第10話 倭国王の誕生

 第9話の「高天原はどこか?」で、夫餘ふよ族の故地は中国東北部であり、そこが高天原たかまがはらの源境とみなすこともできると述べた。そして、アマテラスの主宰する高天原は紀元前後から1世紀にかけての朝鮮半島南部の辰国しんこくにあり、そこは弁辰べんしん弁韓べんかんと同じ)の地で、後の時代に加耶かやと呼ばれ、その中心地は卑弥呼の時代には狗邪韓国くやかんこくとなり、古墳時代には任那加羅みまなからあるいは金官加耶きんかんかやと呼ばれ、現在の朝鮮半島南岸地域にある慶尚南道釜山ぷさん市の西の金海きめ市であるとした。その推測の基になったのは、中国や朝鮮の文献と日本の記紀の記述である。したがって、倭王の系譜をたどるために、倭王および倭あるいは倭人が、中国や朝鮮の文献に登場する記事をもう一度時代を追って辿ってみることにする。


[論衡ろんこう]

 1世紀中葉成立、江南人(後漢時代の会稽郡生まれ)王充おうじゅうの書いた哲学思想書。儒教の神秘主義を批判した。「論衡」には倭人のしゅうへの朝貢の記事が三つ記載されている。

「周の時、天下太平にして、倭人来りて暢草ちょうそうを献ず」

「成王の時、越裳えつしょうは雉を献じ、倭人は暢草を貢ず」

「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。白雉を食し鬯草ちょうそうを服用するも、凶を除くあたわず」。

越裳えつしょうは安南、今のベトナム南部にあった国で瑞祥ずいしょう(吉兆)の白雉を献じたことで有名である。鬯草はにおいの強い草花で、古くはクロキビで醸造した酒にひたして神に供える芳香酒を造り、祭祀のときに用いられたと思われる。周の時代はBC1023年~BC770年である。この倭人の地は長江(揚子江)下流の江南の地と目される。

また、「論衡」で「山海経せんがいきょう」について論じているなかに、「蓋国がいこく鋸燕きょえんの南、倭の北に在り、倭はえんに属す」とある、BC3世紀の中国の戦国時代のことである。また山海経の注釈書「山海経箋疏せんそ」によれば、蓋馬がいばは蓋国の地であり、当時の蓋馬がいば県は楽浪らくろう郡が置かれる地である。

鋸燕きょえんは中国戦国時代の大国のえんである。燕は現在の北京辺りを本拠として東は遼東半島まで領有していた。その倭の地を推測すれば、現在の内蒙古の東南部から遼寧りょうねい省の北部だと考えられる。その地方の一種族を「倭」と呼んだのは「後漢書」の鮮卑せんぴ伝に檀石槐が襲撃した国を倭人国といっている例からわかる。また、第9話の「高天原はどこか?」で、蓋国は朝鮮半島北部であり、今の平壌辺りとも推定した。そこには「倭人」がいて、「倭」という国があったとも考えられる。

」とはもともと中国の人たちがはるか東方海上に浮かぶ日本列島周辺の地域を呼ぶために使い始めた言葉である。したがって、その「倭」がどの地域を指したかは、その時その人によって多様であった。「倭」は「みにくい」の意といわれる。後漢の許慎きょしんが撰した最古の部首別漢字字典である「説文解字せつもんかいじ」にも「醜面しゅうめんなり」とある。古代中国の中原の人から見た卑語である。


[漢書かんじょ]

 1世紀後半成立、班固はんこらによって82年ごろに編纂された。

「漢書」地理誌・えんの条に、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時をもって来たりて、献見けんけんす」とある。楽浪郡が朝鮮半島北西部に設置されたのはBC108年である。海中とは海上交通の便利なところという意と解されるので、ここでいう倭は朝鮮半島南岸地域、あるいは北部九州沿岸地域を指していると思われる。そこは沿岸に小島が点在する多島海地方である。

