(2)

 その日の夜、かれんが仕事帰りに「マーズレコード」へ行ってみると、店主の昴は店のレコードの在庫整理をしているところだった。

 かれんが店の木製のガラスの引き戸を「ガラッ」と開けると、昴はかれんの方を向いてニッコリと笑みを浮かべた。

「――かれんちゃん、いらっしゃい。今日はどうしたの? また、用事もないのに僕に会いに来たの?」

 キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿(In The Court Of The Crimson King)」のレコードを抱えた昴は、笑顔を見せたままトコトコとかれんの元へ寄って来た。

 かれんは(クリムゾンのそのレコジャケ持ちながら笑顔で来られても……)と、近付いてきた昴に少々引いてしまった。

 まあ、いつでもどこでもマイペースなのがこの男の特徴なのだから……、とかれんは自分をなだめた。


「まさか! 用事があったから来たに決まってるじゃない」

 かれんは「マーズレコード」の店内に入ると、いつも通り昴と自分以外に誰もいないことを確認してから、店の隅のテーブルセットのイスに座った。

「えっ、用事? 何? 待ってて、今お茶持ってくるから、ゆっくりしてって」

 昴は妙に嬉しそうに言いながら(さすがにクリムゾンのレコードは近くの棚に置いてから)、店の奥へとお茶を入れに引っ込んだ。

 かれんは嬉しそうに店の奥へ引っ込んで行った昴の後ろ姿を見ながら、どうしてこの男は自分が会いに来ただけでこんなにも嬉しそうにするのか不思議だった。

 滅多に会わないとかそういうわけではないと言うのに……。

 かれんはふと、そう言えば昔から昴は自分が会いに行ったり話しかけたりすると嬉しそうにしていたな、ということを思い出した。


 奥に引っ込んでいた昴が緑茶の入ったマグカップを二つ持って戻って来たのを見て、かれんはかなりビックリした。

 昴は紅茶が好きでいつもかれんがやってくると紅茶を出してくると言うのに、どうして今日は緑茶なのだろうか。

 かれんは今日、何となく紅茶よりも緑茶の方が飲みたいな、と思っていたのだ。

(――やっぱり、昴には敵わない)

 かれんはいつも通り、モヤモヤとした気持ちになった。

 昴は普段マイペースで空気などまったく読まない男だが、ヘンなところにカンが働くところがある。


「ああ、ありがと」

 かれんは昴に内情を悟られないように、無表情で緑茶の入ったマグカップを受け取った。

 昴はマグカップを受け取るかれんのことを、ニコニコしながら眺めていた。

「で、かれんちゃん、話って何?」

 昴は大きな切れ長の黒い瞳をキラキラさせながら言った。

 多分、昴は悟っているのではないだろうか、とかれんは思った。

 かれんが昴の好きな「謎解き系」の話を持ってきたのではないか、ということを……。


「昴、実は、私の会社の部長の野辺さんのことなんだけど……」

 かれんは早速、自分がこの「マーズレコード」へやって来た理由を話し始めた。

「ああ、野辺のべ公威きみたけさんね。三島みしま由紀夫ゆきおの本名と同じ名前の、あの怖い顔の」

 なるほど、そういう覚え方をしていたのか、とかれんは妙に納得した。

 昴は音楽青年であると同時に文学青年でもあった。三島由紀夫とか川端かわばた康成やすなりとか、日本の近現代文学を好んで読んでいる。

 野辺の名前の公威きみたけは、三島由紀夫の本名である平岡ひらおか公威きみたけと同じ名前だ。

 しかし、「怖い顔」は一つ余計だろう、とかれんは思った。

 まあ、確かに野辺の顔は「怖い」けど……。


「その野辺さんの家の壁に、今朝黒いペンキが塗られていたの。誰かのイタズラじゃないかと思うんだけど、誰がペンキを塗った犯人なんだろうなって思って」

「ふーん」

 昴は大きな切れ長の黒い瞳をキラリと光らせた。「ねえ、かれんちゃん、その話、僕にもっと良く聞かせてよ」


 あーあ、また昴のクセが始まった、とかれんは思った。

 どうやら、野辺の話は昴のお気に召したようだ。


 かれんは昴に、野辺から聞いた「壁に黒いペンキが塗られた事件」のことを話して聞かせた。




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 かれんの上司である野辺のべ公威きみたけの家は、新潟市の西区の閑静な住宅街にある。

 野辺は職場結婚をしていて、男の子の子どもが二人いる。

 野辺の奥さんの沙奈さなは結婚してからしばらくは仕事を続けていたが、第一子を妊娠したのをきっかけに退社して、今は別の会社で短時間のパート勤務をしていた。

 現在家族で住んでいる家は、一昨年前に買ったものだ。近くにスーパーやレンタルビデオ店、有名な私立高校などがあり、それなりに利便の良い場所にあった。

 

 野辺は毎朝6:45位に起床する。

 朝ごはんとお昼のお弁当は奥さんが作るので、野辺は自分の支度をしながらわんぱくな男の子二人の身支度を手伝い、その傍らで洗濯物を干したりするのが日課だった。

 男の子二人と四人分の洗濯物との格闘かくとうが終わると、7:30位に朝食。

 野辺は奥さんと手分けして、聞き分けのない男の子二人に朝ご飯を食べさせる。


 それこそ戦場のような朝の準備が整うと、やっと野辺の出勤の時間となる。

 男の子二人は野辺が出勤した後に奥さんが送り迎えをするから、野辺は一人で出勤する。

 野辺は(今日も朝から疲れたな……)と心の中で呟きながら、家のドアを開けた。


 野辺が玄関を出たのは8:00くらいだった。

 いつもと同じ時間だ。

 野辺の家の前の道路には、近くにある私立高校の制服を着た学生がチラホラと歩いている。

 これもいつもと同じ光景だった。


 玄関を出ると、左手にカーポートの付いた駐車場がある。

 ここに停まっているライトブルーのホンダのフリードが、野辺の愛車だった。


 野辺は手に持った車と家のカギをチャリチャリと鳴らしながら、(さて、今日も仕事頑張るか……)と思いながら、真っすぐと車の方へと歩いて行った。


 手に持っていた車のリモコンキーを「ピッ」と押してドアを開けると、野辺は颯爽さっそうと車に乗り込もうとした、が……。

 何となく、いつもと「何か」が違うような気がして、思わず辺りをキョロキョロと見渡した。

 

 しかし、いくらキョロキョロと見渡しても、そこに広がっているのはいつもと同じ光景だった。

 家の前の道路には制服を着た学生がチラホラ歩いているし、駐車場には自分の愛車のフリードが停まっているし、顔を上げると自分が干した洗濯物が2階のベランダではためいている。


 野辺は(何だ、気のせいか……)と思って、再び颯爽と車に乗ろうとしたが……。

 今度こそ、「何か」に気付いて、後ろを振り返った。

 

 アイボリー色の家の壁の一部が、真っ黒になっている。

 ペンキか何かを塗ったのだろうか。家の壁の一部がキレイに真っ黒になっているのだ。

 ペンキはまだ塗りたてなのか、太陽の光に反射して瑞々しいほどの輝きを放っていた。


 野辺は少しの間、呆気に取られた表情で真っ黒になった壁の一部を凝視ぎょうししていた。

 やがて、野辺は我に返ると、近所迷惑になりそうな程の大声で、「沙奈! ちょっと来てみろ!」と家の方に向かって叫んだ……。


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