第9話 高天原はどこか?

 古事記・日本書紀(記紀)でいう高天原とはいつの時代のことを言っているのだろうか?そしてそれはどこなのか?記紀は8世紀初頭に編纂されている。そのことを考慮して考えなくてはいけない。 

 江上波夫は、“古事記(712年成立)・日本書紀(720年成立)は、とう新羅しらぎ連合軍による百済くだら滅亡(660年)、白村江はくそんこうの敗戦と筑紫君つくしのきみの捕囚(663年)、さらに高句麗こうくり滅亡(668年)、新羅による朝鮮半島統一(676年)と続いた一連の重要な出来事により倭韓(日本列島の倭国と朝鮮半島の加耶かや諸国)連合が崩壊してから編纂されたため、その時の支配者は日本建国史の観念を変え、天皇は悠久の昔から日本列島だけを統治したと強調し、朝鮮半島との関係を抹殺した。記紀が編纂されたとき、朝鮮半島にはすでに統一新羅が存在していたため、朝鮮半島諸国との関係は全く別な形で、すなわち新羅征伐に始まる朝鮮半島進出の形で書かれた”、という。

あとで詳しく述べることになるが、後漢書によると、BC2世紀からBC1世紀の前漢時代の「倭」は朝鮮半島南岸地域から北部九州にかけて居住していたと認識されていた。その後、2世紀後葉の魏志倭人伝の時代、すなわち邪馬台国の時代が始まるころまでに、朝鮮半島南岸地域には狗邪くや国(狗邪韓国)、北部九州には伊都いと国や国が成立する。これら三つの国は倭国連合の有力国である。特に狗邪国(狗邪韓国)は、後に金官きんかん国あるいは金官加耶きんかんかやと呼ばれ、3世紀から5世紀にかけて加耶諸国の盟主であった。414年に建立された高句麗の広開土王こうかいどおう碑では任那加羅みまなからと呼ばれている。日本書紀でいう任那日本府もその近くにあった。日本書紀には畿内を本拠地としていた倭国の植民地あるいは出先機関のように書かれているが、実態は異なる。総称として加耶かやあるいは任那みまなと呼ばれる朝鮮半島南部の加耶地域は4世紀に畿内に成立した倭国の支配者たちの母国である。その母国の中心であった金官加耶が532年に新羅に併合されたため、近畿と北部九州を中心とした倭国は、百済と連合してその故地を復活させようとしたが、663年に白村江において唐の大型船団により倭国の小型船団は壊滅させられた。唐は大型船170隻余り、倭国は小型船1000隻余りであったと伝えられる。その後、668年に唐により高句麗が滅亡した後、新羅は唐の宮廷内の混乱に乗じて唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して676年に朝鮮半島統一を成し遂げた。新羅は唐の属国となる道を選ぶことにより、唐の力を借りて百済を破り、さらに唐内部の混乱に乗じて現在の平壌以南の朝鮮半島を統一したのである。統一新羅の英雄金春秋きんしゅんじゅうは648年に官服と年号を唐と同じものにし、さらに名前まで中国式の三文字に改めた。倭国は600年に第1回の遣隋使を派遣して以来、614年までに隋には5回、遣唐使は630年から派遣している。唐の強大な国力は十分に理解していたが、故地である朝鮮半島南部から完全に追い出されることを阻止するため、唐の派遣軍に挑み、そして玉砕してしまった。663年の白村江の敗戦後、672年の壬申じんしんの乱によって倭国を掌握した天武てんむは、もはや母国である任那(加耶)を奪還することはできないと悟ったと思われる。したがって、天武とその一族は日本建国史の観念を変え、天皇は悠久の昔から日本列島だけを統治したと強調し、朝鮮半島との関係を抹殺したのである。古事記・日本書紀には、後に考古学的に証明された真実の伝承もあるが、7世紀後葉から8世紀初頭にかけての権力者の潤色や作為も入っている。その時の権力者とは、天武てんむ天智てんじの娘で天武の皇后でもあった持統じとう、持統の異母妹で文武の母である元明げんめい、そして中臣鎌足なかとみのかまたりの子の藤原不比等ふじわらのふひとである。このような事情を念頭に置いて、古事記・日本書紀を読まなくてはならない。


 古事記は672年の壬申の乱で勝利した天武天皇の意志により、天皇家に伝わった「帝紀」「旧辞」を核心とした天皇家の歴史であり、上巻(神の代)、中巻(人皇の代)、下巻(人の代)の3巻からなる。712年の元明天皇のときに太安万侶おおのやすまろにより完成した。和風訓読で記述されている。「帝紀」「旧辞」は残っていないが、古事記の漢字は呉音ごおんで表記されていることから、「帝紀」「旧辞」も呉音で書かれていたと推定される。呉音は魏晋ぎしん南北朝時代(220年~589年)の六朝りくちょう文化を生んだ南朝の発音である。6世紀に入ると、倭国は百済を通じて五経ごきょう博士を招来したり、千字文せんじもんを入手したりしている。五経博士とは、儒教の五つの基本経典(詩・書・礼・易・春秋)を講じる学者を指し、前漢の武帝が初めて置いたとされる。南朝のりょうでは505年に五経館を開設し、教学を重んじて、書物の収集が積極的に行われていた。百済は6世紀初頭に武寧ぶねい王(在位501年~523年)が即位して以後、国力を盛り返し、南朝の梁へも度々使節を送っていた。その百済と梁との交流の成果が五経博士の渡来となって、同盟国の倭国へもたらされた。五経博士は百済から上番(交替)制で渡来した。したがって、漢籍も仏典もすべて呉音である。一方、千字文は南朝の梁の武帝が6世紀前半に周興嗣しゅうこうしに作らせた漢字学習書で、南朝の東晋時代に書聖と呼ばれた王羲之おうぎしの筆跡を集めて、異なった漢字1000字を用いて作られた韻文である。しかし、六朝が滅んで、統一中国の隋・唐の時代になってから、倭国は遣隋使・遣唐使を派遣するようになり、長安から入る音となった。それが漢音かんおんであり、日本では今なお呉音・漢音が併用されている。

