第11話 伊都国・奴国・狗邪国

魏志倭人伝は通称名であり、正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条である。


三国志さんごくし

 3世紀後半成立、陳寿ちんじゅにより編纂された。三国志は書・しょく書・書からなる。三国志の魏書の東夷とうい伝には、夫餘ふよ高句麗こうくり東沃沮とうよくそ浥婁ゆうろうわい馬韓ばかん辰韓しんかん弁辰べんしんの九条が含まれ、最後の部分が倭人条である。魏が238年と245年に出兵し通過した地域(中部朝鮮以北)については風俗・習慣にいたるまで詳細に記述されている。三国志の選者の陳寿ちんじゅしょくの生まれで、しんに仕えた人で、233年に生まれ、297年に死んでいるので、3世紀に生きた人が、3世紀が終わるまでに書き上げていることは中国では珍しいことである。同時代資料というのは価値が高いけれど、中国の慣例により、後の王朝がすぐ前の王朝のことを書き残すという点では例外ではなく、しんの時代になってから書かれている。


 朝鮮古代史を専門とする元東北大学教授の井上秀雄は、

“魏書・東夷伝には、その冒頭にその記事を記載する目的や方法が表示されている。それによると、西域のことは都護府とごふを置いた後、ようやく明らかになったが、東夷のことは遼東に公孫氏がいたため全く事情が分からなかった。しかし、238年と244年の出兵によって、朝鮮半島北部より北については諸国の大小や国名・風俗などが詳しく記載できるようになった。そこで、各国の類似点や相違点を列記して、史記や漢書などではまだ不明であった部分を補おうと思うとある。このように朝鮮半島南部より南についてはよくわからないとされている”と述べて、中国の正史であっても、日本列島に関する最も詳細な記事とされる魏志倭人伝には基本的な問題があるということを念頭に置いて読むべきであるという。


 ・魏志倭人伝に、「(帯方)郡り倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をて、あるいは南しあるいは東し、其の北岸の狗邪韓国くやかんこくに至る、七千余里」、そして対馬・壱岐を経由して北部九州の末虜まつら国に到るとあり、次に「東南に陸行すること五百里にして、伊都いと国に到る。千余戸有り」、さらに「東南して国にいたるには百里、二万余戸有り」とある。


 ここに魏志倭人伝の女王国連合の有力国で、朝鮮半島南岸地域で対馬の対岸にあたる金海きめ狗邪韓国くやかんこく、北部九州の博多湾を共有する伊都いと国と国が登場する。卑弥呼の女王国連合について語る前に、これら三国についての理解を深めておきたい。


伊都いと国と


 BC1世紀の倭人は、伊都国・奴国を起点として山陰・瀬戸内・近畿地方と活発に往来していた。「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時をもって来たりて、献見けんけんす」、漢書に記されたBC1世紀代は須玖すぐ式土器が盛行していた時期にあたる。須玖式土器とは、弥生中期のBC1世紀に盛行した長頸の袋状口縁壺・ヒョウタン形土器である。しんの中国統一とともに長江流域など各地に広まった水や酒を入れる長頸のヒョウタン形容器である蒜頭壺さんとうこに類似しており、北部九州の祭祀儀礼が中国における神仙思想の隆盛という外的要因で成立した可能性を示唆している。伊都国・奴国・壱岐、丹塗研磨のある袋状口縁壺やヒョウタン形土器がこの3地域だけに分布することは地域間のつながりの強さを示し、非常に興味深い。

 この時期に朝貢を主導した伊都国・奴国の首長層は、前漢鏡やガラスへきなどの漢代の文物を百余国に再分配し、墓に副葬することで権威を継承するシステム、すなわち冊封体制を確立した。紀元前後のBC1世紀から1世紀は、前漢鏡や玻璃はり(水晶)、ガラス製品や素材の流入が本格化する時期で、朝貢の背景に楽浪郡と伊都国・奴国の首長層との間で、文字や言語を駆使して意志伝達を行った人びとが介在したことがうかがえる。


 吉野ヶ里遺跡の発掘責任者である七田忠昭によると、紀元前後の北部九州地域の巨大環濠集落は、およそ30の地域のまとまりに分かれる。そこには末虜まつら国(唐津・松浦地域)、伊都いと国(糸島半島地域)、国(博多・福岡地域)、胸肩むなかた(宗像地域)、おか(遠賀川下流地域)、吉野ヶ里よしのがり(筑後川下流北側)、八女やめ山門やまと(筑後川下流南側)も含まれる。そこはまさに魏志倭人伝に登場する3世紀前半の女王国連合のクニグニを彷彿とさせる。


[環濠集落]

 弥生早期後半(BC6世紀)に出現し、その後も各時期に掘削されている。平野部周辺の台地上に、集落の周りに濠と土塁を巡らせ、逆茂木と呼ばれる先を尖らせた抗列で防御を固めた要塞である。北部九州や機内地域に多く見られる。環濠集落の出現は戦いの時代が到来したことを告げるものである。環濠集落は福岡市那珂なか遺跡・粕屋町江辻えつじ遺跡など、弥生早期(BC6世紀)から現れる。朝鮮半島でも慶尚南道を中心に10ヵ所以上の環濠集落がある。多くは弥生早期(BC6世紀)のもので日本の環濠集落との共通点が多く、環濠集落は水田稲作文化に伴って朝鮮半島南部から伝来したものといえる。

