に遥拝するためである。墳丘上の「二の鳥居」は東(やや北寄り)の高祖山たかすやまの頂上に向けられていた。高祖山たかすやまの右側(南)には槵触山くしふるやまが見える。海抜416メートルの高祖山たかすやまの頂上からは、東は博多湾、西は糸島平野・唐津湾から玄界灘を越えて壱岐・対馬を見ることができる。日向ひなた峠の南には韓国山からくにやまがある。「一の鳥居」から東の山並みをみて、その日の出の位置から、田植え(旧暦の夏至)・苗代・稲刈り・新嘗祭(旧暦の冬至)の時期を決めたと考えられる。日向ひなた峠は、古代において伊都いと国から国へ抜ける唯一の交通路であった。高祖山たかすやま高千穂たかちほから変化したと考えられる。日向ひなた峠は日迎う山として「ヒムカ」といわれたと思われる。伊都国は「ここは韓国からくにに向ひ」と古事記にあるように、玄界灘を挟んで朝鮮半島南部に向かっている。”という。 

高祖山たかすやまから槵触山くしふるやまにかけての山々は、まさに古事記に記された「此地は韓国からくにに向い、笠沙かささ御前みさきにまき通りて、朝日の直刺たださす国、夕日の日照る国なり、故にいと吉き地よきところ」というニニギが筑紫の日向ひむかの高千穂の槵触くしふる峯に天孫降臨した地である条件をすべて備えている。すなわち、筑紫にあり、韓国からくにに向かい、海と岬が見えて、朝日と夕日がどちらからも強く直刺たださし、高い山である。

さらに、“高祖山たかすやまには大宰府の出城として768年に完成した怡土いと城址がある。高祖たかす神社は古くは高磯比咩たかそひめ神社といい、怡土いと郡の惣社とされ、中座がヒコホホデミ、左座にタマヨリヒメを祀ってある。平原ひらばる古墳の被葬者はタマヨリヒメ(神武の生母)であり、神話におけるアマテラス(オオヒルメムチ:太陽の妻)である。タマヨリヒメの夫であるウガヤフキアエズは早世したためタマヨリヒメが女王となった。”と述べている。 

タマヨリヒメを卑弥呼と置き換えれば、平原一号墓は卑弥呼の墓となるが、これを卑弥呼の墓と断定はできない。しかし、「大いにちょうを作る。径百余歩」は円墳である。百余歩とは単に大きいという意味であるから、卑弥呼が死んだ248年の直後に大きな円墳を造ったが、伊都いと国の神は歴史とともにヤマト王権の意識から遠ざかり、その大きな円墳もその多くは削り取られ、棺だけは地中に残ったが、地表は畑となってしまったと考えることはできる。原田大六がいうように、記紀が書き留められるころには、もはやタマヨリヒメの本籍はどこであるのか、その詳細は分からなくなってしまっていたのかもしれない。


④ 大和の纏向まきむく遺跡の箸墓はしはか古墳は、邪馬台国畿内説の人びとが主張している古墳である。箸墓古墳の造営は3世紀後葉~4世紀初頭である。卑弥呼が死んだ247年あるいは248年とは、半世紀あるいはそれ以上の開きがある。箸墓古墳を卑弥呼の墓とする唯一の拠り所は、国立歴史民俗博物館による「14C年代」で、遺物の一部が3世紀中ごろとされたことにある。前に述べたように、放射性同位体である炭素14の半減期を利用した年代測定には、大きな誤差があり、年代の調整も必要となり、絶対年代を特定する決め手にはならない。「14C年代」を信じられるようにするには、中国や日本で年代が確定している3世紀~5世紀の様々な遺物100点以上を測定し、その誤差がすべて±10年以内に収まることを証明しなければならない。さらに、複数の他者による検証も必要となる。それらはまだできていない。したがって、年代を決定するには魏志倭人伝や記紀、様々な考古学的知見などとの整合性を図る必要があるが、箸墓古墳を卑弥呼の墓とするにはその整合性がとれない。もし卑弥呼の後継者である台与とよ難升米なしめとともに北部九州から大和へ東征したとすれば、その時に卑弥呼の遺品の一部を持ってきて箸墓を含む大和の古墳のどれかに埋納した可能性は残ると思われるが、水野祐が指摘するように、日本書紀の編纂時点において卑弥呼や女王国などについての伝承は皆無であり、少なくとも大和の古代人の間にはそれが存在しなかったことからも、箸墓はしはか古墳説はかなり無理がある。


