第8話 イネ(稲)への道

 黒潮と対馬暖流の流れの変化により生まれた森に育まれた縄文1万年は、その後日本列島の北方・中央・南方でそれぞれ異なる道をたどった。水稲耕作は津軽海峡を越えることはなかったので、北方の北海道では縄文を受け継ぐ森の文化が発展し、次の5世紀から10世紀のオホーツク文化になり、13世紀にはアイヌ文化となって江戸時代末まで縄文式生態系を継承した。南方の南西諸島では豊かな海の幸とイモ類の焼畑農耕を基本にした独自の生活スタイル、そして中央の本州・四国・九州では水田稲作を主な生業とした「クニ」が北部九州から山陰・瀬戸内・近畿・東海につくられ、その後、次第に北方の関東や東北、南方の南九州や南四国に水田稲作を拡げ、一つにまとめあげられていった。

 東アジア先史社会において、農耕社会(黄河こうが長江ちょうこう(揚子江)流域)と牧畜型農耕社会(北方アジア草原地帯)という二つの地域圏が存在し、それらから地理的に東側に位置する二次的農耕社会としての沿海州南部から朝鮮半島・日本列島という東北アジアが存在する。二次的農耕社会とは、中国の史書にいう東夷の地域であり、黄河中・下流域から遼西に生まれたアワ・キビ農耕と、長江中・下流域に生まれた稲作農耕が段階的に伝播する地域である。このような農耕の広がりには、農耕民や農耕化した狩猟採集民の分村的な移住や移動が存在し、農耕民と狩猟採集民との混血が伴った。こうした移住や移動は農耕民の人口増加による人口圧、気候の一時的な冷涼化による食料の減少が要因となって進行していった。縄文から弥生へという社会現象は日本列島のみに存在したのではなく、東夷社会である東北アジア全体にみられる社会現象である。


 弥生時代は、1884年に東京本郷弥生町の向ヶ岡むこうがおか貝塚で見つかった土器を、縄文土器とは異質なため弥生式土器と呼んだことがきっかけで、弥生時代と呼ぶようになった。日本民族学の柳田国男は、イネが来なければ今の日本民族は成立しないと述べている。外来要素が弥生文化成立の大きな契機であった。 

イネの源郷はどこなのだろうか?近年のイネのDNA分析の進歩にはめざましいものがある。ここでは、佐藤洋一郎(総合地球環境研究所教授)による「イネの歴史」と宮本一夫(九州大学教授)の「農耕の起源を探る」からその源郷を確かめ、そしてどのようにして日本列島へ伝播したのかをみてみる。


 アワ・キビ・イネが栽培化された原因は氷河期が終息し温暖化する1万5000年前ごろを境とした大きな気候変動と関連している。同じ時期、東アジアの各地では土器が作られ始めていた。日本の青森県(1万6000年前~1万5000年前)、沿海州(1万6500年前~1万4100年前)、中国湖南省(1万4700年前~1万4300年前)などである。縄文社会では1万1000年前ごろから急激に土器の生産量が増えてくる。後氷期の後、一時的な冷涼乾燥期ヤンガードリアス期 (1万2800年~1万1500年前)が訪れ、野性穀物の収穫量が減少した。これが野生種から栽培種への馴化じゅんかへの人類の動機であるといわれている。このような過程で1万年前ごろ中東のレバント地域ではコムギ・オオムギ、黄河中・下流域ではアワ・キビ、長江(揚子江)中・下流域では稲作農耕が登場した。さらに完新世の湿潤温暖期であるヒプシサーマル期(8000年前~5000年前)にはそれぞれの地域の農耕がより緯度の高い地域で可能となり、南から北へと農耕が拡散していく。7000年前の長江(揚子江)下流域にはゾウ・スイギュウ・ワニなどが棲息し、今の海南島からラオスに相当するくらい気温も高く雨も多かった。そこは野生イネが生育できる環境であり、栽培イネの起源地と考えられている。

 イネの栽培が始まるようになる1万年前ごろ、最後の氷河期が終わった直後の時期には、長江の中・下流域にジャポニカ型の野生種が自生していた。おそらくこの時期には、熱帯の大河流域にある大平原にもインディカ型野生イネが生えていたと思われる。長江中流の湖南省や河南省などの遺跡からは、大きな種子をもつイネの栽培が9000年前~8000年前に始まったと推測できる証拠が見つかっている。そして、8000年前~7000年前ごろになると、長江流域の人びとがジャポニカ型野生種を栽培化するようになった。ジャポニカのイネはこうして誕生した。7000年前の浙江せっこう省の河姆渡かぼと遺跡はその一つである。稲作は長江の中流から下流にかけての地域に広まり、そこにジャポニカ米と照葉樹林文化に支えられた文明が築かれた。5500年前には米粒も大きく改良され、水利技術も5000年前ごろまでにはかなりの水準に達し、4500年前には水田稲作を生産基盤とした良渚りょうしょ文化が誕生した。 

