第13話 邪馬台国はどこにあったのか?

 邪馬台国論争は終わりそうにない。日本の初期の墳墓には墓誌がないからである。したがって、自分たちの文字もなかったことになる。中国の史書である3世紀成立の魏志倭人伝に、その所在地あるいは墳墓の有様が記載されているが、決め手にはなっていない。文献史学者たちは考古学の成果を取り入れながらいくつかの仮説を提案している。それは正当なアプローチである。また、考古学者たちは魏志倭人伝などの古文献に登場する人物や墓が特定できる遺物を見つけようと日々努力しており、すでに厖大な数の遺物が出土し、その分析もすすんでいる。

近年、韓国や中国東北部(旧満州)での遺跡や古墳の発見・発掘にはめざましいものがある。日韓両国の考古学者の交流もあり、弥生時代から古墳時代にかけての朝鮮半島と日本列島における邪馬台国時代(2世紀後葉~3世紀前半)の状況はかなりわかってきている。中国の史書や朝鮮の三国史記そして日本の記紀のどの部分が創作で、どの部分が事実を反映しているのかも推定されている。


 さて、邪馬台国はどこにあったのか?古事記伝を書いた本居宣長以来、延々と論争が続いている。なぜなのか?

一つには、3世紀成立の「三国志」の魏志倭人伝の記事は中国語で書かれ、句読点のないわずか二千字ばかりの文字である。そのため異なる解釈が生じる。

二つには、距離の記事の起点があいまいであるため、東西南北に間違いがあるのではとの疑問が出てくる。

この二つの問題はほぼ解決できているようである。


 魏志倭人伝を論じる前に、張楚金によって書かれた類書(百科事典)で、唐代の660年頃に成立した「翰苑かんえん」に引用されている「魏略ぎりゃく」逸文を見てみる。

そこには、「その旧語を聞くに、太白たいはくの後裔と自らいう」とある。「翰苑」は中国では失われたが、現在大宰府天満宮に所蔵されている。呉の太白は孔子が至徳の人と絶賛した政治家であり、華北から南下して荊蛮けいばんの地に入って、その地の風習に親しむために入れ墨をしたという言い伝えのある呉の始祖である。 

倭国については、「山にり海を負うて馬台に鎮し、以て都を建つ。職を分ち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。卑彌娥ひみがは惑翻して群情に叶い、臺与とよは幼歯にして方に衆望にかなう。文身黥面ぶんしんげんめんして、なお太伯の苗と称す。阿輩雞弥おほきみ、自ら天児の称を表す。礼儀により標佚し、智信に即して以て官を命ず。ななめに伊都いとに届き傍ら斯馬しまに連なる。中元の際紫綬の栄あり。景初の辰文錦の献を恭しくす」とあり、女王国は呉の地の風俗に似ており、都は北部九州の伊都国に接していたと記している。 


では、魏志倭人伝に登場するクニグニ、その風俗、そして卑弥呼についての記述を見てみよう。


・「魏志倭人伝」

「倭人は帯方(郡)の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑(国と邑)を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳しやく(通訳)通ずる所三十国。」

「(帯方)郡り倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をて、あるいは南しあるいは東し、の北岸の狗邪韓国に至る、七千余里。」

「始めて一海を度ること千余里にして対馬とま(つしま)国に到る。その大官を大官を卑狗ひくと曰い、副を卑奴母離ひなもりと曰う。る所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿きんろくこみちの如し。千余戸有るも、良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴してき(交易)す。又南に一海を度ること千余里、名を瀚海かんかいと曰う。一支いつし(いき)国に到る。官を亦卑狗ひくと曰い、副を卑奴母離ひなもりと曰う。方三百里ばかり、竹林・叢林そうりん多く、三千ばかりの家有り。やや田地有るも、田を耕すになお食するに足らず、また南北に市糴してきす。又一海を度ること千余里にして末蘆まつら国に到る。四千余戸有り、山海にいて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒ぎょふく(魚やあわび)を捕え、水の深浅と無く、皆沈没(潜水)してこれを取る。東南に陸行すること五百里にして、伊都いと国に到る。官を爾支にしと曰い、副を泄謨觚さもこ柄渠觚へくこと曰う。千余戸有り。よよ王有るも、皆女王国に統属す。郡使の往来、常に駐る所なり。」

