第3話 倭人の誕生 

 日本の弥生時代中期・後期から古墳時代にかけて、大陸には強大な中国の統一王朝のかんしょくの三国時代、50年ほどの短命な統一王朝のしんを経て五胡十六国と南北朝時代、そして再び強大な統一王朝のずいとうがあった。これらの時代、中国の東側に位置する東夷の世界は強大な中国に対するあこがれと恐怖のなかで如何に生き残るかの歴史であり、そこでの国境は容易に変えられるものであった。倭人とは、BC8世紀に弥生時代が始まってから、663年の白村江はくそんこうでの大敗、その後の律令制の確立までは、朝鮮半島南岸地域と、九州から中国・四国・近畿、そして北陸・東海地方を含めた西日本に居住していた人びとの集合体であり、対馬・壱岐・沖ノ島はその倭人たちの交通の要所であった。そこには部族連合をまとめるための象徴的な倭王がいた。663年の白村江での大敗後、朝鮮半島南岸地域に居住していた倭人の支配者層は朝鮮半島から追い出されてしまった。しかし、その後も日本列島の倭王は、倭人たちが高貴な血筋を受け継ぐ家系と認めた人たちの中から選ばれた人でなければならなかった。なぜだろうか?そこには、明治維新から太平洋戦争での敗戦までの日本の姿が重なって見える。その時代、日本は強大な欧米へのあこがれと恐怖のなかで如何に生き残るかの歴史であった。欧米の帝国主義の世界では国境は変えられるものであった。敗戦により日本は明治以降に獲得した樺太南部・台湾・朝鮮・満州を失った。それでも、敗戦後の日本は天皇制を維持することを選択した。それをアメリカも認めた。なぜだろうか?この疑問への答えは倭王の系譜をたどることによって見出すことができると考えている。

 500年ごろに継体けいたいが登場する以前の倭王の時代の歴史資料には限りがある。魏志倭人伝や三国史記などの中国や朝鮮の文献、広開土王碑などの金石文、それに日本の古事記・日本書紀(以下、記紀ききという)などしかない。特に記紀は、倭国が朝鮮半島から追い出され、故地である加耶かやの復興の望みも絶たれた7世紀後葉になってから構想されたため、朝鮮半島での真の倭の歴史が抹殺され、あたかも日本列島内だけで、天照大神あまてらすおおみかみの直系裔孫の倭王が覇権を握り、その倭王の血筋は現在に至るまで一系であるという万世一系の概念を基として書かれている。したがって、中国・朝鮮の文献や金石文きんせきぶん、そして考古学的な史料などを慎重に検討して、記紀の内容を検証することが不可欠である。現代の歴史家の多くはこのような姿勢で論文を書いていると信じるが、明治時代から太平洋戦争終結までの極端な記紀重視の影響は今もなお少なからず歴史研究者のなかに存在していると思わざるを得ない。先進文化や文物および技術は高いところから低いところへ流れる、そして人びとは身の危険を感じれば、より安全な土地を目指して移り住むものである。このような観点から倭王の系譜をみていきたい。

 この系譜のなかでは、天皇の名称を便宜上漢風諡号しごうで表している。理由は、和風諡号では長いうえ覚えにくいからである。天皇の漢風諡号は8世紀中頃に聖武天皇以前の天皇の分を一括して定めたものである。したがって、記紀には用いられていない。701年の大宝律令の公式令に規定され、持統じとう天皇からつけられたとの説もある記紀の和風諡号しごうは7世紀初頭の推古すいこ天皇時代に原型は成立しており、記紀では和風諡号のみである。


 古事記・日本書紀における高天原たかまがはらの話は支配者文化の物語である。日本では先進地域からもたらされた文化を支配者文化と呼んでいる。支配者文化をもたらした人びとと、先史時代、縄文時代、そして弥生時代中期までに日本列島に住んでいた人びととは異なる。