 朝鮮半島の環濠集落は中国の黄河中流域に起源があると思われる。6000年以上前の仰韶やんしゃお文化の環濠集落が知られており、内蒙古自治区でも7000年以上前の環濠集落が確認されている。華北の山西省からは3500年以上前の黒陶文化期の遺跡からは二重環濠が確認されている。中国大陸北部の環濠集落は空濠であるが、中国南部の江蘇省からは春秋時代後期(BC5世紀)の三重の水濠をめぐらした淹城えんじょう遺跡が発見されている。

 低地性環濠集落は弥生中期(BC2世紀~1世紀)の近畿や中部の沖積平野で特に発達する。奈良県の唐古からこかぎ遺跡は弥生中期中頃(BC1世紀)に奈良盆地最大の環状集落へと成長した。ここでは、銅鐸どうたくなどの青銅器や鉄器の集中生産を行っており、その流通の拠点であった。近年、九州でも低地性環濠集落が発見されている。福岡県朝倉市の平塚川添遺跡、福岡市博多区の雀居ささい遺跡、福岡県三井郡北野町の良積よしづみ遺跡である。これらは弥生後期後半(3世紀)のものであるが、福岡県行橋市で見つかったものは弥生前期前半(BC5世紀~BC4世紀前半)の稲作開始期の遺跡である。佐賀県神埼郡の吉野ヶ里よしのがり遺跡は弥生後期(2世紀~3世紀)に最盛期を迎え、巨大環濠集落へと成長した。


伊都いと国は日本列島の倭国連合において最も重要な地位を占めている。

 

 ・魏志倭人伝に、「世々王あり、皆女王国に統属す、郡使の往来、常に駐る所なり」という伊都国に、「一大率いちだいそつを置き、諸国を検察す。諸国これをおそはばかる」とある。


 204年に公孫康が楽浪郡の南部を分割して帯方郡を作り、韓と倭は帯方郡に属したとあることから、一人の大率だいそつが帯方郡から派遣されて、女王国である倭の諸国を検察していたのである。その大率は伊都国に駐留していた。また、郡使も常に伊都国に滞在していた。


 伊都国のあった三雲番上みくもばんじょう遺跡からは大量の楽浪土器が集中して出土している。わずか88平方メートルの発掘区域から30片以上の楽浪土器の破片が出土している。狭い範囲でこれほどたくさんの楽浪土器が集中して出たところはない。ここには楽浪人が居住し、朝鮮半島諸国や郡(楽浪郡・帯方郡)との外交文書の作成などに関わっていたと想定される。ここに王がいて、その王の管轄下あるいは一大率と関わるなかで、楽浪郡や後の帯方郡の人たちが日常的に滞在する施設が存在したと推測される。BC1世紀の漢の楽浪郡の時代から北部九州の中心であった伊都国には、郡からの多くの漢人や、朝鮮半島の倭人たちが往来し、住み着いていたのである。

 また、伊都国の北側のシマ地域にある御床松原みとこまつばら遺跡は引津湾に面して立地し港に近い。ここからは楽浪土器の他、貨泉かせん(中国のしん(紀元後8年~23年)の銭貨)・半両銭、鉄斧・鉄板、石錘せきすい(網の重り)や釣り針などの漁労具などが出土している。その近くの一の町・ウスイ遺跡からは南北100メートル、東西175メートルの範囲に竪穴住居や掘立柱の建物群が密集して発見され、さらに交易センターのような大型建物があり、大量の楽浪土器も見つかっている。ここでは祭祀も行われており、最近では倭人伝の斯馬しま国にあたると言われている。それぞれの集落は、交易に従事する集落と、それを統括する集落という関係にあったと思われる。これらの遺跡は楽浪から来た海民たちの交易の拠点となった場所である。