 日本書紀は天皇家の帝紀・旧辞以外にもできるだけ多くの史料を集めて取捨按配した漢文体の日本国の正史であり、漢音表記である。720年に天武の皇子舎人とねり親王らが完成させた日本最初の編年体の歴史書で、神代かみよから持統じとう天皇の時代までの全30巻で構成されている。系図1巻が付属していたが失われた。古事記や日本書紀が主張しているのは万世一系の系統であり、王権交代を描くことはない。また、日本書紀は国内外の文献を引用し、「一書あるふみに云う」式の引用・注記があるが、古事記には一切異伝を記さないという、日本書紀と比較したときの際立った特質が存在する。また、古事記と日本書紀に同じ記事がある場合、日本書紀の記述は漢文的潤色が著しく、古事記に書かれている程度の記事がもとの事実であったともいわれる。


 では、「帝紀」「旧辞」というものはいつごろのものであろうか?古事記の原典となった「帝紀」は数種類あったと思われる。一つは在位年数や干支かんしによる年代記載の全くなく、系譜的な記述に終始したもので、古事記はこの帝紀を基礎として他の帝紀により不備な点を補ったと考えられる。また、崩年干支があるのが、崇神から推古までのうち15天皇に限られているのは、そのような帝紀が存在していたということをうかがわせる。一説には、「帝紀」「旧辞」は5世紀後葉の雄略ゆうりゃくのころにはその原型が存在していたといわれているが未解明である。

古事記・日本書紀ともに中国への朝貢の話はほとんどないといってもよい。日本書紀の神功皇后じんぐうこうごうの条には、「魏の明帝の景初三年(239年)六月、倭の女王は難斗米なしめを派遣して洛陽に行き朝献してきた」、「魏の正始四年(243年)、倭王は、また大夫伊声耆いせき掖邪約ややくら八人を派遣して品々を献上した」、「しんの武帝の泰初二年(266年)十月、倭の女王が貢献せしめた」という引用記事がある。これらのみが朝貢の記載である。なぜ266年のことが360年~380年代の神功皇后の時代とされたのか、それは日本書紀が書かれた8世紀初頭、漢の時代に盛んだった未来を予言する讖緯しんい説を採用し、推古すいこ9年(601年)の辛酉しんゆう1月1日から21元(1元は60年)で1260年をさかのぼったところに神武じんむ元年(BC660年)を置き、天皇の歴代数は変えず、それぞれの代に年数を割り当てたため、推古以前の在位数が長くなったからである。また、神功皇后を卑弥呼と見せかけることによって、年代を権威づけ、同時に干支も一致させて、朝鮮史料との整合性を図った。しかし、中国に朝貢したことを隠す意図はなかったと思われる。漢のの国王、または漢の委奴いと国王と読むという二つの説があるが、その漢委奴国王が後漢ごかんの光武帝から印綬(蛇紐の金印)を賜った(57年)、倭国王・帥升すいしょう等の後漢への朝貢(107年)、卑弥呼のへの第一次遣使・朝貢(238年)、第二次遣使・朝貢(243年)、卑弥呼の後継者台与とよによるから代わったしんへの遣使・朝貢(266年)、倭の五王による421年から478年までの間における9回にのぼる南朝そうへの遣使・朝貢などの中国文献の記載は、記紀が書かれた7世紀後葉において、百済からの亡命貴族や中国文献史学者を通じてよく知られていた。それにもかかわらず、それらの大半を記載しなかったのには重要な理由があったはずである。それは次の三つに代表されると考えられている。


1)唐・新羅連合による百済滅亡(660年)、白村江の敗戦(663年)、高句麗滅亡(668年)、新羅による朝鮮半島統一(676年)と続いた朝鮮半島情勢により、弥生時代から続いていた朝鮮半島諸国との密接な人的・物的関係が断たれた。

2)新羅文武10年(670年)に「倭国えて日本と号す」と宣言したとある。それに続く壬申じんしんの乱(672年)により天武が勝利し、伊勢・尾張・美濃など古来の地方豪族や大和の国内派が優勢となった。

3)唐・新羅連合に対抗するためには早急に国力を向上させることが求められ、そのために天皇を中心とした中央集権国家をめざし律令制度を完成させる必要性があった。


 天智てんじ天武てんむの時代は唐・新羅に対抗する体制を作ることが急務であった。そして古墳時代の終焉を迎えたのである。特に701年は画期となった。1月23日には669年以来の遣唐使が任命された。天候不順のため出発は翌年に延期されたが、国号を「倭」から「日本」への変更を唐に承認してもらうことを達成した。3月21日には「大宝」という最初の日本独自の恒常的な年号の使用が始まり、現在の平成まで続いている。6月8日には大宝令が施行された。大宝律は701年8月3日に完成し、702年2月1日に頒布はんぷされた。「りょう」は行政法であり、「りつ」は刑罰法である。唐に対抗して年号を使用したということは、天皇という名だけでなく、実質上でも唐と対等であることを宣言したことである。したがって、過去の中国王朝への朝貢の記録は邪魔になったと言える。しかし、中国に記録が残っているのは事実であるので、古事記では上巻の「神の代」に神話形式で記載したと考えられる。

 

