6.燕と龍
去年の春、中三になって初めての中間テストが直前に迫るある日の放課後。燕は龍樹と共に自室で勉強に励んでいた。学校の図書室を利用することも考えたが、テスト前は図書室を利用する生徒は多く少し騒がしい。周りが騒がしかろうが特に支障はない燕はともかく、龍樹にはどうも辛かったようだ。『うるさくて集中できない』と主張したため、燕の部屋で勉強することになった。
龍樹にとっては何度も訪れている市河家。扉を始め多くのものがほかの家庭より大きいこの家では、龍樹は自分が随分と小さく思えるらしいと以前言っていた。
龍樹に先に部屋に行ってもらうよう頼んで、燕は台所へ向かう。二人分の茶を用意して部屋に向かえば、扉の先では折り畳み式のテーブルを準備する龍樹がいた。
「……準備、してくれたのか。ありがとう」
「いいよいいよ。毎回こういうの使うし、閉まってある場所同じだし」
前述の通り龍樹は何度も勉強のためにこの家を訪れている。この部屋にはゲーム機や漫画などはないため、龍樹はこの家で遊びらしい遊びをしたことがない。そのため訪れる理由はいつも勉強であり、その際に使う折り畳みテーブルの場所も把握している。
組み立てた机の上に茶や勉強道具を置いて、二人は腰を下ろした。燕は自身が所持している英語の問題集を、龍樹は未だ終わらない提出物の問題集を開く。
「やっぱり提出物は全部終わってるのか?」
「当たり前だ。お前はあとどれだけ残ってるんだ」
「うーん、5ページくらい……?」
「もう少しじゃないか、頑張れ」
「うん、頑張る」
遠い目をして残りのページ数を確かめていた龍樹は、気合いを入れるかのように一言よし、と呟いて改めてシャープペンシルを手にした。
傍らで燕も英語の問題に目を向けた。どちらかというと英語は得意科目ではある彼だが、その自負があるからこそ成績を落とすことはあってはならない。定期テストの度そのような圧を感じていることは確かだが、未だに圧に弱い自分を内心恥じて、静かに問題の答えを記していく。
時計の音を耳にしながら問題を解くこと十数分。ある視線を感じて顔を上げれば、スローペースながらも問題を解いていた筈の龍樹と目が合った。
「分からないところでもあったか?」
「あ、うん……そう」
「なら遠慮なく声をかけてくれていいんだぞ」
「あー、いやあ、集中してるのを邪魔するのも悪いなって……」
「元々、俺が教えるつもりでやってるんだ。気にしなくていい」
変に目を逸らしてしどろもどろに口にするのが奇妙に写ったが、彼なりに気を遣ったのだろうと納得して、燕は龍樹の問題集に目を移す。どうやら根本的に理解できていないところがあるようだ。解き方の説明欄をシャープペンシルで示しながら、龍樹にも伝わるように丁寧に解説していく。
それに耳を傾けながらゆっくりと計算式を解いていた龍樹が、突然それまでの難しそうな顔つきから明るく変化させた。漸く理解出来たらしい彼はどこか嬉しそうに口元を緩ませる。
「やっとわかった! ありがとな」
「別にいい。次の問題は自力で頑張れ」
「うん。いやぁ、お前は凄いな」
「そんなことはない」
再びシャープペンシルを手にした龍樹の言葉に何の気なしに返して、燕は再び問題に励む。
それから一時間以上は経ったろうか、只管に問題を解いていた龍樹が、達成感と脱力感を混ぜ込んだ大きな声を上げた。
「終わったー!」
「お疲れ。少し休憩にするか。茶しかなくて悪いな」
「おう! 茶出してもらえるだけありがたいから気にすんなよ」
ぐっと腕を伸ばしてそのまま後ろに倒れ込み、ゴロゴロと寛ぎ出した龍樹の姿に、何やら微笑ましい気持ちを抱きつつ、燕も足を崩す。少し温くなった茶を口に含んで、栞がわりにシャープペンシルが置かれた問題集を勝手に開く。
何度も書き直したような痕跡をいくつも残しながら健闘したらしいそれは、良くもなければ悪くもない正答率だ。中途半端ともいえるが、苦手科目を最後までやり切った彼の頑張りは素直に賞賛する。