 伊都国の王墓と推定されるBC1世紀後半の三雲南小路みくもみなみしょうじ遺跡からは、2基の甕棺かめかんが発見され、1822年に偶然発見された一号甕棺からは比較的大きな35面の前漢鏡と多くの武器が出土している。さらに重要なことは、ガラス璧と金メッキされた金銅四葉座飾金具も出土し、中国では皇帝が王候クラスに下賜する埋葬道具の一つであることから、中国から王と認識されていたことになる。それは漢の楽浪郡から下賜されたものかもしれない。1975年に調査された二号甕棺からは直径10センチ未満の小型の22面以上の前漢鏡と硬玉勾玉・ガラス勾玉などが出土した。この遺跡は、構築当時は1辺33メートルの方形の墳丘墓であった。鏡・刀・玉の典型的な三種の組み合わせである。一号甕棺は男性、二号甕棺は女性と考えられている。築造時期は、副葬された最も新しい鏡が紀元6年銘であることから弥生中期後半の1世紀と考えられ、この墳墓の周辺で行なわれた祭祀には水銀朱が使われており、この王墳への祭祀は古墳時代初頭の3世紀後葉まで200年以上にわたって行われていたことが確認された。伊都国の最古の王墓であり、始祖墓として特別な扱いをうけていたと思われる。細石さざれいし神社の社殿の裏にあたり、神社の祭神は高天原から日向ひむかの高千穂の峰に降臨したニニギの妃のコノハナサクヤヒメである。日向ひむかとは太陽に向かうの意であり、今の宮崎県の日向ひゅうがではない。宮崎県の日向ひゅうが熊襲くまその地と呼ばれた南九州地域の一部が7世紀になってから日向ひゅうがと呼ばれるようになったものである。想像をたくましくすれば、一号甕棺に埋葬されたのはアマテラスの孫にあたるニニギで、二号甕棺に埋葬されたのはコノハナサクヤヒメで、ニニギは加耶かや加羅から)から伊都国に天孫降臨して、伊都国の初代の王となったことになる。年代的にも第9話「高天原はどこか?」で推定したアマテラスの崩御年(紀元前後~1世紀)にほぼ合致する。


 一方、国も伊都いと国と同様に発展していた。奴国のあった福岡平野の須玖すぐ岡本遺跡は春日丘陵の一角にあり、BC1世紀後半の奴国王墓の一つ(甕棺)には前漢鏡27面、銅剣4、銅矛5、銅矛1、ドーナツ状のガラス壁片、ガラス玉などが副葬されていた。鏡・刀・玉の三種は伊都国の三雲南小路遺跡と同型である。57年に金印を授けられた漢委奴国王が国王であれば、その数代前の王と考えられる。那珂なか川右岸にある春日丘陵上には弥生中期から後期にあたる90箇所ほどの弥生遺跡が密集し、銅矛、銅戈、銅鏃どうぞく(やじり)、銅鏡、銅釧どうくん(腕輪)、銅のすき先などの青銅器を製作していた。銅剣が少ないのはこの頃から鉄剣が普及し始めたからである。ここで作られた広鋒ひろさき(広形)銅矛が対馬へ大量に運ばれた。ガラスの装身具や鉄器も生産していたことは分かっている。 

 須玖すぐ遺跡群の南から西側にかけては環濠と考えられる溝が検出されている。弥生中期(BC2世紀~1世紀)に溝が掘られ、弥生後期(2世紀~3世紀)まで存続したと考えられる。青銅器の生産は、弥生中期(BC2世紀~1世紀)の段階では春日丘陵上の各集落で分散的に行われていたが、2世紀の弥生後期になると須玖岡本すぐおかもと遺跡周辺の低地の坂本地区に生産工房が集中していったと判断され、官営工房といえる様相を呈し、弥生後期後半(3世紀)に著しい。伊都国の遺跡を発掘した原田大六は、伊都国の三雲南小路の王墓と時期は近いが、その後と思われるという。また、春日市の北部にある須玖岡本遺跡と同時期の須玖タカウタ遺跡からは弥生中期前半(BC2世紀~BC1世紀前半)の石製・土製の青銅器鋳型いがたが出土した。朝鮮半島系有柄式銅剣鋳型は朝鮮半島・日本列島ともに初めての出土であり、吉野ヶ里遺跡出土の有柄式銅剣の祖形ともなる。多鈕細文鏡たちゅうもんさいもんきょう系石製鋳型いがたの出土も日本初である。

 鉄器が普及する前は、金属器と言えば青銅器であった。青銅器は、弥生中期前半のBC2世紀ごろから有明海沿岸地域で青銅器が鋳型を使って生産されるようになり、その後、特に奴国では青銅武器が弥生中期から後期にかけて大量に生産されている。青銅器生産開始期の鋳型は佐賀平野からの出土数が比較的多い。BC1世紀ごろ以降になると北部九州では各国々が成長し、伊都国の三雲南小路遺跡や奴国の須玖岡本遺跡に代表されるような比類なき弥生墳墓を出現させた。これらの王墓の副葬品である青銅武器形祭器から判断すると、王が祭祀権をも掌握していたと考えられる。この時期の青銅器原料の調達は弥生王権中枢の伊都国が担ったと考えられる。なぜなら、対馬・壱岐には伊都国の土器が分布する、また弥生後期(2世紀~3世紀)には三雲遺跡群を中心に伊都国に多量の楽浪土器が出土するからである。伊都国はBC1世紀以来ずっと北部九州の中心の地位にあり、そこには王がいた。奴国にも伊都国と同様に王がいたが、伊都国とは共存関係にあった。

 さらに、福岡平野の中央部にあって、東西のそれぞれ博多湾に向って北流する御笠みかさ川と那珂なか川に挟まれた台地上ににある比恵ひえ那珂なか遺跡では楽浪土器は少なく、三韓系土器が圧倒的に多いことから、楽浪郡とではなく、三韓時代の加耶や馬韓との交易の拠点があったと考えられる。その地には邪馬台国時代の奴国の国邑こくゆう、すなわち王都があったともいわれる。