 当時の日本の古墳には墓誌銘が残されていないので、決定的といえるものは出土しない。しかし、③の平原ひらばる古墳出土の直径46.5センチの超大型仿製鏡(同笵鏡)5面は、内行花文ないこうかもん鏡であり、魏から下賜された卑弥呼の鏡である可能性が最も高いといえる。銅鏡の種類については後述する。さらに、日本の古墳では馬を生贄いけにえにした例はかなり多いが、古墳に伴う生贄はなく、卑弥呼の塚の場合は例外となるが、その殉葬墓と考えられる土壙どこう平原ひらばる古墳の墓域内にある。殉葬は女王国の有力国であった狗邪韓国くやかんこく(後の金官加耶)の墓制の一番の特徴であり、北方の騎馬民族の風習でもあった。


 北部九州の先進的なクニグニの一つである吉野ヶ里よしのがり遺跡は当時の「クニ」の様子を現在の我々に伝えてくれる。それによれば、人口は1000人程度で、戸数は150戸から200戸と推定されている。当時の拠点集落でさえ、その程度の大きさであった。吉野ヶ里のようなその地域の拠点集落の近くには、規模の小さな数十の集落が点在していたと推定されている。当時の「クニ」は拠点集落とその周辺の小集落の集合体であった。

伊都いと国や国など有力な「クニ」の首長たちが牽制し合うなか、連合国家の実権を持たない巫女女王として祭り上げられただけの卑弥呼の墓がどこにあろうと、歴史の流れに変わりはない。重要なのは、卑弥呼の死後に北部九州の女王国連合がどうなったかである。


・「晋書(しんしょ)倭人伝」

「泰始(265年~274年)の初め、倭人来りて方物を献ず。」 晋書の武帝紀に、泰始二年(266年)11月に朝貢の記載あり。これは台与とよの時代である。台与とよは266年に帯方郡から伊都いと国に派遣されていた塞曹椽史そくそうえんし張政ちょうせい等を建国したばかりのしんへ20人からなる大規模な使節団を派遣し、19年間も滞在した張政を帯方郡に送り届けた。


 魏使(帯方郡使)は伊都いと国に滞在中、国より南にある邪馬台国までは行かなかったと大半の歴史学者は考えている。張政も同様に、19年間(247年~266年)も伊都国に駐在していたが、伊都国からほとんで動かず、せいぜい北部九州沿岸地域の数か国しか訪れていないと推定される。なぜなら、文化的な先進地域である帯方郡から来た帯方郡使や張政にとって、倭国は不衛生な後進国であり、いろいろな病気に感染する危険や、熊・イノシシ・毒蛇など野生動物に襲われる危険を冒してまでも近隣の女王国連合のクニグニへ行くつもりはなかったからである。また、魏志倭人伝に、「又一海を度ること千余里にして末虜まつら国に到る。四千余戸有り、山海にいて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず」とあるように、鉄器がある程度もたらされていた北部九州の沿岸国でさえこのような状態であることから推して、当時の内陸にあるクニグニへ通じる陸路はまともな道ではなかったと考えられる。


 森浩一は、“卑弥呼の死後に「更に男王を立てしも国中服さず、更に相誅殺す。時に当りて千余人を殺す。」とあるのは、張政は狗奴くな国の男王卑弥弓呼ひみくこを卑弥呼の後の倭国王に任命したと読める”、という。しかし、その男王は伊都いと国王であったという説も有力である。

いずれにせよ、狗奴くな国は、戦争に勝利した後、女王国連合の南半分すなわち筑後川流域を支配下に置いたが、背振山地北側の伊都いと国や国のある筑前は、朝鮮半島南岸地域の狗邪くや国(狗邪韓国・後の金官加耶)とともに依然として帯方郡の影響下にあったはずである。そこで、卑弥呼の宗女である十三歳の台与とよを王に立てた。「復た卑弥呼の宗女の台与、とし十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。張政等、檄(布告文)を以って台与を告喩す」の記述からも分かるように、ここでも張政が大きな役割を果たしていたと思われる。魏の帯方郡から派遣された張政は19年間(247年~266年)も駐在している。その間、247年の卑弥呼の死、男王の擁立、しかし国中服さず、更に相誅殺すの状況、それを収めるため卑弥呼の宗女の台与を年十三で擁立、これらに深く関わった。248年に張政の庇護の下で女王となった台与は魏に朝貢したが、親魏倭王の称号は得られなかった。「台与、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因りて台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す」。その後、張政は「国中遂に定まる」まで滞在して、266年に帰国している。張政が19年間も伊都国に滞在して倭国を管理下に置いていたのは、すべて魏の帯方郡の意向である。つまり、卑弥呼・台与の時代までは、倭の王権は中国王朝の漢・魏・晋の権威に大きく依存していたのである。

 また、森浩一は張政の帰国後について、“張政は倭国を一つにまとめた功績を評価され、帯方郡へ帰国後、太守になったと推定される、張撫夷という墓誌銘のある墳墓が帯方郡の遺跡(今の北朝鮮・黄海北道鳳山郡)から出土している。年代は288年ごろで、314年の帯方郡滅亡の少し前である”、と非常に興味深い推測をしている。


