現在 2人のエゴ。だけど……


 それから数日、ぼくと結花は変わらず二人の元にいた。

 ぼくはパナケイアに言われたことを思い出して混乱していることもあったけど……段々と落ち着くことができた。不明瞭な理由の大災害に対して理不尽さも感じるし、その怒りをどこかにぶつけたいとも思ったけど……それより先に、考えなくちゃいけないことがあった。

 それは、この廃墟に来る前と同じ。この世界で、どうやって生きていくかだ。

 ぼくは結花を守らなくちゃいけない。そのために、どうすればいいのか。

 そこでぼくが下した判断は……無様にもほどがあるけれど、二人と一緒にいることだった。人間よりも遥かに上位の存在である二人の近くにいること。それが、一時的に生き残るにはうってつけの手段だった。

 情けないとは思っている。

 でも、ぼくは一度痛感した。自分は、なんの力も持たない無力な子供に過ぎないということを。自分が生き残るために。そして結花を生き残らせるために、誰かに頼らずにはいられないことを。

 クロノスは一応、頼めば食料は持ってきてくれるし(この二人は本当に何も食べていなくても平気だった)、この人気のない場所には、滅多なことがない限り他の人間も来ない。ただの廃墟に過ぎないけれど、まるで要塞に守られているような安心感があった。

『安全は保証できない』

 しかしパナケイアは、そう言っていた。

『私はあまり人間に干渉しないし、積極的に助ける気はない。頼まれれば可能な範囲で助けもするし、質問にも答えるけれど、予兆なくあなたたちの前からいなくなることもあるし、仮に他の神が接触してきた場合、あなたたちに構っている暇はない』

 クロノスは、

『僕も概ねパナケイアと同じ。ちょっと珍しかったから君たちをここに連れてきたけど、飽きたら別の場所へ行くつもり』

 条件というよりは、そんな忠告付きでぼくらは二人の傍にいることを許された。

 しばらくは頼るしかないとはいえ、ぼくだって無限に二人に頼り続けるつもりはなかった。

 昼間は結花を二人に任せて辺りを探し回り、別の休めそうな場所、最初のところとは違う配給所、あわよくば安全に保護を受けられそうな場所。そういったとこを探し回っていた。おかげで、あの廃墟から一時間ほど歩いた場所に、なんとか都合の良さそうな場所が見つかった。別の配給所も近くにあるし、事情さえ無闇に話したりしなければ、同じような連中に押しかけられることもないだろう。

 そして結花も……日が経つ毎に目覚ましい回復を見せている。ゆっくりではあるけど、一人で食事もできるし、軽くなら話せるようにもなっている。如何せんまだ身体の調子が悪くて、歩くのが少し覚束なかったり、フラつくこともあるけど、それもきっとすぐに治るだろう。

 全部は治せない、なんて言ってたけど、きっとそんなことない。完全回復と言うのは少し遠いけど、この調子なら半月くらいで完全に心を取り戻せるように見えた。

 それから結花は……二人の正体を知っているようだった。というのも、ぼくが昼間に廃墟を出ている時に、二人と会話をしていたらしい。心を徐々に取り戻し、話せるようになったのであれば、それも当然のことかもしれない。

 結花は心こそ壊れていたけれど、別に記憶がなかったわけじゃない。自分が眠っている時以外は、何が起きて、自分がどうなったのかをきちんと覚えている。だから、心を取り戻しながら自分が廃墟にいることに驚きはしないし、自分がパナケイアに治してもらったことも分かっている。災害の正体に関しても聞いているみたいだ。

