第4話 概観:旧石器時代・縄文時代・弥生時代

 さて、日本列島における旧石器時代と、それに続く縄文時代、弥生時代はどんな時代だったのだろうか、それを概観してみる。弥生時代中期前半のBC2世紀ごろまでには、倭人と呼ばれた人びとは九州から山陰・瀬戸内・近畿・北陸・東海地方までの日本列島の西側に定住し、素朴ながらも独自の文化を確立していた。中国大陸から朝鮮半島を経由して伝播してきた先進文化をともなって、朝鮮半島南岸地域の人びとが渡来する、いわゆる支配者文化の人びとが日本列島に移住するのはこの500年後のことである。


 1)前期旧石器時代(5万5000年前~3万5000年前)

 日本列島における旧石器時代は5万5000年前から約4万年続いた。人類が日本列島に足を踏み入れたのは3万8000年前ごろと推定される。ちなみに、阿蘇山の大規模な噴火は9万年前ごろの出来事だった。

 2)後期旧石器時代(3万5000年前~1万5000年前)

 日本海の海洋環境は、5万年前~4万1000年前までは日本海へ対馬暖流が比較的安定して流入していた。氷河の発達期は最寒冷期の前の4万1000年前~3万5000年前と考えられる。当時、北海道はサハリンとつながった半島であり、その南には現在の本州・四国・九州がつながった古本州島であり、その南に古琉球列島があった。対馬海峡と津軽海峡は存在していた。4万1000年前以降、対馬暖流の流入が間欠的となり、3万3000年前には対馬陸橋が形成され流入しなくなり、寒冷・乾燥気候が確立し、1万5000年前まで続いた。日本海は大きな湖のようになり、黒潮ははるか南方を流れていた。この時期の環日本海の南側の地域は東北アジアの大陸の寒い環境にいた人びとにとって温暖で海や川の幸と山の幸に恵まれたオアシスのような場所であったと思われる。世界的な寒冷期のピークは2万5000年~1万8000年前であり、海面が現在より120~130メートル低下していた。この時期瀬戸内海は陸地化した。津軽海峡を通って親潮は流入していたが、津軽海峡には一時的に氷の橋が形成されていたと思われる。ちなみに現在の水深は対馬海峡の最深部は120メートル、津軽海峡は133メートル、宗谷海峡は55メートル、間宮海峡は12メートルである。朝鮮半島との間は陸橋となっていたか、あるいは信濃川の幅くらいの浅い海峡だったと思われる。東南アジアにはスンダランドと呼ばれる大きな陸塊が生じており、この地こそアジア系集団(南方型モンゴロイド)の拡散の中心と考えられる。沖縄からは1万7000年前の港川人が見つかっているが、縄文人とは形態が異なり、インドネシアのジャワ島で発見された先史時代人のワジャク人と骨の形態的特徴が良く似ている。同時代の周口店人(中国河北省)とは形の上で大きく異なる。中国大陸・台湾の沿岸ルートも含め南から日本列島に移動してきた人々がいた。港川人もそうした海の民の集団の一つだったと考えられる。

また、2万7000年前の鹿児島湾北部の姶良あいらカルデラの噴火は日本の先史・歴史時代を通じて最大規模であり、日本列島全域の環境を急変させたほど破壊的であった。シラス台地(姶良丹沢火山灰層)はこのときに形成された。この噴火によりその後200年間は寒冷・乾燥気候が継続した。この直後に浅間山と富士山も活動を強めた。群馬県岩宿いわじゅく遺跡から3万年~2万5000年前の黒曜石のナイフ形石器・石槍が発見されている。

 3)縄文草創期(1万5000年前~1万2000年前)

 日本では1万5000年前の氷期から間氷期への気候変動が最も激しかった。日本海では1万8000年前から温暖化し、1万6500年前に湿潤化のきざしがみえ、1万5000年前に積雪量の増加がはっきり認められた。1万年前以降、日本列島の気候はさらに湿潤化する。日本海への対馬海流の本確的流入期は8000年前であり、7000年前には瀬戸内海の水位もほぼ現在に近い状態に達した。1万2000年前頃に始まる日本海側の積雪量の増加は、気候の温暖化により海面が上昇し、対馬暖流が日本海に流入したことが原因である。