 アメノミナカヌシから始まる神は、タカミムスヒ・カミムスヒ・ウマシアシカビヒコヂ・アメノトコタチ・クニノトコタチ・トヨクモヌ、続いてウヒヂニ・スヒヂ以下イザナキ・イザナミまでの10神を男女の対偶神5代とする。さらに、アマテラス・アメノオシホミミ・ニニギと続く。57年の漢委奴国王も107年の倭国王帥升もこの中のどこかに入っているはずである。また、アマテラスは卑弥呼に似せているし、天岩戸から出てきたのは台与とも思わせる。かれらは北部九州勢である。一方、スサノオは、山陰に勢力のあった豪族を象徴している。これらのことから、少なくとも紀元前後からの伝承あるいは旧辞は、7世紀の天智・天武の時代までは存在していたと考えられる。高天原の時代は紀元前後までは確実にさかのぼれる。


古事記上巻(神の代)

 アメノミナカヌシ(天御中主) -> タカミムスヒ(高御産巣日) -> カミムスヒ(神産巣日) -> ウマシアシカビヒコヂ(宇摩志阿斯訶備比古遅) -> アメノトコタチ(天之常立)、以上の5神をことあまかみという。「天つ」は「天上の国の」という意である。次に、クニノトコタチ(国之常立) -> トヨクモヌ(豊雲野)、続いてウヒヂニ(宇比地邇)・スヒヂニ(須比智邇)以下イザナキ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)までの10神を男女の対偶神5代とし、前のクニノトコタチ -> トヨクモヌの2代と合わせて「神世七代かみよななよ」とする。ヒヂニは泥のことで、ウヒヂニ・スヒヂニは泥の神格化である。タカミムスヒは対馬・朝鮮と密接な関係がある神であり、アマテラスの主宰する高天原以前に、タカミムスヒの主宰する高天原があったとされる。もしそうであれば、高天原は国の外に求めなければならない。また、タカミムスヒは皇孫ニニギを真床追衾まとこおうふすまで覆って天降りした神でもある。真床追衾とはマット状の布帛ふはくのことである。王が天降あまふるときに、布帛ふはく被衾かずきふすまに包まれて降りてくる伝承は、突厥とっけつやキルギスなどのアルタイ系諸族、いわゆる中国北方の騎馬民族の伝承と類似している。朝鮮半島東南部の加羅(金官加耶)の場合は紅巾になっているが、同じ伝承である。

 古事記は天を主宰する神として5神をおく。アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムミムスヒ、ウマシアシカビヒコジ、アメノトコタチ。次に神代7代をおき、クニノトコタチの神から始まり、その最後がイザナキ・イザナミである。天御中主(アメノミナカヌシ)は神社などでは「妙見みょうけんさま」などと称される。古事記は冒頭に、「天地初発の時、高天原に成れる神の名は天御中主」と記している。


古事記(国生み神話)

イザナキ・イザナミ(黄泉の国)--> アマテラス(高天原・日神)-->

                 ツクヨミ(夜の世界・月神)

                 スサノオ(海原国)

                  = クシナダヒメ(出雲・須賀神社)

                 カグツチ(火の神)


--> アメノオシホミミ   --> ニニギ(高天原から日向の高千穂の峰に降臨)-->

  アメノホヒ(出雲系)   = コノハナサクヤヒメ

              アメノホアカリ(尾張むらじの祖)

              ニギハヤヒ --> ウマシマデ(物部もののべ氏の祖)  

             

--> ホヲリ(ヒコホホデミ:山幸彦)  --> ウガヤフキアエズ -->

  = トヨタマヒメ            = タマヨリヒメ

  ホデリ(海幸彦・隼人はやとの祖先)

  ホスセリ


--> ワカミケヌ(若御毛沼)末子:イワレヒコ・神武じんむ

   = アイラツヒメ(日向)

   = イスズヒメ(出雲系) --> カムヌナカワミミ(綏靖すいぜい

  イツセ(五瀬)長兄

  イナヒ(稲飯)

  ミケヌ(御毛沼)


 イザナキのみそぎから生まれたアマテラス・ツクヨミ・スサノオを三貴子みはしらのとうときこという。この三貴子の誕生に似た神話は南方に広く分布している。南方から伝わったこのような話が古事記の神話に取り入れられたと思われる。ニニギの天孫降臨の神話は、王朝の始祖が山の頂上に降り立ったとする神話が朝鮮半島をはじめとする東アジアの北方に広く分布していることから、これは朝鮮半島あるいは東アジア北方から来た皇室が日本を治めることを正当化するものである。海幸彦が山幸彦に屈服する話は、6世紀に南九州の隼人はやとがヤマト王権に服従した由来を物語るものと考えられている。

 天孫降臨神話以外で天降っている氏族の祖神は、物部もののべ氏の祖であるニギハヤヒだけであり、ニギハヤヒは例外的な存在である。平安時代の初期に成立したと推定される「先代旧事本紀せんだいくじほんぎ」では物部氏の出自について詳しく書いている。ニギハヤヒは十種の神宝を持ち、三十二神を率いて、船長・梶取・船子らの乗る天磐船あめのいわふねで、河内かわち国の河上のイカルガ峯に下り、それから大和ヘ移ったという。北河内の交野かたの市の磐船いわふね神社には天磐船と称する巨岩がある。河内は物部氏の根拠地であった。ワカミケヌ(神武)の敵である長髄彦ながすねひこはニギハヤヒの義理の兄であり、ワカミケヌ(神武)に先立って、天盤船に乗ってヤマトに天降った天神てんじんの子である。ニギハヤヒは長髄彦の妹「カシキヤヒメ」を娶ってウマシマデという子をなしている。あくまでワカミケヌ(神武)軍に抵抗する長髄彦を見限って、長髄彦を殺してワカミケヌ(神武)に帰順した。長髄彦が本拠としていたのは大和の磐余いわれの東に隣した鳥見とび(外山)であった。