 結花もまた、神による理不尽な災害によって人々が殺されたことを悲しんだけど、自分が救われたのもまた神のおかげなんだということに、複雑な想いを抱いているようだった。

 でも、もう大丈夫そうだった。

 結花は決して、自分の目の前で人々が死んでいくその瞬間を忘れたわけじゃないけれど、もう心を保っていられる。

 ぼくだって、全力で支えていくつもりだ。

 だから……この先もきっと、生きていけるはずだ。


 ぼくらは二人の元を離れる決意をした。

 本当は二人が自然にいなくなるまで甘えていようなんて考えもあったのだけど、それはきっと、ぼくらにとって少し辛いだろうと思ったのだ。突然二人にいなくなられたら、今まで頼ってきた分、精神的にダメージが大きいだろうと。それならば、こちらから予め心の準備をしておいて離れる方がいい。

 外気がそのまま流れてくる極寒の廃墟の中。結花を軽く支えながら、ぼくらは最後の挨拶を済ませる。

「今までありがとう。二人には、感謝してもしきれない」

 正直に言えば、少し接しづらい相手ではあったけれど。そういえば二人は神様なのに、ぼくは今まで全然敬語を使ってなかったな、なんて場違いなことを思っていた。

 そして、結花もそうだった。

 結花も一歩前へ出て、お礼を言う。

「私からも言わせて。……クロノス、いつも食べ物を持ってきてくれてありがとう。とっても美味しかったよ」

「どういたしまして」

 無表情で言うものだから、まるで感情がこもってなさそうだった。……いや、本当にこもっていないのかもしれない。神様っていうのは、人間にそこまで関心がないらしいから。

「それから、パナケイア。私の心を治してくれてありがとう。さすが神様だねっ」

「そう」

 二人はやっぱり、最後まで愛想も表情もなかった。ちょっと苦笑する。

「それじゃあね。本当にありがとう」

 何度言ったか分からない言葉をもう一度最後に言って、ぼくたちは背を向ける。

 きっとこの先、また辛くなるだろう。

 頼れる人たちを失い、ぼくたちは二人ぽっちだ。

 だけど決して、一人ぼっちじゃない。

 お互いがいる。

 それはとても小さいけれど、確かに存在する希望だ。

 だからきっと、生きていける。

 ぼくは結花を支えながら、少し不安の漂う荒廃した街を、以前よりもずっと大きな心の支えを持って、歩き出した。


 だけどその瞬間、――ぼくの首に回していた結花の右手がズルリと抜けた。

 手だけじゃない。結花の腰を支えていたはずのぼくの左手からも、その身体が崩れ落ちた。

 あまりにも唐突で予想外だったから、倒れた結花を見ながらしばらく動けなかった。

 ……だけど、次第にその口から荒い息が吐き出されていることが分かると、反射的に身体は動いた。

 すぐに膝を付き、結花の身体を抱え上げる。

「はぁ……、っ! ……はぁっ!」

「結花っ!? どうし――」

 そして、異変に気付いた。結花の首の、どちらかというと、胸元近くが、青白く染まっている。明らかに人間の肌の色じゃない。だけど、その色をどこかで見たことがあるような気がするのに、思考が回らなくて思い出せない。

 でも今はとにかく、これを治すことが先決だ!

「ね、ねぇ二人とも! 結花が大変なんだ! 治してよ!」

 目の前にいるにも関わらず、叫ぶように懇願してしまう。

 ……でも、二人は微動だにしない。まるで銅像のようにその場でぼくを見下ろしている。その視線を浴びせられて、喉がカラカラに乾いていく。

 何か、おかしい。

「それは死のミニスの進行だよ」

「死のミニス……?」

 クロノスがようやく反応した。でも、その言葉の意味が理解できない。

「パナケイアから聞いただろう? この災害を引き起こした、オーロラと“声”のことだよ」

「き、聞いたけど……。でも、なんでそんなものが今更……!」

「あの災害は、体内のミニスに反応して死に至らしめる。数多くの人間が死んだ屋外では、死のミニスの残滓ざんしが空気となって耐えず漂っていた。体内にミニスを宿す者は、その残滓が身体の中に入ることで死に至ることもある。例え最初の災害で死ななかった者でも。それの最初の兆候が、身体の一部に現れる刻印だった」

「それって……」

 思い出した。最初にパナケイアに診てもらった時に見つけた、青白く染まった足首の痣。身体の一部に現れる、刻印。

 でもあの時、パナケイアはその足首の痣にも触れていた。気付いていたはずじゃないのかっ……!?

