赤いマフラー

「こっちよ!」


 先導するクロームが叫んだ。未だ洞窟の中。追手は今の所は来ていないが、油断は出来ない状況だ。

 キュウビは握りしめた手を離さないよう、しっかりと握りながら走り続けている。ロゼは予想以上に体力があるようで、相手のペースは考えずに済みそうだ。闇を抜けて走り、次いでようやく見えたのは、ほんのかすかな光と風。


「なるほど、地下か」

 前を走るクロームの狙いが読めて、キュウビはつぶやいた。風に乗って運ばれた声は、ロゼの耳に届いて、彼女を喋らせた。

「ここも地下ですよ」


「うん」風に乗って前を走るクロームの声が飛んでくる。「ここアゴラの地下は入り組んでいて、ちょっと突いてやれば、大昔の下水道とかと繋がってるってわけ」

「要はそこを目指してるってことだけど」


「qbィィィィ!」


 背後から聞こえる不気味な声に、キュウビはため息をつきたくなった。全く、職務熱心なその姿勢は評価に値するが、追いかけている相手に少女二人がいるのは、果たしてどうなのだろうか。

「ウッソォ! 死んだんじゃないんですか!」

 手を引いているロゼが物騒なことを言い始める。敬語で対話をしている人間だというのに、発想が非常に物騒で端的だ。やはり女性は恐ろしい。


「モチ、バリバリ生きてるゼェェ! 待てよqbィィ! 今お前の罪状が決定したァ! 死刑だよ、死刑! そして明日にはお前の体はぶつ切りにされて、定価で小売店に並ぶんだよォ! 価格表示は安心しろ。この街は正確さが売りだからなァァ!」


 風を切るような、背中の向こうの闇の中から、切り取られたように黒が疾走してくる。真黒な風が、すぐ背後まで迫ってきている。

「希少性のある半獣人が、テメェだけだと思うなよォ、qbィ!」

 その黒がわずかな明かりに照らされて、正体を現した瞬間、なるほどと、キュウビは納得した。そのしなやかな黒くて長い尾と、暗闇で細く光る瞳は、まさに『猫』のそれだった。


「オレもテメェと同じ、価値の高い命の持ち主なんだよォ!」

 もうすぐ背後につかれる。キュウビは決心して、ロゼの手を離した。

「え?」

「行って! 早く」

 は、はい、と慌てて返事をして彼女は走っていく。これで良い。黄色い二つの目が、近づいてくる。キュウビは袖口から、拳代の鉱石を取り出した。それはオリハルコンだった。


「猫に~~小判ッ」


 握った鉱石を、キュウビは迫りくるトパーズに思い切り投げつけた。軽くて固い鉱石は予想以上の速度で飛び、しばらくして『ぎゃっ!』という叫び声を起こした。


「投げ銭には、ちと高かったかな」

 右手に高額鉱石の名残を残したまま、キュウビはすぐさまロゼたちの後を追った。


◆◆◆


 ロゼは息を切らせながら、何とかクロームについて走っていた。

 彼女を見逃せば、自分に明日は無いだろう。しかし、こんなに走ったのは、どれほどぶりだろうか。とりあえず新聞社に入ってからは、ここまでハードな運動はしたことがなかったはずだ。

 もうすっかり息が上がってしまっている。

 それに比べて、クロームはどうだろうか。とくに疲れた様子もなく、走っている。変わらない足取りが全てを物語っている。

 と、急にクロームが足をとめた。


「ここ」

 クロームが洞窟の、何の変哲もない壁を強く蹴った。ぱらぱらと崩れた壁からは、ダストシュートらしき穴が見えた。

「この前探検してる時に見つけたの。どこに繋がってるかは、分からないけど」

「―――それって、最悪天国に繋がってる可能性もありますよね」


「天国ならいいじゃないか」 

 不意に背後から声がして、ロゼはまた声を上げかけた。振り返れば、にやにやした顔のキュウビがそこに立っていた。全く、この少年は人を驚かせることを趣味にでもしているのだろうか。