 伊都国と奴国の間には、吉武高木よしたけたかぎ遺跡がある。弥生前期末(BC3世紀末)~弥生中期初頭(BC2世紀初頭)の遺跡で、武器形青銅器および城ノ越式の副葬小壺を伴う木棺墓は、城ノ越式の副葬小壺を伴う金海式甕棺墓に先行して造営された。この木棺墓の地表には当初標石が置かれていたが、その一部と思われる長さ1.7メートル、幅0.8メートル、厚さ0.5メートルの花崗岩の巨石が残存していた。弥生前期として初めて、建物の階段の上に回廊を巡らせたBC3世紀~BC2世紀ごろの「高殿」が発見された。伊都国と奴国の間にある早良さわら平野に初期の青銅器武器が集中しており、そこは紀元前後に隆盛したが、弥生中期後半(BC1世紀後半~1世紀)からは衰退した。吉武高木3号木棺墓の個人に多鈕細文鏡・複数の青銅武器(銅剣・銅矛・銅戈)・異形勾玉と管玉などの玉類が集中している。それは三種の神器とも見なせるものである。特に銅剣は全長35センチと異例の大型で、朝鮮半島からも出土していない。朝鮮半島の無文土器も出土している。その主は登場期の青銅器を集中保有した早良平野を統率する首長といえるが、まだ王とはいえない段階である。しかし、北部九州の倭における最古の王墓と位置付ける人もいる。木棺墓の構造・出土遺物から考えると、その被葬者は朝鮮半島南部からの渡来人である可能性は高い。


 伊都いと国と国は共に北部九州の有力国であり、吉武高木遺跡のある早良さわら平野を挟んで東西に並んでおり、博多湾を共有している。伊都国は楽浪郡との交流・交易で主導的な役割を演じており、政治的には奴国の上に立っていたと考えられる。一方、奴国は弥生時代の早期から水田稲作を行い、大きな集落を形成し人口も多かった。それを裏付けるのが魏志倭人伝の記述である。伊都国に王・長官・二人の副官、さらに大率だいそつなどの要職が置かれているのに対し、奴国は長官の「兕馬觚しまこ」と副官の「卑奴母離ひなもり」が置かれただけであることから、邪馬台国の時代には、伊都国には王がいて外交と政治を行い、奴国は青銅器の一大生産基地と農業生産を担っていたと考えられる。

 この二つの国が争ったという記述もないことから、共存していたと考えることができる。したがって、伊都国と奴国は同盟関係、あるいは支配層においては血縁関係で結ばれていたと考えてもおかしくはない。伊都国と奴国はBC108年の楽浪郡の設置後のBC1世紀から3世紀前半の邪馬台国の時代までの約300年間にわたり日本列島の倭国を代表していたのである。 

 このように、卑弥呼の時代以前から、朝鮮半島南岸地域の狗邪くや国と、北部九州の伊都いと国と国は倭人が居住する倭国の中心の「クニ」であったことに疑いはない。それは、それぞれのクニの遺跡からも証明されている。そこには王がいた。


 その当時の北部九州の北方にあたる朝鮮半島南部をみてみると、三韓時代(紀元前後~3世紀)の弁辰(弁韓)12国は小国分立状態のままであり、洛東江の流域に散在していた弁辰(弁韓)の諸部族の中で、最も有力な勢力は加耶かやの諸部族であった。それらの諸部族は3世紀後半には六加耶に統合された。六個の加耶部族とは、金海きめ大駕洛だいから狗邪くや国、後の金官加耶)、咸安はまん阿羅あら(安羅)加耶、固城こそんの小加耶、高霊こりょんの大加耶、星州そんじゅの星山加耶、咸昌はむちゃんの古寧加耶を指し、その他にも8国ほどあったとされる。この六個の加耶部族は1世紀ごろから3世紀中葉に至る間に形成されたもので、部族連合を形成するようになるのは3世紀以降のことのようである。大駕洛だいから阿羅あら加耶・小加耶は洛東江の下流域にあり、大加耶・星山加耶・古寧加耶は洛東江の中流から上流域に位置する。


 もう一つ重要なのは、朝鮮半島東南部の洛東江流域の弁辰(弁韓)の地が鉄の産地であったことである。当時、非常に貴重で重要な利器であった鉄器の産地として楽浪郡は弁辰(弁韓)の地を直轄地にしたと思われる。もしそうであれば、その弁辰(弁韓)地域の中心地であった狗邪国(後の金官加耶)にも他の朝鮮半島地域に先駆けて先進文化がもたらされたことは間違いないと思われる。その狗邪国では、BC1世紀以降階層分化が進み、2世紀後葉の大型木槨墓の導入と鉄器の大量副葬があったことから、そこには王といえる存在があり、その王は楽浪郡の強い影響下にあったと推定される。


狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官加耶)