では、BC108年の漢の四郡(楽浪らくろう臨屯りんとん玄菟げんと真番しんぱん)設置の頃の先進文化とは何だったのだろうか。それは、青銅器・鉄器・馬を利用した強大な武力と高い農業生産力、漢字による文書行政と官僚統治による農民支配、諸子百家しょしひゃっかと呼ばれる思想家による国家戦略、金属貨幣による貨幣経済、塩・鉄の国家による独占販売による富、そして皇帝を頂点とした専制統一国家体制である。もちろん当時の朝鮮半島南部や日本列島にはそんなものは何もなかった。わずかにあったのは、朝鮮半島北西部の楽浪郡や中国東北部からもたらされた青銅や鉄の素材とそれらの製品のみであり、しかも少量であった。当時、楽浪郡の有力者一族の誰かが、どんな理由であれ自分たちの部落に来てくれれば、それこそ神として崇めたに違いない。それほど圧倒的な文化力・組織力・技術力・武力の差が漢帝国との間にはあった。中国人は朝鮮半島南岸地域および日本列島の西日本沿岸地域の住民を古くから「倭人」と呼び、その特色は航海に長け、漁撈活動を得意とする海人あまである。その呼称はしだいに朝鮮半島南岸地域および日本列島に住む人びと全体を指すようになった。


 それでは、日本列島に住んでいた弥生時代の倭人とはどのような人びとだったのだろうか? それを語るには日本列島の旧石器時代から話を進める必要がある。

その前に、現代の日本人の身体的な特徴と地域による違いを確認しておく。それを見るには格好の調査結果がある。文化人類学者の多賀谷昭による「生体計測値(身長・肩幅・頭長・頭幅・頬骨弓幅・顔面高)からみた日本列島の地域性、3世代以上住み続けた住民における昭和25年から10年間の調査」である。現在の身体的な特徴の地域分布は戦後の高度経済成長以来、多くの人びとの移動により日本人の間の混血がより進んでいるが、戦後すぐのころのデータは非常に貴重である。それによると、

・縄文系と呼ばれる人びとの特徴は、身長や顔高に比べて肩幅や頭長が大きく、がっしりとしている、エラの張った四角い顔で彫が深く、低身長だが手足が長い、歯は小型で歯冠や歯根の形が単純で前歯の裏は平ら、大臼歯きゅうしと小臼歯の大きさにかなりの差がある。これらの特徴を持った人びとが最も多いのはアイヌと奄美・沖縄であり、次に多いのは南九州・東北・北陸である。

・弥生系と呼ばれる人びとの特徴は、身長のわりに肩幅が狭く、頭長の割に顔高が大きい、面長で短頭ですらりとしているが、面長扁平へんぺい顔で、高身長だが胴長短足、歯は大型で複雑な形で前歯の裏がシャベル型。これらの特徴を持った人びとが最も多いのは近畿と中国地方東部である。

 この調査の結果は、弥生人的な身体的特徴をもつ人びとは近畿地方を中心として同心円状に分布していることにある。その地域性は言葉やその他の文化的要素と同様である。外因は渡来人の影響であり、内因は都市化により遺伝的な違いを持つ多くの人が集まり混血したことによる遺伝的多様性が考えられる。近畿と中国地方東部の人びとは弥生系が強く、その他の地域の人びとは、程度の差はあるが、近畿地方を中心とした同心円状に縄文系と弥生系とが混血しているということである。一方、アイヌと奄美・沖縄の人びとには縄文系が強く残っている。身体的な特徴にもう二つ加えるとすると、一つは、目は二重まぶたで丸いのが縄文系で、一重まぶたで細いのが弥生系。二つ目は、男性の髭や体毛が多いのが縄文系、少ないのが弥生系である。最近の韓流スターといわれる韓国の男優には髭が濃い人はほとんどいない。一方、日本の男優には鬚が濃い人はかなりいる。縄文系の血を引いているからである。

 また、多賀谷昭による「生体計測値」の佐賀県の若者のデータを日本以外の地域と比較すると、中国北部 35.1%、朝鮮半島 22.0%、中国南部 28.3%、インドシナ 9.6%、南太平洋 5.1%となり、半数近くが平均的な日本人より他の南アジア集団(中国南部・インドシナ・南太平洋)に近かった。佐賀県は福岡県とともに最も早くから水田稲作が到来した地域であり、邪馬台国時代には女王国連合に属しており、先進文化も早くから受容できる立場にあった。弥生時代早期のBC800年ごろから、中国江南地方・朝鮮半島南部、さらには琉球諸島や奄美諸島から絶え間なく人びとが渡来しており、それらの地域から佐賀県を含む西日本各地への移住があったと思われる。佐賀県のデータはかなり特徴的ではあるが、このデータは、日本人がアジアの中でも最も多様性に富んだ集団であることを証明している。