 5000年前ごろから北から侵入する黄河文明の人びとの圧迫により、長江文明をつくった人びとの一部は照葉樹林文化とジャポニカ米を携え、東へ西へと移動した。西へ向った人びとは雲南・アッサムに定着した。さらにインドの平地に達した人びとはインディカ型野生イネに出会い、それを栽培化してインディカ品種となった。東へ向った人びとによる水田稲作は、4500年前までには山東省の東端に、3000年前までには朝鮮半島南部に、2800年前には日本列島で見られるようになった。降水量が比較的多い南方の高地での灌漑設備を使わない陸稲栽培も発達し、4000年前には東南アジアで陸稲が栽培されるようになった。イネはどの作物よりも高い多様性をもつ。その栽培地は北東アジアの温帯地域(緯度40度以北)に見られる管理の行き届いた灌漑施設のある水田から、熱帯のデルタに見られる深さ数メートルの水中までと多様で、かつ海抜0メートルから2000メートル以上のヒマラヤの一部(ネパールと雲南省)までと幅がある。こうした幅広い環境で栽培されるため、イネには地域ごとに多様な生態系が存在する。

 日本へのイネの伝来は中国江南からといわれている。そこでは3500年前から2500年前ごろにかけ、長江下流域を中心に、その南北の平野部には良渚文化以来の伝統をもつ幾何学印文陶文化といわれる水田稲作農耕がかなり広く行われていた。それに対し、江南の山地には古い照葉樹林文化の伝統をもつ焼畑農耕民が生活していたし、沿岸部には潜水漁撈を行う漁撈民もいた。これらの平野と山と海の文化の間には、かなりの交流があったことが確かめられている。このような状況が日本列島あるいは朝鮮半島南部に稲作が伝わる直前の時期の中国大陸東海岸地域の文化的状況であった。


中国の江南地域から日本列島への水田稲作文化の伝来のルートには次の三つが考えられる。

(A)山東半島の東から朝鮮半島南西部を経て北部九州へ

(B)長江下流域から済州島を経て朝鮮半島南部と北部九州へ

(C)広州・福州から台湾・沖縄諸島を経て南九州へ

この三つの中のメインルートは、弥生初期に登場する(A)である。その理由は弥生文化を作り出した大陸伝来の文化要素の多くが朝鮮半島を経由したと考えられるからである。弥生時代初期に登場する石包丁・有柄式磨製石剣・各種の磨製石斧をはじめ、支石墓しせきぼ・貯蔵用の袋状竪穴・細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈・多鈕細文鏡たちゅうさいもんきょうなどはいずれも中国の遼寧りょうねい青銅器文化の流れをひくものであり、朝鮮系青銅器といえる。これに対し、中国大陸系の鏡や金属器などの出現はやや遅れる。

(B)のルートからは江南系の金属器のほかに、高床式の穀倉、ナレズシを作る慣行、鵜飼の習俗などがある。

(C)のルートからはインドネシアのブル系(熱帯ジャポニカ型)のイネが南西諸島を経て南九州に伝播している。東シナ海の海域は、古い時代から呉越の民といわれる海人あまの集団が移動を繰り返していたと推定される。江南の地で発達した水田稲作農耕を日本列島に伝えるに当たって重要な役割を演じたのはこの東シナ海沿岸の海人集団の一部であったと想定される。

(A)のルートをたどってみる。水田稲作文化は山東半島の東端の煙台えんだいには遅くとも4500年前ごろには達していた。さらに4400年前ごろの寒冷化の影響により、一部の人びとは4000年前までに新耕地を求めて山東半島から遼東半島そして朝鮮半島へ移住し、イネが伝播したと思われる。遼東半島とその対岸にある煙台地域(膠東こうとう半島)とは山東龍山文化以前から交流がみとめられる。この山東龍山文化期(4500年前~4000年前)は、磨製の石包丁・扁平片刃石斧や石鑿いしのみなどの石器類や黒陶が煙台地域から一方的に遼東半島に文化が流入する時期である。山東龍山文化人が遼東半島に移動したのは、4400年前ごろの気候の冷涼化が原因と考えられる。そして4000年前までに朝鮮半島中南部から南部海岸に伝播した。黄河流域を北限とし、従来のアワ・キビの初期農耕地帯にさらにイネが栽培穀物として加わったのが新石器時代中期から後期であった。3500年前ごろより朝鮮半島は新石器から灌漑農耕を伴った無文土器文化に変質していく。大型の石斧も3300年~3100年前ごろ遼東半島から伝播している。3000年前ごろの寒冷期は北部九州に渡来民をもたらし、2800年前ごろ弥生文化が始まった。