1万5000年~1万1500年前は晩氷期と位置づけられ、バイカル湖周辺の細石刃文化とともに大陸北方の寒冷な草原地帯からアルタイ諸言語の祖語を話す人々が日本列島に住み着いた、彼らが初期縄文人になる。その晩氷期に日本の縄文文化はドングリのなる温帯の落葉広葉樹林の森の文化として出発した。そして土器文化を持った人々が現れる。青森県大平山元おおだいやまもと遺跡から発掘された世界最古の土器(1万5000年前)がそれを証明する。その他に鹿児島・長崎・新潟・福岡などでも土器が出土している。

 4)縄文早期(1万2000年前~7000年前)

 最後の晩氷期と言われているのがヤンガードリアス期 (1万2800年前~1万1500年前)であり、海面は現在より45~50メートル低かった。しかし、その後の温暖化で日本海の海面は9000年前には急上昇した。隆帯文りゅうたいもん土器は1万1000年前の桜島噴火による火山灰の下から出土する。

日本で最も古い犬の骨は縄文初期の9400年前のもので、横須賀の貝塚から出土している。縄文人は犬をかわいがり、死後は埋葬した。日本へは南方アジアの古い型の犬が先に入り、その後朝鮮半島から新しい犬が入ってきて混血した。

7300年前の縄文時代に薩摩半島の南にある「鬼界きかいカルデラ」が大噴火を起こし、上空3万メートルの成層圏にまで達した大量の火山灰は遠く東北地方にまで飛散した。南九州一帯は60センチ以上の厚さの火山灰で埋めつくされた。その地層の下から定住集落である9500年前の上野原遺跡が鹿児島県国分市で1997年に発見された。この遺跡は南九州が日本列島の中で他に先駆けて定住生活を営み、高度な精神文化が発達していたことを物語っている。南九州の繁栄の頂点は7500年前である。縄文文化は東日本が発祥地と考えられてきたが、鹿児島や宮崎などでの遺跡の発見は驚きだった。南九州の縄文文化の特徴として、まず丸木舟を作るための最古の舟作り道具である丸ノミ形の石斧がある。丸ノミ形の石斧は5000年前のものがフィリピンの島で発見されている、また現在でもフィリピンの少数民族が丸木舟を作るためのノミと形状が同じである。そして石蒸し焼き炉の集石遺構はポリネシアなど南太平洋の島々で見られる調理施設とそっくりである。また、上野原遺跡の7500年前の地層から巨大な「壺型土器」が大量に出土している。これは栽培とは未だ断定できないが、ヒエ・アワ・ハトムギなどの雑穀類を貯蔵するためと考えられる。

 5)縄文前期(7000年前~5500年前)

 6500年前~5000年前の世界の気候は現在より年平均気温が2度ほど高かった。日本列島では、5800年前に再び一時的な寒冷期に向かうと縄文文化の中心は中部・関東から東北地方に移った。冷涼・湿潤化による沖積上部砂層の発達と海退は内湾型社会から内陸型社会への転換をもたらした。中国の東北地方でも農耕・牧畜・狩猟が互いに補完しながら発展・繁栄した。

縄文前期から中期は縄文文化の高揚期である。特に、関東甲信地域には遺跡・竪穴住居跡の数、すなわち人口が急激に増加している。関東地方では、気候が温暖化し、縄文海進が始まる縄文早期末から前期前葉に大きな拠点的環状集落が沿岸部に出現した。その後5800年前をピークとする一時的な冷涼な気候に伴う海退により沿岸部の大集落は姿を消すが、替わって豊かな落葉広葉樹林に恵まれた内陸部に、墓域をもつ中央広場を中心に掘立て柱建物・竪穴住居・貯蔵穴が同心円状に配置された大きな環状集落が登場した。東北地方でも、北緯40度線を境に、北に円筒式土器分布圏、南に大木式土器文化圏が形成された。

西日本にあたる福井県鳥浜貝塚では、縄文草創期から早期にかけてクリ・ドングリなどの野生食の採集が行われ、早期になるとトチノキを利用していた。縄文前期の6000年前になると照葉樹林を破壊し、クワ科・エゴマ・シソ・ヒョウタン・ゴボウ・ウリ類なども出現してくる。これらの栽培農耕が狩猟採集とセットになっている。鳥浜貝塚の調査から、縄文人は春には山菜や貝を、夏には魚・貝類を、秋には木の実を、そして冬にはイノシシ・シカなどの狩猟を主として行う、季節のリズムを核とした自然人間循環系の生活様式をすでに確立していたことが明らかになった。この鳥浜貝塚においては、縄文前期に入ってからの照葉樹林(常緑広葉樹林)の進出は文化・生活に大きな影響をもたらした。そこには南方からの新しい文化を持った人びとの移住もあったと思われる。日本での縄文海進は5500年前に頂点に達した。海面は現在より数メートル高く、関東平野の奥深くまで水面が広がり、内湾沿岸には干潟が拡大し漁業の発達を促した。 定住化と人口増加がみられる。