「東南して国にいたるには百里、官を兕馬觚しまこと曰い、副を卑奴母離ひなもりと曰う。二万余戸有り。東行して不弥ふみ国に到るには百里、官を多模たもと曰い、副を卑奴母離ひなもりと曰う。千余戸有り。南して投馬とうま国に到るには水行すること二十日、官を彌彌みみと曰い、副を彌彌那利みみなりと曰う。五万余戸ばかり。南して邪馬台国に到る、女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月。官に伊支馬いしま有り、次を彌馬升みましょうと曰い、次を彌馬獲支みまかくしと曰い、次を奴佳鞮なかていと曰う。七万戸余戸ばかり。」

「女王国り以北、其の戸数・道理はほぼ載することを得可うべきも、其の余の旁国は遠絶にしてつまびらかにすること得可うべからず。次に斯馬しま国有り、次に巳百支いおし国有り、次に伊邪いや国有り、次に都支とし国有り、次に弥奴みな国有り、次に好古都こうこと国有り、次に不呼ふこ国有り、次に姐奴そな国有り、次に對蘇ついそ国有り、次に蘇奴そな国有り、次に呼邑こお国有り、次に華奴蘇奴かなそな国有り、次に国有り、次に為吾いご国有り、次に鬼奴きな国有り、次に邪馬やま国有り、次に躬臣くし国有り、次に巴利はり国有り、次に支惟しい国有り、次に烏奴うな国有り、次に国有り。れ女王の領界の尽くる所なり。」

「其の南に狗奴くな国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗くこちひく有り、女王に属さず。(帯方)郡り女王国に至るには(一)万二千余里。」

「男子は大小と無く皆黥面文身げいめんぶんしん(顔や体に入墨をする)す。いにしえり以来、其の使、中国にいたるに、皆自ら大夫たいふと称す。夏后かこうの少康の子、会稽かいけいに封ぜられ、断髪文身し、以って蛟竜(鮫や龍)の害を避く。今倭の水人あま、好く沈没し魚蛤(二枚貝)を捕え、文身しまたって大魚・水禽をしずむ。後にやや以って飾りと為す。諸国の文身はおのおの異なり、或は左に或右に、或は大に或は小に、尊卑差有り。其の道程を計るに、まさ会稽東冶かいけいとうや(県)の東にあるべし。」

「其の風俗はいん(みだら)ならず。男子は皆露紒ろかい(まげを露出させる)し、木緜もくめんを以って頭にしばり、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、略縫うこと無し。婦人は被髪屈紒し(髪をまばね)、衣を作ること単被の如く、其の中央を穿うがち、頭を貫き之を衣る。禾稲かとう紵麻ちょまを種え、蚕桑を緝績(つむぐ)し、細からむしけん(絹)・めんいだす。其の地には牛・馬・虎・豹・羊・じゃく(カササギ)無し。兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く、上を長くし、竹せん(矢)は或は鉄やじり、或は骨やじりなり。有無する所は儋耳たんじ朱崖しゅがいと同じ。」 

「倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食し、皆徒跣とせん(裸足)なり。屋室有りて、父母兄弟は臥息がそく処(寝室)を異にす。朱丹を以って其の身体に塗ること、中国の粉(白粉)を用うるが如きなり。飲食には籩豆へんとう(竹や木でつくった高杯)を用い、手食す。其の死するにはかん有るもかく(棺の外囲い)無く、土を封じちょう(塚)を作る。始め死するや十日余日停喪ていそうし、時に当りて肉を食さず、喪主は哭泣こくきゅうし、他人は歌舞飲酒を就す。すでに葬れば、家を挙げて水中にいた澡浴そうよくし、以って練沐れんもく(日本のみそぎに近い)如くす。」

「その行来・渡海、中国に詣るには、以下省略・・・

 ・・・其の俗、挙事・行来(行事や旅行)に云為うんい(問題)する所有れば、すなわち骨をきてぼくし、以って吉凶を占う。先ずぼくする所を告げ、其の辞は令亀れいきの法の如く、火坼かたく(火による裂け目)を視て兆を占う。」