「死んだら死んだ時に考えようよ。それに、もたもたしてると、黒猫さんよりもっと怖いお姉さんが追っかけてくるぜ?」

「で、でも、怪物だらけの所とかに繋がってたら―――」

「それじゃお先に! 紳士じゃないから、レディファーストはパス!」

 ロゼが言い終わるより早く、キュウビの白い着物の袖口は、ダストシュートへと消えて行ってしまった。それに続いてクロームも入って行ってしまう。

 一人、ロゼは取り残されて。寂しさから、そこに飛び込んだ。


◆◆◆


「やぁ、生きてるかい?」

 辺りは闇だらけで。光の入り込む余地さえない。どこもかしこも、黒染めで。全くもって味気ない。ここが死後の世界だというのなら、何と死に甲斐のない場所だろうか。

 ロゼはぼんやりと動く頭で、周囲を見渡した。自分の座っている場所が、妙にごつごつしている気がする。助かったのはありがたいのだが、ここがどこだか誰でも良いから教えてほしい。


「おかしいな。もし死んでるんなら、気前よく天使様が来てくれてもいいのに」

 そう遠くない闇から、キュウビの声が聞こえてくる。

「それは、アタシ達がまだ死んでないからよ」

 今度はクロームの声。これは近い。すぐ側から聞こえてきた。

「キュウビさん! クロームさん!」

 ロゼが叫ぶと、すぐ隣で誰かが動いた気配がした。


「そんなに大声出さなくても聞こえてるわよ」と、クローム。それと同時に背中に何かが当たった。クロームの指だろうか。

「クロームさん、今ワタシの背中触りました?」

「ん? 別に―――いや? アタシ今、ロゼの指を触ったと思うんだけど」

「う~ん、オレは誰かを膝の上で寝かせているんだけどね」

「それは一番あり得ない状態ですね」

「だね。それでは、種明かしだ。全ての答えは、今白日の下にさらされる!」


 大仰な謳い文句と共に、キュウビがただのライトのスイッチを入れた。果たして、暗闇は避けて明かりが空間を支配する。


「あぁ~」「え………」「キャー!」

 三者三様で、その空間の感想を述べると、とたんに静かになった。

 

 ロゼは、途切れようとする意識を必死に繋ぎ止めながら、状況を把握した。自分の背中に触れ、ロゼが指に触れ、キュウビに膝枕をされているものの正体は―――


「―――なるほど、骸骨ね」


 キュウビが、自分の膝で寝ている白骨死体を、力無い笑いを浮かべながら見て言った。そう、自分たちは今無数の骸骨の山の上に居るのだ。


「天国じゃなくて、地獄みたいね、ここ」

「死んだら死んだ時考えようって言ったの、キュウビさんですからね!」

「オレの所為にされても、事態は変わらないからね。とりあえず建設的な意見を打ち立てていこう。とりあえず、『彼ら』とお友達になるっていうのは、ナシの方向で」

 髑髏を後ろから手を入れて、キュウビはカタカタ人形のように動かした。

「それに、ここが地獄ってのは、少し違うみたいだ」


 キュウビは、遊んでいた髑髏から小さなプレートを引き抜いて、それをライトで照らした。うっすらと彫りこまれていたのは、『三千ウェート』という文字。


「地獄の沙汰も金次第って言うけど、ここまでだったなんてね」

「ここも、アゴラのどこかってこと?」

「そう。どうやらここは、その中でも随分と深部らしい」

 キュウビの持つライトの明かりが、暗闇を縫うように探検する。骸骨の山の下。この空間の床の上を滑るように移動して、壁を見つけた。今度はそこを滑って行って、顔色の違う壁を発見する。

「蛇の道は『蛇』っていうけど。骨の道はなんていうの?」


◆◆◆


 ライトの明かりは薄暗い廊下を鈍く照らすに、留まってしまっている。さきほどから鳴り響いているのは、断続的なガラスの割れる音。どこかの幽霊病院のような廃墟を、ロゼたちは彷徨っていた。

 引率しているキュウビは平気そうに歩いているが、自分はそうではない。心臓の鼓動はずっと早く鳴り響いているし、いつ背後から声をかけられるか分からない。正直な話、自分とキュウビに挟まれて歩いているクロームと、場所を交代してほしいほど、心に余裕がない。


