第14話 公孫氏と帯方郡

 魏志倭人伝において、王を称するのは卑弥呼以外には伊都いと国のみで、国は王号を称していない。57年の光武帝が「漢委奴国王」の金印を賜ったのが奴国王であれば、107年に「倭国王・帥升すいしょう等、生口せいこう160人を献じ請見を後漢に願う」までの50年間に、倭国の秩序が形成され、奴国から伊都国への政権移動があったと考えられる。生口せいこうは単なる奴隷ではなく、宮廷や貴族の下で働く下女・下男であったと思われる。そのため、健康で容姿端麗で、ある程度の教養や礼儀作法も身に着けた男女が選ばれたようだ。倭国王・帥升すいしょう伊都いと国王である。しかし、帥升“等”と記され、生口も多いことからまだ強固な連合体ではなかったと思われる。さらに2世紀後半には「倭国乱」と呼ばれる騒乱により、北部九州沿岸地域の伊都国から筑後の有明海沿岸地域の邪馬台国を中心とした勢力への主導権の移動があったと想定される。卑弥呼が共立され、倭国の女王となったのは公孫氏こうそんしが支配する帯方郡たいほうぐん(204年に楽浪郡から分割・新設された)に朝貢する前の180年代後半である。卑弥呼は女王になってからは人前に姿を現さず、多数の侍女に奉仕されていた。卑弥呼は倭国王であって、邪馬台国女王ではない。しかし、邪馬台国に居住していた。卑弥呼ひみことその後継の台与とよの時代までは、中国王朝の権威により倭国王の地位は保証されていたといえる。王権における外部依存は日本古代史を規定する大きな要因であった。


・「魏志韓伝」

204年、公孫こうが楽浪郡の南部を分割して帯方郡を作った。そしてかんわいを攻撃した。その結果、「是より後、かんついに帯方に属す」、倭と韓は帯方郡に属したとある。


 ここで後漢末の混乱からしょくの中国三国時代へと至る過程を見てから、卑弥呼の女王国連合に大きな影響力を持った公孫氏について改めて概観してみる。


 黄巾こうきんの乱(184年~192年)以来、戦乱の続く中国の北方では、疫病の流行もあり、人口が激減し、土地は疲弊し、大量の流民が発生していた。このため曹操そうそうの支配地域である中原ちゅうげん一帯は荒廃し、後漢最盛期の10分の1にまで人口が減ったといわれる中、曹操は208年になってようやく河北を平定し、後漢の丞相じょうしょうの位についた。その間、長江(揚子江)以南の東側にあたる江南地域では、孫策そんさく孫権そんけん兄弟が異民族である山越さんえつの討伐と統治、そして漢民族への同化を進め、成功していた。江南を固めた孫権は208年、長江中流にまで軍を進め、さらに荊州けいしゅう(長江中流域の今の湖北省)の劉表りゅうひょうを攻めようとしたが、劉表は病死してしまった。一方、曹操も荊州に南下してきた。そのとき、劉備りゅうびあざな玄徳げんとく)は劉表の下に身を寄せた客分であった。そこで劉備は諸葛亮しょかつりょうあざな孔明こうめい)と出会っていた。劉表病死の跡を継いだ次男の劉琮りゅうそうは曹操に降伏してしまったため、劉備は南方に逃走したが、曹操に急追された。曹操は孫権を攻めるべく80万の水軍と豪語した脅迫状を出したが、孫権の将軍たち、特に魯粛ろしゅくは劉備と劉表の長男である劉琦りゅうきに、孫権と同盟するよう説得し、さらに諸葛亮を伴って曹操と戦うようにと孫権も説得した。魯粛は荊州の反曹操勢力を味方にする必要があると考えた。「赤壁せきへきの戦い」は船団を組んで長江を下ってきた曹操軍と、長江を上ってきた孫権の将軍周瑜しゅうゆとの間で、長江南岸の赤壁で火ぶたが切られたが、緒戦で曹操軍はつまずく。曹操軍は北岸の烏林うりんに引き上げ、両軍が長江をはさんで対峙した。次に周瑜は部将の一人が投降と見せかけて、途中で舟に火を放ち、曹操の船団に突入した。船団と軍勢の大半を失った曹操は北に逃げ帰った。