「其の会同の坐起ざき(座席や起居の順序)には、父子・男女の別無し。人の性、酒をたしなむ。大人たいじんを見て敬する所は、ただ手をち以って跪拝きはい(ひざまずく)に当つ。其の人は寿鉱(長寿)にして、或は百年、或は八、九十年。その俗、国の大人皆四、五婦、下戸げこも或は二、三婦。婦人はいん(みだら)せず、妒忌とき(嫉妬)せず。盗竊とうせつせず、諍訟そうしょう(訴訟)少なし。其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没(没収)し、重き者は其の門戸を滅し宗族に及ぶ。尊卑各差序有りて、相臣服するに足る。租賦(租税や賦税)を収むるに邸閣(倉庫)有り。国国に市有り、有無を交易し、大倭たいわを使て之を監督せしむ。女王国り以北には、特に一大率いちだいそつを置き、諸国を検察す。諸国これをおそはばかる。(大率)常に伊都国にし、国中に於いて刺史しし(軍政官)の如く有り。王、使を遣し、京都けいと(魏の都の洛陽)・帯方郡たいほうぐん・諸かん国に詣で、及び(帯方)郡の倭国に使するや、皆しん(港の関所)に臨みて捜露(検査)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣るに差錯するを得ず(間違いがないようにする)。」

「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(後ずさり)して草に入り、辞(言葉)を伝え事を説くには、あるいはうずくまりあるいはひざまずき、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声をあいという、比するに然諾(承諾)の如し。」

「其の国、本亦(元来は)男子を以って王と為し、住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為し、名づけては卑弥呼と曰う。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。としすでに長大なるも、夫婿無く、男弟有りて、たすけて国を治む。王と為りし自り以来、まみえ有る者少なし。婢千人を以って自ら侍せしむ。唯男子一人有りて飲食を給し、辞を伝えて居処に出入す。宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有りて兵を持して守衛(警護)す。」

「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭の種なり。又、侏儒しゅじゅ(小人)国有りて其の南に在り。人のたけ三、四尺。女王(国)を去ること四千余里。又、裸国・黒歯国有りて、復た其の東南に在り、船行一年にして至るばかし。倭の地を参問(考える)するに、海中洲島の上に絶在し、或は連なり、周旋すること五千余里ばかりなり。」

「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米なしめ等を遣わし(帯方)郡に詣り、以下省略・・・ 」


 卑弥呼の邪馬台国はどこにあったか? 「魏志倭人伝」では、卑弥呼を「女王」、女王の都している所を「邪馬台国」、その国を「女王国」としている。女王国連合は、の北岸の朝鮮半島の狗邪韓国くやかんこく、女王国より以北に7ヶ国、そして邪馬台国との余の旁国ぼうこく21ヶ国の合計30ヶ国であったとする。


 森浩一は、“「女王国」というのは、邪馬台国を含めた29ヶ国の首長国連合の総称である。倭国の北限と記載されている朝鮮半島南部の狗邪韓国を入れると30ヶ国になる。卑弥呼は女王国すなわち首長国連合の女王であったが、邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国には別に男子の王が存在していた。邪馬台国は首長国連合の中の一国にすぎない。そして、たまたま女王国の都が邪馬台国の都と同じ場所になっていた。魏志倭人伝における女王国の各論は「れ女王の境界の尽くる所なり」と述べている句をもって結ばれている。その後の「男子無大小、皆黥面文身」や「会稽かいけい東冶とうや県(今の福建省福州)の東」「禾稲いね紵麻ちょまを植え、養蚕を行い、糸を紡ぎ、細かなカラムシけん(絹)や綿めんを作り出す」「産物の有無の状況は儋耳たんじ朱崖しゅがい(共に今の海南島の郡)と同じ」などは狗奴くな国(後の熊襲)に関する記載である。女王国と狗奴国との境界は現在の熊本市を流れる白川・緑川あたりである。「倭地温暖」以下の文は倭人全体の風習・風土について述べている。女王国と対立していた狗奴国も魏に朝貢していたと考えられていることから、魏は狗奴国の風習も知っていたと思われる。247年(正始八年)の女王国の帯方郡への遣使で援助を求めたのは、女王国が不利であったと理解できる。また、帯方郡たいほうぐんから狗奴国に到る間に列挙した国々は、いずれもこの南北線上に連なる国々であり、これらは皆九州の国々である。その後、「海を渡ること千余里」と書かれ、改めて東方のことにおよんでいる。これこそ出雲や吉備、あるいは原大和首長国連合のことである” と述べている。


