第5話 縄文人の誕生と弥生人の渡来

縄文人の誕生


 2万年前ごろをピークにして長く続いた乾燥した氷河時代も終焉に向かい、1万6500年前に始まった気候の温暖化と湿潤化のなかで、1万5000年前ごろから大きな湖のようだった日本海にも対馬海流が流入しはじめ、やがて極東の洋上に現在の地図に見るような日本列島の輪郭が徐々に表れるようになる。1万年以上もの長きにわたる縄文時代の幕開けが日本列島に訪れるのはこの1万5000年前ごろのことである。もはやどこにも大陸との繋がりはなくなり、これ以降は大小3000にもおよぶ島々の中で、人も文化も次第にその独自色を強めていくことになる。縄文という名称は1877年の東京大学教授エドワード・モースによる東京都品川区大井にある大森貝塚の発掘の2年後に出版された「Shell Mounds of Omori」の中で発見された土器にたいして「Cord Marked Pottery」と呼んだ。これを縄文土器と訳したことに始まる。実物の縄類は6千年前の福井県三方郡三方町にある鳥浜遺跡から出土している。それは稲わらではなく、大麻類とイラクサ科の赤麻あかそやカヤツリグサ科の狸蘭たぬきらんであった。日本文化の基層を構成する縄文文化は、中国東北部から朝鮮半島北部・中部、沿海州からアムール川流域に及ぶ東アジアの落葉広葉樹林帯の自然を背景に形成され発展してきたと考えられる。縄文時代の生業は、クルミ・トチ・クリ・ナラなどの堅果類の採集、サケ・マスなどの漁撈、シカ・イノシシなどの狩猟がその中心であった。したがって、これらの食料資源の豊富な東日本の地域が縄文文化の中心地域になっていた。 

 縄文人が早くから日本列島周辺の島々に考古学的足跡を残した理由の一つは、様々な海の幸を求めての活動によるものであり、縄文人の一つの特色を海に活躍する「海人あま」とみてもいい。貝塚を伴う遺跡からは多種多様な食料遺物が見出されている。考古学者酒詰仲男(元同志社大学教授)の「日本縄文石器時代食糧総説」によれば、貝はハマグリ・マガキなど353種類、魚は内湾を回遊するイワシ・アジ・サバを中心にタイ・スズキ・マグロなど71種類、エビ・カニなどは8種類、ウニは3種類、カメなどの爬虫類は8種類、鳥は35種類、哺乳類は70種類などである。哺乳類はシカ・イノシシ・イヌ・タヌキ・キツネ・ノウサギ・カモシカ・クマの他、クジラ類・イルカ・アザラシ・オットセイ・ドドなどの海獣も含まれる。東日本の縄文人にとって、9月・10月に川をさかのぼって産卵するサケ・マスは重要な食料源であった。彼らはサケ・マスあるいは獣を燻製くんせいにして保存することにより定住生活を可能にした。海岸部の遺跡では、塩作りや貝を蒸してむき身を作る加工場跡などが発見される。製塩遺跡は東北や関東の太平洋岸で縄文後期末に始まり晩期まで続く。専業的に生産された塩や貝は内陸部の集落に供給されていた。縄文時代は採集・狩猟・漁撈活動に基礎を置き、わずかながら作物も栽培されていた食料採集民文化の時代であった。その縄文文化は世界的にみても第一級の豊かな食料採集民文化であったことは、その当時の狩猟採集民としては人口密度が極めて高かったことからも推測できる。 

