第13話 邪馬台国はどこにあったのか?
邪馬台国論争は終わりそうにない。日本の初期の墳墓には墓誌がないからである。したがって、自分たちの文字もなかったことになる。中国の史書である3世紀成立の魏志倭人伝に、その所在地あるいは墳墓の有様が記載されているが、決め手にはなっていない。文献史学者たちは考古学の成果を取り入れながらいくつかの仮説を提案している。それは正当なアプローチである。また、考古学者たちは魏志倭人伝などの古文献に登場する人物や墓が特定できる遺物を見つけようと日々努力しており、すでに厖大な数の遺物が出土し、その分析もすすんでいる。
近年、韓国や中国東北部(旧満州)での遺跡や古墳の発見・発掘にはめざましいものがある。日韓両国の考古学者の交流もあり、弥生時代から古墳時代にかけての朝鮮半島と日本列島における邪馬台国時代(2世紀後葉~3世紀前半)の状況はかなりわかってきている。中国の史書や朝鮮の三国史記そして日本の記紀のどの部分が創作で、どの部分が事実を反映しているのかも推定されている。
さて、邪馬台国はどこにあったのか?古事記伝を書いた本居宣長以来、延々と論争が続いている。なぜなのか?
一つには、3世紀成立の「三国志」の魏志倭人伝の記事は中国語で書かれ、句読点のないわずか二千字ばかりの文字である。そのため異なる解釈が生じる。
二つには、距離の記事の起点があいまいであるため、東西南北に間違いがあるのではとの疑問が出てくる。
この二つの問題はほぼ解決できているようである。
魏志倭人伝を論じる前に、張楚金によって書かれた類書(百科事典)で、唐代の660年頃に成立した「
そこには、「その旧語を聞くに、
倭国については、「山に
では、魏志倭人伝に登場するクニグニ、その風俗、そして卑弥呼についての記述を見てみよう。
・「魏志倭人伝」
「倭人は帯方(郡)の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑(国と邑)を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、
「(帯方)郡
「始めて一海を度ること千余里にして
「東南して
「女王国
「其の南に
「男子は大小と無く皆
「其の風俗は
「倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食し、皆
「その行来・渡海、中国に詣るには、以下省略・・・
・・・其の俗、挙事・行来(行事や旅行)に
「其の会同の
「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(後ずさり)して草に入り、辞(言葉)を伝え事を説くには、あるいは
「其の国、本亦(元来は)男子を以って王と為し、住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為し、名づけては卑弥呼と曰う。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。
「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭の種なり。又、
「景初二年六月、倭の女王、大夫
卑弥呼の邪馬台国はどこにあったか? 「魏志倭人伝」では、卑弥呼を「女王」、女王の都している所を「邪馬台国」、その国を「女王国」としている。女王国連合は、
森浩一は、“「女王国」というのは、邪馬台国を含めた29ヶ国の首長国連合の総称である。倭国の北限と記載されている朝鮮半島南部の狗邪韓国を入れると30ヶ国になる。卑弥呼は女王国すなわち首長国連合の女王であったが、邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国には別に男子の王が存在していた。邪馬台国は首長国連合の中の一国にすぎない。そして、たまたま女王国の都が邪馬台国の都と同じ場所になっていた。魏志倭人伝における女王国の各論は「
一つ目の魏志倭人伝の解釈について、他の方々の考察をまとめると次のようになる。
魏志倭人伝は倭人の住む百余国の社会を三つのグループに分けてとらえている。
① 対馬から伊都国・奴国・邪馬台国など29ヶ国からなる女王卑弥呼が統括する地域で、 朝鮮半島南岸の
②「女王国の南、
③「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種」と書かれている地域がある。
この記述通りにみると、倭国が北部九州の29ヶ国と朝鮮半島南岸の
魏志倭人伝の時代は北部九州の弥生時代後期の2世紀後葉から3世紀前半の時期である。「居所の宮室楼観城柵厳しく設け、常に人ありて、兵を持ちて守衛す」は吉野ヶ里のような環濠集落を指している。弥生時代後期の近畿地方には宮室・楼観・城柵があるような環濠集落は存在しない。
女王国時代の主な生産用具はすでに鉄器になっていた。この鉄の産地は朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)の地で、倭人も鉄をとっていたとある。その鉄の流通システムを握っていたのは九州と山陰の倭人で、近畿地方はその圏外にあった。その当時、九州では鉄は豊富であり、近畿は希薄である。それは両地方の農業生産力や軍事力にも大きく影響していた。
卑弥呼は30ヶ国によって共立され、優れた霊能力を持った
また、水野祐は、“中国の文献に詳しい
以上のことから、女王国すなわち倭国連合を構成する30ヶ国は、北部九州の29ヶ国と朝鮮半島南岸の
二つ目の距離の記事の問題を解く鍵は、有名な榎一雄(元東大教授)の伊都国からの放射線コースがある。魏志倭人伝では、伊都国までの方位・距離・地名と、伊都国の後からの方位・地名・距離とでは書き方の順番が違うことから、伊都国からは放射線コースの方位・距離を示すと考えることで解決できる。この考え方は今ではほぼ定説となっている。また、魏志倭人伝の記事、「(帯方)郡自り女王国に至るには(一)万二千余里」から、「郡から狗邪韓国に至る七千余里」、そこから
榎一雄の放射権コースを肯定する元皇學館大学長の田中卓は女王国について次のように述べている。
“邪馬台国は、筑後川河口の南にある
これが魏志倭人伝を最も素直に解釈した考え方だと思う。筑後川下流の筑後
森浩一も邪馬台国は筑後の
もう一つ、魏志倭人伝に記載された戸数について問題視する意見がある。それについては、古くから中国的な陰陽五行説が取り入れられているといわれている。例えば、白鳥庫吉は、“邪馬台国の戸数7万戸については、対馬から不弥国までの合計が3万になるので、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸というふうに、3・5・7と作り出した。奇数を好む中国人としては有りうることである”と述べて、そこには中国的な誇張も入っているという。
5万戸・7万戸というのは考古学的にも文献的にも2~3世紀の北部九州の一つの「クニ」の戸数としては朝鮮半島の三韓と比べて明らかに多すぎる。当時の
また、松本清張は、倭人伝は記紀に比べて客観的に書かれているが、その正確さには疑問があると述べている。その要点は次の6点にあるという。
①外国人による見聞のため、思い違いや混乱がある。
②中国式の誇張がある。特に距離の里数や所要日数・戸数にそれがみられる。
③倭国の制度についても中国式の政治・社会制度をあてはめて書いたところがある。
④当時の帯方郡太守は魏の倭国担当役人だから、魏・倭の関係をことさら友好的に強調している。
⑤記述があいまいで、不明箇所が多い。
⑥倭を道教による神仙思想でみているところがある。
最後に、「邪馬台国の全解決」を書いた孫栄健の説を引用する。
“3世紀の中国里数は、1里は434メートルで、三国志65巻の里数も一致する。ところが例外がある。韓伝と倭人伝の里数である。1里が40~90メートルの数値しか示さない。逆に言えば誇大されている。しかし、誇大ではあるが、比率としては正しい。その裏には、そこに作者の意志が働いていることを意味する。作者は「文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を語る」という「
つまり、司馬懿が戦果を報告するときに韓と倭の距離や戸数なども誇大に記録した。それが魏の公式記録となったため、陳寿は真実を知ってはいたが訂正できなかったという。
中国の三国時代は、華北に
第11話の「
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