 魏志倭人伝は、朝鮮半島東南部の絡東江河口にある金海きめ付近の狗邪韓国くやかんこくを倭国の北岸としている。単なる交易だけでは技術・文化の伝播は起こらないことは世界の歴史が教えるところである。記紀でいう任那みまな、魏志でいう狗邪韓国(後の金官加耶)はBC1世紀ごろには狗邪国として存在していたと考えられている。そこには倭人が多数居住し、韓人と雑居しながら、倭人は金属器鋳造技術や水田稲作の技術そのものを受容して自分のものすることができた。北部九州の倭人たちが、博多 -> 壱岐 -> 対馬 -> 狗邪国への朝鮮海峡横断ルートを確保し、さらに楽浪郡へ、あるいは中国の洛陽へと長距離の沿岸航行を可能にしたのも、朝鮮半島南端の海峡に面した一角に中継基地を持っていたからこそである。そこは日本列島の倭人からすれば中継基地となるが、狗邪国の支配層からみれば北部九州を中心とした西日本は大いなる市場であると同時に、その地へ大きな抵抗もなく支配層として進出できる広大な土地であった。紀元前後の狗邪国は朝鮮半島南部では抜きんでた先進地域であった。そのような文化的先進地域から海を渡る危険を冒してまで後進地域の日本列島へ行くには相当な理由が必要となる。例えば、次のような理由が考えられる。


 ① 近隣諸国との軍事的緊張が高まり、より安全な新天地が必要となった。

 ② 当時の重要資源であった鉄や銅の鉱脈を日本列島で探す。

 ③ 人口が増加し食糧不足となった、あるいは飢饉の発生に備えて新たな土地で農地を確保する必要が生じた。

 ④ 北部九州の有力国が連盟の証しとして狗邪国など有力な加耶諸国の王族を婿や妃として迎え入れる。


 これらのいずれかが該当したときに渡来したと思われる。また、狗邪国のある朝鮮半島南岸地域からだけでなく、同じ朝鮮半島南部の三韓地域(馬韓・弁韓・辰韓)からも日本列島へ渡来した人びとがいたと考えるのが自然である。さらに、馬・鉄・文字を持った中国文化の地であった楽浪郡からも有力者や技能者が郡使と共に渡来した可能性も否定できない。


 さて、日本の王権誕生に最も影響を与えた狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官加耶)の王墓から日本列島との交流の状況を確認する。現在までに発見されているのは2世紀から4世紀までの王墓である。それ以前の王墓は未だ発見されていない。2世紀から4世紀といえば、まさに卑弥呼の女王国連合の時代から大和での王権誕生までの時期にあたる。

 狗邪国は海に面しており、海上交易が生産基盤であったが、それに増して南西10キロには周囲が鉄鉱山に囲まれた盆地があり、製鉄が行われ鉄鋌てっていが生産されていた。加耶地域では北方内陸部の大加耶の近くにも鉄鉱山があった。鉄鋌は短冊形の薄い鉄板であり、鉄素材・地金として評価されていた。また、貨幣・財宝・祭祀品などの機能もあったため、板状鉄斧と同様、交換・貨幣価値を備えた鉄素材である。福岡県宗像むなかた市の瀧ヶ下遺跡から日本最古の鉄鋌が出土している。鉄鋌は朝鮮半島東南部の古墳に副葬されており、瀧ヶ下遺跡の鉄鋌はその形式が同じであることから、鉄器の原材料として朝鮮半島東南部から伝来したと思われる。狗邪国発展の基本的な基盤はやはり鉄生産にあったと考えるべきである。


 狗邪くや国があった金海きめでは、2世紀に金海きめ良洞里やんどんに墳墓群に大型木槨墓もっかくぼが登場し、多数の鉄製品・中国製品の他、銅矛や鏡など北部九州の製品も出土している。広い地域と交流をもった支配者あるいは王の墓とみられ、吉備の楯築たてつきなど日本列島の倭国の大型墓とほぼ同時期に登場する点は注目される。この古墳群には4世紀までの200年間の墳墓があり、現在548基もの墓が確認されている。しかし、3世紀中頃に同じ金海きめ大成洞てそんどん遺跡に中心が移る。日本列島の大和で大型前方後円墳が成立するのと同時期である。古墳には板状鉄斧などを大量に副葬している。その中で最も古い王墓と目される29号墓では40点以上の板状鉄斧・銅鍑どうふく(湯を沸かすための容器)の他に、飲食物を死者に捧げるための大量の土器が出土している。こうした土器の大量副葬は、日本列島の前期・中期古墳には見られない。また、殉葬じゅんそうが登場するのもこの頃である。加耶の古墳の特徴は、丘陵の尾根上や斜面に密集分布する点や、鉄器の副葬量が多く、土器の類も副槨などに大量に埋納されることにある。しかし、最も特徴的なのは殉葬である。このような特異な殉葬風習を伴う加耶文化はどこから来ているのか?金海きめ大成洞てそんどん古墳群からは、陶質土器、殉葬や厚葬の風習、鉄製甲冑と騎乗用馬具、オルドス(今の内蒙古)型銅鍑どうふくなどが出土し、さらに先行墳墓の破壊行為などが見られ、これらすべてが北方の騎馬民族に見られるものであることから、北方(モンゴル高原)から南下して来て定着した集団が加耶文化の担い手であったと思われる。