 二人は、尚も眉一つ動かさず、人形のように表情を変えない。そのあまりの温度差から、逆恨みのように頭が沸騰してくる。

「そんな……治してよ! 君なら治せるんだろう!?」

「それは無理よ」

 氷水をぶちまけられたように頭が冷めた。でもそれは表面が冷えただけで、胸の中はふつふつと熱く煮えたぎっていた。

「どうしてっ……! 約束が違うじゃないか! ぼくは結花を治してくれるように言ったはずだろっ……? 君たちはこれに気付いてたんだから、一緒に治してくれたってよかったんじゃ……!」

「? 何を言ってるの? 私は約束をたがえたつもりはないわ」

「何を……!」

「最初に言ったはずよ。『私の力は弱まっている。数日かかる上に、、それでもいい?』って」

「あっ……」

 喉が詰まった。力が弱まっているせいで治せないっていう言葉の意味を、ぼくは履き違えていた。

 そして、こうも言っていた。

 ――『治せると思う』

 小さな声で、付け加えるように。

 ――『全部じゃないけれど……』

 あれは、心のことじゃなかったんだ。

 沸騰していた胸の中が、今度こそ凍らされる。寒気で、絶望と震えが止まらない。

「最初から……治せなかったってこと?」

「そうよ。死のミニスは神のミニス。力の弱まった私では、最初から治せなかった。だからあなたの願いはてっきり、心さえ治せればそれでいいと解釈していたのだけど……」

「ならせめて、教えてくれたって……」

「だって、聞かれなかったもの」

 息が止まった。それは、言い訳ですらない。いや、最初からこの二人は弁解する気なんてサラサラないんだ。

 そうだ。この二人の会話……特にパナケイアの方はそうだった。

『質問』して『答える』だけ。

「言ってどうなったの?」でも、「言ったって傷つくだけ、元からどうしようなかった」でもない。

 ――“聞かれなかったから”

 こいつらは、ハナっから人間なんて全くどうでもいい存在だったんだ。

 ただぼくらがそこにいて、質問したから答えた。ただそれだけだ。

 人間を好くでも嫌うでもなく、ただ無関心。

 最初っから、話の通じる相手じゃなかった。

 価値観が、あまりにも違ったんだ。

「うぐぅッ……!」

「っ! 結花っ!!」

 結花が腕の中で呻く。

 そんな……! どうしようもないのか!? 何か! 何かっ!!

「……ごめんね、集」

 か細い声が、耳をなでる。

「ごめんね……」

「何、が……?」

「私ね……自分が死んじゃうこと、……知ってたの」

「え……?」

「心が治ってきてから……私、自分の身体に痣があること知ってた……。だから聞いたの……。これは治せないの? って。でもこれは、っ、あの災害のものと、同じだから、治せないって……」

「そんな……! 何で黙ってたのさっ!」

「集を……困らせたくなかった」

 今にも消えてしまいそうな声が、苦しそうな口元から零れる。それを聞くたび、胸がギュッと締め付けられていた。

「どうせ死んでしまうなら……っ、それを知らせることで、集の苦しむ顔を、見たくなかった……」

「でも……すぐに分かってしまうことじゃないか……」

「ごめんね……わがままだよね……。私が死んだあとの集の心まで、考えられなかったんだもん……」

「違う……そんなこと――」

 ない、と……本当に言えるのか。事前に知らされていたなら、気休め程度の心の準備はできたんじゃないか。でも、そんなの。

「ごめん……ごめんね。ずっと迷惑ばっかりかけて……最後まで、こんな……」

「……違う。……違うんだ」

 謝らないで。何度も何度も。そんなに謝らないで。

 何度流したか分からない涙が、またボロボロとこぼれてくる……。

 いたたまれなくなって、たまらなく悔しくなって、罪悪感に押しつぶされそうになって……卑しい本心が口を出る。

 違うんだ。

「結花のためとか……そうじゃなかったんだ。ぼくが手放したくなかったんだ……。守りたかったとか……そんな都合の良い言葉は、野卑な本心を覆い隠すための詭弁でしかないっ……!」

