第6話 免疫グロブリンとDNAから見た人の移動
近年、免疫グロブリンと呼ばれる血清タンパク、あるいはDNA遺伝子(父系・母系)から見た東アジアでの人類の移動を推定する研究が進展してきた。これらを参考にして、人類の移動経路、そして倭人と日本語の形成過程を探り、さらに弥生時代を生みだした「イネ(稲)への道」についても、その分野の専門家の諸説から伝播の様子を確認してみる。
1)人類遺伝学者の松本秀雄(元大阪医科大学学長)による免疫グロブリン分析
抗体(免疫グロブリン)の血液型であるGm型のGm遺伝子の特徴は人種の違いを識別できることにある。モンゴロイド(黄色人)・コーカソイド(白人)・ニグロイド(黒人)という人種の違いだけでなく、その混血の割合を知ることや民族の移動の跡を辿ることも可能となった。モンゴロイドは北方型と南方型の二つのグループに分かれる。日本人の多くは北方型モンゴロイドに属し、そのルーツはバイカル湖畔にある。松本秀雄は免疫グロブリンの型を5つに特定し、それを分かりやすいように色づけしている。
ag(青):北方ユーラシア型。アフリカのサハラ以南以外の全世界で見られる。
axg(緑):北方ユーラシア型。南米ではほぼag(青)とaxg(緑)のみである。オーストラリアのアボリジニでもag(青)とaxg(緑)のみであるということから、この二つの遺伝子の誕生は5万年以上前と思われる。
afb1b3(赤):南方型(新)モンゴロイド。 中国南部の雲南・広西地域からインドシナで誕生したと思われる。中国南部・インドシナ・インドネシア・南洋諸島で圧倒的に優勢である。
ab3st(黄):北方型(新)モンゴロイド。 ag(青)・afb1b3(赤)の後に、シベリア・バイカル湖北部で誕生し、満州・日本列島・朝鮮半島へ拡がった。また、チベット・ネパールに拡がり、さらに僅かではあるが北インド・イランへ浸透した。
fb1b3(白):コーカソイド特有な分布を示す。インド・アーリア系の顕著な分布である。
日本人は、ag(青)45.8%、ab3st(黄)26.0%、axg(緑)17.6%、afb1b3(赤)10.6%、となっている。アイヌを含めて日本人は北海道から沖縄まで、Gm遺伝子のデータからみるとほぼ等質である。南北2500キロの隔たりの中で等質の人びとが住んでいるということは、世界の中でも稀である。アイヌ・宮古島・奄美大島において最も古いタイプag(青)がそれぞれ57%、53%、49%、となっているが、それほどかけ離れた数字ではない。また、afb1b3(赤)はそれぞれ4%、4%、6%と低い。その地域にはモンゴロイド誕生以前の人びとの遺伝子が他の地域より少し多めに残り、南方型の新モンゴロイドの流入は少なかったということになる。
また、琉球諸島を含めた南西諸島の住民と台湾先住民とは、民族的なつながりは極めて乏しい。台湾先住民では、北方型(新)モンゴロイドab3st(黄)が0.2%、南方型(新)モンゴロイドafb1b3(赤)が76%であり、圧倒的に南方的である。このことから、民族的には先史時代に台湾から琉球諸島に移住したとは考えられない。
一方、日本列島に一番近い朝鮮半島では、3000年前に中国の
もちろん日本でも混血は行われたはずであるが、現在の日本民族のGm遺伝子構成から見ると、原日本人の数が多かったために弥生時代・古墳時代それに続く飛鳥・奈良時代の渡来人の数は相対的には多くなく、原日本人に吸収され、同化してしまったようである。ここでいう原日本人とは、一万年におよぶ縄文時代を生きてきた人びとのことである。実際、日本人には北方型モンゴロイドのab3st(黄)遺伝子が26%の高さで保持されており、北方型(新)モンゴロイドの代表格であるバイカル湖周辺のブリヤートと同程度の値となっている。但し、ブリヤートに比べ南方型モンゴロイドのafb1b3(赤)は5%ほど多い。この南方型モンゴロイド遺伝子の差は渡来人の影響なのか、もともとあった環日本海民族とバイカル湖周辺民族との違いだったのかは分からない。形質的に縄文人と弥生人は異なるといわれているが、Gm遺伝子構成からは判断すると、渡来した弥生人の影響はそれほど大きくなかったといわざるを得ない。
また、疾患からみた弥生人の影響を探った例もある。弥生時代における病気の所見として注目されるものの一つとして結核がある。感染症である結核は大陸からもたらされるまで日本列島には存在しなかった病気である。弥生後期の鳥取県青谷上寺地遺跡からの出土例がある。また、狩猟採集から農耕へと生業形態が変化すると、歯科疾患や変形性関節症などの出現頻度が高くなるといわれているが、日本の弥生人からは必ずしも顕著に確認されていない。それは、日本における稲作農耕は未熟であり、コメの摂取量はそれほど多くなかったからであると考えられる。骨病変から見る限り、縄文から弥生への移行はそれほど急激なものではなく、漸次的かつ緩やかなものだったととらえることができる。
2)言語学者松本克己(元金沢大学教授)によるY染色体(父系)遺伝子からみた日本語系統論