 3世紀後半から5世紀前半の大型木槨墓では馬具や武具、装身具、巴形銅器、鉄鋌など、北方系や倭系も含めて豊富な副葬品が発見されている。4世紀前半の13号墳は6メートルx3.7メートルの大形木槨墓で、鉄製武器をはじめとする豪華な副葬品や3人の殉葬などが認められ、王墓と考えられている。4世紀後葉の68号墳からは朝鮮半島南部で最も古いくらくつわあぶみなどの馬具が出土している。これらは中国のしんの馬具の影響を受けていると思われる。88号と91号墳からはしん帯金具おびかなぐや中原のもの、中国の東北の三燕(鮮卑せんぴ慕溶ぼよう氏による前燕(337年~370年)・後燕(384年~409年)・南燕(398年~410年))の器、シリア周辺で製作されたローマングラス、琉球のイモガイ製の馬具、日本列島の巴形銅器などが出土している。これら五つの地域のものが集まっているのは、当時の狗邪国が鉄の貿易を中心に、日本列島・朝鮮半島・中国北部との交流の中心的な役割を果たしていたからと考えられる。4世紀代において、狗邪国から鉄や中国産の様々なものが日本列島へ送られ、その見返りの一つとして筒型銅器や巴形銅器を入手したと思われる。日本列島の倭国とのつながりが一層深くなったことがうかがえる。大型木槨墓は楽浪郡の中国系官人が営んだ本格的な木槨墓があり、その影響が加耶など朝鮮半島東南部に及び、さらに日本列島の倭国の弥生時代後期の木槨墓に影響を与えたと思われる。狗邪国は4世紀を中心に盛行し加耶諸国の盟主となり金官国(金官加耶)と呼ばれるようになった。


 北部九州の伊都いと国・国、そして弁辰(弁韓)地域の中心地であった狗邪くや国の支配者あるいは王墓と思われる墳墓群を比較してみると、鉄製武器や馬具、豪華な副葬品において狗邪国が卓越しているのは明らかである。狗邪国はBC1世紀~2世紀までは楽浪郡、その後は公孫氏が204年に設置した帯方郡の支配下にあったと考えられるが、郡からの支配者の数は限られていたと思われ、郡の支配力が衰えたときには独立王国の様相を呈していたと考えられる。

 狗邪国の2世紀以前の王墓はまだ見つかっていないが、もし王墓がなかったとすれば、2世紀以前は楽浪郡の直轄地として完全に楽浪郡の支配下にあり、王は存在していなかったことになる。その可能性はないとはいえない。もう一つは、朝鮮の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)時代の始めのBC1世紀ごろに朝鮮半島南部にいた辰王しんおうの支配下にあった可能性である。魏志東夷伝には、「辰王は馬韓の月支国げっしこくして、辰韓12国、弁韓12国、合わせて24国のうちの12国を支配していた」とある。 2世紀以前の辰王がいたのは、加耶地域の狗邪くや国や阿羅あら(安羅)国ではなく、馬韓の月支国げっしこくである。月支国がどこにあったかは不明であるが、弁辰(弁韓)地域ではなく、馬韓にあった。しかし、「辰王は常に馬韓の人がなり、王位は世襲であるが、辰王自ら立って王となることはできないとある」ことから、辰王もまた楽浪郡の支配下にあったと考えざるを得ない。

 57年の漢委奴国王も、107年の倭国王帥升すいしょうも楽浪郡支配下の狗邪国の力を借りなければ、朝貢することはできなかった。当時の楽浪郡の海路の支配力、文字文化、武力、財力は東夷とういの世界では圧倒的であった。


【コラム】鉄の伝播

 ここでは先進文化の象徴である鉄の発祥から日本列島へ伝播するまでの過程を概観する。

 鉄の発祥地は西アジアのアナトリア(今のトルコ東部)に居住したカリュベス人と言われている。最古の鉄器はBC3000年~BC2000年にわたる時期のもので、イラン・イラク・トルコ・シリア・レバノン・エジプトなどで出土している。それは炭素量の低い練鉄れんてつ浸炭しんたん処理し農具・武器として利用できるようにしたものである。最初はアナトリアのヒッタイト帝国(BC1450年~BC1200年)が鉄を独占していたが、ヒッタイト帝国崩壊後急速に四方に広がった。BC1200年ごろにはペルシャ(今のイラン)とエジプトに、BC900年ごろにはアッシリア(今のイラク北部)に、BC600年ごろにはヨーロッパに伝えられた。ペルシャの鉄はアゼルバイジャン・インド・中央アジア方面に伝播した。中国における鉄の使用はいんしょう)代の中期だが、殷(商)(BC1600年~BC1050年)・しゅう(BC1050年~BC770年)時代は未だ隕鉄いんてつ(自然鉄)である。殷(商)代中期の河北省から出土した鉄刃銅鉞てつじんどうえつが最古の鉄の使用例として知られる。えつとはマサカリのことで、刃の部分だけ鉄が用いられた。周時代には鉄援銅戈てつえんどうかにも見られる。この時代はまだ青銅器が圧倒的に優勢であり、鉄が限定的に使用されていたのは、その素材がすべて隕鉄であり、希少価値であったためである。周時代後期に登場した人工鉄は、春秋時代(BC770年~BC470年)後期から戦国時代(BC470年~BC221年)前期になると人工鉄である銑鉄せんてつから鋳造ちゅうぞうされた工具類、農具、ごく少数の武器と容器が中国のえんかんの領域に集中して出土している。殷(商)・周代に出現した可能性のある錬鉄れんてつはこの時期に短剣・刀子とうすやりがんなの一部に利用され始めた。戦国時代(BC470年~BC221年)になると鍛造たんぞうの鉄器も作られるようになった。しかしこの時期になってもまだ青銅製のほうが多数である。生産工具の多くが青銅器から鉄器へ変化するのは戦国時代中期から後期にかけてである。中国の戦国時代はしんえんかんしょうせいという七つの国が中国を割拠した時代である。各国の都には手工業区が設けられ、そこに鉄器の製作工房も設けられていた。

