第3話 倭人の誕生
日本の弥生時代中期・後期から古墳時代にかけて、大陸には強大な中国の統一王朝の
500年ごろに
この系譜のなかでは、天皇の名称を便宜上漢風
古事記・日本書紀における
では、BC108年の漢の四郡(
それでは、日本列島に住んでいた弥生時代の倭人とはどのような人びとだったのだろうか? それを語るには日本列島の旧石器時代から話を進める必要がある。
その前に、現代の日本人の身体的な特徴と地域による違いを確認しておく。それを見るには格好の調査結果がある。文化人類学者の多賀谷昭による「生体計測値(身長・肩幅・頭長・頭幅・頬骨弓幅・顔面高)からみた日本列島の地域性、3世代以上住み続けた住民における昭和25年から10年間の調査」である。現在の身体的な特徴の地域分布は戦後の高度経済成長以来、多くの人びとの移動により日本人の間の混血がより進んでいるが、戦後すぐのころのデータは非常に貴重である。それによると、
・縄文系と呼ばれる人びとの特徴は、身長や顔高に比べて肩幅や頭長が大きく、がっしりとしている、エラの張った四角い顔で彫が深く、低身長だが手足が長い、歯は小型で歯冠や歯根の形が単純で前歯の裏は平ら、大
・弥生系と呼ばれる人びとの特徴は、身長のわりに肩幅が狭く、頭長の割に顔高が大きい、面長で短頭ですらりとしているが、面長
この調査の結果は、弥生人的な身体的特徴をもつ人びとは近畿地方を中心として同心円状に分布していることにある。その地域性は言葉やその他の文化的要素と同様である。外因は渡来人の影響であり、内因は都市化により遺伝的な違いを持つ多くの人が集まり混血したことによる遺伝的多様性が考えられる。近畿と中国地方東部の人びとは弥生系が強く、その他の地域の人びとは、程度の差はあるが、近畿地方を中心とした同心円状に縄文系と弥生系とが混血しているということである。一方、アイヌと奄美・沖縄の人びとには縄文系が強く残っている。身体的な特徴にもう二つ加えるとすると、一つは、目は二重まぶたで丸いのが縄文系で、一重まぶたで細いのが弥生系。二つ目は、男性の髭や体毛が多いのが縄文系、少ないのが弥生系である。最近の韓流スターといわれる韓国の男優には髭が濃い人はほとんどいない。一方、日本の男優には鬚が濃い人はかなりいる。縄文系の血を引いているからである。
また、多賀谷昭による「生体計測値」の佐賀県の若者のデータを日本以外の地域と比較すると、中国北部 35.1%、朝鮮半島 22.0%、中国南部 28.3%、インドシナ 9.6%、南太平洋 5.1%となり、半数近くが平均的な日本人より他の南アジア集団(中国南部・インドシナ・南太平洋)に近かった。佐賀県は福岡県とともに最も早くから水田稲作が到来した地域であり、邪馬台国時代には女王国連合に属しており、先進文化も早くから受容できる立場にあった。弥生時代早期のBC800年ごろから、中国江南地方・朝鮮半島南部、さらには琉球諸島や奄美諸島から絶え間なく人びとが渡来しており、それらの地域から佐賀県を含む西日本各地への移住があったと思われる。佐賀県のデータはかなり特徴的ではあるが、このデータは、日本人がアジアの中でも最も多様性に富んだ集団であることを証明している。
もう一つ興味深い調査がある。 2010年の日経新聞の「全国酒豪マップ」記事である。調査を担当したのは元筑波大学教授の原田勝二で、それによると、
東北・北海道・九州・四国には酒豪が多く、近畿・中部・中国には少ない。近畿地方を中心にそこから東西、南北方向に離れるほど、酒豪の比率が段階的に高くなっている構造がうかがえる。まるでU字型の谷のようだ、こんな興味深い「勢力分布図」が浮き上がる。
それは、酒豪か
この「勢力分布図」から読み取れる仮説は、「もともと日本人は酒が強い酒豪ばかりだったが、中国大陸からやってきた渡来人によって酒に弱い遺伝子が日本に持ち込まれた」というものだ。この遺伝子は、今から3万~2万5千年ほど前に中国南部あたりで突然遺伝子が変異し、酒に弱い下戸が生まれたと推定されている。
日本に支配者文化をもたらした渡来人は中央権力のあった近畿地方を目指して、北部九州から瀬戸内、中部などに多く移り住んだ。このため「移動ルート」にあたる地域には下戸が増えた。逆に、この「移動ルート」から離れている北海道、東北、九州南部、四国南部には、結果として下戸の遺伝子があまり入り込まず、もともと酒に強い酒豪が数多く残ったというわけである。
現代の日本列島おいて弥生人的な身体的特徴をもつ人びとが近畿地方を中心として同心円状に分布しているということはなにを意味しているのか?それは渡来人が来た時期を考察してみれば良く理解できる。渡来人とは、8世紀の
1)BC8世紀からBC6世紀までの弥生時代の草創期および早期。その多くは水田稲作を持込んだ人びとで、その後の鉄器の伝来による農業生産力の増大により人口が増加し、2世紀までには九州から東海地方にまで広がり、在地の縄文人と混血し、倭人を形成した。考古学においては、弥生文化の伝播は
2)4世紀末から5世紀前葉の
3)5世紀後半から6世紀前半の
4)7世紀後半、特に
このように渡来人の歴史をたどっていくと、倭人を形成した時期である弥生時代草創期と早期を除く、4世紀末から7世紀にかけて渡来した人びとの影響により、現在の日本に弥生人的な身体的特徴をもつ人びとが近畿地方を中心として多いことがよくわかる。その人びとはまさにヤマト王権を創りあげた人びとである。1万年におよぶ縄文時代に生きた人びとは現在のモンゴロイドが誕生する前の古アジア人ともいえる人びとの集団であった。そこに弥生時代草創期と早期にイネをもった弥生人が主に朝鮮半島経由で北部九州や山陰地方に渡来してきた。しかし、渡来してきた弥生人は相対的に先住の縄文人より少なかったと思われる。それが幸いして、大きな争いごともなく比較的平和裏に移住できたと考えられている。稲作の生産力があがるにつれて先住の縄文人と新来の弥生人の混血が進み、人口も増加した。そのため、新しい稲作の適地を求めて人びとは九州から東へ移動を開始し、主に瀬戸内地方と山陰を経て、近畿や北陸・東海地方にまで急速に進出した。そこでも混血が繰り返され、いわゆる倭人が九州から北陸・東海地方までの西日本に形成された。しかし、その先には豊かな森と、川や海の幸に恵まれた多くの先住の縄文人が住んでいたため、それ以上は容易に進めなかった。関東以北の
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