・「梁書倭伝」

また卑弥呼の宗女台与を立て王と為す。その後、また男王を立て、並びに中国の爵命を受く。」


 266年の台与による晋への遣使の後にこの記事があるが、その後、倭国の消息は中国の史書から消えてしまい、その再出現は、413年に南朝の東晋とうしんに遣使した「晋書」の記載まで待たねばならない。この266年から413年までの147年間におよぶ空白は、日本古代史において「謎の4世紀」と呼ばれている。 

水野祐は、“この147年間は日本国史上極めて重要な時期であるにもかかわらず、確実な記載がないということが一つには日本の古代史をいつまでも謎に包まれたままにしておかねばならない原因となっている。要するに5世紀以前の日本は記録時代に入っていず、伝承時代であったと考えられるから、日本側には確実な史実を伝える記録が皆無と思われる”、と述べている。

この間、大和地方に日本独自の前方後円墳が発生している。台与がいつどこで死んだのかも問題である。魏の帯方郡から派遣された張政は19年間(247年~266年)も駐在している。その間、北部九州の女王国連合は帯方郡から派遣された張政の監視下にあった。その張政を帯方郡に送り届けた後に張政の後任者が置かれたようにはみえない。なぜなら、3世紀の後半から4世紀の中葉に到る100年間は、日本列島においても動乱期であったが、中国でも朝鮮半島でも大きな政治的変動が起こっていたからである。中国では、2世紀中葉ごろから後漢が衰退したことにより、朝鮮半島での支配力が鈍り、やがて朝鮮半島北部の高句麗が強大化した。220年には後漢が滅亡して、以後の中国は魏・呉・蜀の三国時代に入る。それは朝鮮半島南部の韓民族を刺激し、馬韓・辰韓・弁韓の三韓はそれぞれが政治的に統一されていった。中国では後漢の次の魏は265年に滅亡してしまった。次に、280年に晋が三国の統一を果たしたものの、北方諸民族の侵入によって317年に晋はその根拠地を南方の長江流域に移さざるを得なくなり、東晋の時代になった。こうした状況の中、朝鮮半島北部の大同江流域を中心としていた楽浪郡・帯方郡は313年~314年にかけて高句麗によって滅ぼされた。それに刺激され、百済建国(346年)、斯廬(後の新羅)建国(356年)、また、日本書紀によると367年に任那(金官加耶)も建国に到っている。 

朝鮮半島における三国時代(4世紀~7世紀)は、高句麗・百済・新羅の三国と加耶諸国が登場し、覇を競った時代である。高句麗はすでに1世紀ごろから中国史書に登場しているが、百済や新羅が中国史書や日本の古事記・日本書紀に登場するのは4世紀に入ってからのことである。それ以前から百済・新羅の中核をなす集団は存在したが、それらが周辺地域の集団をまとめ、隣接する王権との交渉を始めた段階である4世紀は朝鮮半島における画期となった。 


 魏に代わって265年に建国した晋は安定した政権ではなかった。そのため帯方郡もかつてのように韓と倭を支配下に置く余裕はなかったはずである。その証拠に、楽浪郡・帯方郡は晋に属してから50年足らずで高句麗に占領されてしまった。南側半分を狗奴くな国(後の熊襲)に奪われた台与の倭国連合は、もはや帯方郡の権威や軍事面での援助を受けられないことを悟り、これからどう生き残るかを模索せざるを得なかった。倭国連合の一員である狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官加耶)を盟主としていた加耶諸国も同様な立場にあったと推測される。九州では、南から狗奴くな国が迫ってくる。朝鮮半島では、高句麗の南下により馬韓・辰韓・弁韓の三韓が緊張状態に置かれる。これが北部九州の倭国連合の置かれた当時の状況である。このような状況下での解決策は、日本列島内でより安全な場所を確保すること以外なかったと思われる。幸いにして、BC2世紀ごろから4世紀にかけて、加耶地域は朝鮮半島における主要な鉄の産地であり、狗邪くや国は加耶諸国の中で盟主的存在であった。狗邪くや国の支配者は、初めは楽浪郡、その後は帯方郡から任命された軍人であった可能性は高いが、一方では、BC1世紀に朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)地域に存在したとされる辰王の後裔の可能性もある。辰王の後裔であれば、北部九州の伊都いと国王や国王も同系であったと考えられる。帯方郡の庇護、同時にその支配から解放されたとき、この三者が結束して新たな拠点づくりを画策したと考えても不思議ではない。 

日本列島では、晋の時代(265年~317年)と同時期の3世紀後葉から4世紀初頭に奈良盆地を中心とする地域に前方後円墳が出現し、古墳時代を迎えている。東アジアでは、後漢の滅亡を契機として中国の王権が混乱する一方で、周辺地域の諸勢力が新たに台頭し成長していく変動期の中にあったといえる。

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