 失いたくなかった。そして、強い自分になりたかった。誰かを守れるなら、それはきっと、強くて頼れる人間に違いなかったから。

「結花を守れるような自分になりたくて……。どれだけ無様で、情けなくて、他人に頼ってばかりの自分でも……っ、ああして必死になって身体を支えて、食べさせていることで……それだけで、……守れている気になれたんだっ……。そうなれているつもりの自分に酔って、……自己満足していただけなんだ……。こんな崩壊した世界で、心の壊れた幼馴染を守っているつもりの自分に、……酔っていただけなんだっ……!」

 救われていたのは、ぼくの方だった。本当に守っていたのは、ぼくの心の方だったんだ。

 醜い本心に隠された自分の心を埋めるため。例え心が壊れていても、ただその姿があるだけで、意識が保てた。

 家族も友人もみんないなくなった、この終わった世界を、君が光に変えていてくれた。

 ただ傍にいてくれるだけで、生きていける気がしたんだ。

 無意識の内に、見下ろしている顔をさらに俯かせて、ぼくは結花から目を逸らしていた。

 怖かった。自分の本心を曝け出してしまったことで、結花がどんな顔をしているのか、直視できなかった。

 だけど……結花の右手が、ぼくの左の頬をそっと撫でて、涙をぬぐってくれる。真冬の気温に触れていたそれはあまりに冷たいのに……温もりを感じてしまうほどに優しかった。

 おそるおそる顔を上げると……結花は、微笑んでいた。苦しそうにしていて、とてもお日様のようだとは言えなかったけれど……でも、見る者全てを安心させるような、慈愛に満ちた笑顔だった。

「集……」

「なに……?」

 結花はぼくの頬を優しく撫でながら、語りかける。

「壊れてしまったこの世界では……確かに人の心は、剥き出しにされてしまうかもしれない……」

「うん……」

「でもそれを……どうか怖がらないで……? 悲観しないで……?」

「だけど……」

 ぼくの心は醜い。そして、ぼくだけじゃない。この世界では、あらゆる人間の本心が剥き出しにされ、横行する。

「本当はね……私もそうだったの……」

「えっ……?」

「私もね……いやな考えを持っていたの……」

 そう言うと……結花の顔は少し、切なげに歪んだ。

「心が壊れているとき……集に守られる自分が……どこか、心地よかったの。悲劇のヒロインを演じているみたいで……永遠に集が守ってくれるって……そんなふうに感じられたの。そんな守られるだけの自分になったとき……集が、世界で一番素敵に見えたの……。あぁ……こんな人に自分は守られているんだ……。自分はなんて幸せなんだ、って……そんなことを、思ってたの……」

「結花……」

 自分勝手な考え。利己主義。エゴイズム。

 誰でも、持っている心。

「確かに私たちは……醜い心を持ってる。きっと……みんな持ってる。でも……それを恐れないで……。例え醜いものだったとしても……それを、絶望の目だけで見つめないで……。だってそれは……確固たる、自分の心なんだから……。それを全否定したら……、生きる希望を……、無くしちゃう。……それにね? 私は、ちゃんと知ってるもの……」

「知ってるって、なにを……?」

 結花の顔はまた、ぼくを安心させる、慈愛のものとなっていた。

 優しい笑顔。

「集は、醜いばっかりじゃないよ……」

「どういうこと……?」

「だって……集は確かに、心の回復していく私を見て……喜んでくれたでしょう? それは、私を守る自分だけじゃなくて……ちゃんと、私自身のことを考えてくれた、っていうことでしょう……?」