「漢書」地理誌・の条に、「会稽かいけいの海外に東夷とうい人有り、二十余国に分かれ、歳時に朝献す」とある。紀元前後の江南ルートの倭の港は、5世紀の雄略ゆうりゃくの時代のように、有明海の筑後川河口付近にあったと思われる。


 BC1世紀ごろの倭人社会は百余国の集落から構成され、その中には楽浪郡に朝貢していた国も存在した。この時期に朝貢したクニは、北部九州の甕棺かめかん墓から出土した漢鏡などから推定すると、伊都いと国や国などの北部九州のクニグニ、および有明海沿岸のクニグニ、そして金海きめにある狗邪くや国などの朝鮮半島南岸地域のクニグニと考えられる。しかし、彼らはまだ倭人であり、倭王は未だいない。

甕棺かめかんとは大型の二個の甕の口と口とを合わせて、その中に遺体を納めたものである。大人用は2メートル、子供用は50センチほどの長さである。甕棺墓は北部九州の弥生人特有の墓で、朝鮮の釜山市の西側の金海きめ貝塚からも甕棺が発見されている。この形式の大型甕は福岡県西部から佐賀県、熊本県北部で一般的に見られる。須玖すぐ式土器と同様に福岡県大野城市が東限となる。大野城市は須玖すぐ遺跡で有名な春日市の東にある。朝鮮半島では金海きめ貝塚以外からの発見例はない。この形式の大型甕は弥生式土器の変遷過程で生まれたので、倭人が製作したものである。金海きめ貝塚から発見された甕棺には銅剣・銅製やりがんな碧玉へきぎょく管玉くだたまが副葬されていた。甕棺の分布は、玄界灘沿岸域から遠賀川おんががわ流域、筑後川流域、有明海沿岸地域にまで広がり、さらには朝鮮半島南岸の金海きめ地域にまで及んでいる。

また、金海きめのすぐ西側の昌原ちゃんうぉんにあるBC1世紀中ごろ~紀元後1世紀の茶戸里たほり遺跡は、倭人社会の東アジアとの接点を考える上で重要な遺跡である。この遺跡からは鉄鉱石や、鉄素材としても使用される鋳造鉄斧、板状鉄斧、さらに北部九州産の銅矛や弥生土器なども出土し、当地が朝鮮半島と日本列島を結ぶ鉄交易の拠点でもあったことを示している。現在、150基を超える木棺墓が確認され、青銅器・鉄器・土器、筆などの文房具、中国の銅鏡・五銖銭など大量の副葬品が発見されている。ここからは、上下に穂先を持つ筆が5点出土した。またうるしの鞘(さや)に入った鉄製の環頭刀子とうすも出土しており、木簡に書き誤った部分を削り消すために使用された。東南アジア原産のハトムギの種、さらに天秤てんびんとその重りけんも出土している。1号墓では直径1メートル、長さ2.4メートルの大木を半分にして内部をくりぬいた木棺を埋納し、墓壙と木棺の間から多種多様な副葬品が出土した。細形銅剣・北部九州製と思われる中広形銅矛・小銅鐸どうたく・銅鏡・銅帯鉤たいこう(帯金具)、鉄剣・鉄矛・板状鉄斧・鉄斧・鉄すき・鉄くわ、弓・甲、漆器の容器、筆、中国楽浪郡と共通する星雲鏡・五銖銭・帯鉤(帯金具)、などが出土している。この被葬者は北部九州のクニグニと同様に楽浪郡へ朝貢を行い、北部九州との交流もあったことがうかがえる。この地域は狗邪くや国が金官加耶きんかんかやになった朝鮮の三国時代(4世紀~7世紀)には、阿羅加耶あらかやの領域に含まれていたが、金官加耶とは常に親密な関係にあった。阿羅加耶と金官加耶の両国は、南加耶連合の有力国であると同時に、日本列島の北部九州・出雲・吉備・大和など倭国の中心地域と人的・文化的な関係があったとされる。


