第11話 伊都国・奴国・狗邪国
魏志倭人伝は通称名であり、正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条である。
[
3世紀後半成立、
朝鮮古代史を専門とする元東北大学教授の井上秀雄は、
“魏書・東夷伝には、その冒頭にその記事を記載する目的や方法が表示されている。それによると、西域のことは
・魏志倭人伝に、「(帯方)郡
ここに魏志倭人伝の女王国連合の有力国で、朝鮮半島南岸地域で対馬の対岸にあたる
BC1世紀の倭人は、伊都国・奴国を起点として山陰・瀬戸内・近畿地方と活発に往来していた。「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を
この時期に朝貢を主導した伊都国・奴国の首長層は、前漢鏡やガラス
吉野ヶ里遺跡の発掘責任者である七田忠昭によると、紀元前後の北部九州地域の巨大環濠集落は、およそ30の地域のまとまりに分かれる。そこには
[環濠集落]
弥生早期後半(BC6世紀)に出現し、その後も各時期に掘削されている。平野部周辺の台地上に、集落の周りに濠と土塁を巡らせ、逆茂木と呼ばれる先を尖らせた抗列で防御を固めた要塞である。北部九州や機内地域に多く見られる。環濠集落の出現は戦いの時代が到来したことを告げるものである。環濠集落は福岡市
朝鮮半島の環濠集落は中国の黄河中流域に起源があると思われる。6000年以上前の
低地性環濠集落は弥生中期(BC2世紀~1世紀)の近畿や中部の沖積平野で特に発達する。奈良県の
・魏志倭人伝に、「世々王あり、皆女王国に統属す、郡使の往来、常に駐る所なり」という伊都国に、「
204年に公孫康が楽浪郡の南部を分割して帯方郡を作り、韓と倭は帯方郡に属したとあることから、一人の
伊都国のあった
また、伊都国の北側のシマ地域にある
伊都国の王墓と推定されるBC1世紀後半の
一方、
鉄器が普及する前は、金属器と言えば青銅器であった。青銅器は、弥生中期前半のBC2世紀ごろから有明海沿岸地域で青銅器が鋳型を使って生産されるようになり、その後、特に奴国では青銅武器が弥生中期から後期にかけて大量に生産されている。青銅器生産開始期の鋳型は佐賀平野からの出土数が比較的多い。BC1世紀ごろ以降になると北部九州では各国々が成長し、伊都国の三雲南小路遺跡や奴国の須玖岡本遺跡に代表されるような比類なき弥生墳墓を出現させた。これらの王墓の副葬品である青銅武器形祭器から判断すると、王が祭祀権をも掌握していたと考えられる。この時期の青銅器原料の調達は弥生王権中枢の伊都国が担ったと考えられる。なぜなら、対馬・壱岐には伊都国の土器が分布する、また弥生後期(2世紀~3世紀)には三雲遺跡群を中心に伊都国に多量の楽浪土器が出土するからである。伊都国はBC1世紀以来ずっと北部九州の中心の地位にあり、そこには王がいた。奴国にも伊都国と同様に王がいたが、伊都国とは共存関係にあった。
さらに、福岡平野の中央部にあって、東西のそれぞれ博多湾に向って北流する
伊都国と奴国の間には、
この二つの国が争ったという記述もないことから、共存していたと考えることができる。したがって、伊都国と奴国は同盟関係、あるいは支配層においては血縁関係で結ばれていたと考えてもおかしくはない。伊都国と奴国はBC108年の楽浪郡の設置後のBC1世紀から3世紀前半の邪馬台国の時代までの約300年間にわたり日本列島の倭国を代表していたのである。
このように、卑弥呼の時代以前から、朝鮮半島南岸地域の
その当時の北部九州の北方にあたる朝鮮半島南部をみてみると、三韓時代(紀元前後~3世紀)の弁辰(弁韓)12国は小国分立状態のままであり、洛東江の流域に散在していた弁辰(弁韓)の諸部族の中で、最も有力な勢力は
もう一つ重要なのは、朝鮮半島東南部の洛東江流域の弁辰(弁韓)の地が鉄の産地であったことである。当時、非常に貴重で重要な利器であった鉄器の産地として楽浪郡は弁辰(弁韓)の地を直轄地にしたと思われる。もしそうであれば、その弁辰(弁韓)地域の中心地であった狗邪国(後の金官加耶)にも他の朝鮮半島地域に先駆けて先進文化がもたらされたことは間違いないと思われる。その狗邪国では、BC1世紀以降階層分化が進み、2世紀後葉の大型木槨墓の導入と鉄器の大量副葬があったことから、そこには王といえる存在があり、その王は楽浪郡の強い影響下にあったと推定される。