 6)縄文中期(5500年前~4500年前)

 焼畑によるアワ・ヒエ・ソバの栽培がみられ、 八ヶ岳山麓の勝坂式土器、新潟県を中心とした火焔かえん型土器が出現した。縄文時代中期に揚子江南部が原産地の山芋や里芋の栽培が石斧や土器と共に西九州に伝播し、東日本に広がった。 里芋は稲作が普及する前に主食物の位置を占めていたと考えられる。縄文時代のイネは焼畑による熱帯ジャポニカ米で、それは縄文前期の6000年前から縄文中期の5000年前にさかのぼる。

冷涼な気候が緩和された5500年前から4700年前にかけて、かってないほどに人口が増加した。青森の三内丸山さんないまるやま遺跡は5500年前から4000年前までの約1500年間存在した。三内丸山遺跡に代表されるように、縄文中期から縄文後期前葉まで続く拠点集落が各地に出現し、産地が限られる黒曜石・ヒスイ・南海産貝殻などの貴重品や様々な情報の交流ネットワークの要となっていた。1万年前以前に人類が魚や貝などの海産物を食用とした痕跡は世界的に極めて少ない。そうした中で時代は少し下るが、三内丸山遺跡からは多量の魚骨や釣針・モリ先などの漁具が出土し、網を使っての漁業も行われていたと考えられる。また、三内丸山遺跡の建築材はほとんどがクリ材で、六本柱の巨大建築物の柱は直径1メートルと太い。集落の近くにクリ林があり、クリの管理栽培が行われていた。縄文前期以降の東日本では、野生種を管理・栽培して、定住集落の周辺にクリやウルシの人為的な森を作り出し、積極的な植物利用を行っていた。ダイズやアズキなどのマメ類も栽培していた可能性もある。その繁栄ぶりは、地域共同体が競って製作した火焔土器や縄文のビーナスなど、縄文中期の土器や土偶の過剰な造形に表れている。

 7)縄文後期(4500年前~3200年前)

 後期に入ると、再び4300年前をピークとする冷涼な気候が始まり、植物性食料が減った縄文後期・晩期に縄文人は大きな集落を構成するだけの人口を維持できなかった。祭祀的遺構が残る台地上を離れて分散し、小河川流域の低地に移って小さな集落を形成した。食料は魚介類とシカ・イノシシなどの陸獣類、及びトチの実などの植物であった。旧河川跡に、トチの実のアク抜き作業に使われた多くの水場遺構が残されている。長く続いた三内丸山遺跡も4000年前に終焉を迎えた。トチの実などの処理場跡や、赤・黒彩色のウルシ製品・木製品・樹皮製品・編組製品などの遺物を豊富に出土する低湿地遺跡が各地にみられる。中日本では、文化の中心は中部山岳地帯から関東南部に移り、磨消文様の土瓶など製造技術の向上が見られる。北海道沿岸部では、縄文中期後半~後期初頭の気候変動に伴う植物性食料の減産を補填するため海獣狩猟が重要な生業としての地位を確立した。一時的には、4000年前~3800年前には縄文再海進があり、対馬暖流も高水温であった時期もあったが、長続きしなかったようである。

 8)縄文晩期(3200年~2800年前)

 弥生の小海退(3500年前~2000年前)が始まり、海退のピークは2000年前で海面は現在より2~3メートル低かった。文化の中心は再び関東から東北、特に青森に移る。この社会が不安定化した時期に、環状列石などの集団墓や柄鏡形敷石住居が登場し、屋内埋め甕や石棒祭祀の活発化など、呪術・儀礼的要素が顕著になった。晩期の精製土器は関東・中部から近畿地方にまで分布し、亀ヶ岡文化と呼ばれている。その晩期を代表するのが、津軽平野西南端にある亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器しゃこうき土偶である。