[後漢書ごかんじょ]

 5世紀前半成立、南朝そう范嘩はんようらによって編纂された。

「後漢書」東夷伝に、「建武中元二年(57年)、委奴国、貢ぎを奉げて朝賀す、使人は自ら大夫と称う、倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす。」とある。

建武中元二年(57年)に後漢の光武帝は委奴国王に金印を与えた。この時は漢王朝が復活(25年)し、楽浪らくろうで起こった中国系在地豪族王調おうちょうの叛乱(30年)も鎮圧され、三韓諸国(馬韓・辰韓・弁韓)が再び楽浪に服従して、高句麗こうくり夫餘ふよ烏丸うがん鮮卑せんぴなどが相次いで後漢ごかんに朝貢したのに連動したものである。後漢は25年~220年の約200年続いた。


 倭王が文献上で初めて登場するのは、漢委奴国王が後漢の光武帝から印綬(蛇ちゅう(つまみ)の金印)を賜ったこの57年が最初である。その倭王は(倭)の国王、あるいは委奴いと国王のどちらかである。漢の印綬はぎょく・金・銀・銅の四種があり、玉印は天子(皇帝)が用い、金印は諸侯王や丞相じょうしょうあるいは将軍など、銀印は郡の太守、銅印は県令(1万戸以上)が用いた。楽浪郡の太守は銀印である。1956年に中国の雲南省でも、同じ2.3センチ四方の蛇紐金印が発見され、そこには「てん王之印」が彫ってあった。ここでも史記の記録と一致した。したがって、金印は本物である。金印の出土地とされる博多湾北部の志賀島しかのしまの南西部は福岡平野と糸島平野東部の主要遺跡を見渡せる博多湾内唯一のポイントである。金印出土地が伊都いと国と国から俯瞰できる場所であることは、金印が埋納された状況を考えるうえで重要である。

後漢から下賜されたと思われる鉄製の素環頭大刀そかんとうたちが佐賀県の三津永田遺跡や、福岡県の伊都いと国王墓である平原ひらばる遺跡から出土している。鉄製大刀は後漢から冊封の対象国として認められた証しともいわれる。その(倭)の国あるいは委奴いと国は倭国の極南界なりとある。当時の倭国は朝鮮半島南岸地域から対馬・壱岐を経て北部九州沿岸地域までと認識されていたと考えられる。


・「後漢書」東夷伝に、「安帝永初元年(107年)、倭国王帥升すいしょう等、生口せいこう160人を献じて請見を願う」と記載されている。 

・唐の杜佑とゆうによって編纂され810年に成立した「通典つてん」の北宋版には、「倭回土いと国王帥升すいしょう等」とあり、帥升すいしょう伊都いと国王と推定される。


 ここに登場するのは、その50年後の後漢安帝永初元年(107年)に後漢に朝貢した倭国王帥升すいしょうで、それは伊都いと国の国王である。そして初めて「倭国王」と呼ばれている。このときに、朝鮮半島南部の倭人と北部九州の倭人とが一人の王の下に連合して、倭国を形成したとも受けとれる。さらに、


・魏志倭人伝に、「其の国、本亦(元来は)男子を以って王と為し、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為し、名づけては卑弥呼ひみこと曰う」とある。 


 倭国乱は後漢のかん帝・れい帝の時代(146年~189年)であり、倭国乱の後に卑弥呼が女王となったのは180年代後半と考えられており、100年ごろの倭国王帥升すいしょうの時代から倭国は70年~80年の間平和であったという記述にも一致する。


・「後漢書」馬韓ばかん伝に、「馬韓は西に在り、54国を有し、その北は楽浪らくろうと、南はと接す。辰韓しんかんは東にあり、12国を有し、その北はわいはくと接す。弁辰べんしん弁韓べんかんと同じ)は辰韓しんかんの南にあり、亦た12国を有し、その南亦たと接す。かんには総計78国がある」とある。このは朝鮮半島の南岸地域にある。