 古代中国の製鉄技術が世界的にみて優れている点は、鉄鉱石を高温で還元し、液体状の鉄、すなわち銑鉄せんてつを生産する方法を春秋時代後期(BC6世紀)にすでに獲得していたことである。これは殷(商)時代以来築き上げられてきた高度な溶銅・鋳銅技術を基礎に完成したものである。一方、鉄鉱石を低温度(1000度前後)で個体のまま還元する塊錬鉄れんてつ法は周後期(BC9世紀)には成立していた。

 朝鮮半島と日本列島に鉄をもたらしたのは中国東北のえんで、都は今の北京付近にあった。燕における鉄製農具の出現はBC5世紀にさかのぼる。この最初期の鉄製農具は斧形すきくわ先である。燕における鉄製農具の大きな画期はBC4世紀にあり、水利灌漑などの土木工事にも鉄器が使用され社会変革に貢献した。鉄製農具は突然出現したのではなく、前段階の石製・木製・青銅製の農具を置き換えたものである。後に朝鮮半島に多大な影響を与える燕は、採鉱から鉄・鉄器生産にいたる一貫した操業を行っていた。河北省の遺跡からは鋳造鉄器の大量生産を示す鉄製の鋳型が100点近く発見されており、官営的な工房であったと考えられる。この時期には、官営的な工房以外にも一般庶民への鉄器の供給を目的とした生産工房も営まれていた。漢代(BC206年以降)になると大刀に代表されるはがねの製作技術が進展し、前漢末(紀元前後)には完全に鉄器の時代に移行した。史記の貨殖列伝には前漢の前半の大富豪が記載されているが、その冒頭に挙げられた四氏すべてが製鉄業者であった。このことは、戦国時代にはすでに鉄業で成功していたことを物語っている。漢の武帝は、国家による鉄の専売を行うため、BC110年に全国46ヶ所に「鉄官」という官府を設置した。「鉄官」設置の結果、中国の広範な地域に製品の規格化、技術の画一化が起こった。その後、専売制に対する民間業者の反発から「鉄官」は消滅するが、「鉄官」により鉄製農具が各地に浸透し、戦国時代以前にあった鉄器保有の地域格差が解消されたことは重要である。しかし、漢では鉄の生産技術・鉄製品の流通が厳しく統制されていた。

 えんの鉄製農具の東方への拡大はBC4世紀中に遼西から遼東に及び、朝鮮半島北部にはBC3世紀初頭までには広がっている。朝鮮半島への鉄器流入・生産は戦国末から漢初(BC200年ごろ)に燕の領域から朝鮮半島に広がり定着し、鋳造ちゅうぞう斧を象徴とする独特の文化を形成した。鍛造たんぞう鉄器はBC108年の楽浪郡以下4郡の設置以後、土着の首長層が漢の鉄製武器類を入手して墳墓の副葬品とした。BC1世紀後半ごろからの副葬品が朝鮮半島独自の青銅器から鉄器類に置き換わるのは鉄器を全面的に製作し得るようになったことを意味する。その副葬品には、鉄鉗かなはし鉄鎚かなづちといった鍛冶かじ具、鍛造たんぞう品の斧があり、楽浪郡の設置は朝鮮半島に新たな鍛造技術を伝える契機となった。墳墓から推定すると、鍛冶工人の中には有力者の次に位置するような高い階層のものもいたと思われる。BC1世紀後半になると、朝鮮半島東南部の弁韓・辰韓地域での鉄製品の普及度はかなり高かった。楽浪墳墓群にみられる矛・斧・鎌を基本とする副葬品の組合せは、弁辰(弁韓)の葬制のものが色濃く受け継がれており、「魏書」に弁辰(弁韓)が楽浪郡と帯方郡に鉄を供給すると記されている楽浪郡と弁辰(弁韓)地域との結びつきの深さは考古史料にも現れている。しかし、楽浪郡を介して導入された鉄の技術は鍛冶かじ技術のみであり、製鉄は含まれていなかった。弁辰(弁韓)地域で製鉄が始まったのは紀元前後と考えられているが、その技術も中国からではなく、えんの東にあたる朝鮮半島西北地域を介してのものであった。2世紀後半以降、楽浪郡が衰退し始めると、弁辰(弁韓)地域色の強い武具・馬具が出現し、朝鮮半島北部や中国東北地方から得た新しい鉄技術の導入がうかがえる。「魏書」東夷伝弁辰条の「国、鉄を出す。かんわい、皆従って取る」という記事は、あくまでも倭人側の積極的な入手活動に対して弁辰(弁韓)側の鉄市場の存在を示唆しており、弁辰(弁韓)側が惜しみなく鉄を供給してくれたわけではない。また、製鉄せいてつ精錬せいれん鋳造ちゅうぞう鍛造たんぞうのいずれの技術も厳しく管理されていた。鉄製造技術は重要な国家機密であり、最先端技術でもある。他国はそれを容易に入手することはできなった。


