第12話 倭国乱と高地性集落、そして卑弥呼共立

倭国乱わこくらん高地性集落こうちせいしゅうらく


 第11話の【コラム】鉄の伝播から先進文化の朝鮮半島における南下の様子が見て取れる。もちろん先進文化の伝播には人が伴っている。先進文化を持つ楽浪郡の有力者が支配者となり、朝鮮半島南部や北部九州に支配者文化をもたらしたのである。その中からクニグニの王が誕生した。BC1世紀の朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)地域では辰王しんおうと呼ばれた。紀元後1世紀には、金海きめ狗邪くや国王、海を渡った北部九州で伊都いと国王や国王も誕生している。この三人の倭の国王たちは楽浪郡との交易により富を貯え、鉄の武器を持ち、文字技能者を抱え、その周辺地域の人びとの上に君臨していた。この三者には争った形跡が見えないことから、同系の王族と考えられる。すでに推察したように、辰王は夫餘ふよ族出身であることから、狗邪国王も伊都国王も奴国王も夫餘族ということになる。しかし、日本列島では2世紀後半になると「倭国乱」と呼ばれる争乱の時代を迎えることになる。


・「後漢書」倭伝に、「かんれいの間(146年~189年)、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、歴年(何年もの間)主無し」とある。

・「梁書」(636年成立)、唐の姚思廉ようしれんによって編纂された。東夷の条には高句麗・百済・新羅・倭の四伝がある。「梁書」倭伝に、「漢の霊帝の光和年中(178年~184年)に、倭国に戦乱が起こり、互いに戦った」とある。


 中国・朝鮮半島・日本列島を含む東アジアでは2世紀後半から寒冷化、洪水、川の氾濫が急増した。中国では水害・旱魃かんばつ・イナゴなどの虫害・地震・疫病などが頻発した。それが政治上の不安や周辺民族の侵入と呼応し後漢ごかん帝国を大きく揺さぶった。桓帝・霊帝の時代(146年~189年)の末になると、楽浪郡も東夷諸民族の動きを制御できなくなった。167年には夫餘は2万の兵で玄兎郡を攻撃したが、迎えた玄兎げんと太守、公孫域こうそんよくは1000余人を斬首した。184年、河北の張角ちょうかくは天師(黄天)と称して後の道教の源流となる太平道たいへいどうを組織し起兵した。黄色の頭巾をかぶったので黄巾こうきんの乱といわれたが、張角が病死した後は略奪集団化し、192年に曹操そうそうの軍に鎮圧された。張陵ちょうりょうが開いた、同じく道教の五斗米道ごとべいどうの集団は190年ごろから漢中で30年近く勢力をもったが、215年に曹操そうそうの軍に降りた。劉氏王朝の漢400年の終焉が現実になったのは後漢最後の献帝のときであった。後漢を滅亡に導いたのは賊臣と悪評された董卓とうたくである。董卓は189年の霊帝の死後即位した少帝を5ヶ月で廃位し、わずか8歳の劉協りゅうきょうを献帝として擁立した。董卓が公孫度こうそんたくを遼東太守に任命したのはこのときである。翌年の190年には都を洛陽から長安に移した。192年に部下の呂布りょふに殺されるまで実権を握った。この董卓に対抗して漢室復興を旗印にしたのが袁紹えんしょう、そして後漢の将軍曹操そうそうである。200年、袁紹と曹操は官渡かんとの戦いで雌雄を決っし袁紹は大敗した。曹操は官渡の戦いの後、7年を費やし、208年になってやっと河北を平定した。そして、曹操は袁紹の本拠地であったぎょう(安陽市の北)を都にして、後漢の丞相じょうしょうの位についた。その後、王を称した曹操と孫権そんけんよる赤壁の戦いのあった208年から、曹操が死にその子曹丕そうひが魏の皇帝に即位する220年までは、曹操そうそう孫権そんけんしょく劉備りゅうび、の三雄が激しい抗争を繰り広げた時期である。220年、後漢の献帝は帝位を曹操の子である魏王の曹丕に譲り、自らは山陽公に甘んじた。劉氏24代の漢の皇帝の時代が、王莽おうもうが建国したしん(紀元後9年~23年)の時代により一時中断しながらも前漢(BC206年~紀元後8年)・後漢(25年~220年)と400余年も続いたのは、直接統治の郡県と王の子弟たちに国を分封した封建を両用したからである。