・「魏略ぎりゃく」に、「帯方たいほう東南大海中に在り」、その他の習俗では、「正月や四季を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫の回数を数えて年数としている」とある。


 この記述を文字通り解釈すれば、朝鮮三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の時代(紀元~3世紀)における倭は、朝鮮半島南岸地域から対馬・壱岐を経て北部九州沿岸地域にかけての沿岸に小島が点在する多島海地方であったと考えられる。また、今の一年を二年と数えていたようだ。


[魏書ぎしょ]

 3世紀中頃に成立、王沈おうちんによる三国時代の魏の歴史を述べている。47巻あったとされるが現存しない。「三国志」の注にはしばしば本書が引用される。烏丸うがん伝・鮮卑せんぴ伝・西戎せいじゅう伝などの逸文のみが残る。

[魏略ぎりゃく]

 三国志とほぼ同時期の3世紀に成立、しんの史官の魚豢ぎょかんの私撰。38巻あったとされるが現存せず、三国志の注などに逸文が存在する。魏志倭人伝の原資料といわれる。


 魏志・魏略そして後漢書には、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の時代(紀元~3世紀)に、朝鮮半島南部には辰王しんおうがいたと記されている。


・「魏志弁辰伝」には、「辰王は馬韓の月支国げっしこくして、辰韓12国、弁辰(弁韓と同じ)12国、合わせて24国のうちの12国を支配していた。辰王は常に馬韓の人がなり、王位は世襲であるが、辰王自ら立って王となることはできない」とある。

・「魏志」の原典である「魏略」には、「辰王はその流移の人たることを明らかにす、ゆえに馬韓のために制せらる」とある。

・「魏志韓伝」には、「辰王は率善邑君そつぜんゆうくん帰義候きぎこう中朗将ちゅうろうじょう都尉とい伯長はくちょうなどの中国的な官名を持った役人を隷属させていた」とある。このことは、その組織が中国の影響を受けていたことを示唆している。

・「後漢書韓伝」には、「三韓は皆いにしえ辰国しんこく、馬韓が最も強大で、(三韓は)ともに種族をたてて辰王とし、月支国げっしこくを都とし、辰王はことごとく三韓の地の王なり。その諸国王は皆馬韓種族の人(血統)なり」とある。


 「後漢書韓伝」でいう弁辰は弁韓と同じである。馬韓は後の百済で54国、辰韓は後の新羅で12国、弁韓は12国でその南の倭とともに後の加耶かやを形成する。辰王は辰韓12国、弁韓12国、合わせて24国のうちの12国を支配していたとあるから、辰韓も弁韓もまだ統一されておらず、それぞれの部落はバラバラな状態であった。その南の海岸地域には倭が存在していた。それは朝鮮半島の倭である。辰王は馬韓の月支国げっしこくに住み、馬韓の有力者の承認が必要であったようだ。馬韓の支配者層は夫餘ふよ族出身であることから、辰王も夫餘族出身と思われる。しかも王を名のっている以上、流移の人とはいえ、その出自は夫餘の王族の可能性は高いといえる。さらに、三韓は皆いにしえの辰国で、その諸国王は皆馬韓種族の人(血統)なりとしている。