 日本列島への鉄の伝播は、BC4世紀に中国戦国時代のえんで作られた鋳造鉄斧が九州地方にもたらされて始まった。それは朝鮮半島を経由せずに燕や遼西・遼東より朝鮮半島南部と北部九州に直接それぞれ伝わった可能性があるともいわれるが、おそらく朝鮮半島の西海岸沿いに伝播してきたと思われる。BC4世紀の福岡県曲り田まがりた遺跡出土の板状鍛造鉄器や熊本県斎藤山遺跡の袋状鉄斧の例がある。これらは朝鮮半島経由でもたらされた舶載(輸入)品である。続いて九州・中国・近畿地方に手斧・刀子とうすやりがんな、九州ではやじりが見られるが、この時期はまだ大陸系磨製石器と縄文時代以来の石器製作の伝統と融合しながら各地で定着し道具の主流を占めていた石器が中心である。北部九州の弥生人は鉄を求めて朝鮮半島南部に渡っていたことは、その地にBC4世紀~BC1世紀の弥生土器が出土していることから分かる。BC2世紀になると高温状態で表面を脱炭処理して機能を高める鉄器を作った鍛冶かじと思われる炉が北部九州から中国・四国・山陰地方で見つかっている。また、鋳造鉄器の再加工品も多数みられるようになる。九州ではBC1世紀から青銅器のつるぎほこにかわって、これらが鉄製となる。戈は九州で製作されたと考えられるが、その他のものは朝鮮・中国からもたらされている。1世紀になると西日本の中国・四国以西と近畿の日本海側では石器から鉄器に交代した。しかし九州とそれ以東の地域では鉄製農具類の出土数に著しい差がある。近畿の大和地方で、ごくわずかながらも鉄器が出土するようになるのは3世紀まで待たなければならない。3世紀は「魏志東夷伝」に書かれた弁辰(弁韓)の鉄の時代に相当する。


 古代の鉄器についてその第一人者である愛媛大学教授の村上恭通は、

“北部九州で鉄器生産が開始されるのは弥生中期末葉(1世紀後半)、ほぼ同時期に日本海沿岸地域、瀬戸内海地域への技術伝播が起こる。北部九州の鉄製品は在地生産のみならず、北部九州産・中国産・朝鮮半島産の鉄器も数多く出土しており、瀬戸内海あるいは太平洋地域の比ではない。この様相は北部九州海民の移動痕跡からみても、日本海沿岸の交流ルートが弥生初期から良好に機能していたと考えられる。また、日本海沿岸地域では、弥生後期後半(3世紀)には北部九州においてさえ希少価値である大刀や長剣などの舶載(輸入)武器を豊富に獲得していることから、北部九州の介在を必要としない鉄器入手の交渉ルートを持っていたと思われる。日本海沿岸の丹後では弥生時代後期後半(2世紀後葉~3世紀後葉)に一辺40メートルもの方形の墳丘墓が出現する。それらの墳丘墓の中には、一つの埋葬施設から11点もの鉄剣が出ている。これは弥生後期の畿内では考えられないことである。弥生後期後半(2世紀後葉~3世紀後葉)になると、山陰一帯に鉄器が広く普及するが、その鉄資源をどのように入手していたかが未だ解明されていない。中国地方山間部へは山陰地方を経て伝播した。山陰地方の鉄器普及は山陽地方よりも一段階早く、そこから中国山地を経由して山陽地方へ鉄器が供給されていたと考えられる。山陰地方では鳥取県の青谷上寺地あおやかみじち遺跡や妻木晩田むきばんだ遺跡で弥生時代後期(2世紀~3世紀後葉)のやじり・工具・農具など大量の鉄器が出土している。また北陸でも出土遺跡が増えている。弥生中期後半(BC1世紀後半~1世紀)の凹線文おうせんもん土器も中国地方山間部で発生し、山陽地方へと伝播しており、鉄器とともに土器製作技術の伝播もあったと思われる。京都府北部の日本海側の京丹後市の遺跡には、弥生中期半ばから後半(BC1世紀~1世紀)に鍛鉄たんてつ鋳鉄ちゅうてつを再加工する技術があった。京都市西京極遺跡では、後期前半(2世紀)の鍛冶炉が検出されている”、と述べている。

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