(3)

 昴はカーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン(Now & Then)」のレコードを棚に戻そうとしたが、「あっ」と声を上げて、レコードを持ったままトコトコと戻って来た。

 そして、窓の近くにある蓄音機にレコードを置くと、針を落とした。


 印象的なリコーダーの音で始まる、「ナウ・アンド・ゼン」の一曲目の「Sing」が流れて来る。


「何でそれ、流すの?」

 かれんが自分と同じ名前のカレン・カーペンターの歌声を聴きながら昴に訊いた。

「だって、かれんちゃん、聴きたいかと思って。仕事終わった後にカーペンターズってホッとしていいじゃない? それに、かれんちゃんと同じ名前の人が歌ってるし」

「そりゃあ、名前同じだけど、別に私の名前、カレン・カーペンターから取ったわけじゃないんだけど」

「まあ、いいじゃない。かれんちゃん、疲れてるんじゃない? そこ座ってよ。今、お茶入れるから」

 かれんが店の隅のテーブルセットのイスに座ると、昴はニコニコしながらお茶を入れに店の奥へと引っ込んで行った。


 かれんは昴の後ろ姿を見ながら、(まったく、昴は……)と思っていた。


 どうして、昴は自分が「疲れている」とわかったのだろうか。

 確かに仕事が終わった後は疲れるものだが、今日のかれんは特別に疲れていた。

 新規のお客さんの契約が取れたのは良いが、契約を取るまでの過程がめちゃくちゃ大変だったのだ。

 いつも以上に神経を使ったし、いつも以上に頭を使ったし、いつも以上に努力した。

 今日早く会社を出たのも、クタクタに疲れていたからだ。

 早く家に帰ってお風呂に入って寝ようとも思ったが、どうして自分の足はこの「マーズレコード」に向かったのだろうか……。



 昴がお茶を持って戻って来ると、店内に紅茶の良い香りが漂ってきた。

 店内には昴とかれんしかいない。

 第一、この店に直接訪れる客はそんなにいないのだ。

 この「マーズレコード」の収入源は、通販での販売によるものが大半を占めていた。


「――うん、いいね」

 昴が自分の分の紅茶を一口飲むと言った。「今かけてる『ナウ・アンド・ゼン』の2曲目の『マスカレード(This Masquerade)』、元々はレオン・ラッセルの曲なんだよ」

「レオン・ラッセル? そうなんだ」

 かれんは前に昴が見せてくれた、髪が長くて異様に目つきの鋭いレオン・ラッセルの写真を思い出した。

「そうだよ。カレンのお兄さんのリチャードも、すごい曲をたくさん作ってるけどね。『スーパースター』もレオン・ラッセルが作った曲だし、他にビートルズの『涙の乗車券』とか『ヘルプ』とか。ちなみにこの『ナウ・アンド・ゼン』のドラムのパートは、ほとんどカレンが叩いていて……」

 昴がティーカップをテーブルに置くと、突然語り始めた。


 あーあ、また昴のクセが始まった、とかれんは思った。

 昴は音楽の話を始めると、ものすごく長くなるのだ。


 昔からそうだ。

 昴がそれこそお決まりのように中学二年生くらいの頃から洋楽にハマって以来、このクセにかれんは何度も付き合わされている。

 さすがにかれんも付き合いきれない時は、「続きはまた今度で!」とハッキリ言うようにはしていた。

 でも、今日は何となくこのまま昴のものすごく長い話を聞いていても良いかも、という気持ちになっている。


 とにかく、疲れているから心を空っぽにしたいのだろう。


 心を空っぽにしたい時、昴のあの男の子にしてはちょっと高い声と耳慣れない洋楽の専門用語やアーティスト名や曲名は、まるで小さい頃に繰り返し聞いた子守歌のように心地良いのだ。



* * *



「――ところで、かれんちゃんはどうして今日、お店に来たの?」

 突然、昴に話を振られてかれんはハッとした。

 かれんが昴の方に視線を向けると、昴はニコニコしながらかれんの方を見ている。

 もしかして、昴の話を聞きながらうっかり眠ってしまったのだろうか、何という失態! とかれんは焦ったが、そうではなかったらしい。

 ただ、ぼんやりとしていただけらしかった。

 流れていたカーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」も、終わりの方に差し掛かっていた。


「えっ? ううん、別に……」

 かれんが続けて「特に用事はなかったんだけど」と言おうとすると、昴が「そうか!」と言葉を挟んで来た。

「かれんちゃん、仕事帰りにわざわざ僕に会いに来てくれたの? そうなんだ」

 昴がいかにも嬉しそうな表情でニコニコとした。

「そっ、そんなわけないじゃない!」

 かれんは慌てて否定した。

 表面上は否定したものの、昴の言う通りではないのだろうかとかれんは思っていた。

 自分は多分、きっと昴に会いに来たのだ。

 でも、そんなこと口が裂けても言えない。


「違うの? じゃあ、何で?」

 昴がニコニコしながら詰め寄ってきたので、かれんはまた慌てた。

「ええと……。あっ、そうそう! 昴さあ、中学校の時に同じ学年にいた竹宮勝たけみやまさる君って覚えてる?」

 かれんはとっさに、今日たまたま外回り営業している時に会った友達から聞いた話を始めた。

「うん、覚えているよ。勝君、野球部のキャプテンで頑張ってた子だよね」

 さすがに昴は覚えているか……とかれんは思った。

 昴は記憶力も尋常なく良いのだ。


「勝君、結婚していて子どももいるんだけど、一年前位に離婚したらしいんだ」

「ふーん、そうなんだ。勝君が結婚していたことも知らなかったよ、僕」

「この間、友達が勝君と偶然会ったらしいんだけど、子どもと一緒だったんだって。勝君『子どもは引き取って、実家で両親と一緒に育ててる』って言ってたらしいの。でも、おかしいんだよね」

「確かに離婚した時、女の人の方が子ども引き取ることが多いけど、別に男の人の方が引き取ったっておかしくないんじゃない?」

 昴はサラリと言ったが、かれんは首を横に振った。

「ううん、だって、勝君の奥さんの会社の後輩だったっていう人が知り合いにいるんだけど、その人が言うには勝君が離婚の原因なんだってよ。男の人で、しかも離婚の原因がある方が子どもを引き取るって珍しくない? 何でだろうって思って。奥さん、仕事していて結構収入もあるらしいのに」

「ふーん」

 昴は大きな切れ長の黒い瞳をキラリと光らせた。「ねえ、かれんちゃん、その話、僕にもっと良く聞かせてよ」



 あーあ、またもう一つの昴のクセが始まった、とかれんは思った。


 昴には良いのか悪いのかわからないが、独特のクセが二つあるのだ。

 一つはさっきのカーペンターズの話のように、「音楽の話しを始めると、ものすごく長くなる」こと。

 もう一つが謎解き系の話が好きなことだ。

 昴は普段、ぼんやりとした瞳をしているのに、謎解き系の話が出た途端に、黒い瞳がやたらキラリと光り出す。

 どうやら、勝君の話は昴のお気に召したようだ。


 かれんは昴に、友達から聞いた勝君の話を詳しく聞かせてやった……。

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