次に、東アジア集団におけるY染色体(父系)遺伝子からみた日本語系統論がある。Y染色体の組換えられていない領域には父親から息子へ引き継がれる不変のDNA配列が含まれる。その遺伝子分布を近隣の民族と比較している。その中から日本・朝鮮・満州のデータを見てみる。各民族それぞれ2か所のデータが示されている。
C1 C3 D D2 N O1 O2a O2b O3e O3
日本1 2.3 3.0 - 38.8 - 3.4 0.8 33.5 7.6 8.4
日本2 5.4 3.1 2.3 32.5 1.2 - 1.9 29.7 10.4 9.7
朝鮮1 0.3 8.8 0.3 3.7 3.5 4.1 1.1 29.2 27.3 17.2
朝鮮2 0.2 12.3 - 1.6 4.6 2.2 1.0 31.4 - 44.3 -
満州1 - 20.8 2.1 - 2.1 - 2.1 27.0 - 41.7 -
満州2 - 16.8 - - - 3.0 - 33.7 - 42.6 -
日本人のY染色体遺伝子が特異なのはC1とD2の出現である。
C1:インドネシア起源で華南・台湾・沖縄経由で日本へ。
D2:北東アジアでは低頻度、チベットでは人口の30%と、日本人と同じだが、型がD1と異なる。アイヌ(D2: 88%, C3: 13%)、北部沖縄(D2: 56%, O2b: 22%, O3: 16%)では高率。
O2b:環日本海の特徴。南方系のO1/O2aは少ない。朝鮮でO3が30%以上になるのは漢民族の影響の多さを物語っている。O2bが朝鮮族と満州族のアイデンティティを支えている。
C3:モンゴル人を代表し、モンゴル帝国時代に中央アジア・中国に拡大した。
O3:漢民族(黄河中流域)の特徴である。
O1/O2a:南方系の特徴である。O1は長江流域で稲作文化を担った主な集団である。O2aは太平洋沿岸南方群、O2bは太平洋沿岸北方群(環日本海)。
N:シベリアで出現、ウラル族と重なり、ロシア北部・スカンジナビア北部の遊牧民である。トナカイ狩猟者。
Y染色体遺伝子の日本列島へ流入時期:
・D系統は3万年以上前に日本列島に到達していたと思われる。古い東アジア人である。アフリカに直結するこの古い遺伝子が3万年以上もの長きにわたって日本列島内に存続し、しかも現在でも関東地方の男性では出現率48%という調査報告もある。C1もこのとき来たと思われる。これらの集団は縄文文化を生む母体となった。
・O2bは環日本海集団を特徴づける。この集団は石刃技法で作られたナイフ形石器を伴い遅くとも2万5000年前には日本列島に到達し、環日本海言語圏を形作った。これが縄文語の主体になったのだろうか?この当時、日本海は大きな湖のようになっていた。現在残っているのは日本語・朝鮮語・アイヌ語・ギリヤーク語の4つである。この集団の言語は人称代名詞と、RとLの区別のない単式流音型・形容詞用言型など8つ類型的特徴の共通性から太平洋沿岸言語ともいうべきもので、インドシナから環日本海、南北アメリカの太平洋沿岸にまで拡がっている。この集団により先住のD系統集団の言語は駆逐されたようだ。
・漢民族を代表するO3集団の主な流入は古墳時代の渡来人、その後の高句麗・百済滅亡後の飛鳥時代の亡命人や渡来人と思われる。
Y染色体(父系)遺伝子分析を総合すると、
1)今のモンゴル人が代表する2万年前の(新)モンゴロイド誕生以前、おそらく2万5000年前より前に、アジアの南方からD系統の人びとが氷河期の環日本海に移動し定着している。その系統はアイヌや沖縄の人びとに色濃く受け継がれている。
2)次に来たのはO2b系統である。ナイフ形石器を伴い遅くとも2万5000年前には日本列島に到達し、日本海が大きな湖のようになっていたこの地域で環日本海言語圏を形作った。日本・朝鮮・満州・沿海州には現在も30%くらいの割合で存在している。
3)その次はO1/O2aである。O1は長江流域で稲作文化を担った主な集団で、O2aと共に大陸沿岸を、半農半漁あるいは半農半狩猟民として、日本の縄文時代晩期と弥生時代前半期に日本列島に移住してきた。これらの集団はいわゆる弥生人といわれているが、その割合は2~4%にすぎない。
4)最後に来たのは、漢民族を代表するO3系統で古墳時代・飛鳥時代の渡来人である。しかしO3系統すべてがその時代の渡来人とは言えない。それ以前の弥生時代に朝鮮半島から来た人びとも相当数いたと考えられる。古墳時代以降の渡来人は支配者・知識人・技能者・開拓農民などであることから。実際の渡来人はそれほど多くはなかったともいえる。また、モンゴル人を代表するC3もこのときに来たかもしれない。アイヌのC3は5世紀から10世紀のオホーツク文化を担った人々の影響と思われる。
これらのことは、原日本人(縄文時代の人びと)の数が多かったために、弥生時代・古墳時代それに続く飛鳥・奈良時代の渡来人の数は相対的には多くなく、原日本人に吸収され、同化してしまったようであるという松本秀雄の分析結果にも合致する。
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