この戦いによって、曹操・孫権・劉備の三雄による天下三分の形勢の基礎ができた。「赤壁の戦い」のあった208年から、曹操が死に、その子曹丕そうひが魏の皇帝に即位する220年までは、三雄が激しい抗争を繰り広げた時期である。三国の国勢は、魏が最も強大で、呉がそれに次ぎ、蜀が最も劣る。


 さて、中国が混乱に陥っていたとき、公孫氏はどのように中国東北地方で勢力を拡大したのだろうか?黄巾の乱(184年~192年)が続く中、189年に後漢から遼東りょうとう太守に任命された公孫たくは、まず近隣の高句麗こうくり烏丸うがんなどを討伐している。また夫餘ふよが遼東郡の支配下に属すると、高句麗と鮮卑せんぴの間に位置することを重要視して、一族の娘を妻として与え、夫餘との関係を強化した。190年以降には、遼東郡を二郡に分割して太守を置き、渡海して山東半島の東莱とうらい郡を攻略して営州刺史ししを置いた。そして遼東王を自認し、後漢末の混乱の中で河北を平定中で、まだ後漢の一将軍であった後の王の曹操そうそうからは、海北の土地を割いて公孫氏に預け、子々孫々支配する権利を与えるとの約束がされていたという。公孫氏は後漢・魏の両者から公的に東夷とうい諸国に対する独自の支配権を認められていたのである。卑弥呼の公孫氏への朝貢は公的なものであり、220年に滅亡した後漢から、その後に華北で建国した魏にも継承された。204年には公孫たくの子の公孫こうが位を相続し、楽浪郡の南部を分割して帯方郡を設置した後、かんわいを征伐したことにより、韓とその南にあるは帯方郡に属するようになった。この記述をそのまま読むと、倭は郡(楽浪郡・帯方郡)に反抗し征伐されたわけではないので、それ以前から楽浪郡に属していたことになる。また、三韓時代の倭が郡(楽浪郡・帯方郡)に反抗したような記述は中国の文献にいっさい登場していない。これ以降、倭国は帯方郡を介して公孫氏に内属し、238年の公孫氏滅亡まで続く。公孫こうの子の公孫えんは、魏との関係が悪化すると、237年に自立して燕王えんおうとなり、独自の年号を建てた。さらに、鮮卑と同盟し魏の背後を攻撃させている。このとき公孫氏は遼東りょうとう楽浪らくろう帯方たいほう玄菟げんとの四郡を支配する独立的な王であるとともに、山東半島の東莱とうらい郡も支配し、高句麗・夫餘・烏丸・鮮卑にも影響力を有し、韓と倭を内属させていた。また、華南の呉は公孫淵を燕王と表記している。一方で、公孫氏は完全に独立を維持できたわけではなく、華北の魏、華南の呉の双方から懐柔と従属の圧力が絶えず加えられていた。公孫淵の兄のこうが官位について魏の王都である洛陽にいたことなどからすれば、形式的には魏に臣属していた。ところが、232年に魏の明帝曹叡そうえいが遼東を攻撃させたことにより、魏とは敵対的となり、呉とは親密な関係となった。その後、魏と公孫氏の関係は一時的には回復した。

234年に蜀と呉は同時出兵し、魏を攻撃したが、魏の固い防御に阻まれ、その陣中で諸葛亮は54歳で病没した。これをきっかけに魏の明帝は攻撃に転じ、燕王と称していた公孫淵に対しても、司馬懿しばいを派遣し攻撃し、ついに238年に公孫氏は滅亡した。この時、公孫淵は呉に援軍を要請したが、呉の援軍の到着が239年4月となったため手遅れであった。