一つ目の魏志倭人伝の解釈について、他の方々の考察をまとめると次のようになる。 

魏志倭人伝は倭人の住む百余国の社会を三つのグループに分けてとらえている。

① 対馬から伊都国・奴国・邪馬台国など29ヶ国からなる女王卑弥呼が統括する地域で、 朝鮮半島南岸の狗邪韓国くやかんこくを含めると「使役しえき(通訳)通ずる所三十国」となり、倭国と呼んでいる。 

②「女王国の南、狗奴くな国あり、女王に属さず」とされる狗奴くな国がある。

③「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種」と書かれている地域がある。

この記述通りにみると、倭国が北部九州の29ヶ国と朝鮮半島南岸の狗邪韓国くやかんこくであれば、狗奴くな国は現在の熊本県南部から鹿児島県北部と宮崎県西部となる。女王国の東千余里とあるのは山陰・瀬戸内東部・近畿・北陸・東海などの北部九州から東に遠く離れた地域である。


 魏志倭人伝の時代は北部九州の弥生時代後期の2世紀後葉から3世紀前半の時期である。「居所の宮室楼観城柵厳しく設け、常に人ありて、兵を持ちて守衛す」は吉野ヶ里のような環濠集落を指している。弥生時代後期の近畿地方には宮室・楼観・城柵があるような環濠集落は存在しない。

女王国時代の主な生産用具はすでに鉄器になっていた。この鉄の産地は朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)の地で、倭人も鉄をとっていたとある。その鉄の流通システムを握っていたのは九州と山陰の倭人で、近畿地方はその圏外にあった。その当時、九州では鉄は豊富であり、近畿は希薄である。それは両地方の農業生産力や軍事力にも大きく影響していた。

卑弥呼は30ヶ国によって共立され、優れた霊能力を持った巫女みこ女王である。北部九州ではBC2世紀後半ごろに一定の社会的地位を持った巫女が出現し、政治的に成長した。BC1世紀末には、世俗的権威と聖体的権威とによるクニ統治の政治形態が築かれた。そして、2世紀後葉から3世紀前半が卑弥呼の時代である。当時、卑弥呼が託宣する国際的情報は北部九州の伊都国あるいはその他の沿岸国でしか得られない。したがって、卑弥呼の出自はこの地域のクニであったと考えられる。


 また、水野祐は、“中国の文献に詳しい国や女王国、その統治者としての卑弥呼のことすら、日本側の文献にはみえない。日本の神話や伝説にも見いだせない。ここに日本古代史上の大きな謎が介在する。日本書紀の編纂時点において、卑弥呼や女王国などについての伝承は皆無であり、少なくとも大和の古代人の間にはそれが存在しなかった。また、帰化系氏族を含めて、多くの氏族らの伝承にも皆無であった。このことからだけから推しても、邪馬台国大和説は古代にあってすらすでに存立し得なかったことが明らかである。中国正史類にみえる女王国や、倭人・倭国というのは、これを九州に比定するのが至当である。中国史料を正しく読解する限り、それらを大和に解釈しようとする試みは全く無理である。卑弥呼は邪馬台国の王族の一員で、巫女として最高の信望を荷っていた。いわゆる大和朝廷の皇女の中の一員などに比定すべきいわれは毛頭ない”と述べている。