魏志倭人伝は、朝鮮半島東南部の絡東江河口にある
① 近隣諸国との軍事的緊張が高まり、より安全な新天地が必要となった。
② 当時の重要資源であった鉄や銅の鉱脈を日本列島で探す。
③ 人口が増加し食糧不足となった、あるいは飢饉の発生に備えて新たな土地で農地を確保する必要が生じた。
④ 北部九州の有力国が連盟の証しとして狗邪国など有力な加耶諸国の王族を婿や妃として迎え入れる。
これらのいずれかが該当したときに渡来したと思われる。また、狗邪国のある朝鮮半島南岸地域からだけでなく、同じ朝鮮半島南部の三韓地域(馬韓・弁韓・辰韓)からも日本列島へ渡来した人びとがいたと考えるのが自然である。さらに、馬・鉄・文字を持った中国文化の地であった楽浪郡からも有力者や技能者が郡使と共に渡来した可能性も否定できない。
さて、日本の王権誕生に最も影響を与えた
狗邪国は海に面しており、海上交易が生産基盤であったが、それに増して南西10キロには周囲が鉄鉱山に囲まれた盆地があり、製鉄が行われ
3世紀後半から5世紀前半の大型木槨墓では馬具や武具、装身具、巴形銅器、鉄鋌など、北方系や倭系も含めて豊富な副葬品が発見されている。4世紀前半の13号墳は6メートルx3.7メートルの大形木槨墓で、鉄製武器をはじめとする豪華な副葬品や3人の殉葬などが認められ、王墓と考えられている。4世紀後葉の68号墳からは朝鮮半島南部で最も古い
北部九州の
狗邪国の2世紀以前の王墓はまだ見つかっていないが、もし王墓がなかったとすれば、2世紀以前は楽浪郡の直轄地として完全に楽浪郡の支配下にあり、王は存在していなかったことになる。その可能性はないとはいえない。もう一つは、朝鮮の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)時代の始めのBC1世紀ごろに朝鮮半島南部にいた
57年の漢委奴国王も、107年の倭国王
【コラム】鉄の伝播
ここでは先進文化の象徴である鉄の発祥から日本列島へ伝播するまでの過程を概観する。
鉄の発祥地は西アジアのアナトリア(今のトルコ東部)に居住したカリュベス人と言われている。最古の鉄器はBC3000年~BC2000年にわたる時期のもので、イラン・イラク・トルコ・シリア・レバノン・エジプトなどで出土している。それは炭素量の低い
古代中国の製鉄技術が世界的にみて優れている点は、鉄鉱石を高温で還元し、液体状の鉄、すなわち
朝鮮半島と日本列島に鉄をもたらしたのは中国東北の
日本列島への鉄の伝播は、BC4世紀に中国戦国時代の
古代の鉄器についてその第一人者である愛媛大学教授の村上恭通は、
“北部九州で鉄器生産が開始されるのは弥生中期末葉(1世紀後半)、ほぼ同時期に日本海沿岸地域、瀬戸内海地域への技術伝播が起こる。北部九州の鉄製品は在地生産のみならず、北部九州産・中国産・朝鮮半島産の鉄器も数多く出土しており、瀬戸内海あるいは太平洋地域の比ではない。この様相は北部九州海民の移動痕跡からみても、日本海沿岸の交流ルートが弥生初期から良好に機能していたと考えられる。また、日本海沿岸地域では、弥生後期後半(3世紀)には北部九州においてさえ希少価値である大刀や長剣などの舶載(輸入)武器を豊富に獲得していることから、北部九州の介在を必要としない鉄器入手の交渉ルートを持っていたと思われる。日本海沿岸の丹後では弥生時代後期後半(2世紀後葉~3世紀後葉)に一辺40メートルもの方形の墳丘墓が出現する。それらの墳丘墓の中には、一つの埋葬施設から11点もの鉄剣が出ている。これは弥生後期の畿内では考えられないことである。弥生後期後半(2世紀後葉~3世紀後葉)になると、山陰一帯に鉄器が広く普及するが、その鉄資源をどのように入手していたかが未だ解明されていない。中国地方山間部へは山陰地方を経て伝播した。山陰地方の鉄器普及は山陽地方よりも一段階早く、そこから中国山地を経由して山陽地方へ鉄器が供給されていたと考えられる。山陰地方では鳥取県の
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