「いや~。しかし、まさかこんな分かりやすい、人身売買のお店があるなんてね。意外」

 

 ライトを楽しげに動かしながら、キュウビは両脇の部屋へと光を誘っていく。そこには、医薬品のためのボトルの中に浮かぶ臓器や、一言『骨』と書かれた段ボールなどが取り残されていた。


「この都市の考え方に、その通り従えばこうなるのよ」

 クロームは、そんな冗談のような光景を、冷めた意見で一蹴した。

「定められた人生の値段通り、生きる。それがもっとも、損がなく、利益を生む美しい生き方だと、ここアゴラでは思われてるのよ」

「損のない人生ね。生きるって行為は、無駄ばっかを積み上げて出来てるもんだと思うんだけどねぇ」

 ライトをくるくると、回してキュウビが言う。踏んだガラスが、パキリと割れて、地面に広がった鏡は、ふとロゼを映した。


「qbィィィ! テメェのために、地獄まで来てやったぜェ!」

 遠くから響き渡るのは、あまり聞きたくもない叫び声。


「あちゃー。鬼ごっこはあんまり好きじゃないんだけどねぇ」

 さ、こっちだ。キュウビがクロームに手を差しだした。それを取ってクロームとキュウビは走り出す。ロゼもそれに続く。

「暗闇じゃアイツのほうが目が利く。外に出たいね。綺麗なお月さまを拝みたい。あと、新鮮な空気も吸いたい」

「ここが人身売買の店だったんなら、外に出る通路くらいあるんじゃないんですか」

「多分あるんだろうけど。オレはエレベーターが良いな。階段ってのは、想像したくない。もうクタクタなんでね」


「でも残念。そこから伸びてるのは、どこからどう見ても、天国への階段よ」


 現れた螺旋階段を前に、ロゼはため息をつかざるをえなかった。見上げれば、果たしなく続いている、その階段はきっと地上に繋がっているのだろうが。これを作った人間は多分馬鹿だろう。


「文明の素晴らしさを噛み締めつつ、駆け足で登ろうか。後ろから猫さんが来てるし。このままじゃ、袋の鼠だ」

 遠くからトパーズが走って来る音が聞こえる。まだだいぶ遠くには居るだろうが、早くしないと追いつかれるのは確実だ。

「全く、散々な日だ、今日は」

「え? アタシは意外にも楽しめてるけど? あそこ以外の景色も久しぶりに見れてるし」

「ワタシは最悪最低ですけどね! どっかの第一級犯罪者のお陰で、こんな事に巻き込まれて」

「まぁまぁ。人生何事も楽しまないと損だよ? トラブルを楽しむくらいの余裕があれば、人生って結構楽しいもんだよ?」

「―――アナタの所為で、その余裕が無いんじゃないんですか!」


◆◆◆


 全くもって夜空というものは気持ちがいい。

 月は満月で、黄色く光、夜空にはスパンコールがちりばめられている。空がよそ行きのオシャレなドレスに着替えたかのようだ。キュウビは、遠い日に置き忘れてしまったような夜風を浴びた。螺旋階段の最終地点は、都市の中央市場から少し外れた路地裏のマンホールだった。しかし、このマンホールがまだ開くということは、どうやらあの施設は、まだ活用されているのかもしれない。


「さて、と。これはこうして」

 ロゼとクロームが出た事を確認して、キュウビはマンホールに蓋をして、上に側にあった適当な馬車の荷台で蓋をしておく。これで、当分は時間が稼げるだろう。


「んぅ~っと」

 ロゼは大きく伸びをして、新鮮な空気を吸い込んだ。

「ようやく外に出られました。全く、息が詰まるようでしたよ」

「アタシは、アンタ達の何十倍もあそこに居たんだけどね」

 クロームは夜風を感じるように、ただそこに立ち、満月を見上げていた。静かに肌で、全身で夜を感じているのだろう。

「で、これからどうするの? 外に出たのは良いけど、まだ追手があるだろうし」

「そうだな」

 うーんと唸りながら、キュウビは歩きだした。いつまでも、此処に居るわけにはいかない。一先ずは、アジトに向かうのが先決だろうか。今頃、ノーレッジが夕飯を作っているころだろう。