 イネのDNA分析の結果からは、弥生の要素といえる温帯ジャポニカは大集団では来ていない。つまり縄文の人びとはあぜや水路や田植えの技術は受け入れたが、耕作と休耕を繰り返す焼畑の農法は手放さず、イネも多くは熱帯ジャポニカのままであった。縄文の要素は日本列島内で長く残存し、鎌倉・室町の時代まで続いていたといわれている。初期の弥生の人々も温帯ジャポニカのための水田稲作の畦や水路、田植えの作業は行ったが、耕作と休耕を繰り返す焼畑の農法と熱帯ジャポニカもそのままであった。肥料のない時代は数年休耕にしてから焼くという焼畑方式が水田でも取り入れられていた。

 日本最古の水田は縄文人が作った2700年前の唐津市の「菜畑なばたけ遺跡」である。その住民は半農半漁であった。この後、日本列島には寒冷化による海水面の低下によって水田稲作に適した平野が多く出現したこともあり、2300年前ごろから中国大陸や朝鮮半島から新たな渡来人が押し寄せてきたと考えられている。やがて日本列島にも水田稲作を生産基盤とした吉野ヶ里遺跡のような「クニ」の原型が誕生した。水田稲作は徐々に北上し、青森の田舎館いなかだて村の世界最北の水田跡は2000年前のものである。弥生のイネは温帯と熱帯ジャポニカの両種を栽培し、その交配種もあった。 その中から東北地方でも栽培可能な早稲わせの品種も生まれ、弥生時代に日本列島を北方に駆け上がることができた。温帯ジャポニカには"a"から"h"まで8つの遺伝子タイプがあるが、日本には"a”,”b”,”c"の3つしかない。しかも"c"はごくわずかである。種類の数が少ないことは日本列島に運んでこられた水稲の量がわずかだったということが推定できる。また、"b"は朝鮮半島には見つからない。しかも"b"遺伝子は2200年以上前の遺跡からも出土している。これは、中国大陸から直接日本列島に来た証拠である。"a"は朝鮮半島と日本列島に高い頻度で分布するので、朝鮮半島から来たと推定できる。

 弥生時代の栽培イネは米粒の大きさがまちまちで、いろいろな品種があった。中心は今も我々が口にしている温帯ジャポニカであったが、熱帯ジャポニカも混ざっていた。いろいろな品種が混在する田んぼではイネの生育時期がそろわず、この点が弥生稲作の大きな特色の一つである。その大半は谷に作られた水田のような小区画水田であった。弥生時代の水田開発は、土を少し動かし、小畦を設けて高低差の少ない田んぼを作り、用水路を設ける程度のものであった。大区画の水田が現れるのは弥生後期(2世紀~3世紀)になってからである。日本列島の中で、水田稲作は急速に北進したとされているが、急速な北進はイネの短日性の喪失を意味する。東北で植えても花が咲く早稲わせになるには、その短日性を失わなければならない。それはインドにおけるインディカの北進と同じメカニズムである。日本列島では、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカとの自然交配が西日本で起こり早稲わせが生じたと考えられる。


菜畑なばたけ遺跡]

 2700年前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡は日本最古の水田跡で、機能的に分化した農具類のセットが完備し、畦畔あぜはんをもち、灌漑・排水用の水路や井堰あるいは取排水口を備えた立派な水田である。3000年前は畑作の稲で、2700年前から水田稲作が登場した。そこからは夜臼ゆうす式土器よりも古い山ノ寺やまのでら式土器とともに水路やせきを伴う水田跡や木製農具、大陸系の磨製石器(やじり・剣)、装身具、稲や雑穀などが出土している。水田稲作は山ノ寺式土器期に始まったことが確かとなってきた。畑作の雑穀はアワ・オオムギ・アズキ・リョクトウなどである。

曲り田まがりた遺跡]