 元皇學館大学長の田中卓によると、ニニギによる天孫降臨の成就以前に、アメノホヒ(出雲氏の祖先)の系統の神々(アメノワカヒコ等で、最後はアメノトリフネとタケミカヅチ)による葦原あしはらなかくに(出雲)への降臨が次々と繰り返されたと伝承されている。その当時、畿内の地祇ちぎくにかみ)の代表はオオモノヌシである。出雲から大和へ東進したアメノホヒ系は大和在地のオオモノヌシ系と融和協調し、祖先神のアメノホヒと奉斎神のオオモノヌシを共存させた。この共存が日本神道の特色となった。次に大和へきたのは、北部九州から畿内へ東進する(太陽神の)ニギハヤヒ(後の尾張氏・物部氏)の勢力であり、先住のアメノホヒ系とオオモノヌシ系とは互いに協調・重層した。その次に大和へ来たのが、ワカミケヌ(神武)であり、ヤマト王権の創建者となった。アメノホヒ・ニギハヤヒ・ワカミケヌ(神武)はいずれも北部九州から来た太陽神を奉じる同族であり、先住のオオモノヌシ系とは協調継承の形をとっていた。


 記紀神話における高天原、そこからの天孫降臨と大和への東進を古い順に整理すると、次のようになる。

 ① 天つ神初代アメノミナカヌシ

 ② タカミムスヒの主宰する高天原

 ③ アマテラスの主宰する高天原

 ④ アメノホヒによる出雲への降臨、さらに大和へ東進し、大和のオオモノヌシ

  と共存

 ⑤ ニニギによる日向ひむかの高千穂の峰への天孫降臨

 ⑥ ニギハヤヒによる北部九州から大和への東進

 ⑦ ワカミケヌ(イワレヒコ・神武)による九州から大和への東進、

   神武はヤマト王権の創建者となった


 歴史的に、高天原の時代は紀元前後からさらにさかのぼれるだろうか?朝鮮半島南部の馬韓ばかん辰韓しんかん弁韓べんかんの三韓の時代(紀元~3世紀)、三韓の南にあたる朝鮮半島南岸に狗邪くや国があった。これが魏志倭人伝に登場する倭国の北限の狗邪韓国くやかんこくである。朝鮮半島東南部の洛東江らくとうこう流域に散在していた諸部族のなかで、最も有力な勢力は加耶かや加羅からともいわれる)の諸部族であった。それは洛東江以西の地域にあって、西と北が各々智異山ちりさん加耶山かやさんはばまれて、他の地域と隔離されていた地域に居住していた。この加耶部族は1世紀ごろから3世紀中葉に至る間に形成されたもので、部族連合を形成するようになるのは3世紀以降のことのようである。洛東江下流の金海きめ狗邪くや部族は後の時代に本加耶ほんかやあるいは金官加耶きんかんかやと呼ばれて、加耶の諸部族のなかでも最も勢力をふるった部族である。4世紀に朝鮮半島は高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎの三国の時代に入ったが、加耶諸国は分立したままであった。その加耶諸国のなかでも狗邪くや国の後裔である金官加耶は4世紀を中心に一番繁栄していた。5世紀初めまでのその王や王族の墓は、慶尚南道金海きめ市の大成洞てそんどん古墳群にある。加耶諸国で最も有力であったが、400年の高句麗による侵攻によって大打撃を受け、以後その勢いは衰え始めた。金官加耶は532年に新羅に併合されて滅亡したが、その時の金官加耶の王子の一人であった金武力の孫が676年の統一新羅の英雄金庾信きんゆしんである。 

 古代の朝鮮の歴史書は現存していない。最も古いものが1145年に完成した全50巻の「三国史記さんごくしき」で、朝鮮三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする。古代日本の時代である倭国と密接な関係であった加耶諸国の歴史は新羅の歴史に組み込まれてしまっている。しかし、加耶諸国の歴史の一部は1280年に高麗こうらいの僧、一然いりょんにより作成された「三国遺事さんごくいじ」の中に駕洛国記からこくきとして残された。駕洛から国は魏志倭人伝の狗邪韓国であり、後の金官加耶、記紀でいう任那、高句麗の広開土王碑では任那加羅と呼ばれている。この書に載る、神の命でその地に降臨してきた金の卵から六人の男が生まれ、最初に頭を出した一人の首露しゅろが王として駕落国を開いたという建国神話は記紀の天孫降臨説話と同型である。その首露王が天から降りる亀旨峰くじぼんは日本書紀のクシフル峰と同音であることはよく知られている。

 日本書紀の天孫降臨神話はニニギが筑紫の日向ひむかの高千穂のクシフル峯、あるいは添山峯そほりのやまたけに天降ったところまでである。山上の峰がソホリといわれ、朝鮮語の都の意の蘇伐(ソフ)あるいは所夫里(ソフリ)と同一語であることも明らかである。天降ったニニギは「此地は韓国からくにに向い、笠沙かささ御前みさきにまき通りて、朝日の直刺たださす国、夕日の日照る国なり、故にいとところ」という。そこは北部九州の筑紫である。ここでいう韓国からくに加羅から国(金官加耶)を指しているので、アマテラスの主宰する高天原は加羅国(金官加耶)にあったともとれる。


 いずれにせよ、駕洛から国(狗邪韓国、後の金官加耶)の首露しゅろ伝説と記紀の天孫降臨神話は様々な点で似ている。また、天孫降臨の伝承は高句麗の要素を思わせ、六加耶の首長の卵生神話には新羅の六村とその始祖の赫居世かくきょいの卵生説話にも似ている。天降り神話のモチーフは、王権の根源が天上にあるという考えをもとに、地上世界の支配者が天上より天降ったというのである。王権の根源が天上にあるという観念は、内陸アジアの騎馬民族のあいだで長い伝統を持っている。 