 江上波夫と親しく、東アジア史に詳しい元明治大学教授(独文学)の鈴木武樹は、

“百済最後の王・義慈ぎじ王の太子で、百済滅亡のとき、唐側に捕われて長安に送られ、その地で683年に死んだ扶余隆ふよりゅうの墓誌銘に、「公、いみな(実名)は隆、あざな(俗名)も隆、百済辰朝しんちょうの人なり」とある。このことから、百済の王家、さらに三韓時代においては馬韓54国の一つで、有力国であった伯済はくさいの王家もまた辰王しんおう家の出であった。江上波夫は、辰国が滅んで後、辰王朝はその一分枝が馬韓の伯済はくさいの王家となり、宗家は辰王として馬韓の月支国げっしこくに都しながら、馬韓の全体および辰韓と弁韓の一部の合計66か国を名目上支配していたのではないかと推定している。つまり、夫餘系の古朝鮮国家は南にのがれて、いったんは辰国を建てたが、やがてそれも崩壊すると、その辰国の王族の一部は実体のない辰王国の王朝として三韓のほぼ全域に対して宗主権を主張し、他の王族は伯済はくさい国を実質的に支配しつつ、ついには馬韓の全域を統一して百済を樹立したというわけである”と述べている。 

すなわち、馬韓成立前のBC1世紀、漢が支配する今の平壌ぴょんやんを中心とする楽浪らくろう郡の南、朝鮮半島西南部地域には辰王がいた。その辰王の出自は夫餘族であった。三韓時代(紀元前後~3世紀)になると、辰王の王族の一部は馬韓を成立させたが、辰王宗家は弁辰(弁韓)・辰韓24国のうちの12国を支配するにとどまっていたというわけである。その12国とその南の倭を合わせた地域が3世紀には加耶かやと呼ばれるようになり、その盟主となったのが狗邪くや国で、後の金官きんかん国(金官加耶きんかんかや)である。加耶かや加羅から任那みまなはすべて同じ国や地域のことを指している。


加耶かやの由来]

 田中俊明(滋賀県立大学教授)によれば、「三国史記」では主に加耶と記しているが、伽耶・加良・伽落・駕洛という表記もある。「三国遺事」は主に伽耶であるが、呵囉・駕洛という表記もある。さらに「日本書紀」では、主に加羅であるが、柯羅とも記す。「梁書」には伽羅、「隋書」には迦羅、「続日本紀」には賀羅という表記もある。これらは皆、同じ語の異表記である。加耶(ka-ya)は(ka-ra)のr音が転化したもので、朝鮮語ではよくある現象である。本来は加羅(ka-ra)であると考えるべきであろうが、その意味は分かっていない。

任那みまな

 高句麗の広開土王碑には400年のこととして「任那加羅」と記されている。それは任那という加羅である。つまり、任那国を指している。任那国とは金官国の別名である。


 百済か加耶(加羅)のどちらが辰王朝の宗家であったのか?「任那」は古代朝鮮語で「王の土地、王の国」の意味であることから、宗家は加耶(加羅)であったと推測できる。したがって、5世紀の倭の五王が中国南朝のそうに遣使して、百済を含めた朝鮮半島南部6国(辰韓・馬韓・百済・新羅・任那・倭)の宗主権を執拗に要求したのである。宋は倭王の宗主権を三韓時代(紀元前後~3世紀)にさかのぼって認証するが、百済だけはそれ以前に承認しているから除外したと考えられる。馬韓を統一した百済の王は扶余(夫餘)氏で、辰王朝の出自であるとしているが、その国は「任那」とは呼ばれていない。これらのことからも、宗家は加耶(加羅)で、百済は分家であると推定される。その証しと考えられるのが倭国の変化である。4世紀初頭に辰王朝が弁韓に移ったころ、加耶(加羅)から北部九州の筑紫に渡来、4世紀後葉に瀬戸内を通り近畿に進出する。彼らは朝鮮半島南部の大部分の支配権を失い、それでも加耶(加羅)だけ保持する辰王朝の末裔であった。辰王朝の一派としてのヤマト王権は数次にわたる加耶(加羅)からの渡来によって強固なものとなっていく。天孫降臨神話や神武東征説話は加耶(加羅)の開国説話でもある。亀の話などは高句麗・夫餘の開国伝説と共通している。扶余隆ふよりゅうの墓誌は百済王家が辰王朝の後裔であることを証明するものであるが、同時にヤマト王権もその一流派であることを傍証することにもなっている。 辰王については、「三韓と倭・加耶、および辰王」のところで再度述べる。