 また、日本列島における倭国乱と同時期に、朝鮮半島北部でも後漢末の動乱の時代を迎えていた。朝鮮半島西南部には馬韓54国、東南部に辰韓12国、南部に弁韓12国が広がっていたが、朝鮮半島北部の情勢の影響を受けることになった。

朝鮮半島北部にある高句麗こうくりは中国東北部にいたツングース系の夫餘ふよから分かれた部族国家で漢の四郡のうち玄兎げんと郡が移転した地が本拠地である。高句麗は族称として前漢時代に存在していたが、BC37年に朱蒙しゅもうが建国したとされる。105年から121年にかけて高句麗はわいはくとともに玄兎郡に侵攻した。そのときの王の名は「きゅう」。その孫伯固はくこは、190年ごろに公孫度こうそんたくが自立したとき、たくを助けて出兵している。その後に遼東方面に進出を図ったが公孫氏に敗れて南下し、鴨緑江おうりょくこう中流北岸の丸都がんと(国内城)に移った。に一時朝貢したのはこの頃(230年代)である。高句麗は238年にが公孫氏を滅ぼしたときには協力したが、その後もしばしば魏の辺境を侵したため、魏は将軍毋丘倹ぶきゅうけんを派遣し、244年に高句麗の首都である丸都がんと城を陥落させた。その時の国王きゅうは沿海州に逃げた。その69年後の313年に高句麗は中国本土の混乱に乗じてついに楽浪郡らくろうぐんを滅ぼし、さらに314年に帯方郡たいほうぐんを滅ぼし朝鮮半島北部を制圧した。これにより、BC108年に漢の武帝が朝鮮半島北部に漢四郡(楽浪・臨屯・玄菟・真番)を設置して以来約400年続いた中国による朝鮮半島の郡県支配が終焉した。

 一方、朝鮮半島半島南部には馬韓ばかん辰韓しんかん(秦韓)・弁韓べんかん(弁辰)の三韓があり、それらはまた多くの部族小国家に分かれて楽浪郡の統制下にあった。馬韓54部落の一つだった伯済はくさいはBC18年に高句麗の祖朱蒙しゅもうの子である温祚おんそが臣民とともに漢江地区に住み着き国を建て、260年の第8代古爾こに王の時に馬韓を統一した。支配者集団は高句麗と同じ夫餘の別種である。百済王家はしん朝の人であり、始祖の温祚おんそは初代辰王であり、百済王の系譜の初期の部分は辰王の系譜でもある。百済の建国は余句よく、後の近肖古きんしょうこ王(346年~375年)による346年である。当時の都は今のソウル近郊となる慰礼いれいにあった。百済は高句麗に対抗するため、早くから南部加耶地域に接近して日本列島の倭国との連携を模索していた。


第10話「倭国王の誕生」でも取り上げたが、再度倭人伝の「倭国乱」と「卑弥呼共立」の記事を見てみる。


・魏志倭人伝に、「其の国、本亦(元来は)男子を以って王と為し、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為し、名づけては卑弥呼ひみこと曰う」とある。 


 「三国志魏志倭人伝」に記載されている倭国乱は、魏の使節が倭を訪れた250年代をさかのぼること70年~80年前の170年代~180年代である。「後漢書」では後漢の桓帝・霊帝の時代(146年~189年)、「梁書」では漢霊帝の光和中(178年~184年)と記される。