この駕洛国建国説話からすると、首露王は他の地から駕洛国(狗邪韓国、後の金官加耶)に天孫降臨している。では、その他の地とはどこなのか?近年の中国東北地方や韓国における遺跡の発掘による考古学的な発見は目を見張るものがある。しかし、残念なのは北朝鮮の領域である。共同調査ができないため、実態がよくわからないようだ。そこには重要な地域があった。楽浪らくろう郡(今の平壌ぴょんやんを中心とした地域)である。


 倭人が中国に認識されたのは、漢の武帝の朝鮮遠征によって、BC108年に楽浪らくろう玄兎げんと真蕃しんぱん臨屯りんとんの四郡を置いた後、楽浪郡を介して通交するに到ったことによる。楽浪郡は王険城おうけんじょう平壌ぴょんやん)を中心とした地域、1年遅れで楽浪郡の北のわいはくの地に置いたのが玄菟郡である。その玄菟郡の郡治が沃沮よくそ県であり、高句麗県も玄菟郡に属していた。真番郡は楽浪郡の南、臨屯郡は朝鮮半島中東部の日本海側に置かれた。しかし、遠方の地の統治は維持が難しく、BC82年には四郡の改編が行われ、真番・臨屯を廃止して、それらの一部を玄菟・楽浪に合わせた。さらに、高句麗県にいた高句麗族が蜂起したため、BC75年の改編では、玄菟郡の一部が楽浪郡に移され、楽浪郡は25県を擁する大郡となり、玄菟郡は遼東りょうとう地域に移動した。そのころの日本列島の倭人と漢との交渉は、楽浪郡の統制下における単なる朝貢貿易であった。日本列島の倭人国は100余国に分立とされているが、その数字は確かなものではなく、倭人のクニはそれぞれ孤立した小部落であったことが想像される。

BC108年の楽浪郡の設置は中国東北部・朝鮮半島・日本列島の人びとにとって画期となった。BC3世紀~紀元後1世紀ごろの日本の北部九州と朝鮮半島南部の文化を比較してみると、両者の間にそれほどの差異はなく、ほぼ共通のものも認められる。新石器時代の文化を比較すれば、日本のほうが優れた内容を示すものもあった。しかし、BC108年に漢が朝鮮半島北西部に設置した楽浪郡の文化に比べると、日本列島の文化は著しく見劣りのするものである。楽浪文化は朝鮮民族固有の文化ではなく、漢が植民地支配した地に漢文化を伝播させたものである。

日本列島における楽浪土器は北部九州沿岸に集中しており、内陸部の遺跡では例外的に伊都いと国の国邑こくゆう(都)である福岡県前原町の三雲遺跡に集中する。三雲では番上ばんじょう地区に集中しており、楽浪人の集団的居住を想定できる。楽浪土器は北部九州以外の出雲の山持遺跡などでも生活集落から出土している。不思議なことに楽浪土器は対馬を除いて、墓に入っていたことはない。鏡とは別の取り扱いであった。

このように朝鮮半島と日本列島との関係を考古学的観点からみてみると、タカミムスヒの主宰する高天原の時代はBC108年の楽浪郡の設置にまでさかのぼれるかもしれない。


 さらにさかのぼるには、1世紀中葉に成立した論衡ろんこうという、江南人(後漢時代の会稽かいけい郡生まれ)の王充おうじゅうの書いた哲学思想書で儒教の神秘主義を批判した文献を頼りにするしかない。論衡で山海経せんがいきょうについて論じているなかに、「蓋国がいこく鋸燕きょえんの南、倭の北に有り、倭はえんに属す。」とある、BC3世紀の中国戦国時代のことである。鋸燕は大国のえんである。燕は現在の北京辺りを本拠として東は遼東半島まで領有していた。蓋国はどこにあったのか、長田夏樹は、“鋸燕は燕の遼東郡の地を指す。また山海経の注釈書「山海経箋疏せんそ」によれば、蓋馬は蓋国の地であり、当時の蓋馬県は楽浪郡が置かれる地である”という。そうであれば、ここでいう倭は今の平壌辺りとなる。この山海経の記述をどこまで信用するかであるが、「倭」という語が初めて文献に登場している。この倭の地に漢はBC108年に楽浪郡を置いた、その時には倭人の姿は消えていた。また、時代は違うが「後漢書」鮮卑せんぴ伝に、180年ごろに「倭人は善く網捕するを聴く。ここにおいて東して倭人国を撃ち、千余家を得、徒して秦水の上に置き、魚を捕え以って糧食を助けしむ」とある。鮮卑は現在の内モンゴル辺りにいたことから、ここでいう倭人国は現在の中国吉林きつりん省西部にあったと思われる。その後、鮮卑は北魏ほくぎを建国して、中国南北朝時代の先駆けとなった。日本列島以外にも倭人国があったのである。 

元東北大学教授で朝鮮半島の歴史を専門とした井上秀雄は、

“倭を一地域名に限定するのは後世のことで、漢代では倭人の居住地は江南地方、内蒙古東部、朝鮮半島南部あるいは日本列島の三つの倭となり、中国の三国時代には朝鮮半島南部と日本列島の倭が分離して四つの倭となる。完全な民族名として倭が使用されるのは唐代を待たねばならない” 、と述べている。 