 考古学的に最初の日本列島人となったのは、1万5000年~1万1500年前の晩氷期にバイカル湖周辺から細石刃さいせきじんをたずさえて日本列島に住み着いた人びとといわれている。細石刃は画期的な石器である。小枝や骨に彫った溝に細石刃を埋め込んでナイフや槍先などにする組合せ式石器で、押圧剥離技法により細石核から剥ぎ取られる剥片を細石刃と呼ぶ。バイカル湖周辺を起源とする荒屋型彫器あらやがたちょうきと日本で名づけられた特徴的な彫刻刀形石器を伴う細石刃文化の石器である。人類のシベリアへの進出を可能にしたのは、石器の効率的生産と狩猟用具の改良・発展に導かれたものである。とりわけ小さな細石刃から大きな道具を作る「植刃尖頭器しょくはせんとうき」の考案が大きく貢献した。この石器の小型化が石材の入手・運搬を容易にし、極地への人類の拡散を加速させる役割を果たしたと考えられている。バイカル湖周辺に居住していた人びとが東方に移動したのは、気候の温暖化と湿潤化のなかで、草原の大型哺乳動物が減少したため、新たな食料資源を求めての移動であった。その新たな食料資源とは、サケ・マスなどの漁業資源と森のクリ・クルミ・ドングリなどのナッツ類である。その少し後の時代となる1万3000年前ごろに対馬海峡をへだてた九州にも細石刃文化が押し寄せている。しかし、九州に伝播した細石刃文化は荒屋型彫器を欠如している。代わりに土器(隆起線文・豆粒文土器)を伴っている。この九州の細石刃文化は大陸の南方の文化とかかわりがあると思われる。

 サハリン経由、それに続く朝鮮半島経由で日本列島に流入してきた細石刃文化の人びとは日本海側に定住した後、太平洋側にも進出した。一方、南九州では旧石器時代終末期の1万6000年前ごろに定住化の傾向が生じ、縄文草創期の1万3800年前~1万2700年前には鹿児島県姶良あいら市の建昌城遺跡などで定住化は加速した。しかし、ヤンガードリアス期 (1万2900年~1万1500年前)の寒冷化と1万2800年前の桜島の大爆発によって、南九州で定住化した地域は壊滅的な状態に陥った。その後、温暖化と生態系の回復に伴い1万2000年前の鹿児島県加世田市の栫ノ原かこいのはら遺跡などの季節定住遺跡や、1万1000年前の貝殻文円筒土器群を伴う鹿児島県の前原まえばる遺跡などが出現している。

 現在の日本列島の海洋性風土を特色づけているのは冬の雪である。日本海側に多雪をもたらす要因には対馬暖流が深くかかわっている。シベリアからの寒気団が対馬暖流の流入する日本海上空を冷却する。このため大気と海面との間に20度以上の温度差が生じ、海水の蒸発が引き起こされる。この蒸発した水蒸気が日本列島に吹き寄せられ、積乱雲となって豪雪をもたらす。1万5000年前頃に始まる日本海側の積雪量の増加は、気候の温暖化により海面が上昇し、対馬暖流が日本海に流入したことが原因である。多雪化は草原を温帯・多湿の海洋性風土のブナやナラが代表する落葉広葉樹の森に代え草原の大型獣を絶滅させた。日本列島にいたナウマンゾウ・バイソン・オオツノシカなどの大型動物はそれほど多くはなかったが、この環境変化により大型獣は絶滅し、小型獣ばかりになってしまった。そのため人々はドングリのような落葉広葉樹の森の生産物に食料を依存していくようになり、それを煮てアク抜きするために世界最古の土器が日本列島に誕生した。海洋性風土の下に誕生した青森県大平山元おおだいやまもと遺跡から発掘された1万5000年前の世界最古の土器文化は日本の原点である。 

 日本列島には多種多様な人びとが大陸の北方からも南方からも移動してきた。そうした人びとの中には極寒のシベリアからマンモスを追いかけて日本列島に到達した人びともいれば、南から黒潮に乗ってやってきた海の民もいた。北からの集団は「細石刃」という強力な狩の道具を作る石器技術を伝え、「丸ノミ型石斧」を持ち込んだ南の集団は舟を造る技術を伝えた。ドングリなど森の恵みを貴重な食料に変える「土器」を伝来させた人びともいた。縄文時代には、主に中国大陸から建築やうるしの技術、そしてリングの一端が切れたC字状をした玦状けつじょう耳飾り、などの装飾文化や漁撈の文化が、人びとの移動とともに伝わってきた。そしてイネもまたこの列島にやってきた。