「範囲分やり切ったじゃないか、偉いぞ」
「ありがとー。燕もオレにたくさん教えてくれたしえらいぞ」
「いや、俺はそんな褒められることしてないが」
「オレが理解できたのも燕のおかげなんだからさー。それに分かるように教えられるって、割と凄いと思うんだけど」
「……そういうものか」
「そうそう。だからさ、オレがお前にすごいとか言った時はふつーに受け入れてくれていいんだせ?」
「……そうか」
説明をされても、正直あまり分かっていない燕だが、とりあえず分かったふうに頷いて、一口茶を飲んだ。
思えば随分と昔から龍樹は燕を肯定するような言葉を掛けてくれている。些細なことでも龍樹は凄いだの偉いだの言ってくれるが、しかし、当時の中学生燕にも、今の高校生の燕にも、理解し難いものではある。
何故、そんなにも些細なことでそんなにも良い言葉を口にしてくるのだろう。そんな疑問がずっとあった。
凡そ一年前の出来事を振り返りながら、燕は就寝前に茫然とベッドで横になり、新たに受信したメールに目を向ける。話していることはただの雑談であるが、今流行っているゲームや漫画などなにも知らぬ燕相手に、よくここまで雑談が続くなと勝手に感心していた。
思えば、龍樹もケイも、素直に褒めてくれているだけで裏もなくお世辞でもないだろうという予想はつく。だが、予想出来ても、龍樹のように何年も前から伝えてくれていたとしても、簡単に受け入れられないのが現状だった。
胸中の片隅になにやら痛い塊のようなものを抱きながら、燕はメールを返信して眠りに就いた。
翌朝、いつもの様に早朝のロードワークを終えた燕は、汗を拭きながらリビングへ足を踏み入れる。
台所では信濃が忙しそうに弁当を用意していて、適当に挨拶を交わしてから炊きたての白いご飯と味噌汁、少々のおかずを並べた。
「それで足りるの?」
「とりあえずな」
出汁がきいた卵焼きを飲み込んでから信濃の問いに答えた燕は、二つ目を放り込む前にじっと兄の様子を見つめる。忙しそうではあるが機嫌が悪いようには見受けられない。ならば、少しくらいの質問ならいいかと、昨夜からの疑問を口にした。
「信濃兄貴」
「何?」
「唐突だけど、俺が友人に勉強を教えることは、凄いことだと思うか?」
「何、突然。質問に質問で返して悪いけど、なんでそんなこと思ったの?」
「……龍樹に、勉強を教えたらやたら凄いと褒められたから」
「あー……」
弁当用に作った野菜炒めをアルミホイルカップに分けながら問い、燕の返答に納得したように声を上げる。手を止めることはないまま数秒考え込んだ信濃は、どこか困ったように言葉を返す。
「龍樹くんはなんでもかんでも凄いとか偉いとか言うからねぇ。あまりそのまま受け取らない方がいいよ。それに甘えて気を抜いたら、後で泣きを見るのは燕だからさ」
「……そうだよな」
信濃の言葉に耳を傾けながら、燕は卵焼きを口にする。食べ慣れた出汁の味わいが口に広がった。
燕の相槌に適当に返事をして、信濃は続ける。
「龍樹くんとしては、いつも燕に教えて貰ってるし、自分は出来ないから凄いなってだけでしょ。そんな言われるほどのことでもないと思うよ。それに、燕は教える能力があるんだから、友人くらいにはそれ使わないと」
「……そうだよな」
「そうそう。さあ、早くご飯食べてよ」
「わかった。あ、そうだ、洗濯物は俺が干してくから」
「ありがとう。間に合う?」
「うん」
淡々と食事を続けて数分で食べ終えた燕は、普段と特に変わらない雰囲気で皿を片付け、服が大量に入れられた洗濯籠を持って庭に出る。
一枚一枚広げて伸ばして、手早く物干し竿に服をかけて行く。ぼうっとしている暇も考え事に耽る暇もない。だから燕は、自分が抱えていた疑問はもうどうでもいいものだったのだと思うことにした。
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