第15話 狗奴国(後の熊襲)

・「魏志倭人伝」

「正始元年(240年)、(帯方郡の)太守弓遵きゅうじゅん、建中校尉梯儁ていしゅん等を(倭国に)遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国にいたり、倭王に拝仮し、併せて詔をもたらし、金・帛・錦・けい(毛織物)・刀・鏡・采物(身分を示す彩色された旗や衣服)を賜う。倭王、使に因りて上表し、恩詔(恩恵と詔)を答謝(答礼の謝辞)す。 其の四年(243年)、倭王、復た使の大夫伊声耆いせき掖邪狗ややく等八人を遣わし、生口せいこう・倭錦・絳青けん(かとりぎぬ)・緜衣めんい帛布はくふ・丹・木ゆずか(弓柄)・短弓・矢を献上す。掖邪狗等、壱に率善中郎将の印綬を拝す。 其の六年(245年)、詔して倭の難升米なしめ黄幢こうどう(軍旗)を賜い、(帯方)郡に付して仮授せしむ。其の八年(247年)、太守王頎おうき、官に至る。倭の女王卑弥呼ひみこ狗奴くな国の男王卑弥弓呼ひみくこもとより和せず。倭の載斯さいし烏越うえつ等を遣わして(帯方)郡にいたり、相攻撃する状を説く。塞曹椽史そくそうえんし張政ちょうせい等を遣わし、因りて詔書・黄幢こうどうもたらし、難升米に拝仮し、げき(檄文)をつくりて之を告喩す。」


 森浩一は、“倭の女王卑弥呼は狗奴くな国の男王卑弥弓呼ひみくこともとから不和であった。倭の載斯さいし烏越うえつらを帯方郡に遣わし、相攻撃する状を説明した。そこで帯方郡は塞曹椽史そくそうえんしの張政らを遣わし、詔書・黄幢こうどう(黄色の軍旗)をもたらし難升米なしめに仮授した。仮授とは皇帝に代わって授けることである。来朝した郡史(張政)がげき(布告文あるいは檄文)をつくって難升米に告げ諭したのである”、と説明している。


 魏志倭人伝に登場する狗奴くな国は九州の中西部、今の熊本県にあったと考えられる。九州では、6300年前の鹿児島の鬼界カルデラの大噴火によるアカホヤ火山灰が強く及んだ地域(鹿児島県・宮崎県・熊本県・大分県)で畑作に適したところと、そうでない地域(福岡県・佐賀県・長崎県)で弥生時代から稲作が発達したところ、との二つに分けて考える必要がある。狗奴国の領域は畑作地帯にあった。 

狗奴国には男王の卑弥弓呼ひみくこと官に狗古智卑狗くこちひこがいた。狗奴国は女王国連合に属さず、卑弥呼の倭国と戦争状態にあったと伝えられる。脚台付甕型土器や免田式めんだしき土器(重孤文じゅうこもん土器)の分布状況などから、中九州の今の熊本地方が狗奴国の主な領域だったと推定されている。それは、東から西に有明海に流入する菊池川流域、緑川流域、白川中・下流域、白川上流域(阿蘇地方)、球磨くま川下流域(八代地方)、球磨川上流域(人吉盆地)であるが、遺跡からの出土遺物のなかでも鉄器の多さが目立つ。一番北にあたる菊池川流域は女王国連合と狗奴国との争奪の地となっていたと思われる。

卑弥呼の女王国連合の時代(2世紀後葉~3世紀前半)の狗奴国の領域の北限は現在の熊本市を流れる緑川・白川あたりであったが、女王国連合を破った後は筑後に近い菊池川流域にまで進出したと考えられる。方保田東原かとうだひがしばる遺跡は、菊池川流域の山鹿市にある3世紀の環濠集落の中で最も規模の大きな遺跡である。家型土器・石包丁型鉄器・巴形銅器が各1点、舶載鏡3点、方格規矩鏡1点、仿製鏡9点、その他鉄鏃など多種多数の青銅・鉄製品が出土し、菊池川流域の拠点集落であり、官の狗古智卑狗くこちひこの居住地とも考えられる。 