ここに、長田夏樹が指摘する朝鮮半島北部の今の平壌を中心とした地域を含めれば、五つの倭となる。


 中国の戦国時代(BC470年~BC221年)、えんの北東には夫餘ふよ族がいたことはわかっている。その夫餘族の一部を倭と呼んでいるのが気にかかる。夫餘族は後の高句麗・百済の支配者層となる。燕はBC5世紀には鉄を持っていた。その鉄の製造技術がBC3世紀には夫餘族に伝わった。夫餘族は中国東北部から朝鮮半島北部にいたツングース系の半農半牧の民族で、高句麗の始祖の朱蒙しゅもうは夫餘出身とされる。始祖伝説において夫餘の東明とうめい伝説と高句麗の朱蒙伝説が類似しているが、これは5世紀に高句麗の広開土王(好太王)が東夫餘を攻撃し、高句麗の長寿王の初年に領土となることから、長寿王が同族である夫餘の始祖伝説を取り込んだと考えられる。夫餘の中心地は鹿山ろくざんと呼ばれた。その地は現在の吉林省吉林市が有力である。魏志東夷伝によれば、夫餘はBC1世紀ごろには戸数8万で、1世紀から3世紀に強勢だったが、高句麗の成長に伴い衰退し、5世紀末には滅亡したとされる。百済の支配層も夫餘族である。百済の王族は姓を扶余ふよ(夫餘)と名のっており、百済の最後の王都を扶余(夫餘)と呼んでいる。三国遺事にある駕洛国記からこくきは金官加耶の歴史を記した史書で1076年に成立している。駕洛国記の建国説話は記紀の天孫降臨説話と同型であることはすでに述べた。亀旨くじ峰に天孫降臨した首露が最初の王と伝えられているのであれば、金官加耶きんかんかやの前身である狗邪くや国の王族も百済の王族と同様に夫餘族の可能性は高いと思う。もしそうであれば、高天原はBC3世紀の夫餘族にまでさかのぼることになる。

古事記の編纂を命じた天武天皇の時代である670年代に、夫餘族の歴史が伝承されていたかどうかはわからないが、高句麗の始祖の朱蒙が夫餘族出身という伝承は知っていた可能性は高い。なぜなら天武てんむの時代の少し前の600年当時には、高句麗からの知識層の渡来人もかなりいたからである。たとえば、高句麗僧慧慈えじ厩戸うまやど王(聖徳太子)の師であり、蘇我そが氏の氏寺である飛鳥寺あすかでらの建立(596年)には高句麗王が資金協力している。


 元東京大学教授で、神話学が専門の大林太良によれば、日本の神話と夫餘・高句麗の神話を比較してみると、夫餘には東明王の父親の解慕漱かいぼそうが天降ってくる、次に東明とうめい王が亀の背中に乗って川を渡る。日本の場合も天孫降臨が行われ、次に神武東征のときに九州から海を渡って大和に来るという構造になっている。また、モンゴルの「元朝秘史」には、あおおおかみが天命によって生まれた、それは天から降る。次にそれが湖を渡っていく。つまり、天から地に降りて、その次に海や湖または川を渡り、そして建国するというのがアルタイ系の諸民族の基本的な構造と考えられるという。

 また、江上波夫も、“魏略ぎりゃく逸文・後漢書東夷夫餘伝によれば、夫餘の始祖東明が、その故国を逃れて施掩水しえんすいという河まできて渡れなかったが、弓をもって水を撃つと亀が浮かんできて橋をなしたので、東明は渡ることができ、夫餘の地に至り王となったとある。この伝説は神武東征伝説に類似するところがある。すなわち、神武が筑紫から畿内に東征する途中、瀬戸内の速吸門はやすいのとにおいて亀の甲に乗った国つ神に遇い、彼が海道をよく知っているというので、海導者にして東への航海を続けたという所伝が古事記に見える。このことは、天孫族に夫餘・高句麗の建国伝説が伝承されていたことになる” 、と述べている。 


 元京都大学教授の上田正昭は、日本神話と朝鮮神話とを比較して、その違いをまとめている。それによると、日本神話と朝鮮神話には大きな違いが三か所ある。

① 朝鮮神話は、神を迎える側に主体が置かれている。下ってくる神を人民が迎える。一方、日本の場合は、入ってくる神の側に重点が置かれている。

② 朝鮮の神話には、高天原に相当するものがない。特に「駕洛国記」の場合は書かれていない。一方、日本の場合は、高天原が非常に詳しく書かれている。

③ 朝鮮神話では、神が空から降りてきて人民に幸いをもたらす。一方、日本の場合は、完全に支配者・征服者として入ってくる。

 これに関する結論として、元明治大学教授(独文学)で朝鮮と日本の古代史を比較して、鋭い指摘を行う鈴木武樹は、朝鮮の場合はこれら三つの要素が渾然として一つの神話体系の全体を形成しているのに対して、日本の場合は支配者階級が持ってきた神話だけが強調されている。つまり日本神話はそれを日本列島へ持ってきた人たちの神話であって、先住の人びとの神話ではないと述べている。この鈴木武樹の結論に江上波夫も賛同している。

 これらの神話の分析から得られたアルタイ系部族である夫餘との深いつながりから、古事記に記された神代七代の初代アメノミナカヌシ(天御中主)が夫餘族出身ということにでもなれば、とても興味深い話である。