 6000年前の富山の小竹貝塚の人骨91体のミトコンドリアDNA(母系の遺伝子)から、M7a(沖縄経由南方系の日本固有の遺伝子)とN9b(北方の沿海州先住民と同じ遺伝子)が混在していたことが分かっている。これは日本列島内での混血が縄文時代から進んでいたことを証明している。しかし、形質的には南方系を示していたようだ。当時の北陸地方では、北方の細石刃文化を受け入れたが、北方系の人々の流入は比較的少数であったと考えられる。

 住居から北方系、南方系をみてみると、竪穴式住居はアジア北方の冷涼で乾燥した地域に適した住居であり、高床式住居(掘立て柱建物)は温暖で湿度が高い中国東南・東南アジア一帯の代表的な木造建築である。


[竪穴式住居]

 地面を掘り下げて半地下を床面とし、平面形は円形や方形で、径や一辺が4~5メートル、面積10~30平方メートル、深さ0.5~1メートルほどのものが多い。床面に柱穴を掘って柱を埋め立て、柱と柱の上端を横材で結び、この横材に垂木を架け屋根をく。竪穴式住居は防寒を重視している。中央部には煮炊きや暖房用・明かりともなる炉が設けられる。竪穴式住居の普及は定住生活の成立を物語る。東北・北陸の日本海側と北海道渡島おしま半島では、縄文前期末から中期にかけて炉を複数並べた長大な竪穴建物が集落に一つあるいは複数作られていた。大型竪穴建物は儀式や祭・集会などの共同建物だったと思われる。

[高床式住居(掘立て柱建物)]

 掘立て柱建物は地面に穴を掘り、この穴に埋め立てた柱で屋根を支えた建物である。柱は長方形や亀甲形に配置され、高床となる場合が多い。縄文前期に出現し、中期以降に一般的となる。富山県小矢部市や横浜市の遺跡には、内外二重に柱を配した大型掘立て柱建物があり、大型竪穴建物と同様に、儀式や集会などで共同使用されたと思われる。


 このように住居からみても、日本列島には縄文時代前期から北方系の竪穴式住居と南方系の高床式住居は混在していた。そして、縄文時代中期には、北陸の富山や関東の横浜にまで、南方系の高床式住居が進出していたことがわかる。


 縄文人は東アジア各地からやって来た人びとが混じりあって生まれた日本列島の先住民である。また、同時に日本列島各地の縄文人は一様ではなく、出身地の容姿や文化を色濃く残していた。北海道や東北・関東には今のアイヌの人のように彫が深く、二重まぶたで、鬚が濃い人びと、北部九州から山陰にかけては今の中国山東半島から江南地方の人びとのように二重まぶたで、鬚は薄く、丸顔の人びと、南九州には今の沖縄や奄美・鹿児島の人びとのように色黒で、目はパッチリとした二重まぶたで、鬚が濃く、比較的低身長の人びと、などが、その土地の気候風土にあった生活をしていたと思われる。縄文時代の人びとは豊かな森を舞台に独自の文化を日本列島各地に花開かせ、1万年以上にわたって日本列島の主人公であり続けた。生活のベースは狩猟採集にあるものの、焼畑によってイネや雑穀なども栽培していた人びとである。


弥生人の渡来


 弥生時代の渡来人は大陸の様々な地域からやってきている。北部九州から出土している人骨集団の中には朝鮮半島北部の新石器人と近い関係にあるものもあり、山口県土井ヶ浜遺跡の出土例では、中国江南地方における人骨集団との関係が指摘されている。弥生時代前期末~中期にかけての人骨には切り傷などの殺傷痕が目立つ。ただ、殺傷痕の所見が、主に渡来系と考えられる形質を有する集団で確認されていることから、抗争は渡来系同士の間で行われた可能性が高い。渡来人たちが日本列島の縄文文化に持ち込んだものは、稲作技術の他に、紡織技術、ブタなどの家畜、農耕の祭り、銅や鉄といった金属器など多岐にわたる。それらに加え、戦乱を経験してきた渡来人たちは、武器や環濠集落といった「戦争の思想」ももたらした。ちなみに、弥生時代早期の福岡県新町遺跡出土例では、このような殺傷痕は確認されていない。