 もう一つ興味深い調査がある。 2010年の日経新聞の「全国酒豪マップ」記事である。調査を担当したのは元筑波大学教授の原田勝二で、それによると、

東北・北海道・九州・四国には酒豪が多く、近畿・中部・中国には少ない。近畿地方を中心にそこから東西、南北方向に離れるほど、酒豪の比率が段階的に高くなっている構造がうかがえる。まるでU字型の谷のようだ、こんな興味深い「勢力分布図」が浮き上がる。

それは、酒豪か下戸げこかその中間かの比率を示す数字なのだそうだ。つまり、日本人全体の60%が「酒が強い酒豪」、35%が「そこそこ飲めるがあまり酒には強くない中間派」、そして残りの5%が「酒がまったく飲めない下戸」という比率になるという。

この「勢力分布図」から読み取れる仮説は、「もともと日本人は酒が強い酒豪ばかりだったが、中国大陸からやってきた渡来人によって酒に弱い遺伝子が日本に持ち込まれた」というものだ。この遺伝子は、今から3万~2万5千年ほど前に中国南部あたりで突然遺伝子が変異し、酒に弱い下戸が生まれたと推定されている。

日本に支配者文化をもたらした渡来人は中央権力のあった近畿地方を目指して、北部九州から瀬戸内、中部などに多く移り住んだ。このため「移動ルート」にあたる地域には下戸が増えた。逆に、この「移動ルート」から離れている北海道、東北、九州南部、四国南部には、結果として下戸の遺伝子があまり入り込まず、もともと酒に強い酒豪が数多く残ったというわけである。


 現代の日本列島おいて弥生人的な身体的特徴をもつ人びとが近畿地方を中心として同心円状に分布しているということはなにを意味しているのか?それは渡来人が来た時期を考察してみれば良く理解できる。渡来人とは、8世紀の飛鳥あすか時代以前に、主に朝鮮半島から日本列島へ移住してきた人びとである。BC8世紀以降、弥生人と呼ばれる人びとが幾重にもわたって中国大陸から主に朝鮮半島経由で九州各地や山陰地方、さらに関東以西の日本列島に渡来してきた。その渡来のピークは四段階あるといわれる。 

 1)BC8世紀からBC6世紀までの弥生時代の草創期および早期。その多くは水田稲作を持込んだ人びとで、その後の鉄器の伝来による農業生産力の増大により人口が増加し、2世紀までには九州から東海地方にまで広がり、在地の縄文人と混血し、倭人を形成した。考古学においては、弥生文化の伝播は遠賀川おんががわ式土器(北部九州では板付Ⅱaと呼ばれる)を指標として語られる。北部九州以東では遠賀川式土器と呼ばれ、農耕社会の成立は遠賀川式土器と環濠集落の出現をもって指標とする。それは弥生前期後半(BC4世紀後半~BC3世紀)ごろであり、中国春秋戦国時代の呉越の滅亡時期、呉はBC473年、越はBC334年、特に越と重なるため、かの地から朝鮮半島南部および北部九州への水田稲作農耕民の移住によるものと考える歴史学者は多い。ところが、近年もう少しさかのぼる時期の土器が山陰や瀬戸内地方にみられることが分かってきた。渡来的弥生人の墓地である山口県中の浜遺跡・土井ヶ浜遺跡、島根県古浦遺跡の開始時期はまさにこの時期(BC500年ごろ)である。したがって、北部九州への農耕民の移住はBC500年以前ということになる。