 以上のことから、女王国すなわち倭国連合を構成する30ヶ国は、北部九州の29ヶ国と朝鮮半島南岸の狗邪韓国くやかんこくであることに疑いの余地はないと思われる。


 二つ目の距離の記事の問題を解く鍵は、有名な榎一雄(元東大教授)の伊都国からの放射線コースがある。魏志倭人伝では、伊都国までの方位・距離・地名と、伊都国の後からの方位・地名・距離とでは書き方の順番が違うことから、伊都国からは放射線コースの方位・距離を示すと考えることで解決できる。この考え方は今ではほぼ定説となっている。また、魏志倭人伝の記事、「(帯方)郡自り女王国に至るには(一)万二千余里」から、「郡から狗邪韓国に至る七千余里」、そこから対馬とま(つしま)までの千余里、さらに壱岐までの千余里、そして九州北岸の末虜まつら国までの千余里を差し引くと、残りは二千里足らずとなる。またさらに、「女王国り以北、其の戸数・道理はほぼ載することを得可うべきも、の余の旁国ぼうこくは遠絶にしてつまびらかにすること得可うべからず。」とあり、女王国以北にある末虜まつら国・伊都いと国・国・不弥ふみ国の戸数・里呈は示されているが、その他の国の戸数・里呈はよくわからないと述べている。また、「女王国り以北には、特に一大率いちだいそつを置き、諸国を検察す、諸国畏れを憚る。(大率)常に伊都国にし、国中に於いて刺史しし(軍政官)の如く有り」とあり、明らかに女王国より以北の諸国は伊都国とその周囲の国ということになる。したがって、女王国は伊都国の南二千里足らずに位置することになる。


 榎一雄の放射権コースを肯定する元皇學館大学長の田中卓は女王国について次のように述べている。 

“邪馬台国は、筑後川河口の南にある山門やまと郡と考える。水行10日であれば、河口近くであるべき。女王国以北の8ヶ国は、狗邪韓国くやかんこく対馬とま(つしま)国から投馬とうま国までの7ヶ国である。この8ヶ国は女王国の統属地となる。女王国と其の余の旁国ぼうこく21ヶ国の22ヶ国は、女王国の直轄地であり、その直轄地の総戸数は7万余戸ばかりで、筑後川沿いの筑紫平野・熊本平野を含む有明海・大村湾・島原湾の周辺地域である。狗奴くな国は、その女王直轄地22ヶ国の南に有り、女王に属さず。 肥後の球磨くま郡から南である。” 

これが魏志倭人伝を最も素直に解釈した考え方だと思う。筑後川下流の筑後山門やまと郡(瀬高町山門)には、日本書紀の神功皇后紀に記載されている土蜘蛛つちぐも田油津媛たぶらつひめの墓と伝えられる王塚おうづかや、神籠石こうごいしのある女山ぞやまがあることから、少なくとも卑弥呼の時代の2世紀後葉から神功皇后の時代の4世紀後半まで筑後川下流域における中心的な「クニ」であったと考えられる。

森浩一も邪馬台国は筑後の山門やまと郡、今の瀬高町とその周辺にあったとみている。


 もう一つ、魏志倭人伝に記載された戸数について問題視する意見がある。それについては、古くから中国的な陰陽五行説が取り入れられているといわれている。例えば、白鳥庫吉は、“邪馬台国の戸数7万戸については、対馬から不弥国までの合計が3万になるので、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸というふうに、3・5・7と作り出した。奇数を好む中国人としては有りうることである”と述べて、そこには中国的な誇張も入っているという。

5万戸・7万戸というのは考古学的にも文献的にも2~3世紀の北部九州の一つの「クニ」の戸数としては朝鮮半島の三韓と比べて明らかに多すぎる。当時の馬韓ばかんは50余国で総計10余万戸(魏志韓伝)、弁韓べんかん辰韓しんかんを合わせて24国で総計4~5万戸(魏志弁辰伝)である。魏志倭人伝での総戸数は、対馬とま(つしま)国から邪馬台国までの8ヶ国で15万、プラスその他の旁国となる。晋書しんしょ倭人伝には、「もとは百余の小国があって互いに接(隣接)していた。の時に至りて、三十国の通好あり、戸は七万有り」、その30ヶ国の総戸数は7万としている。また、晋書では30ヶ国全体を総称して女王国と呼んでいる。これらのことから、女王国連合30ヶ国の総戸数は7万というのが妥当と考えられる。