 BC108年の楽浪郡の設置後、朝鮮半島南岸の金海きめを中心とした狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官加耶)は楽浪郡の管理下のおかれ、楽浪郡の直轄地あるいは出先機関の役割を担っていたと思われる。楽浪郡の主要な目的は加耶の鉄資源の取得であった。卑弥呼の女王国連合の時代、狗邪韓国くやかんこくは女王国連合に属していたとある。女王国連合もまた楽浪郡主導で設立され、楽浪郡分割後は帯方郡の管理下にあったと考えられる。 

女王国連合が楽浪郡とこれだけ密接した関係を築くにはある程度の移動の容易さが伴っていたはずである。BC1世紀ごろにはすでに、博多 -> 壱岐 -> 対馬 -> 狗邪韓国への朝鮮海峡横断ルート、さらに楽浪郡や後の帯方郡への航路は確保されていたので、3世紀前半においても、このルートを利用して張政ちょうせいらの軍事顧問団は帯方郡から北部九州へ頻繁にきていたと考えられる。海路・陸路ともにその移動の困難さを考えると、張政らが3世紀前半に瀬戸内海経由で奈良盆地へ頻繁に通ったとは到底考えられないし、楽浪郡・帯方郡に関わるその当時の考古学的遺物も畿内からは出土していない。倭人伝の伊都国の前文では「郡使往来常所駐」とあって、伊都国は帯方郡からの使いが来たらいつも留まる所であった。伊都国の後文では、「女王国より北には特に一人の大率だいそつを置き諸国を検察する。諸国これをおそはばかる。常に伊都国に治す。国においては(中国の)刺史しし(軍政官)のような役割である」とある。この大率を派遣したのは帯方郡と解釈するのが妥当である。


 この「一大率」について松本清張はより大胆な見方をしている。

“一大率は帯方郡より伊都国に派遣された帯方郡の属官(軍人)とみるべきである。一大率が置かれたのは、239年に難升米なしめなどが帯方郡に詣り、洛陽の魏の天子に詣り朝献した後と考えられる。そのときに、帯方郡の使者を伊都国に駐留させることや、一大率を伊都国に治すことなどが決まったと思われる。なぜなら、北部九州からの使者は漢の時代は朝貢といっても楽浪郡どまりだったものが、魏になると帯方郡の介添えで中国に入り、洛陽に行っているからである。このときから北部九州は魏の命を受けた帯方郡の管理下に入ったと思われる。一大率はその権限をもって、帯方郡から来る船を港に臨検して、女王あての賜遺の物と、伊都国に駐在する郡使あての文書とを仕分けしたが、伊都国あてのものもあったにちがいない。この伊都国王と巫女女王である卑弥呼との実体の相違は帯方郡でも魏でも承知していたと思う”と述べている。


 女王国連合の有力国であった伊都国と狗邪韓国はあたかも楽浪郡(204年の分割後には帯方郡)の統治国であったようだ。魏への朝貢も帯方郡がなければ成り立たなかったはずである。それ以前の57年に、百余の小国に分かれていた倭人の中から、後漢に朝貢して、光武帝が「漢委奴国王」の金印を賜った国あるいは伊都いと国のような有力国が出現したことや、107年に、倭国王帥升すいしょう等、生口160人を献じ請見を後漢に願ったことも、楽浪郡の支援があったからこそ実現できた。その証拠に、当時の倭国には文字がなかった。すべて楽浪郡の文化力のおかげである。魏が倭国連合を友好国として手なずようとしたのは、楽浪郡・帯方郡が朝鮮半島南部の韓族の反抗に手を焼いていたからでもある。倭人国による漢や魏への朝貢は、東夷の辺境の地の首長が中国王朝へ帰順の意志を示したという観点からみると、楽浪郡や帯方郡太守のお手柄になっていたと思われる。 