緑川流域の熊本市南区城南町にある2世紀から3世紀末ごろにかけての新御堂遺跡(環濠集落)からは、銅鏡4点、銅鏃2点、さらに至近距離にある溝口遺跡からは巴形銅器や台付舟形土器が出土しており、威信財の多さが目立ち、男王の卑弥弓呼ひみくこの居城と考えられる。また、嘉島町の二子塚遺跡からは鉄器339点を含む2000点以上の鉄製品が出土し、当時の狗奴国では鉄器生産が各集落で行われていたことが分かった。また、白川上流域の阿蘇市阿蘇谷西部にある狩尾遺跡群は鉄器生産の中心地と思われる。2世紀末ごろから3世紀末ごろにかけての鉄製品331点のうち鉄片68点・鉄滓160点が出土した。この遺跡群の近くから褐鉄鉱かってっこうを産出した。製鉄と同時に褐鉄鉱を焼くことによって当時の貴重品であった赤色染料のベンガラも得られた。 


 狗奴国があったとされる今の熊本地方を中心とした中九州地域における鉄器について、村上恭通(愛媛大学教授)は、“その普及の初期段階は有明海に面する地域や有明海に注ぐ河川の下流域がその窓口を担い、北部九州と同時期である弥生前期末~中期初頭(BC200年前後)に、鋳造鉄器片及びその再加工品が熊本市の遺跡などで出土している。いずれも朝鮮半島系の粘土帯土器を出土する遺跡に隣接している。中期末葉(1世紀後半)になると、大集落で朝鮮半島系の板状鉄斧や北部九州系の袋状鉄斧など、鍛冶を伴う大量の鉄製品を有するようになる。また、北部九州では余り見られなくなった舶載(輸入)鋳造鉄器の再加工もまだ顕著にみられる。阿蘇特産の赤色顔料であるベンガラを交換物資として青銅器・ガラス・鉄素材などを入手したと考えられる。弥生後期中葉(2世紀後葉)になると、熊本・大分の菊池川、阿蘇から流れる白川流域では、鉄やじりやりかんな刀子とうす・袋状鉄斧・摘鎌・鎌・針・きりなどの武器・狩猟具・農具のあらゆるものが鉄器化し、大分県の大野川の上中流域でも、同様な傾向を示すようになる。このように鉄素材の供給も潤沢で、工人の技術も高かった。弥生後期中葉(2世紀後葉)から末期(3世紀後葉)にかけての鍛冶遺構は日本列島の中で最も多い”、と述べている。 


 また、土器について森浩一は、“弥生土器のなかで一番気品のある立派な土器は、その形・薄さ・つくり・色調など、様々な点から、2世紀に突如として登場し、4世紀に消えていった熊本県南部から南九州に多い免田式めんだしき土器、あるいは重孤文じゅうこもん土器と呼ばれる土器である”という。その特徴は首が長く細く、胴部がソロバン玉状で、重孤文という重なった円弧が描かれていることである。そのルーツは中国遼寧地方のジョッキ形土器にあると考えられる。中心となる地域は人吉盆地ではなく、もう少し北の熊本平野の南端にあり、なおかつそこは鉄製品が豊富にあったところでもある。卑弥呼の時代を中心とした時代のクマソ(熊襲)の地で作られ、鉄とセットになって、有明海沿岸から南にかけて九州の西半分を中心に分布している。そこは邪馬台国時代の狗奴くな国を想定させる。倭人伝には、狗奴くな国は会稽かいけい(上海の南の紹興)東冶とうや(福建)の東にある、産物は朱崖しゅがい(海南島)と同じであると書かれている。狗奴国は熊本県球磨くま郡に本拠があり、後のクマソ(熊襲)である可能性は非常に高い。狗奴国は4世紀以降の熊襲の時代になると、南に後退したようだ。「熊」は肥後の球磨くま郡、「襲」は後の大隈の贈於そを郡に当たると推定される。記紀以前の古伝に熊襲二国とある。当時は南九州の東部が“ソ”、西部が“クマ”の地域であった。なぜ後退したのか? それは景行の時代であったと思われるが、後で述べる。

熊本県の南端、球磨川上流の人吉盆地の免田町には6世紀ごろの横穴式石室を持つ才園さいぞん古墳と鬼の釜おにのかま古墳がある。才園古墳からは立派な馬具と、飾り馬につける金メッキをした飾り板である杏葉ぎょうよう、そして鉄製のハサミが出土している。さらに日本列島全体では1万枚近い鏡が出土している中で、3枚しか出ていない金メッキをほどこした平縁の神獣鏡が出土している。そこには不老長寿と、王になり、ともに栄えるという銘文がある。それは後漢末か三国時代のの鏡である。狗奴国は呉と交流があったと考えられる。金メッキされた他の二つの鏡は福岡県と佐賀県の境にある銚子塚古墳と岐阜県の城塚古墳から出土している。 