 また、松本清張は、倭人伝は記紀に比べて客観的に書かれているが、その正確さには疑問があると述べている。その要点は次の6点にあるという。

①外国人による見聞のため、思い違いや混乱がある。

②中国式の誇張がある。特に距離の里数や所要日数・戸数にそれがみられる。

③倭国の制度についても中国式の政治・社会制度をあてはめて書いたところがある。

④当時の帯方郡太守は魏の倭国担当役人だから、魏・倭の関係をことさら友好的に強調している。

⑤記述があいまいで、不明箇所が多い。

⑥倭を道教による神仙思想でみているところがある。


 最後に、「邪馬台国の全解決」を書いた孫栄健の説を引用する。

“3世紀の中国里数は、1里は434メートルで、三国志65巻の里数も一致する。ところが例外がある。韓伝と倭人伝の里数である。1里が40~90メートルの数値しか示さない。逆に言えば誇大されている。しかし、誇大ではあるが、比率としては正しい。その裏には、そこに作者の意志が働いていることを意味する。作者は「文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を語る」という「春秋しゅんじゅうの筆法」を用いたのである。当時の韓と倭は帯方郡の役人が管掌し、帯方郡は本国の幽州刺史(幽州府は今の北京にあった)の統属下にあった。楽浪郡・帯方郡を実質的に支配していた公孫こうそん氏は魏の名将司馬懿しばいにより滅亡した(238年)。その司馬懿の孫の司馬炎しばえんに替わってしんを建国した(265年)。こうした事情により、晋の史官であった陳寿ちんじゅ(三国志の著者)は皇帝の祖父の偉大さを立証する立場にあった。そのため倭国をより遠くの大きな国にしたてるため、里数と日数を二重に書いたと思われる。中華の天子の徳をより遠くの国へ、より厚い徳を及ぼした天子こそ真の天下の王、偉大な皇帝とみなされたからである。三国時代の中国では戦果は実数を十倍して発表する慣例があった。帯方郡から狗邪韓国・対馬・壱岐を経て、末盧国・伊都国・奴国・不弥国までの実距離は万二千里の十分の一である千二百里(520キロ)にほぼ一致する。” 

つまり、司馬懿が戦果を報告するときに韓と倭の距離や戸数なども誇大に記録した。それが魏の公式記録となったため、陳寿は真実を知ってはいたが訂正できなかったという。


 中国の三国時代は、華北に、華中・華南に、長江(揚子江)上流の四川しせんを中心にしょくが鼎立していた時代である。魏の範囲と呉の範囲は、後の南北朝時代にも地域的対立をするが、それは政治的な領域であると同時に、魏の領域がアワ・ムギの栽培地帯、呉の領域は水稲の栽培地帯であり、生産の基本として作物の伝統と食文化が異なる。6世紀の東魏の「洛陽伽藍記」の記述をみると、華北の人たちの江南人に対する意識は差別的である。そこには、「土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、熱病を起させるような瘴気しょうきのたちこめた風土。蛙と亀は穴を共にし、人と鳥は群を同じくしておる。ざんばら髪の君には長者の相なく、入れ墨の民は貧相な体つき。呉人の亡者、建康(南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿ら(おいら)と言い、二言目には、「阿」の連発」とある。華北の人たちからみれば、倭人も江南人も同じようにうつっていたようである。このことからも、倭国連合の主体は日本列島の中でも中国江南地方に近い九州にあったといえる。


 第11話の「伊都いと国と国」の中で紹介したように、北部九州地域で発掘された紀元前後の巨大環濠集落は、およそ30の地域で確認されている。それらの環濠集落は弥生時代後期(2世紀~3世紀)まで存続しており、魏志倭人伝に記された女王国、すなわち倭国連合の29ヶ国の存在は考古学的にも証明されている。そして、邪馬台国の地は、田中卓や森浩一が指摘する筑後の山門やまと郡、今の瀬高町とその周辺にあったと見るのが妥当のようだ。その地は筑後川下流域の南側にある。さらに、その南の今の熊本市を流れる白川・緑川あたりは、「其の南に狗奴くな国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗くこちひく有り、女王に属さず」、さらに「倭の女王卑弥呼、狗奴くな国の男王卑弥弓呼ひみくこもとより和せず」とある狗奴国と女王国連合との境界域である。邪馬台国があった筑後川下流域には吉野ヶ里遺跡がある。そこの甕棺からは、頭のないもの、10個の石やじりなどが突き刺さったもの、大腿骨が折れたもの、刀傷が存在するものなど戦争の犠牲者が数多く出土している。それは女王国連合に属していなかった狗奴国との争いで犠牲となった人たちの墓であったと思われる。中九州にあった狗奴国については後で詳しく述べるが、女王国連合のあった北部九州とは異なる文化圏であったようだ。

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