 2500年~2400年前と推定される福岡県糸島市の曲り田遺跡からは山ノ寺式土器を伴う竪穴住居20軒以上と、その一軒から夜臼ゆうす式土器に伴って板状鉄斧の破片が発見され、稲作開始とともに鉄器を使い始めていたことが明らかになった。それはBC4世紀~BC3世紀に燕からもたらされた鋳造ちゅうぞう鉄器の破片を可鍛鋳鉄かたんちゅうてつに処理し、磨製石器製作の技法で削りこすることで、のみやりがんななどの小型工具に再加工したものと考えられる。さらに、小型の支石墓も見つかっている。

板付いたずけ遺跡]

 2400年前の板付遺跡は福岡平野のほぼ中央の福岡市博多区にある。南北116メートル・東西81メートルの環濠集落である。東には御笠川、西には諸岡川が流れており、その水路・せきを伴う水田跡からは板付式の弥生土器と共に、縄文系の突帯文(凸帯文)を主体とした夜臼ゆうす式土器、すきやエブリなどの木製農具、石臼いしうすきね、渡来系の壺や石包丁が出土しており、稲作技術の水準の高さがうかがえる。 


 北部九州は佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2700年前)や福岡県の板付遺跡(2400年前)など日本最古の水田跡の存在や他地域を圧倒する金属器の出土状況などが示すように、渡来人が最初に入植して根を広げた地域である。佐賀県唐津市の菜畑遺跡の花粉分析の結果、イネの花粉は約3000年前から突然出てくる。これは畑作であったが、約2700年前になると水田稲作が登場した。

 福岡の板付遺跡は、佐賀の菜畑遺跡に次ぐ、日本で2番目に古い2400年前の水田稲作集落である。そこでは極めて完成度の高い水田稲作農耕が営まれており、それが日本列島の中で徐々に形成されたとは考えにくい。そこは完成された稲作文化をもった渡来系の人びとによって営まれていたが、水田稲作用の農具・工具以外の突帯文とったいもん(凸帯文)土器などその他多くの道具は縄文時代と同じものであった。こうしたことから、この時期の渡来人は2~3家族のごく少数の人びとが長い期間のあいだに断続的に渡来し、多く見積もっても数百年で数千人程度であったと推定されている。

 北部九州の縄文時代末期の人骨資料は今も皆無の状況が続いており、さらに当地から大量に出土している弥生人骨もまた、ほとんどが弥生前期以降の、水田が始まってから数百年を経たものでしかない。現段階では、この弥生文化発祥の地でおきた変化は、土着集団による先進文化の受容現象というよりは、大陸から移動してきた人びとが牽引役となって、数百年にわたって自身の人口を増やしながら実現したと考えるのが妥当と思われる。渡来系の人は安定した生産基盤とより良い栄養状態のおかげで15歳の女性の平均余命は縄文人の倍くらいあった。そのため数百年のあいだに縄文系の人口より多くなったと考えられている。


 食料生産システムとしての水田稲作の特徴は、「連作」と「余剰生産性」の二つである。イネも含め、作物を同じ畑で栽培し続けると、生育が悪化して収量が大きく低下する「連作障害」が発生する。しかし、イネを水田で栽培しても、こうした障害は発生しない。また、イネは一粒の種子から2000粒に増えるほど生産性が高いため、水田稲作は農民だけでなく農業に関係のない多くの人口を支えることが可能な「余剰生産性」をそなえている。そのため、水田がひとたびひらかれると、人口の増加と集中が生じる。増加した人口によってさらに水田の造成がおこなわれる。また、水田稲作の維持・拡大は、水田の補修や造成、水路の補修や開削、さらに用水確保のための水系の管理・支配などを担う専門家や権力者の誕生を促し、社会の分業化や階層化をもたらす。このように、水田稲作の開始は、古代の「クニ」、そして今日へと続く都市社会の萌芽をもたらす原動力であったといえる。

 弥生文化は衣食住をはじめ物質文化の大部分を含む日常的生活文化の多くの面で縄文文化の伝統を引き継いだものであるが、水田稲作農耕と結びついた「稲の祭り」を含む各種の祭儀やそれを支える新しい宗教観や世界観、政治的・宗教的統合のシンボルとなる青銅器祭器や呪具類とその背後にある社会的統合のイデオロギーが特色であった。しかし、弥生時代になり、水田稲作が導入されて以後も日本列島が一様に稲作化されたわけではない。平野の一部が水田化される一方、丘陵斜面や山地にはその後も長くアワ・ヒエ・ソバなどの畑作雑穀類・イモ類・堅果類を主食料とした非稲作的な生活様式の人々が居住していた。また、東日本の平野部には畑作・牧馬文化が5世紀以降も広く展開した。土地の全面が水田である平野の景観や稲作中心の農村風景は16世紀後葉の中世から近世への転換点である安土桃山時代に入ってから現れたのである。

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