 高天原の源境がBC3世紀の夫餘族の住む中国東北部(旧満州)にあったとすれば、アマテラスの主宰する高天原は本当に狗邪くや国(狗邪韓国、後の金官加耶)にあったのだろうか? 古事記によれば、崩年がほぼ解明できている崇神は第10代なので、初代の神武じんむ崇神すじんから9代前、アマテラスは神武の5代前である。したがって、アマテラスは崇神の14代前となる。崇神の崩年はその干支から、258年あるいは1元(60年)後の318年のどちらかである。元皇學館大學長の田中卓による住吉大社神代記の解読からは258年とされる。1代平均12年というのは大阪市立大学名誉教授の直木孝次郎による兄弟相続もあった古墳時代前期の推定である。これについては後述の「神武」と「崇神」の項で詳しく述べる。兄弟相続を考慮しない神代の時代の1代を15年~20年と仮定して14代さかのぼると、崇神の崩年を258年とすれば、BC22年~紀元後48年がアマテラスの崩年となり、318年とすれば、紀元後38年~108年となる。天孫ということで海の向こうと考えれば狗邪くや国の前身であるしん国となる。そこには紀元前後から1世紀にかけて辰王がいた。辰王の中の一人がアマテラスであったかもしれないし、アマテラスは辰王の娘で巫女であったかもしれない。いずれにせよ、アマテラスの主宰する高天原は紀元前後から1世紀にかけての辰国にあったといえる。その地域は後の時代に加耶と呼ばれ、その中心地は卑弥呼の時代には狗邪韓国くやかんこくとなり、古墳時代には任那加羅みまなからあるいは金官加耶きんかんかやと呼ばれた。現在は、朝鮮半島南岸地域にある慶尚南道釜山ぷさん市の北西にあたる洛東江らくとうこう西岸の金海きめ市である。加耶地域には水系や盆地ごとに小国が存在していた。日本列島の倭国との交流の中心となる地域が時期によって移り変わっていったことは分かっている。2世紀には金海市良洞里やんどんに墳墓群に大型木槨墓もっかくぼが登場し、多数の鉄製品・中国製品の他に、銅矛や鏡など北部九州の製品も出土しており、広い地域と交流をもった支配者あるいは王の墓とみられる。アマテラス(高天原・日神)もツクヨミ(夜の世界・月神)もスサノオ(海原国)もカグツチ(火の神)も紀元前後から1世紀の辰国にいたのである。さらに、その高天原の源境はBC3世紀の夫餘族の住む中国東北部であり、そこには天つ神の初代アメノミナカヌシがいたのかもしれない。


魏志東夷伝の国々(高句麗・韓・倭人以外)

1)夫餘ふよ

 夫餘の記事は「史記」貨殖列伝に見られ、BC2世紀後半から漢と接触していた。1世紀初めから3世紀中ごろまでが夫餘の全盛期である。夫餘の王で最初に登場するのは、「後漢書」夫餘伝に見える49年の夫餘王であるが名は不詳である。111年には夫餘王が歩騎7~8千人を率いて楽浪に侵入、167年には王の夫台が2万人を率いて玄兎に侵入とある。挹婁ゆうろう伝に、漢のとき以来夫餘に属す、220年~226年に夫餘に叛き、夫餘はたびたび挹婁を伐すとある。夫餘は285年、北方遊牧民である東部鮮卑せんぴ慕容ぼよう氏の攻撃を受けて一旦滅ぶが、沃沮よくそに逃れた一派は東夫餘を建国し、元の鹿山ろくざんで復興した国は北夫餘と呼ばれた。346年に慕溶氏の攻撃を再度受けた。その時の本拠は鹿山の西の農安のうあんである。夫餘は最終的に勿吉もちきち、またの名は靺鞨まつかつの攻撃を受けて、494年に王族が高句麗に亡命し滅亡した。高句麗とは、言語・諸事、多く夫餘と同じであるが、その気質・衣服は異なる。高句麗は夫餘より好戦的であった。夫餘の六加(は官名)階級は王を中心にして支配者共同体を形成し、多数の一般邑落民(下戸)を支配した。六加には馬加・牛加・狗加などがある。夫餘の戸数は8万、その土地は五穀には適しているが五果は育たない。人びとの体格は大きく、勇ましいが慎み深く、他国に侵略しない。名馬を産し、金・大珠(瑪瑙めのう)を生ず。有力者は狐・狸・尾長猿・てんの毛皮を重ね着て、帽子を金銀で飾る。武器は弓・矢・刀(長剣)・矛があり、それぞれの家には鎧と武器がある。敵がやってくれば、たちが自ら戦う。下戸は兵糧を運ぶ。また、夫餘はツングース系民族の奉ずるシャーマニズムに農耕的冬祭の祭儀が付加された迎鼓祭げいこさいを行っていた。墓制は土壙墓どこうぼが多い。一方、高句麗は積石塚つみいしづかである。

夫餘については、蝕角しょっかく式銅剣と鉄剣からの考察も重要である。始祖伝説において夫餘の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説が類似しているが、これは5世紀に高句麗の広開土王(好太王)が東夫餘を攻撃し、長寿王ちょうじゅおう初年に領土となることから、長寿王が夫餘の始祖伝説を取り込んだと考えられる。夫餘の中心地は鹿山ろくざんと呼ばれた。その地は現在の吉林きつりん省吉林市が有力である。もともと夫餘と高句麗は社会集団が異なっていたが、両国が成立する前後にはこれらの地域(現在の吉林省)には蝕角式銅剣という同種の青銅短剣が分布している。夫餘は流亡者がわい族の地に来て支配者となったといわれる。一方、他の濊族が居住する沃沮よくそは極東南部から朝鮮半島東北部にかけて分布していた。蝕角式銅剣はオルドス式銅剣などの一鋳式である北方式銅剣の範疇に入る。しかし剣身部分については細形銅剣や遼寧りょうねい式銅剣とも密接な関係がある。その分布は中国東北部の内陸部から朝鮮半島中部・弁辰(弁韓)地域・対馬・北部九州に見られる。遼東・遼西の遼寧式銅剣文化とは異なる系統である。蝕角銅剣Ⅰ式はBC5世紀前半、Ⅱ式はBC4~2世紀のものである。Ⅲ式とⅣ式はBC2世紀に朝鮮半島で製作されたものである。また、蝕角式鉄剣Ⅱc式はBC2世紀後半、鉄剣Ⅴ式はBC1世紀のものである。夫餘を特徴付ける武器は蝕角式鉄剣Ⅱc式と鉄剣Ⅴ式である。それはまさに楽浪郡設置前後の時期にあたっている。夫餘の鉄製農具については中原・遼東・遼西と共通することから、交易で入手していたと考えられる。