 馬韓ばかん辰韓しんかん弁韓べんかんの三韓時代(紀元前後~3世紀)の朝鮮半島南部は支石墓しせきぼ社会で、大国でも万余戸、小国で600~700戸にすぎないが、70数か国がひしめいており、全体を統合するような有力者は未だ出ていなかった。

支石墓とは、巨石を積んだ墳墓形式のことである。BC15世紀ごろに遼東りょうとう半島付近に始まり、やがて鴨緑江おうりょくこう中流地域に達し、朝鮮半島北部に広がる。さらに朝鮮半島南部の韓民族に伝播し、日本列島には縄文晩期のBC10世紀~BC9世紀ごろに唐津湾沿岸に現れ、弥生時代前期(BC5世紀~BC3世紀)に北部九州に定着する。縄文から弥生への移行期における支石墓の下部構造は大きく二つから成り、一つは箱式石棺せっかんであり、もう一つは石槨せっかく土壙どこうである。箱式石棺は北松浦半島の西北九州から島原半島にかけて分布しており、石槨系土壙は唐津湾岸から糸島半島にかけての玄界灘沿岸に分布している。弥生中期後半(BC1世紀後半~1世紀)に支石墓は消滅する。弥生時代の始まりは大陸文化の到来でもあり、具体的には、水田稲作・大陸系磨製石器・支石墓などの伝来であることから、稲作を伴った人の移動と関係があると考えられる。 


 古代の朝鮮半島諸国と倭および日本列島の倭人にとって最も重要な出来事は、漢の武帝による漢四郡、楽浪らくろう臨屯りんとん玄菟げんと真番しんぱんの設置と、その後の大楽浪郡の存在である。 


・BC109年から翌年にかけて漢の武帝は朝鮮を攻撃し、BC108年に朝鮮北部に漢四郡、楽浪(今の平壌ぴょんやん辺り)・臨屯(朝鮮半島東北の日本海側)・玄菟(今の中国の東北地方の撫順ぶじゅん辺り)・真番(楽浪の南側)を置き、その下に多くの県を置いた。BC82年には四郡の改編が行われ、真番・臨屯を廃止して、それらの一部を玄菟・楽浪に合わせた。さらにBC75年の改編では、玄菟郡を遼東に移し、そのほとんどは楽浪郡に併合され、楽浪郡は25県を擁する大郡となった。

・189年、公孫度こうそんどは後漢から遼東太守に任命された。公孫氏は遼東半島を拠点に、後漢の委任を受け、こうえんの三代にわたり楽浪地域を支配した(189年~238年)。204年、公孫康が楽浪郡の南部を分割して帯方郡たいほうぐんを作った。かんは帯方郡に属した。

・「魏志弁辰伝」には「国、鉄を出す。かんわい、皆従って取る。諸の市買には皆鉄を用いる。中国の銭を用いるが如し。又以って二郡に供給す」と書かれている。二郡とは漢の楽浪郡・帯方郡のことである。楽浪郡・帯方郡にとっても、弁辰(弁韓)地域が鉄資源の入手先として重要であったことが分かる。これは2世紀後半の倭国大乱のころから3世紀にかけてのことである。


ここで重要なのは、「韓と倭は帯方郡に属した」とあることであり、その時の倭国は卑弥呼の女王国の時代である。このことを念頭に置いて魏志倭人伝を読めば、おのずと真実がみえてくる。


 ここまでは、57年に後漢の光武帝から金印を賜った漢委奴国王と、107年に後漢に朝貢した倭国王帥升以外は、朝鮮半島の「倭」そして「辰王」に関する出来事である。ここからは日本列島の「倭人」「倭国」についての記事をみてみる。ここで、いよいよ「魏志倭人伝」の登場となる。

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