日本列島で倭国乱が起こったのは、東アジアにおける2世紀後半からの寒冷化による農産物への悪影響、そして後漢での黄巾の乱(184年~192年)などの混乱による漢の楽浪郡の弱体化であったと考えられる。楽浪郡の弱体化は「弁辰べんしんの鉄」取得の秩序が一時的に乱れ、朝鮮半島からの鉄素材や先進文物の入手をめぐる主導権争いになったともいわれる。一方、倭国乱は、九州や山陰地方で鉄の農具の普及が進み農業生産力が増大し、人口も急激に増加したため、それらの地の人びとが鉄の武器をたずさえて新天地を求めて瀬戸内地方や近畿地方へ進出したからとも考えられるが、その実態はよくわかっていない。


 高地性集落は侵入者に対する防御のための山城やまじろである。高地性集落は、標高200~300メートルの山頂や急斜面に立地することも少なくなく、石製武器が多量に出土することが多い。弥生中期後半(BC1世紀後半~1世紀)に第1次が瀬戸内沿岸に出現し、第2次の弥生後期前半(2世紀)には内陸や近畿地方にも分布するようになり、近畿地方で終息する。特に大阪湾や瀬戸内海を望む見晴らしの良い高地に集中する。山城であり、集団間や地域間での軍事的緊張が高まり、それをきっかけに高地性集落が出現したと考えられる。しかし、古墳時代になると消滅してしまう。北部九州には高地性集落が少なく、「倭国乱」の痕跡がない。これは伊都国を盟主とする北部九州の倭国がBC1世紀後半から紀元後1世紀にかけて瀬戸内海沿岸、2世紀には近畿地方の内陸部にまで進出し、戦争が拡大されたと考えられる。特に、近畿地方では、2世紀に出現する拠点的高地性集落が卓越することから、軍事的緊張が恒常化していたと思われる。北部九州の武器は、1世紀以後、鉄製の剣・刀・矛・やじりに交代している。2世紀後半の「倭国乱」の時期には、鉄製武器の保有は北部九州と中九州にほぼ限定されている。「倭国乱」後も鉄製武器が北部九州に圧倒的に集中する構図に変わりがないとすれば、戦争といえる状態になったのは、朝鮮半島との交流が少なく漢鏡の導入が遅れる吉備きびや近畿地方の内陸部などの限定された地域だけであったと思われる。近畿地方には、河内の池上曽根いけがみそね遺跡などのように大型建物を建立していたとしても、農耕儀礼の象徴である銅鐸祭祀どうたくさいしを実行しているように、「王」といえるような政治権力者は1世紀段階では出現していない。吉備きびも同様に「王」といえるような存在はまだなかった。


 倭国乱の首謀者は北部九州勢の伊都いと国と国の可能性は大きいといえるが、鉄器の普及度合いからみて、中九州勢すなわち狗奴くな国(後の熊襲くまそ)の可能性もある。倭国乱のころ、先進地域であった九州や山陰からいくつもの集団が新天地を求めて東へ移住しようとしていた。その流れの中で狗奴国や、狗奴国の影響を受けた南九州のいくつかの勢力が新天地を求めて瀬戸内や大和地方に移住したことは十分ありうると思う。 

記紀における神武の東征伝説には狗奴くな国の影響が強かった南九州の要素が少なくない。例えば、ニニギは吾田あたの土地(薩摩半島)においてコノハナサクヤヒメに出会い、ホデリ(海幸彦:隼人の始祖)、ホヲリ(ヒコホホデミ・山幸彦)、ホスセリ(尾張連の始祖)が生まれた。この出産記事の後、ニニギは亡くなり、筑紫の日向ひむか可愛かのえの山陵に葬られた。日向ひむか神代かみよ)三代の最初をなす神はニニギであるにもかかわらず、ニニギに関する所伝は笠狭碕かささのみさきでの婚姻・出産の物語だけである。第二代目のヒコホホデミの時代になり、海幸・山幸の交換説話が展開し、海幸である兄のホデリが屈服して、隼人はやと族の服属の物語が伝えられる。それに加えて龍宮城の話となる。