・「魏志倭人伝」

景初けいしょ二年(238年)六月、倭の女王、大夫難升米なしめ等を遣わし(帯方)郡にいたり、天子に詣り朝献せんことを求む。太守劉夏りゅうか、吏を遣わし、ひきい送りて京都けいと(洛陽)にいたらしむ。其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、親魏倭王卑弥呼ひみこに制詔す。帯方の太守劉夏、吏を遣わして、汝の大夫難升米なしめ・次使都市牛利としごりを送り、汝の献ずる所の男生口せいこう四人・女生口せいこう六人、班布二匹二丈を奉り、以って至る。汝の在る所、はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我れ甚だ汝をいつくしむ。今汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬仮し、装封して帯方の太守に付し仮授す。汝、其れ種人を綏撫すいぶし、勉めて考順を為せ。汝の来使の難升米なしめ牛利ごりは遠きをわたり、道路の勤労(苦労)す。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見し労賜(労をねぎらい)して遣還す。今、絳地交竜にしき五匹・絳地雄生縐粟けい(毛織物)十張・蒨絳せんこう(赤色の織物)五十匹・紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢直(貢物)にこたう。又、特に汝に紺地句文にしき三匹・細班華けい(毛織物)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜う。皆装封して難升米・牛利に付す。還り至らば録受し、ことごとく以って汝の国中の人に示し、国家(魏)汝をいつくしむを使し。故に鄭重に汝に好物を賜う也。」


 共立された巫女女王とはいえ、卑弥呼は238年6月(238年8月に公孫氏は滅亡しているため239年の誤りとされる)、親魏倭王として大夫難升米なしめ等を帯方郡に遣わし、魏に朝貢し、金印紫綬を賜っている。239年といえば、朝鮮半島南部ではまだ馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代(紀元前後~3世紀)であるが、その時代に鉄器の生産が本格化している。 

朝鮮半島南部では、BC2世紀ごろには鉄器が流入し始め、鉄器使用の段階に入る。楽浪郡設置以降、BC1世紀にはかなり鉄器が普及しており、副葬品としても多数出土する。一方、鍛冶かじ工房は1世紀以降に本格化した生産遺跡がみられる。有名なのは辰韓の慶州の隍城洞ふぁんそんどん遺跡で1世紀には鍛冶工房があり、3世紀には大規模な工房群がつくられている。工房の他に斧などを鋳造した鋳型や溶解炉が見つかった。一方、馬韓の石帳里遺跡(3~5世紀)の段階になると、製鉄せいてつ鋳造ちゅうぞう精錬せいれん鍛冶かじなど各種の工程が行われている。石帳里遺跡からは古代の円形の炉跡や炉に空気を送る羽口(送風管)が見つかっている。古代の朝鮮半島南部では、豊富に産出する鉄鉱石を砕いたものを原料にして製鉄を行っていたようだ。

弁韓の本拠地である金海きめ狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官国)でも、「魏書東夷伝弁辰条」に、「国、鉄を出す。かんわい、皆従って取る。諸の市買には皆鉄を用いる。中国の銭を用いるが如し。又以って二郡に供給す」と書かれているように2世紀のころから鉄素材や鉄器を生産していた。二郡とは楽浪郡・帯方郡のことである。

当時の日本列島では鉄素材を生産できなかった。できたのは入手した鉄素材を鍛冶加工することだけであった。伊都いと国・国のあった北部九州、狗奴くな国のあった熊本地方、そして山陰地方と北陸地方の有力国も、朝鮮半島の狗邪くや国からの鉄素材の供給を受けるしか方法がなかったのである。したがって、狗邪くや国の支配者の発言力は絶大であったと思われる。楽浪郡あるいは帯方郡の太守と、その郡が承認していた狗邪くや国の支配者、この二つの力は伊都いと国王や国王よりはるかに大きかった。その力の大きさは、この後も倭王の系譜を左右することになる。

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