 2)4世紀末から5世紀前葉の応神おうじん仁徳にんとくの時代であり、いわゆる支配者文化を顕著にもたらした人びとである。その多くは朝鮮半島南部の洛東江らくとうこう下流域の加耶かや地域からの渡来である。5世紀初頭前後に南部加耶地域からの渡来人が急増しているのは、高句麗こうくりの南下政策により、百済くだらは高句麗と衝突し、新羅しらぎは高句麗と同盟して加耶諸国に圧力をかけ始めたため、百済と加耶諸国が同盟し、南部加耶の鉄素材に依存する日本列島の倭人もその争いに引き込まれていったからである。5世紀は技術革新の世紀とも呼ばれる。須恵器すえきや鉄器などの手工業生産、金工技術、馬匹ばひつ生産、土木、生活様式に至るまで、様々な文化が朝鮮半島から近畿地方を中心とした地域に移住してきた人びとによって導入された。日本列島の土着の人びとはそれを受け入れ、取捨選択し、自らのものとしていった。

 3)5世紀後半から6世紀前半の雄略ゆうりゃくから継体けいたい欽明きんめいまでの時代で、渡来系の生産技術に新しい動きが加わった。5世紀の後半から6世紀前半までの朝鮮半島激動の時代、特に国が滅亡した加耶諸国や、高句麗に攻撃され存亡の危機にあった百済から多くの人が渡来し、近畿地方を中心とした地域に移住してきた。倭国では、500年ごろにえつ(北陸)王であった継体政権が成立し、5世紀後半から6世紀中ごろに成立するはた氏やあや氏といった渡来系氏族が登場している。それは、渡来の技能をより高める組織が倭国に登場したことを意味する。これにより自立的・安定的・量的に技能者を確保し政権の工房を充実させた。あや氏の場合、6世紀以降も新たに渡来した技能者たちを今来漢いまきのあやと呼んで、氏族に組み込んでいる。

 4)7世紀後半、特に天智てんじ期とその前後の時代で、唐・新羅による百済滅亡(660年)、それに続く白村江の敗戦(663年)、唐による高句麗滅亡(668年)と続いた。滅亡した百済や高句麗から多くの亡命者が渡来してきた。このころの渡来人は百済人を中心に王族・貴族から僧侶・一般の人びとと多様であった。移住先は近畿地方を中心とした地域であるが、一部は蝦夷えみしの地であった関東地方へ農地を開拓するために送り込まれた。


 このように渡来人の歴史をたどっていくと、倭人を形成した時期である弥生時代草創期と早期を除く、4世紀末から7世紀にかけて渡来した人びとの影響により、現在の日本に弥生人的な身体的特徴をもつ人びとが近畿地方を中心として多いことがよくわかる。その人びとはまさにヤマト王権を創りあげた人びとである。1万年におよぶ縄文時代に生きた人びとは現在のモンゴロイドが誕生する前の古アジア人ともいえる人びとの集団であった。そこに弥生時代草創期と早期にイネをもった弥生人が主に朝鮮半島経由で北部九州や山陰地方に渡来してきた。しかし、渡来してきた弥生人は相対的に先住の縄文人より少なかったと思われる。それが幸いして、大きな争いごともなく比較的平和裏に移住できたと考えられている。稲作の生産力があがるにつれて先住の縄文人と新来の弥生人の混血が進み、人口も増加した。そのため、新しい稲作の適地を求めて人びとは九州から東へ移動を開始し、主に瀬戸内地方と山陰を経て、近畿や北陸・東海地方にまで急速に進出した。そこでも混血が繰り返され、いわゆる倭人が九州から北陸・東海地方までの西日本に形成された。しかし、その先には豊かな森と、川や海の幸に恵まれた多くの先住の縄文人が住んでいたため、それ以上は容易に進めなかった。関東以北の蝦夷えみしの地と呼ばれた地域への進出は、加耶地域に出自をもち、鉄の武器と農具をもった人びとが4世紀末に北部九州から近畿地方へ東進して、畿内にヤマト王権を樹立してからのこととなる。そのヤマト王権が南九州や山陰・北陸、さらに関東以北の蝦夷えみしの地へ徐々に進出し、9世紀ごろまでには九州、四国、そして本州全土を掌握した。現在、弥生人的な身体的特徴をもつ人びとが近畿地方を中心として同心円状に日本列島に分布しているのは、その延長線上にあるからである。


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