過去 世界が終わった日


 二ヶ月前のその日は、体調を崩して学校を休んでいた。共働きの両親は二人とも家を出ていて、ぼくは一人で家にいた。大人しくベッドで寝ていると、どこか遠くの方から人の声とか、色んなものが聞こえてきた。おぼろげな頭では、それが叫び声だったということすらも判然とせず、ぼんやりとしたままで見慣れた天井を眺めていた。

しゅう! 集ッ!!」

 しかしそれは、幼馴染である結花の錯乱した声で急激に覚めた。まるで助けを求めているように、玄関のドアをどんどんと強く叩きながら自分を呼ぶ声が聞こえて、反射的に飛び起きた。慌てて玄関を開けると、倒れそうな勢いで結花がしがみついてきた。

 完全に正気を失っていて、身体は尋常じゃなく震えて汗もびっしょりだった。ひたすらに「みんなが」とか「街の人たちが」とか、そんな言葉を繰り返すばかりで、何かを思い出すことを強く避けるように、声を出し続けていた。肩を支えながら家の奥へ連れて行き、ソファーに座らせてから毛布をかける。

 そこでようやく、マンションの四階にいてもはっきりと聞こえるような、たくさんの人の叫びが辺りに響いていることに気がついた。ざわざわとした焦燥感が胸から広がっていき、心臓の鼓動が早くなってくる。

 結花にかけた毛布を頭まで被せ直し、耳をついばむ叫びをかき消そうとテレビを点けた。

 ――しかしそこには、地獄が映っていた。

 かき消すつもりの人々の絶叫は、今度は肉声ではなく画面の中からくぐもるように鳴り響いた。

 知らない町並みのそこでは、数十台もの車が玉突きしていて、中には建物に突っ込んでいるのもあった。人々は発狂しながらどこへとも知れずに走っていき、煙やコンクリートのかすが舞って、それだけを見ればまるでテロの被害にでも遭ったみたいだと思える。

 ……それだけを見れば。

 でもその考えは、辺りの風景を彩る“置物”を見て一掃される。

 染めている色は、赤。

 地面に、壁に、窓に、ドアに、車に、看板に、服に、そしてそれぞれの“置物”に。

 あらゆる場所で限界まで凝縮させた血を爆散させたように、染まっていない部分の方が少ないとさえ思えるほどの……おびただしい赤だった。

 動転して整理されていない言葉を、リポーターが矢継ぎ早に吐き出し続ける。それに伴ってカメラが揺れ、“置物”の一つをズームする。

 ……はじめはそれらが、人間だと思っていなかった。

 いや、なんとなく分かっていた上で、ただ認めたくなかっただけなのかもしれない。

 何故ならそれらは、連日のニュースで取り上げられる人の死に方とはいずれもかけ離れすぎていて、きちんと原型を留めているものを探すことすら困難だったのだから。

 人々はみんな、異様だった。

 辛うじて分かったのは、皮膚で覆われているはずの筋肉が剥き出しにされて人体模型のようになっているものや、水分が根こそぎ抜かれてミイラのようになっているもの。

 そのほかは、一般的な中学生の知識しか持たない自分には到底理解できないものでしかなかった。

 それでも、ただ圧倒的に感じたものがある。

 ――死。死。死。

 色々な死が。様々な死が。千差万別の死が。

 画面を隔てたその向こうでは、ただ“死”だけが神のように全てを支配していた。

 それだけで、異常なんて言葉を遥かに超えた事態が起こっているのだと分かった。

 どのチャンネルに回しても場所を変えて映しているだけの凄絶な死の世界。家の外とテレビの中で暴力的にデュエットする、理性を伴わない言葉の群れ。目と耳がおかしくなりそうで、身体の穴から蛆虫が這いずってくるような悪寒を感じて全身の皮膚が泡立った。

 それが自殺行為に等しいことだとは、心のどこかで感じていたような気がする。けれど、どうしても頭から離れない嫌な妄想を振り払いたくて、おぼつかない足で転びそうになりながらも、家の窓を全開にし、その空気を浴びた。

 ――そうして逃避の幻想がズタズタに切り裂かれた瞬間には、直前の自分の行動を死ぬほど後悔した。

 嗅ぎ慣れた空気のにおいは一変し、鼻と肺を強く刺激して気持ちが悪くなった。

 何より、見下ろさずともはっきりと見える赤色の景色と、より大きく耳を突き刺してくる悲鳴の嵐。

 反射的に窓を閉め、リモコンのボタンが壊れるような指の力でテレビを消し、急いで結花の元へ戻る。覆い被せた毛布をさらに深く、目も鼻も耳も塞いで、呼吸さえも止めんばかりに強く乱暴に被せ、汗で湿り始めた手で携帯を操作する。

 悪あがきすることをほくそ笑むようにニタニタと笑い続ける世界を決して見ないようにしながら、電話に耳を当てる。コール音がなっている間も、毒が体内を犯していくような強迫観念になぶられ続けた。

 自分の両親と結花の両親、思い当たる数少ない友人の全員――その全てが留守電に繋がった時、口の中はカラカラに乾いていて、悪魔に全身を抱かれているように身動き一つ取れなかった。


 どれだけの時間立ち尽くしていたのか。辺りを包む悲鳴がさっきよりも小さくなってきたところでようやく動くようになった身体を、ゆっくりと結花に向ける。

 いつの間にか震えも止まっていて、寝息程度の声さえも聞こえない。

 何も考えず、ただ緩慢にその毛布を取ると、自分の身体を抱え込むようにしながら何もない空間を見続けている。

 重石でも乗せられたように鈍くなった頭でも理解できたことは、結花があの災害の――あの大勢の人々が残酷に死んでいく様を、目の前で見てきたということだった。

 そして結花は、心が壊れた。

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