BC2世紀に入るころ、えん国が瓦解した後に燕から衛満えいまんが千人余りの部下を連れて大同江流域にやってきた。そしてBC194年に先住の箕氏きしを攻略し衛氏えいし朝鮮を称した。そこに蝕角銅剣Ⅳaが出現する。これが衛氏朝鮮の崩壊とともに中部地域へ流民とともに広がり、さらに弁辰(弁韓)地域において蝕角銅剣ⅣaからⅣb、Ⅳcへと変化していく。

2)烏桓うがん(烏丸)と鮮卑せんぴ

 烏桓と鮮卑は蒙古草原の南東部に分布し、烏桓は南のラオハ河流域に、鮮卑は北のシムラレン河(西遼河)流域にあった。ともに東胡とうこと呼ばれていた。シムラレン以南は黄土地帯であり農耕に適している。シムラレン以北は東西に分かれ、西は草原地帯で放牧に適しており、東は森林地帯で狩猟の適した地域である。烏桓は早い段階で原始的農耕を開始していた。中国の戦国時代のえんは東胡を襲いラオハ河の南から駆逐し燕の領土とした。そこには遼東・遼西が含まれている。燕の南はせいちょうに通じ、北は烏桓・夫餘に隣接し、東は穢貉わいかく・朝鮮・真番しんぱんである。後漢時代に入る頃(49年)、烏桓は、南匈奴きょうどの中国内移住と同様に、燕国内に入るようになった。鮮卑も烏桓に継いで南下してきた。

三国志・魏書・烏桓鮮卑伝にある3世紀初頭の風俗・習慣によると、「騎射遊牧、ゲルに住む、肉食・酪飲、毛皮の衣、若きを貴び老いを賤しむ、世襲なし、部族制、無文字、無姓、各自で牧畜治産し徭役なし、略奪婚、尊卑なし、弁髪べんぱつ、レビレート(死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習)、戦いで死ぬことを貴しとする、亡くなるとそのものの馬・衣服・服飾品などはすべて焼く」とある。後の中国の南北朝時代に、鮮卑が創建した5世紀中ごろの北魏ほくぎの帝室では、崩御の三日後に皇帝の御服器物はすべて焼焚されたという。

3)沃沮よくそ

 東沃沮ともいう。沃沮は高句麗の東に位置し、沿海州南部から豆満江とまんこう流域にかけて分布する初期鉄器文化である。それはクロウノフカ文化(BC3世紀~紀元前後の団結文化)に相当する。その特徴はオンドル(トンネル形炉)と呂字形住居、切り株形把手をもつかめに有る。オンドルはその後朝鮮半島南部にまで広がっていく。沃沮県はいわゆる嶺東7県(皆なわい族である)の一つであるが、沃沮は当初、玄兎げんと郡に属していた。沃沮以外の6県は臨屯りんとん郡に属していた。沃沮や濊は高句麗に臣属したり、魏に降りたりした。

4)挹婁ゆうろう

 いにしえ粛慎しゅくしんである。挹婁は夫餘の東北、沃沮の北にあり、漢・魏から最も遠い地に住む集団である。そこはアムール川中流域から沿海州南部にかけての地域で、気候は極めて寒い。隣接する夫餘・沃沮・高句麗は言語・住居・習俗がほとんど同じだが、挹婁だけが言語を異にし、深いほどいとされる竪穴住居に住み、飲食には高杯を用いない。鉄器を伴うポリツェ文化がそれに対応する。中国の戦国時代以後、鉄器の普及に伴い極東の多くの地域で竪穴住居から平地住居への移行が起こったが、挹婁だけは竪穴住居のままであった。沿海州南部でクロウノフカ文化からポリツェ文化への交代が起きたのは2~3世紀ごろの可能性が高い。挹婁は夫餘に臣属していたが、黄初年間(200年~226年)に反旗を翻した。

5)わいはく

 濊は朝鮮半島の東海岸、江原道一帯を住地にしていた。高句麗と同種である。高句麗ははく(貊)族と考えられる。はくこまとも通じ、日本では高句麗を高麗こまと呼び、狛犬こまいぬや高句麗系渡来人の関わる地名としても残されている。高句麗の都は丸都がんと山のふもとにあった(現在の吉林省集安市)。濊と海獣(オットセイ・ラッコ類)との結びつきは重要であり、その他の魚介類との関わりも深い民族である。本来的には沃沮・夫餘の地域にまで及ぶ極めて広範な地域に広がっていたと見ることができる。山海経せんがいきょうには「蓋国がいこく鉅燕きょえんの南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」とある。蓋国を濊にあてる意見もある。BC3世紀の中国の戦国時代のことである。山川の相互侵犯を禁じる一定の領域については、アイヌにもあり、北方ツングースにも見られ、濊も狩猟採集民として、このような習俗を持っていた。死者が出ればその家を焼き捨て、後に残った家族は移転するか新居を作った。これもアイヌと同じ宗教観念である。濊の西と北には狛が、南には韓の勢力があり、やがて両者に吸収されたと考えられる。


 夫餘ふよわいはくに、馬韓ばかん辰韓しんかん弁韓べんかん高句麗こうくりを含めた民族は程度の差こそあれ、弥生時代から古墳時代にかけて、日本列島に支配者・知識人・技能者・開拓農耕民などとして渡来して、日本文化の発展に大いに貢献したことは論を待たない。


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