「そうね、アナタの事だから、きっとこの街の地下にでもアジトがあって、そこに彼女たちを連れていくんでしょう?」


「そうそう。よく分かってらっしゃ―――」

 は? キュウビは思わぬ合いの手に、心を固まらせてしまった。

 下がった視線をわずかに上に向かせて、月光を背に立ちつくす、目の前の少女をようやく視認する。

 

 夜の黒と、月明かりの黄色に照らされてもわずかに分かる、紺色の髪。夜風になびいて、美しくしなるその髪は、あまりにも美的であり、魔的でもある。目鼻立ちの整った顔をしていて、一見して彼女が美少女であることが分かる。

 次いで目についたのは、清らかな青い瞳。意思の強さと、優しさが入り混じったように光っている。肌は陶器のように白い。身を包んでいるのは、青いコートとその下の黒いシャツ、髪の色と同じ紺色のスカート。容姿を挙げれば、美辞麗句ばかりで説明される少女だが、キュウビにとってみれば、あのトパーズと変わりない。いや、それ以上に恐ろしい存在だった。


「や、やぁ。こんばんは。こんな月の良い日に会えるなんて、奇遇デスネ」

 後ずさりしながら、乾いた笑いと共にキュウビは少女に言った。

「えぇ。ワタシのツキも良いみたいだし」少女が、腰に差した剣の柄を握った。「ついでに一緒にお散歩なんて、いかがかしら? レディに夜道を一人歩かせるなんて、してくれないわよね? qb」

「固いなぁ、キュウビで良いって言ってるのに、シアリス」

 相変わらず生真面目なシアリスに、キュウビが冗談交じりに言うと、彼女はさっと風のように駆けだした。それと同時にキュウビもくるりと踵を返して走る。


「qbィィィ! 第二ラウンドの―――」


 荷台で蓋をしていたマンホールが吹っ飛んで、中からトパーズの顔が出てくる。それをキュウビは踏んづけて、足場にして走った。続いて逃げるクロームとロゼも、同じようにトパーズを踏み、最後にシアリスが止めを刺して彼はまた、マンホールの中に沈んで行った。

 これだから、女性は恐ろしい。その様子を一部始終、見ていたキュウビは、トパーズに若干の同情をしながら全力で逃げていた。今度は一切の余裕が無い。お陰で誰の手も握っていない。願わくば、彼女たちがまだ走れることを祈るばかりだ。


「qb!」後ろからシアリスが呼びかける。

「オレたちに遠距離恋愛は無理みたいね、だってお前、こんな処にまで来ちゃうもん」

「えぇ。ワタシ、運命の赤い糸だけじゃ心配なの。だから、ここにこーんな、頑丈な鉄の鎖が在るんだけど。これで結ばれてみる気はない?」

「いえいえ。オレはやっぱり、そんな冷たい鎖よりも、血の通った温もりでお前と繋がりたいね」

「あら、大丈夫よ。新居(特別牢)も準備してあるから、すぐにでも新婚(獄中)生活(生活)が送れるわよ、ダーリン(犯罪者)」

「いやはや、ずいぶんと準備のよろしいことでッ! そんなにオレの事を想っててくれたなんて、嬉しすぎて涙が出るよ!」

「アナタのことを想わない日は無かったわ。遠く離れたアナタのことを想うと、胸が締め付けられるようだったわ。でも、今日でそんな日はお終いよ。貧弱な赤い糸よりも、強固な鉄の鎖がワタシとアナタを結んでくれるのですもの!」

 

 後ろからビュンビュン、シアリスの人差指に回される手錠の音が、聞こえてくる。ガチャリという、結末は何としてでも避けたいところだが。

 路地を抜けて、広場へと躍り出る。中央に噴水があり、その向こう側には、アゴラ都市内を流れる『マーシャル川』が流れている。ここは『中央卸売市場』か。噴水の広場からは、五本の道が延びていて、そのどれも、遥かかなたまで小売店が軒を連ねている。その内のどれに行くべきか。

 