「それは……」

 確かに嬉しかった。またあの、お日様のような笑顔を浮かべてくれる結花に戻ると思ったとき、涙が零れるくらい嬉しかった。例え、ぼくが支える必要がなくなったって。ぼくが食べさせてあげる必要がなくなったって。

 守られるだけの結花じゃなくなったって。

 ぼくは、心底嬉しかった。

 ……でも。それさえも……ぼくが必死になった成果だとか、そんな利己主義の延長線上のものだとさえ、思えてしまって……。

 だけど、ぼくのそんな思考を止めるように、結花はぼくの頬に当てている手を、少し動かす。

「ね……?」

 安心させるように結花が笑う。

「醜い心があっても……人にはそれと同じくらい、善意だってある……。だから、醜い感情ばかり見て、恐れる必要はないんだよ……」

 醜い心以外の、善意。

 そうだ。ぼくは知っているじゃないか。

 今目の前にいる彼女を。醜い心なんかより、遥かに多くの優しい心を持っている少女のことを。

 結花だって、口に出していない卑しい心があった。でも、それを聞いてぼくは、結花に幻滅するか? 結花を蔑むか?

 答えは、ノーだ。

 そんなことで、結花のことを嫌いになんてなるわけない。

 そんな程度の醜い心を、ぼくは恐れたりなんかしない。


「あとね……。私……集にはっきりと伝えたいことがあるの……」

「うん?」

「確かに集は……自分の心を守るために、私を守っていた部分も……あったのかもしれない……。……でもね? それでもやっぱり……」

 結花は、安息に包まれているような顔で、ぼくをまっすぐ見た。

「私は……集に救われてたんだよ」

「っ……!!」

 その言葉は、深く、胸に響き渡った。


 ――結花を救えていた。


 ぼくの、醜い本心は。

 結花の心を……救えていたのか。

 胸の中で澱んでいた罪の意識が、溶けていく。

 ぼくは……結花の身体も心も、守ることができていたんだ。

 思えばぼくらは、互いに秘めている思いがあった。

 自己満足のために結花を守りたかったぼく。自己満足のためにぼくに守られたかった結花。

 きっと、こんなことは珍しいのかもしれない。

 だけど今回に限ってぼくらは。

 互いの自分勝手な思いが、互いを救うことにもなっていたんだ。

 結花は、僕の頬を撫でていた手を、そして、もう片方の手も、……ゆっくりと首へと回していく。ぼくは結花が今度こそ落ちてしまわないようにと、しっかり抱きとめる。

 せめて……最後の時くらいはこうして触れていたかった。

「ねぇ、集……」

「なに……?」

 それまで、姉のように優しかった口調は、少し甘えたものになっていた。

 顔も、ぼくの胸にうずめてくる。

 だけど……その感触が、唯一無二のものなんだということを自覚してしまうと、心がざわざわして落ち着かなくなる。

「最後に……ひとつだけお願いがあるの……」

 小さな声が、心臓へ直接流れてくるような気がした。ぼくは声が震えないようにと、抱きとめる腕に力を込めた。

 そういえば結花は、いつもぼくを助けてくれるばかりで、ぼくに頼み事をしたことなんて滅多になかった。

「いいよ……なんでも聞いてあげる」

 そう言うと結花は顔を上げ……あのお日様のような笑顔を浮かべてくれた。

 ぼくの、一番好きな表情だ。

「頬を、合わせてほしいの……」

「頬を?」

 結花は、小さく頷く。

「私の頬っぺたと、集の頬っぺたを、ぴたって……くっつけてほしいの」

「……わかった」

 ぼくは言われた通りにする。

 右手でしっかりと結花の頭を支え、ゆっくりと顔を近づける。そして結花の右の頬に、同じく自分の右の頬を……くっつける。

 柔らかくて、気持ち良い。これまでずっと一緒にいたけれど、こんなに顔を近づけたことはなかったかもしれない。ほんの少しの吐息でも、どこにいるより近く聞こえる。目の先にあるぼくと結花の顔の影は、キスをするよりもぴったりと重なっていて、まるで、世界の中で二人が溶け合ったみたいだ。

