第14話 公孫氏と帯方郡
魏志倭人伝において、王を称するのは卑弥呼以外には
・「魏志韓伝」
204年、公孫
ここで後漢末の混乱から
この戦いによって、曹操・孫権・劉備の三雄による天下三分の形勢の基礎ができた。「赤壁の戦い」のあった208年から、曹操が死に、その子
さて、中国が混乱に陥っていたとき、公孫氏はどのように中国東北地方で勢力を拡大したのだろうか?黄巾の乱(184年~192年)が続く中、189年に後漢から
234年に蜀と呉は同時出兵し、魏を攻撃したが、魏の固い防御に阻まれ、その陣中で諸葛亮は54歳で病没した。これをきっかけに魏の明帝は攻撃に転じ、燕王と称していた公孫淵に対しても、
BC108年の楽浪郡の設置後、朝鮮半島南岸の
女王国連合が楽浪郡とこれだけ密接した関係を築くにはある程度の移動の容易さが伴っていたはずである。BC1世紀ごろにはすでに、博多 -> 壱岐 -> 対馬 -> 狗邪韓国への朝鮮海峡横断ルート、さらに楽浪郡や後の帯方郡への航路は確保されていたので、3世紀前半においても、このルートを利用して
この「一大率」について松本清張はより大胆な見方をしている。
“一大率は帯方郡より伊都国に派遣された帯方郡の属官(軍人)とみるべきである。一大率が置かれたのは、239年に
女王国連合の有力国であった伊都国と狗邪韓国はあたかも楽浪郡(204年の分割後には帯方郡)の統治国であったようだ。魏への朝貢も帯方郡がなければ成り立たなかったはずである。それ以前の57年に、百余の小国に分かれていた倭人の中から、後漢に朝貢して、光武帝が「漢委奴国王」の金印を賜った
・「魏志倭人伝」
「
共立された巫女女王とはいえ、卑弥呼は238年6月(238年8月に公孫氏は滅亡しているため239年の誤りとされる)、親魏倭王として大夫
朝鮮半島南部では、BC2世紀ごろには鉄器が流入し始め、鉄器使用の段階に入る。楽浪郡設置以降、BC1世紀にはかなり鉄器が普及しており、副葬品としても多数出土する。一方、
弁韓の本拠地である
当時の日本列島では鉄素材を生産できなかった。できたのは入手した鉄素材を鍛冶加工することだけであった。
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