 キュウビがキョロキョロさせて、思考を素早く展開させていると、それを打ち破るような轟音と共に、一台の車が迫って来た。丸く可愛らしいフォルム。いかにも旧式そうな、オープンカーだが、エンジンはしっかりと機能しており、ハンドリングも十分らしい。轟音の主は、キュウビの前でドリフトして、助手席の扉を開け放った。


「随分情熱的な彼女だね。だから、毎日ボクが言ってるでしょ? 女の子には、注意してって」

 

 緑色のダッフルコートが、夜風にはためいて。運転席に座る、メガネをかけた少年は、呆れ顔でキュウビに手を差し伸べた。

「ナイスタイミングだ、ノーレッジ」差しだされた手を取って、キュウビは車の助手席にすっぽりと収まる。ふと、アクセルを踏んで発進しているノーレッジを見て、キュウビはそれを言葉で止めた。

「待った。追加の乗客が、あと二名居るんだ、運転手さん」

「はい?」ノーレッジが、不思議がって後ろを向くと、すでにロゼとクロームが、何とか後部座席に乗り込もうとしていた。しかし、すぐ後ろからはすでに、シアリスが迫っている。


「シートベルトを諦めてください、みなさん」ノーレッジは、一切の躊躇なくアクセルをベタ踏みする。その衝撃で、『キャ』ではなく、『ギャ』と叫んで、後部座席の二名の少女は頭から着席した。

「待ちなさい、qb!」遠く聞こえるシアリスの叫び声を無視して、車は発進する。けれども、目のようなランプが照らしているのは、五本ある道ではない。


「あれ? ノーレッジ? オレの目がオカシイのかな?」

 五本の道ではない、『道』を照らして景気よく、飛ばし始めた車の中で、キュウビは運転席のノーレッジに言った。なぜなら、進行方向にあるのは―――。

「川! 川ッ! 川に突っ込みますよッ!」ようやく態勢を立て直したロゼが、前方を指さして悲鳴に近い声を上げる。

 逃走経路にしては、不安要素しかない進路をとって、車はなおも進む。噴水を超えて、周りの小売店の店先の品物をぶち壊して、夜の広場を、四人を乗せた車は突き進む。


「ノーレッジ! 川! 川しかないって!」

「大丈夫、大丈夫」慌てるキュウビをノーレッジはたしなめる。ギアチェンジのレバーを、何やら複雑に操作し始めているが、すでに目前には道がない。わずかにある段差を越えて、落下防止のためのフェンスを突き破り、とうとう空中に放り出される。腹部が何だか、ふわっとする。中の臓器が宙に浮いているような感覚。


「落ちるゥゥ!」

 後部座席のクロームが叫んだ。その通り、車は落下し自分たちは水浸しに成るはずだった。そう、『だった』であって、そうではなかった。

 覚悟した川の水の冷たさは、一向にやって来ない。恐る恐るキュウビが目を開けると、なぜか車が水の上に浮いている。それもボートのように、水上を移動しているではないか。


「ノーレッジ。説明不足」

 助手席の扉から身を乗り出し、タイヤの部分が膨らんで、それで浮いていることを確認して、キュウビは黙々と運転し続けているノーレッジにそう呟いた。

「そう? ボクが何の考えも無しに、川に突っ込むと思う?」

「いや、確かに冷静に考えればそうだけど。出来れば、水陸両用っていうことくらい、説明してほしかったな、なんて。ほら、後ろのレディスも、突然の急流すべりにビックリしてたから」

 ロゼとクロームは、まだ若干放心状態だ。口を開けて、茫然としている。目は開いているが、虚ろで前だけを見ていて、口も開いているが、何も言葉を発しない。

「ちょっとした、アトラクションだと思ってよ。キミも随分小さい男だね、キュウビ」

「―――アトラクション、ねぇ」幼い顔で言うノーレッジに、キュウビは危機感を抱かざるを得なかった。かわいい顔をして、恐ろしいことを言うものだ。


「qb! qb!」

 上からシアリスの怒鳴り声が聞こえてくる。おそらく、広場から叫んでいるのだろう。早いところ、ここからどこか遠くに移動したい。


「ノーレッジ、早いとこ移動しようか。このままだとアイツ、ここに飛び込んでまで追いかけて来ちまう」

「あの生真面目シアリスなら遣りかねないね」


◆◆◆


 車が唸り声をあげて水しぶきを上げて、水上を駆けていく。陸の上の建物が、後方に流れていく。その中で、一つ。たった一つだけ、時がとまったように、流れていかない橋があった。