 目は、自然に二人とも閉じていた。

 ぼくたちの間に言葉はない。

 だけど……こうして肌を触れ合わせているだけで、他のどんな言葉を交わすよりも、気持ちが通じ合っている気がした。

 こんな状況でも。

 世界が滅んでいても、滅んでいなくても。人類が滅亡していても、滅亡していなくても。

 この時だけはきっと、ぼくらは同じことを想ったと確信できる。

 口には出さない。

 でも、その温もりで。その吐息で。その鼓動で。

 はっきりと伝わる。


 ――まるで、恋人同士みたいだね。


 それが、最後だった。

 結花は、その身体が一瞬柔らかくなったかと思うと、――全身が血液となって、ぜた。

 じかに肌を触れ合わせていたぼくは至近距離からその血を一杯に浴び、右耳は血がどっぷり入ってほとんど聞こえなくなった。身体を支えていた左腕には、結花の来ていた服だけが真っ赤に染まってハラリと落ちていて、頭を支えていた右手は、まるで元からそんな肌の色であるかのように赤い手となっていた。辺りはまるで……いや、まるでじゃない。そのものずばり、凝縮させた血を爆散させたように池が広がっている。

 そして、さっきまで温かく人肌に触れていた頬は、温もりとは全く別の生暖かい血がどっぷりと張り付いていた。さっきまで包んでいた吐息なんて全くなく、さっきまで感じていた優しさなんて欠片もなく、さっきまで通じ合っていた気持ちなんて微塵もなくなっていた。

「……ぁっ……」

 ぼくは……生まれて初めて、声にならない声というものを出した。それは、目に見えないはずの感情が、全身全霊をもって喉を締め付けているかのようで、数え切れない様々で膨大な思考の渦が風を切るように体内で巡って、何一つまとまらない。

「……ぁぁ……! ……ぅぁぁぁっ……っ!!」

 その中で、微かに渦から漏れ出た感情だけが、口から逃げるように出ていった。

 そして、暴風のような激情と狂気の堰がブチ壊れた時――。

 ――喉が裂けた。


「うううううあああああああぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」


 どれだけ叫んでも、何度叫んでも。自分のものとは思えない化物のような慟哭をどれだけ声高に上げようとも、こみ上げる感情が止まらない。逆に、止まってしまったら自分がただの抜け殻になってしまうような気がして恐ろしかった。

 このどうしようもなさとかやるせなさとか屈辱さとか悔しさとか怒りとかどす黒さとか悲しみとか寂しさとか無力さとか切なさとかがごっちゃになって、自分が一体なんの感情に支配されて声を上げているのか分からない。ただただ何か、隙間なく激流のように渦巻いているはずの心を埋めたくて、なのに全てを放出したくて、ただ内側からこうして喉笛を切り裂いているのかもしれない。

 ひとしきり蛮声を四方に散らしきり、身体が痙攣してきて血の池に倒れそうになったところで、――神の声が聞こえた。


「彼女に会いたい?」


 爆散した血に塗れている二人の神。

 その片方……クロノスがぼくに問いかける。彼はパナケイアよりももう少し会話の通じやすい方で、質問以外を受け付けないわけじゃない。最初に、何も問わずに廃墟へ連れてきてくれたのが良い例だ。

 怒りすらぶつけられない相手だけど、その言葉は、希望のように思えた。

「……会える、の?」

 辛うじて話した言葉は、自分でも違いが分かるくらいに枯れた声だった。

「正確には、君の方から会いにいくんだ。……勘違いしないでほしい。死んだ彼女に会うために君が死ぬとか、そういう意味じゃない」

 するとクロノスは、自分の懐から一つの懐中時計を取り出す。古めかしく見えるけど装飾は豪華で、どこか神秘的とも思えるような輝きを持っていた。

「僕のミニスだ」

 形を持ったミニス。本来なら驚愕するところだろうけど、今はもう、この程度のことで驚くことなんてむしろできなかった。

「僕のミニスは、あらゆる時間に干渉する力を持つ。未来へ行くことも、過去へ行くこともできる」

 パナケイアが言っていた。

 子供の姿をしていることもあり、大人の姿をしていることもあり、性別が違うこともあり、人間の姿をしていない時もある。気まぐれに姿を変えて、気まぐれに行動を起こす。どの時間にもいて、どこにでもいる。時の神、クロノス。

