危機一髪

ハッキリと動き出した悠を見た桃華は必死に叩いていた腕を止め、ズルズルと床へ座り込んだ。大きな目が零れるくらいに見開き、涙がまた一筋零れ落ちる。


「橋本さん! 良かっ……た……」

「おい、聖女……!」


ほっとした顔でそう呟いた桃華の体から淡い光が消えると同時に意識も手放したらしい。体が重力に負けて倒れるところをリアムが間一髪のタイミングで抱きとめた。

そして桃華の意識が無くなると悠を包み込んでいた分厚いガラスの壁も、まるでスイッチを切り替えたかのように消えてしまった。

何の準備も無かった悠は当然廊下の床の上へと投げ出されることになってしまったのだが、桃華のように手を差し伸べてくれる人は誰も居なかったために、硬い大理石のような冷たい床へ強く腰を打ちつけた。


「い……っ、た……」


ドレスの上から腰を擦ると、妙な温かさを感じて悠は指を見た。

カールに押し付けられた指輪の金属部分が熱を帯びていることに気が付き、そういえばあのガラス玉の中に居た時は宝石が光っていた気がするな、と思い出すが、今は大人しく普通の指輪のままだ。

もしや未知なる力に目覚めてしまったのかと少し興奮する悠に気をつかう人物はここには居ない。首筋へ向けられた剣の鋭さに現実へ戻された悠は再び死の恐怖を思い出した。


「貴様、なぜ魔道具を持っている」

「は……?」


聞き慣れない単語に心当たりはない。リアムへ反論しようと体を前のめりにさせた悠へ、剣を向けていた屈強な兵士が一人歩み出て構え直す。

敵意に満ちた周囲の視線に足が震え、言葉もままならない。悠は泣きたくもないのに滲み出る涙を止める術があるのなら教えて欲しかった。


「……泣いて許しを乞うというのか。随分と稚拙な真似を。……もうほとんど抵抗手段も残っていないのだろう。拷問されたくなければ城へ侵入した目的を吐け」


この短時間に二度も死を覚悟するとは思わなかった悠は絶望するしかなかった。

桃華は倒れ意識は無く、相変わらずジャンは──先程より少し躊躇ってはいるが攻撃の構えを崩しはしない。緩やかに周りを見渡した悠は小さく笑った。


「こんなの死ぬしか選択肢無いじゃん。馬鹿じゃないの」

「何……?」


笑うしかなかった。とめどなく溢れる涙を拭うことすら抵抗とみなされそうで両手は床へついたまま、悠はただ涙を零した。


「否定したところで私の言葉は信じられないんでしょ」

「証明するものがあれば信じてやる」

「異世界で? 証拠? ……無いよそんなもの。ってか何の証明? 聞いても何の証明も出来ないけど」


自暴自棄になっている悠の態度はリアム達から見れば開き直っているという態度に見えるのかもしれない。

悠が言葉をつむぐ度に眉間の皺が深まっていく。


「殺したいなら殺せば? じわじわ追い詰めて、私にこう言わせたかったんでしょ。聖女じゃないけど連れて来ちゃったから処分に困ってんだよね?」


苛立たせるために悠が選んだ言葉はリアムの機嫌を損ねることに成功した。不愉快だと口には出さなかったが、声音がより一層剣呑さを増していた。


「何を言っている。遠回しな言い逃れか」

「出来ないことを出来ないって言ってるだけじゃん。親や友人も居ないこんな異世界で何をどう証明しろっての? 馬鹿? 否定しても証明出来ないし、言われるまま認めてもわけ分かんない理由で殺されるだけ。他に何の選択肢があるんだよ」


冷ややかな視線を悠へ向けたリアムは桃華を抱いていない手を上げた。それだけで兵士はリアムの命令を察知したかのようにゆったりと悠の首から剣を遠ざけ、腰を落とし、改めて剣を構えた。

リアムの手が振り下ろされた時に自分の首も飛ぶのか、と考えた悠は、くしゃりと顔を歪ませた。


「そこまで。剣を下ろせ」


突然凛とした声が廊下に響く。

聞き覚えのあるその声は、記憶では少し気だるげだった気はしたが、悠は勢い良く振り返り背後を見た。


「カール、何のつもりだ」

「いいから見てろ」


ため息混じりにカールは悠へと歩み寄る。

涙と鼻水でぐちゃぐちゃな悠の顔をなぜか申し訳なさそうな顔で見下ろしたカールは小瓶を取り出して悠の頭上へと降らせた。

キラキラと輝く砂が悠を包み込んでいく。砂に見えたそれは風に乗って悠の周りを漂い、役目を終えたのか空気に溶けて消えてしまった。


「これは……?!」

「見ての通り、こいつはただの一般人だ」


悠には何が何だか分からなかったが、ジャンが慌てたように声をあげた。リアムも目を見開いて驚いている。


「指輪は俺がくれてやった。現時点で唯一聖女が心を開いている無力で無知なご友人は、下衆な輩に手を出されないとも限らないからな」


続いたカールの言葉に誰もが言葉を無くしていた。


「まさか、こんな事態に役立つとは思わなかったが」


ため息混じりに呟くカールへ奥歯を噛み締めたジャンが声を荒らげる。表情からは納得出来ないという気持ちがありありと感じ取れた。


「じゃああの魔族のオーラは何だったんだよ! こいつが魔族じゃなかったとして、あれだけ深く染み込んでたなら接触してるだろ?!」

「俺が知るか」


質問を切り捨てられたジャンは拳を握り締めて床を睨んだ。

リアムへ視線を移したカールは腕を組み、淡々と言葉を続ける。


「おい、忘れたのか。聖女の力は気持ち次第で闇にも光にもなる。気を失ってる間にお前達がこいつを殺してみろ」


悠は好転したように見えた周りをよく分からないまま眺めていた。カールの口振りから察するに悠を今ここで殺すことは得策ではないということしか分からない。

苦々しい表情で下唇を噛み締めたリアムの顔を見る限り、カールによって助けられたことは明白だった。


「……起きた時に聖女はどう思う。深い悲しみだけならまだしも、ここに身を置いておけないと思われたら? そこを魔族に唆されたら、どう弁解するつもりだ」

「それは……」

「召喚されただけであれだけ感情的になっていた小娘が、強い意志で正常な判断が出来ると思うのか、お前達は」


深い溜息を零したリアムは力無く手を降ろし、注意深く桃華を抱き直して悠へ頭を下げた。

リアムを筆頭にジャンや多数の騎士達も跪いて悠へ謝罪の意を示す。


「……非礼を詫びる。こちらの早とちりだ」

「……殺さないの」

「その理由はたった今無くなった。謝罪してもしきれないだろうが、本当に申し訳ないことをした」


窮地を脱したことに悠は脱力して上半身の力を抜いた。強ばった肩が丸くなり、止まっていた涙が一粒だけほろりと落ちた。


「行くぞ」


カールが悠の腕を掴んで引き上げようとしたが、腰が抜けたのか、立つ様子の無いだらりとした体を見かねて肩へと担ぎ上げた。

悠は、どこへ、とも聞く力も無く、ただカールへ身を任せることにした。助けてくれたカールなら悪いところへ連れて行かれる気はしなかったからだ。ここで裏切られれば本格的に人間不信に陥ってしまう。

視界に広がる跪いたままのリアム達はカールが廊下を曲がったことによって見えなくなった。そこでようやく無限廊下から開放されたことを実感した悠は、ほっとして意識を手放した。

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異世界でも一般人 さゆ子 @sayukokkym

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