 ロゼの視界に、『何か』が写りこんだ。マーシャル川に架けられたアーチ状の橋だ。そこにぽつりと、黒い夜の中に、月明かりに照らされて浮かび上がる、僅かな赤が滞在していた。

 赤く曲がりくねった長髪に、顔を隠すように巻かれた赤いマフラーと、赤いニット帽。袖の細い黒いコートに身を包み、背中に一振りの剣を背負った男。赤。赤くたなびく、炎のような赤。

 それを視認した刹那、脳裏に鋭い痛みが走った。本能が、警鐘を鳴らしている。あれをこれ以上見つめてはならないと、心が悲鳴を上げている。

 何故だろう。


「ロゼ、大丈夫?」隣に座るクロームが言った。しかし、その声はどこか遠く聞こえた。自分と世界とかが、切り離されて、音も景色も感触も何もかもが、誰とも違うようだ。

 橋の真下に差し掛かった時、男は背中の剣の柄に手をかけた。

「ノーレッジ、刀!」

 運転席のノーレッジは、視線をそのままに、慣れた手つきで片手で、助手席と運転席の間に転がっている白い袋をキュウビに投げて寄こした。それを受け取り、キュウビが中から黒い鞘に納められた刀を手に取って、構えた。


 今まさに橋を潜り抜けようとした刹那、男の体は宙を舞った。空中で一回転して、遠心力を付けて、剣を車のフロントガラスへと叩きつけるように振り下ろした。それをキュウビが、刀を両手で支えて受け止める。車は激しく揺れ、立っているキュウビは振り下ろされそうになる。しかし、それを耐えてキュウビは刀と剣越しに、男と対峙した。


 ロゼは、フロント部分に乗っている男を見た。遠くから見た時は、気がつかなかったが、この男の腕にはトパーズと同じ『腕章』が付いている。ということはつまり、この男も億万超者というわけか。


「^-:/.;;P@@::@^-GGGGGIR! RRRRRRRRRRRAAAAASSTTT」


 男の言葉は理解困難意味不明だが、その視線は、確かに後部座席のロゼへと向けられていた。心の中に、一切の余裕が無くなっていく。白い隙間を急速に何かが、埋めていくかのようだ。

「もしかして、お客様ですか?」キュウビの問いに対して、男は『KKK.KK.KILLLLL!』とだけ答える。いくら会話をしたところで埒があかない。キュウビは両腕に力を込めた。「申し訳ありませんが、当車両の定員は四名様までですので、残念ながら、お客様はご乗車出来ません……よッ!」

 

 男の剣を弾いて、キュウビの刀が横に薙がれる。男はそれを、足を三歩動かしただけで、車のフロント部分で回避した。そして再び剣を振り下ろそうした時、車が思い切り回転した。ノーレッジが、ハンドルを勢いよく切って、水上でドリフトのようなスピンを行ったのだ。キュウビは何とか、強引に助手席にこける様にして、しがみついたが、男はそのまま川へと振り落とされて行った。


「………ディヤマンテ。何で、アイツが襲いかかって来たのよ」

 クロームがぽつりと、力なく呟いた。ようやく茫然とした表情から戻れそうだった彼女だが、さっきの赤髪の男のせいで、まだ口が開いたままとなっている。しかし、とロゼは震える自分の両手を見つめて痛感した。きっと、今の自分の表情は、クロームより引き攣っているに違いない。背中をムカデが往復するように、恐怖が停滞し続けている。

 

 キュウビが安堵の息をようやく吐いて、刀を鞘に納めた。車はとっくに先の場所を通り過ぎて、入り組んだ運搬用の用水路へと進んでいる。

「一先ず、落ち着きたいんだけど、運転手さん。どこか良い所知らない?」

「知ってますよ。お客さんのような、お尋ね者にピッタリな所」

 ノーレッジが緩やかに、ハンドルを回していく。車は薄暗い水道へと、吸い込まれて行った。

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