弥生時代の人びとは必ずしも均一的な集団だったわけではない。例えば、福岡市博多区の板付遺跡のすぐ東にあり、BC2世紀~紀元後2世紀まで約400年にわたって使用された弥生人の共同墓地の跡である金隈かねのくま遺跡では、高顔(面長)と低顔(四角・丸顔)の個体が入り混じっている状態が確認されている。石灰石の台地であるため多くの人骨が残った。平均身長は男性162.7センチ、女性151.3センチで、縄文人と比較すると顔が面長で彫が浅く(扁平)背が高い。山口県の土井ヶ浜の弥生人と同じタイプであるが、金隈は甕棺かめかんを用いるが、土井ヶ浜は全く用いないので、渡来元が違うと思われる。土井ヶ浜は箱式石棺せきかん墓である。これらの様相から見る限り、当時、在来系の集団と渡来系の集団は緩やかに混じり合い、そこには抗争の痕跡を見出すことはできない。同じころ、長崎・熊本・佐賀の西北九州タイプは広顔・低身長・高い鼻・彫が深い縄文系である。鹿児島南部・種子島は低・広顔で著しく低身長であり、この地域の縄文人の特徴を表している。


[土井ヶ浜遺跡]

 響灘沿岸の山口県下関市土井ヶ浜遺跡から約300体の埋葬人骨が発見された。その土井ヶ浜遺跡はじめ、響灘沿岸から北部九州沿岸部にある弥生墓地の人骨を調べた結果によると、男性の身長は162~163センチ、女性は150~152センチ、顔は上下に長い面長で扁平顔、眼窩がんかは丸みのある縦長で、眉上は隆起がなく平らである。一方、西日本の縄文人は男性の身長は160センチ、女性は148センチと背が低く、顔は幅広く上下に短く、眼窩は角ばった横長で、眉の上は隆起するなど、両者の形質上の違いは大きい。最近では伊勢湾地域でも高身長の弥生人骨が確認され、また朝鮮半島南部の古代人も男性の平均身長が163センチと高身長であったことが分かっている。朝鮮半島からの渡来者が水田農耕文化の導入に大きな役割を果たしたことは疑いない。高身長の形質は北部九州・本州西部以外には広く及んでおらず、大半の地域では在来の縄文人が新しい水田農耕文化を受け入れて弥生人に転じたと見るべきである。


 では、最初の弥生人はなぜ日本列島にやってきたのか?それは寒冷期における人の動きと対応している。寒冷期はBC900年ごろに始まっている。また、中国ではBC770年に周が滅び、春秋時代が始まっている。この寒冷期と中国の時代の転換期に朝鮮半島あるいは中国大陸沿岸部の農耕民の人びとは、耕作適地を求めて日本列島に移住し始めたと考えられている。特にBC850年~BC700年ごろは、最も寒冷化し、長期化した時期であり、福岡平野など北部九州で畦畔けいはん水田が造成され、丘陵地から沖積地へと遺跡の中心が移動する段階でもある。もともと縄文人の人口が少なく、朝鮮半島から最も近く、しかも農耕適地であった福岡平野を中心とした地域で「渡来的弥生人」の形質はできあがったと考えられる。福岡平野地域で混血した集団が「渡来的弥生人」として人口を増加させ、そして四方に拡散していき、さらに各地の在来集団と混血することにより、各地で弥生人の形質を作っていったと考えられる。最初の拡散先は、佐賀県北部、熊本地方、大分地方、山口から島根の日本海側、山口・愛媛・広島・香川・岡山の瀬戸内沿岸までである。BC200年ごろまでには到達していたと考えられる。これらの地域が最も早い移住先である。さらに数十年のうちに濃尾平野に達した。しかし、「渡来的弥生人」の人びとの急激な拡大はそこでストップした。なぜなら、その東にはブナ・ナラなどの落葉樹林の豊かな森に住んでいた縄文人がいて、「渡来的弥生人」は容易に入り込むことができなかったからである。再び「渡来的弥生人」の人びとが東、特に関東地方に進出しはじめたのはBC100年ごろからとなる。「渡来的弥生人」の拡大は征服ではなく、土着の縄文系の人びとと協力しながらの開拓であった。弥生文化とは縄文文化プラス渡来的弥生文化である。縄文文化が渡来的弥生文化に塗り替えられなかったからこそ、日本列島の文化は中国や朝鮮半島とは異なる独自の道を歩むことができたといえる。