青森県の是川や亀ヶ岡などの泥炭遺跡からは、黒や朱でぬった各種の弓や腕輪、精巧な木製の大刀や櫛など、さらには籠にアスファルトを塗り、その上を漆で塗り固めた籃胎らんたい漆器というすばらしい遺物が出土している。また、念入りに作られた土偶・岩偶・土版・岩版・勾玉まがたま・石刀・石棒など実用をはなれた各種の土製品や石製品も豊富にみられ、東北地方一帯に拡がった繊細で美しい亀ヶ岡式土器によって代表される文化は極めて爛熟した内容を有していたことがよく知られている。生産道具としては、様々な石やじり石匕せきひ(石さじ)・磨製石斧や石錘、釣針などが発見され、狩猟やサケ・マスなどの漁撈に依存する生活が営まれていた。

冷涼な時期であった縄文晩期に追い打ちをかけるように、さらなる冷涼化が2800年前ごろに起こった。さらに沖積上部砂層の発達と海退により内湾の環境が悪化し、森林・汽水複合生態系が消失し、縄文文化が崩壊した。一方、低湿地は増加した。それを新たな生活の舞台としたのは水田稲作文化である。縄文晩期から弥生前期にかけての気候悪化に端を発した大陸での政情不安・飢饉などによって移動を余儀なくされた人々が朝鮮半島経由で渡来し、稲作農耕社会の時代の幕を開いた。これに伴い朝鮮半島から南下した水稲耕作を生業とする集団と、亀ヶ岡文化圏から西に移動した集団とが遭遇し、文化変動が生じた。

 9)弥生草創期(2800年前~2600年前)

 渡来第一波第1段階:寒冷期が始まり日本列島においても大陸からの民族移動により2700年前ごろから突然畑作イネ・ソバの栽培が始まった。水稲農耕は試行的で一般化しなかったが、孔列土器や石包丁などが朝鮮半島南部との交流と渡来人の存在を暗示する。朝鮮半島中西部錦江きんこう流域にある2800年前~2600年前の松菊里そんぐんり遺跡からは弥生文化初期とよく似た遺物が数多く出土し、大きな環濠を思わす柵列と水稲として栽培された炭化米も出土した。この水田稲作文化に伴いえんを含む中国東北部の青銅器文化からの「鏡と剣」を中心とする宗教的・政治的統合原理が日本列島に伝来してきた。

 10)弥生早期(2600年前~2500年前)

 渡来第一波第2段階:水田をはじめ、農具・磨製石鏃・石剣・壺形土器、松菊里そんぐんり型住居などが体系的に出現し水稲農耕が本格化する。渡来先は玄界灘沿岸の唐津平野周辺が主な移住先であった。松菊里型住居は朝鮮半島南部の南江・金海きめ地域と類似のものである。

 11)弥生前期(2500年前~2200年前)

 渡来第二波:鉄製の工具で加工された木製農具、青銅器の鋳型、銅剣・銅矛どうほこ銅戈どうか銅鏃どうやじり勾玉まがたま、朝鮮半島系無文土器、木製井戸枠、金海式甕棺かめかん、絹布、大麻布、などが北部九州に登場する。 

中国春秋戦国時代の長江流域を中心とする中国南部の大国であった(BC473年)・えつ(BC334年)・(BC223年)の滅亡。呉越文化の特徴は「文身断髪ぶんしんだんぱつ」である。徐福じょふく東渡の伝説はBC219年のことである。

 12)弥生中期前半(2200年前(BC2世紀)~2050年前(BC1世紀前半))

 朝鮮半島北部の平壌にえい氏朝鮮成立(BC195年)。その後、漢の武帝は朝鮮半島に四郡、楽浪らくろう郡・玄兎げんと郡・真蕃しんぱん郡・臨屯りんとん郡、を置いた(BC108年)。これにより日本列島も東アジア文化圏の中に組み込まれた。BC82年には真蕃・臨屯を放棄し、玄兎の大半も放棄して一部を楽浪郡に編入し、郡治所を鴨緑江おうりょくこう上流に移し、楽浪郡を強化した。さらにBC75年の改編では、玄菟郡の一部が楽浪郡に移され、楽浪郡は25県を擁する大郡となった。北部九州に伊都いと国、国、末慮まつら国などの古代のクニグニ(国々)が誕生し、絹織物、漆塗容器、鉄斧・鎌・やりがんなのみ銅鐸どうたく銅矛どうほこ銅戈どうか銅鏡どうきょうなどの出現、ガラス、などが登場する。