 狗奴くな国について松本清張は断定的に次のようにいう。“狗奴国は熊襲である。なぜなら、その官名に「狗古智卑狗くこちひこ」があるからである。平安時代中期に作られた辞書である「和名抄」に菊池郡久々地くくちと注し、九郷に分かつ、後世訛りて岐久地きくちとなるとある。狗奴国と女王国が不仲であったのは、一つに人種の違いにある。狗奴国は琉球諸島経由の南方系との混血、女王国は朝鮮半島経由の北方系との混血である。二つ目は交易ルートの違いである。3~5世紀の中国鏡の輸入経路には二つあった。北路(華北 -> 朝鮮半島の楽浪郡 -> 北部九州の倭国のクニグニ)と、南路(江南の -> 九州中西部の有明海沿岸地域への直通、すなわち狗奴国)であった。3世紀に狗奴国は呉と交易関係があった。また、狗奴国は水田稲作地域が少なく畑作が主体で、北部九州は水田稲作が主であった。女王国と狗奴国との戦争は、この二大地域勢力の経済闘争であり、征服戦争であった。”


 森浩一は、女王国と狗奴くな国について、“中国に倭の情報が入るのに二度の機会があった。一度目が帯方郡の役人梯儁ていしゅんで、240年に来倭し、その年か翌年に帰国している。二度目が張政ちょうせいで、247年に来倭し、266年に帰国するまで、実に20年近く滞在している。その間に何をしていたのか、狗奴国との休戦を監視していたと見るのが自然である。265年にしんに滅ぼされた。266年(秦始二年)には台与とよが魏から変わった晋に朝貢したが、その後、晋書に倭国が5世紀初頭の413年に東晋とうしんに朝貢する記事が出てくるまで、147年間にわたって日本のことは中国の史書から姿を消してしまう。これが日本古代史をいつまでも神秘のベールにつつませる要因になっている。3世紀の九州の女王国連合と5世紀の河内王権とは、どのような関係があるのかということは、日本古代史上極めて重要な課題である。266年以降、台与とよが史料に登場しないのは、張政らの帰国後あまり時を経ないうちに、帯方郡の干渉を受けることもなくなった南九州の狗奴国と北部九州の女王国は交戦を再開し、狗奴国が勝利した。もし女王国が狗奴国に勝利していたならば、卑弥呼や台与とよについての伝承が、文献に残されるはずである。それがない以上、女王国が大和へ東遷したということはいえない。また、日本の古典の中に卑弥呼や女王国、台与とよに関する伝承が全くないのは、伝承が形成されるまでに女王国は消滅してしまっていたからである。狗奴国については熊襲の名で伝承されてきている”、と述べている。


 狗奴国が女王国を破ったことは、水野祐も同意見で、“狗奴国は女王国との抗争において、卑弥呼の宗女台与とよの時代あるいはその直後に、女王国を倒してその支配権を掌中に収め、九州を統一した”、と述べて、その狗奴国の後裔が大和へ東征したとしている。さらに、卑弥呼の女王国を破った狗奴国が北部九州をも支配下に置き、九州倭国となったという。

この真偽はともかく、狗奴国は朝鮮半島とも中国の江南地方とも古くから交流があり、そこから豊富な鉄素材の供給を受けて、卑弥呼の時代の2世紀末から3世紀後葉にかけて軍事面でも強国であったことは間違いない。


 鉄素材の供給と鉄器の生産・流通を管理していたのは男王の卑弥弓呼ひみくこと思われる。免田式土器の消長から推して、3世紀後葉ごろから狗奴国は菊池川流域、緑川流域、白川中・下流域、白川上流域(阿蘇)、球磨川下流域(八代)から徐々に撤退し、最終的には球磨川上流域(球磨盆地)と薩摩半島にまで狭められた。

3世紀末~4世紀初頭には新御堂遺跡の近くの宇土半島基部に前方後円墳である城の越古墳が作られ、狗奴国の終焉となったと考えられるが、この考古学的な事実が狗奴国のその後についていろいろな憶測を呼んでいる。3世紀末~4世紀初頭といえば、近畿地方の大和に崇神が登場した時期にあたる。狗奴国の中心勢力は大和へ東征したという水野祐の説もあるし、女王国連合崩壊後に朝鮮半島南部の加耶地方から北部九州に進出してきた勢力との戦いに敗れて南へ後退したという説もある。これらについては後述の神武じんむ崇神すじん景行けいこうを論じる中で明らかにしていきたい。

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