 頭蓋とうがいと顔の計測値の変異による人の流れという考察がある。それによれば、西日本の弥生人の男性は、縄文・弥生時代に相当する時期の、中央アジアや北方アジアの人びとと非常によく似ている。それは、シベリア・バイカル湖起源説を支持している。一方、西日本の弥生人の女性は、男性と異なり、同じ西日本の縄文人に最も似ていた。男女でその起源が違うという結果が出ている。それは、弥生時代に海峡を渡り、見知らぬ島に上陸するのが非常に危険であったことを考えれば、男性だけが重層的にやって来たとしか思えない。

 日本人とは単一でなく、実に多様な人びとの集団である。日本列島には3万年前ごろから1800年前ごろ(紀元後2~3世紀)まで、北から南から幾重にもわたって人びとが渡来し、多種多様な生活文化を築き残していった。少なくとも、魏志倭人伝に記載されている後漢の桓帝・霊帝の時代(146年~189年)に起こった倭国乱の時代の前までは大きな争乱もなく、縄文人と弥生人は共生し、そして混淆して、気候変動に翻弄されながらも栽培作物の安定化を実現し、徐々に人口を拡大していった。それは、日本は海に囲まれた極東の島国であり、森に覆われて、山が多く、大きな平野や平地が少なく、地勢的に他民族からの侵略にさらされにくかったことも幸いしている。そして、邪馬台国の時代と呼ばれる3世紀後半には西日本を中心にして総人口130万人を有するようになった。九州から山陰・瀬戸内・近畿・北陸・東海地方までの日本列島の西側の人びとは朝鮮半島南岸の人びととともに、総じて倭人と呼ばれ、畿内にヤマト王権が成立するまでは主役であった。