 弥生前期末から中期初頭(BC200年前後)は北部九州の弥生文化の大きな変革期であり発展期であった。そのころの北部九州各地の流域平野を見ると、弥生前期の集落が海岸部に多いのに対して、内陸部へと農業集落が進出している。農業生産が拡大し村々がどんどん拡がっていき、争いも生じるようになった。朝鮮半島との交流が再び活発化し、無文土器の出土が増大した。 BC3世紀~BC1世紀のクニグニの誕生期には、朝鮮半島から渡ってきた後期無文土器系の集団が拠点集落の周縁部に位置しながら故地との交流を通して交易を主導し、港を整備し、青銅器生産技術を移転させ、「クニ」づくりにも関与したとみられる。この時期には朝鮮半島南岸地域にも弥生人の足跡が見られる。勒島ぬくど遺跡からは弥生中期(BC2世紀~1世紀)の土器が大量に出ている。ここには北部九州のアワビおこし・外海用結合式釣針などの漁具があり、「倭の海人」の存在を示す。山陰にもそうした漁具があり、海民のつながりができていた。弥生時代の農村は海や山の生業が主体となっている。この場合、海の集落と山の集落の目安になるのが石包丁の量であり、海の集落では通常の農村の5分の1程度である。例えば、対馬ではこれまで石包丁は数点しか出土していないことから、島全体が海村といえる。

筑後の吉野ヶ里よしのがり遺跡や筑前の早良さわら平野の吉武高木よしたけたかぎ遺跡では甕棺かめかんに銅剣・銅矛・銅戈・多鈕細文鏡たちゅうさいもんきょう勾玉まがたまなどの装身具が副葬され、有力集団の中にさらに階層差が生まれた。佐賀県の姉遺跡や惣座そうざ遺跡では無文土器に伴って青銅器の鋳型が出現する。弥生中期前葉(BC2世紀)には福岡県の春日丘陵や筑紫平野に青銅器生産が集中するようになり、青銅器生産が本格的に展開し始めた 副葬品としての武器形青銅器の登場は、3種とも金海式甕棺の時期である弥生中期初頭(BC2世紀前葉)である。玄界灘沿岸地域を中心とし、有明海沿岸地域には少ない。初期鋳造鋳型ちゅうぞういがたから推定できる青銅器鋳造開始時期は弥生中期前半(BC2世紀~BC1世紀前半)である。


 13)弥生時代中期後半(BC1世紀後半~1世紀)

 中国の新(紀元後8年~23年)の銭貨である貨泉かせんは北部九州で多数出土しているが、佐賀には少ない。漢委奴国王は後漢の光武帝から印綬(蛇紐の金印)を賜った(57年)。漢のの国王、または漢の委奴いと国王と読むという二つの説がある。後漢書に国は「倭国の極南界」にあるという。とすれば、当時の倭は朝鮮半島南岸地域の狗邪くや国から北部九州の奴国までとなり、対馬海峡と玄界灘を含んだ両岸地域であったことになる。

 14)弥生時代後期前半(2世紀)

 後漢書に「倭国王・帥升すいしょう等、生口160人を献じ請見を後漢に願う」とある。後漢の安帝が13歳で即位したばかりの107年のことである。810年成立の北宋版「通典つてん」には「倭回土いと国王帥升等」とあり、帥升は伊都国王と推定される。しかし、水野祐は生口160人を献上できるのは国だけと見る。

甕棺かめかん墓盛行(紀元前後~180年)。吉野ヶ里遺跡からは、甕棺の弥生人(弥生中期)の中には頭のないもの、10個の石やじりなどが突き刺さったもの、大腿骨が折れたもの、刀傷が存在するものなど戦争の犠牲者が数多く出土。

「倭国乱」は、後漢書では後漢の桓帝・霊帝の時代(146年~189年)、梁書では漢霊帝の光和中(178年~184年)であり、卑弥呼が女王になったのは180年代後半。倭国乱は朝鮮半島からの鉄素材や先進文物の入手をめぐる主導権争いであったといわれる。中国・朝鮮・日本を含む東アジアでは2世紀後半から寒冷化、洪水、川の氾濫が急増した。そういう時代に倭国乱が起こり、邪馬台国が出現した。後漢の黄巾の乱(184年~192年)もこの時期である。後漢書に鮮卑せんぴが吉林省西部の倭人国を撃った(2世紀後半)とある。