薩摩半島の吾田あた地方には、ニニギによる天孫降臨以前に高天原勢力と関係のある者、塩土老翁しおつちのをじが居住していて、ニニギによい国のあることを教え、山幸彦には海神わたつみの宮のありかを教え、後の神武東征にさいしてはイワレヒコに東方に青山で囲まれたよい国のあることを教えるなど、海上交通の掌握者で遠く離れた土地の情報を知っている者として記紀に登場する。薩摩半島は縄文時代や弥生時代において、東シナ海沿岸を利用した海上交通の中継地としての役割が大きく、縄文時代後期の貝殻で文様をつける市来いちき式土器は海との関係の深い集団が用いたものとみられている。この集団は舟に乗って南島(琉球・奄美列島)から北部九州、さらに瀬戸内海沿岸地域にまで交易活動を行っていたと推定される。ゴウボラ貝やイモ貝を加工した腕輪は弥生時代の支配者層には銅鏡にも劣らないほどのあこがれの品々であった。この伝統は古墳時代にまで続いていた。また、隼人はやとの集団は竹との関係も深く、南九州からの移住地の一つである近畿地方の南山城みなみやましろ山背やましろ(京都盆地))は「竹取物語」の舞台と言われ、月に対する信仰とともに南九州から南山城にもたらされたと推定される。5世紀以降の南山城、特に京田辺付近は南九州の隼人はやとの移住先であった。古墳のあり方から隼人はやとの移住は何波もあったとみられる。記紀によれば、崇神すじんに滅ぼされた南山城の武埴安彦たけはにやすひこの妻は吾田媛あたひめである。


卑弥呼ひみこ共立


 倭国乱の後、巫女みこである卑弥呼が倭国の女王に共立されたのは180年代後半のことである。卑弥呼共立の前、クニグニの王は男子であった。倭国乱が始まる前であったが、107年に後漢に朝貢した倭国王帥升すいしょうもそのうちの一人である。伊都いと国があった福岡県前原町の井原鑓溝いわらやりみぞ遺跡は107年の倭国王帥升すいしょうの時代の墳墓と考えられている。江戸時代の1780年代に偶然見つかった甕棺かめかんから19面の方格規矩四神ほうかくきくししん鏡と巴形ともえがた銅器が3点以上、刀剣類も出土している。現在、その発見場所は特定されていないが、その周辺からは80基を超える墳墓が確認され、4面の銅鏡が出土している。いずれも破砕されており、破砕して副葬する儀礼が確立していたと考えられる。他にもガラスのビーズ玉だけ多く出土した墓もある。細石さざれいし神社の南100メートルほどの地点と推測されている。そこは伊都いと国王であった帥升すいしょうの墓である可能性は高いといえる。

古代社会において、同じ文化圏の部族間闘争が長く続いた末に、象徴的な神や人の下に集まり部族間の平和を図ることは世界中の部族社会で常に起こっていた。 北部九州での卑弥呼の共立も同様であったと思われる。卑弥呼は巫女であり、部族連合の象徴として祭り上げられた存在であった。邪馬台国出身の卑弥呼は部族連合の巫女女王であり、実権を伴った倭王ではないことは多くの歴史学者が指摘しているとおりである。

 松本清張は、“中国の史家が巫女を女王と誇大に書き、その居場所まで「女王の都するところ」と拡大したために、邪馬台国がいかにも女王国の首都のように解釈されてきた。これは中国側の誇張である。事実上の首都は伊都国であった。また、卑弥呼は宗教的に共立されたのであって軍事的な実力があったわけではない。共同の敵である狗奴くな国の侵略の前に一致団結するために、便宜上卑弥呼の鬼道きどうを頼りにしただけである”、と述べている。

 森浩一も、“卑弥呼は女王国すなわち首長国連合の女王であったが、邪馬台国の女王ではなく、邪馬台国には別に男子の王が存在していた。邪馬台国は首長国連合の中の一国にすぎない。そして、たまたま女王国の都が邪馬台国の都と同じ場所になっていた”、と述べている。