【コラム】日本列島における人口推移

 どのような人びとが日本列島へ流入してきたかがわかったところで、縄文時代から弥生時代、さらに古墳時代・飛鳥時代・奈良時代にかけての人口の推移をみてみる。

 日本列島の人口は1万2000年前の氷河時代の終わりから順調に増加し、4500年前の縄文中期末に頂点に達した後、急速に減少した。そして弥生時代になると再び増加に向かった。歴史人口学が専門の鬼頭宏(上智大学教授)による試算によれば、縄文時代の人口は縄文早期の2万人ほどから始まり、縄文中期末の最盛期に26万人ほどに達していたようだ。縄文中期の人口分布は95%以上が、ブナやナラが代表する落葉広葉樹林帯のドングリが豊富な東日本で、なかでも中部・関東に集中している。冷涼な気候が緩和された縄文中期初頭(5500年前)から縄文中期後葉(4700年前)にかけて、かってないほどに人口が増加し、青森の三内丸山さんないまるやま遺跡(5500年前~4000年前までの約1500年間)に代表されるように、縄文中期末葉から縄文後期前葉まで続く拠点集落が各地に出現した。しかし、繁栄した縄文中期に26万人ほどだった日本列島の人口は4000年前の急激な寒冷化(3~4度の気温低下)により4000年前~3200年前には16万人、縄文晩期となる3200年前~2800年前には7万6000人へと落ち込んだ。なかでも、中部山岳地帯から関東内陸部が壊滅的で人口が半分か三分の一になってしまった。三内丸山も4000年前以降クリ栽培が難しくなり崩壊した。寒冷化による海退は谷を埋め平野を作った。そこで人々は新たな食料獲得の技術と知識を磨いた。その一例は共同作業のための流水を利用したトチのアク抜き施設であり、カタクリなどの根菜類からのでんぷん取りである。この技術は水田稲作が伝わったとき大いに役に立ったと考えられる。そして、冷涼な気候であったこの時期に追い打ちをかけるように、さらなる冷涼化が2800年前ごろに起こった。これに伴い朝鮮半島から南下した水稲耕作を生業とする集団と、関東・中部・近畿から西に移動した集団とが遭遇し、文化変動が生じた。弥生時代が始まったのである。水稲耕作は日本海沿いに青森にまで北上し、縄文人にも受容された。 日本列島にクニグニが誕生した1世紀ごろになると、畑作・稲作の普及により西日本に30万人、そのうち九州には11万人、日本列島全体で60万人に達した。農耕民である弥生人は自ら増えるだけでなく、縄文人との混血を繰り返しながら人口を増加させていったのである。そして邪馬台国の時代と呼ばれる2世紀~3世紀には本格的に支配者文化が朝鮮半島から到来し、鉄の農具の普及と畑作・稲作の拡大により人口は九州を中心として急増した。鬼頭宏の試算では、女王国の総戸数を18万戸(対馬とま国から邪馬台国やまたいこくまでの8ヶ国の15万9千戸+21ヶ国の2万1千戸)、1戸当り10人で180万人、これに東日本を加えると、3世紀後半の総人口は220万人としているが、後述の「邪馬台国はどこにあったのか?」で詳しく考察することになるが、女王国の総戸数は7万戸が妥当と考える。また漢の楽浪らくろう郡の戸籍記録によれば1戸当りは6.5人であることから、女王国全体では45万人が妥当と思われる。この調整をすると、3世紀後半の人口は、女王国45万、その他九州15万、その他西日本30万、東日本40万で、総人口は130万人となる。その後、主に九州の人びとが近畿地方へ東進して古墳時代となり、さらに東国(関東・東北地方)の開拓も始まり、8世紀初頭に平城京へ遷都した直後の奈良時代の初頭には総人口は450万人に達したと推定される。そして奈良時代を経て9世紀初頭の平安時代に入るころには総人口550万人となった。


[日本列島の推定人口の変遷]

 *北陸・東海地方は東日本に含まれる。推定人口は各時代の最後の時期の数字。

                   西日本         東日本

縄文早期(12,000年~7,000年前)    5,000         15,000 

 *定住生活の開始。東日本に多いが、南九州にも居住していた。

縄文前期(7,000年~5,500年前)     9,000         96,000

 *縄文文化の成立。

縄文中期(5,500年~4,500年前)    10,000         250,000

 *縄文文化の最盛期。三内丸山遺跡には5500年前から約1500年間居住。

縄文後期(4,500年~3,200年前)    20,000         140,000

 *寒冷化のため東日本の人口が減少。西日本に照葉樹林焼畑農耕文化が伝来。

縄文晩期(3,200年~2,800年前)    11,000         65,000

 *さらなる寒冷化のため日本列島全体の人口が減少。

弥生中期末(1世紀)       30万人(九州11万人)     30万人

 *弥生人の本格的な渡来。畑作・稲作の伝播と普及。

  西日本各地にクニグニが誕生。

弥生後期末(3世紀後半)     90万人(九州60万人)     40万人

 *邪馬台国時代。支配者文化が朝鮮半島から到来。

  朝鮮半島南部の加耶と北部九州が一つの文化圏を構成。

  鉄の農具の普及と畑作・稲作の拡大。

奈良時代初頭(8世紀初頭)       258万人        193万人

 *古墳時代・飛鳥時代を経た直後の時期。畿内に王権が誕生し発展。

  さらに東国(関東地方)へ進出。

  その後律令制が始まり、倭国が飛躍した時代となる。

平安時代初頭(9世紀初頭)       321万人        230万人

 *奈良時代を経た直後の時期 。律令制の本格的な展開。 



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