 15)弥生時代後期後半(3世紀)

 弥生後期後半には、各地の有力首長は、それぞれ地域色の強い相当規模の墳丘墓を営むようになる。北部九州・南九州・吉備・山陰・丹後・北陸・近畿中央部・河内・濃尾平野など各地で地域的な政治連合が現れ始めた。箱式石棺墓・土壙墓の盛行(180年~250年)。邪馬台国時代で、卑弥呼の時代でもある。 

後漢滅亡(220年)、後漢を滅亡に導いたのは賊臣と悪評されたのは董卓とうたくである。董卓は189年の霊帝の死後即位した少帝を5ヶ月で廃位し、わずか8歳の劉協りゅうきょうを献帝として擁立した。董卓が公孫たくを遼東太守に任命したのはこのときである。翌年の190年には都を長安に移した。192年に部下の呂布りょふに殺されるまで実権を握っていた。 

204年、公孫こうが楽浪郡の南部を分割して帯方郡を作った。韓と倭は帯方郡に属した。魏と呉の対立の最中に倭国(卑弥呼)は帯方郡に遣使し、公孫氏からその地位を承認されていた。公孫氏が三代にわたり楽浪郡・帯方郡を支配(189年~238年)。三国志の記事は230年に呉の武装兵士1万人が州(台湾)とたん州(南九州と推定)を訪れ、233年には公孫氏の遼東に赴いている。当時、呉は馬80頭を乗せる船を持っていたとされるが、1万人や80頭は誇大と思われる。魏の司馬懿しばいにより公孫氏滅亡(238年)、馬韓の統一(260年)、蜀の滅亡(263年)、魏の滅亡・晋の建国(265年)、呉の滅亡(280年)と続き、中国・朝鮮半島では激動の時代であった。

卑弥呼の第一次遣使(238年)、第二次遣使(243年)、女王国連合と狗奴くな国(熊本地方)との戦が始まる(247年)、卑弥呼死去(248年)、卑弥呼の後継者台与は魏から変わった晋に朝見(266年)など、西日本でも大きな動きがあった。

3世紀後葉は古墳発生期にあたる。古墳時代前半の土器は弥生土器の系統を継ぐ固有の土師器はじき、墓制は竪穴式石室である。土師器は薄手の赤褐色素焼きで、精製粘土を用い滑らかで、丸底薄手に仕上げらている。主に煮炊き用である。弥生土器が強い地域色を示すのに対し、土師器は全国で共通した器形のセットが用いられ、古墳の出現と密接な関係を持つため、単なる日常の器ではなく、政治性を持つ土器であると評価されている 焼成温度は800℃ほどで、青銅器の鋳造を可能にする温度でもある。この時期の加耶かやの中心部は金官加耶(金海きめ地域)で、そこの鳳凰台ぽんふぁんで遺跡では3世紀後半から4世紀の土師器(煮炊き用甕など)が出土している。鳳凰台遺跡は金官加耶の交易港であった。また、釜山の東萊とんね貝塚からも土師器がたくさん出ており、加耶地域には多くの倭人が居住していた。


 BC1世紀ごろには、北部九州だけでなく、西日本各地でクニと呼べるような政治的まとまりが形成されはじめていた。奈良県の唐古からこかぎ遺跡では環濠集落が大型化し、奈良盆地を領域とするクニが成立していた。大阪府の池上曽根遺跡や名古屋市の朝日遺跡などの大環濠集落もクニといえる拠点であった。山陰では、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる四隅を突出させた特異な方形墳丘墓が、弥生中期後半(BC1世紀後半~1世紀)に広島県北部の中国山地や出雲で出現して、山陰に濃密に分布するようになり、北陸の一部にまでおよぶ。弥生後期後半の2世紀後葉から3世紀後葉にかけてもっとも大型化する。この地域では主要平野の有力集団を中心に、それぞれクニを形作っており、さらに政治的な連合関係を結んでいたと思われる。弥生後期後半(3世紀)には、各地の有力首長は、それぞれ地域色の強い相当規模の墳丘墓を営むようになる。北部九州・南九州・吉備・山陰・丹後・北陸・近畿中央部・河内・濃尾平野など各地で地域的な政治連合が現れ始めた。

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