「それって……」

「そう。これを使って、君が過去へ戻るんだ。災害が始まる前へ」

 いつものことだけれど、彼が何を考えているのか分からない。血に塗れた無表情の神は、その外見が子供であることが、却って不気味さを醸し出していた。

「なんで……?」

「? なんでとは?」

「なんでぼくに……協力、してくれようとするの?」

「ふむ……」

 クロノスは若干の逡巡を見せ、あっけらかんと語った。

「強いていうなら、気まぐれ。あとは、君が彼女を死なせたくなさそうだったからね。彼女を生き返らせることはできないから、生きた彼女と会わせようとしたんだけど……」

 ぬけぬけと言い放つその言動に、カッと血が昇った。

「何がっ……! 『ぼくが結花を死なせたくなさそうだったから』だッ!! 当たり前だろッ! 痣のことを黙ってたのはお前らのくせにッ!!」

 獣のような声が、噛み付くように乱暴に吐き出される。だけど神に楯突いても、その声はまるで効いていないようだった。

「勘違いしてもらっちゃ困る。僕等が君に痣のことを話さなかったのは、最初の治療の時を除けばだ。だから僕等が君に痣のことを話さなかったことで責められる筋合いはない。僕は彼女の意志を尊重したのだから」

「なっ……!?」

 少し、疑問だった。質問にしか答えないパナケイアはともかく、クロノスはひょっとしたら言ってくれてもいいんじゃないかと思っていた。だけど、結花自身から口止めされていた? どうして?

 ……ぼくを困らせたくなかったから、か。

 言われたってどうしようもなかったとはいえ、言われなかったことのどうしようもなさを埋める手立ても……ぼくにはまた、ない。

 どうしようもない。どうしようもない……けれど。

 目の前で、可能性がチラついている。

「……過去に戻れば、結花は助けられるの?」

「それは君の行動次第だ。君が何をしようがすまいが災害は起こる。そのあとで君がどう行動するかで、彼女の生死は決まるだろう」

「分かった」

 迷いのない答えは、逆にこっちが以外に思うほどクロノスの意表をついたらしい。それでも、人形のような顔は変わらなかったけれど。

「即決だね。彼女を助けられるとは限らないんだよ? ぼくに出会えることだってそうないし、仮に他の神だって人間に構う奴ばかりじゃないし、君だって命を落とすかもしれない」

「……知ったことか」

 たとえ崩壊した世界であろうがなかろうが。人類が滅亡していようがいまいが。

 結花がいない世界なんて、ぼくにとってはそれだけで無価値だ。結花がいない世界で生きて、ぼくにどれほどの未来があるというんだ。

 ぼくは、結花がいないと生きていけない。

 醜いとも言えるこの心を、ぼくはもう疑わない。恐れない。

 でも決して、この心に飲み込まれるんじゃない。

 自分の中にも善意がある。例えそれが世界が崩壊した極限状態であろうとも、残っていることを信じる。

 だって、結花が信じてくれたから。結花は、ぼくには善意があると信じてくれたから。

 それだけでぼくは。嫌いな自分にも希望を持てるから。

「じゃあ、飛ばすよ」

「うん」

 懐中時計が怪しく廻り出し、人知を超えた力に目が眩む。

 最後に……一度だけ後ろを振り返る。

 そこには、結花が身につけていた衣服が、無造作に、そして真っ赤に染まっている。

 もうあんなことにならないように。

 ぼくは。

 希望を持てる未来を目指して、過去を歩き出した――。

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終わった世界のルークス 甘夢 鴻 @higurashi080

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