「魏志倭人伝」は卑弥呼の鬼道きどうを邪教扱いにしている。アルタイ・ツングース系の人びとは「鬼神きじん」を祀る風習があった。鬼神とは天であり、日月星辰風雨であった。その人智不可解な支配力にSpirits(霊魂)を認め、それへの尊敬と畏怖とを覚えた。ツングース系の夫餘ふよ高句麗こうくりなどの中国東北地方では、鬼神の祭祀に部族の人びとがみんなで参加したが、朝鮮半島南部の韓の地に入ると鬼神の奉仕には専属の者を一人おくようになった。その奉仕とは、祖霊の言葉を聞いて、これを人間に伝えることである。奉仕者は巫覡ふげきといい、男も女もいる。女は巫女みこである。鬼道もまた朝鮮半島南部の信仰である。鬼道は鬼神信仰によっている。韓伝によれば、鬼神とはこのばあいは先祖の死霊のことである。人びとは鬼神を信じ、各地でそれぞれ一人の者に天神を主祭させる。それを「天君」という。その居る宗教地が「蘇塗そと」で、そこに大木を立てて鈴鼓をかけ「鬼神につかえる」。蘇塗は日本の神籬ひもろぎに似ている。蘇塗は治外法権の区域であり、古代朝鮮語でも「soto」である。


鬼道きどう

大形徹(大阪府立大学教授)によれば、中国における「鬼」とは「死者の霊魂」のことである。卑弥呼の「鬼道」をしいて「鏡」と結びつければ、鬼神の世界をこの世に映し出す重要な呪具として使用したのかもしれない。卑弥呼が亡くなったとき、あの世に復活再生するための葬具として鏡が副葬された可能性も高い。それは太陽に基づく再生復活観念に加えて、鏡を通してあの世に行くことができると考えられていたからなのかもしれない。古事記の中で、天照大神あまてらすおおみかみを岩戸から引き出す、つまり再生復活させるのに鏡が使われることとも、どこかでつながっているとも考えられる。

また、西谷正(九州大学名誉教授)によれば、鬼神崇拝の祭祀は礼を通じて神がかりになったシャーマンから種々の神託が伝えられる宗教的行事である。卑弥呼は多鈕細文鏡たちゅうさいもんきょう・小銅鐸・貝輪などを装着したシャーマンであり、有力首長としての側面も兼ね備えた司祭者的首長であったと考えられる。 魏志韓伝によると、馬韓では春の種まきの時と秋の収穫の時の毎年二回行われる農耕儀礼の際に鬼神を祭る。その様子は中国の鐸舞たくぶに似ているといわれる。鐸舞とはたくを持って舞う舞。シャーマンを中心とした女性首長が行う宗教儀礼は、基本的には共通したものが対馬海峡を挟んだ両地域(朝鮮半島南部と北部九州)にあったと考えられる。


 楽浪らくろう郡と伊都いと国が卑弥呼の共立に深く関与していたことは、楽浪郡(204年以降は帯方郡)が諸国を検察するために伊都国に一大率いちだいそつを置いたり、楽浪郡使(204年以降は帯方郡使)が常に往来したり、という魏志倭人伝での別格扱いから推定できる。 

なぜ共立なのか? その方が楽浪郡にとって倭人国を支配する上で都合がよかったからである。北部九州の有力国には伊都いと国と国がある。伊都国は楽浪郡の統治下にあるが、国力という点では奴国に劣る。奴国は、国力はあるが、楽浪郡の完全な支配下にはないため、反抗されても困る。また、倭国の勢力を拡大するには背振せぶり山地の南側の筑後川流域の部落群を取り込む必要もあった。そこで、楽浪郡は筑後川流域で巫女みことしてあがめられていた卑弥呼に目を付けた。卑弥呼は倭人国連合の象徴として祭り上げるには最適とみなされ、倭人国連合を構成する伊都国や奴国などの有力国も妥協した。狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官国)は弁辰(弁韓)地域の有力国であるが、楽浪郡の支配下にあり、国というより楽浪郡の直轄地であった。また、朝鮮半島にあるため、地理上の問題もあった。倭人国連合を構成する30ヶ国のうち狗邪国を除く29ヶ国が北部九州にあり、最終的に楽浪郡は北部九州にある29ヶ国の中から倭国連合の首長を選んだと考えられる。

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