第12話 倭国乱と高地性集落、そして卑弥呼共立
第11話の【コラム】鉄の伝播から先進文化の朝鮮半島における南下の様子が見て取れる。もちろん先進文化の伝播には人が伴っている。先進文化を持つ楽浪郡の有力者が支配者となり、朝鮮半島南部や北部九州に支配者文化をもたらしたのである。その中からクニグニの王が誕生した。BC1世紀の朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)地域では
・「後漢書」倭伝に、「
・「梁書」(636年成立)、唐の
中国・朝鮮半島・日本列島を含む東アジアでは2世紀後半から寒冷化、洪水、川の氾濫が急増した。中国では水害・
また、日本列島における倭国乱と同時期に、朝鮮半島北部でも後漢末の動乱の時代を迎えていた。朝鮮半島西南部には馬韓54国、東南部に辰韓12国、南部に弁韓12国が広がっていたが、朝鮮半島北部の情勢の影響を受けることになった。
朝鮮半島北部にある
一方、朝鮮半島半島南部には
第10話「倭国王の誕生」でも取り上げたが、再度倭人伝の「倭国乱」と「卑弥呼共立」の記事を見てみる。
・魏志倭人伝に、「其の国、本亦(元来は)男子を以って王と為し、
「三国志魏志倭人伝」に記載されている倭国乱は、魏の使節が倭を訪れた250年代をさかのぼること70年~80年前の170年代~180年代である。「後漢書」では後漢の桓帝・霊帝の時代(146年~189年)、「梁書」では漢霊帝の光和中(178年~184年)と記される。
日本列島で倭国乱が起こったのは、東アジアにおける2世紀後半からの寒冷化による農産物への悪影響、そして後漢での黄巾の乱(184年~192年)などの混乱による漢の楽浪郡の弱体化であったと考えられる。楽浪郡の弱体化は「
高地性集落は侵入者に対する防御のための
倭国乱の首謀者は北部九州勢の
記紀における神武の東征伝説には
薩摩半島の
倭国乱の後、
古代社会において、同じ文化圏の部族間闘争が長く続いた末に、象徴的な神や人の下に集まり部族間の平和を図ることは世界中の部族社会で常に起こっていた。 北部九州での卑弥呼の共立も同様であったと思われる。卑弥呼は巫女であり、部族連合の象徴として祭り上げられた存在であった。邪馬台国出身の卑弥呼は部族連合の巫女女王であり、実権を伴った倭王ではないことは多くの歴史学者が指摘しているとおりである。
松本清張は、“中国の史家が巫女を女王と誇大に書き、その居場所まで「女王の都するところ」と拡大したために、邪馬台国がいかにも女王国の首都のように解釈されてきた。これは中国側の誇張である。事実上の首都は伊都国であった。また、卑弥呼は宗教的に共立されたのであって軍事的な実力があったわけではない。共同の敵である
森浩一も、“卑弥呼は女王国すなわち首長国連合の女王であったが、邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国には別に男子の王が存在していた。邪馬台国は首長国連合の中の一国にすぎない。そして、たまたま女王国の都が邪馬台国の都と同じ場所になっていた”、と述べている。
「魏志倭人伝」は卑弥呼の
[
大形徹(大阪府立大学教授)によれば、中国における「鬼」とは「死者の霊魂」のことである。卑弥呼の「鬼道」をしいて「鏡」と結びつければ、鬼神の世界をこの世に映し出す重要な呪具として使用したのかもしれない。卑弥呼が亡くなったとき、あの世に復活再生するための葬具として鏡が副葬された可能性も高い。それは太陽に基づく再生復活観念に加えて、鏡を通してあの世に行くことができると考えられていたからなのかもしれない。古事記の中で、
また、西谷正(九州大学名誉教授)によれば、鬼神崇拝の祭祀は礼を通じて神がかりになったシャーマンから種々の神託が伝えられる宗教的行事である。卑弥呼は
なぜ共立なのか? その方が楽浪郡にとって倭人国を支配する上で都合がよかったからである。北部九州の有力国には
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